したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

日本中世史スレ

174名無しさん:2015/11/09(月) 22:46:24
>>173

 また、共同体のタブーを犯すものがあれば「村八分」の扱いとするなど、良くも悪しくも封建農村が持つ、様々な特質を生かすうえで、儒学は有効な役割を果たします。

 そう、孔子(BC.552〜B.C.479)という人は紀元前6世紀の中国は魯の国で「古代の先王」に復古せよ、と儒学を立ち上げた人です。孔子が理想とした「周初」とは紀元前1046年頃、つまり今から3000年以上も昔のことで日本の用語を用いれば「弥生文明」そのもの、原始人国家への回帰を掲げたと言って外れません。

 あえて誤解を恐れず言えば、儒教とは「弥生信仰」原始崇拝という明確な側面を持っている。

 つまり灌漑に基づく大規模稲作農業によって原始の集落国家が成り立ち、人口の圧倒的割合を占める農民を統治するのに適切な「官学」を説いた人にほかなりません。

 そんな孔子の時代から1500余年、農業もガバナンスもはるかに進んだ中国「南宋」で朱熹(1130〜1200)が生み出した「朱子学」 にも、明らかな利点があったはずです。実際、李氏朝鮮や明によって国の学と定められ、以後数百年にわたってそれらの国の繁栄を支えた朱子学。日本でも徳川幕府が官学として朱子学を称揚している。

 いったいその利点は何なのか? 

 専門的にはいろいろあると思いますが、團藤先生の考え方に従うとき「文書主義」が有効だったと思われます。

■ 文書主義の適否様々

 いま仮に、ある架空の王国に法律も何もなかったとしましょう。権力者はその時々の思いつきで統治し、一貫性もなければ整合性もない。税金は思いつきで取り立てられ、犯罪があっても捜査は一貫せず、同じ罪を犯してもある人は重く罰せられ別の人は賞賛されて褒美を与えられる・・・。

 そんなアンフェアな政治がまかり通れば、民衆の不満がたまり、やがて爆発して紛争が勃発するでしょう。

 そういう「時代」が日本にも確かにありました。大きく言えば飛鳥時代以前の日本には、成文法と言えるものは実質的に存在していなかった。

 聖徳太子の「十七条憲法」が有名ですが、これは公務員の精神訓を列挙したような内容です。それでも、まだ、文章として記録されていれば、その時々の思いつきで勝手に捻じ曲げられたりするリスクは低いはず。当時の日本にはそれ以外に「法」と言える文書はほぼ存在しなかった。

 掟のようなものは言い伝えとして残っていたかもしれません。しかし正確に記録されていなければ、細かな整合性など取れるわけがない。そもそも文字というものが当時の日本にはなかった。人類の文化はみな、初めはそういう原始状態からスタートしたはずです。

 話を東アジアに限ると、この状態を大きく打ち破ったのが「律令制」の導入だったと言えます。つまり成文法によるシステマティックな統治の導入です。

175名無しさん:2015/11/09(月) 22:46:59
>>174

 いわゆる「大化の改新」から半世紀余、大海人皇子系の子孫たちは中国風の大規模な都を奈良に建設します。「平城京」。ここで初めて日本に本格的に導入されたのが「律令制」(大宝律令)でした。

 中国の隋唐帝国の制度を模倣したものですが、これらの導入は孔子が生きた時代から1000年も経過した後であることに注意すべきでしょう。

 あえて乱暴に言うなら「朱子学」とは「律令国家」で文書主義を重視すべく改革された儒学で、だからこそ官学として適切だった。

 そしてその社会を支えるのは第1次産業、灌漑農法による米生産と、それに従事する圧倒的多数の農民を統治する、はっきり書いてしまえば「弥生時代以来」とも言える循環型社会を保守する訓古学として成功した「モデル」と言えます。

 日本でも戦国の動乱を生き抜き、江戸幕府を開いた徳川家康が、長く太平の世、つまり循環的で乱高下には乏しい、しかし農業生産には適した治世を保つべく朱子学を官学に指定し、江戸幕府は260余年の命脈を保つことができた。

 これに対して東アジア社会で「実体が変化するときは、規範もまた動く」として革命を支持する学となったのが陽明学(「王学」)であったと考えましょう、というのが「陽明学モデル」にほかなりません。

 太平の世であれば、朱子学に基づく循環的=停滞的な封建農村支配が順調に回転することで「繁栄」が約束されます。しかし乱世にはそうした理法は通用しません。

 ここで「乱世」とは、単に戦国時代だけを指すのではありません。

 イノベーションを念頭に置けば、私たち生きている現代の毎日、時々刻々がR&D(リサーチ&デベロップメント;研究開発)の乱世そのものであって、そこで生き馬の目を抜くリサーチ・ウオーズに勝ち残っていくには、文書主義程度まで進化した弥生時代崇拝という「朱子学モデル」、つまり伝統思考の停滞型意思決定、権威尊重で前例墨守の思考体制は、圧倒的に不利だ、ということを言っているのです。

 実際いくつかの国では、こうした「前例重視の権威主義」や「停滞型意思決定」によって国の方針、特に学術研究政策の方向が決定されている懸念があります。例えば「党是」というのも「前例」の一種であり「権威」として知の停滞に直結します。

 それくらい、良い意味で突き放したドライな観点から、物事を見ていく必要性がある。

176名無しさん:2015/11/09(月) 22:47:32
>>175

 そして社会が動くなら、法も動くのが当然であるし、判例もまた同様である、判例もまた動くものである・・・というのが、團藤先生がお考えになった「動態としての法」の考え方にほかなりません。

 戦後すぐに作られた刑事訴訟法の条文が時代に合わなければ書き改めればよい、というのは小さいようですが「革命」です。

 また同じ法の条文によりながら、時代が変化した結果、判例が墨守でなく「動く」ことがあっても当然である。團藤先生はこうした考え方を「主体性理論」としてまとめておられますが、その根幹となるのは「心即理」として社会の実態と合理的に即応した法文化の考え方にほかなりません。

 そして、これと同じことが文系理系を問わず、明治維新の時期を挟んで日本の知において徹底的に血肉化が図られた、その意味を捉え直すための「陽明学」であり「主体性理論」であり、「動く判例」である・・・そういうことを強くおっしゃっていました。

■ 民主主義とイノベーション:判例を「動かす」少数意見

 このような團藤先生の思想を、まさに「知行合一」で具現化したのは、最高裁判事として書かれた「少数意見」でした。

 ご存知のように「最高裁判例」は法と同等の重みを持って社会に規範を与えます。立法府によらない、司法府が法の運用に当たって随時与えていく「社会の基本ルール」が最高裁判例にほかなりません。

