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日本中世史スレ

1■とはずがたり:2002/11/04(月) 21:53
日本中世史を語る

72とはずがたり:2007/02/12(月) 18:11:47
母親孝行でちょいと奈良の柳生の里迄行って来た。
高校日本史選択者なら誰でも知ってる「正長元年ヨリ先ハ神戸四ヶ郷ニ負ヒ目アルヘカラス」が実は柳生にあるのを現地で知って捜して拠った。非常に判りにくい場所にあったが日本民主主義の原点としての室町時代wを高く評価する俺にとっては一寸した聖地だ。(こんな所にあるとは知らなかったのだけど(恥)富貴寺大堂@豊後も白水阿弥陀堂@磐城も近く迄行く機会があってこんな所にあったのかと思う事になったのだが・・)
柳生・大柳生・阪原・邑地の四ヶ郷は春日神社の社領地で即ち神戸であったのだそうな。いや感動である。
この書き込みは疱瘡地蔵(これもまた凄い名前だ)という地蔵が彫り込まれた巨石の脇腹に彫り込まれているのだそうな。

疱瘡(ほうそう)地蔵
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/page4.htm
http://www1.kcn.ne.jp/~yosikatu/yagyu4.htm
http://miyosida.hp.infoseek.co.jp/yagyuu/housou/housou.html
「正長元年ヨリサキ者カンヘ四カンカウニヲヰメアルヘカラス」。
実際は摩耗してしまってか全く読めません。拓でも取れば違うのかもしれませんけど。

あと山岡荘八が柳生藩の家老の屋敷を一時期所有して小説書いてたそうな。今は整備・公開されてうらさびれた観光地になっている。これは娘婿の山岡賢二@栃木4区が死後寄贈したのだそうな。

73小説吉田学校読者:2007/02/13(火) 22:53:26
こういう奇説から真実が見えるときもありますので、要注目です。
なお、私の中では、上杉謙信女性説が8割方、固まってきてる。貴城けいか瀬奈じゅんあたりに謙信やらせて大河一本打てないか。って、全然宝塚好きじゃないんだけど。

『桶狭間の戦い』で新説 信長 略奪中の敵急襲
http://www.tokyo-np.co.jp/00/gnm/20070212/lcl_____gnm_____000.shtml

 戦国武将・織田信長が天下統一のきっかけをつかんだ尾張の「桶狭間の戦い」(一五六〇年)。信長の勝因は「民家の略奪行為で油断する敵を急襲したから」という新説を、県立歴史博物館(高崎市)の黒田日出男館長=東京大名誉教授=が、教授を務める立正大(東京)の「立正史学」に発表した。NHK大河ドラマ「風林火山」の種本ともいえる「甲陽軍鑑」を解読して導いた新説。この新説をテーマに三月三日、同博物館で講演する。 (菅原洋)
 桶狭間の戦いは、何倍もの軍勢を率いた駿河の戦国武将・今川義元に対し、信長がいかにして勝ったかが長年論争の的になってきた。
 明治時代に陸軍が出した本などがまず、信長が迂回(うかい)して近づいたとする「迂回奇襲説」を主張して定説化。この説は近年は学界で否定され、信長の伝記「信長公記」に基づいて正面から攻め込んだとする「正面攻撃説」が主流となった。両説とも、豪雨が信長に有利に働いたとの見解は共通する。
 これに対し、黒田館長は信長公記よりも古く、甲斐の戦国武将・武田信玄の合戦などを伝える「甲陽軍鑑」に着目した。甲陽軍鑑はこれまで、誤記の多さから学界では史料としての価値が低くみられてきた。
 しかし中世史が専門の黒田館長は、全二十数冊に及ぶ膨大な甲陽軍鑑を分析。「記憶違いはあるが、悪意のねつ造はなく、体験に基づく良質な史料」との結論に至った。
 さらに、桶狭間の戦い当時は武田氏と今川氏は同盟していたため「戦いの敗因を間違えるとは考えにくく、第三者が敗者から得た信頼できる情報に基づく」とみている。
 その上で、黒田館長は甲陽軍鑑に多い桶狭間の戦いに関する記述の中に「その日の(事前にあった別の)戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」という意味の内容を見つけた。
 こうした記述はこれまで学界でまったく無視されていた部分。黒田館長は甲陽軍鑑に関連する別の史料の中でも、桶狭間の戦いに今川方で参戦した、後の徳川家康が「今川軍が略奪し、油断していた」と証言したのも確認。黒田館長は略奪を歴史用語で「乱取り」と呼ぶため、新説を「乱取状態急襲説」と名付けた。
 黒田館長は「戦国時代に戦い後の乱取りは常識。信長公記は信長の立場に立つため、略奪に付け込んだ勝因を『みっともない』と避けたのでは」と指摘している。
 講演会は既に定員を超えており、同博物館で三月三日から今回の論文を販売する予定。
<メモ>甲陽軍鑑 1573−86年に武田信玄の重臣・高坂弾正らが記し、甲州流軍学者・小幡景憲が写本を完成させた。大河ドラマ「風林火山」では主人公・山本勘助が今川家に関与する場面があり、桶狭間の戦いでは勘助が情報源の一つだった可能性もある。

75荷主研究者:2008/02/28(木) 23:55:31

http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2008/01/20080105t75021.htm
2008年01月04日金曜日 河北新報
頼朝軍との戦い解明へ 奥州藤原氏が築造・阿津賀志山防塁

3重の土塁と、その間に走る堀が確認できる阿津賀志山防塁

 奥州藤原氏が源頼朝との戦いに備えて現在の福島県国見町に築いた国内最大級の「阿津賀志(あつかし)山防塁」の発掘調査に、同町教委が新年度着手する。800年以上前に造られた全長3キロの防塁は今もほぼ原形をとどめる。調査によって、奥州藤原氏の東北統治の実態や、平安から鎌倉時代に移る日本史の転換点となった阿津賀志山の戦い(1189年)の実像が解明されそうだ。

 防塁は阿津賀志山の戦いの直前に完成したとされる。幅15メートルの間に二重の堀と三重の土塁を張り巡らし、阿武隈川と西側の山間部に挟まれた平野部を遮断した。藤原氏が頼朝軍の北進を止め、この地で合戦をするために築いた。

 鎌倉幕府が造った元寇防塁(福岡市)に次ぐ規模で、完成まで延べ25万人が投入されたと推定されている。

 調査は4年かけて、3キロの防塁のうち1.8キロほどの区間で堀の埋め土を取り除くなどして当時の姿に復元。奥州藤原氏の土木技術を調べるほか、要した作業員数を精査して周辺人口や東北支配の実態を探る。

 兵士の骨などが発掘されれば、両軍の交戦場所や本営と武将の配置など戦いの様子が浮かび上がる。出土例がない奥州藤原氏方の武具が見つかる可能性もある。

 防塁跡は1970年代の圃場整備で整備地域に含まれたが、町が県と交渉し対象から外した。高さ5メートルの土塁と深さ2―3メートルの堀は人が歩けるよう一部埋められたものの希少性が高く、国史跡に指定された。

 町は発掘調査と復元整備を目指し80年代から防塁跡の土地買収を進めた。ここ数年、耕作を放棄する農家が増えたことから買収が進み、本格的な発掘調査が可能になった。

 阿津賀志山の戦いでは10万人以上とされる頼朝軍が3日間総攻撃を仕掛けても防塁を突破できず、2万人の藤原勢に苦戦。頼朝軍は正面突破を断念して藤原勢の背後を奇襲して勝利した。この戦いで頼朝は全国統一を決定的にし、鎌倉幕府誕生につながった。

 平泉研究の第一人者の入間田宣夫・東北芸術工科大教授は「奥州藤原氏の行政、軍事システムの解明などにつながれば、世界遺産登録を目指す平泉の研究にとって朗報となる。阿津賀志山の戦いは平安末期の天下分け目の戦いと言える重要な合戦だけに、実像解明を期待したい」と話した。

76荷主研究者:2008/06/30(月) 00:59:03

http://www.kahoku.co.jp/news/2008/06/20080614t15036.htm
2008年06月14日土曜日 河北新報
600メートル大路発見 平城京と類似 加美

加美町・壇の越遺跡で発掘された道路

 宮城県教委は13日、奈良・平安期の役人の居住区跡とみられる加美町宮崎地区の「壇の越遺跡」と、北側にある郡役所跡「東山官衙(かんが)遺跡」との境界にある道路が、壇の越遺跡内で既に発掘されている大路と同規模だったことが分かったと発表した。

 両遺跡は、陸奥国府・多賀城から出羽国に向かうルート上にある律令(りつりょう)国家の最前線基地。壇の越遺跡は都を模して、碁盤の目状に造られていたことが既に判明している。居住区と役所との境界に大規模な道路を敷くスタイルも平城京と類似しており、県教委文化財保護課は「壇の越遺跡が、平城京に似ていることがあらためて分かった」としている。

 確認されたのは壇の越遺跡の北側の境界で、東西に走る道路。8世紀前半に造られ、幅4―5.6メートル、長さ600メートル以上とみられている。
 東山官衙遺跡は国の史跡に指定されており、多賀城の下で郡を治めた役所とされている。東山官衙遺跡の南門から壇の越遺跡には南北に幅6メートルの大路が延び、南門から200メートル付近で今回発掘された道路と交差している。
 これまでの発掘で、東山官衙遺跡と壇の越遺跡を取り囲む外郭施設の範囲が東西1.2キロ、南北1.4キロ以上であり、外周が3.1キロ以上に及ぶことも確認された。
 15日午前10時半から、現地で一般を対象にした説明会が開かれる。

77石垣眞人:2008/07/29(火) 14:42:44
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.saces.live.com にアクセスしてください。

78とはずがたり:2008/11/10(月) 11:57:33
そもそも可成りの醜男だった癖に美男子扱いされてると思ってたけどそれも怪しいのか。また今の五条大橋のある五条通は昔は六条坊門小路であって,五条大橋にある弁慶義経の像はそもそも場所的に間違いなのは有名だけど,義経記では橋の上ではなかったのか。。
>そもそもこの義経記自体が民間伝承をまとめたもので、庶民の間にあった「判官(ほうがん=義経の別称)びいき」の高まりから多くの虚構を含んでいたとされる。
基本的に義経よりも頼朝派なのは俺が長男だからかねぇ?

【もう一つの京都】検証・源義経伝説 兄頼朝との協力と確執
2008.11.9 15:04
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081109/acd0811091506003-n1.htm

 生まれて間もなく父を亡くし、母の元からも引き離され一人再起の日を待った幼少時代、平家追討における超人的活躍にもかかわらず、兄との決裂で命を狙われ自害を図るその最期。鎌倉幕府の成立前夜を駆け抜けた希代の英雄、源義経の生き様は必ずといっていいほど、その「悲劇」とセットで語られる。

 現代人を魅了し続ける義経の実像は謎も多い。近年批判が進んでいる鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」を除けば、歴史上確かな記述が残っているのは、25〜31歳までしかないともされる。

 例えば、牛若丸時代の義経が鞍馬天狗を相手に剣術を磨き、五条大橋で華麗に舞って豪傑、武蔵坊弁慶を討ち倒す伝説。このころ五条大橋は存在せず、室町時代の物語「義経記」では2人は五条天神と清水寺で2度戦い、2度とも牛若丸が勝ったとされている。

 しかも、そもそもこの義経記自体が民間伝承をまとめたもので、庶民の間にあった「判官(ほうがん=義経の別称)びいき」の高まりから多くの虚構を含んでいたとされる。

 義経の容姿について成立年代が義経記より早い「平家物語」は「九郎(義経)は背は小さき男、色白で前歯が少し出ている」と伝えるが、義経記では「唐代玄宗皇帝の世なら、その妃楊貴妃というべきであり、漢の武帝のときなら、その妃李婦人かと疑われるほどの美男子」となるのだ。

                 ◇

 英雄としての人気が高く、後世に多くの伝説が作り出された義経。信頼できる史料に義経が最初に姿を現すのは、異母兄である源頼朝と初対面を果たしたとされる年の3年後の1183(寿永2)年のこと。

 このころ京都では、源(木曽)義仲が平氏を都落ちさせた後、狼藉の限りを尽くしていた。義経は義仲を追討するため、頼朝の代官として上洛、歴史の表舞台に躍り出た。

 当時の右大臣、九条兼実は同年10月17日、日記「玉葉(ぎょくよう)」に「源頼弟九郎(実名を知らず)、大将軍として数万の兵を率いて上洛を企てる」と書き残し、11月2日には「其替りに九郎御曹司(誰人や、尋ね聞くべし)」と記述。義経は貴族の間で突如として現れた新星であった。


 翌1184(寿永3)年、宇治川の戦いで義仲を破った義経はそのまま京都に入る。その後、有名な一ノ谷の戦いや屋島・壇ノ浦の戦いにかり出され、1年余りで平氏を壊滅させる電光石火の戦績をあげる。

79とはずがたり:2008/11/10(月) 11:57:51
>>78-79
                 ◇

 京都大大学院の、元木泰雄教授(日本中世政治史)は著書「源義経」(吉川弘文館)で京都で乱暴の限りを尽くした義仲追討と平氏一門の残党を鎮圧し、都の治安を守った義経の活躍を「戦乱で退廃した京の救世主にほかならない」と評している。

 入洛後の義経は平氏との最終決戦に向けた準備だけでなく、貴族と社寺の紛争解決や乱暴をはたらく武士の取り締まり、朝廷との折衝などを敏速にこなし、見事なまでの政治的手腕を発揮した。京都の武士との連携も深め、郎党らに所領を与えることで京都周辺に独自の軍事基盤を築きつつあったという。

 しかし壇ノ浦の戦いで5年近くにもわたる源平合戦が終了すると、頼朝と義経の確執が顕在化。義経の経歴は没落へと突き進む。なぜ、頼朝は平氏討伐の最大の功労者である義経を死に追いやったのか。

 「義経が追討の功を独占している」とした梶原景時の“讒言(ざんげん)”や、頼朝の許可無く義経が官位を受けたことなどの説があるが、元木教授は「(義経が京の)後白河と提携し、平氏の立場を継承しようとしたことに求められる」とする。


 義経は京都での滞在を通じて、王権を擁護するなかでその存在感を高めた。鎌倉に鎮座した頼朝は、義経が東国ではなく西国の武士を率いて平氏追討を成し遂げたことに困惑。さらに、義経がそれまで平氏が独占していた役職、御厩司に就任したことに憤った。

 東国の武士による武家政権の確立を目指した頼朝と、京都で王権と提携しようとした義経。2人の「武士のあり方」をめぐる衝突が対立の本質だったのかもしれない。

 1185(文治元)年11月3日、頼朝の追討を受け、義経は1年10カ月滞在した京都を後にした。その4日後の日記に、兼実はこう記している。

 「義経、大功を成し、その詮なしと雖(いえど)も、武勇と仁義とにおいては、後代の佳名をのこすものか。嘆美すべし。嘆美すべし」(森川潤)




 源義経 1159(平治元)年、河内源氏の当主、源義朝の九男として生まれる。母は九条院の雑仕女、常磐御前。牛若丸と名付けられ、その後稚児名を遮那王と名乗った。1180(治承4)年に兄、頼朝と対面した後平氏追討で活躍し、1185(元暦2)年に壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させる。しかしその後都を追われ、各地を流浪、1189(文治5)年に奥州平泉(岩手県)で自害する。享年31。

「源義経」美男説を追う
-不毛な論争を越えて-
http://www.st.rim.or.jp/~success/bi_ye.html

80とはずがたり:2009/04/09(木) 03:19:25
 2009年4月8日(水)
中世の埋蔵銭、大量に出土 熊谷の諏訪木遺跡
忍城の成田氏と関係か
http://www.saitama-np.co.jp/news04/08/06x.html

 熊谷市教育委員会は七日までに、同市上之の諏訪木遺跡から中世の埋蔵銭が大量に出土したと発表した。戦国時代に行田の忍城を治めた成田氏の旧館跡が近くにあることから、同教委では「成田氏に関連したものの可能性が強い」とみている。

 諏訪木遺跡はこれまで六回の発掘調査が行われ、縄文晩期から近世までの住居跡などが見つかっている。今回は区画整理に伴って、三月末まで発掘を実施。二月二十四日に、古墳の堀の跡を三十センチほど掘ったところ、埋蔵銭が大量に見つかった。

 銭は約百枚ごとに束にされ、それが数段重ねられていた。まだ完全に土を取り除いていないため枚数は不明だが、三千枚から五千枚はありそうだという。中国から輸入された銅銭とみられ、十一世紀末に北宋で鋳造された「紹聖元宝」などが確認されている。

 市教委社会教育課によると、戦での略奪に備えて地中に保管した備蓄銭か、神仏に祈願するためにささげた埋納銭か、埋めた理由には二つの説が考えられるが、今回はどちらに当たるかは不明。

 成田氏は平安時代中期から県北部に勢力を誇った武士。中世に熊谷の上之地区に館を構え、十五世紀後半に忍城に拠点を移した。その旧館の跡(現・泰蔵院)が、遺跡から五百メートルほど離れた場所にあることから、成田氏との関係を指摘している。

 同市では一九七七年にも玉井地区で一万六千枚の埋蔵銭が発見されており、今回が二例目。

 この埋蔵銭は江南文化財センターで五月八日まで展示されている。土曜休館。四月中のみ日曜開館。問い合わせは、同センター(TEL048・536・5062)へ。

82とはずがたり:2009/07/06(月) 11:45:41
議員板の総選挙スレで頼朝のお母んの話しになった時に実家の熱田大宮司家の出自を藤原南家と云うべき所を北家と書いてしまった。。
恥ずかしい上に南家好きとしては万死に値するわ。。_| ̄|○

83とはずがたり:2010/03/11(木) 10:47:55

結構ショックですねぇ。歴史のロマンなのに。
もう一度植えても無理なんかな?
まあまた此処に2代目か3代目植えればいいね。その内大木に育ってくれるでしょう。

鶴岡八幡宮の大イチョウ倒れる 「実朝暗殺の舞台」
http://www.asahi.com/national/update/0310/TKY201003100130.html
2010年3月10日12時47分

写真:根元から倒れた大イチョウと、おはらいをするために大石段を下りる神職=10日午前8時2分、神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目の鶴岡八幡宮、山元一郎撮影根元から倒れた大イチョウと、おはらいをするために大石段を下りる神職=10日午前8時2分、神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目の鶴岡八幡宮、山元一郎撮影
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/nihonshi/TKY201003100137.jpg

写真:倒れた大イチョウの根元の直径を測る消防職員=10日午前7時49分、神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目の鶴岡八幡宮、山元一郎撮影倒れた大イチョウの根元の直径を測る消防職員=10日午前7時49分、神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目の鶴岡八幡宮、山元一郎撮影
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/nihonshi/TKY201003100136.jpg

写真:鶴岡八幡宮のシンボルとして、参拝者に親しまれていた大イチョウ=2004年10月鶴岡八幡宮のシンボルとして、参拝者に親しまれていた大イチョウ=2004年10月
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/nihonshi/TKY201003100246.jpg

 鶴岡八幡宮(吉田茂穂宮司)のご神木とされる大イチョウは10日午前4時40分ごろ、根元から倒れているのが見つかった。けが人などはなかった。

 大イチョウは1219年、鎌倉幕府の3代目将軍源実朝が八幡宮の参拝を終えたところ、この木に隠れていた公暁(くぎょう)が暗殺したとされる伝説から「隠れ銀杏(いちょう)」とも呼ばれる。800〜1千年余りの樹齢とみられ、鎌倉時代に体を隠せる大樹なら現在の木は2代目という説もある。

 鶴岡八幡宮によると、同4時15分ごろから、詰め所で警備員が5分おきぐらいに「ドンドン」という音を聞いていた。同40分ごろに、雷が落ちるような大きな音がしたため外に出たところ、大石段そばの大イチョウが根元から南側に倒れていたという。鎌倉市消防本部によると、当時は雨はあがっていたが、平均7〜8メートルの北風が吹いていた。

 大イチョウは根元部分が空洞のようになっていた。八幡宮によると、これまで台風で枝折れしたことなどがあるだけで大きな被害はなかった。今年は2月に雨が多く地盤が緩んでいたという。神職の一人は「関東大震災にも耐えたのに……」と絶句していた。

 現場には神職や氏子らが次々に訪れ、おはらいや感謝をささげる神事をした。大学の樹木の専門家にも連絡し、植え直しも含めて今後の対応を検討する。

 この日朝に訪れた同県茅ケ崎市の主婦倉本須美子さん(67)は「40年前に広島から嫁いで、節目には木の前で両親らと記念写真を撮ってきた。木は人生と重なるが、倒れてしまったのはさみしい」と話した。

84荷主研究者:2010/03/14(日) 16:00:53

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100311000168&genre=M2&area=K00
2010年03月11日(木)Kyoto Shimbun
「幻の九重塔」 基礎見つかる 京都市動物園の法勝寺跡

 九重塔の基礎部分が見つかった試掘現場(京都市左京区岡崎・市動物園)=京都市提供

 平安後期に白河天皇が建立し、当時の平安京で最大の高さ81メートルとされる法勝寺の八角九重塔の基礎部分が、京都市の試掘調査により市動物園(左京区岡崎)で11日までに見つかった。平安京のシンボルだったとされる九重塔の全容が明らかになる可能性があり、市は4月以降に本格的な発掘調査を行う。

 動物園の改装工事に伴い、市が昨年12月から園内の28地点を試掘した。その結果、猛獣舎(撤去済み)の北側で、地下2メートルまで掘り下げられた塔の基礎部分が見つかった。八角形の塔の基礎部分は、一辺が12・5メートルだったことも分かった。

 市文化財保護課によると、通常の基礎工事で使われる石より大きい直径70センチほどの石を詰め、粘土で固めて地盤を改良しており「非常に大掛かりな工事だったとみられる」という。試掘場所は塔の南辺で、同課は塔の中心位置は現在の観覧車付近と推測している。

 九重塔は、室町時代に法勝寺が失われて以後も基壇部分だけが地上に残り、戦前は動物園の休憩所になっていた。戦後、進駐軍によって地表部が削られ、その後正確な位置が特定できていなかった。

 市は遺跡に影響しないよう改装工事の工法などを一部変更する。

 京都産業大の鈴木久男教授(歴史考古学)は「法勝寺は院政期の大規模な建物造営の始まりとして重要な遺跡。塔の全容解明が期待される」と話す。

85荷主研究者:2010/03/14(日) 17:11:31

http://www.ibaraki-np.co.jp/main/weekly16.htm
2010年3月10日 茨城新聞
古河・川戸台遺跡 大量の製鉄鋳型や鉄滓 「国内最大級の可能性」

 古河市教育委員会は9日、同市牧野地の川戸台遺跡で、奈良から平安時代前期にかけて操業したとみられる製鉄遺跡から、廃棄された大量の鋳型や鉄滓(てつさい)を確認したと発表した。わずか440平方メートルの調査区域から大量に見つかった。調査に携わった製鉄遺跡研究会の穴澤義功代表は「国内最大級とされる福島県南相馬市の金沢製鉄遺跡群に匹敵する可能性がある」と話している。

 川戸台遺跡は、砂鉄から鉄を取りだした残りかすの鉄滓が出土する遺跡として以前から知られていた。

 今回発見されたのは、鍋などの鉄製品を生産する際に廃棄された鋳型、溶解炉の炉壁の破片、鉄滓など。昨年10月から12月までの第1次調査で約5・5トンを確認した。炉の遺構は未発見だが、8世紀後半から9世紀初頭に鋳造していたと推測される。現場からは鋳型に使用する粘土を掘った採掘坑も見つかった。

 市教委などによると、狭い範囲で鋳型や鉄滓が大量に発見される例はまれで、調査区域全体で50トンほどの量とみられる。

 穴澤代表によると、川戸台は鉄鍋に特化して大量生産していたという。穴澤代表は「操業当初は蝦夷征討に派遣される兵士用に鍋を東日本全域に供給し、後半は寺院や貴族の有力者向けに鉄製の仏具などを造っていた」と推測する。

 現場からは器の脚部に使用する獣脚(じゅうきゃく)や、釣り鐘の龍頭(りゅうず)用とみられる鋳型も見つかった。

 市教委は13日午前10時半と同午後1時半に現地説明会を開く。問い合わせは市教委TEL0280(22)5111。

川戸台遺跡の発掘現場から見つかった炉壁の破片=古河市牧野地

86荷主研究者:2010/03/30(火) 23:28:48

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/03/20100322t15015.htm
2010年03月22日月曜日 河北新報
仙台藩重臣・遠藤家の古文書 鎌倉期史料を確認 白石

遠藤家文書に含まれていた史料

 白石市の民家で発見された仙台藩重臣の一族「遠藤家」の古文書約6000点の中に、鎌倉時代や室町時代の貴重な史料が複数あったことが白石市教委の調査で分かった。

 史料は鎌倉時代末期の1326年に大覚寺統の荘園で起きた係争が記された文書や、1400年代に室町幕府の4〜8代将軍が京都・嵯峨の寺院に発行した土地の権利書など。

 いずれも江戸時代に遠藤家の当主が京都で入手したとみられるが、原本なのか、写しなのかは確認できていない。

 調査に協力している柳原敏昭東北大准教授(中世史)は「戦国時代以前の文書が見つかること自体珍しい。新出の史料である可能性もある」と話す。

 古文書からは、新たに伊達政宗直筆の書状も見つかった。遠藤家4代当主の後見人遠藤親信に江戸城の石垣普請をめぐって指示を出している。

 古文書は白石市に住んでいる子孫が保管し、2009年に市教委に寄託した。市教委は20、21の両日、NPO法人宮城歴史資料保全ネットワークと白石古文書の会の協力を得て整理作業を行い、史料を見つけた。

 整理作業は09年9月にも行われ、東北の戦国大名が遠藤家初代当主の基信にあてた書状約50点などが確認された。

87荷主研究者:2010/04/25(日) 02:51:01

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100414000081&genre=J1&area=K00
2010年04月14日(水)Kyoto Shimbun
「不開門」670年ぶり?開く 東寺、尊氏が難逃れて以来か

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/P20100414000081.jpg
 解体修理のため開かれた「東大門」(14日午前10時18分、京都市南区・東寺)

 670年間開いたことがないと伝わり「不開門(あかずのもん)」と呼ばれる京都市南区の東寺(教王護国寺)の東大門(ひがしだいもん)(重文)が14日、開門された。400年ぶりの解体修理に伴う法要の一環で、関係者は歴史的な瞬間に見入った。

 ■解体修理に伴う法要の一環

 鎌倉時代前期の建久年間に文覚上人によって建てられたとされる。1336(建武3)年、足利尊氏が新田義貞の率いる官軍に攻められた際、東寺に陣を敷き、門を閉めて難を逃れたと言われる。

 東寺によれば、大風や大地震などで門が開いたことはあるが、人の手で開けるのは、そのとき以来という。工事関係者が「自ら開けるのは恐れ多い」と話したため、法要を営むことになった。

 午前10時から東寺や京都府、工事関係者ら約30人が出席して法要が営まれた。その後、工事関係者3人の手でかんぬきが外され、きしんだ音とともに門が開いた。

88荷主研究者:2010/08/12(木) 18:52:24

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010072811273756/
2010年7/28 14:00 山陽新聞
赤磐の畑から銅銭ざっくざく 代々「宝が埋まっている」伝わる

出土した備前薬つぼと、つぼの中から取り出した銅銭の一部

 畑の中から“お宝”ザックザク―。赤磐市石の農業青山邦芳さん(55)方近くの畑から28日までに、室町時代の銅銭約6000枚入りのつぼが見つかった。

 青山さんが18日、重機で畑ののり面を掘削中、銅銭がぎっしり詰まった備前焼のつぼ(高さ30センチ、最大胴径24・8センチ)を見つけた。同市教委は「唐時代の開元通宝など中国大陸からの輸入銭が大半。地方集落の貨幣流通を知る上で貴重な資料」としている。

 青山さん方では代々、この畑に宝物が埋まっているという言い伝えがあったという。青山さんは「突然、つぼが出てきたので驚いたが感動した。銅銭は市教委に寄付したい」と話している。

 同市教委によると、つぼは完形品で、16世紀前半の製作。戦乱や天災への備蓄や地鎮のため、地中に埋めたとみられる。大量の銅銭が入ったつぼは、県内では過去に美作市、備前、勝央町でも見つかっている。

89荷主研究者:2010/08/29(日) 12:17:06

http://www.jomo-news.co.jp/news/a/2010/08/18/news01.htm
2010年8月18日(水) AM 07:11 上毛新聞
●安中で尊氏側近の書状発見

足利尊氏の執事、高師直が讃岐の守護にあてた書状

 南北朝時代に室町幕府を開いた足利尊氏の下で執事を務めた高師直(こうのもろなお、生年不詳〜1351年)の書状が安中市の旧家で見つかり、市教委に寄託されていたことが17日までに分かった。尊氏が北朝の光明天皇に征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立した1338(暦応元)年の前年、四国の守護に指令を出したもの。安中市教委主事で学芸員の佐野享介さんによると、37年には後醍醐天皇による建武の新政が崩壊し、すでに幕府側に実権が移っていたことを示す貴重な史料という。

 書状のあて先は讃岐(現在の香川県)の守護、細川顕氏(あきうじ)(生年不詳〜1352年)。京都の寺院、浄金剛院が讃岐国大内郡与田下村郷(現在の東かがわ市)に領有していた荘園で、木村五郎という人物が乱暴しているのを止めるよう命じている。

 安中市教委によると、書状の最後に記された師直の花押が、過去に見つかった同時代の師直の花押と一致。筆跡も師直の右筆(ゆうひつ=書記官)と似ており、紙質からも南北朝時代のものと判断できるという。

 この書状を写したとみられる文書が「讃州府志」という歴史書に載っているが出典は示されておらず、原本の所在は分かっていなかった。写しでは「木村五郎」の記述が異なっているが、「讃州府志」の記述は誤りが多いことが「香川県史」で指摘されているという。

 木村五郎は古くから讃岐にいた有力者か土豪と考えられる。高師直は南北朝の動乱で主に軍事面で活躍。室町幕府成立後、足利尊氏の弟、直義と対立し、殺された。

 書状は顕氏のもとか、浄金剛院で保管されていたと考えられるが、安中市の旧家にわたった経緯は分からない。

 書状が見つかった旧家は江戸時代、薬などを安中藩に調達した商人で、現在も薬局を営んでいる。当主の男性は「質店も営んでいた祖先が、かなりの目利きで、貴重な史料を集めたらしい。歴史研究に役立てるのなら光栄なこと」と話している。

