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政権交替を検討するスレ

1575とはずがたり:2017/12/10(日) 12:00:18
>>1574-1575
 民社党は60年に社会党から分かれたものの党勢停滞に苦しんでいた。一方、公明党は、同党の支持母体である創価学会を批判する本を藤原弘達・明治大教授が刊行しようとした際、同学会などが妨害したとされる言論・出版妨害事件で世論の批判を浴びていた。そこで両党は、社会党右派との合同による新党結成・政界再編とそれに伴う局面打開を期待して、社会党に接近した。

 71年の参院選では、栃木・島根などの選挙区で公明党・民社党が社会党に選挙協力し、社会党は前回と比べて10議席多い38議席を獲得するに至った。一方、そのころ、地方の首長選では社会党は共産党と共闘しており、各地で革新首長を誕生させていた。

 社会党内では参院選の結果を受けて社公民3党の連携を主張する右派と共産党を含めた全野党共闘を主張する左派が激しく対立した。同じ大都市部を支持基盤とし、支持者を奪い合うことも多かった公明党と共産党の関係は険悪であり、社会党最右派が分離して誕生した民社党も反共色が強く、共産党や社会党左派とは距離を置いていた。このように左派が主張する全野党共闘はほぼ実現不可能であり、社公民連携のほうがまだ可能性はあった。

 しかし、左派を支持基盤にしていた当時の成田知巳委員長は全野党共闘の旗をおろさず、かといって野党結集のために何ら動こうともしなかった。時間だけがいたずらに過ぎていく中で党内対立は激化。77年には社公民連携の要となっていた有力者・江田三郎が左派の批判を受けて離党し、その直後に死去するという事態を招いてしまう。これによって社公民連携は事実上破綻する。その後、公明党・民社党は自民党に接近し、自民党はこの2党の協力を得ながら、政権の延命に成功した。

 その後、自民党の長期政権は続き、終止符が打たれたのは、93年になってからのことだ。しかも、それは野党の努力によってもたらされたのではなく、自民党議員の一部が離党して新党結成に動いたことが遠因であった。

脱・万年野党

 70年代には社公民連携によって自民党から政権を奪う可能性があったにもかかわらず、社会党はそのチャンスをみすみす逃してしまったのである。その原因はひとえに多党化が進行していく中で、社会党が野党のうちどこと組むか明確な路線を打ち出せず、党内対立で時間を空費してしまったことにあるのではないか。

 現在の民進党は当時の社会党以上に選べる選択肢が少ない。かつて社会党が連携のパートナーとして想定した公明党は今では自民党と連立を組んでおり、自公連立が解消される見通しはない。野党陣営で民進党が手を組める有力な政党は、共産党だけなのだ。

 かつて共産党と対立した社会党右派、民社党の流れを汲む議員に加えて、保守系議員も混在する民進党が、共産党との共闘を進めるのは歴史的経緯から考えて、相当な困難が予想される。しかし、自力再建を選択しても、有権者の信頼を回復するのも、現状では相当に険しい道が待つ。どれほど良い政策を打ち出しても、かつての民主党政権のように口先ばかりで実行に移せないだろうと有権者は民進党を見るであろう。

 このように新代表がどちらの路線を選んでも相当な困難が伴うのは確実である。かといって路線対立に目をつぶって、いたずらに時間を空費すれば、かつての社会党のように政権交代のチャンスを失い、万年野党化していくだろう。

 日本政治が緊張感を保つためにも、新代表が政権交代につながる路線を早い段階で判断することを期待したい。

岡田一郎( おかだ・いちろう )
 日本大学生産工学部非常勤講師。1973年生まれ。筑波大学第一学群社会学類卒業、筑波大学大学院博士課程社会科学研究科修了。専門は日本政治史。著書に『日本社会党』(新時代社)、『革新自治体』(中公新書)がある。


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