 しかし、この「判例」が悪しき「前例」となって、いつか社会背景が変わってしまい、時代に法が適合しなくなっても墨守される「朱子学的な足かせ」にならないための、民主主義の大切な仕かけ」が「少数意見」である、と團藤先生は幾度も強調されました。

 朱子学タイプの発想は、下手をすれば容易に、弥生時代の原始人を理想化する奈良・平安朝の古代文書主義にまで退行してしまいます。そんな「前例重視」「先例墨守」の考え方で、DNA鑑定だ何だと先端の科学や技術で社会の価値観はめまぐるしく変転する、現代の法文化が構成できるわけがない。だから「革命」の思想が必要だというわけです。

 実際に細かく拝読はしていませんが、参加されたあらゆる最高裁の審理と判決で、特に少数意見をこそ大切に、1つの例外もなく丁寧に書き続けてきた、とのことです。

 少数意見とは、最高裁判決で判事多数の合意を得られなかったマイノリティの見解にほかなりません。これを「無」にしてしまうなら、多数派の意見で少数を圧殺してしまうわけで「全体主義」になってしまう。

 「全体主義」の硬直した法制度がどんな困った事態を生み出してきたか・・・。

 第2次世界大戦前に東京帝国大学法学部助教授に就任され、若くして旧刑事訴訟法のシステム化で大きな仕事をされた團藤先生は、法の柔軟性が大事と強調されます。

177名無しさん:2015/11/09(月) 22:47:58
>>176

 文献として遺され、未来を拘束する規範としての「最高裁判例」。それが固定的で停滞したくびきとして日本を縛るのでなく、時代に即して動的に変化するチャンスを与えるもの。それこそが「少数意見」である。

 そこからあらゆる変革、革命が生まれる余地が出てくる、これこそが、戦後の新憲法体制下で日本がGHQと対峙して一歩も引かなかった「陽明学」の精神の骨法である・・・。

 こうした趣旨のことを「反骨のコツ」を上梓した後の團藤先生は、口癖のように繰り返しておられました。

 「陽明学に基づく自伝」を書く・・・最晩年の團藤先生はしばしばそうおっしゃり、担当編集者など、この言葉を耳にした人は少なくないと思います。

 「口述筆記でも何でもお手伝いしますから」と幾度も申し上げましたが「もう少し山田方谷を読み直してから」とおっしゃいつつ、今記したような趣旨のお話を何度も伺い、結局まとまった原稿としてお遺しになることはありませんでした。

 しかし「社会が動く」以上、停滞的な封建農奴支配に適した「朱子学」型権威主義と前例墨守の文書主義は常に疑われねばならない、それが陽明学の発想であり、科学を含むあらゆる知の「革命」に必須不可欠な骨法と、先生は強くおっしゃり続けました。

 その極みと言うべき一言を「裁判員制度」が成立した直後、團藤先生は口にされました。

 「ついに『精密司法』と呼ばれた、團藤先生の刑訴法の枠組みが変わってしまいましたね・・・」

 と申し上げると、

 「いいんです。僕が書いたものなど、全部消してしまってかまわない。時代が変わったのであれば、法は全部改めればいい。ゼロから作り直して、それで良いものにしていけばよい。あの時もそうだったんだから・・・」

 あのとき、つまり占領軍と厳しい談判を繰り返しながら、戦後刑法の枠組みをゼロから作ったときと同じように、またゼロから「革命」していくことこそ必要なのだ・・・。

 よくあるケースでは、自分の作った小さな業績などに拘泥してじたばたするのが人間というものでしょう。とんでもない、実に清廉潔白、90代半ばの團藤先生はハイティーンの目をしておられました。

 そして「それにしても維新の志士は恰好いいね」と笑われた。

 何という潔い「陽明学」の徹底か・・・これが本物の器の大きさというものかと、心のの震えを覚えました。

伊東 乾

178とはずがたり:2015/11/26(木) 11:19:30
此処?!

昔々ある所に住んでいたお爺さんやお婆さんは幸せだったのか? 昔話にもあった現代と変わらぬ“高齢者問題”
http://ddnavi.com/news/235830/a/
2015.4.19

 先日、とある取材で瀬戸内海の離島を訪れる機会があった。その島では、20世帯あまりが暮らしており、そのいずれもが高齢者世帯。70歳ともなれば島内では“若者”の部類に入るという“高齢化”の象徴のような島だ。そして、そこで高齢者たちは、体が許す範囲で“仕事”をしている。畑仕事をしたり船で漁に出たり。自給自足の島だけに、70歳になっても80歳になっても“自らの食い扶持は自ら作る”というわけだ。まさにこの島の主役は“老人たち”である。

 で、翻って東京。東京の街を歩いてみれば、さすがに瀬戸内海の離島のように“老人ばかり”などということはない。けれど、平日の日中に電車に乗ると、元気の盛りのような高齢者の姿がよく目につく。もちろん若者の元気がないわけではないけれど、それでも現代社会の主役は都会も地方も“老人たち”なのだ。

 そんな老人たちの活躍が見られるのは、何も現代社会だけではない。むかしむかし、あるところにいた、おじいさんとおばあさん。山に芝刈りに行ったり川に洗濯に行ったり、はたまた花を咲かせたり。「昔話」にはやたらと老人が登場する。古のフィクションの世界も、現代社会と同じく“老人たち”が主役級なのである。

 『昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか』(大塚ひかり/草思社)は、昔話や古典文学などを材料に、昔の老人たちが実際にどのような生き方、暮らし方をしていたのか、その実態をあぶり出している。昔話はもちろん“作り話”だけれども、そこにこそ歴史の隠された真実が転がっているというわけだ。

 この本のタイトルの答えは実際に読んでいただくとして、本書の中に登場する老人たちは、とにかくアグレッシブ。姥捨て山に捨てられても戻ってきたり、年老いてなお若き美男と恋の炎を燃やしたり、極楽浄土を求めて井戸に飛び込んだり。ただでは死なないパワフルなじいさんばあさんが、歴史の中にはどうやらたくさん存在していたのだ。

 ただ、そんなパワフルじいさん、ばあさんたち、決して“幸せ”だったわけではないようだ。

 そもそも、古の時代に高齢者たちに年金が支払われていたわけでないし、よほど裕福な貴族の出でもなければそれこそ食い扶持を自ら稼ぎ続けなければ生きていくことができなかった。さらに、社会全体の生産力が低い時代、年老いて健康を害した老人たちは、社会的に見れば“マイナス”の存在でしかなかった。子が親を捨てる、いわゆる“棄老”も、一家が暮らしていくことを思えば一概に非難ばかりもできなかろう。