 書状は安中市学習の森ふるさと学習館で10月22日から来年1月30日まで開かれる企画展「西上州の中世」で公開される。

93荷主研究者:2011/11/26(土) 15:08:04

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201110310016.html
'11/10/31 中国新聞
草戸千軒遺跡展始まる 福山

 福山市の芦田川の中州に現れた中世の集落跡、草戸千軒町遺跡の発掘調査開始50年を記念する展示会が30日、同市西町の広島県立歴史博物館で始まった。13〜16世紀に栄えた港町の営みを語る出土品と調査研究の歩みを伝える。12月4日まで。

 明王院ふもとの川底で1961年8月、福山市教委が最初の発掘調査に着手した。県や国も参加し、現在までに100万点以上が出土し、同博物館に収蔵されている。

 2004年に国重要文化財になった陶磁器や木簡をはじめ、古文書、調査器具など約100点を展示する。1次調査で出土した土器の破片や調査員が履いたゴム草履も並ぶ。

 初日は解説会があり、鈴木康之主任学芸員が、金融業者の存在を物語る木簡や、町で焼かれていた土器の変遷を紹介。「従来の中世のイメージを転換させた功績は大きい」と調査の意義を語った。

 11月3日午後2時から、発掘に携わった研究者が意見交換する記念セミナーがある。入館料は一般290円、大学生210円、高校生以下は無料。月曜日休館。

【写真説明】出土した備前焼のかめなどを見学する来場者

94荷主研究者:2011/12/26(月) 00:56:06

http://cgi.daily-tohoku.co.jp/cgi-bin/news/2011/11/25/new1111251602.htm
2011/11/25 16:08 デーリー東北
南部氏・津軽氏系図の独自考察本を出版

 久慈市の歯科医師で九戸歴史民俗の会(酒井久男会長)会員の岩城大介さん(43)が、郷土の歴史をつづった「南部氏・津軽氏系図の『?』と『!』」を出版した。1539年の三戸城放火による焼失で現在、信頼の置けるものがないという南部氏の系図を独自に構築し、出自に謎の多いという津軽為信公についても考察を加えた。

 2001年に出版した「中世武家家系図の仮説的再構築」に続く2作目となる。

 前作でも南部氏について考察していたが、新たな史料や記録を入手。あらためて初代光行公から江戸時代直前までの南部氏と一族の系図を検討した。

 光行公に関しては、1189年の源頼朝の奥州合戦に従軍し、恩賞として奥州糠部(現在の青森県から岩手県にまたがる地域)の地を与えられた―というのが通説。

 岩城さんは多くの系譜集などを基に「光行の糠部拝領説は江戸時代中期以降に偽作された」と指摘した。1322年の「津軽安藤の乱」に、南部氏の一族とみられる長(なが)継(つぐ)が動員されたのが、南部氏の糠部定着の発端だったとの説を採る。

 初代津軽藩主の為信公の出自については、「津軽系図」などで「金(こん)」姓と記されていることに着目。

 ▽久慈地方を治めていた、安部氏の流れをくむ久慈氏と金氏の間に姻戚関係がある▽為信公が家紋として定めた「卍」紋を使う金氏が存在する―ことなどを理由として「為信もこの(金氏の)末裔(まつえい)であったのでは」と、久慈との関わりを示唆した。

 岩城さんは「歴史は多面体で、光の当て方によりさまざまな姿を見せる。自分なりの研究結果を出したつもりで、本来の郷土史像を描く一助になれば。今後も検討は続けたい」と意欲を示した。

 久慈市や八戸市、青森市などの主な書店で購入できる。価格は1800円。

 問い合わせは久慈市のヘイハン印刷=電話0194(55)3811=へ。

【写真説明】「南部氏・津軽氏系図の『?』と『!』」を手にする岩城大介さん

95栃木都民:2011/12/26(月) 11:05:20
>>85
牧野地には香取神社があり、武神を祭った氏族が居住していたと思われますから、製鉄をしていても不思議はないですね。
すぐ西側を流れる渡良瀬川の砂鉄や海運を利用できたでしょうから。

96名無しさん:2012/01/18(水) 07:38:09
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120118-00000008-mai-soci
<斎宮跡>出土土師器の破片にいろは歌 平仮名としては最古
毎日新聞 1月18日(水)5時0分配信

拡大写真
土師器に書かれたいろは歌(内側)=斎宮歴史博物館提供

 三重県立斎宮歴史博物館は17日、同県明和町の国史跡「斎宮跡」から出土した平安時代後期(11世紀末から12世紀前半)の土師器(はじき)の破片に、平仮名としては最古のいろは歌が書かれていたと発表した。博物館は「平仮名をいろは歌で習う王朝文化が、いち早く伝わっていたことを示す貴重な資料だ」と説明している。

 博物館によると、10年6月から11月までの調査で、皿型の土師器の破片を4個発掘。つなぎ合わせると縦6.7センチ、横4.3センチになり、内側に「ぬるをわか」、外側に「つねなら」と墨で書かれていた。従来は、岩手県平泉町で出土した12世紀後半の木簡に書かれたいろは歌が、平仮名としては最古だった。

 斎宮は、飛鳥時代から南北朝時代にかけて、天皇に代わり伊勢神宮に仕えた皇女「斎王」の住居を中心とし、斎王に使える女官や役人などが住んでいた。当時は、不要になった土器を使って文字を習う風習があったらしい。

 筆跡が繊細で、一般的な土器の両面にまで書かれていることから、博物館は地元の女官が平仮名を覚えるために書いたと推測。「比較的身分の低い女官にまで幅広く文化が広まっていたことを示す発見だ」と話している。21日から3月11日まで、破片を公開する。【駒木智一】

★いろは歌 文字を覚えるための手習い歌の一つで、七五調になっている。10世紀末から11世紀中ごろに成立したと考えられる。平仮名のいろは歌が書かれた出土例は、平泉町を合わせ計7例あるが、土器に書かれていたのは今回が初めて。

97とはずがたり:2013/02/18(月) 23:46:51
<細川政権崩壊から三好政権>
細川政元迄は辛うじて細川管領体制が中央政府を体現していた印象だけど,それ以降は周防の大内氏や備前の浦上氏の支援を受けた細川高国政権(ながら阿波衆との対立を収拾できず),阿波政権的な堺公方体制(結局細川晴元と三好氏との対立)を経て細川政権が崩壊,阿波や四国水軍を背景とする三好政権へ移行する形となる。結局三好政権も長慶死後,三好三人衆と松永久秀の内訌の中で尾張の織田信長の上洛を許すことになる。wikiより纏めてみる。

【細川政元政権→内衆政権→阿波衆政権→細川高国政権へ】
1507年(永正4年) 細川政元暗殺(細川殿の変)→細川澄元(九条家)+内衆(薬師寺長忠・香西元長・竹田孫七ら)→細川澄元(阿波家)+細川高国(野洲家)→細川澄元+三好之長(専横)
1508年 足利義澄+細川澄元+三好之長→足利義尹(義材、後の義稙・将軍)+細川高国(管領)+大内義興(管領代)+畿内国人→両細川の乱
1511年 足利義澄歿・澄元阿波に撤退で一旦終息,高国政権小康す

1517年 三好之長淡路へ侵攻 1518年 大内義興山口へ帰国

1519年 細川澄元+三好之長,摂津国兵庫に上陸
1520年 劣勢の細川高国を見限って将軍足利義殖,細川澄元へ内通,細川高国は一旦近江坂本へ逃げるも反撃し,三好之長を殺害,細川澄元を追放・澄元は阿波で病死。
1521年 高国,澄元に内通の義殖を赤松重臣浦上氏に預け殺害,足利義晴を12代将軍として擁立,高国政権続行。

1526年(大永6年) 細川尹賢の讒言により、高国が香西元盛を謀殺,理不尽に怒った元盛の兄・波多野稙通・柳本賢治ら近畿国人勢力+阿波の細川晴元(澄元の子)+三好元長(之長の孫)が挙兵,高国政権の終わりの始まり。

【堺公方(足利義維+細川晴元+三好元長(阿波衆)+摂津衆)→将軍足利義晴+管領細川晴元】
1527年 高国・尹賢は京に侵攻した波多野稙通・柳本賢治らに敗れ将軍義晴を擁して近江坂本に逃亡(室町幕府の政治機構は実質的に崩壊)。前将軍義稙の養子・足利義維(義晴の弟)を擁する晴元・元長は堺に進出し堺公方として京の支配を行う。足利義維(堺公方)+細川晴元+三好元長(雲海)+柳本賢治・茨木長隆ら摂津の有力国人衆
1528年 細川尹賢、晴元方に寝返る。
1530年 三好海雲が柳本賢治と山城守護代を巡って争うも柳本賢治死去。その間隙を縫って細川高国+浦上村宗反撃。
1531年 大物崩れ(高国自害・浦上村宗も討死),細川尹賢も木沢長政に殺害される。

1532年 高国を葬り去った晴元はなんと堺公方を棄てて将軍義晴との和睦に動く。三好元長+畠山義堯と細川晴元+三好政長+木沢長政(元は畠山家臣)の対立→木沢が来援を要請した一向一揆が三好元長,畠山義堯及び堺公方そのものを一掃。

1534年 三好元長の遺児である長慶を木沢が晴元の家臣に組み入れる→三好長慶や摂津の有力国人である池田信正(久宗)が台頭
1542年 木沢が細川・三好・遊佐(畠山被官)連合軍に敗れ討ち死
1543年 細川尹賢の息子で高国の養子の氏綱が晴元に対して挙兵。足利義晴+細川氏綱+旧高国や木沢の残党など畿内勢力。
1548年 長慶は遊佐長教と和睦してその娘を正室に迎え、同時に細川氏綱を擁立して晴元に反旗を翻した。

98とはずがたり:2013/02/18(月) 23:47:28
>>97-98
【三好政権の成立】
1549年 三好長慶が江口の戦いで細川晴元(三宅城)・三好政長(江口城)・三好政勝(榎並城)を撃破(晴元は、13代将軍足利義輝と大御所足利義晴を連れて近江坂本へ逃れ細川政権は崩壊)
1552年 長慶に奉じられ上洛した氏綱が管領に。細川氏綱(管領-1563.最後の管領)+三好長慶
1553年 反撃を試みた義輝を近江朽木へ追いやり三好氏は畿内の実力者として絶頂を極めたものの将軍は義輝が近江朽木に居たままで以降も断続的に六角氏や畠山氏の攻撃を受け京都支配は一向に安定せず。

1558年 将軍足利義輝と近江守護六角義賢の攻撃を受けて和睦し将軍義輝と管領氏綱を傀儡に三好長慶は幕府相伴衆に列するに至ったが,これにより三好氏は義輝の臣下として幕府政治機構に組み込まる事となる。→以降,義輝は合戦の調停等行う等将軍の権威昂揚を図る。長慶も幕府機構を利用して実権を揮う形を採る。

1561年 長慶の弟で「鬼十河」と呼ばれた三好軍の勇将・十河一存が急死。三好政権の実権は家老で婿の松永久秀が握ってゆく。
1562年 長慶の弟・三好義賢が畠山高政との戦いで戦死する。
1563年 長慶の嫡男・三好義興が死去。
1564年 無実の弟・安宅冬康を誅殺し,その無実を知った長慶自身も失意の内に没。一方で将軍義輝は63年の管領細川氏綱死去以降も管領を置かず,三好氏を使って敵対していた政所執事の伊勢貞孝を敗死に追い込み、新たな政所執事に義輝の義従兄弟にあたる摂津晴門を起用し政所を掌握。将軍足利義輝は長慶の死を好機と見て、かねてから親密な関係にあった上杉謙信・武田信玄・朝倉義景など諸大名に上洛を呼びかけ、幕府再興を目指して積極的な活動を行なうようになった
1565年 5月,三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀らの軍勢によって室町幕府第13代将軍足利義輝が京都二条御所に襲撃され討死すると云う永禄の変が発生。新たな将軍には義輝の従弟でかつての堺公方であった足利義維の子である足利義栄を阿波から摂津の普門寺城に迎え14代将軍として擁立するも直ぐに松永と三好三人衆は対立,内紛に。
1568年 織田信長が義輝の弟義昭を奉じて上洛すると,三好三人衆は六角義賢に管領職を与えて対抗しようとするも六角氏は敗れ三好衆は敗走,松永は織田の軍門に下る(後に叛乱)。義昭が第15代足利将軍に就任し織豊政権が誕生。

99とはずがたり:2013/04/08(月) 19:57:08
面白い♪

三好長慶伝 〜不完全な天下人〜
http://ncode.syosetu.com/n0310h/

100荷主研究者:2013/05/29(水) 23:06:36

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20130511/CK2013051102000005.html
2013年5月11日 中日新聞
黒田官兵衛の参戦示す文書発見 秀吉の重臣

黒田官兵衛が賤ケ岳合戦に参戦していたことを証明する羽柴秀吉の文書(長浜城歴史博物館提供)

 長浜市北部を舞台に、羽柴(後の豊臣)秀吉と柴田勝家が争った賤ケ岳合戦に、秀吉の重臣黒田官兵衛(一五四六〜一六〇四年)が参戦したことが分かる文書を長浜城歴史博物館が発見した。十一日から六月二日まで、同博物館で展示する。

 官兵衛の参戦は、江戸時代に編さんされた「黒田家譜」に後年の伝聞として載っているが、合戦当時の資料は見つかっていなかった。

 文書は、長浜城にいた秀吉が戦場前線にいる弟秀長に宛てた三箇条の指示書。二箇条目に、秀吉軍の堀秀政が守るとりで周辺の小屋を、「将右衛門くみの衆、官兵衛くみの衆、隼人くみの衆」が協力して壊すよう指示があり、官兵衛の参戦が読み取れる。

 同博物館の太田浩司副館長によると、前線に送り込んだ軍勢の広い待機場所が必要で、小屋を壊そうとしたらしい。

 とりで周辺の現地調査で、兵隊用の小屋の存在が指摘されており、文献で裏付けられた。賤ケ岳合戦で秀吉が指示した戦略上の文書の発見は二例目となる。文書は京都市の古美術商から長浜市が購入した。

 戦国史研究が専門の静岡大名誉教授小和田哲男さんは「二次資料でしか確認できなかった官兵衛の参戦が確実となったことは、大変貴重な発見」と評価する。

(塚田真裕)

 <黒田官兵衛>現在の兵庫県姫路市生まれ。軍略にたけ、豊臣秀吉の信頼が厚かった。黒田家の発祥地、長浜市木之本町黒田では、官兵衛が出家後に名乗った如水にちなんで特産の太秋(たいしゅう)柿「黒田の如水柿」を生産する。来年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の放映を控え、戦国ファンらの関心を集める武将。

101腕時計 修理:2013/10/26(土) 16:11:22
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102とはずがたり:2013/12/18(水) 12:15:10
すげえ。治天の君をした女院がいたのか。

西園寺寧子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AF%A7%E5%AD%90

生涯

前半生
正応5年(1292年)、従一位左大臣西園寺公衡と従一位藤原兼子の間に出生した。母兼子は藤原氏の下級貴族の出自だったが、父公衡の西園寺家は代々朝廷・鎌倉幕府間の連絡調整を担当する関東申次の要職を継承しており、公衡も関東申次として朝廷政務の枢要に当たっていた。当時、朝廷は持明院統と大覚寺統の両統が交互に政務を担当する両統迭立の状態にあったが、西園寺家は両統双方と姻戚関係を結んでいた。
乾元元年(1302年)、寧子は持明院統御所(富小路殿)で着袴の儀を執り行い、将来の持明院統への入内がほぼ約束された。そして、嘉元4年(1306年)4月、寧子は女御として持明院統の後伏見上皇の後宮に入った。
延慶元年(1308年)に後伏見上皇は弟の富仁親王を猶子とした上で、花園天皇として即位させた。翌延慶2年(1309年)正月、寧子は花園天皇の准母とされ、従三位に叙せられると共に、准三后及び院号(広義門院)の宣下を受けた。これにより寧子は国母待遇となり、後伏見上皇の本后の地位を得た(以下、本項では寧子を広義門院と呼ぶ)。広義門院はその後、後伏見上皇との間に量仁親王(後の光厳天皇、正和2年(1313年)出生)と豊仁親王(後の光明天皇、元亨元年(1321年)出生)をもうけた。
花園天皇の後に大覚寺統の後醍醐天皇が即位したが、後醍醐天皇は元弘元年/元徳3年(1331年)に倒幕計画の発覚により退位させられ(元弘の変)、量仁親王が光厳天皇として即位した。これにより後伏見上皇は治天の君となり、広義門院は名実備えた国母となった。しかし、その栄光も長くは続かず、元弘3年/正慶2年(1333年)には後醍醐側勢力が巻き返すと鎌倉幕府はあえなく滅亡し、後伏見上皇と光厳天皇もまた後醍醐天皇によってすぐに廃立された。
建武2年(1335年)、広義門院の甥西園寺公宗が後醍醐天皇を廃し、後伏見院政を復活して持明院統を再興する計画を立てたが、失敗に終わった。そして翌建武3年(1336年)、後伏見上皇が没したため、広義門院は出家した。その数か月後、またも世の形勢は変転し、後醍醐側勢力を打ち破った足利尊氏は光厳上皇を治天の君として迎えいれ、光厳院政が開始することとなった。広義門院は光厳上皇の実母として再び栄光を取り戻した。広義門院は故後伏見上皇の菩提を弔うため、延元4年/暦応2年(1339年)、洛南の伏見離宮に大光明寺を創建している。

治天の君となる
ところが観応年間を中心とする観応の擾乱によって、広義門院は再度浮沈を味わうこととなる。正平6年/観応2年(1351年)10月、尊氏を中心とする室町幕府勢力は足利直義との対抗上の必要から南朝と講和し、結果として光厳院政及び光厳の子崇光天皇の皇位がともに廃されることとなった(正平一統)。これを好機ととらえた南朝側は、翌正平7年/観応3年(1352年)閏2月、尊氏の嫡男・足利義詮率いる幕府軍を破って一気に京都へ進入した。南朝側は北朝の断絶を図って、光厳上皇・光明上皇・崇光上皇及び前皇太子・直仁親王と北朝側の全上皇と皇位継承者を拉致し、大和賀名生へと連れ去った。

103とはずがたり:2013/12/18(水) 12:15:33
>>102-103
これにより北朝・幕府側には政務の中心たるべき治天の君・天皇が不在となり、全ての政務・人事・儀式・祭事が停滞することとなった。この停滞の影響は甚大で、公家・武家ともに政治機能不全に陥ってしまった。南朝に対する上皇・親王返還交渉が難航する一方で、光厳上皇の皇子、弥仁王が南朝に拉致されず京都に留まっていることも判明していた。南朝との交渉が決裂した時点で、弥仁王が天皇となることは決定した。その皇位継承に当たり、当時の先例では、神器がなくとも最低限、治天の君による伝国詔宣が必要とされていた。しかし、詔宣すべき上皇の不在が最大の課題となっていた。
この窮地を打開するため、在京であり光厳・光明・崇光の直系尊属である広義門院が上皇の代理として伝国詔宣を行う案が立てられた。同年6月3日、幕府を代表した佐々木道誉が勧修寺経顕を通して広義門院へ上皇の代理を申し入れたが、広義門院は三上皇・親王の拉致に全くなすすべなかった幕府及び公家達に強い不信感をあらわにし、義詮の申し出を完全に拒否した。広義門院の受諾を得るほかに解決策が皆無の幕府は、広義門院へ懇願を重ね、6月19日にようやく承諾を取り付けるに至った。
広義門院が上皇の役割を代行することは、事実上、広義門院が治天の君として院政を開始することを意味していた。実際、6月19日以降、政務・人事に関する広義門院の令旨が出され始めており、6月27日には「官位等を正平一統以前の状態に復旧する」内容の広義門院令旨(天下一同法)が発令され、この令旨により、それまで停滞していた政務・人事・儀式などが全て動き始めることとなった。弥仁王も同年8月に無事践祚を終え後光厳天皇となった。南朝は、上皇ら拉致により北朝・幕府側を回復不能の窮状へ追い込み、圧倒的な優位に立ったはずだったが、広義門院の政務受諾によりその優位性をほぼ完全に失ってしまったのである。
その後、広義門院は皇位継承・人事・荘園処分・儀礼など様々な政務に対し精力的に取り組み、治天の君としての役割を十分に果たした。正平8年/文和2年(1353年)に後光厳へ政務権を継承した後も北朝家督者として君臨し続け、正平12年/延文2年(1357年)に66歳で没した。

評価

歴史家の今谷明は、広義門院による政務就任は公家ではなく幕府からの発案だったとの見解を提示している。中世当時、夫を亡くした妻がその家督を継ぐという後家家督慣行が武士の間に広く見られた。この慣行は公家社会には観察されないため、武家社会の慣行が治天広義門院の登場に影響したとしている。
また南北朝時代の頃から、荘園公領制を支えていた職の体系が動揺し始めており、それまで職(しき)の継承は世襲による場合が多かったのに対し、職が金銭で売買されたり、必ずしも世襲によらなくなるなど、職の遷代と呼ばれる現象が起きつつあった。治天広義門院の登場についても、天皇・治天という職が遷代化し始めたものとする見解があり、後の足利義満による皇位簒奪未遂へつながっていったとしている。
なお、彼女以後持明院統および北朝系の天皇において正配(皇后・中宮・女御)の冊立が行われなくなる。正配が復活するのは、女御は後陽成天皇の女御になった近衛前子、皇后(中宮)は後水尾天皇の女御から中宮になった徳川和子まで下ることになり、いずれも彼女の没後200年以上も後のことになる。

104とはずがたり:2013/12/18(水) 17:08:19
後宇多天皇が嫡男の後二条天皇系に大覚寺統の皇統を続けようと思いながら自ら院政を停止し後二条天皇の弟に当たる後醍醐天皇親政を開始させ,結局,後醍醐天皇が両統迭立の枠内にある後宇多系大覚寺統・持明院統・鎌倉幕府を相手に叛乱を起こし,更には鎌倉幕府を倒すに至るのであるが,後宇多院の院政停止は一つの歴史の謎のようである。それに関して調べてて引っ掛かった本。面白そうである。

院政とは何だったか: 「権門体制論」を見直す
著者: 岡野友彦
http://books.google.co.jp/books?id=0VEsQrmHucYC&pg=PT109&lpg=PT109&dq=%E9%99%A2%E6%94%BF%E5%81%9C%E6%AD%A2&source=bl&ots=L4BV5IBPLX&sig=XL09eCpzkjOhwgPU0IuatmzDPPQ&hl=ja&sa=X&ei=glaxUvm7BofTkwXbv4CAAQ&ved=0CF4Q6AEwBQ#v=onepage&q=%E9%99%A2%E6%94%BF%E5%81%9C%E6%AD%A2&f=false

105とはずがたり:2013/12/18(水) 17:10:05

そういえば昔,広義門院が院政担当したと云うのを目にした記憶があるな。

当時の認識では天皇擁立の為,伝国詔宣を出すために必要だったという所まで知らなかった様な気がする。

106とはずがたり:2014/01/08(水) 14:33:39
<赤松・小寺・浦上①>

小寺氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kodera_k.html

(嘉吉の乱後)赤松氏に代わって播磨国守護職は山名持豊が補任され、土屋越前守熙俊が守護代として諸政にあたった。その後、赤松氏再興の動きがあったが、ことごとく山名氏によって潰され、遺臣は逼塞を余儀なくされた。
 (小寺伊賀守)職治の子藤兵衛豊職は赤松遺臣団の中心となり、満祐の弟義雅の孫赤松政則をもりたてて赤松氏の再興に尽力した。南朝の神璽奪回を目論んだ豊職らは、小河兵庫助・上月満吉らとともに、南朝に偽って 帰参して神璽の奪還を策した。そして、長禄二年(1458)八月、尊雅王を十津川に弑すると神璽を奪い、赤松家再興を成し遂げたのであった。
 この功により幕府は赤松氏の再興を許し、当時五歳の赤松政則が赤松家の当主となった。政則は加賀半国の守護に補任され、小寺豊職は浦上則宗らとともに幼い政則を守り立てた。

 応仁元年(1467)、応仁の乱が起ると赤松政則は東軍に属して播磨の回復を狙った。とはいえ、政則は十二歳の少年であり、赤松軍の中核となったのは浦上則宗、小寺豊職らの老臣衆であった。播磨に入った政則は姫路城を拠点としたが、文明元年(1469)の暮に置塩城に移り姫路城には(小寺)豊職が目代(城代)として入った。ふたたび姫路城主となった小寺氏は、以後、豊職-政隆-則職の歴代が姫路城主の地位にあった。

 やがて、政則は播磨・美作・備前の三国の守護職に補任され、さらに文明三年(1471)、侍所所司に任ぜられるなど赤松氏の勢力を旧に復した。そして、応仁の乱が終熄したのちの文明十一年、政則は播磨に下向すると播磨・備前・美作三国の支配に乗り出した。一方、備前奪回を目指す山名氏は松田元成を味方に引き入れると、文明十五年、赤松氏の守護所福岡城を攻撃した。
 福岡城を守る浦上村則国・櫛橋則伊らは政則に救援を求め、老臣らも福岡城救援を進言したが、政則はこれを無視して山名氏の本国但馬を衝く作戦をとり播但国境の真弓峠に出陣した。その結果、政則は山名軍に散々な敗北を喫し、逃げる政則を追撃して、山名軍が播磨に乱入してきた。一方、山名・松田連合軍の攻撃に窮した福岡城の浦上・櫛橋らは、城を開いて播磨に逃げ帰った。
 政則の失策は国人層の離反を招き、翌文明十六年、京都にあった浦上則宗が帰国してくると国人領主の多くが則宗のもとに参集した。その一方で、宇野下野守(赤松政秀)を盟主とする動きがあり、赤松一族である在田・広岡の両氏は赤松播磨守の息子を擁し山名氏に与した。さらに有馬右馬助も山名方に属するなど、赤松一党は四派に分裂した。そんななかで、政則に付き従うものはわずかとなり、身の危険を感じた政則は和泉国堺へと出奔した。

置塩城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AE%E5%A1%A9%E5%9F%8E
兵庫県姫路市夢前町宮置、糸田にある標高370mの置塩山(通称:城山)にある山城。

備前・福岡城
http://www.hb.pei.jp/shiro/bizen/fukuoka-jyo/

浦上則宗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%89%87%E5%AE%97

嘉吉の乱で赤松氏が滅亡した際に兄の則永が誅殺を恐れて信濃へと逃亡した為浦上氏の名跡を継ぐ。応仁の乱では山名宗全から領国を奪回するために東軍に属して戦い、赤松氏が旧領国を回復し播磨、備前、美作の守護に任じられたのは則宗の力によるところが大きい。
また、文明年間に入ると、伊勢貞親に代わって、則宗が西軍に属していた朝倉孝景の調略工作を担うようになり、文明3年(1471年)、孝景の寝返りを成功させ、同年に赤松政則が侍所頭人に任ぜられると則宗は侍所所司代、浦上基景が備前守護代に任じられる。

107とはずがたり:2014/01/08(水) 14:34:03
<赤松・小寺・浦上①>
>>106-107
応仁の乱の後、播磨に下向していった政則に京の仕置きを任せられた則宗は領国の事は一族の者に任せ、京に留まる事になる。そして文明13年(1481年)に政則が山城守護に補任されると則宗も山城守護代に補任され、侍所所司代、山城守護代職として京の平安の為に尽力し、更にその権威は強まった。

しかし、文明15年(1483年)11月、則宗と同じく赤松氏の被官であった金川城主松田元成が独立を目論み、赤松氏に奪われた失地回復を狙っていた山名氏と手を結び、赤松氏の守護所である福岡城に攻撃を開始した。この際、京に居た則宗は子の則国ら守備方の劣勢を受けて政則に救援を依頼している。
政則は福岡城の救援に浦上則景・宇野政秀らを派遣する一方で自身は但馬の山名を叩くべく真弓峠に出陣する。しかし、政則は真弓峠での戦で山名政豊の軍勢に返り討ちに会い、姫路へと逃げ帰った。この報を聞いた則景と宇野政秀も播磨防衛のために兵を返してしまったので結局、翌文明16年(1484年)の1月には福岡城は松田・山名の軍勢の手に落ちてしまい、更に政則の軍勢を破った但馬の山名勢もこれを機と見て播磨へとなだれ込むという事態に陥る。

事を重く見た則宗は1月の中旬に京を立ち、急ぎ播磨へと下向すると政則に失望した国人領主の多くが則宗の元に馳せ参じ、●政則は和泉の堺へと出奔した。ここに赤松氏の実権を掌握した●則宗は小寺則職らと会談して政則を廃し、赤松氏一門である有馬則秀(有馬元家の子)の子、慶寿丸(のち足利義澄の偏諱を賜り有馬澄則と名乗る)に赤松氏宗家の家督を継がせる事を画策して幕府にもこれを承認させようとしたが2月20日に申請は却下され、これによって●有馬右京亮が山名に寝返り、●赤松一族の在田、広岡氏が新たな赤松家当主を擁立する事を目論むなど播磨国衆が空中分解してしまい、より混迷は深まった。則宗を中心とした赤松方は2月に松田元成を討つ事に成功していたものの、国衆が分裂した状態では形勢は変えられず以後は敗戦を重ね、やむなく一旦領地を捨てて上洛をした為に播磨は山名氏に奪われてしまう。

この状況を打破する為にとりあえずは内輪での揉め事を解決する事が先決と考えた則宗は8代将軍足利義政の仲介で政則と和解し、播磨奪回に向けての体勢を立て直す。その後、文明17年(1485年)の戦では息子の則景、則国(この時、死亡していないとの説も)を失うなどしたものの山名・松田連合を相手に戦局を優位に進め、東播磨を制圧し西播磨に陣を張る山名軍と対峙。長享2年(1488年)7月に浦上宗助が福岡城に入城し山名政豊が但馬に退去するまで長きに渡る抗争となった。
なお、この一連の争乱で子を失った則宗は安富元家から祐宗を養嗣子として迎えている。

