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雑談スレ
4535
:
小説吉田学校読者
:2006/03/21(火) 17:54:47
これもいい記事だな〜〜。高校野球開会期間中は、私、完全礼賛者になります。
OBの心に生きるクリーニング店主
http://mytown.asahi.com/tokushima/news.php?k_id=37000000603210003
小松島高校野球部は、地元の人たちが応援に熱心なことで知られる。過去2回の甲子園出場では大応援団がアルプススタンドに繰り出した。その中でも、多くの人が「最も熱烈」と認めた人がいた。創部まもない60年ごろから40年以上にわたって部員たちとともに泣き、笑い、野球部を見守り続けた。けれど、今回、アルプススタンドでその姿を見ることはできない。
(柳沢敦子)
その人は小松島市小松島町でクリーニング店を営んでいた山西忠夫さん。1937年に生まれ、地元の中学を卒業し、大阪の親類のクリーニング店で約10年修業を積んで帰郷、61年、24歳で開業した。
当初はバイクにかごを積んで集配に回っていた。グラウンドはその道のりにあった。そのころ、徳島商業や海南をはじめ、県内の高校野球のレベルは全国でも屈指。創部10年足らずの小松島は毎年のように1、2回戦で敗れていた。それでも少ない部員が精いっぱい声を出し、土まみれになっていた。商売歴も浅く、がむしゃらだった自分と重ね合わせたのか、バイクを止めてしばらく練習をながめるようになったという。
野球部OBの同市職員藤井誠さん(57)は高校時代、山西さんがグラウンド脇に日参し、練習をみつめていたことを覚えている。トレードマークのかご付きのバイクは部員にも知られ、ある夏の日、スイカを提げてきてくれたこともあった。「いつも、ニコニコして、『今日はどんな練習したんや』って」と当時を振り返る。
やがて商売が広がり、バイクはワゴン車になった。そのころ、校外での練習試合にはOBが送迎を買って出ていた。山西さんも7人乗りの業務用車で加わった。
徳島市内の自動車メーカーに勤める服部英行さん(44)も山西さんに乗せてもらっていた1人。「どんな強い相手の時も『絶対勝てる』と勇気づけてくれ、試合に負けた後は部員20〜30人をラーメン屋に連れていってくれた」。その時の山西さんは「いつか甲子園に行ってくれよ」が口癖だった。
55歳のころ、家業を次男の和夫さんに譲った後も、練習や試合の応援に行く山西さんの姿は変わらなかった。
山西さんはとくに野球の経験はなかった。OBで中学校の同級生でもあった鴻本達雄さん(69)は、約10年前に再会し、山西さんが野球に詳しくなっているのに驚いたという。「同窓会で意気投合し、それからは試合があった日の夜、必ず電話がかかってくるようになった」。小松島の戦いぶりの報告だった。
電話はいつも午後8時ごろ。一杯飲んで陽気になった山西さんは、試合を再現するように詳しく説明したという。大事な場面の一球目、そして二球目。「ランナーや野手の動き、ボールの行方まで、目に見えるようで、まるで『実況中継』だった」と鴻本さんは笑う。「部員の名前もすべて覚えていて『斎藤君が、中川君が』って話すんですよ。普段そんなに雄弁ではなかったのに」
01年の春、山西さんが64歳の時、小松島は春夏通じて初めて甲子園に出場。OBと一緒に念願のスタンドに陣取った山西さんは、「いけー、打てー」と小さな体から大声を張り上げていたという。初戦に勝つと、何度もうなずきながら、顔をクシャクシャにして泣いて喜んだ姿をみんな覚えている。
昨年5月に体調を崩し、通院を始めた。「抗がん剤の影響か、体がだるいのに、夏の徳島大会が始まると元気に出かけて行った」と和夫さん。
秋季大会は病院のテレビで観戦した。10月30日、四国大会で優勝して選抜大会出場がほぼ確実になると、「病気を治して甲子園に行こう」と家族と話していた。しかし、直後の11月9日に他界。願いをかなえることはできなかった。
ここ数年は、部員たちに直接話しかけることは少なかった。時々、チームの調子を聞かれたという森影浩章監督は「いつも、じっと見守り、気にかけてくれていた」と話す。
23日、和夫さんが一塁側アルプススタンドに駆けつける。そのポケットにしのばせた小さなスナップ写真の山西さんが部員たちの試合を見守る。
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