 さらに、男女の“格差”も問題。古代中世は未婚の高齢者が多く、特に高齢の独身女性は悲惨な生き様を余儀なくされたのだという。そのため、婚活に明け暮れる女性は古来より多くいたのだとか。

 こうしてみると、この本の中に出てくるじいさん、ばあさんたちのアグレッシブさは、社会的弱者である高齢者が、歴史の中でも厳しい立場に置かれていたことの裏返しとも読み取ることができる。

 そして、今。高齢者たちが街に溢れ、地方では年老いても野良仕事を余儀なくされ、高齢の独身者が増加して婚活が一大ビジネスになっている。さらに、高齢の親を高齢の子が介護する“老老介護”なる生産性とは真逆のような問題も生じている。これはまるで歴史の中の“老人たち”そのものではないか。権力を求めて死の間際まで闘争するのもまた、昔と今とまったく変わらない。

 どうやら、日本の社会というものは古来よりあまり変わっていないようだ。なかなか難しいけれど、パワフルでアグレッシブで、だけど決して幸せとは言えなさそうな昔話の老人たちを通じて、今我々が抱えている高齢者にまつわる問題を考えてみるべきなのかもしれない。

文=鼠入昌史(Office Ti+)

179名無しさん:2016/02/13(土) 12:17:18
2016年02月13日(土)
乃至政彦
塗り替えられる戦国軍事史
?真田一族の「恐るべき謀略」から軍隊は生まれた!?雑多な「軍勢」から兵種別の「軍隊」へ
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47735

180とはずがたり:2016/02/20(土) 13:06:11
>、一般に広く武家政権のことが「幕府」と呼ばれるようになったのは、なんと江戸時代の末期からだそうです。
鎌倉幕府の事は関東と云ってたけど。
調べたら幕府とは元々近衛大将の唐名だったそうな。

「鎌倉幕府」は存在しなかった! 変わる日本史の常識
http://www.dailyshincho.jp/article/2013/10211630/?all=1
『歴史をつかむ技法』山本博文 著

「イイクニつくろう」で鎌倉幕府の成立は1192年、という定説が揺らいでいる、と最近よく話題になっています。読売新聞が夕刊トップで掲載した「変わる日本史教科書」というタイトルの記事では、改訂された高校生用の日本史教科書が、鎌倉幕府の成立の時期について「1180年」から「1192年」まで6つの説を載せていることを紹介していました(平成25年3月27日付)。

 なぜそんなことになるのでしょうか。その答えが『歴史をつかむ技法』(山本博文・著 新潮新書)に書いてあります。

 もともと「幕府」という言葉は、中国が起源。出征中の将軍が幔幕を張って宿営しているところを指したのですが、これが日本では武家政権のことを指すようにもなりました。ただし、一般に広く武家政権のことが「幕府」と呼ばれるようになったのは、なんと江戸時代の末期からだそうです。

 つまり、源頼朝が鎌倉に政府を開いた際には、「幕府」なんて言葉は使っていなかったわけです。当然、頼朝はもちろんのこと、周囲の誰も「鎌倉幕府が出来た!」なんて盛り上がりは見せていません。したがって、正確に言えば、当時は「鎌倉幕府」など存在していなかったことになります。 

 結局、いつ「鎌倉幕府」が出来たのかという答えは、後世の歴史学者の定義や解釈で異なってくるわけです。「安倍政権」「オバマ政権」といった現代の区分とは別のものなのです。こうした事情から、今の歴史教科書では「イイクニつくろう鎌倉幕府」というシンプルな教え方が消えていきました。

 同書によれば、鎌倉時代や室町時代に、征夷大将軍が実際に「将軍」と呼ばれることも少なかったし、江戸時代には「藩」という言葉もほとんど使われていなかったそうです。こういう事実を知ると、歴史小説やドラマの見方までがまた変わってくるのではないでしょうか。

デイリー新潮編集部

181とはずがたり:2016/05/21(土) 22:41:26
法性寺入道前関白太政大臣(わたの原 こぎいでてみれば 久方の雲いにまがふ 沖つ白波)を調べててwikiの源長経へのリンクに行き着いたが,同名の醍醐源氏代明流の長経へのリンクだった様である。

醍醐天皇─源高明(西宮左大臣)─忠賢─

┬守隆(右馬頭)─長季(従四位上・少納言・右衛門権佐(検非違使佐)・右馬頭・土佐守、備前守等歴任・良吏として聞こゆ)─
└致公(源満季猶子)

┬盛長┬盛経─
├長俊├盛家、
├守俊└盛季
├盛雅
├寛厳
└仁厳

┬経光(五条と密通『明月記』)
├長経
├盛光
└五条(藤原忠通側)


醍醐天皇─代明親王─源重光(致仕大納言)─

┬明理・長経(正四位下・越前守)─経成(権中納言)
└女(中関白家伊周室)

182とはずがたり:2016/07/17(日) 17:36:10

宇多源氏と云えば庭田家なのだけど源雅信左大臣─時中─○─○─○─○─○─○─有資と来て,有資の実子信有が綾小路の家祖となったのに対して,嫡流の庭田家は外孫の経資が継ぐ事になった(庭田と号すのは経資の孫の重資かららしいが)。この経資は藤公直子という事は判ってたけどどこの公直か知らなかったけど,今調べてみると初名が実泰とあって明らかに閑院流である。と云う事で調べたら判るのでは無いかと思って調べたら直ぐに判った。気付くのが遅すぎである,俺としたことが。。(;´Д`)
で,判明した事は徳大寺家の庶流で河原or八条を号した実家(徳大寺公能男)流であった。●実家─公明─実忠─公直─公員又公貞となる流れの公直であった。宇多源氏とはいえ庭田家以外は半家で庭田家のみ羽林家なのは徳大寺家から出てるからなんであろう。もっと云ふと経資の室が大炊御門基雅女で徳大寺と大炊御門の両清華の血を引いていると云ふ訳だ。
其の後,皇室や伏見宮家と関係が深く後花園天皇及び後柏原天皇の生母を出したりしてるのも徳大寺・大炊御門効果か。

庭田経資 にわた つねすけ
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%AD%E7%94%B0%E7%B5%8C%E8%B3%87-1099722
徳大寺【とくだいじ】
http://www.geocities.jp/okugesan_com/tokudaiji.htm

五辻家は、家系は宇多源氏庭田同祖なのに何故半
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11127726486

183とはずがたり:2016/08/29(月) 14:45:29
>>182の続きでネット彷徨いてたらみっけた。凄い充実。

閑院→徳大寺→河原又八条の庶流に近衛と大炊御門があって大炊御門の庶流から宇多源氏への養子があったと云う流れの様だ。

河原・大炊御門・近衛のいずれも河原家祖の実家から6代孫の代で絶えているがこの辺が朝廷衰微甚だしかった時期か?それとも武士の横領甚だしく一族で領有する荘園へ一緒に下向したのかな?