松田元成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%85%83%E6%88%90

文明12年(1480年)、以前の富山城(岡山市街の北西に位置する標高131.3mの矢坂山上にある連郭式の中世山城)から金川城(備前国御野郡金川(岡山県岡山市北区御津金川)にあった城)へと居城を移した。
文明15年(1483年)、元成はかねてより赤松氏と険悪であった山名氏と密かに結び備前に山名氏の軍勢を引き入れ赤松氏へと反旗を翻す。
これに対し備前守護赤松政則は三石城の浦上則国に松田氏追討を命じた。これに対し元成は山名氏へ援軍を依頼し赤松方の小鴨大和守、浦上則国、浦上基景らが守る福岡城を攻める。

京の浦上則宗は赤松政則に福岡城へ援軍を送るよう要請し、赤松政則は福岡城に浦上則景の兵を送り、さらにそれと同時に赤松政則も山名氏の領地である但馬へと出兵するが政則の軍は山名勢に惨敗し逆にそれを追って山名勢が播磨へと押し寄せる事となった。 この知らせを聞いた備前の赤松勢の士気の低下は大きく浦上則景は福岡城への援軍に駆けつけられず兵を引き返す事になり、また福岡城からも城から政則の元に重臣が逃げ出すなどの事態となった。
その混乱に乗じて元成と山名勢は福岡城を攻め、50日の籠城戦の末に福岡城を攻め落とす。(福岡合戦)。
元成はその勢いに乗じて文明16年(1484年)2月、三石城へ攻めようとしたが、途中吉井川の東の天王原において浦上則宗に攻撃され大敗し、磐梨郡弥上村山にて自害して果てた。
不受不施派を熱心に信奉しており、領内の他宗派の教徒を半ば強引に改宗させるなど少々、過剰なまでに手厚く外護を加え後々この地域に不受不施派が根付く大きな要素となった。

108とはずがたり:2014/01/08(水) 14:51:31

<赤松・小寺・浦上③>

小寺氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kodera_k.html

 延徳三年(1491)、赤松氏の再興に尽くした豊職が死去すると、小寺氏の家督は嫡男の政隆が継承した。そして、この政隆の代に小寺氏は勢力を大きく伸張させるのである。
 さて、赤松氏を再興した政則は明応二年(1496)四月、四十二歳を一期として病没した。政則の晩年は従三位に叙せられるなど栄光に包まれたが、その栄光は老臣たちに支えられたものであり、とくに浦上則宗の威勢は政則を凌ぐものがあった。時代は確実に下剋上が横行する戦国乱世に突入していたのである。しかし、浦上則宗の一代は主家を滅ぼして、みずからが自立するというまでには至っていなかった。
 政則の死後、赤松七条家から迎えられた養子義村が赤松宗家の家督を継いだ。文亀二年(1502)、浦上則宗が死去して村宗が浦上氏を継ぐと、事態は波乱含みとなってきた。村宗は赤松氏の重臣として諸政を執り仕切ったが、村宗の権勢に危惧を抱くようになった義村はこれを除こうとした。

 永正十五年(1518)、義村はみずから兵を率いて備前に出陣、村宗の居城三石城を攻撃した。ところが、村宗方には備前・備中・美作三ケ国の国人衆が集まり、浦上方の中村某に岩屋城を攻略され、ついに義村は兵を退かざるをえなかった。翌永正十六年にも赤松義村は浦上氏を攻めたが城を落とすことはできなかった。同年、小寺政隆は御着城を築いているが、これは浦上氏に対する防御をさらに固めたたものであろう。

 翌十七年、小寺則職は義村に命じられて浦上方の美作粟井城と岩屋城を攻撃した。このとき、庄山城主の小寺祐職が則職に従って出陣、小寺勢の先鋒をつとめた。岩屋城はそもそも庄山城小寺氏所縁の城であり、それもあって則職は祐職に先鋒を任せたのであろう。小寺軍を迎え撃ったのは浦上村宗の重臣宇喜多能家で、●小寺則職の軍は飯岡で宇喜多軍に敗れ、祐職は二人の男子とともに討死してしまった。
 則職は姫路に敗走し、義村は置塩城に逃げ帰った。このときの戦いで則職が戦死したとするものもあるが、戦死したのは庄山の祐職であり、名乗りが似ていることから誤伝されたものである。その後、勝ちに乗じた村宗は義村を捕え、播磨の室津に幽閉するという挙に出た。義村は家督を才松丸(のち晴政)に譲ったものの、大永元年(1521)、村宗によって暗殺された。

 かくして、赤松氏は浦上村宗の下剋上によって大きく勢力を失墜し、代わって村宗が備前・美作・西播磨を支配する戦国大名に躍り出た。
 小寺政隆は嫡男の則職とともに才松丸を援けて、赤松氏の勢力挽回に尽した。しかし、村宗の勢力は拡大する一方で、政隆は御着城を則職に譲ると庄山城に移った。大永三年(1523)、小寺藤兵衛(則職か)は浦上村国とともに村宗打倒の兵を挙げたが村宗の攻撃を受けて惨敗を喫している。

浦上則宗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%89%87%E5%AE%97

専横

延徳3年(1491年)に行われた延徳の乱には主君政則と共に出陣。同年11月、織田敏定と連携して山内政綱を討ち、翌延徳4年(1492年)3月の合戦では逸見氏と連携して六角高頼を破り、高頼は甲賀へと逃走した[3] 。
明応5年(1496年)に政則が死すと則宗は養嗣子義村を立て、その権勢は主家を凌ぐようになった。しかし、美作守護代であった中村則久を無理やり辞めさせて基景に美作守護代職を引き継がせようと目論むなど専横甚だしく赤松家中の一部の人間と対立を深める。

明応8年(1499年)、浦上氏庶流の中山城主浦上村国がついに則宗打倒の兵を挙げると則宗も兵を出し、播磨と備前の国境付近で戦が起こる。この野戦に惨敗して窮地に立たされた則宗は白旗城に追い詰められるが宇喜多能家の働きもあってどうにか村国の兵を退け、結局痛み分けという形でこの戦は終息する。しかし、これに始まる村国と浦上本家の対立は則宗死後も20年以上に亘って残る遺恨となる。
文亀2年(1502年)に死去。享年74。浦上氏の家督は祐宗が継いだ。

109とはずがたり:2014/01/08(水) 14:52:03
<赤松・小寺・浦上④>

浦上村宗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E6%9D%91%E5%AE%97
浦上氏は紀長谷雄の子孫(紀貫之の子孫との説もある)で、播磨国揖保郡浦上郷(浦上庄)が苗字の地である。鎌倉時代末期、ここ播磨から赤松則村(円心)が史上に現れると、浦上氏もその麾下として活動した。

(村宗は)則宗の養嗣子である浦上祐宗の跡を継いで浦上氏の当主になったと見られるものの、肝心の家督相続の経緯、時期については永正年間前半の祐宗、村宗の動向を示す史料が少ない為、はっきりしない。
そもそも、浦上家中における村宗の立場についても判明していない。

主家では赤松政則の死後、その養子である赤松義村が幼年であったこともあり、政則後室である洞松院の後見や、浦上氏などの支持を受ける形で、播磨・備前・美作の守護職に就いた。その後、義村は成長するにつれ、大きく勢力を伸張させた守護代 浦上氏に惧れを抱き、また自立の機会を窺っていた。
永正14年(1517年)、この頃よりようやく政務に参加するようになった義村は、2人の宿老(浦上村宗、小寺則職)と義村の3人の側近(櫛橋則高・志水清実・衣笠朝親)から構成される新体制を布く。しかし、この新体制は 「宿老の専横抑制と義村自身の発言力の強化」 を狙う意図が見え透いていたため、村宗は義村に反発するが、さらにもう一人の宿老である則職とも対立してしまう。これにより則職や3人の側近による讒言で立場を悪くした上に、これを重んじた義村によって、出仕差し止めという仕置きを下されてしまった。

このように、あからさまな赤松氏の権力機構からの排斥行為に怒った村宗は、宇喜多能家などの家臣らと共に備前へと帰り、三石城に籠もって赤松氏への反旗を翻した。
永正16年(1519年)冬。この謀反を、自身の更なる権力強化の好機ととらえて征伐軍を動員した義村によって、三石城を包囲された。しかし、村宗も赤松氏と敵対関係にあった備前の最大国人 松田元陸と密かに結ぶなど対策を講じていた。結局、後詰めに元陸が現れるとの報も功を奏し、要害の地に築かれた堅守の三石城を攻めあぐねていた義村の撃退に成功した。
しかし翌年の永正17年(1520年)にも、討伐軍(義村自身の出征ではなく、小寺城主 小寺則職を主将)に再攻される。この時の討伐軍は浦上氏の本拠への攻撃よりも、浦上派へ転身した美作守護代の中村則久など浦上派の諸城への攻撃が優先されており、浦上派の弱体化を意図したものであった。

当初は美作の浦上派諸氏を圧倒する討伐軍(赤松派)の優勢に思われたが、村宗の命を受けた宇喜多能家が遊撃戦で赤松軍を度々撹乱。また、中村則久が籠もる堅牢で岩屋城も、十分な備蓄により200日余の包囲を耐えしのぎ陥落しなかった。やがて決め手が無いまま美作へと兵を送る赤松軍に対して、村宗は一転して松田元陸と共に本格的な攻勢に転じ、美作へ出征してきた赤松軍の背後を襲撃。さらに赤松軍の赤松村景などを懐柔して離反させる事にも成功。討伐に押し寄せた赤松軍を逆に弱体化させた末に、大将である●小寺則職を含む200人余りを討って討伐軍を壊滅に追い込む。この勝利により義村の威信失墜に大きな影響を与え、主従の武力関係すら逆転させた村宗はその後、播磨への反撃侵攻に転じている。やがて軍事的圧迫を嵩(かさ)に、同年11月には義村から嫡子才松丸を引き渡させた上に、義村自身を強制隠居にまで追い込んだ。そして、当時8歳の才松丸改め赤松政村(後の赤松晴政)に赤松氏の家督を継がせると、自らこの後見人となった。

翌永正18年(1521年)の正月、足利亀王丸を奉じた義村により再挙兵されるも、これを撃破。亀王丸の確保を目論む村宗は、嘘の和睦の持ちかけに応じた義村を和解の席で捕縛し、播磨の室津に幽閉した。しかし村宗は非情な決断を下し、元号が大永に変わった同年9月には、刺客を放って幽閉先の義村を暗殺させた。これにより名実ともに、播磨・備前・美作の支配権を奪って戦国大名への道を歩み始めた。
その頃、亀王丸は管領の細川高国に請われて上洛を果たすと、足利義晴として征夷大将軍となっている。

ただ、影響力を拡大させた浦上氏ではあったが、その権力の拠り所はいまだ赤松氏に依存する所が大きく、完全に下克上を果たしたとは言えなかった。結局の所は赤松の当主に傀儡を立てて、その影で権力を行使するという形でしか支配の正当性を担保出来なかったのである。また但馬の山名誠豊からの播磨侵攻を受けた際には、赤松氏との共闘も見せているが、山名氏の脅威が去った後は成長して村宗の専横に反発するようになった政村と、それを支援する浦上村国など一族の有力者と争いつつ、政村を置塩城より追放し、美作国へ追いやったこともある。

110とはずがたり:2014/01/08(水) 14:54:31
黒田官兵衛の主君だったと云う小寺氏を調べようと思ったら嘉吉の乱から両細川の乱が繋がってきた♪

<赤松・小寺・浦上④>
>>108-110

松田元陸
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%85%83%E9%99%B8

祖父の松田元成>>107の戦死以降、赤松氏、浦上氏との対立が根深い松田氏であったが永正16年(1519年)、赤松義村と対立し三井城に籠もった浦上村宗と元陸は密かに同盟し、村宗と義村の対立騒動では常に村宗方に味方し、村宗の赤松家中の実権掌握の一助を担う。 それにより元陸の権力も強まり、大永2年(1522年)、将軍足利義晴により侍所所司代に命ぜられる。後に日蓮宗妙覚寺の別当も務めた。
享禄4年(1531年)、将軍足利義晴の命により天王寺合戦に参加、赤松政祐の裏切りで村宗や細川高国もろとも戦死した。

111とはずがたり:2014/01/08(水) 15:45:10
観応の擾乱は日本史の中でも可成り格好いい名前だと思ってるけど応永の錯乱もなかなか良い味出しているw
両細川の乱という言い方の方が好きだけど。

<永正の錯乱①>

三好之長
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E4%B9%8B%E9%95%B7

阿波でも最有力の国侍だったという三好長之の嫡男として誕生、阿波守護であった細川氏分家・讃州家の細川成之に仕えた。

応仁の乱で幕府の権威が失墜し畿内ではたびたび一揆が起こり出すが、之長はそれらの一揆の人心の機微を掴んで煽動したり指導したりしたとされる。文明17年(1485年)6月11日には捕えられた盗人を奪い返そうとして勝元の子・細川政元に慰留され、8月に京都で土一揆が起こると之長は一揆の張本と目されて、8月9日に政元や侍所所司代多賀高忠らに宿所を包囲されるが、前夜に事態を察した之長は細川政之の下に逃げ込んで庇護を求め、政元らは政之の屋敷を包囲して身柄の引き渡しを求めたが、政之は拒絶あるいは之長を誅したと述べたので、政元は包囲を解いて退散した。するとこの翌日からは再び一揆を煽動し、14日には土倉を襲って質物を奪ったとまでいわれている。

若年の政之への讃州家継承による家中の動揺の最中に生じた之長の一連の事件は、政之と之長に対する讃州家家臣の不満を高め、一部の家臣は勝手に阿波に下向して反乱を計画するようになった。

10月に不穏となった阿波へ政之と共に帰国して反乱を鎮圧、何事も無かったかのように上洛した。之長が処罰されなかった理由は成之・政之父子から貴重な人材と目されていたからであり、土一揆の構成員に大名の家臣が紛れ込んでいるのは珍しくなく、彼らを処罰すれば軍事力の低下を招く恐れがあったからである。之長は土一揆の騒動で一躍京都で名を知られるようになっていった。

長享2年(1488年)に政之が早世した後、之長はその弟の義春に仕えるも、明応6年(1497年)に義春も早世すると義春の長男である之持が阿波守護となり、祖父成之がそれを補佐する体制がとられた。また、之持の弟澄元は実子が無かった政元の養子に迎えられ、永正3年(1506年)2月19日には澄元の先陣として之長は入洛した。この際の事を『多聞院日記』では「三好之執事」と記しているため、之長は阿波守護家から京兆家に転身する事になった澄元に仕えて、この頃までには補佐の地位にあったようである。

以後は政元の命を受けて数多くの戦いに参加、8月には大和に出兵していた●赤沢朝経の支援を命じられて出兵。行政面でも澄元の執事として年貢徴収の紛争問題の解決に着手しており、『多聞院日記』では20年前に京都で一揆を指導して暴れていた頃に較べて「隠(穏)便也」と評している。だがこのように次第に実力をつけ出した事は周囲の妬みを生む事にもつながり、淡路守護の細川尚春や政元の養子・澄之の執事で山城守護代であった香西元長との権力争いが生じた。

之長は主君・政元の後継者問題においては澄元を支持、永正4年(1507年)には政元・澄元に従って丹後の一色義有攻めに参戦している。5月29日に政元が帰洛すると澄元と共に従ったが、6月23日に政元が香西元長や薬師寺長忠によって暗殺され、仏陀寺を宿所としていた之長は翌24日に元長らによって澄元と共に襲撃された。之長は澄元を守って近江の青地城に逃れ、甲賀郡の山中為俊を頼って落ち延びた。

元長と長忠は澄之を京兆家の当主に擁立したが、8月1日に細川一族の細川高国や尚春、政賢らの反撃を受けて全員討たれた。翌日の2日に之長は近江から帰洛し、澄元と共に11代将軍足利義澄を擁立して権勢を掌握した。この時、京兆家当主となった澄元より之長は政治を委任されたという。

だが、之長と澄元の仲は必ずも円満では無かった。幕政の実権を掌握した之長には増長な振る舞いが多かったため、澄元は13日に本国の阿波に帰国しようとしたほどで、16日には遁世すると言い出した。この時は澄元の帰国で将軍職を追われることを懸念した義澄の慰留と、澄元の命令に応じて之長が被官の梶原某を処刑することで収拾され両者は和解したようであり、27日に澄元が尚春の屋敷の能興行に招待された際、之長は太刀持ちとして従っている。またこの後、之長は剃髪して喜雲と号し、澄元の執事職は嫡男の長秀に譲っている。

112とはずがたり:2014/01/08(水) 15:51:50

<永正の錯乱②>

永正の錯乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%8C%AF%E4%B9%B1

永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は、戦国時代初期の永正4年(1507年)、細川政元の暗殺を発端とする室町幕府管領細川氏(京兆家)の内訌である。細川氏が幕府の権力を掌握していたため、将軍職をめぐる抗争も絡んで、畿内は長い対立抗争状態へ突入していく(両細川の乱)。

明応2年(1493年)、管領・細川政元は10代将軍・足利義材(後に義尹、さらに義稙と改名)を廃立して当時少年だった足利義高(後に義澄と改名)を11代将軍に擁立した(明応の政変)。専制権力を樹立した政元であったが、女人禁制である修験道の修行をしていたために実子はおらず、兄弟もいなかったため京兆家(細川一門本宗家)には政元の後継者がなく、関白・九条政基の末子の澄之、細川一門の阿波守護家から澄元、さらに京兆家の分家の野州家から高国の3人を迎えて養子にしたため、分裂抗争の芽を胚胎することとなった。
永正3年(1506年)、摂津守護となった澄元が実家の阿波勢を率いて入京し、その家宰三好之長が政元に軍事面で重用されるようになると、これまで政元政権を支えてきた「内衆」とよばれる京兆家重臣(主に畿内有力国人層)と、阿波勢との対立が深まる。

永正4年(1507年)6月23日、修験道に没頭して、天狗の扮装をするなど度々奇行のあった細川政元は、魔法を修する準備として邸内の湯屋に入ったところを、澄之を擁する内衆の▲薬師寺長忠・香西元長・竹田孫七らに唆された祐筆の戸倉氏によって殺害された(細川殿の変)。さらに翌日、長忠らは澄元・三好之長の屋敷に攻め寄せ、澄元らを近江に敗走させ、主君として澄之を迎えて細川氏(京兆家)家督を継がせた。6月26日には、政元の命令を受けて丹後の一色義有を攻めていた●赤沢朝経が軍を京都に撤退させようとしたが、一色義有や丹後の国人石川直経らの反撃を受け、自害に追い込まれた(養子の長経は逃げ延び、澄元の配下になる)。
しかしもう1人の養子・高国は、一族の摂津分郡守護細川政賢や淡路守護細川尚春、河内守護畠山義英と語らい、政元の後継者を澄元とすることで合意をみた。

まず7月28日、薬師寺元一(弟・長忠に滅ぼされている)の子・万徳丸は▲長忠の居城茨木城を攻め落した。続いて翌29日、細川高国らは香西元長の居城嵐山城を攻め落とした。そして8月1日、逃亡先の近江甲賀郡の国人らを味方に引き入れ急ぎ京に戻った三好之長が、細川澄之の最後の砦となっていた遊初軒を高国勢とともに一気に攻め落したため澄之は自害した。翌2日、澄元は将軍に拝謁し、細川京兆家の家督と管領職を継いだ。

細川澄之
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%BE%84%E4%B9%8B

延徳3年(1491年)2月13日、生後2歳にして独身のため実子の無かった管領・細川政元の養子となり、細川京兆家の世子が代々称した聡明丸を幼名として名乗る。文亀2年(1502年)9月、養父・政元から正式に嫡子(家督継承者)に指名され、丹波守護職を与えられた。ところが政元と聡明丸(澄之)の両名は折り合いが悪かったようで、翌文亀3年(1503年)5月、政元は澄之を廃嫡し、阿波守護家の細川義春の子・六郎(改め細川澄元)を新たに養子に迎えて後継者に指名した。更に翌年の永正元年(1504年)に元服、★母方の従兄弟で室町幕府11代将軍の足利義澄[2]より偏諱を賜り、澄之と名乗る。

永正3年(1506年)には養父・政元の命令に従って丹後の一色義有討伐に赴いて賀悦(の石川直経)を攻めたが、敵方と内通して落城を装い、兵を退いた。

永正4年(1507年)6月、政元の被官・香西元長・薬師寺長忠らが政元を暗殺する永正の錯乱が起こる。元長・長忠らは澄元の暗殺も計画したが、澄元は家宰の三好之長の機転によって近江に逃亡した。澄之は(香西)元長らに迎えられて丹波から上洛し、政元の葬儀を催して、将軍・義澄から細川管領家(京兆家)の後継者と認められた。事件は、澄之を新たな京兆家当主として擁立することで三好之長ら阿波の勢力を排除したい元長・長忠ら京兆家被官が中心的な役割を果たしていたとされる。しかし、先に澄之が落城を装った賀悦城の石川直経が、一色を包囲中の●赤沢朝経を首尾よく襲って敗死させるなどしており、事件以前から澄之も通謀し、周到に準備された計画であったことがわかる。

澄之・澄元の後に同じく政元の養子となっていた細川高国は、細川氏の一族をまとめ、高屋城の畠山氏らをも引き込んで、畿内近辺の勢力を糾合することに成功する。近江に逃れた澄元と三好之長は、遅れ馳せながら近江の国人を味方に引き入れ8月1日には京都に攻め上った。その戦功により澄之方の主将、一宮兵庫助が討たれると、敗戦が明らかになった澄之は自決した。享年19。(香西)元長や▲長忠らも戦死し、澄之政権はわずか40日で崩壊した。

113とはずがたり:2014/01/08(水) 15:52:17

<永正の錯乱③>

足利義澄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BE%84

父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。

清晃は明応2年(1493年)4月の明応の政変で義材を追放した管領・細川政元や日野富子、伊勢貞宗らによって擁立され、故義政の猶子とされて11代将軍に就任する。しかし、実権は政元や富子、貞宗らに握られていた。
ところが、富子が死去し、義澄も成長すると自ら政務を行おうとして政元と対立、文亀2年(1502年)2月には政元が管領を辞任する意向を示して丹波国(後に山城槇島城)に下って義澄に慰留され、8月には義澄が岩倉の金龍寺(妙善院)に引き籠ってしまった。復帰を求める政元や伊勢貞宗に対して、義澄は武田元信の相伴衆登用や京都に滞在していた義材の異母弟の実相院義忠の処刑を求め、政元もこれを認めた。

義忠殺害によって政元は義澄に代わる将軍候補を失ったことで義澄を廃することが不可能となり、しばらくは義澄と政元は政治的には対立しつつも協力関係を維持し続けた。 また、永正元年(1504年)に細川氏家臣である摂津守護代・■薬師寺元一が政元によって守護代を更迭されそうになった時には義澄が政元に解任の中止を命じている。

永正4年(1507年)に政元が暗殺され細川氏(京兆家)の家督をめぐる内訌が生じ(永正の錯乱)、翌永正5年(1508年)4月、前将軍・義尹(義材より改名)を擁立する大内義興の軍が上洛してくるとの報により、近江国の六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城に逃れた。7月、義澄は将軍を廃され、義尹が将軍に返り咲いた。

その後、再び勢力を盛り返そうとして細川澄元、三好之長・長秀父子を京都に侵攻させるなどしたが、その度に細川高国・大内義興・畠山尚順らに敗れた。また、義尹の暗殺を謀ったりもしたが失敗している。永正7年(1510年)には義尹の命を受けた高国・義興らの近江侵攻を受けるが、近江国人衆を糾合した軍勢でもって勝利した。さらに豊後国の大友親治や播磨国の赤松義村らに援助を求める御内書を送るなどして、将軍復帰を目指した。
しかし、永正8年8月14日(1511年9月6日)、義尹・高国・義興との決戦(船岡山合戦)直前に水茎岡山城で病死した[11]。享年32(満30歳没)。
義澄の死から9日後の8月23日に船岡山合戦が勃発、細川澄元・三好之長・赤松義村らが敗れて義尹の将軍職が確定した。両陣営はその後和睦、義澄の2人の息子義晴、義維はそれぞれ赤松義村、細川之持(澄元の兄)に引き取られた。


■薬師寺元一 もとかず
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA%E5%85%83%E4%B8%80

細川氏の重臣。細川政元に仕え、その偏諱を賜って元一と名乗る。通称、与一。子に国長。
薬師寺元長の実子、または養子、さらに甥とも言われる説があり、詳細は不明である。明応9年(1500年)、政元の命令により河内の★畠山義英を助けて★畠山尚順を破るという武功を挙げた。文亀元年(1501年)に元長が死去したため、家督を継いで摂津守護代となり、細川政元に仕えた。文亀3年(1503年)、政元の命令により、阿波細川家から細川澄元を養子に迎える交渉を果たしている。

ところが永正元年(1504年)閏3月に政元が突如、■元一を守護代から解任しようとする。ところが、将軍・足利義澄がこの人事に介入して政元に命じて解任を中止させ、元一は義澄に馬や太刀などを贈っている。同年9月、●赤沢朝経と共に政元を廃して澄元を擁立しようという陰謀を企て、摂津で挙兵する。しかし弟の▲長忠らに攻められて破れ、居城の淀城は落城して捕縛され、政元の命令で京都に送られて自害を余儀なくされた。享年28。

114とはずがたり:2014/01/08(水) 15:52:47
<永正の錯乱④>
>>111-115

▲薬師寺長忠
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA%E9%95%B7%E5%BF%A0

細川氏(京兆家)の重臣で摂津守護代。
父元長の死後、薬師寺家当主の座と摂津守護代職は共に兄の薬師寺元一が継いでいた。しかし元一が永正元年(1504年)に細川政元の養子の一人である澄元を擁立すべく挙兵した際にこれを鎮定し、その功によって守護代職と家督は長忠が跡を継いだ[1]。
永正4年(1507年)6月23日、香西元長・竹田孫七らと謀って政元を暗殺する(永正の錯乱)。そして政元の養子である細川澄之を擁立した。これは長忠が政敵である三好之長を排除するため、之長を重用する政元を殺害して細川家の権力を握ろうとしたとする説が有力である。
しかし約40日後の8月1日、細川高国方に属していた甥(元一の子)の万徳丸(薬師寺国長)に茨木城で攻撃を受けて敗北し、澄之や香西元長らと共に討死した。

●赤沢朝経
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%B2%A2%E6%9C%9D%E7%B5%8C

家系は小笠原氏の庶流赤沢氏。赤沢氏の本拠地は信濃塩崎城で、朝経は家督を嫡子の政経に譲って上洛。本家小笠原氏に倣って「糾法(弓法)的伝」(小笠原流)を室町幕府の管領細川政元に伝授した縁で、8代将軍足利義政の弓道師範、更に武者所を兼任するに至った。 また、既に政元に従っていた一族の縁故を頼ったともいわれている。

延徳3年(1491年)に10代将軍足利義稙(義材、義尹)の六角高頼征伐(長享・延徳の乱)に従軍した際、政元に鷹狩の技能を認められてその被官となった。そして外様の内衆として山城・河内・大和など各地を転戦して武功を挙げ、山城上三郡守護代や幕府料所河内十七箇所の給人、妙法院領河内八箇所の代官、近衛家領山城五ケ庄の代官などに任じられている。

明応8年(1499年)7月には足利義稙に呼応する動きを見せた比叡山延暦寺を波々伯部宗量と共に焼き討ちするように政元に命ぜられ、11日に一斉に比叡山に攻め上り山上の主要伽藍を全焼させた。9月には河内で義稙派として挙兵した畠山尚順に呼応した筒井順賢・十市遠治ら大和国人衆を牽制するため山城南部へ急行、御牧城・水主城・槇島城を落とした。12月に大和国人衆追討に向かい山城から大和へ乱入、喜光寺や法華寺・西大寺・額安寺などを焼き討ちして大和北部を占領した。翌明応9年(1500年)に大和の所領支配を強めたり、9月に畠山尚順を撃破して軍事行動を繰り返した一方、圧力を受けた興福寺は文亀元年(1501年)2月に神木を動座して朝廷から撤退を要求されたが、翌文亀2年(1502年)にも平然と大和に出兵している。

永正元年(1504年)3月、政元に反逆するが、■薬師寺元一の取り成しによって6月赦免されて上洛。次いで同年9月元一が主君政元の廃立と養子である細川澄元の擁立を企てるとこれと結託したが、元一の弟・▲薬師寺長忠らによって鎮圧されて捕らえられた。しかしその豪勇を政元から惜しまれて助命され、翌永正2年(1505年)には罪を許され山城上三郡守護代に復帰した。

以後も政元の家臣として活動、永正3年(1506年)に1月に★畠山義英や★畠山尚順らを破り、7月に古市澄胤の手引きで再度大和に侵攻、再び法華寺を焼き、菩提山正暦寺、多武峰なども焼いて寺社勢力をも平定する。さらに三好之長と共に畿内各地に転戦して細川氏の勢力拡大に貢献した。
永正4年(1507年)、政元の命令を受けて丹後の一色義有を攻めるが、その戦いの最中に永正の錯乱の発生を知ると、軍を京都に撤退させようとしたが、反撃を受け、6月26日に自刃した。従軍していた養子の長経は生還、澄元の部将として仕えた。

115とはずがたり:2014/01/08(水) 15:55:20
永正の錯乱だけでなかなか両細川の乱にたどりつけんw

>>97-99辺りで一度さらっと見てるんだけど。。

116とはずがたり:2014/01/08(水) 16:06:56
澄元の養子にはこんなきっかけがあったのか。。

細川成之しげゆき
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%88%90%E4%B9%8B

出家した成之は翌年1月15日に諸国漫遊の旅に出発(『晴富宿禰記』)して熊野などへ参詣を果たすが、突然の出家・引退に家中は動揺し、中には政之の追放を策する家臣まで登場したため、成之は急遽帰還している(『雅久宿禰記』文明11年8月11日条・『大乗院寺社雑事記』文明11年12月6日条)。その後も政之と家臣達の対立は続き、政之が徳政一揆を扇動したとされた三好之長を処罰するどころか却って重用したことが、東條氏・飯尾氏などの他の在京重臣の反感を買い、文明17年7月16日には彼らは成之父子に背いて阿波に帰国(『十輪院内府記』)し、同年10月に現地で反乱を起こした(『蔭涼軒日録』文明17年10月12日条)。このため、成之・政之は急遽阿波に下向して反乱を鎮圧した。

長享2年(1488年)に京都にて政之が早世したため次男の義春が後を継いだが、当時成之は阿波において反乱の後処理をしていたために西山宝光院で行われた政之の葬儀に参列することができなかった。明応6年(1497年)に義春も亡くなり、孫の之持が若年のため後見を務めた。

