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金融機関観察スレッド

2295チバQ:2012/09/12(水) 22:56:01
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/keizai/201206ketsudan/01.shtml
決断のとき 運命の合併 みなと銀行誕生
(1)失われた20年
激震 戦後初の銀行破綻

バブル崩壊後の激動期を振り返る元日銀総裁の松下康雄氏=東京都世田谷区の自宅(撮影・岡本好太郎)


阪神・淡路大震災で深刻な打撃を受けた兵庫銀行。取り壊しが進む本店=1995年4月12日、神戸市中央区三宮町



現実となった兵庫銀行の破綻。預金の解約に訪れた顧客の行列ができた=1995年8月31日、神戸市須磨区、兵庫銀行須磨ニュータウン支店

 「頼りになる先輩のあなたから総裁の仕事を引き継いだのは因縁だった」

 11日午後、東京で営まれた元日銀総裁、三重野康(88歳で死去)のお別れの会。金融引き締めでバブル経済を収束させ「平成の鬼平」と呼ばれた男の遺影に、松下康雄(86)が花を手向けた。脳裏をよぎったのは、奈落の底に落ちていく日本経済の姿だった。

 神戸・御影生まれ。大蔵(現財務)事務次官、太陽神戸(現三井住友)銀行頭取を経て日銀総裁に就任したのは1994年12月。バブル崩壊で株式時価総額約250兆円、土地資産額約550兆円が泡と消え、大手銀行の不良債権は20兆円超。闇はなお、底知れぬ深さで口を開けていた。

 「物価と金融システムの安定確保に、確固たる信念を持って当たる。特に不良債権問題が非常に重要だ」

 松下は奮い立ったが、1カ月後の95年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。8月末、地元地銀の雄、兵庫銀行が倒れた。戦後初の銀行破綻だった。同じ日、大阪では信用組合トップの木津信組が行き詰まる。預金者が殺到し、怒号が飛び交った。

 「次々と問題が出てくる。だれも経験したことのない事態だ。頭の中で筋書きは描けない。とにかく進むしかなかった」

 経済を蝕(むしば)む不良債権の活断層は激震をもたらし、多くの金融機関を破綻に追い込んだ。震源地の一つが松下の故郷、神戸だった。「因縁」としか言いようがなかった。



 バブルが崩壊して20年が過ぎた。リーマン・ショック、政権交代、東日本大震災…。混迷の深まりは、阪神・淡路大震災後の90年代後半の時代状況と重なる。激動の末、みなと銀行に収れんされた地銀の動きを追う。



 1997年11月26日。日本は「恐慌前夜」の様相を呈していた。戦後最大の金融システム危機だ。三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券が1カ月足らずの間に破綻。この日、蔵相三塚博(故人)のお膝元、仙台の地銀、徳陽シティ銀行が自主再建を断念した。とどまるところを知らない破綻の連鎖。市場は極度の緊張感に包まれていた。

 「国民は冷静な行動を」。松下は三塚と異例の談話を発表した。「(危機の)出口がこっちにあるんだとみんなが思うようになれば、絶対に足並みが乱れたりはしない」。松下の祈るような思いとは裏腹に、不安のうねりは抑えようもなかった。



 銀行の歴史は合併の歴史といわれる。金融危機の中で大手20行は三大メガバンクに収れんされた。そして今、世界同時不況の落ち込みから景気は持ち直しつつあるとはいえ、地域金融機関の再編は続く。

 今に至る危機の始まりとなった神戸。引き金となった兵銀は、96年1月にみどり銀行として再出発。99年4月には阪神銀行と合併して、みなと銀行となった。現在は三井住友銀行グループに入って地域を支える。

 松下には変わらぬ信念がある。「神戸が厳しい情勢を乗り切ってよみがえるには、かつての神戸銀行(現三井住友銀行)が踏ん張って主要な役割を演じたように、地域再生に貢献することが不可欠だ」

 「失われた20年」を超えて地域金融はどこへ向かうのか。東京で暮らす松下は愛惜の表情で神戸を見つめる。「波乱の連続だったが、再生の方向に進んでいる」



 シリーズ「決断のとき」第3部は、みなと銀行誕生を軸に兵庫の地域金融に焦点を当てる。

(松井 元)

(2012/06/19)


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