公家絶家当主
http://www.asahi-net.or.jp/~SH8A-YMMT/hp/japan/toshu02.htm

184とはずがたり:2016/09/27(火) 15:48:57
2014/06/29
女系で初期の当主達の血を維持してきた堂上家と絶家となった清華家
http://route-125.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-76cf.html

185とはずがたり:2016/11/29(火) 13:29:43
高校の時から欲しかった吉川弘文館の『国史大辞典』全15巻(17冊)遂に購入!!!古書検索サイトスーパー源氏で探したら27000円程で買えた。勿論筺は日焼けしたりしてるけど全く問題ない。

ずらっと並べて悦に這入っているが,なかなか中身全見報告とはいかないなw

先ずは那古野荘(なごやのしょう)がふと目に付く。
現在は那古野と書いて〔なごの〕と呼ぶが,昔は[なごや]と読んだ様だ。烏丸も昔は[からすまる]と読んだみたいだしな。
那古野が名古屋になって有名になって重複を避けたのか?

この荘園,開発領主は九条顕頼(wikiに拠ると九条民部卿・勧修寺流・正二位権中納言・鳥羽上皇院近臣)の子,東大寺別当小野顕恵で4代目以降は女子相伝となったそうな。

186とはずがたり:2017/01/27(金) 13:45:12

対馬で盗難の仏像、韓国の寺に所有権=裁判所が引き渡し命令
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017012600242&g=soc

長崎県対馬市の寺から盗まれ、韓国に運ばれた「観世音菩薩坐像」(韓国大田地方警察庁提供)
 【大田(韓国中部)時事】長崎県対馬市の観音寺から2012年に盗まれ、韓国に運び込まれた県指定文化財の仏像「観世音菩薩坐像」について、「かつて所蔵していたが略奪された」と主張する韓国の寺が韓国政府を相手取り、仏像を引き渡すよう求めた訴訟で、大田地方裁判所は26日、韓国の寺の所有権を認め、仏像を引き渡すよう命じる判決を下した。日本政府は日本への返還を求めてきたが、一層遠のく見通しだ。
〔写真特集〕盗まれた芸術だ!

 提訴していたのは、中部・瑞山にある浮石寺。14世紀に朝鮮半島などに出没していた海賊、倭寇によって略奪された可能性が高いと主張。窃盗団から没収され、大田の国立文化財研究所に保管されている仏像の引き渡しを求めていた。
 大田地裁は判決で「仏像は贈与や売買など正常な方法ではなく、盗難や略奪で(対馬市の観音寺に)運ばれたとみるのが妥当だ」とし、「仏像は浮石寺の所有と十分に推定できる」と判断。「(政府は)浮石寺に引き渡す義務がある」と指摘した。
 大田地裁は13年、観音寺が仏像を正当に取得したことが証明されるまで、日本側への返還を差し止める仮処分を出していたが、効力は切れていた。(2017/01/26-12:08)

187とはずがたり:2017/05/20(土) 07:37:47

朝日新聞取ってるけどこの記事見逃したな。。くそぅ。

勝因は「神風」ではなかった? 「元寇」に新たな見方
http://www.asahi.com/articles/ASK147788K14ULZU00L.html?iref=com_rnavi_arank_nr03
編集委員・宮代栄一2017年1月8日11時35分

 モンゴル帝国(元)の襲来を、鎌倉武士が2度にわたって食い止めた「元寇(げんこう)」。文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)とも長年、暴風雨(神風)が勝因とされてきたが、近年、新たな見方が浮上している。

 今まで「元寇」はおおむね次のような経緯だったとされてきた。

 1274(文永11)年、900隻、4万人の元軍が対馬と壱岐を攻略。鷹(たか)島(長崎県)上陸後、博多湾まで進出したが、暴風雨に遭い退却(文永の役)。

 続く1281(弘安4)年、朝鮮発の東路軍と中国発の江南軍の4400隻、14万人が攻め寄せたが、日本側の防戦で一時撤退。さらに鷹島に停泊中の船団を暴風雨が襲ったため、退却(弘安の役)。その後、皇帝フビライは3度目の日本遠征を計画したが、亡くなったため、沙汰やみとなった。

 危機に大風が吹き、異国の敵が追い払われたことから、2回にわたる暴風雨は「神風」といわれ、第2次世界大戦中には、神国日本を裏付ける材料として使われた。

 だが、こうした見方は修正が必…

188荷主研究者:2017/06/01(木) 00:54:52

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170524000075
2017年05月24日 13時10分 京都新聞
足利義満、「法王」目指した? 豪の研究者が新説

義満の政治・宗教複合空間

 室町幕府3代将軍足利義満(1358〜1408年)が、入念な都市計画を基に幕府の拠点「室町殿(花の御所)」や相国寺を建て、同時代の東南アジアにあった仏教王朝の頂点の地位を目指していた-。オーストラリア人の研究者が新しい義満像を唱えている。

 シドニー大日本学研究科のマシュー・スタブロス准教授(中世日本都市史)。米国出身で、日本外務省勤務を経て、東京大史料編纂(へんさん)所の客員研究員や京都大の客員准教授などを務めた。3月の京都府立京都学・歴彩館(左京区)の国際シンポジウムで発表した。

 義満は、南北朝の分裂を終わらせ、幕府の基盤を固めた。将軍職を辞して出家して以降も、武家や公家、寺社の勢力を抑えて実権を握り続けた。天皇や上皇になろうとしたという説もあり、義満の思惑に謎が多い。

 スタブロス准教授は、義満が平安京北端の一条大路(現一条通)の北側に整備した、幕府中枢の室町殿と、禅宗の大寺院の相国寺、国内最大級の木造建造物だった同寺七重塔の位置に注目。義満の政治・宗教空間では、相国寺を中心に室町殿と七重塔がほぼ左右対称で、京域との間にある相国寺の法界門が、南北に延びる高倉小路(現高倉通)にあったといい、「義満は高倉小路を中心に、平安京の東エリアをあらためて左右対称に再整備しようとした」と指摘する。

 相国寺などの整備を進める一方、義満が郊外に新しく整備した北山殿(現金閣寺)について、「院政期に、平安京から離れて荘厳な法勝寺や鳥羽離宮を設けた白河上皇を意識した」とみている。