永正元年(1504年)、政元の重臣薬師寺元一が管領細川政元追放を図って反乱を起こして政元に討たれる。政元は背後に成之の存在を疑って討伐を計画し、反対に成之の重臣・三好之長が先制を期して政元側の拠点である淡路を攻撃、政元も讃岐・阿波に討伐軍を派遣して自身も淡路まで兵を進めた。その後、成之のもう一人の孫である澄元を政元の養子に迎える事で和解し、翌永正3年(1506年)澄元と補佐にあたる三好之長が上洛した。

ところが、永正4年(1507年)に政元が暗殺されて後継者争い(両細川の乱)が発生すると、自分が再興した丈六寺で禅僧として過ごしていた成之も孫の澄元を支えるために奔走する。だが、永正8年(1511年)の船岡山の戦いで細川高国に敗北した澄元は阿波に帰還し、成之も同年に78歳で死去した。

117とはずがたり:2014/01/15(水) 12:29:39
伊勢貞親
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E8%B2%9E%E8%A6%AA

8代将軍足利義政を幼少の頃から養育し、嘉吉3年(1443年)には管領畠山持国の仲介で義政と擬似父子関係を結んだ。享徳3年(1454年)に家督を相続、同年に発生した土一揆への対処として考案された分一銭制度の確立などを通じて幕府財政の再建を成功させ、義政の信任を得た。また、政所執事には就任していなかったが(文安6年(1449年)から二階堂忠行が在任)、義政から収入と支払の権限を与えられ幕府財政を任され、政所の裁判に携わる官僚の人事権や将軍の申次衆も一族で固めて政所の実権を握り、奉行衆・番衆・奉公衆の指揮権も任され幕府の政治・軍事も掌握、親政を目指す義政にとって無くてはならない存在となっていった。

康正元年(1455年)頃から義政の御内書http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1121850928/87-89に副状を添えるようになり、それまでは管領細川勝元が発給していた副状に代わり義政の御内書発給数が上回り、幕府奉行人の管轄が管領から貞親(将軍)へ移動、奉行人奉書または御内書を通して義政の親政を支え勝元を牽制、軍事でも義政の補佐役を務めた。寛正元年(1460年)に享徳の乱で混迷していた関東諸大名の取次ぎも任され、同年に二階堂忠行に代わり政所執事に就任し、禅僧の季瓊真蘂らと共に政務の実権を完全に握った。

寛正4年(1463年)、義政の母日野重子が死去を口実に斯波義敏・畠山義就を義政を通して赦免させ、寛正6年(1465年)に勝元が敵対した大内政弘討伐を要請した時は、表向き義政が政弘討伐命令を下す一方で裏から政弘を支援、勝元との対立が激化した。寛正6年(1465年)に義政の正室日野富子が男子(義尚)を産むと義尚の乳父となる。

この頃問題となっていた斯波氏の斯波義敏と斯波義廉の家督争い(武衛騒動)にも介入し、文正元年(1466年)に貞親らは義政に進言して斯波家家督を義敏に与えさせるが、山名持豊(宗全)や義敏派であった勝元らが義廉支持に回り、貞親と敵対した。また、義尚の誕生によって、次期将軍に決定していた義政の弟足利義視と義尚の間で将軍後継問題が発生すると、義尚の乳父であった貞親は義視を排斥するために義視謀反の噂を流すが、義視が勝元を頼ると讒訴の罪を問われ近江、次いで伊勢へ逃れた。同時に真蘂や義敏、赤松政則ら貞親派とされた者も失脚した。これを文正の政変と言う。

翌応仁元年(1467年)、勝元率いる東軍と宗全率いる西軍の間で戦端が開かれ応仁の乱が起こると、義政に呼び戻され6月に伊勢から上洛、翌応仁2年(1468年)閏10月に正式に復帰した。しかし復帰に反発した義視が同年11月に出奔して(←義視の西軍寝返りはこれだったのか。)西軍に擁立され、戦乱が長期化する事態となった(弟の貞藤も西軍に鞍替えした)。復帰したとはいえかつてのように重要任務を任されることはなく、西軍の部将朝倉孝景の帰順交渉を担当したこと以外に目立った活動は無く、文明3年(1471年)に出家して政務を引退し(交渉は浦上則宗>>108に交代)、2年後の文明5年(1473年)に若狭で死去した。享年57。

応仁の乱の原因を作った1人とも言われ、『応仁記』では賄賂を横行させ淫蕩に感け、幕府の治世を腐敗させた悪吏として指弾されている。一方で、貞親ら側近勢力こそが義政の政権運営を支えた中核的存在であり、文正の政変による貞親ら側近勢力の排除が義政の政務放棄の一因となったとする見方もある。貞親が逼塞した期間に義政は御内書を発給できず、復帰後も勝元ら細川一族が幕府に無断で軍事関係の書状を内外に発給したため幕府の軍事権限は縮小、応仁の乱後に幕府の権力が低下するきっかけとなった。

118とはずがたり:2014/01/15(水) 12:30:09
伊勢貞宗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E8%B2%9E%E5%AE%97

文正元年(1466年)に父貞親が足利義視暗殺計画に失敗して京都から出奔したため(文正の政変)、8代将軍足利義政の命令で家督を継いで政所執事となった。応仁2年(1468年)に貞親が京都に戻ってくると執事職を父に返還したが、文明3年(1471年)に父が出家すると再び執事となった。
専横の振る舞いが目立った父貞親と違って温和な性格だったことから義政の信任も厚く、足利義尚の養育係に任じられ、義尚が9代将軍に就任すると幕政全般を統括するまでに至った。応仁の乱後に起こった山城国一揆では山城守護に任じられた息子貞陸の補佐にあたっている。しかし義尚、義政らが相次いで死去すると、延徳2年(1490年)に家督と執事職を貞陸に譲って隠居し、以後は著作・文芸活動に専念した。
ただし、明応の政変で義尚の従弟の10代将軍義材(義稙)が廃位され足利義澄が11代将軍に就任すると、日野富子の意向もあってその後見人的な立場に就いており、政変で幕府の実権を握ったとされる管領細川政元も貞宗の存在を無視できなかったという。
永正6年(1509年)10月28日に死去した。享年66。

足利義澄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BE%84
文明12年12月15日(1481年1月15日)、堀越公方・足利政知の子として生まれる。当時、政知の嫡男で異母兄の茶々丸が堀越公方の後継者としていたために、文明17年12月(1486年1月)、叔父義政の意向で天龍寺香厳院の後継者に定められ、文明19年(1487年)6月、上洛、出家して法名を清晃と名乗る。従弟の9代将軍・足利義尚が死去し翌年に義政も死去して室町将軍の座が空位となると、清晃も後継者候補の1人に挙げられたが、この時は義政の未亡人・日野富子の推挙で従兄で伯父・足利義視の子である足利義材(のちの義尹)が10代将軍に迎え(代わりに)富子は清晃には自分が義尚と暮らしていた小川殿を譲ることにするが,延徳2年(1490年)4月27日にこの意向が示されると、義材の父である義視は富子が清晃を次期将軍に立てる準備と疑い、翌月に小川殿を破却してしまった。これをきっかけに義材と富子との関係は悪化してゆく。そして明応2年(1493年)4月の明応の政変で義材を追放した管領・細川政元や日野富子、伊勢貞宗らによって清晃が擁立され、故義政の猶子とされて11代将軍に就任する。しかし、実権は政元や富子、貞宗らに握られていた。

ところが、富子が死去し、義澄も成長すると自ら政務を行おうとして政元と対立、文亀2年(1502年)2月には政元が管領を辞任する意向を示して丹波国(後に山城槇島城)に下って義澄に慰留され、8月には義澄が岩倉の金龍寺(妙善院)に引き籠ってしまった。復帰を求める政元や伊勢貞宗に対して、義澄は武田元信の相伴衆登用や京都に滞在していた義材の異母弟の実相院義忠の処刑を求め、政元もこれを認めた。
義忠殺害によって政元は義澄に代わる将軍候補を失ったことで義澄を廃することが不可能となりこの後は義澄と政元は政治的には対立しつつも協力関係を維持し続けた。

永正4年(1507年)に政元が暗殺され(永正の錯乱)、翌永正5年(1508年)4月、前将軍・義尹(義材より改名)を擁立する大内義興の軍が上洛してくるとの報により、近江国の六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城に逃れた。7月、義澄は将軍を廃され、義尹が将軍に返り咲いた。
その後、再び勢力を盛り返そうとして細川澄元、三好之長・長秀父子を京都に侵攻させるなどしたが、その度に細川高国・大内義興・畠山尚順らに敗れた。また、義尹の暗殺を謀ったりもしたが失敗している。永正7年(1510年)には義尹の命を受けた高国・義興らの近江侵攻を受けるが、近江国人衆を糾合した軍勢でもって勝利した。さらに豊後国の大友親治や播磨国の赤松義村らに援助を求める御内書を送るなどして、将軍復帰を目指した。
しかし、永正8年8月14日(1511年9月6日)、義尹・高国・義興との決戦(船岡山合戦)直前に水茎岡山城で病死した。享年32(満30歳没)。
義澄の死から9日後の8月23日に船岡山合戦が勃発、義澄方の細川澄元・三好之長・赤松義村らが敗れて義尹の将軍職が確定した。両陣営はその後和睦、義澄の2人の息子義晴、義維はそれぞれ赤松義村、細川之持(澄元の兄)に引き取られた>>109

119とはずがたり:2014/01/15(水) 12:30:44

伊勢貞陸(みち)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E8%B2%9E%E9%99%B8

文明18年(1486年)5月に山城守護に補任され、長享元年(1487年)11月に解任されたが延徳2年(1490年)に父から家督と政所執事職を譲られ、11代将軍足利義澄に仕えた。
明応2年(1493年)3月に山城守護に再任、翌3年(1494年)10月まで務めたが、貞陸が守護に任命された背景は、応仁の乱以降諸国からの収益が途絶えた幕府が山城の幕府領から伊勢氏を介して収益を獲得、新たな財源とする狙いがあったのではないかとされている。また、伊勢氏は被官の進藤氏と繋げて山城国一揆と協調関係を結んでいたとも言われている。

山城守護在任中は古市澄胤を南山城の守護代に任じて山城国一揆を弾圧した。この出来事は細川政元に廃位されていた前将軍足利義稙が上洛を図ったため(義稙に対抗する為?)強引に幕府の財源確保を強行して反発した国一揆を討伐したためであった。
永正5年(1508年)、義稙が周防・長門の大内義興に擁立されて上洛、近江へ逃れた義澄には従わず引き続き政所執事を務め、永正18年(1521年)に死去、享年59。

足利 義稙(たね)・義材・義尹(ただ)①
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E7%A8%99
室町幕府第10代将軍。将軍在職:延徳2年7月5日(1490年7月22日)-明応3年12月27日(1495年1月23日)及び間に約13年半の逃亡生活を挟み永正5年7月1日(1508年7月28日)-大永元年12月25日(1522年1月22日)

はじめ義材(よしき)と名乗り、伯父義政の死後に第10代将軍に就任する。

当初、政治の実権を握っていて「大御所」と称した父義視が延徳3年(1491年)1月に死去した後は、前管領・畠山政長と協調して独自の権力の確立を企図する。しかし擁立の功労者であった義政の未亡人・日野富子や、もともと清晃支持派である細川政元(一時管領となったがすぐに辞任)とは対立を生じることになった。同年8月、義尚の遺志を継ぎ、政元の反対を押し切って六角高頼征伐を再開、みずから近江に出陣して高頼の追放に成功している。明応2年(1493年)2月には、応仁の乱終結後も分裂状態が続いていた畠山氏で、畠山政長の対抗者・畠山義就が死去したのに乗じて、義就の後継者・義豊を討伐するため、畠山政長らを率いて河内に赴いた。

しかし義材が京都を留守にしている間に、京都に残っていた政元・富子・伊勢貞宗らは同年4月、清晃を11代将軍に擁立して、義材を廃するクーデター(明応の政変)を起こした。京都では義材派の人々の粛清が行われて市中は騒然となり、自分が任命した将軍の廃立に怒った後土御門天皇は一時は抗議のため退位を表明し、その後も政変をなかなか承認せず、そのため清晃の征夷大将軍宣下は政変から8ヶ月以上経った12月27日に行われた。

政元は軍隊を河内に派遣して義材と畠山政長を打ち破り、政長は自殺した。義材は尊氏以来足利家に伝わる家宝の甲冑「御小袖」と「御剣」だけを携えて政元の家臣・上原元秀の陣に投降し、京都に連れ戻されて龍安寺に幽閉された。
将軍職を廃され幽閉された義材は小豆島へ流されることを知り、同年6月29日に側近らの手引きで京都を脱出して政長の領国である越中の放生津に下向し、政長の家臣・神保長誠を頼ったため越中公方(越中御所)と呼ばれた。この時の義材は単なる無力な逃亡者ではなく、越中でそれなりの陣容を整えた政権を樹立していることから、後の足利義維の「堺幕府」や足利義昭の「鞆幕府」にならい「放生津幕府」と呼ぶこともある。
明応7年(1498年)9月に政元側との和睦交渉が進展したという認識から、義尹と改名した義材は越前の朝倉貞景のもとへ移った。ところが政元との和睦は不調となり、朝倉貞景や政長の子・尚順と同調して軍事攻撃による上洛へ方針転換した。一時は近江まで迫ったが、近江坂本で六角高頼に敗れ、河内に逃れたがここでも政元に敗れて、かつて大内家が応仁の乱で父を奉じて西軍に属した縁に頼って周防に逃れ、大内義興のもとに身を寄せた。畠山尚順も河内を失って紀伊に逃れた。

120とはずがたり:2014/01/15(水) 12:31:16
>>117-120

足利 義稙(たね)・義材・義尹(ただ)②
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E7%A8%99

後に周防国の大内義興の支援を得、その軍事力に頼って京都を占領、永正5年7月1日(1508年7月28日)将軍職に復帰する。だが、義稙の政権は管領となった高国や管領代と称された大内義興らの軍事力によって支えられていたため、親政志向の強い義稙としては、意のままにならないことも多く、永正10年(1513年)3月には細川・大内・畠山の諸氏と対立した義稙が一時京都を出奔して近江甲賀郡に逃れた上、当地で病を発した。回復後の同年5月に和解が成立して義稙は京都に戻った。永正15年(1518年)8月に義興が領内の事情などから管領代を辞して帰国すると、残された義稙と高国は次第に対立を深めていった。第12代将軍に在職中の永正10年(1513年)には義稙と改名。

大内義興が帰国後、これを好機と見た細川澄元が蠢動し始めたことから、同年12月に義稙は赤松義村に澄元やその家臣らを成敗するように命令を出している。そして阿波に逃れていた澄元は永正16年(1519年)10月に挙兵し、11月には摂津に上陸する。このため義稙は11月3日に赤松義村に高国に味方するように命じている。

永正17年(1520年)2月、高国は尼崎で大敗し京都へ敗走し、義稙に近江へ一緒に逃亡するよう申し出たが、義稙はこれを拒否した。既に義稙には澄元から恭順を誓う書状が送られており、近江へ逃れた高国に代わって3月に澄元の家臣・三好之長が入京した。ところが近江で勢力を回復した高国が5月5日に等持院で澄元を打ち破って(等持院の戦い)再び入京し、澄元は阿波へ逃げ帰った。

これ以後、義稙と高国の仲は険悪なものとなり、大永元年(1521年)3月7日、義稙は再び和泉国堺に出奔した。これが同月に予定されていた後柏原天皇の即位式直前のことであったため、天皇は激怒して高国に即位式の準備を命じて予定通りに挙行させた。高国は義稙に代わる新将軍として、11代将軍・義澄の遺児・義晴を擁立した。
義稙は和泉から淡路国志筑浦に逃れ、ここで再挙を図って高国と抗争した。高国の妻の兄弟である和泉守護・細川澄賢(すみかた、政賢の子)や河内守護・畠山義英らを味方につけて10月には堺まで引き返すが、兵が集まらなかったために高国にかなわずその後沼島でしばらく潜んでいたが再起のために細川讃州家の許に赴いた矢先の大永3年4月9日(1523年5月23日)に阿波国撫養で死去した。享年58(満56歳没)。

121とはずがたり:2014/01/15(水) 15:08:51
>高国は2月14日、義晴を奉じて坂本に逃げ去った。この逃亡には大きな意味がある。将軍や管領が京都を落ち延びることは今まで何回もあったが、評定衆や奉行人といったものまで逃げ出してしまったため、京都幕府は崩壊してしまったのである

桂川原の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%B7%9D%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

桂川原の戦い(かつらかわらのたたかい)は大永7年2月12日(1527年3月14日)夜中から2月13日まで京都桂川原一帯で行われた戦い。この戦いは堺公方の誕生のきっかけとなった。別名「桂川の戦い」とも言う。

香西元盛は管領細川高国の家臣だったが、同族の細川尹賢の讒訴を信じた高国によって自害させられた。高国はこれ以前にも讒訴を信じ、度々自身の家臣を自害させていた。これに対して良い感情を抱いていなかった香西元盛の2人の兄波多野稙通と柳本賢治は十分な調べもないまま元盛が自害させられたことを知り、怒りを爆発させ丹波八上城・神尾山城両城で反旗を翻した。

驚いた高国は、大永6年(1526年)10月23日、神尾山城に総大将細川尹賢軍を、八上城には瓦林修理亮、池田弾正等を差し向け、それぞれの城を包囲した。その後小競り合いが続いていたが、波多野稙通に同情的であった丹波守護代内藤国貞は11月5日に神尾寺城の包囲軍から離脱した。また11月30日、黒井城主赤井五郎が3000の兵を率いて神尾寺城包囲軍の背後から襲い掛かり、赤井軍にも大きな損害がでたものの包囲軍を打ち破った。
この敗報を知った八上城の包囲軍も翌12月1日囲みを解いて退却した。この退却の途中、阿波守護細川晴元と通じていた池田弾正は瓦林修理亮らに一斉に矢を射かけ、細川尹賢軍は散々な態で京へ逃散した。

波多野稙通より知らせをうけた細川晴元は三好勝長、三好政長に出陣を命じ、阿波より堺に上陸、同年12月13日に中嶋の堀城を占領し越年した。

波多野軍も行動を開始、丹波を出国し翌大永7年(1527年)1月28日に野田城をわずか7日間で陥落させた。稙通はそのまま京都に向かうと見せかけて一気に南下し、2月4日に山崎城を陥れた。山崎城に詰めていた摂津守護代薬師寺国長は高槻城に逃亡してしまった。

その後、諸城を次々と攻め落としたり、降伏させたりした。
2月11日波多野軍と三好軍は山崎城で合流、翌2月12日桂川を挟んで細川高国軍と対峙した。


高国も諸大名に援軍を要請したが、要請に応じたのは若狭の武田元光しかいなかった。細川高国軍は、主力として鳥羽から鷺の森辺まで川沿いに隙間無く一文字に陣をしき、本陣はそこから少し後方の六条に12代将軍足利義晴自らが陣をしき、後詰の軍として本陣から北側、桂川の川勝寺に武田元光軍が陣をひいた。
戦闘は2月12日夜中、川を挟んだ矢の応酬から始まった。
翌2月13日、主力への攻撃を予想した細川高国軍に対して、三好軍は裏をかいて桂川を渡河、後詰の武田軍に襲い掛かった。かなりの激戦となったが、武田軍は死者80名を出し敗退した。これに危機感を覚えた高国は自ら武田軍に救援に向かったが、高国の甥の大納言日野内光(うちみつ、日野家の当主、晴光の父)は戦死してしまい、精鋭の荒木父子も戦死という大敗をして兵を退いた。波多野・三好連合軍も三好勝長が瀕死の重傷を負ったほか、80名の戦死者が出たが、天下分け目の合戦は波多野・三好連合軍が勝利した。

戦後の状況

高国は2月14日、義晴を奉じて坂本に逃げ去った。この逃亡には大きな意味がある。将軍や管領が京都を落ち延びることは今まで何回もあったが、評定衆や奉行人といったものまで逃げ出してしまったため、京都幕府は崩壊してしまったのである。これが後に堺公方誕生の引き金ともなった。

波多野・三好連合軍は2月16日に京都に進軍、治安維持と宣撫工作に取り掛かったが、細川晴元の入京待ちとなった。

122とはずがたり:2014/01/15(水) 15:18:04

>伊勢貞宗から義材に同行する守護や奉公衆・奉行衆に対して新将軍に従うようにとする内容の「謀書」が送られると、27日までに義材の側近であった者も含めてほとんどが京都に帰還してしまい、義材勢は崩壊してしまった。

>義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら70人余りが越中下向につき従った(越中公方)。

>幕府政所頭人で山城守護伊勢貞陸(貞宗の子)が京都に残留した幕府の官僚組織を掌握しており、政元との間で駆け引きが繰り広げられることになる。貞陸は富子の要望で義澄を後見する役目を担っており、義澄や政元の決定も貞陸の奉書作成命令をなくしては十分な有効性を発揮することは出来なかったのである。

>応仁の乱と並び、戦国時代の始期とされることが多い。

明応の政変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89

将軍位を巡る争い
足利義材は、応仁の乱で西軍の盟主に擁立された義視の嫡子である。乱が西軍劣勢で収束すると、父と共に土岐成頼を頼って美濃へ逃れていた。義材の従兄の9代将軍義尚は守護大名や奉公衆を率い、六角高頼討伐(長享・延徳の乱)のため近江へ親征するが、果たせないまま長享3年(1489年)3月に近江で病死する。

義材は父と共に上洛して10代将軍に推挙されるが、伯父の前将軍足利義政や細川政元などは、堀越公方足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた義尚と義材の従兄清晃(足利義澄)を推す。しかし、日野富子が甥(妹の子)である義材を後援し、翌延徳2年(1490年)に義政が死去すると、義視の出家などを条件として義材の10代将軍就任が決定する。

この決定に反対した政元や伊勢貞宗らは義視父子と対立し、4月27日に貞宗は政所頭人を辞任した。ところが奇しくも同じ日に日野富子が将軍後継から外した清晃のために義尚の住んでいた小川殿を譲渡することを決めた。将軍の象徴である邸宅を清晃が継ぐことを知った義視は義材を軽視するものと激怒して、翌月には富子に無断で小川殿を破却した。富子はこれを義視の約束違反と反発して義材との距離を置くようになり、義視の病死後も関係は改善されなかった。

義材は前将軍義尚の政策を踏襲し、丹波、山城など、畿内における国一揆に対応するため、延徳3年(1491年)に六角高頼討伐を再開するなど軍事的強化を図った。

123とはずがたり:2014/01/15(水) 15:18:37
>>122-123

クーデター
明応2年(1493年)、元管領畠山政長は敵対する畠山基家(畠山義就の子)の討伐のため、義材に河内親征を要請する。政元はこれに反対するが、畠山氏の家督問題を政長優位の下で解決させるため、2月15日に義材は討伐軍を進発させた。

政元は、義材に不満を抱き始めた富子や赤松政則、伊勢貞宗を抱き込み、4月22日夜に清晃を還俗させて11代将軍に擁立してクーデターを決行、更に富子が先代(義政)御台所の立場から直接指揮を執って、政元に京都を制圧させ、その兵に義材の弟慈照院周嘉らが殺害された。この報によって義材勢は動揺し、その上伊勢貞宗から義材に同行する守護や奉公衆・奉行衆に対して新将軍に従うようにとする内容の「謀書」が送られると、27日までに義材の側近であった者も含めてほとんどが京都に帰還してしまい、義材勢は崩壊してしまった。政長が敗死すると、義材は足利家伝来の「御小袖」(甲冑)と「御剣」を携えて上原元秀の陣に投降して京都龍安寺にて幽閉されることとなった。また、父以来の側近であった公家の葉室光忠も処刑された。

同年6月、幽閉されていた義材は、側近らの手引きで越中射水郡放生津へ下向し、政長の重臣であった婦負郡・射水郡分郡守護代・神保長誠を頼った。さらに、義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら70人余りが越中下向につき従った(越中公方)。

影響

この政変で政元は幕政を掌握し、奉公衆などの軍事的基盤が崩壊し傀儡化した将軍権力は、幕府公権の二分化により弱体化した。これにより、二流に分かれた将軍家を擁した抗争が各地で続くこととなった。以後、幕政は細川氏の権力により支えられる事となる。ただし、その後政変を推進し、伊勢氏との協調を唱えてきた細川氏重臣上原元秀が暗殺されるなど、細川氏内部でも政変に対する動揺が発生していた。

その一方で、幕府政所頭人で山城守護伊勢貞陸(貞宗の子)が京都に残留した幕府の官僚組織を掌握しており、政元との間で駆け引きが繰り広げられることになる。貞陸は富子の要望で義澄を後見する役目を担っており、義澄や政元の決定も貞陸の奉書作成命令をなくしては十分な有効性を発揮することは出来なかったのである。これに関連して明応の政変直後に貞陸が義材派の反撃に対抗することを名目に山城国一揆を主導してきた国人層を懐柔して山城の一円支配を目指し、政元も対抗策として同様の措置を採った。このため、国人層は伊勢派と細川派に分裂してしまい、翌年には山城国一揆は解散に追い込まれる事になった。

さらに近年では、同年に発生した今川氏親の家臣伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵攻が、義澄と対立関係にあった異母兄である堀越公方足利茶々丸を倒すために、政元や上杉定正と連携して行われたとする見方が有力になっている(早雲と伊勢貞宗は従兄弟に当たる)。
このように、明応の政変は中央だけのクーデター事件ではなく、全国、特に東国で戦乱と下克上の動きを恒常化させる契機となる、重大な分岐点であり、応仁の乱と並び、戦国時代の始期とされることが多い。

124とはずがたり:2014/01/21(火) 16:15:29

http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/ja/zasshi/pdf/zasshi12/p159.pdf

俺の京兆専制から三好政権ってのはwikiの参照元と云うか,今谷の意見と云うか,もっと云うと細川両家記由来のものと云えるのか。

また薬師寺与一の叛乱は澄元を養子にせよというものだったのか。。

いずれにせよ系譜派の俺としては(権力を一定期間握り維持した勝元→政元→高国→晴元と云うより)勝元─政元=澄元─晴元という連続性(と云うか寧ろ通字「元」の使用)から入っていて,現時点での関心は結果的に細川両家記的な視点から出発しているのかも知れぬ。wikiの記述に引きずられる形で萌えてる可能性も高いし。
色々調べてみると畠山や六角の動きなんかも対象に入れたいとは感じている所ではあるけど。

管領代というと大内義興だが,実際に資料で確かめうるのは六角定頼のみだそうで,家格の関係か,大内氏のは事実上の,と云う事か。
また六角定頼の義晴・晴元期の活躍は確かに目覚ましいとは云える。政治の中心である京の東隣という近江の地の利はこの時代の土地利権争いの中心である摂河泉+大和からは離れていて軍事的に即応性はどうもなかったけど。

細川政権が京兆専制だったのは内衆などがしっかりしていた政元のみで,高国は大内,晴元は最初長慶,後に定頼の軍事力に依存しなければ権力行使が出来なかったと云えるのかもしれぬ。長慶に使われた氏綱になると権力行使の主体と客体が完全に逆転してしまう訳だが。

となると,澄之は内衆(の一部であって全体では無いけど)基盤,澄元は阿波細川と三好依存となって,細川政権は政元と澄之,高国と澄元と晴元と氏綱の2類型に分けられるのかも。国人との関係等を俺が理解していない部分は多分にあるけど・・。大内帰国後の高国政権をどう捉えるかが課題となるけど,浦上氏等の軍事力を仰いではいるな。。

半ば外側の軍事力に依拠せざる得ないっての辺りは足利将軍の砂上の楼閣さと相通じるものがあるのかも。
細川家は,斯波家や畠山家の様に足利家からの独立性が強くなかった分守護大名の連合政権と相似形で内衆の連合政権的な色合いになるのかも知れぬ。それが領国経営に止まらず幕政関与に浮上した場面が特異的な政元政権となるのかもしれぬ。

此処迄見ると織田の新規性ってのはその綜合性ぐらいしか無くて,上洛して天下に号令ってのは大内以来の伝統的なものだし楽市楽座は六角の観音寺城のものだし,比叡山焼き討ちは足利義教のものだし堺の支配下は三好のものだし天守閣の設立も松永がやっていたし。
まあその綜合性が凄いんだろうけど。。部下に叛逆されて殺されちゃうのも極めて一般戦国的。
豊臣は長慶や久秀と同じく属人的政権だな。秀吉が種無しだったのが致命的だ。。

125とはずがたり:2014/01/22(水) 21:00:13
面白そうだ。。

戦国期室町幕府と在地領主
著者: 西島太郎
http://books.google.co.jp/books?id=v_Esp1USiG4C&pg=PT83&lpg=PT83&dq=%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%85%86%E4%BB%A3&source=bl&ots=9orWryZJ7e&sig=AL0YoYsOfxvxFBZXLkjoscAMrK0&hl=ja&sa=X&ei=87DfUuEKjNySBYO_gcgC&ved=0CEsQ6AEwBQ#v=onepage&q=%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%85%86%E4%BB%A3&f=false

126とはずがたり:2014/01/22(水) 21:28:33
系図を書くと京兆家・典厩家・野州家の一体性が良く解る。
勝元─政元=澄元─晴元の連続性に萌えてたけど,阿波から入った澄元なんかよりは血筋的には政元から高国の方が正統的っぽいなぁ。

【典厩家】
初期には京兆家の内衆(重臣衆)を束ねる役割を果たしていたようである。
後に摂津西成郡(中嶋郡)の分郡守護を務めた。
持賢は、京兆家当主の座を13歳で継いだ勝元を補佐する立場にあり、持賢の猶子で2代当主となった政国も、9歳で京兆家を継いだ政元の幼少時の後見役であった。

【野州家】
備中浅口郡と伊予宇摩郡の分郡守護を務めた。
野州家から京兆家には、教春の子の勝之が勝元のもとへ、政春の子の高国は政元のもとへと、2代にわたって猶子が続いている。
また持春の子・政国が典厩家の持賢の養子に入り第2代当主となるなど、京兆家との一体性が強い典厩家との間にも緊密な関係を保っていた。
野州家は将軍近習としての性格を有した一方で、京兆家、典厩家とも密接な関係を保ち結果として細川氏一門の幕政関与に貢献したと思われる。

