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雑談スレ
7514
:
心の傷を治す気のない傲慢な医者より神仏信仰
:2024/02/22(木) 00:32:55
>『苦しみのキリスト教的意味』(片柳 神父のブログ)
https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20100210/1265756835
>『人間の魂を変貌させる恩寵への道を他の何よりもはっきりと示すのは、苦しみです。』(教皇ヨハネ・パウロ2世)
>病苦に限らず、すべての苦しみは恩寵への道だということができます。苦しみはわたしたちの心の周りに何重にも積み重なったエゴの殻を打ち砕き、ありのままの心で神の前に立つことを可能にしてくれるのです。苦しみの中で自分の才能、財産、名誉、権力、健康などにより頼む心が完全に打ち砕かれ、自分には神以外になにも頼れるものがないということを痛感できたとき、神の前にまったく無力な自分を差し出すことができたとき、わたしたちの心に神の恵みがあふれるほど豊かに注がれます。苦しみの中で感じる痛みは、エゴの殻を打ち砕くために下されたハンマーの痛みだと言えるかもしれません。
>キリスト教徒にとってすべての苦しみは恵みだといえるでしょう。苦しみの中で傲慢な心を打ち砕かれたとき、わたしたちは神の前にひざまずくことができるのです。
>苦しみそれ自体が悪であるとすれば、なぜ神はそのような悪が存在することをお許しになるのかということです。
>病苦にどれほど意味があったとしても、肉親が病に冒されて呻く姿を見るのは耐え難いことですし、ハイチで起こった地震のことを思うと、なぜ罪のない人々、多くの子どもたちがこんなひどい目に会うのかと思わざるを得ません。
>神は、なぜこのような悪の存在を放っておかれるのでしょうか。
>その答えは、「神の思いは人間の思いをはるかに超えている」ということに尽きると思います。人間の目から見れば死よりも生がいいに決まっているし、病気よりも健康のほうがいいに決まっていますが、それはあくまでも人間の目から見たものの見え方です。
>詩編139(旧約聖書)は次のように言っています。
「『闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。』 闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。」(旧約聖書・詩編139)
>光と闇を同じように見通される神の目から見たとき、死と生、病気と健康、豊かさと貧しさのあいだには、もしかするとあまり区別がないのかもしれません。
>イエス・キリストにおいて、神は死を含めて人間のすべての苦しみを味わいました。すべてをご存じの神が、わたしたちに悪いことをするはずがありません。神はすべてを善い方向に導かれるはずだということを信じたいと思います。
〓キリスト教では、苦しみは自力救済の自信(エゴ)を打ち破り、神の前に跪き、溢れる程の神の恵みを豊かに注がれる正に恩寵への道、すなわち善の道、愛の道だと説く。
〓「心の傷は一生 治らないケースがある」などと開き直り、患者を治す気があるのか否か、全く頼りない精神科医に救いを求めるより、信仰心によって苦しみは必ず解き放たれると説く仏教やキリスト教に帰依した方が短期間の内に快癒するのではないか。
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