 また、スタブロス准教授は、中国・明との交易に熱心だった義満が同時代の近隣諸国の情報を入手していたと推測。8〜14世紀の東南アジアの仏教王朝では、王は宗教と政治の頂点に位置する「法王」=サンスクリット語でダルマ(仏法)・アルタ(実利、政治)=と位置付けられていたという。「義満は、日本の天皇経験者がなる上皇(法皇)ではなく、海外の仏教王朝の『法王』を目指したのでは」と考えている。

 同志社女子大の山田邦和教授(都市史学)は「義満が都市計画を持っていたという考察や、海外情勢と関連づけた視点は新鮮だ。十分に検討の余地があり、研究の進展に期待したい」と話している。

189とはずがたり:2018/05/07(月) 22:46:46
鎌倉時代の仏像内部に大量の巻物など確認 奈良 法華寺
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180507/k10011429891000.html
5月7日 19時16分

奈良市の法華寺にある鎌倉時代の仏像の内部に、大量の巻物などが納められている様子が、最新の装置を使った奈良国立博物館による調査で確認されました。

奈良市の法華寺の本堂に安置されている、鎌倉時代につくられた「文殊菩薩坐像」は、内部に品が納められていることは知られていましたが、詳しい状況はわかっていませんでした。

そこで、奈良国立博物館が最新のCTスキャナーを使って調査したところ、高さ73センチの仏像の全体に空洞があり、頭の部分には、巻物や釈迦の遺物を納めた「舎利容器」と見られる器が合わせておよそ30、確認されました。

さらに胴の部分には、およそ150の経典と見られる巻物が敷き詰められているということです。
一度も取り出された形跡がなく、作られたままの状態と見られるということです。

法華寺の樋口教香住職は「驚きました。知恵を授ける仏様なので、ぜひ拝んでいただきたい」と話していました。

奈良国立博物館の岩田茂樹上席研究員は「内部にこれだけの量の品が確認されたのは珍しい。貴重な史料で、文化財としての価値がさらに高まった」としています。

この仏像は今月8日から27日まで、奈良市の奈良国立博物館で特別公開されます。

190とはずがたり:2018/12/29(土) 10:41:03
八介
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%BB%8B
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

八介(はちすけ)とは、武士階級の中で、同じ家が代々に亘ってその地方の在庁官人の介職に任官されている場合、尊称として自他共に認知されている「苗字(本貫地の地名)+介」という特別な名乗りを行っている八つの家の当主を指す。

一覧
大内介
代々に亘って周防権介に任官されている大内氏当主の尊称。
富樫介
代々に亘って加賀介に任官されている富樫氏当主の尊称。
井伊介
代々に亘って遠江介に任官されている井伊氏当主の尊称。
狩野介
代々に亘って伊豆介に任官されている狩野氏当主の尊称。
三浦介
代々に亘って相模介に任官されている三浦氏当主の尊称。
千葉介
代々に亘って下総権介に任官されている千葉氏当主の尊称。
上総介
上総氏は当主が上総権介に任官されたのでそれを苗字とした。
秋田城介
秋田城主兼出羽介の事で、鎌倉時代には安達氏の事を指した。織田政権の時は織田信忠、豊臣政権や江戸時代は秋田氏(秋田郡を領する安東氏が秋田城介と領地名に因んで改名)を指す。

191荷主研究者:2019/02/09(土) 23:53:48

https://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20190106000088
2019年01月06日 18時50分 京都新聞
ガラシャは美貌だった? ヨーロッパ逆輸入説を学者が討論

勝龍寺城にある細川ガラシャと夫忠興の銅像。ガラシャの美は後世に創られたものだったのか(京都府長岡京市)

 明智光秀の娘である細川ガラシャは、なぜ美貌のヒロインとして描かれるようになったのか。2020年のNHK大河ドラマに光秀が主役の「麒麟(きりん)がくる」が決まり、ゆかりの京都でも注目が集まる中、その謎に迫るシンポジウムが国際日本文化研究センター(京都市西京区)の一般公開で開催された。キリシタンの洗礼を受け、悲劇の死を遂げたガラシャにさまざまな角度から光が当てられた。

 ガラシャ(玉)は勝龍寺城(長岡京市)を居城にしていた細川忠興に嫁いだ。本能寺の変で「逆臣の娘」となり、のちにキリスト教に帰依し、ガラシャという名前を授かった。関ケ原の戦いで西軍の人質になるのを拒み、家臣に手をかけられる形で死を選んだとされる。

 画家の堂本印象がユリの花を持つはかなげなガラシャを描き、2011年の大河ドラマ「江」では女優のミムラ(現・美村里江)さんがガラシャを演じた。

 「ガラシャの情報は、ほぼリアルタイムで欧州に届いた」とフレデリック・クレインス准教授(日欧交渉史)は指摘した。「ガラシャの侍女から大阪のイエズス会士に口頭で伝わった情報が書簡でローマ本部に届き、出版物を通じて欧州に広まった」。18世紀にパリで出版された「日本史」には、ガラシャが美人で理想的なクリスチャンとして書かれているという。

 日本語文学者の郭南燕さんは、ガラシャの死から約90年後に出版されたクラッセの「日本西教史」でガラシャの容貌を賛美する表現が現れたと述べた。その後、1698年にウィーンでイエズス会の音楽劇の主人公になり、絶世の美人として描かれたことも紹介。美人として描く本がのちに和訳されて日本で「美人説」が広がったと話した。

 現代のガラシャ像を作り上げる役割を果たしてきた一つに、長岡京市で毎年11月に開催されている「長岡京ガラシャ祭」がある。主要行事として行われる「輿(こし)入れ行列」では公募で選ばれた夫婦かカップルがガラシャ(玉)と忠興役を担う。この催しを1992年に立ち上げた小田豊・前市長が登壇し、ガラシャを題材に選んだ理由に知名度の高さを挙げた。「自立した女性としての生き方が時代にも合っていると考えた」

 ガラシャはどうして「美人」になったのか。

 井上章一教授(風俗史)は、近代以降の日本でキリスト教は、かつて迫害を受けたことからくるある種のロマンチシズムをかき立てる存在になったと指摘し、「その典型がガラシャ」と打ち出した。「大河ドラマでもきっときれいな女優さんが演じるのではないかと楽しみにしている」

 講演後に行われた4人による討論では、「ガラシャ美人説」も語られた。クレインス准教授は光秀の肖像画が美男子であることと、夫の忠興が、色好みで知られる秀吉にガラシャを会わせることを恐れていたことを挙げ「ガラシャは美人であったと思う」と指摘し、小田前市長が同調した。

 井上教授は自説を補強した。キリスト教系の女子大学は仏教系女子大の学生から「かわいい」「金持ち」「キリスト教」の頭文字を取って「3K」と言われることを紹介。「キリスト教はCなのに」と笑いを誘いつつ、「現代社会でキリスト教は冷遇されるどころか、高い位置を占めている」と、日本のキリスト教観が美しいガラシャ像を創った側面を強調した。