細川氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F

典厩家
細川持賢を祖とする細川氏(京兆家)の分家の一つ。通字として主に「賢」(かた)を諱(名前)に使用する。基本的には分国を所領としておらず、初期には京兆家の内衆(重臣衆)を束ねる役割を果たしていたようである。後に摂津西成郡(中嶋郡)の分郡守護を務めた。政国、政賢と続いた。当主が右馬頭もしくは右馬助を官途としたことから、その唐名にちなんで典厩家と呼ばれるようになっていた。持賢は、京兆家当主の座を13歳で継いだ勝元を補佐する立場にあり、持賢の猶子で2代当主となった政国も、9歳で京兆家を継いだ政元の幼少時の後見役であった。政賢は永正の錯乱に際しては、細川澄元に与して細川高国と対立したが、船岡山の戦いで戦死する。その後は高国の与党で政賢の縁戚であった細川尹賢が継承した。尹賢は高国の大物崩れの戦いでの顛末を知り、細川晴元側に寝返ろうとしたものの許されず殺害された。
細川氏綱は、高国の後継者として晴元と対立を続けた。氏綱は、晴元から離反した三好長慶に担がれて晴元を倒し、室町幕府最後の管領となったものの傀儡にすぎなかった。その死後は氏綱の弟の藤賢が典厩家の当主となり、将軍足利義昭に仕えた。義昭が織田信長と反目し挙兵した際には、義昭とともに抗戦したが降伏した。その後は信長に臣従し近江坂本城の守備を任された。
信長没後、藤賢は豊臣家に仕え、以降も戦国諸侯に招かれながら元賢(もとかた)、重賢(しげかた)、乗賢(のりかた)と続き金沢藩士(加賀百万石前田家家臣)として幕末に至った。

野州家
細川氏(京兆家)の分家の一つ。細川満元の弟である満国を祖とする。持春、教春、政春、晴国と続いた。持春、教春が2代にわたって下野守を名乗ったことから野州家の名が定着したようである。備中浅口郡と伊予宇摩郡の分郡守護を務めた。野州家から京兆家には、教春の子の勝之が勝元のもとへ、政春の子の高国は政元のもとへと、2代にわたって猶子が続いている。 また持春の子・政国が典厩家の持賢の養子に入り、その政国が典厩家の第2代当主となるなど、京兆家との一体性が強い典厩家との間にも緊密な関係を保っていた。 野州家は将軍近習としての性格を有した一方で、京兆家、典厩家とも密接な関係を保ち、結果として細川氏一門の幕政関与に貢献したと思われる。
政春の子・高国は、管領細川政元の養子として京兆家に入り、その家督争いに躍り出ることになる。また通政は、戦国時代にその所領の維持を図ったのだが、出雲の尼子晴久の圧迫を受け伊予へ逃れた。通政の甥・通薫(通重)が備中支配の回復を試みるが、中国地方に勢力を伸ばした毛利氏の客将となり、子孫は長府藩客家老として幕末に至った。

127とはずがたり:2014/01/22(水) 22:04:58

義晴の享禄元年(1528)年の朽木動座に拠って,細川高国の奉行人奉書が大永6年12月を最後に,賦引付,徳政部壱方引付,頭人御過判引付も同7年2月を最後とすることから室町幕府政所の奉行事務が将軍不在京期間全く停止されていた一方で堺幕府奉行人奉書が発給されていた事実から今西は実権は堺公方にあったとしこれが通説になっている。
但し,堺幕府奉行人奉書と同数の義晴方奉行人奉書が主に京都権門に対して発給されている。幕府の意志決定は奉行人連署奉書により発給されることから朽木の幕府機能は停止したとは云えないだろう。

朽木谷の義晴周辺には「公家衆・外様衆・御供衆・御部屋衆・申次・番方・奉行・同朋・御末衆」等が付き添っていたともある。
改元時にも朝廷は義晴方とのみ交渉,諸大名への栄典授与に於いても義晴方のみこれを行っていることから全国的には義晴こそ公認の権威として考えられていたと見られる。

wikiの記述(例えば「それは朽木のときとは違い、奉公衆奉行衆を引き連れた本格的な幕府の移転であった。」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%99%B4)とは異なり朽木時代の義晴(朽木幕府)も桑実寺幕府程では無かったかも知れないが一定の体裁を整えたものだったといえそうだ。

128とはずがたり:2014/01/22(水) 22:33:18
>>127-128
また細川六郎の堺公方の裏切りと義晴との和睦には六角定頼側からの働き掛けもあったようである。

wikiのは西側・阿波側からの記述になっているのやね〜。

また天文期の政所沙汰(この時期に於いてもまだ機能していたようだ)はその最終意志決定が政所頭人の伊勢貞孝によってなされていたのが明らかにされているそうな。

だいぶ衰亡したとはいえまだまだ十分に機能を維持している足利幕府に簡単にとって変われる程,雲散霧消してた訳ではないようである。三好長慶も職制上は結局は取り込まれている訳だし。

で,幕府奉行人連署奉書には六角氏の口入を記したものがあるが,大内氏に於いても僅かに1例見受けられるとのこと。

当時は幕府の裁判機能と細川の裁判機能が両立し何らかの権限分担がなされていたようである。
細川氏の裁判機能に関しては京兆家の勢力圏である丹波・摂津・山城以下の畿内に限定されている。
細川氏奉行人奉書(管領代添状)も同様の傾向。高国迄は畿内近国に拡大の傾向があったが晴元のもとでは縮小。
京兆家が京周辺の戦国大名化しようとするなかで権門のお膝元でミニ幕府的な体裁をとりつつ領国経営せざるえなかったという感じか?

御前沙汰には定頼の影響は有っても晴元の関与はないようである。
从ってまた晴元は幕府機構を総攬しておらず「管領」と呼ばれていない。(右京兆)

いずれも>>125より

129とはずがたり:2014/01/23(木) 17:17:05

後土御門時代は最も皇室が衰微した時期だったといえるけど,その後土御門践祚後の後花園院が中世的院政の最後だったようだ。
詰まりこれ以後,退位して上皇になっても伝国詔宣>>105を出すことはなくなったということか。
そもそもカネ無いし死ぬ迄天皇やってたのかもしれないし,そもそも亡くなった後も40日も葬儀出せないから皇室の荘園領主転化の為に治天の君になる必要性など全くなくなってしまったのであろう。。

後花園天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%8A%B1%E5%9C%92%E5%A4%A9%E7%9A%87

正長元年(1428年)称光天皇が危篤に陥ると両統迭立を要求する後南朝勢力がにわかに活動の気配を見せたため、室町幕府将軍に就任することになっていた足利義宣(後の義教)は伏見御所にいた彦仁王(後花園天皇)を保護し、後小松上皇に新帝指名を求めた。同年7月20日に称光天皇が崩御すると、彦仁王は後小松上皇の猶子となって親王宣下のないまま7月28日に践祚し、翌永享元年(1429年)12月27日に即位した。

即位して以降も後小松上皇による院政は継続されたが、永享5年(1433年)10月に上皇が崩御した後は30年余り親政を行った。この間、各地で土一揆が起こり、永享の乱・嘉吉の乱などでは治罰綸旨を発給するなどの政治的役割も担って朝廷権威の高揚を図った。同11年(1439年)6月に勅撰和歌集(二十一代集)の最後に当たる『新続古今和歌集』が成立。

寛正5年(1464年)7月19日成仁親王(後土御門天皇)へ譲位して上皇となり、左大臣足利義政を院執事として院政を敷いた。応仁元年(1467年)に京都で応仁の乱が勃発した際、東軍細川勝元から西軍治罰の綸旨の発給を要請されたが、上記とは異なり上皇はこれを拒否。兵火を避けて天皇とともに室町第へ移るも、自らの不徳を悟って同年9月20日に出家、法名を円満智と号した。

文明2年(1470年)12月27日、中風のため室町第で崩御した。享年52。

後土御門天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%A4%A9%E7%9A%87

長禄元年(1457年)12月19日に親王宣下、寛正5年(1464年)7月19日に後花園天皇の譲位を受けて践祚(即位日は、寛正6年(1465年)12月27日)。文明2年(1470年)まで後花園上皇による院政が行われた。

践祚後ほどなく応仁の乱が起き、寺社や公卿の館は焼け、朝廷の財源は枯渇して朝廷は衰微した。乱を避けるため、足利義政の室町第に10年の間避難生活を強いられた。
乱の終結後、朝廷の古来の儀式の復活に熱意を注ぐが、思うように行かなかった。

明応の政変に憤慨して一時は譲位を決意するが、老臣である権大納言甘露寺親長の諫奏によって取りやめる(『親長卿記』明応2年4月23日条)。その背景には、朝廷に譲位の儀式のため費用がなく、政変を起こした細川政元にその費用を借りるという自己矛盾に陥る事態を危惧したとも言われている。

後土御門天皇は5回も譲位しようとしたが、政権の正統性を付与するよう望んでいた足利将軍家に拒否された。

明応9年9月28日、崩御。享年58。葬儀の費用もなく、40日も御所に遺体がおかれたままだった。このことは近衛政家による『後法興院記』の明応9年11月11日条に「今夜旧主御葬送と云々。亥の刻許(ばか)り禁裏より泉湧寺に遷幸す。(中略)今日に至り崩御以降四十三日なり。かくの如き遅々、さらに先規あるべからず歟(か)。」と記されている。

130とはずがたり:2014/01/23(木) 17:23:19
義稙の出奔で即位式の警護をすっぽかしたことに激怒した後柏原天皇>>120だけど,即位後22年目の念願の式典だったのか。そら怒るわ。。

後柏原天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%A4%A9%E7%9A%87

文明12年(1480年)12月13日に親王宣下。明応9年(1500年)10月25日、後土御門天皇の崩御を受けて践祚した。しかしながら、応仁の乱後の混乱のために朝廷の財政は逼迫しており、後柏原天皇の治世は26年におよんだが、即位の礼をあげるまで21年待たなくてはならなかった[1]。
また、11代将軍・足利義澄が参議中将昇任のために朝廷に献金して天皇の即位の礼の費用にあてることを検討したが、管領細川政元が「即位礼を挙げたところで実質が伴っていなければ王と認められない。儀式を挙げなくても私は王と認める。末代の今、大がかりな即位礼など無駄なことだ」と反対し、群臣も同意したため献金は沙汰止みとなる(『大乗院寺社雑事記』(尋尊大僧正記)文亀2年6月16日条)など、主要な献金元である幕府や守護大名も逼迫していたために資金はなかなか集まらなかった。費用調達の為に朝廷の儀式を中止するなど経費節約をし、室町幕府や本願寺9世実如の献金をあわせることで、即位22年目の大永元年(1521年)3月22日にようやく即位の礼を執り行うことができた。ただし、この時も直前に将軍足利義稙(10代将軍の再任)が管領細川高国と対立して京都から出奔して開催が危ぶまれた。だが、義稙の出奔に激怒した天皇は即位の礼を強行(『二水記』永正10年3月8日・20日条)して、警固の責任を果たした細川高国による義稙放逐と足利義晴擁立に同意を与えることとなった。

131とはずがたり:2014/01/23(木) 17:23:48

逆に戦国時代がまっただ中になると戦国大名が力を蓄えて即位式の負担を出来るようになったと云うこと歟。

後奈良天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%A4%A9%E7%9A%87

明応5年(1497年)1月26日、権中納言勧修寺政顕の屋敷で誕生。大永6年(1526年)4月29日、後柏原天皇の崩御にともない践祚した。しかし、朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、10年後の天文5年2月26日(1535年3月29日)にようやく紫宸殿にて即位式を行う事ができた。寄付した戦国大名は後北条氏、大内氏、今川氏などである。
後奈良天皇は、宸筆(天子の直筆)の書を売って収入の足しにしていた[1]。だが、清廉な人柄であったらしく、天文4年(1535年)に一条房冬を左近衛大将に任命した際に秘かに朝廷に銭1万疋の献金を約束していた事を知って、献金を突き返した。さらに、同じ年に即位式の献金を行った大内義隆が大宰大弐への任官を申請したが、これを拒絶した。大内義隆の大宰大弐任命は、周囲の説得で翌年にようやく認めた。

132とはずがたり:2014/01/23(木) 17:24:27

>そもそもカネ無いし死ぬ迄天皇やってたのかもしれないし
>>129の推論で大体あってるみたいだ。

正親町天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87

弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達はすでに貧窮していた。戦国大名・毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を挙げられなかった[1]。正親町天皇は、元就に褒美として従五位下・右馬頭という位階を授け、皇室の紋章である菊と桐の模様を毛利家の家紋に付け足すことを許可した[2]。
さらに、本願寺法主・顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられた。これ以後、本願寺の権勢が増した。

朝廷の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていた。永禄11年(1568年)、織田信長は、正親町天皇をお護りするという大義名分により、京都を制圧した[3]。 この上洛によって、皇室の危機的状況に変化が訪れていた。信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させた。一方で、天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた[4]。元亀元年(1570年)の朝倉義景・浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の足利義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命によるものである(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。その間の天正5年(1577年)には信長の最高位となる右大臣を宣下した。
豊臣氏へ政権が移った後も、豊臣秀吉は御料地や黄金を献上し、正親町天皇を政権の後ろ楯とした。

当時仙洞御所が存在しておらず、天皇・信長のどちらかが譲位を希望したとしても、「退位後の生活場所」という現実的な問題から何らかの形式で仙洞御所を用意できない限りは譲位は困難であった(実際の正親町天皇の譲位については、それに先立って豊臣秀吉が仙洞御所を造営している)。だが、譲位に関する諸儀式や退位後の上皇の御所の造営などにかかる莫大な経費を捻出できる唯一の権力者である信長が、譲位に同意しなかったからとするのが妥当とされている(戦国時代に在位した3代の天皇が全て譲位をすることなく崩御しているのは、譲位のための費用が朝廷になかったからである)。

133とはずがたり:2014/01/23(木) 17:32:30
正配の冊立はもっと前から無くなっていたようだ。室町期の天皇の配偶者は女御なん?

2013年07月22日(月)
広義門院 西園寺寧子〜女性唯一の治天の君
http://www.inforoot.jp/yuyu/index.php?ID=2760

ところで、広義門院以降、持明院統および北朝系の天皇において正配(皇后・中宮・女御)の冊立がしばらく行われなくなりました。まあ、室町期の朝廷は、即位式や立太子の金銭を用意することも、なかなかままならなかったほどの窮状でしたから、入内、立后となればなお更でしょう。正配が復活するのは、女御は後陽成天皇の女御になった近衛前子、皇后(中宮)は後水尾天皇の女御から中宮になった徳川和子まで待つこととなりました。

134とはずがたり:2014/01/23(木) 17:35:59
>>133をよく見れば正配に女御も含まれるから女御でもないのか。そなるとなんか?もう職名とか無し?

准三宮はそれなりに出てるようだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%86%E5%90%8E

135とはずがたり:2014/01/25(土) 16:46:02

享禄・天文の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E7%A6%84%E3%83%BB%E5%A4%A9%E6%96%87%E3%81%AE%E4%B9%B1

蓮淳の権勢拡大
さて蓮如には生前に5人の妻を娶り、13人の男子があったが、最後の妻蓮能の子供達は先の「大坂一乱」で排斥され、4番目の妻の子蓮芸は摂津富田に教行寺を建てた後に実如に先立って死去、3番目の妻には男子がいなかったという中で、自然と最初の妻である如了とその実妹で実如を生んだ2番目の妻蓮祐の遺した7人の男子の存在は宗門の間で崇敬の対象となっていった。
ところが、後継者とされた順如(父に先立ち死去)・実如はともかく、他の5人の男子のうち4人が北陸に派遣されて共同で加賀とその周辺の事実上の国主としての地位を得たのにも関わらず、6男の蓮淳だけは順如が遺した顕証寺の住持に補されて畿内に留められ、教団内において大きな仕事を与えられてこなかったことに不満を抱いていた。
だが、ここで新法主の保護者・後見人の地位が与えられたことで一躍北陸の兄弟を上回る権力を持つ事となった蓮淳は外孫である法主・証如の権力拡大に乗り出すことになった。これは裏を返せば後見人である蓮淳自身の権力拡大が目的であったが、形式上は「法主を頂点とした権力機構の確立」という実如以来の方針に忠実に従ったものであったから、この大義名分を前に異論を挿める者は存在しなかった。

天文の錯乱
畠山・三好討伐

享禄の錯乱の最中であった6月、大物崩れの勝者として細川高国を自害させ、声望を高めた細川晴元であったが、その晴元支持派だった蓮淳の名声も更に高まった。その頃、主家である河内守護畠山義堯から離反して晴元への転属を画策する木沢長政から、晴元への内応の仲介依頼を受けた蓮淳であったが、間もなくこの事を義堯に知られてしまう。

同年8月、木沢長政討伐に乗り出した義堯には三好元長まで加担した。一方、長政からの救援要請を受けた晴元は対応に苦慮。自分に度々意見する元長の存在を疎ましく思っていたとはいえ、劣勢の長政への肩入れも得策ではなかったためか、両軍への撤兵要請で事を収めようとした。
だが翌享禄5年(天文に改元、1532年)5月、畠山・三好連合は、木沢長政を再攻する。そこで晴元は、長政の一件の発端を作った蓮淳に対して、義堯と元長の討伐への協力を依頼した。『単なる武家の騒乱でありながら宗門が参戦する』事態を蓮淳は了承した。

畿内における宗門の責任者であった蓮淳は、以前、本願寺門徒による和泉や山城の法華宗徒への圧迫の一件を聞きつけた三好元長によって、本願寺側は弾圧を加えられた事もあり,熱心な法華宗徒であった元長に対し深い恨みを抱いていた。
そのため蓮淳は、17歳になった証如に勧めて法主である証如自らに出陣させ、畿内における『浄土真宗と法華宗の最終決戦』と位置づけることで全畿内の門徒結集を促して、この戦いを大きく盛り上げたのである。
同年6月15日(7月17日)、10万(一説には20万)と言われた本願寺門徒の参戦で戦況は一変。逃げ切れなかった畠山義堯を自害させた上に、同月20日(7月22日)には包囲した堺の顕本寺で三好元長を自害に追い込んだ。その上、堺に鎮座していた足利義維の四国追放も重なって堺幕府も消滅させている。
ところが、一向一揆にとって法華宗の象徴ともいうべき「仏敵」三好元長との戦いが終わっても一揆軍の蜂起は収まらず、法華宗以外の仏教宗派も追放すべきだとする門徒の声が、証如や蓮淳による静止命令をも振り払った。
大和では守護である興福寺と同国内で戦国大名化しつつあった筒井順興・越智利基を攻め滅ぼすべく一揆軍が奈良に突入した。一揆は本願寺にとってもゆかりがある大乗院(蓮如幼少時修行の場所)を始めとして興福寺の全ての塔頭を焼き払い、猿沢池の鯉や春日大社の鹿も悉く食い尽くされたと言われている。最終的には筒井氏・越智氏と十市遠治の援軍によって一向一揆は奈良から追われたものの、本願寺は面目を失墜して奈良の永代禁制を受け入れざるを得なくなった。

136とはずがたり:2014/01/25(土) 16:46:58
>>135-136
山科本願寺焼討

これに驚いた細川晴元は室町幕府管領の立場から、本願寺との決別と一向一揆鎮圧を決意する。これを知った蓮淳は一向一揆の行動を事実上追認して細川晴元攻撃を命じた。ところが晴元の命令にまず木沢長政が従い、更に晴元の臣茨木長隆の画策により、本願寺を嫌う近江守護六角定頼と一向一揆に対抗する形で京都と山城の法華宗徒が編成した法華一揆が呼応した。
天文に改元後の同年8月7日、京都に集結した法華一揆は京都にある本願寺教団の寺院を次々に攻撃、12日には六角軍と連合して蓮淳のいる大津の顕証寺を攻め落とし、続いて23日には、証如のいる山科本願寺を3万の大軍が包囲して、24日には同寺も炎上した。ところが肝腎の蓮淳は顕証寺陥落の際にもう一つの拠点であった伊勢長島願証寺へと逃走して息子実恵の元に潜伏した。孤立した証如は山科本願寺に退避していた蓮如の末子・実従が発見して辛うじて石山御坊に連れ出したのである。

石山本願寺への移転と和議成立

証如は石山御坊を「石山本願寺」と改めて、新たな根拠地として蓮淳に代わって門徒達を指揮していた下間頼秀・頼盛兄弟に防戦を命じたが、続いて12月に富田教行寺が攻め落とされて石山本願寺もまた細川・六角・法華一揆連合軍に包囲された。ところが翌天文2年(1533年)に入ると、(一向宗側が?)2月10日に晴元がいる堺を陥落、晴元は淡路へ逃れた。また、細川高国の弟・晴国や三好元長派であった波多野稙通ら晴元に恨みを抱く勢力と連携して一時包囲を解くことに成功する。

だが、それは逆に第12代将軍足利義晴から晴元へ下された本願寺討伐令という大義名分を与えるだけに終わった。一向一揆は3月に摂津伊丹城を包囲したが、3月29日に法華一揆を率いた木沢長政に打ち破られ、4月7日に晴元が淡路から摂津池田城へ入城、戦況は一進一退を続けたが、6月18日に山城で細川晴国が晴元の武将薬師寺国長を討ち取ると双方は和睦に傾き、6月20日に三好元長の遺児千熊丸(後の三好長慶)を仲介者として和睦した。しかし、下間頼盛は和睦に反対、翌天文3年(1534年)3月に証如を人質に取った。証如は石山本願寺へ戻ったが、5月29日に和睦を破棄、再戦に及んだ。天文4年(1535年)6月に細川軍の総攻撃が始まると戦闘は本願寺の敗北に終わり、当時の後奈良天皇>>131の日記に「本願寺滅亡」と記されたほどである。

これを機に証如も天文4年4月に長島から呼び戻した蓮淳や興正寺蓮秀と共に再び和議を図り、下間兄弟を今回の一揆の扇動者としてその責任を転嫁することで証如・蓮淳の責任を不問とし、彼らや近江などの畿内門徒の総破門を行うことを条件にした。9月に本願寺と細川との和睦交渉が妥結、11月に幕府・細川・六角との和議が成立した。和議に納得しない一部の一揆衆は翌天文5年(1536年)3月に中嶋城に籠もったが7月29日に木沢長政に鎮圧され、下間兄弟もその後粛清された。

この間、戦勝で京都の自治権を得た法華一揆と比叡山延暦寺が敵対し、天文5年7月には本願寺にも比叡山側から援軍を求められたが、派兵には応じず軍資金を送り比叡山の支持表明のみ行った(結果は比叡山・六角連合軍が勝利した)。8月には細川晴国も味方の裏切りで敗死した。

和議終了後も蓮淳は証如の求めに応じて石山本願寺に留って成人した証如の補佐役として従来の立場を事実上回復し、天文19年(1550年)に同寺で没するまで蓮淳は証如の名において本願寺の事実上の最高指導者としての地位を保持し続けることになったのである。

137とはずがたり:2014/01/26(日) 22:38:17

奉公衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%85%AC%E8%A1%86
文官である奉行衆(ぶぎょうしゅう)とは異なる。

奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。

鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けている。

概要

8代将軍足利義政時代の奉公衆の編成を記す『御番帳』が現存しており、それにより,各番が抱える若党や中間なども含めると平均して5000から10,000人規模の軍事力であったと考えられている。なお、鎌倉公方や古河公方の下にも奉公衆が編成されていたといわれている。

成員は有力御家人や足利氏の一門、有力守護大名や地方の国人などから選ばれる。所属する番は世襲で強い連帯意識を持っていたとされ、応仁の乱などでは共同して行動している。ちなみに、足利氏にとって重要な拠点のひとつとされていた三河の奉公衆は40人を超えていたといい、国別で最多。
奉公衆は平時には御所内に設置された番内などに出仕し、有事には将軍の軍事力として機能した。地方の御料所(将軍直轄領)の管理を任されており、所領地の守護不入や段銭(田畑に賦課される税)の徴収などの特権を与えられていた。

沿革

3代将軍足利義満は守護勢力に対抗するため、御馬廻と呼ばれた親衛隊整備をはじめる。彼らは将軍直属の軍事力として山名氏が蜂起した明徳の乱や大内義弘が蜂起した応永の乱などで活躍する。

それでも4代将軍足利義持の頃にはまだ畠山氏や大内氏の軍事力などに依存しており、6代将軍足利義教は義満の政策を踏襲してさらに強権を目指した。

9代将軍足利義尚は、文官である奉行衆と共に奉公衆を制度として確立し、長禄元年(1487年)に近江の六角高頼討伐(長享・延徳の乱)を行った際には、奉公衆が将軍の親衛隊として活動している。大名と将軍の取次役の申次衆から取り立てられる例もあり、北条早雲も申次衆から義尚の奉公衆に加えられたとされている。

10代将軍足利義材(義稙)は、延徳3年(1491年)に奉公衆を率いて再度の六角氏討伐を行い、明応2年(1493年)には河内の畠山義豊を討伐するために出陣するが、出陣中に管領の細川政元が将軍廃立を行い(明応の政変)、奉公衆の制度も事実上解体された。

しかし番の結束力は固く、明智光秀の中心的な家臣として石谷氏(斎藤利三)、肥田氏、進士氏など旧奉公衆が参加している。

138とはずがたり:2014/01/26(日) 22:42:20
奉行衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E8%A1%8C%E8%A1%86

奉行衆(ぶぎょうしゅう)は、右筆方(ゆうひつかた)とも呼ばれ、室町幕府の法曹官僚である奉行人の集団である。幕府直属の文官集団として、武官集団である奉公衆と対応される。

奉行人は鎌倉幕府より存在しており、鎌倉幕府滅亡後に足利尊氏に従って室町幕府に参加した者の中には引き続き、奉行人として用いられる者もいた。当初、引付と呼ばれる裁判機関に右筆と呼ばれる奉行人を配置して奉書・御教書などを作成した。また、仁政方・庭中方・内奏方などの各種訴訟機関も設置されて奉行人が配置された。
しかし、鎌倉幕府の体制を引き継いだ政権構想を主導してきた足利直義の没落、3代将軍足利義満が院別当・太政大臣などを歴任することで院政・朝廷の政治機能が幕府機構に吸収されるなどの変化に伴って奉行人の役割も変質してくることになる。

引付が事実上廃止されて、政所・侍所・問注所・恩賞方などに右筆が配置された。
「別奉行」と呼ばれる特命を担当する役職に任命される奉行人が現れるようになる。
将軍が主宰する御前沙汰にも御前奉行人(御前衆・御前沙汰衆・恩賞方衆)と呼ばれる右筆中の有力者が参加を許されるようになった。御前沙汰とは本来、恩賞方に設置されて評定衆・引付衆(内談衆)による会議の中でも将軍の私的会議としての性格の強いものであり、奉行人は御前沙汰においては意見状と呼ばれる判決原案を作成する立場にあったが、後には将軍の私的権限において御前奉行人が御前沙汰に参加する事が許されて直接意見を述べるようになった。

義教時代
6代将軍足利義教の時代になると、将軍が管領以下を抑制するために御前沙汰によって重要決定を行うようになり、法制や先例、有職故実などに詳しい御前奉行人は公的には将軍の命令書である奉書(奉行人奉書)の作成・加判を行うとともに、御前沙汰などにおける意見や伺事は将軍の裁決に重大な影響を与えるようになり、次第に将軍の私的顧問としての性格も有するようになった。

特に御前奉行人のうち最高位の者を公人奉行と呼んで右筆・奉行人を統括するとともに評定衆の一員に列せられ、これに続く上位数名も引付衆(内談衆)に準じた待遇を受けるようになる。この頃になると鎌倉時代の奉行人であった太田氏・三善氏らの子孫で、代々こうした知識を家伝・家学として伝えてきた斎藤氏・松田氏・飯尾氏・布施氏など限られた家系によって右筆・奉行人などの地位が独占されるようになり、彼らは奉行衆・右筆方として集団を形成していくことになる。彼らはその重要性にも関わらず幕府本来の機構の中では組織の次官に当たる開闔・執事代にまでしか昇進できなかった。なお、奉行人のうち御前奉行人(御前沙汰衆)に達しない者をまとめて御前未参衆と称した。
更に、こうした家々の庶流の中には幕府の役職には就けなかった者もいたが、そうした者の中には有力な守護大名に登用されて司法や文書作成など分野においてその能力を発揮した者も存在した。阿波国守護細川氏に仕えて応仁の乱後の京都の焼け野原の有様を詠ったとされる飯尾常房(彦六左衛門尉)もその1人であるとされている。

その後
義教以後も幕府内部における奉行衆の発言力は増大して、8代将軍足利義政の頃には評定衆などの既存の幕府制度上の役職に代わって、事実上の幕府最高諮問機関を構成することになる。こうした中で、文明17年(1485年)には奉行衆と奉公衆の間で衝突を起こすまでに至っている。義政は奉行衆を基盤に置いていたが、息子の9代将軍足利義尚は奉公衆>>137を近臣に取り立てていたため、衝突は権力を巡って発生した事件であった。

武官である奉公衆は管領による幕府権力の掌握を目指した明応の政変を機に解体に向かうものの、文書作成・裁判行政を担当する奉行衆の価値は幕府機構が存在する限りは引き続いて存在し、戦国時代に入って10代将軍足利義稙・11代将軍足利義澄の2人の将軍が並立した時期には奉行衆も分裂して双方に幕府機構が存在した。また、この時期になると御前沙汰に将軍が出席するのも稀となり、将軍の側近集団によって新たに再編された内談衆(殿中申次・内談方)が奉行衆による沙汰の結論を将軍に伝えて裁可を仰ぐようになった。このように奉行衆は室町幕府の行政機構を支える存在として幕府滅亡まで存続したと考えられている。

139とはずがたり:2014/01/26(日) 22:43:31

内談衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%AB%87%E8%A1%86

内談衆(ないだんしゅう)とは室町幕府の引付方あるいは内談方において所務沙汰の審議にあたった構成員。鎌倉幕府に置かれた引付衆の後身的存在であるため、引付衆(ひきつけしゅう)とも呼ばれた。

概要
内談(ないだん)とは、室町幕府の諸機関それぞれで行われていた部局内の会議のことであったが、足利直義が引付衆を再編して所領問題を扱う専門部局して内談方を置いて以後、内談方の構成員を指すようになり、更に直義の失脚で引付方が復活した後も継承された。

