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雑談スレ
4129
:
とはずがたり
:2005/01/10(月) 10:53
懐かしい。みんな知ってるかなぁ。
まぁ俺もあんま映画とか興味なかったしあんま詳しくは知らないんだけど。
ご冥福をお祈りいたします。
小森和子さんが死去 映画評論の「おばちゃま」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050109-00000067-kyodo-ent
「小森のおばちゃま」の愛称で親しまれた映画評論家の小森和子さんが8日午前1時42分、呼吸不全のため東京都港区麻布台の自宅で死去した。95歳。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は養女晴子さん。
10数年前から仕事をやめ、自宅で療養していた。
雑誌記者などを経て、雑誌「映画の友」編集長だった淀川長治氏の勧めで、戦後、映画評論の道に入った。テレビやラジオの洋画解説やトーク番組などに出演し、「おばちゃまはね…」「モア・ベターよ」など独特の語り口で、人気者になった。
ジェームズ・ディーンの大ファン。無名時代のシャーリー・マクレーンを自宅に招いたのが縁で、ハリウッドにも交友関係を広げた。フランク・シナトラら多くの著名人にインタビューするなどして活躍した。
(共同通信) - 1月9日19時16分更新
小森のおばちゃま逝く 映画評論、人生相談、愛らしい語り口で人気
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050110-00000013-sph-ent
外国商社勤務などを経て映画関係の翻訳を始めた小森さんは、98年11月に亡くなった淀川長治さんの紹介で1947年に映画評論家デビュー。人生相談などにも登場、おしゃれなタレントとして活躍した。淀川さんの通夜、告別式に車いす姿で参列したのが最後の公の場となった。
「おばちゃまはね…」「モア・ベターよ」と愛らしい声で語りかけて人気を呼んだ小森のおばちゃまが亡くなった。
東京・港区の自宅マンションで会見した養女の晴子さんによると、和子さんはパーキンソン病を患っており、95年から寝たきりだった。ハリウッドスターの話などをよくしていたが、淀川さんが亡くなったころから言葉も話せなくなり、晴子さんやヘルパーが2時間おきに体の向きを変えるなど介護していた。ここ数年は歌が好きで、小柳ルミ子や由紀さおりの曲をよく聴いていたという。
和子さんの容体が悪くなったのは昨年末。大みそかから人工呼吸器や痰の吸引をするようになり、そのまま眠るように亡くなったという。
「親しい人だけで、花々と一緒に送ってほしい」という和子さんの遺言で、遺体はこの日、目黒の桐ケ谷斎場で十数人に見守られてだびにふされた。棺には愛用していたスパッツ、愛犬の写真、米俳優ジョージ・チャキリスからの弔電ファクスが納められた。遺骨は自宅マンションに安置されており、葬儀は行わず、お別れ会なども未定という。
◆小森 和子(こもり・かずこ)本名同じ。1909年11月11日、東京生まれ。府立第三高女時代から授業をさぼって映画館に通うほどの映画好きだった。戦後、主婦業に専念していたが、49年、「夫のゴルフ代稼ぎのため」映画関係記事の翻訳のアルバイトをしたのがきっかけで、当時「映画の友」編集長だった淀川長治さんと出会う。40歳で離婚も経験。
◆「天涯孤独の身、映画に恩返ししたい」私財3000万円、資料1万点を寄贈
最後まで映画を愛し続けた小森さんを晩年苦しめたのが、95年自宅で起きた事故だった。室内で転倒して動けなくなってしまい、近くにあったファンヒーターの熱風を浴び続けてしまった。そのため、顔と腕に大やけどを負った。
80歳を過ぎても外出する時は常に化粧を欠かさないおしゃれな人だっただけに、けがを負った後は自宅にこもる日が多くなった。しかし、98年11月12、13日に行われた淀川さんの通夜、密葬には痛々しい車いす姿で参列。付き人に「(淀川さんの死は)早かったね」とつぶやくように話した。しかし、それ以外、コメントを発することもなかった。
心から映画を愛していた。92年には「日本映画復興のために役立ててほしい」と私財3000万円を松竹に寄贈。「自分は映画を通じて、いろんなぜいたくを経験させてもらった。どうせ天涯孤独の身。せめてお世話になった映画に恩返ししたい」と同年、40年を超える評論活動で集めた貴重な資料1万点を、熊本県に映画博物館を作ろうとしていた地元の映画愛好家たちにも寄贈した。
評論活動30年目の79年には映画の本場・フランスから「芸術文学騎士章」を贈られた。ジェームズ・ディーンの大ファン。オードリー・ヘプバーン、ロバート・レッドフォードら得意の英語を生かして海外で直接取材したスターが700人以上。おばちゃまの死で映画界は大きな財産を失った。
(スポーツ報知) - 1月10日8時1分更新
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