 2018年の日文研の一般公開は「京都と時代劇」をテーマに、東映太秦映画村(右京区)と長岡京市が協力して行われた。京都映画界を代表する監督で、20年ぶりの長編劇映画「多十郎殉愛記」が来春公開される中島貞夫監督(84)が登壇するシンポジウムもあった。

 日文研の研究者が映画を語る催しもあり、時代劇を見るのが趣味という木場貴俊プロジェクト研究員(日本近世文化史)は「時代劇の愉しみ方」を語り、「歴史学は現代とは異なる常識を持った世界である過去との交流だが、時代劇は海外ドラマを見る感覚で楽しむのが一番」と呼び掛けた。

192名無しさん:2019/02/15(金) 21:19:29
なるほど。

193とはずがたり:2019/06/01(土) 20:05:35
管領代六角定頼。燃え♪

https://twitter.com/zakkiroku/status/1134099302601482241
雑記録
? @zakkiroku

村井祐樹『六角定頼 武門の棟梁、天下を平定す』を読了。
複雑怪奇な畿内情勢の中で「天下(京都及び畿内近国の諸国)」の執権を掌握し、将軍や管領の威光を超越する程の権勢を誇った六角定頼の事績を中心に、高頼?義治(義堯)の六角氏四代の動向を纏めた点において非常に意義がある一般書だと思った。

194とはずがたり:2019/07/07(日) 23:05:20
木寺宮とかあの辺激萌え

赤坂恒明
「柳原宮考 ── 大覚寺統の土御門宮家 ──」 
 日本史史料研究会会報『ぶい&ぶい』(無為 無為)第二十七号,
日本史史料研究会, 2014年5月, 1〜22頁.
http://akasakatsuneaki.c.ooco.jp/h/yanagiwara-no-miya.html

195とはずがたり:2019/08/15(木) 22:14:23

[藤原]秀鄕(鎮守府将軍)─千常(鎮守府将軍)─文脩(鎮守府将軍)─文行(左衛門尉)─公光(相模守)─(佐藤)公清(左衛門尉)─季清(左衛門尉)─康清※─西行(義清)─隆聖(実子ではなく弟子とも)・女(発心集に拠ると仲清に懇ろに頼んでいた=仲清猶子?)」

※─仲清(西行同母弟)―基清(承久の乱で敗死)─基綱(宮騒動で失脚、後に六波羅評定衆)─…─(細川頼春寄騎・阿波移住)─…─長勝(中富川の戦いで十河方について敗死、以後帰農)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13125337568

佐藤家…紀伊国田仲荘預所職・衛府

196とはずがたり:2019/08/18(日) 19:16:21
変わる室町時代のイメージ 応仁の乱で「焼け野原」は大げさ!?
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190818-00010000-kyt-l26
8/18(日) 10:30配信 京都新聞

 足利氏が京都に幕府を開いた室町時代のイメージが変わってきている。文献や考古の研究調査が進み、教科書の記述や伝承とは違った見解が示されている。応仁の乱や祇園祭山鉾巡行、北山・東山文化を例に、歴史家に知見の一端をひもといてもらうと…。

 京都で「先の戦争」と評されることもある応仁の乱(1467〜77年)。将軍や有力者の跡目争いや対立に端を発した争乱は幕府の権威を失墜させ、乱世のきっかけになった。この歴史的な評価は変わらないものの「京が焼け野原になった」との言い回しはやや大げさかもしれない。
 近年は「応仁・文明の乱」と表記するように、二つの元号にわたって11年ほど続いたが、史料にある洛中の戦火は応仁年間の2年間に集中し、文明の9年間は劇的に減ったようだ。被害状況を見ると、将軍御所「室町殿」などのあった上京が中心だ。もう一つの市街地・下京も無傷ではすまなかったが、焦土にはなっていない。その後の「天文法華の乱」(1536年)の方が被害が大きかったとの見方もある。

  次に室町に源流を持つ祇園祭山鉾巡行は、どんな様子だったか。現在は神事の印象が強いが、山と鉾が登場した14〜15世紀ごろは「現代風に例えるとディズニーパレードのようだった」(佛教大の八木透教授)。山は物語の一場面を見せる能舞台のような存在で、鉾は全てにお囃子(はやし)があるように歌舞や見世物(みせもの)の要素の強い「風流(ふりゅう)囃子物」がルーツとなる。踊りあり、音楽あり。このいわばお祭り騒ぎによって疫神を集めて退散させる「より代」の役割を果たしていた。

 果たして当時も「町衆の祭り」だったのか。関連書籍を多く著す奈良大の河内将芳教授は「町人が担ってはいたが、幕府や、祇園社(現八坂神社)を末寺・末社にした延暦寺・日吉社という権門の意向に左右されていた」と否定的だ。

 そもそもこのイメージは歴史家の故林屋辰三郎氏の見解を下地に、祇園祭の小説や映画を通じて戦後に広まったという。一方、史料からは山鉾巡行が延暦寺の都合で大みそかや冬にあったり、祇園社の神輿(みこし)が出なくとも幕府の要請で行われたりしたことが分かってきた。

 「神事これなくとも、山鉾渡したき(神輿渡御が停止になっても山鉾巡行は行いたい)」。こう記された当時の祇園社の日記を基に林屋氏は自説を述べたが、近年には山鉾巡行を中止・延期した際に幕府が課した「失墜料」を逃れるためとする、指摘もある。

 文化については「義満の北山文化、8代将軍義政の東山文化という二つの高揚期に分かれるのではなく、一体的な室町文化だった」と京都文化博物館の西山剛学芸員が解説する。室町の全盛期は義満期にとどまらず、4代義持、6代義教の頃まで続いたとの見方が強まった。将軍家コレクション「東山御物」の収集も進んだ時期となり、武家や公家、禅宗が融合した特有の文化は義満から義政までの合間を含めて一連の流れを通じて熟成されたようだ。

 室町研究の進展を背景に書店では現在も関連本が並ぶ。著書「応仁の乱」がブームのきっかけとなった国際日本文化研究センターの呉座勇一助教は語る。「ブームの背景には室町と現代の世相がリンクしているところが挙げられる。応仁の乱で秩序が崩壊し混沌(こんとん)として先が見えなかったのと同じように、現代は名ばかり管理職が増え、終身雇用も先行きが不透明で、会社がいつまであるか分からないといった共通点がある。高度成長期に人気のあった豊臣秀吉の出世物語ではなく、何が何だか分からないが、必死にもがく世界にリアリティーがあり、共感できる時代になっているのではないか」