内談衆は担当地域ごとに3番(内談方)あるいは5番(引付方)に分けられて、足利氏一門や守護大名を代表である頭人のもとに約10-20名が任命されたが、その多くは鎌倉幕府の評定衆・引付衆・奉行人の末裔であり、室町幕府の評定衆や奉行人を兼ねるものもいた。彼らは月に6回程度、頭人邸にて内談を開き、管領や政所が受理した鎌倉府支配地域及び九州を除く所領に関する訴訟(年貢・用水訴訟も含む)の処理にあたった。審議は最古参格の奉行人が頭人に次ぐ開闔(次官及び事務局長格)が案件を説明し、籤の抽選順で内談衆が意見を述べていった。結論は文書化されて将軍の決裁を得て正式な効力を得た。

ただし、14世紀後半頃(因みに応仁の乱が1467-1477)から将軍が評定衆や内談衆による審議よりも、自らが主宰する御前沙汰などによって問題処理を図るようになったこと、事務・法務職員であった奉行人が奉行衆として直接審議に参加できる資格を得るようになったことから形骸化してしまい、15世紀前半には引付方は有名無実と化した。

なお、足利義晴の頃より内談衆が再び幕政に登場するようになるが、これは引付方が復活したのではなく、義晴の擁立に参画してその後奉行衆に代わって義晴政権を構成した「殿中申次」などと呼ばれていた将軍側近集団を組織化するとともに、彼らの出自身分や奉行衆・奉公衆などの職制の枠に捉われない新たな格式・待遇を与えるためであったと考えられている。この時代の内談衆は御前沙汰を開いて、臨席することがなくなった将軍に対して意見を進言したり、奉行衆と将軍との間の取次を行ったり、時には御料所の代官を務めるなど、将軍の親裁を補佐する役目を果たした。

140とはずがたり:2014/01/26(日) 22:44:10

御供衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%BE%9B%E8%A1%86

御供衆(おともしゅう)とは、将軍の出行に供奉するものであり、御相伴衆のように幕府における身分・格式を示す一種の称号であった。その格式は、御相伴衆・国持衆・準国主・外様衆に次ぐものであったが、将軍の出行に供奉するという点で、将軍に最も親近な名誉的な職であったと推測されている。

三番編成であり、構成員は御相伴衆を出す家の子弟や弱小守護家の当主、奉公衆や政所執事伊勢家など多岐に渡った。その役割は将軍出行の行列の行装を整えることにあり、遊興目的などに際しては供奉の必要がなかったという。供奉にあたっての人数は5〜6名前後と一定せず、往復で人員が異なることもあったというが、御供の中心は何れにおいても御剣役が中心でおり、その役目を担う家は固定されていた。

御供衆の成立[編集]
御供衆が記録にはっきりと現れてくるのは、足利義政の寛正年間頃からであるという。それ以前の武家様における将軍出行の供奉は大名が務めていたが、寛正頃(1460年- 1466年)になると義政の頻繁な出行や出行を担ってきた小侍所の形骸化に加え、諸大名間の派閥抗争の激化が従来の大名による供奉を難しくした。これによって新たな形式が求められ、足利義量が行っていた近習供奉の形式を参考に、新たな方式として整えられたと考えられている。この義政期に成立した形式が明応の政変まで維持されたという。

相伴衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%9B%B8%E4%BC%B4%E8%A1%86

相伴衆(しょうばんしゅう、御相伴衆とも)は、室町幕府における役職的な身分の一つ。将軍が殿中における宴席や他家訪問の際に随従・相伴する人々の事。管領家の一族や有力守護大名に限定されていたため、一種の社会的身分としての価値が生じて幕府内の職制にも反映されて管領に次ぐ席次を与えられるようになった。

将軍の外出などに守護大名が随従する慣習は足利義満の頃には成立していたが、役職・身分としての相伴衆の成立は足利義教の永享年間であると推定されている。即ち「相伴衆」といえば山名・一色・畠山(匠作家)能登守護・細川(讃州家)阿波守護・赤松・京極・大内の7家の当主を指していた。

このうち『宗五大草紙』等における格式・礼式の規定を見ると、赤松・京極・大内の3家は相伴衆中では下位に位置づけられていたようである。

新興戦国大名の名誉格式へ

だが、戦国時代に入ると、朝倉孝景や北条氏康、尼子晴久、斎藤義龍など守護大名ではなくかつ在京して将軍に随従する事もない地方の戦国大名が任じられる例も増えて、役職としての意味合いは希薄化して大名の格式を示す身分としてのみ存在するようになる。また、本来は細川氏の家臣であった三好長慶が足利義輝より相伴衆に任じられてその身分的権威をもって管領の役職を代行して幕政の実権を握っている。

更にこれとは別に将軍家に近い公家が相伴衆に任じられる例があった。永正の錯乱の際に足利義澄に従って京都を脱出した日野高光、出家隠遁した冷泉為広、妻の実家今川氏に逃れた正親町三条実望は義澄の相伴衆であったという。

職制としては室町時代のみであるが、戦国時代から江戸時代初期に見られる御伽衆は、しばしば相伴衆とも呼ばれ、将軍(あるいは大名)に仕えた似たような役職である。

141とはずがたり:2014/02/07(金) 01:06:53

管領代と云えば大内の印象だが資料的には六角定頼のみだそうな。守護大名ではなく守護代クラスの管領代としては三好長慶やこの茨木長隆が挙げられる。

また今谷氏が茨木長隆を管領代に擬しているそうだが,伊勢貞親が「康正元年(1455年)頃から義政の御内書に副状を添えるようになりそれまでは管領細川勝元が発給していた副状に代わり義政の御内書発給数が上回り幕府奉行人の管轄が管領から貞親(将軍)へ移動、奉行人奉書または御内書を通して義政の親政を支え」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E8%B2%9E%E8%A6%AAたとあるけど,貞親的な立場(政所執事代?!)だったのでわ?(貞親も伊勢氏にも拘わらず最初は政所執事になっていなかったがどういう事情だろう??)

茨木氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%A8%E6%9C%A8%E6%B0%8F

概要
茨木氏は、摂津国島下郡茨木を本貫とした国人領主で、室町時代には茨木城http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1063013969/301を中心とした地域で活躍した。代々室町幕府に仕えていたと見られる。戦国時代の初期に摂津国人一揆に参加したため細川政元の攻撃を受け、一族の多くが自刃するなど一時衰退するが、茨木長隆(伊賀守)の代に細川晴元に仕え栄達した。しかし、江口の戦いで晴元が敗北すると長隆も没落する。茨木重親(佐渡守)の代に三好氏に代わって台頭した織田信長に臣従したものの、1571年、摂津三守護の一人和田惟政とともに池田氏を攻撃した際に、白井河原の戦いで敗北を喫し、重親は荒木村重に討ち取られ、まもなく茨木城も落城し、茨木氏は没落した。大坂の役の際に豊臣方として参加した茨木又十郎は、詳細は不詳だがこの一族出身と推測されている。また、又十郎の子孫との伝承のある茨木氏が東大阪市にある。

茨木長隆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%A8%E6%9C%A8%E9%95%B7%E9%9A%86

茨木氏は応仁の乱後、摂津国人一揆に参加したため、細川政元の攻撃を受けて一時衰退するが、一族の弥三郎が細川氏へ帰順し、以後は春日大社領の給人(荘園領主より給田などの土地を授けられて領主のために奉仕するもの)として、茨木城を中心に摂津東部を支配する小領主として成長した。

管領細川高国が晴元に破れた大永7年(1527年)2月の桂川原の戦いで茨木長隆は他の摂津国衆とともに晴元側に帰参した。

将軍義晴と細川高国は近江へ脱出。以後、長隆は(晴元側から)奉行人として京都代官を任され、晴元政権の中心的役割を果たすことになる。義晴の庶兄義維を擁する晴元政権は「堺公方」と呼ばれる擬似的幕府機構を組織して畿内の統治に臨み、幼い晴元を三好元長ら細川家根本被官と茨木氏などの摂津国衆が支える体制となった(柳本賢治は元長と対立して陣没)。

享禄4年(1531年)3月の大物崩れ以後、晴元(堺)政権の下で三好元長が擡頭するが、将軍義晴との和睦問題を巡って間もなく晴元と不和となる。高国討伐の功労者であった元長に対しそれを邪魔者と見る畿内の国衆が晴元の下に結集,茨木長隆もまた三好元長と仲の悪い同族の三好政長や木沢長政と組み元長と対立した。
元長が畠山義堯(総州家)と組んで木沢の飯盛山城を攻めると翌天文元年(1532年)長隆ら摂津国衆は一向一揆を煽動し、逆に義堯・元長を堺に追い詰めて自害に追い込んだ。ここに堺公方府は崩壊する(この時晴元は在京?義晴は1532-1534と近江桑実寺で近江幕府を主宰)。

142とはずがたり:2014/02/07(金) 01:07:25
>>141-142
だがこの後、長隆ら摂津国衆と一向一揆衆の確執が表面化,一揆衆は京都山科に本山を構える法主証如の意向と関わりなく暴走し翌年にかけて晴元政権と各地で激しく戦った。

摂津国衆側は一向一揆に対抗する為,京都代官であった長隆が堺へ下向。河内守護代の木沢長政に浄土真宗の浅香道場を焼き討ちさせた。一方で証如率いる一向門徒の堺攻撃に対抗して諸宗僧徒の動員を決行。長隆は京都の法華一揆(京町衆主体)と結び一向一揆勢力を京都から一掃する(享禄・天文の乱)。

しかし、頑強に抵抗を続ける門徒は石山に本願寺を移し、引きつづき晴元政権と対抗した。この攻勢に耐えかね天文2年(1533年)2月には細川晴元・茨木長隆主从は淡路島への逃亡を余儀なくされる。6月20日阿波から大坂に渡った三好元長の嫡男千熊丸(長慶)の仲介により証如との和睦が成立。しかしこの間(1533/2-6)京都は木沢長政の軍がわずかに残ったほかは、門徒を追い払い増長した法華一揆の自検断が支配する無政府状態に置かれた。
これは荘園制を基盤とする公家・寺社など京都の諸権門の危機であり、それらに依存する晴元・長隆らの忌む所でもあった。ここに長隆らは法華一揆とも対立するようになり天文5年(1536年)には六角定頼および山門等の兵力を利用して京都の法華一揆を弾圧(天文法華の乱)。漸く晴元政権は京の安定を確立する。

今谷明はこの時期の幕府奉行人奉書に関する研究から茨木長隆の政治的地位の高さを指摘した。従来、晴元政権における重要人物は初期には柳本賢治・三好元長、後期には木沢長政らが知られていたが、長隆に言及されることは殆ど無かった。だが今谷は、柳本・三好ら重要人物(山城守護代クラス)へも奉書を下している茨木長隆の方が地位は上であったとする。長隆が連署した奉書あるいは長隆発給の添状は、細川氏の領国経営のみならず、幕府奉行人への指示も含み、その政治的位置は管領代(右京兆代)ともいうべき地位にあった。即ち形式的な主君である足利義維(のち義晴)・細川晴元に次ぐ地位であり、実質的な畿内の最高実力者とする説である。但し「堺幕府論」などと同様、茨木氏の過大視傾向も他の論者の反論を受けている。

晴元政権内での長隆は三好政長と結び、荘園制の維持を基本として国衆の押領停止などを命令、荘園領主である在京諸権門の権益を徹底的に保護したため、朋輩であるはずの国衆との間に晴元政権内での権力闘争が激化した。摂津国衆の中でも池田氏・伊丹氏ら急進的な勢力が長隆から離反し、嘗て没落させた三好元長の子である三好長慶の下に集まるようになる。天文18年(1549年)遂に長慶が細川氏綱を擁して立ち、両者は江口の戦いで激突。細川家嫡流をめぐる晴元・氏綱の戦いであったが、管領代の座を争う長慶・長隆の争いでもあった(と云う事になる)。

六角軍の遅延もあり三好政長が敗死する等長慶側が勝利し長隆もまた没落した。長慶は氏綱を擁して入京すると晴元や足利義晴・義輝父子を近江へ追放しやがて畿内支配を確立する。しかしこの後、長隆は宿敵であった氏綱政権に帰参したものと思われ,天文22年(1553年)に氏綱が丹波国衆に発給した文書に奉行人として長隆が現れている。但し嘗てのように政治的影響力を発揮する場面は最早なく、没年も不明である。

143とはずがたり:2014/02/07(金) 18:28:39
>>137-140

申次衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B3%E6%AC%A1%E8%A1%86

申次衆(もうしつぎしゅう)とは、室町幕府の職名の1つ。
申次とは奏者とも呼ばれ、元来は天皇や院に奏聞を取次ぐ役目をする人物を指し、鎌倉幕府や室町幕府でも将軍に奏聞を取次ぐ人を指した。幕府の申次は将士が将軍に拝謁するために参上した際にその姓名を将軍に報告して拝謁を取り次ぎ、同時に関連する雑務も処理した。室町幕府6代将軍足利義教の頃には伊勢・上野・大舘・畠山の4氏出身者によって独占されるようになり、彼らは数名で結番して交代で申次の職務にあたった。これを申次衆と呼び、後に御相伴衆・御供衆・御部屋衆に次ぐ家格としての意味を有するようになった。
近年では、伊勢盛時(北条早雲)も申次衆の1人であったと考えられている。

大舘尚氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%98%E5%B0%9A%E6%B0%8F

寛正4年(1463年)に父・教氏が38歳の若さで急逝するが、祖父持房の後見を受けて8代将軍足利義政(義教の子)に出仕する。文明元年(1469年)に将軍世子足利義尚に付けられて申次となり、義尚の将軍就任後は御供衆・申次衆を務めて奉公衆第五番番頭を兼務、二階堂政行・結城政胤と共に将軍側近として活躍した、後に義尚の偏諱を受けて尚氏と改名した。

長享元年(1487年)の六角高頼征伐(長享・延徳の乱)には奉公衆第五番を率いて参加、政行・政胤と共に評定衆に任じられて、義尚の政務決裁に参与した。2年後に義尚が急逝すると、即時撤退を唱えて六角氏の反撃を食い止めた。だが、義尚の元で権力を振るった政行・政胤らに連座して失脚して番頭も解任された。その後も幕府に用いられて永正2年(1505年)に従四位下に叙せられる。

また、若狭の青保・松永・安賀・鳥羽・宮川各荘など北陸地方における幕府御料所の代官を務めた。12代将軍足利義晴の代には幕臣の長老として重んじられて申次・内談衆に任じられ、娘を義晴の側室にするなど破格の待遇を受けた。

尚氏は有職故実に詳しく、能筆として知られた他、和歌・連歌・蹴鞠にも通じていた。このため、三条西実隆ら公家や僧侶とも親交が厚かった。更に役職柄、各地の戦国大名との連絡役を務めることが多く、特に越後の長尾氏との取次に関する史料が残されている。義晴−尚氏−長尾為景・晴景の交渉は、次代の足利義輝−大舘晴光−長尾景虎(上杉謙信)へと継承されることとなる。

有職故実の著書としては、『大舘常興書札抄』・『大舘年中行事』などがある他、晩年に執筆された日記『大舘常興日記』は戦国期の室町幕府の動向を知る上で貴重な史料となっている。晩年は出家して常興と名乗り、伊予入道とも称したが、天文15年(1546年)の舎利寺の戦い後に近江国に逃れた義晴に老齢であった尚氏が同行したとされていることから、具体的な没年は不詳であるが、この時点では健在であったと考えられている。

144とはずがたり:2014/02/20(木) 10:44:39
紀州すげえ。
今じゃあ糞自民の金城湯池の堕ちてるけど昔は先進的分権的自治国家だったようだ。

紀州征伐
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90

紀州征伐(きしゅうせいばつ)または紀州攻めとは、戦国時代(安土桃山時代)における織田信長・羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことである。一般的には天正5年(1577年)の信長による雑賀攻め、同13年(1585年)の秀吉による紀伊攻略を指すが、ここでは天正9年(1581年)から同10年(1582年)にわたる信長の高野攻めも取り上げる。
信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまらなかった。紀伊は寺社勢力や惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地だったからである。根来・雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのである。

中世を体現する国、紀伊

ルイス・フロイスの言を借りると16世紀後半の紀伊は仏教への信仰が強く、4つか5つの宗教がそれぞれ「大いなる共和国的存在」であり、いかなる戦争によっても滅ぼされることはなかった。それらのいわば宗教共和国について、フロイスは高野山、粉河寺、根来寺、雑賀衆の名を挙げている。フロイスは言及していないが、五つめの共和国は熊野三山と思われる。共和国と表現されたように、これら寺社勢力や惣国一揆は高い経済力と軍事力を擁して地域自治を行い、室町時代中期の時点でも守護畠山氏の紀伊支配は寺社勢力の協力なしには成り立たない状況だった。
紀伊における武家勢力としては、守護畠山氏をはじめ、湯河・山本・愛洲氏などの国人衆が挙げられる。室町時代、これらの国人衆は畠山氏の被官化したもの(隅田・安宅・小山氏など)、幕府直属の奉公衆として畠山氏から独立していたもの(湯河・玉置・山本氏)に分かれていた。
室町時代を通じ、畠山氏は前述の通り寺院勢力との妥協を余儀なくされながらも、紀伊の領国化(守護領国制)を進めていた。奉公衆の湯河氏らも応仁の乱前後から畠山氏の内乱に参戦することが増え、畠山氏の軍事動員に応じ、守護権力を支える立場へと変化していった(教興寺の戦いなど)。一方で15世紀後半以降、畠山氏の分裂と抗争が長期間続いたことが大きく響き、また複数の強力な寺院勢力の存在もあって、武家勢力の中から紀伊一国を支配する戦国大名が成長することはなかった。国人衆は畠山氏の守護としての動員権を認めながらも、所領経営においては自立した存在だった。

治外法権の地、境内都市
中世において、寺領は朝廷も幕府も無断で立ち入ることができない領域だった。寺院内部への政治権力による警察権は認められず(検断不入、不入の権または守護不入を参照)、たとえ謀反人の捜査といえども例外ではなかった。もちろん軍事力による介入など許されない。また、寺領内では政府の徴税権も及ばなかった(諸役不入)。このような、いわば世間に対する別天地である寺院の境内は、苦境にある人々の避難所(アジール)としての性格を持つようになる。一度寺に駆け込めば、外での事情は一切問われない。犯罪者ですら例外ではなかった。境内は貧富貴賎さまざまな人々が流入し、当時の寺社の文化的先進性と結びついて都市的な発展を遂げる。多くの有力寺社は京都など政治の中枢から遠くない場所にありながら、政治的中立、軍事的不可侵に守られて商工業や金融の拠点として強い経済力を持つようになった。これを「境内都市」(自治都市、宗教都市も参照)という。高野山や根来寺は、典型的な境内都市である。

「惣分」と「惣国」
当時の僧侶は大別すると二種類に分けられ、仏法を学び修行する学侶(がくりょ)と寺の実務を取り行う行人(ぎょうにん)があった。時代が下るにつれて各寺とも行人の力が増大し、戦国時代の時点では寺院の武力はほとんど行人の占める所となり、寺院の動向も行人らの意思に左右されるようになる。紀北の地侍たちは高野山や根来寺に坊院を建立し、子弟を出家させてその坊院の門主に送り込む行為を盛んに行った。根来寺の主だった行人は、泉識坊が土橋氏、杉之坊が津田氏、また成真院が泉南の地侍中氏など、紀伊のみならず和泉・河内・大和の地侍で構成されていた。これら地侍出身の行人たちが「惣分」という会議を構成し、根来寺の方針を決定していた。つまり、実態としては根来寺の看板を借りた地侍の連合による統治だった。地侍らは境内都市根来の富力を背景に和泉南部へと勢力圏を拡大していった。
雑賀では、『昔阿波物語』に「主護(守護)はなく、百姓持に仕りたる国にて候」と記されるほどに守護の影響力は薄かった。地侍たちは一揆の結束を武器に、守護の支配を排して自治を行った。これを「惣国」と呼ぶ。雑賀惣国の範囲は海部郡から名草・那賀郡の一部にまで及んだ。

145荷主研究者:2014/04/06(日) 11:30:26

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20140316000026
2014年03月16日 09時30分 京都新聞
三成ゆかりの3市スクラム 長浜・米原・彦根、全国に魅力発信

三成の魅力を全国に発信しようとスクラムを組んだ(左から)長浜市の藤井市長、彦根市の大久保市長、米原市の平尾市長=彦根市・清凉寺

 戦国武将石田三成の魅力を全国に発信しようと、ゆかりのある長浜、米原、彦根の3市がスクラムを組んで「三成会議」を15日、立ち上げた。彦根市古沢町の清凉寺で第1回の会議を開き、3市長が「石田三成に逢(あ)えるまちづくり宣言」に署名した。関ケ原合戦で「敗軍の将」となり、ゆがめられた三成の歴史的評価の誤解を解くとともに、全国のゆかりの地に三成会議への参加を呼び掛ける。

 初回の会議には、3市と各市の経済や観光などの計26団体の代表が参加した。各代表の紹介と6団体の取り組みが紹介されたあと、藤井勇治長浜市長、平尾道雄米原市長、大久保貴彦根市長が宣言に署名した。大久保市長はあいさつで、「全国に三成を理解してもらい、観光にもつなげたい」と話した。

 宣言は、「豊臣秀吉を支えた三成公の卓越した行政手腕を評価し、歴史によってゆがめられた姿を正しく評価し直し、三成公の魅力を全国に発信する」としている。会議は年に1、2回開き、事務局は長浜市に置く。

 会場では、観光イベント「三成の戦2」も催され、歴史作家桐野作人さんの講演などがあった。

146荷主研究者:2014/04/13(日) 12:23:43

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20140405102.htm
2014年4月5日02時49分 北國新聞
前田利家、佐々成政の古戦場 弾丸はタイ産鉛 金沢・切山城

火縄銃の弾丸が出土した切山城跡の発掘現場=2011年12月3日、金沢市桐山町

 金沢市が国史跡指定を目指す「加越国境城郭群と古道」の調査で、加賀の前田利家と越中の佐々成政(さっさなりまさ)が戦った切山(きりやま)城跡(同市桐山町)から出土した火縄銃の弾丸が、東南アジアのタイで産出した鉛で製造されたことが4日までに分かった。タイ産鉛の出土は北陸で初めて。織田信長や豊臣秀吉が政権を握った織豊(しょくほう)時代、最盛期を迎えた南蛮貿易との関連を示す貴重な発掘資料で、海外の物資を調達して覇権を競った戦国武将のダイナミックな姿が浮かび上がった。

 切山城跡の弾丸は2011年11月、金沢市埋蔵文化財センターの発掘調査で出土した。市は国立歴史民俗博物館に弾丸の分析を依頼し、3月末発行の調査報告書に結果を掲載した。

 分析は「鉛同位体比法」と呼ばれる手法で行われ、質量がわずかに違う4種類の鉛の同位体比が世界各地の鉱山で異なることを利用して産地を調べた。その結果、切山城跡で出土した弾丸の鉛は、日本や朝鮮半島、中国華北・華南のいずれの産地とも異なり、タイのソントー鉱山で産出されたことが分かった。

 国内でタイ産の鉛が出土した例は、キリシタン大名大友宗麟(おおともそうりん)の館跡である大友氏遺跡(大分市)の十字架や、島原の乱でキリシタンが立てこもった原城跡(長崎県南島原市)の弾丸など九州に多い。近年では長(なが)篠(しの)の戦い古戦場(愛知県新城市)や駿府(すんぷ)城跡(静岡市)の弾丸でも確認されているが、北陸では切山城跡が初めてとなった。

 鉛同位体比法で東アジアの金属流通を研究する平尾良光別府大教授によると、織豊時代、中国に輸出する大量の銀を精錬するため国内産の鉛が消費された一方、火縄銃の普及で弾丸の需要が急激に高まり、ポルトガル、イギリス、オランダなどの船で中国やタイの鉛が輸入された。

 タイ産鉛の弾丸が前田、佐々いずれかの勢力に渡った経緯は不明だが、平尾教授は、南蛮貿易が戦国大名の武力を支える上で大きな意味を持っていたと考えており、「北陸でタイの鉛が見つかった意義は大きい。全国にどれだけ広がっていたのかを示す好材料となる」と指摘している。

147とはずがたり:2014/11/18(火) 18:46:59
仁和寺、大覚寺及び勧修寺は明治2年迄そんな権限持ってたんか!

受領名
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%97%E9%A0%98%E5%90%8D

朝廷・寺院の授ける受領名
京都においては、朝廷や御所や寺院の用をはたす商工業者や芸能者に限り、家格や家業に箔をつけさせるため、金品次第により守、介、掾などの受領名を授け、特権的立場を与えた。受領名を有する商工業者が扱う商品は、ブランドとしての附加価値が認められ、同じ業種の職人がつくった商品の中でも、破格の値段で取引される。こうしたことから、多くの業者が自身の名誉と商売繁盛を期して受領名を求めた。
特に戦乱に疲弊し、武家に荘園を横領されてきた朝廷や寺院にとり、官位や受領名の授与は、貴重な収入源でもあった。

時は下り、明治政府は、1869年(明治2年)5月8日に、仁和寺、大覚寺及び勧修寺に許可していた受領名の授受を廃止し、授受された者に対してその利用を停止する旨の布告を行った。これにより、寺院による受領名授受の歴史は終了した。

武家の受領名
室町時代以降、守護大名の間において武功ある家臣や被官に対して、朝廷の正式な位階や除目の伴わない、非公式な官名を授ける風習が生まれる。これが受領名である。多くの場合、大名の傘下にあって城や領地、兵力を有する国人や武将がその対象であった。この風習が転化し、自官や百官名、東百官という人名呼称が武士の間において定着するようになる。こうした主君から受領名を授かる際に交付されるのが官途書出、あるいは受領書出、官途状などといい、武家の格式と功名をあらわす栄誉として重んじられた。

江戸時代以降も官途状の付与という慣習は続いたものの、江戸幕藩体制下では武家官位という形で官職が身分秩序の統制に用いられたため、戦国時代のような幕府や有力大名とその重臣の間で官職が授受または私称されることはなくなっていった。但し、古河公方の流れを汲む喜連川氏は代々、非正規の官名ながら左兵衛督を私称することが容認されており、大名旗本級の身分では受領名を名乗る稀少な例ということができる。

148とはずがたり:2015/01/27(火) 15:14:14
>>97
【三好政権樹立迄】

三好元長
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%85%83%E9%95%B7

永正17年(1520年)三好氏の中央政界登場を果たしその総帥であった之長は細川高国に敗れた際に処刑されており、その世子であった長秀はそれ以前に戦死していた。このため、之長の直系孫であった元長が三好氏の新たな総帥となったものの、高国への反撃に出られぬまま阿波において、之長が擁立していた主筋である細川澄元の遺児六郎(後の晴元)と共に逼塞していた。

将軍に返り咲かせた足利義稙との仲違いに陥ろうとも、新将軍に足利義晴を据える事で磐石を保とうとした高国の独裁政権は、大永6年(1526年)7月に細川尹賢の讒言で香西元盛を誅殺した事から綻びを見せた。謂れの無い上意討ちに元盛の2人の兄波多野稙通、柳本賢治が丹波で造反するも、大内帰国後の高国の政権は鎮定できぬほど軍事力の弱さを露呈したのである。

これを好機と捉えた三好元長と細川晴元(六郎)達は、同年10月に阿波で挙兵。足利義維(義晴の兄弟)を擁して高国軍に挑み畿内まで進軍して越年。高国に造反した波多野軍との合流を果たすと、翌7年(1527年)3月には官軍(高国と義晴の連合軍)と激突し、これを撃破(桂川原の戦い)。官軍を近江へ追い落とし、立場を逆転させた。京には実権を掌握した阿波の国人・三好元長や◆細川晴元らが入り,足利義晴は高国や武田元光を伴い近江に逃れた。
さらに、遁走により政治機能を喪失した高国政権に替わるべく堺公方(堺大樹)の樹立に貢献。近江に逃れた将軍は◆六角定頼と越前の朝倉宗滴らの加勢を得て堺公方派の駆逐を期する高国軍であるが同年11月19日には桂川周辺の泉乗寺で三好軍が撃退、六郎による新たな畿内支配体制を確立させるべく大いに尽力した。
三好元長は大永8年(1528年)7月、それまでの功績により三好元長は山城守護代に任じられる(堺公方から?)。堺公方では三好氏の重鎮であった三好政成(政康の兄)が朝廷との折衝役を果たしていた。

一方,享禄元年(1528年)には◆足利義晴は◆朽木稙綱(幕府奉公衆)を頼って朽木(興聖寺)に落ち延び、若狭の武田元光らの軍事力を背景に、三好元長らが擁立した堺公方・足利義維と対立した。この時は後年に近江幕府として近江に逃げたときのような奉公衆・奉行衆を引き連れたものではなかったとも云われるが,一定の体裁を整えたものであったらしい>>127-128
しかし元長自身は翌享禄2年(1529年)には新たに同僚となった柳本賢治らと折り合いを悪くした為、阿波に逼塞する。

その間、伊勢の婿・北畠晴具の他に、ようやく播磨守護代・浦上村宗の加勢を得て、再挙兵した高国軍が中央進出のための地固めとして、播磨国内の各地を転戦、勝利を重ねていた。その播磨へ迎撃派遣された柳本賢治を享禄3年(1530年)6月の急死(暗殺とも)で失うと、高国と村宗の連合軍には8月に摂津への侵攻を許すなど、元長不在の堺公方派は旗色が悪くなり、ついには薬師寺国盛のように高国軍に降伏する者が現れるなど、窮地に追い込まれつつあった。

享禄4年(1531年)2月、六郎(晴元)の懇願によって三好元長は堺公方に復帰するも、事態は逼迫していた。播磨からの転戦に次ぐ転戦で、破竹の進撃を見せてきた高国と浦上の連合軍には手を焼かされ続けた上に、翌3月には堺公方派で河内からの新参・木沢長政が京の防備を放棄し、撤退した為、高国軍の京都奪還を許してしまう。

目障りな堺公方を討滅せんと、意気盛んな高国軍に摂津南部まで迫られた窮地に際し、阿波からの増派軍8000を得て、高国軍の先鋒に打撃を与えた堺公方派ではあった。しかし増派軍を加えたとはいえ、堺に鎮座する義維を守るための戦力を半数以上も割かねばならぬ為、純粋に高国軍と対峙するには少なく、元長の手腕に依存するところが大きかった(中嶋の戦い)。

149とはずがたり:2015/01/27(火) 15:14:43
>>148-149
戦局は高国軍の出鼻を挫いたために警戒され、戦線の膠着化を招いた。そして同年6月、高国軍の増援として現れた赤松政祐は元々家臣筋である浦上への恨みからの裏切りにより事態は進展。呆気ないほどの大勝で高国軍を壊滅させた(大物崩れ)。高国は処刑され、翌日摂津で尹賢(野州家より典厨家へ入った)も晴元派の木沢長政に殺されてしまう。

仇敵・高国の討滅という目標を達成した堺公方派ではあったが、その内部では直ちに以後の方針を巡って不協和音が生じだした。三好氏らにとってみれば現職将軍とはいえ朽木に逃げ込んだりしている(この時期は何処にいたのかね?)義晴を将軍職から追放し自分達が擁する義維を新将軍に据えさえすれば、六郎の堺幕府は公認されるという中で主君の六郎が、義晴には実力者六角定頼が付いており,晴元との和睦を模索していた定頼に応じる動きを見せたのである。

せっかく苦労して築いてきた堺幕府の放棄にも等しい六郎の決断には、河内の畠山義堯(六郎の義兄弟・妹の嫁ぎ先・総州家5代・後の管領)と共に断固反対したが、聞き容れてもらえなかったばかりか、かえって大きな溝をつくってしまう。これまでの大功が災いしたのか、六郎からはその存在を次第に危険視されてゆく。しかも、六郎の配下としての有望な地位を狙う木沢長政や、三好一門でこの後も一貫して元長の失脚を願い親晴元の従叔父の◆三好政長(宗三)らの暗躍もあって、その溝は一段と深まった。
やがて、木沢長政の存在で立場を悪くしていった元長は、同じく木沢長政の下克上を警戒する畠山義堯(長政の主筋)と結んで義堯による上意討ちを支援する形で、同年8月には長政の居城・飯盛山城を攻囲した。(天文の錯乱>>135)
高国討滅から僅か2ヶ月という堺公方派の内輪揉めであったが、長政を擁護しようとする六郎からの撤兵要請もあって、1度は兵を退けた。

結局晴元は義晴と和睦し,右京兆に就任(史料的に管領との記述は無く管領には就かなかった可能性もある。)
当時幕政に影響を及ぼしているのは六角定頼であり晴元は細川同族連合体制が崩壊した後の畿内の京兆家の当主として在京の戦国大名という形態をとったのかも(京兆家当主としては右京兆[右京大夫]に就任していれば十分)

その後元長は京都三条城に籠もっていた柳本甚次郎(かつて対立していた賢治の子)を、享禄5年(1532年)1月22日に阿波軍を率いて討滅させてしまうと、六郎の怒りを恐れて出家、海雲と号した。阿波守護・細川持隆(六郎の従弟)による、六郎との関係修復の執り成しも成功せず、主従関係を一段と悪化させた。

更に木沢長政の野心を危ぶんだ畠山義堯が翌5年(1532年)5月、飯盛山城を再攻囲。元長も遅れて支援に加わった。この時も主筋の六郎が長政を擁護する姿勢を見せていたが、それにも構わず飯盛山城の包囲し続けた為、長政の命運は尽きかけた。

三好元長の最期

木沢長政討滅が時間の問題となっていた翌6月15日。攻囲軍が一転、窮地に陥った。突如として数万の一向一揆軍によって、背後から襲撃されたのである。攻囲軍は瞬く間に追い散らされ、元長も命からがら堺の顕本寺(法華宗)まで逃げ戻った。一方、追撃の手を緩めぬ一揆軍に観念したのか、同月17日に畠山義堯は自害した。

自力での攻囲軍排除を不可能と判断した六郎や長政達は、かねてからの一向宗と法華宗の宗教対立を利用。山科本願寺(本願寺10世証如)から了承を得て、一揆軍に支援を仰いだのである。この時の一揆軍にとって、飯盛山城の攻囲軍を追い散らす事よりも、一向宗にとっての仏敵討滅が目的であった。すなわち、一向宗に敵対する法華宗の庇護者であった三次元長の討滅である。畠山義堯は言わば、巻き添えをくったようなものであった。
同月20日、顕本寺を取り囲んだ頃には一向一揆軍は一段と膨れ上がっており(総勢10万とも言われる)、義維を逃がすのに精一杯だった。対立が抜き差しならぬものになっていたとはいえ,主君晴元から見限られた上に、勝ち戦を大敗北に貶められた元長は自害して果てた。享年32。 その自害の様とは、自身の腹をかっ捌いただけで終わらず、腹から取り出した臓物を天井に投げつけたという壮絶さであった。

こうして無念の最期を遂げてしまった元長であるが、彼の子の長慶、義賢、安宅冬康、十河一存らはいずれも名将で、彼の息子達によって三好氏は大きく飛躍。政権を掌握するほどの最盛期を築くに至った。死後から20年余、長慶によって堺には元長の菩提を弔う南宗寺が建立された。

150名無しさん:2015/01/29(木) 00:45:05
http://hosokawa18.exblog.jp/i4/

関東戦国史について上記ブログが分かりやすくまとめられていて読み物としても非常に面白いです。
お好みに合うかわかりませんが、ご参考まで。

自分は、ごく短期(天正10年3月11日の武田家滅亡から天正10年6月2日の本能寺の変までの約3ヵ月間)
に終わった織田政権の関東支配に興味があるのですが、
それに関連して検索しているときにヒットしました。

>>144
その記事読んだ時は自分も衝撃受けました。
信長や秀吉の、
安土や大坂(中央)以外の権力(地方)は認めない、
武家政権(官)以外の寺社勢力など(民)は認めない、
という執念に。
(カッコ内はこじつけですがw)
信長秀吉家康が統一政権を作ってくれたおかげで今の日本の発展もあるのかなと素直に思います。

151とはずがたり:2015/01/29(木) 09:48:46
>>150
初めましてヽ(´ー`)/
面白そうなブログ紹介感謝です♪
私,遠州人ですので勿論,断然,今川派です!
私一番好きなのが鎌倉期の堂上公家の系図というニッチでマニアックな者ですので戦国時代しかも東国(遠州も含まれるんですが)は門外漢なんですが,今川・武田・北条の三国同盟で天下平定して欲しかった派っす。
また戦国武将では公卿出身の北畠・姉小路・土佐一条の三国司家推しですw

織田政権の関東支配とはマニアックな所へ来ましたね〜(笑)
どの辺の興味・関心から其処に辿り着いたんでしょうか?また宜しかったら聞かせて下さいませ〜。

江戸期は平和な時代で歴史としてはたまらなく詰まらないと思うんですが,大阪と江戸を2極とする国民経済の形成に元禄・文化文政の大衆文化と現代日本資本主義の繁栄の基礎を築いたのは江戸幕府と思ってます。
織豊政権に関してはまだ細川政権の崩壊から三好にかけてネットで情報蒐集してる段階なんで自分の中で判断保留っすねー。

一方で,寺社権門勢力が入り乱れる中世の重層的な権力構造は非常に興味深いだけではなく,現代の単純な国民国家の権力構造(の限界,昨今の世界経済の一極化と民意の二極化)に対して示唆が多いのではなかと思ってます。

152とはずがたり:2015/02/03(火) 19:39:42
岩倉山本氏は細川晴元vs足利義晴の時,晴元側について活躍して出てきた。纏まらないので先行して貼り付け。

【山本家・今川家諸大夫・岩倉①】

今出川家諸大夫山本家/近衛府山本家
ttp://iwarehiko.web.fc2.com/page066.html

 今出川家諸大夫の山本家(町口家)です。
その先祖は坂上田村麻呂であり、その子孫坂上頼次が摂津河辺郡山本庄を開いたことから、その子孫は山本氏を称しました。
代々その地方の豪族として続きますが、その一派が堂上今出川家に仕えて諸大夫となり、江戸末期まで続きました。
特に山本親臣は従三位まで昇っています。なお、この一家は平姓と為っています。

 ※参考リンクに追加した京都岩倉山本家の系図を見ていて気がつきましたが尚親〜尚貞までが実名・官途名が一致しており、同一家系なのは間違いなさそうですね。
 また、近衛府官人の山本家も実名からみてこの一族に係わりが有りそうですね。

坂上氏……平尚親─親資─資幹─尚貞─尚利●─【今出川家諸大夫】山本家正─家久

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)

中世になると文明年間(1469年 - 1487年)、近江佐々木氏の被官であった山本氏がこの地に勢力を拡大し、岩倉と長谷にまたがる小倉山に居館(小倉山城)を築き、若狭街道の京への出入り口であった岩倉地域を押さえ一大勢力となった。

岩倉山本氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/iwa_yamamoto.html

 山本氏は『尊卑分脈』によれば、清和源氏義光流となっている。すなわち、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の孫遠江守義定が、近江国浅井郡山本を本拠にして山本を名乗ったのだという。 ちなみに、義定の兄昌義は佐竹氏の祖である。
 義定の子義経は弓馬の達者として聞こえ、『吾妻鏡』にも記された武人であった。治承四年(1180)、伊豆の源頼朝をはじめとした諸国の源氏が平家打倒の兵を挙げると、義経も弟の柏木甲賀入道義兼らとともに挙兵。水軍をもって琵琶湖をおさえ、北陸からの年貢の輸送を止めるなどして都の平家を苦しめた。しかし、平家の大軍に山本山城を落とされたのち、木曽義仲軍に加わって上洛、義仲の下で若狭守などを歴任している。寿永三年(1184年)1月20日、源義仲は源範頼・義経の軍に攻められ没落。この合戦の直後に子の義弘が右衛門権少尉に任じられているが、山本義経の消息は不明である。

 鎌倉時代末期に起こった正中の変に際して、山本九郎時綱は六波羅の命を受けて謀反に加担している土岐頼員の宿所へ討ち寄せ、頼員の子頼兼を討ち取ったと『太平記』に記されている。山本氏が六波羅探題に出仕し、相応の地位の武士であったことが知られる。戦国時代、武田信玄に仕えた山本勘助は、伝によれば九郎時綱の子孫という。 また、中世の洛北岩倉に勢力を有した土豪山本氏も、同家に伝来する系図には九郎時綱の後裔となっている。……

岩倉山本氏の登場

 山本氏の系図によれば、山名氏が将軍義満に謀反を起こした明徳の乱に際して、九郎時綱の孫にあたる山本茂尚が義満に味方して戦死したとある。その子義立は将軍足利義教に仕え、娘が岩倉の伊佐家に嫁いでいることから、この義立のころに岩倉と関わりを持つようになったようだ。 伊佐家は佐々木氏の後裔を称しており、雅綱のとき岩倉に居住するようになったという。 両者はともに近江の出自ということで、縁を結んだとも考えられる。

 やがて応仁の乱が起こると尚親は将軍義政に属して活躍、岩倉一帯、醍醐、河内、近江、丹波などに所領をえた。そして、小倉山に城を構えたという。一方で西川家系図によれば、文明十六年(1484)に細川政元の家臣香西元長が岩倉に乱入しようとしたとき、小倉山城主西川氏の援軍として静原から駆けつけた。これが、山本氏が岩倉に進出するきっかけになったようでもある。いずれにしろ、山本氏は尚親のとき、岩倉に一定の地歩を築いたようだ。

応仁の乱は幕府体制を揺るがし、…いわゆる下剋上の世となったのである。文明四年、乱に加えて飢饉となったことで、京市内には悪党が跋扈するようになった。尚親は内裏を守護した功により、巴橘紋の練絹を賜り、それで軍旗をつくり、家紋とするようになったと系図にある。のちに尚親は従五位下に叙され、佐渡守を称している。

 尚親のあとを継いだ親資は三好氏から養子に入った人物で、足利義尚が起こした六角征伐に従軍している。洛北岩倉を支配下におさめ、将軍家に仕える存在になっていたようだ(義尚に重用された奉公衆?>>137)。将軍義尚が近江の陣で没すると、義材が将軍職に就いたが,明応二年(1493)、義材が畠山政長とともに河内に出陣した留守をついて細川政元がクーデタを起こした。明応の政変である。

153とはずがたり:2015/02/03(火) 19:51:38

【山本家・今川家諸大夫・岩倉②】

打ち続く争乱
 政変を起こして幕政を掌握した政元であったが、後継者のない政元は九条から澄之、分家阿波細川家から澄元と二人の養子を迎えた。これが細川家家臣団を二分することになり、永正五年(1508)、澄之派の香西元長らによって暗殺されてしまった。このとき、山本資幹は香西らに属して行動している。

 以後、細川氏の家督をめぐって細川氏の内訌が連続。永正五年(1508)、前将軍足利義稙を奉じて大内義興が上洛してくると澄元派の細川高国は義興と結んで細川澄元と将軍足利義澄を追放。細川高国・大内義興によって政局は一応の安定をみせた。 山本氏は両細川の乱で錯乱状態にある京にあって、時々の権力者に属しながら勢力を拡大していったようだ。大永七年(1527)、細川高国と三好・波多野連合軍とが桂川で戦ったとき、資幹の子●尚利(尚貞)は連合軍に属して奮戦、戦後、丹波に所領を得たという。桂川で敗れた高国は諸国を放浪のすえ、享禄三年(1530)、高国は浦上氏の支援を得て京に進攻したが、翌年、摂津の戦いに敗れて自害した(大物崩れ)。 かくして、細川晴元と三好元長が京の実権を掌握したが、戦乱から京を守ったのは法華門徒(京の町衆)で、山本氏ら洛北の土豪は法華に加担して行動した。

 その後、晴元と三好元長の関係が険悪となり、晴元は一向一揆をもって元長を滅ぼした。ところが一向一揆が台頭してくると、今度は法華門徒をもって一向一揆を制圧した。さらに、法華門徒が跋扈するようになると比叡山(山門)と通じて法華宗の弾圧へと転じた。 これに法華宗が抵抗したことで天文法華の乱が起こると、山本氏は田中の渡辺氏らとともに山門に寝返って法華門徒を攻撃した。
 その後の天文七年、山本修理が実相院門跡領を違乱したことが「実相院文書」にある。山本氏が岩倉を本拠として、 在地支配を着実に拡大している様子がうかがわれる。

混沌を極める乱世

 幕政を掌握した細川晴元であったが、晴元は将軍義晴と対立するようになり、晴元は晴元を除こうと挙兵した三好長慶と和睦した。仲介に奔走した木沢長政は、河内北半国守護代と畿内最要地である信貴山城を与えられた。大和の国人衆を味方にしていた長政は、天文10年(1541年)7月に笠置城を修築して居城とした。また同年8月、高屋城(羽曳野市)で畠山長経を弑殺してしまった。

晴元の傘下に降った長慶は、晴元の命により細川高国の妹婿になる塩川政年の居城一庫城を8月12日に攻城した。しかし、塩川政年の姻戚になる伊丹親興(伊丹城主)や三宅国村(三宅城主)らが同年9月29日に将軍足利義晴にこの攻城戦の不法性を訴える一方、木沢長政に援軍を要請、山城、大和、河内の大軍を率いて三好軍を後巻にしようとした。しかし、この動きを察知した三好軍は同年10月12日越水城に帰城した。
これを追って木沢軍は越水城を攻囲する一方、その前日の10月11日に義晴の前に進み出て、京都御警固を仰せつけられたいと申し出た。しかし長政の専横に嫌悪感をもっていた室町幕府は、10月29日に管領晴元が北岩倉に、翌10月30日には将軍義晴が慈照寺に退き、その後白川口より近江坂本に逃れて行った。警護すべき将軍が消え去った長政は河内に引き上げていった。この時の北岩倉は山本氏のもとであろう。

、その後,権力を行使する晴元と足利将軍義晴は頻繁に対立し,その度に義晴が近江に逃げ出すという事を繰り返した。このとき、山本則尚は晴元に味方して大雲寺(上薗城)に拠ると、義晴方の細川玄蕃允の攻撃を迎え撃った。 その後、晴元と長慶が対立、長慶は京都近郊の幕府直轄地、晴元方の所領を没収に動いた。
 晴元に加担した則尚は、三好に抗して所領の確保に努めた。天文二十年(1551年)、三好勢が岩倉に来攻してくると尚利は長慶に対抗したが、岩倉山本館は放火され、岩倉・長谷は三好勢の乱妨にさらされた。三好軍は再三にわたって岩倉を攻め、尚利は将軍に方に属して三好軍と交戦したようだが、遂には三好方に転じて二十二年には佐竹氏とともに晴元軍と戦っている。

154とはずがたり:2015/02/03(火) 19:53:06
>>152-154
【山本家・今川家諸大夫・岩倉③】

 永禄七年(1564)三好長慶が病死したことで、京は長慶の重臣松永久秀と三好三人衆との権力争いの場となった。尚利は三好三人衆に従って、幕府奉行衆の三淵藤英(異母弟に細川藤孝)と交戦した。

 永禄十一年、京の混乱を横目に、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛してきた。尚利は信長・義昭に通じて所領の安堵を得たが、翌年、信長の不在を突いて三好三人衆が京都に侵攻、義昭の宿所を攻撃すると、三人衆に味方した。さらに、信長と義昭が不和になると、尚利の子俊尚は義昭方についたため、元亀元年(1570)俊尚は近江高島において自害に追い込まれた。俊尚の死後、弟の監物昌尚が岩倉城主となり、俊尚の子尚治は宇治田原に隠れ住んだようだ。 ほどなく信長の浅井・朝倉攻めが始まると、山本対馬守は田中の渡辺氏、上高野の佐竹氏らとともに信長勢に加わり帰参を許された。


戦国時代の終焉

 元亀二年、比叡山攻めが開始されると、尚治は弟らとともに信長の軍に参加、所領回復を願って比叡山攻めに従軍した。しかし、天正元年、義昭が槙島城によって信長に反旗を翻すと、尚治は義昭に味方して渡辺氏、磯谷氏らとともに一乗寺山城に籠った。一説には渡辺宮内少輔とともに静原城に籠ったが、明智光秀に諭されて降伏、以後、光秀に従った。そして、本能寺の変後の山崎の戦いで戦死したという。しかし、『信長公記』には、天正元年、山本対馬守が静原山に籠城、明智光秀の調略によって生害、頚は北伊勢東別所まで送られたとある。 山本氏の敗北は、土豪が割拠した時代から統一政権の成立を示すものであり、中世の終焉を象徴するものであった。
 尚治の戦死後、山本氏は岩倉から没落したようだ。その後、監物昌尚の子尚宗が岩倉に帰り、その子孫が実相院宮に奉仕して岩倉に定着。子孫は連綿として現代に続いている。とはいえ、戦国末期の山本氏の動向は諸資料から知られるが、それぞれに登場する人物は伝来する系図と必ずしも一致しない。 おそらく、近世にいたって不都合な人物や事件などは削除、あるいは改竄されたものであろうか。

三淵藤英
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B7%B5%E8%97%A4%E8%8B%B1

三淵 藤英(みつぶち ふじひで、? - 天正2年7月6日(1574年7月23日))は、戦国時代の武将、室町幕府末期の幕臣(奉公衆)。三淵晴員の長男。異母弟に細川藤孝。他の兄弟に長岡好重など。三淵秋豪、三淵光行、朽木昭貞、朽木昭知(三淵昭知)、朽木昭長の父。通称は弥四郎、官途は弾正左衛門尉、大和守。別名は顕家(あきいえ)。初名は藤之(ふじゆき)、のち藤英。「藤」の字は将軍足利義藤(後の義輝)より偏諱を賜ったものである。
永禄8年(1565年)に第13代将軍・足利義輝が永禄の変で松永久秀・三好三人衆に暗殺されると、藤英は弟の藤孝と共に義輝の弟で一乗院門跡の覚慶を擁立して近江矢島にて還俗させ、共に越前国の朝倉義景を頼り赴き、ついで織田信長を頼った。
義昭が織田信長に擁立されて将軍となると、山城国で伏見城周辺の守備を命じられた。その後も南山城の軍勢を率いて和田惟政・伊丹親興と共に三好氏との戦いに参加する一方、政治にも手腕を発揮して義昭の重臣となる。永禄11年(1568年)に大和守に叙任。
だが、義昭と信長が対立した時に弟・藤孝が義昭を裏切り信長方に付いたことを知って激怒、藤孝襲撃を計画するが失敗する。天正元年(1573年)に義昭が山城槇島城に籠城すると、藤英は二条城の城代となる。だが、信長の大軍に囲まれて軍は潰走したため、居城の伏見城に退き、直後に信長方の将・岩成友通を攻めるが、藤孝と柴田勝家の説得を受けて降伏した。槇島城の戦いの後、義昭は信長によって追放され、室町幕府は事実上滅亡し藤英も信長に仕える。
翌年、信長によって突如所領を没収されて明智光秀の元に預けられて、嫡男の秋豪と共に自害を命じられた。次男の光行は藤孝に預けられてそのまま細川氏に仕える。後に田辺城の戦いにおいて、光行がよく叔父を助けたことを知った徳川家康に高く評価されて旗本として召しだされた。一方、弟の長岡好重は三淵の名跡を継ぎ、細川氏に仕えた。

155名無しさん:2015/04/18(土) 11:49:50
>>144を読んで思ったよしなしごとをつれづれなるままに書いてみます。

日本における、公権力による暴力装置の独占は2段階あるように思います。
1段階目は中世から近世にかけて。
信長や秀吉による寺社勢力の武装解除、
秀吉による刀狩令・海上賊船禁止令・喧嘩停止令、
徳川幕府による兵農分離の身分制、
これら一連の政策で、まず武士階級により、暴力装置が独占されました。
2段階目は明治維新および西南戦争等の内戦を経ての、
国家(明治政府)による、暴力装置の独占です。

イギリス・フランス・アメリカの市民革命や独立戦争と比較して、
日本の明治維新を、「支配層(武士階級)は変わっていないのだからクーデターにすぎない」、
「上からの近代化」と評するのを良く目にします。

ただ、それはある意味、仕方の無いことで、
「公権力による暴力装置の独占」という近代国家の条件を、
「先取りしていた」からこそ市民革命が起きなかったとも言える気がします。

むしろ、近代化以前のヨーロッパでは、
どの程度、「公権力による暴力装置の独占」が進んでいたのか気になります。
市民革命により、「自分たちが選び・コントロールする政府」が出来たからこそ、
公権力に暴力装置をゆだねる事が出来たのかもしれません。

先進的近代国家であるアメリカが、なお銃社会であるのは、
「自分たちが選び・コントロールする政府がもたらす日常の安全・平和」と、
「公権力の暴走の恐れや公権力への不信感」を天秤にかけた上で、
独立心旺盛で建国の志を脈々と受け継いでいるアメリカ人ならではの選択なんだろうなと思います。

156とはずがたり:2015/04/18(土) 16:45:27
なるほど〜。面白いですね〜。

中国とかは辛亥革命後軍閥割拠になりましたが,治安とかどうなってたんでしょうかねぇ?
また日本は第0次段階として大昔の律令体制がありましたがあれは可成りの規律を日本にもたらした感があります。古代豪族が武装解除されたイメージ(実際は中央豪族は貴族化し地方豪族は国衙の官僚化して軍事力を中央が吸収)です。

先日フランス文学の先生にシャルリに関して質問しましたが,フランスは昔(中世以前)からめちゃくちゃな所があって現代にもそれが残っている,という様な言い方をしていて,そういう野蛮なもの(と私は解釈しましたが)が残っていて暴力革命が発生したと云えるのかもしれませんな。

157とはずがたり:2015/06/22(月) 07:17:04
熊と蜂蜜なんて童話の中の取り合わせかと思ってたけど。それにしてもこんな所に清原宣賢の墓所があるとわ。

清原宣賢
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E5%AE%A3%E8%B3%A2

清原 宣賢(きよはら の のぶかた、文明7年(1475年)- 天文19年7月12日(1550年8月24日))は、室町時代・戦国時代の公卿・学者。官位は正三位少納言。子は、嫡男業賢、吉田家を継いだ吉田兼右、等貴(牧庵)、周清(相国寺恵林院南豊軒主)、和歌古今伝授を受けた細川藤孝(細川幽斎)を生んだ娘(智慶院)など。孫は千秋輝季室、枝賢(えだかた、業賢の子、娘にマリア)、教重。
吉田神社詞官神道家吉田兼倶の三男だったが、明経博士だった清原宗賢の養子として入る。宮中に仕えて講義を行い、明経道を整理して和漢にわたる著作をおこなった。享禄2年(1529年)に宮仕えから身を引き、剃髪して環翠軒宗武と号し、学者としての活動に専念した。越前国一乗谷にて天文19年(1550年)に76歳で歿。福井市徳尾の禅林寺に墓所が残る。
国学者・儒学者で歴史上屈指の碩学とされ、多くの著作があるが、そのなかでも各種の抄物は現在も多く伝わり、日本国学研究の基礎資料となっている。なお、清原家は四代後の秀賢から舟橋家を称したため、宣賢を船橋大外記宣賢と記した史料もある。

墓内のハチミツ狙いクマが石扉破壊 福井県指定文化財の史跡荒らす
http://news.goo.ne.jp/article/fukui/region/fukui-20150619083300219.html
06月19日 08:24福井新聞

 福井市徳尾町の曹洞宗禅林寺で、福井県の文化財(史跡)に指定されている儒学者・清原宣賢(のぶかた)(1475〜1550年)の墓の石扉が破壊されたことが18日、分かった。墓の内部にあった巨大なハチの巣も壊されていた。住民らによると、ハチミツを狙ったクマの仕業とみられるという。

 被害に遭ったのは、室町期を代表する儒学者で、越前朝倉氏とゆかりがある宣賢の墓。禅林寺東側の橋立山の麓にある墓地の一角にあり、高さ約2メートルの墓の正面には両開きの石扉が備わっている。中に五輪塔が納められ、傍らには墓碑が建つ。

 17日午後1時ごろ、墓地の草刈りの準備のため訪れた地元の男性が、向かって右側の扉が外され、地面に落ちているのを見つけた。扉は重さ10キロ前後で、金具部分には無理やり引きちぎったような跡があった。

 扉の内側には、ミツバチが大きな巣をつくっていたが、ばらばらに壊され、辺りに散らばっていた。墓の内壁や巣の残骸にはクマとみられる爪跡も残されていた。今月7日に地元住民が寺の掃除で訪れたときには異常はなかったという。

 同寺の総代を務める熊田悟司さん(74)らによると、宣賢の墓は2001年にもクマに扉を壊され修理した。その際も、墓の中にあったハチの巣が壊されたという。熊田さんは「クマを寄せつけないよう、こまめにハチの巣を取り除いていくしかない」と頭を抱える。

 県生涯学習・文化財課の担当者は「ハチが墓の中に入らないように隙間をなくす必要がある。県文化財審議委員と対応を検討していく」と話している。当面は応急処置として、壊れた石扉部分にふたをする対応をとる。

158名無しさん:2015/09/14(月) 22:24:36
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150914-00000000-sasahi-peo
織田家18代当主・織田信孝「『織田廟宗家』を名乗る困った人」〈週刊朝日〉
dot. 9月14日(月)7時7分配信

 戦国時代の武将・織田信長の子孫である織田家18代当主の織田信孝(のぶたか)さんは、織田家を名乗るある人物に困っているという。

*  *  *
 本能寺は寺町御池という京都の中心部にある。信長公廟(びょう)があり、亡くなった家臣の廟もある。塔婆の並ぶところに目をやると、「天正事変戦没者(森蘭丸など)の供養をあなたの名前でしてみませんか? 塔婆1枚……500円」とあった。京都の寺はまことに商売上手である。

 10年ほど前、ここで奇妙な催しがあった。「織田家、明智家が和睦」というものだ。このとき明智家からは、『本能寺の変 431年目の真実』などを著した明智憲三郎氏、織田家からはA氏という人が出てきた。

 明智氏のことは知らないが、A氏は私にあいさつに来たことがあった。元埼玉県の公務員で、安土のそう見寺(そうけんじ※)の住職の末裔(まつえい)であることが彼の父の代で判明したという。そのときの彼は織田家にゆかりがあることがわかって喜んでいるだけに見えた。

 しかし、それからほどなくして、この人は自らを「織田宗家13代当主」と称して、あちこちで「和睦イベント」を始めたり、テレビなどに露出し始めた。明智家との和睦イベントはその一つである。

 私はびっくりした。というよりあきれた。歴史には未知のことが山ほどある。軽々しく後知恵で触れるべきでないというのが歴史学者の常識的な見解だそうだし、子孫にとってはそれが先祖への礼儀だと私は思う。それに織田家には宗家は存在しない。信長の長男(信忠)の血筋は途絶えたので、どの家系も宗家とは名乗らずに今日に至っている。だから、いきなり出てきた「宗家」にも驚いた。

 A氏に会って聞いた話と資料を総合してわかったのはこういう経緯だ(細部は違うかもしれないが、大筋では合っているはずだ)。柏原藩織田家は、藩主が代わるたびに一族から一人、安土のそう見寺に住職を出していた。織田家出身の最後の住職は明治維新で寺を失い、還俗(げんぞく)し、やがて養子を迎えて親子で樺太に渡った。その子は長じて何度か結婚し、数人の子をもうけるが、その一人は養父母に育てられ、姓も変わり、織田家の血筋であることを知らずに生きた。彼が偶然、出自を知ったのは、60歳も過ぎてからだったそうだ。この人の長男がA氏である。

 劇的ではあるが、宗家を名乗るのは無理な話である。また偶然、私の父(故人)がA氏と同姓同名なため、私としては混同されるのも迷惑だった。そんなわけで私は「織田宗家」はやめてほしいと頼み、彼は宗家や当主を名乗らないと約束した。以来、彼と交流はない。

 ところが、である。先日、ネットを見たらこのA氏、「織田廟宗家13世」と名乗り、安土に過去の神社を再建すべく、会を作り、会員を募って会費を集めている。またまたびっくり、である。「織田宗家」でなく「織田廟宗家」だからいいでしょ?ってことなのだろうか。しかし家系名を創作するというのはまずいんじゃないかと思う。

 大名系織田家は現在4家あるが、いずれも、この人やその活動とは関係がない。しかし世間からは織田家というだけで一緒に見られそうで気が重い。友人は「有名税」だと笑うが、有名なのは信長公で私ではない。困ったものである。