京都新聞

197とはずがたり:2019/08/18(日) 19:17:24
応仁の乱で武士酷使「ブラック企業のよう」 呉座氏が背景を解説
https://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20181223000037

 ベストセラーとなった著作「応仁の乱」で知られる呉座勇一・国際日本文化研究センター助教の講演が22日、京都府亀岡市余部町のガレリアかめおかで行われ、応仁の乱で大きな影響をもたらした丹波地域の動きを解説した。

 呉座助教は、京都での戦闘が長期化し、いかに補給路を確保するかが勝敗の鍵となったと説明。「都に至る主要ルートだった丹波は最重要となり、東軍の細川方が激戦の末、死守した」と語った。

 また、応仁の乱後、丹波の武士が蜂起した「延徳の丹波国一揆」にも触れ、「細川家は財がなくなり、乱の時に酷使し、疲弊していた武士からさらに年貢を取り立てようとした。今でいう“ブラック企業”のようだ」と話し、一揆が鎮圧された後、細川家は内紛で弱体化したという。

 呉座助教は「東軍の勝利とされるが、細川家は何も得をしていない。勝者なき戦争だった。教訓は現代にも通じ、争いをできるだけ回避する努力が必要ではないか」と締めくくった。

【 2018年12月23日 13時48分 】

198とはずがたり:2019/09/06(金) 08:06:42

2013年6月16日
眠れぬ夜の義詮ちゃんが語る、室町幕府管領誕生の巻
https://togetter.com/li/519125

199とはずがたり:2019/09/06(金) 09:26:46
処理水→簡易処理水→未処理水の3段階。

もし東京五輪に開催の意義があったとしたらこういう雨降ったら糞尿海へ垂れ流しの古い下水処理システムが解消されることとかだったんちゃうの?


五輪が照らす下水問題
お台場の海、降雨で水質悪化 「選手本位の大会」懸念
2019/9/6付日本経済新聞 朝刊
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO49477820V00C19A9EA1000/

200とはずがたり:2019/12/28(土) 21:25:53
京極家…近江源氏佐々木氏一流・北近江に土着・佐々木道誉の功で足利幕府で四職家・出雲や飛騨の守護・戦国時代は譜代家臣の浅井が台頭。江戸時代にも京極家は生き残り,外様大名として残り若狭国主、丹後国主となった。

六角家…近江源氏佐々木氏一流・南近江に土着。本来は嫡流。近江守護。同族の高島氏・朽木氏・大原氏などは奉公衆として幕府の直臣化。重臣に山内氏・伊庭氏。江戸大名としては残せず。

201とはずがたり:2020/01/16(木) 16:36:12
これは勿体ない。怒りしか湧かない

京都町家「川井家住宅」室町時代の建築裏付け 民間調査で判明
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200107-00000559-san-cul
1/7(火) 18:35配信産経新聞

 室町時代に建てられた「国内最古の町家」とされながら平成30年に解体された京都市中京区の「川井家住宅」の跡地を調査した結果、同時代の建築であることが裏付けられたことが7日、調査を実施した民間団体「古代文化調査会」(神戸市東灘区)への取材でわかった。

 川井家は北野天満宮(京都市上京区)の神職で代々麹(こうじ)づくりを営んでいたとされ、住宅は応仁元(1467)年築と伝えられていたが、文化財としての指定・登録がなく、維持費捻出が困難となったことから元所有者が不動産開発業者に売却。家屋を残そうとした市と業者の交渉も不調に終わり、平成30年8月に解体された。

 今回、解体後のマンション建設のため跡地約320平方メートルを調査。母屋の計12カ所の柱を支えた礎石の脇から出土した掘っ立て柱の跡(直径20センチ前後)が16世紀後半の安土桃山時代の土器を含む土で埋められていたことから、それ以前の室町時代に建てられたことが確認された。

 また修築の記録として同家内部に取り付けた棟札(むねふだ)から、江戸時代後期の文政13(1830)年に増築されたことがわかっているが、今回の調査では、その周辺の下層から麹づくりを証明する麹室(こうじむろ)の土壁片が大量に出土した。直前の文政8(1825)年には江戸幕府が酒造りを規制しており、同調査会の家崎孝治代表は「規制を機に酒造りをやめて増築したとみられる」と指摘する。

 大場修・京都府立大大学院教授(日本建築史)は、「間取りが当初の姿のままで続いていたことが詳細にわかる珍しい遺構。現存する町家で最古とされる奈良・栗山家住宅(1607年築、国重文)より古いが、今となっては現存していないだけに極めて残念だ」としている。

202とはずがたり:2020/03/23(月) 22:56:33

銀閣寺予定地は1キロ南だった 長年の謎、古文書で特定
毎日新聞2020年3月23日 21時03分(最終更新 3月23日 21時03分)
https://mainichi.jp/articles/20200323/k00/00m/040/296000c


 室町幕府8代将軍・足利義政が建立した銀閣寺(慈照寺)の当初予定地は、現在地から約1キロ南の京都市左京区南禅寺北ノ坊町だったことが分かり、大阪大谷大の馬部隆弘准教授(日本中近世史)が23日発表した。馬部准教授は「義満をまねて寺が集中する場所で隠居政治をしようとしたが、応仁の乱をきっかけに政治から逃避し、予定地も東山の外れとなる現在地に変えたのだろう」と話している。

 馬部准教授によると、1465年に義政が南禅寺の子院の一つである「恵雲院」に銀閣寺となる東山山荘を設置すると決めたことや、2年後に始まった応仁の乱の影響で予定地が変更されたことは分かっていた。(共同)

203荷主研究者:2020/06/21(日) 21:55:39

https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/215601
2020年4月10日 17:00 京都新聞
室町幕府将軍の庭園跡か、巨大な庭石発見 「応仁の乱」前の栄華伝える

室町殿の庭園跡で見つかった巨石を含む景石群。足利義政による造営とみられる(京都市上京区)

 室町幕府の将軍邸「室町殿」(京都市上京区)の発掘調査で、15世紀中ごろに築かれた庭園の巨大な景石群が見つかったと、市埋蔵文化財研究所が10日、発表した。景石は長さ3メートル近い巨石を含む8個が並び、景観のための滝組を形成した。8代将軍・足利義政による造営とみられ、応仁の乱前の「花の御所」の栄華をしのばせる。

 調査地では、庭の池が北から西の縁に、陸部が西から東へ広がっていた。景石は池岸に沿って並び、最大長が2・75メートルに及び、重さでは最大で9・8トンに達したと推定される。7個を組み合わせ、0・5メートルほどの高低差も設け、寺院にあって水を用いずに滝のような流れを表す「枯滝」をつくり出していた。