※そうの字は、手偏に「総」の旧字体のつくり部分

※週刊朝日 2015年9月18日号

159名無しさん:2015/09/24(木) 22:02:05
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150917-00010002-tokyofm-life
「正座、白菜、医者」わたしたちが観ていた時代劇は間違いだった!?
TOKYO FM+ 9月17日(木)11時40分配信

戦国時代や江戸時代に偉い人が乗っている馬は、サラブレッドふうのかっこいい馬……ではなく、実際は足の短いポニーふうの馬だった……。こんなふうに、私たちが想像している時代劇ふうの江戸のイメージと、実際の江戸の史実が大きく違っていた、なんていうこともあるようです。そんな「時代劇の間違い」をご紹介します。

私たちが見慣れている時代劇には、「現代用」に変えられているものがたくさんあります。
たとえば、言葉。
一人称などは昔ふうですが、口調はほとんど今と変わりない時代劇。
ですが本当は、江戸と今では大きく言葉が違いました。

同じように、時代劇ではお馴染みのシーンも、実際の江戸の町ではありえなかったことがいくつかあります。
たとえば、戦国時代の室内でのシーン。
女性はきちんと正座をして座っていますよね。
実はあれはウソ!
あの時代、高貴な女性たちは、座る際には立膝かあぐらが普通でした。
実際、多くの肖像画に、女性たちは立膝かあぐらで描かれています。

食事のシーンにも、ちょっとした罠が。
もし、江戸時代のドラマでお鍋の中に白菜が入っていたら……?
それはウソ!
白菜が入って来たのは明治時代。
江戸時代のお鍋に白菜が入っているわけはないんですね。

最後に、もう一つ。
戦国時代にチョンマゲを結ったお医者さんが出てきたら、それはウソ!
実はこの時代、お医者さんはほとんどの場合が「坊主」。
医者は戦場に一緒に行って傷ついた兵士を治療するため、「非戦闘員」の印として坊主にしたのだとか。
その名残で、江戸時代もお医者さんは坊主、というのが普通だったようです。
また、僧侶がお医者さんを兼任することも多かったから、とも言われています。

いかがでしたでしょうか。
実際の風景とはちょっと違う形になっている時代劇。
でも、もしリアルすぎる時代劇を作ったら、思い入れしづらくなってしまうのかもしれませんね。

(TOKYO FMの番組「シンクロのシティ」9月16日放送より)

文/岡本清香

160とはずがたり:2015/09/25(金) 22:57:38
しらんかった。実際に本当かどうか調べようとしたらこんな頁が。(肖像画の方はどんな脚の組み方をしてるか解らなかった・・(;´Д`))
憂国の士に拠るとこうなってしまうw
(>>159が真実だとして)一日本人として恥ずかしいわ┐('〜`;)┌

カンヌ映画祭出品の日本映画!立膝をつく出演者?韓国(朝鮮)文化である立膝!韓国人の食べ方は下品?犬食いする?
AKIRA Channel 憂国の士
https://www.youtube.com/watch?v=hIuPW62LQlY
2015/05/17 に公開
朝鮮式横行?朝鮮系入り込む?先日、カンヌ映画祭に出品された日本映画。古きよき日本-と称しているのだが、立膝をつく出演者が話題となっております。TV番組制作会社や映-画制作会社には朝鮮の血が入る人々が結構おります。最近の時代劇の質の低さをみてくだ-さい。これらが混じりこみ、日本の伝統文化を壊そうとしているのを垣間見る事が出来ま-す。
これは明らかに日本の文化ではありません。一昔前の日本の家は、畳の部屋での食事が普-通でした。戦後、高度経済成長期以降、欧米化が加速し、日本人が畳の部屋で食事をする-機会が減りました。
欧米と同じようにテーブルと椅子というのが今の日本人家庭の主流となってきております-。
古き良き昔の時代に、立膝をつこうものならカミナリ親父が怒ったものです。
私はかつて、数万人もの韓国人と寝食を共にしてきました。それにより、彼らに関しては-熟知しております。
彼らは椅子であっても胡坐をかき、立膝をつきます。そして、食事する時は、器を持たず-犬食いをしております。ご飯を食べる時は、箸ではなくスプーン。
口にものをいれながら平気で会話。音をクチャクチャとたて、フォークやナイフを使う洋-食を食べようものなら、キーキー音をたてる。
試しに韓国人経営の韓国料理屋にでも行き、韓国人を観察してみてください。
よくわかります。
彼らは本当に下品でございます。

161とはずがたり:2015/09/25(金) 23:02:35
これか〜。今の日本の現状だけを見てそれが美しいと思いこんで日本の美しき伝統に非礼な振る舞いの国辱的な無知な憂国の士だw

公家の礼法
http://www.kariginu.jp/kikata/10-1.htm
装束着用時の挙措振る舞いなど

建膝(たてひざ)
左足を建て膝にして、右足は正坐状態にします。古代から伝わる坐法で、特に女子が貴人の前に伺候する際の基本的な坐法とされていました。配膳や酌をする際は右利きの便を図って足を左右逆にします。男子の場合は貴人から受命する際の姿とされていたようです。

162名無しさん:2015/10/03(土) 22:10:58
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151001-00000002-sundaym-ent
<青い空白い雲>平和主義の徳川綱吉を「変人」にした薩長?
サンデー毎日 10月1日(木)15時11分配信

 ◇牧太郎の青い空白い雲 連載540

「妊婦と3歳以下の子供は庄屋、町役人が管理・保護する」 という"決まり"があったのは、驚くことに17世紀の江戸である。

この時代、捨て子、子殺しが普通だった。貧しかった。やむなく、五代将軍・徳川綱吉は「捨て子を見つけたら町で養いなさい」と、養う者には養育費として報奨金を与えている。多分、17世紀に《母子保護法》を持った国は江戸以外、世界のどこにもなかったと思う。

    ×  ×  ×

この決まりは「行き過ぎた動物保護法で、庶民は大変に苦労した」といわれた、綱吉の「生類憐れみの令」の中にある。当時、野犬は町に溢(あふ)れ、群れをなし人を襲い、狂犬病を伝染させた。もちろん飼い犬もいたが、その一つはどう猛な唐犬。もう一つは長屋に住み着いた犬。今でいうペットではない。冬になると犬を殺して中間(ちゆうげん)、傾奇者(かぶきもの)は好んで犬鍋を食べていた。

「生類憐れみの令」(1687年)は、この野蛮な気風を変えようとした試み。犬は家族の一員として、どこかの家に属することにする。飼い主のいない犬は幕府が保護する。中野の御犬小屋には最大11万頭の犬が飼育された。

かくして、野良犬はいなくなり、犬への暴力、もちろん犬を殺して食べることは禁止された。

法令がいう「生類」とは「人を含めた生き物すべて」。だから、綱吉にとっては子殺しを禁止する《母子保護法》も当然だった......どう考えても「生類憐れみの令」は悪法とは言いかねる。

    ×  ×  ×

明治以降、なぜ人々は人道主義を貫く類いまれなる天才政治家・綱吉を「変わり者」扱いするようになったのか? その理由は、彼が平和主義だったからではないか?

当時、武家屋敷は「治外法権」で、犯罪者は各屋敷内で勝手に処罰することができた。「犯罪」といって大名、旗本が人を斬る。綱吉はこれが許せなかった。大名、旗本の殺人行為を禁止した。戦国時代の価値観をガラリと変えよう!と思った。武から文へ、である。

163名無しさん:2015/10/03(土) 22:12:21
>>162

元々、徳川家は平和主義。徳川家康は豊臣家を滅ぼした後、「日本国は平和路線で行く!」と宣言。豊臣秀吉が朝鮮を侵略した時、兵を送らなかった家康は朝鮮との国交回復を進め「朝鮮通信使」を招いた。綱吉は「家康の平和路線」の忠実な後継者だった。

これが、明治維新に勝利した薩長、とくに関ヶ原の戦いで徳川に「恨み」を持つ長州には気に入らなかった。 たしかに「あいつが動物を苛(いじ)めました」というチクリも横行し、この法令には弊害もあったが、これを理由に「綱吉=犬バカ将軍」のイメージを意識的に流した。明治維新後の思想はすべからく反徳川だった。

    ×  ×  ×

薩長中心の明治政府は日本人を軍事国家への道に引っ張っていった。戦う「薩長史観」はいつも「勝てば官軍」だった。たとえ道理にそむいていても、戦いに勝った者が正義となり、負けた者は不正となる。この「史観」が、常に日本国の戦争の背景には存在した。

強い日本を作る「皇国史観」が明治、大正、そして終戦前までの昭和、人々を支配したが、本当は「薩長史観」の実践だった。

戦後70年。天皇陛下は「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切」と述べられた。畏れ多いことだが、陛下は、本当は「薩長史観が皇国史観と偽って暴走した」と指摘されているのではないか? 断っておくが、鹿児島県(薩摩)、山口県(長州)に悪感情を持っているわけでは断じてない。両県出身の親しい友人が何人もいる。

でも徳川の平和主義が続いたら、維新後の日本はだいぶ違っていたと思う。

山口県出身の8人目の首相、安倍さんは「勝てば官軍」の申し子だ。「美しい国」とのキャッチコピーで「戦勝国から押し付けられた価値観を大事にする自虐的な歴史観から脱却しろ」と言い続ける。「美しい国」という皇国史観(実は薩長史観)。嘘(うそ)を並べて、国民を騙(だま)してでも安保法案を強行採決した。

物事は勝敗によって正邪善悪が決まる!と信じるのは、戦争好きな「薩長の血」ではないか? と思う昨今だ。

 ◆太郎の青空スポット 富士山にキッズ運転席!

 富士急行大月駅〜河口湖駅26・6キロの特急列車「フジサン特急」は一番富士山に近い路線。標高358メートルの大月から857メートルの河口湖駅まで。高低差500メートル。富士山を正面に望む一号車はサロン席で、本物の運転席隣にキッズ専用ミニ運転席がある。ハンドルを握る我が子の笑顔が忘れられない。

 ◇毎日新聞夕刊にコラム「大きな声では言えないが...」を連載中

164名無しさん:2015/10/25(日) 18:45:30
日本の西洋科学に対する吸収力の高さ・早さはすごかったと思うし、
その吸収力は江戸時代に学問の基礎が築かれたからこそだと思うけど、
日本が西洋科学の影響を受けずに独自に発展していたらどうなっていたかは気になるところ。。。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151025-00016450-president-bus_all
実は世界最高水準だった! 江戸時代の「和算」とは
プレジデント 10月25日(日)16時15分配信

 「和算」をご存じだろうか。聞いたことはあっても、よく知らないという人が大半ではないかと思う。それもそのはず。学校の教科書でもほとんど触れられず、高校の日本史で和算家の代表格、関孝和の名前が出てくる程度だからだ。

 和算とは、江戸時代から明治にかけて日本人が独自に研究、発展させた数学だ。そのレベルは極めて高度で当時、世界最高水準にあった。たとえば、関孝和の弟子である建部賢弘は、「円周率π」の計算で41桁まで弾き出すことに成功。これは天才レオンハルト・オイラーが微積分学を用いて同じ公式を発見する15年も前のことだ。

 数学というと、我々は西洋から学んだものと思いがちだ。確かに明治維新で「西洋数学」を取り入れたが、それ以前に日本には和算という独自の数学があった。だからこそドイツの数学を輸入する際、いとも簡単に日本語に翻訳できたのだ。また、和算の発展があったから、数学のノーベル賞ともいわれるフィールズ賞を日本人は3人も受賞しているのだ。国別の受賞者数では、米仏ロ英に次ぐ5位で、日本はまさに世界に冠たる数学大国であり、その原点が和算なのだ。

 和算は江戸を中心に全国の各藩で盛んに研究された。私の出身地の山形は、江戸に次いで和算が盛んな藩の1つだった。紅花などで大儲けした富裕層がいて文化的なものを尊ぶ風土があり、また冬は雪に閉ざされるため家で数学の問題に打ち込むのによい環境だった。和算には関孝和の関流を筆頭にさまざまな流派があるが、山形では会田安明が「最上(さいじょう)流」をつくり、関流と20年間も優劣を競い合った。

 そこで今回は、この和算に挑戦してみよう。数ある和算書のなかでも、『算法童子問』(村井中漸著)から「大原の花売り」を紹介したい。書名の通り子ども向けの本だが、案外と難しいので侮れない。

 「京都大原の里から、毎日花を売りに来る女がいる。女の家には『桜・桃・椿・柳』の4種類の花があり、そのうち3種類を毎日均等になるように選び、売り歩く。選ぶ順番も同じだという。ある日、『桜・桃・椿』を買った。次に同じ組み合わせの花を購入できるのは何日後になるだろうか? 」

 これは「組み合わせ」の問題である。4種類の花から3種類を選ぶ方法は何通りあるかを考えるのだが、「選び出す花」を考えると複雑になるので、逆に「家に置いてくる花」に着目する。「4種類のなかから3種類を選び出す」ことと、「どれか1種類を家に置いてくる」ことは同じ意味だからだ。

 これを「余事象」といい、ある事象に対して、そうではない反対の事象を指す。この問題は余事象に注目することがポイントになる。要するに発想の転換だ。

 図の通り、花は4種類なので、家に置いてくる花の選び方も4通りだ。したがって4種類のなかから3種類を選び出す方法も同じ4通り。つまり、花の組み合わせは4日で1回りするので、答えは「4日後」ということになる。

サイエンス・ナビゲーター 桜井 進 構成=田之上 信

165名無しさん:2015/11/02(月) 22:55:30
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151102-00000003-sasahi-peo
仙台真田家13代・真田徹「大坂の陣の後、次男は伊達政宗の庇護下で生き延びた」〈週刊朝日〉
dot. 11月2日(月)7時12分配信

 大坂の陣で徳川家康を追い詰め、“日本一の兵”と称される戦国武将・真田幸村。来年、NHK大河ドラマ「真田丸」が始まるのを前に、ゆかりの地に大勢の人が詰めかけるフィーバーぶりだ。幸村の末裔である仙台真田家13代・真田徹さん(67)が秘話を披露した。

*  *  *
 真田幸村は、関ケ原の戦いで東軍についた兄・信之と別れて西軍につき、敗れたのちは、父・昌幸とともに高野山の九度山に逃れました。

 昌幸の死後、幸村は大坂冬の陣、夏の陣を戦いましたが、1615年、夏の陣で討ち死にしました。幸村には子供が13人(男子4人、女子9人)いましたが、長男の大助はこのときに自害。当時、まだ4歳だった次男の大八と4人の娘が奥州に逃れました。そこで大八が仙台真田氏を興し、私はその13代で、幸村から数えると14代にあたります。

 大八や娘たちが生き残ったのは、幸村が生前、大坂の陣で敵方にあった仙台藩伊達氏の家臣、片倉重綱[(しげつな)小十郎]に、子供たちを託したからです。講談などでは、幸村の娘の阿梅(おうめ)が白装束になぎなたを持って重綱の前にあらわれ、「自分は真田幸村の娘だ」という書状を持っていたので、重綱が「自分も男だ、わかった」と引き受けた、という涙の物語で語られていますね。ただ本当のところは、そうではないでしょう。重綱がそれほど重大な決断を一人でできるとは考えにくい。事前に藩主の伊達政宗と幸村との間で、子供を頼むというやりとりがあったのではないかと思いますが、そのあたりの事情は史実としてはわかっていません。

 引き取られた後、藩は大八の存在を隠していました。家康を窮地に陥れた幸村の子が生き残っているとなれば、徳川幕府が許すはずがありませんから。そこで伊達家は幕府を欺くため、大八は「8歳のときに京都で死んだ」という情報を九度山の蓮華定院に流したうえで、実際の大八については、家系図を操作して「真田幸村の叔父の孫だ」と幕府に報告していたようです。

 大八は、伊達家に召し抱えられた際、一時真田姓を名乗りましたが、幕府から家筋調査を受け、姓名を片倉守信(もりのぶ)と変えました。いまの宮城県蔵王町に、360石を与えられました。

 その後、次の辰信(ときのぶ)の代になって、正式に真田姓に復帰しました。大坂の陣から100年近くも経ってからのことです。

 幸村は兄の信之と袂を分かちましたが、1673年、辰信の時代に、信之の子孫と再会したという記録が残っています。信之を初代藩主とする松代藩の3代・幸道が、愛媛にあった伊達家から正室をもらうことになり、その際、伊達の本家が後見人になりました。そこで、伊達屋敷に幸道が訪れ、供応の場で二人が対面したそうです。

 一方、大八の姉である阿梅は、のちに片倉重綱の後室になりました。重綱との間に子はありませんでしたが、片倉家3代目となる景長の養母となり、領民に長く慕われたそうです。また、阿菖蒲(おしょうぶ)は、重綱とは別の家系にあたる片倉家に嫁いでいます。阿菖蒲は墓所に父・幸村の墓を建てて供養しました。

 仙台真田家の屋敷は、明治維新のときになくなっていて、今はありません。鎧は代々、うちに残っています。これは真田昌幸から幸村に伝えられたもので、大坂冬の陣が終わってから大八に形見分けしたものでしょう。

 仙台真田家の文書は大量に残っています。いまは蔵王町の教育委員会に預けて、整理してもらっているところです。とくに大八から数えて9代、江戸時代末期から明治期の当主だった真田幸歓(喜平太)のころのものがたくさんあって、いま残っている仙台真田氏の家系図も、「古い家系図をもとに幸歓のときに編纂し直した」と、記録されています。

 片倉家とのつながりは代々ありますね。いまも、片倉家のご当主とは交流があり、双方の家が途絶えぬよう、後見しあう関係です。

 NHK大河ドラマの「真田丸」が来年始まるとあって、最近はイベントなどに呼ばれる機会も増えました。盛り上がりを感じています。

(本誌・鈴木 顕、森下香枝/カスタム出版・横山 健)

※週刊朝日  2015年11月6日号

166名無しさん:2015/11/02(月) 23:04:47
こっちじゃなくて近現代史スレかな?
>>164ともちょっと関連あり。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151102-00045127-jbpressz-bus_all
中国・韓国が日本に絶対に追いつけない歴史的背景
JBpress 11月2日(月)6時15分配信

 科学や技術の観点から21世紀の国際社会を見渡してみると、世界の先進圏は圧倒的に欧米と白人社会に限定され、アジアやアフリカで明確に先進国と言える地域は極めて限られることが分かると思います。

 もっとはっきり言えば、日本は異常な突出の仕方で優秀です。

 日本の優秀さを考えるうえで、「中国や韓国を引き合いに出さなくてもいいだろう」というご意見をいただくことが少なくありません。私自身、一芸術家として文化外交にも関わりますし、中国や韓国の伝統に敬意や共感こそ感じても、嫌韓、嫌中といったことは全くありません。

 そのうえで、でも、日本は圧倒的に中国や韓国より勝っています。もっと言うなら、ひらがなやカタカナの起源を考えれば明らかなように、中華帝国を中心とする東アジア文化圏のファミリーの一員でありながら、日本だげがなぜか本当に突出している。

 その理由を冷静に分析してみること・・・ルーツが中国にありながら、中国本体はもとより韓国、朝鮮も西欧文明の正統な後継者とはいまだなり得ておらず、日本だけが先導的なリーダーとして国際社会を牽引している。

 この事実とその背景は、中国や韓国を貶めるということではなく、冷静に考えてみる価値があると思うのです。

■ 学問に対する取り組み方400年の違い

 日本と中韓と、何が違うのか? 

 学問が、違うのです。で、その違いは50年とか100年ではすまない。

 実はここ400年近くにわたって「学問」として認められてきたものの本質が、実は日本と中国・韓国とでは全く異なっている。

 この400年来、東アジアで「学問」と言えば、儒学に決まっているでしょう。同じ儒学を学んでいるはずなのに、なぜ中韓と日本と「全く異なっている」のか? 

 キーワードがあります。「知行合一」です。

 この言葉を遺したのは中国明代の儒学者、王陽明(1472-1529)、つまり「陽明学」と今日呼ばれる儒学を発展させたことが、日本の近代化を支えた根底にあるのです。

167名無しさん:2015/11/02(月) 23:05:14
>>166

 逆に言えば、21世紀の今日も中国、台湾、北朝鮮、韓国など東アジア文化圏の他のメンバーは儒学的な発想を強く保持していますが、そこには「陽明学」の要素がない、あるいは非常に少ない。

 そこで強調されるのは封建学術の王道、明代の国家教学となった「朱子学」です。南宋の儒学者 朱熹(1130-1200)が整理した「文献学」(「訓詁学」)は早くに朝鮮半島に伝わりました。

 また中国本土でも明代に「国家の学」と定められ、中華大帝国は「科挙」というペーパーテストの一大システムを、この「朱子学」を柱に築き上げることに成功した。

 1300年代という早い時期にです。そして21世紀になっても、朱子学的な限界、つまり文書主義にとらわれて、目の前で起きるファクトをきちんと評価することができない場合が少なくない。

 つまりこの「朱子学/陽明学」の転倒こそが、日本の科学興隆の基礎を作り上げている可能性が高い。

 こうした根は100年、200年では到底改まるものではありません。中国や韓国は本当に解明化するのには数百年かかるのではないか、と正味で思うことが少なくないのは、こうした「学問の根っこ」を考えるからなのです。

■ 実験科学受け入れの土壌となった「陽明学」

 陽明学という言葉は、実は明治時代になってから日本で作られたものなのだそうです。それ以前、幕藩体制の江戸時代には「王学」という呼ばれ方をしていたらしい。

 まあ 王陽明が始めた学問ですから、王学でも陽明学でもどっちでもよさそうなものですが、日本で明治以降「陽明学者」あるいは「陽明学に深く影響を受けた」とされた人を、ちょっと並べて見ましょう。

 佐久間象山、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛・・・。

 なんだ、明治維新の立て役者の大半は、実は陽明学ということになるではないですか。まだまだ続きます。

 河合継ノ助、山田方谷、佐藤一斎、大塩平八郎・・・。

 山田方谷は佐久間象山と並んで吉田松陰を教えた陽明学者として知られ、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠らと並んで佐藤一斎に学びました。この佐藤一斎と並ぶ学者として知る人が知る存在だったのが大塩中斎、平八郎にほかなりません。

 大塩平八郎と言えば大阪で奉行所の与力でありながら、飢饉に苦しむ民衆の側に立って革命反乱を起こした人物として有名です・・・そう、陽明学は「革命」をサポートする学問だったわけです。

 こう考えるとよく分かるでしょう。

168名無しさん:2015/11/02(月) 23:05:38
>>167

 明治維新も明らかに「革命」しかも下級武士、草莽の志士たちが現実を変えようと奔走し、幕府側も倒幕側も力を尽くし、新たな西洋からの武器などもふんだんに取り入れて鳥羽伏見の戦いなど、いずれも全力を出し切って四つに組み合って・・・。

 そうそう、そうなのです。西欧風に火器なども積極的に導入して、ファクトに基づいて現実を変えていこう、革命を起こして天の正道を実現しよう、という思想が陽明学です。

 この土壌に「蘭学」「英学」などを移植して、医学や兵学を「学問」として受け入れ、また「事実」が正しければ古くからの書物の記載を改めることにも全く躊躇しない。

 そういう陽明学の革命体質が「科学革命」をも受け入れ、さらには明治の若者たちを世界最先端の「科学革命」のリーダーにも押し上げていった。そういう背景を与えているのです。

■ 「ファクトを見よ!」

 あるとき、山田方谷を松陰・吉田寅次郎(1830-59)が訪ねたそうです。明治以降「松蔭神社」などもでき、神様のように祭り上げられがちな松蔭ですが、実は満29歳で亡くなっている。松蔭という人は生涯20代の若者だったんですね。

 当時「攘夷」に燃える青年だった松蔭が「黒船来航」について夢中になって喋っていると方谷は「・・・で、その船の底の深さはどれくらいか知っているのか?」と尋ねたそうです。

 さらに「日本国内のどこの港が、その深さの船を停泊させることができると思うか?」と尋ね、浮ついたイデオロギーで叫びまくる松蔭に「ファクトを見よ!」と教えたと言います。

 実際、黒船は浦賀沖に碇を下ろして停泊、小さなボートで接岸するしか、黒船からの来航者は日本に上陸することはできなかった。そういう現実を見よ、と陽明学の観点から方谷は松蔭に冷や水を浴びせかけた。

 西洋人嫌いだった松蔭・吉田寅次郎でしたが、佐久間象山に学んで西欧の進んだ文明、また特に進んだ武器を目にしてからは、何とかして海外に密航しようと企て、江戸で捕らえられて地元の長州に送り返されてしまいます。

 そこで始めたのが「松下村塾」の指導です。

169名無しさん:2015/11/02(月) 23:06:06
>>168

 松蔭は1857年から松下村塾での指導を始めますが、先生の松蔭がそもそも27歳、集まった高杉、山県有朋、伊藤博文といったのちの明治の元勲たちはハイティーンのツッパリ集団でしかありませんでした。

 こういう連中に「西洋の進んだ科学的兵器も積極的に導入しつつ、天命を実現する」という、極めて特殊な形での古代と近代のアマルガムを提供したのが、陽明学だったわけです。

 この「天命」つまり「革命」の部分が、実は非常に大きかったのではないかと私は思うのです。と言うのは、ここが本家本元の中国や韓国では、かなりごっそりと欠落しているからにほかなりません。

■ 天は自ら助くる者を助く

 陽明学は「心即理」という考え方を大切にします。

 学問的にデリケートなことはすっ飛ばして、ここではこれを「過去の文献や権威に何が書いてあろうとも、私の心が観測したファクトであれば、それこそが天の理法である」という、近代実験科学を受け入れる「大和魂」のようなものを作る働きを担うことになっている、と考えることにしましょう。

 明治以降、日本は積極的に西欧科学を導入していきます。数理、物理、心理、生理、倫理・・・学問の大半に「理」という言葉が使われていますが、この「理」は陽明学の言う「心即理」と深く関係づけられて命名、というより訳語が作られた経緯があるようです。

 日本語で近代科学を書き直す仕事で大きな役割を果たしたグループに「明六社」があります。森有礼、福澤諭吉、西周、加藤弘之、西村茂樹、津田真道、中村正直といったメンバーはその後の日本の近代学術を支える礎石を作ります。

 例えば幕臣だった加藤は東京大学総理、大分中津藩出身の福澤は慶応義塾を作りますが、中津の領主奥平氏は三河以来の徳川の家臣で、いずれも新政府官界で出世しそうにない、旧幕府時代からの堂々たる有識層だったわけです。

 中村正直もまた幕臣の子でしたが、蘭学・英学と平行して佐藤一斎に陽明学を学び、明治維新前に英国留学、功利主義思想を輸入し、幕府の学問所教官時代から東京帝国大学教授としての後半生まで。一貫した学問思想を展開しています。

 中村が訳した「天は自ら助くるものを助く」は英国の医師サミュエル・スマイルズの著書「Self Help 自助論」からの訳ですが、原著の持つキリスト教的なニュアンス(Heaven helps those who help themselves)は中村の訳では完全に東アジアの倫理観、もっと言えば儒教的なニュアンスを持った「天」の道に置き換えられているのが分かるでしょう。

170名無しさん:2015/11/02(月) 23:06:42
>>169

 そう、それくらい、日本人は西欧思想の根幹を、自分たちに肌合いが分かる言語と思想として150年前から肉体化してきている。

 で、他の東アジア諸国では、下手をするとそれが丸々、全部抜け落ちて存在していない。中国や韓国だけを取り上げて貶めるようなつもりは全くありません。でも、日本人が徹底して消化している、こうした国際性は、昨日、今日作られたものでは全くないのです。

 実はこの「陽明学こそは日本の近代を支え、世界のトップランナーに日本を踊りださせた原動力」という考え方は、刑法の團藤重光先生から徹底して強調されて学んだものでした。

 山田方谷と吉田松陰のやり取りなども團藤先生から伺ったもので、本(「反骨のコツ」)にも収録されていますが、実は文献で確認したわけではありません。

■ 山田方谷の教えを受けた團藤重光先生

 ただ、維新後の明治10年まで備中岡山で存命だった山田方谷を直接知る人たちから、大正2年に岡山で生まれた團藤先生は直接教えを受けておられます。

 そして、ご自身の主要な仕事、團藤先生は敗戦後、GHQと粘り強く交渉しながら新憲法下での刑事司法を全面的に書き換える大仕事をされましたが、それを支えたのは方谷以来の陽明学そのものでした。

 西欧の学術を接木の見よう見まねでやっていてもダメで、陽明学の本質、知行合一と自ら確かめたファクトがあれば革命もまた義なり、という確信があったからこそ、近代日本はこのように優れた、強い文化を作り上げてこられたのだ、と幾度も幾度も力説してこられました。

 私が團藤先生のお供をさせていただいたのは先生が90歳を超えての10年弱でしたが、軽井沢などで現役最高裁判事の方が挨拶に来られたりする時、「陽明学」と言うと「はいはいはいはい」といった(おやおや・・・さすがの團藤先生も耄碌したかな、というような目の色が明らかな)反応を幾度も目撃しました。

 中国も韓国も、古代に書かれた文字に縛られる伝統―権威追随の「朱子学」型の学術スタイルをいまだに引きずって、西洋由来の学問を本当に消化することができずにいる。それではダメだと思うのです。

 西洋由来の学問を自分自身の血肉にするうえでは、「天は自ら助くる人を助く」という言葉の持つ2つの意味、元来のキリスト教の文脈と 、それが日本社会に完全に消化される経緯の双方をしっかり比較しながら理解できなければならない。

 そうやって西洋文化をしっかり消化して自家薬籠中のものにしない限り、フランス革命前後にヨーロッパで開花した法思想を、日本の国民感情のもとで民主的に運用して、判例を積み重ねながら法思想を成熟させていくことなどできるわけがない。核のごとき主体的な知の力が必要不可欠なのに、今回の「裁判員」はM君あたりがまた・・・。

 といった具合で特にキリスト教会に1000余年の歴史を持つ「陪審員制度」と比べて非常に不徹底と批判しておられた「裁判員」制度の具体的な細部を批判されつつ、本当に最後まで團藤先生は強調しておられました。

 團藤先生は日本の刑法を書き直されましたが、ファクトに立脚して決然と「革命」も辞さないという反骨の思想と行動は。自然科学系のノーベル賞業績のすべてに求められる、基本的な最低条件でもあるのです。

伊東 乾

171名無しさん:2015/11/02(月) 23:08:00
>>170

団藤重光
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E8%97%A4%E9%87%8D%E5%85%89


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