 陸部は、元々池だったところを粘土質の土と砂礫を交互に突き固めて1メートル近く盛り上げてあった。造成土から15世紀中ごろの土器が出土し、義政期の造営を示している。

 一方、庭園跡は景石が16世紀前半の土器とともに、埋土に覆われており、この時期に廃絶したとみられる。調査地は、最も広い時期の室町殿(東西120メートル、南北210メートル)の南東部に当たる。義政造営後の15世紀後半に起き、自らも関わった応仁の乱を経て、将軍邸の南側が荒廃していったさまを示すという。

204とはずがたり:2020/08/22(土) 11:56:54
室町時代に救われた山崎正和さん フェアな知識人の足跡
有料会員記事
https://www.asahi.com/articles/ASN8P563VN8PPTFC012.html
編集委員・村山正司
2020年8月21日 18時05分

 山崎正和さんは青年時代にマルクス主義と決別し、思想的に保守、あるいは現実主義と分類されることが多かったが、日本的なべったりとした情緒とは無縁だった。


 旧満州で育ち、14歳で戻った日本文化の世界は、自らの大陸的な感性とかけはなれていた。「サクラを見ても美しいと思わなかったし、和歌などの伝統的な文芸にもなじめなかった。俳句は年を取ってやっと分かるようになりましたが」

 そう聞かされて意外だった。劇作家として名を上げた「世阿弥」は室町時代の話ではないか。問い返すと山崎さんは「室町時代はルネサンスにも似た近代的世界だったのですよ」とほほえんだ。身分と無関係に個人の趣味や決断がたたえられる時代は、日本では珍しい。「日本にも室町があることを発見し、救われた思いでとびついたものです」

 この内なる違和や分裂の自覚が…

205名無しさん:2021/03/27(土) 06:20:57
https://news.yahoo.co.jp/articles/2397cc43fbabf1f3cbe0553b91d7d4b8258c9daa
すごいのに知名度がいまひとつ? もっと知られるべき「2人の武将」
3/26(金) 12:07配信
PHPオンライン衆知(歴史街道)
マイナーな戦国武将の中には、まだまだ知られてほしい男たちがいる。さすらいの戦争請負人や率先垂範すぎる名君など、二人の功績と、人となりを紹介しよう。

※本稿は、『歴史街道』2021年4月号の特集2「もっと知ってもらいたい『戦国武将』」から一部抜粋・編集したものです。

さすらいの戦争請負人――可児才蔵吉長
可児才蔵吉長は大功を求めて戦場を転々とし、47歳の時の関ケ原合戦で東軍の福島正則に陣借りし、ようやく抜群の手柄を立てた人物である。

美濃可児郡(現在の岐阜県御嵩町)の出身で、地元の古刹・願興寺の伝承では、天正元年(1573年)に越前の朝倉義景が滅亡した際、身重の側室が願興寺を頼って生まれた子で、7歳の頃、越前に出て可児才蔵を名乗ったとされる。

この才蔵にはツキがなく、斎藤龍興、柴田勝家、明智光秀、織田信孝らのもとを渡り歩いたが、その主人たちは非業の死を遂げて、夢は叶わなかった。本能寺の変では光秀方として参戦したとされ、この時、敵将の首を打ち損じた仲間に首の捕り方を教えた話が残るが、本人は機会に恵まれず、何の手柄も立てられなかったようだ。

そして才蔵は骨のある男だった。天正12年(1584年)の長久手の戦いの陣で、主君の羽柴秀次が敗走した際、途中で馬に逃げられて徒歩となり、馬に乗った才蔵に行きあう。秀次は馬を貸すように命じるが、才蔵は「雨降りに傘を貸す者などおらぬ」と言い放ち、秀次を無視して走り去った。

これに秀次は怒って、もちろんお払い箱になった。戦場にあっては身分など関係ないという、一匹狼ならではの、才蔵の生き様をよく示す逸話といえよう。

才蔵は常々、行軍の途中に笹竹を切り取っては、背中につけて旗印として戦っていた。信長の家臣で美濃金山城主の森長可(蘭丸の兄)が信濃で戦った際、首級の実検時に、才蔵は三つの首を引っ提げて長可の前に出て、「16の首を捕り申した」と豪語した。

訝る長可に才蔵は、「捕った首が多く、捨てて来た。但し捕った首には、笹の葉を口に含ませ置いて参った」と申し立てたので、早速調べさせると、笹を含んだ13の首が見つかった。この時から彼は、笹の才蔵と呼ばれるようになる。

『芸州誌』は才蔵の関ケ原合戦の武勇を、「先陣を進み、槍を合わすこと28、敵の首を捕ること20騎、言語道断古今無し」と絶賛する。この才蔵の武功を家康は高く評価し、才蔵に陣を貸した福島正則は才蔵を500石で家臣に召し抱え、さらに746石に加増した。

才蔵は上杉謙信、明智光秀、真田信繁(幸村)と同様に、愛宕権現(勝軍地蔵)を深く信仰していた。その6月24日の縁日に参詣すると、1,000日分の御利益があるとされている。

福島正則の家臣として広島にあった才蔵は、60歳の慶長18年(1613年)の縁日、潔斎して甲冑をまとい、薙刀を持ち、床几に腰を掛けて息絶えた。いかにも戦争請負人として生きた、孤高で信念にみちた最期だった。

206名無しさん:2021/03/27(土) 06:21:45
>>205

率先垂範すぎる名君――寺沢広高
唐津城主、寺沢広高は倹約の人である。それは優れた人材を高禄で雇い入れるためで、1,000石の家臣が40人もいた。その人柄を表わす話が『翁草』にある。

尾張出身の広高と美濃出身の安田作兵衛国継は、立身出世を夢見た若き日に、「今は戦国の世である。槍先をもってどちらかが国郡の主になったなら、一方は1/10の禄をもって家臣にしよう」と約束した。親友の二人は、仕えた主君によって明暗が分かれた。

作兵衛は明智光秀に属し、本能寺の変で大活躍した。織田信長に一番槍をつけて負傷させ、信長寵愛の小姓森蘭丸を討ち取って、明智軍で最大の武功を立てたが、光秀の天下は11日で潰えて、武功は霧散し、逆にお尋ね者になってしまう。

作兵衛は天野源右衛門と名を変え、羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷、立花宗茂のもとを転々とした。

一方、広高は豊臣秀吉に仕えて出世街道を歩み、31歳で肥前唐津城(佐賀県唐津市)8万石の城主になる。国郡の主となった広高は昔の約束を忘れず、作兵衛を招くと、石高8万石の1/10、8,000石で召し抱えた。作兵衛は平野源右衛門と改名し、安らかな晩年を唐津で送った。

そして広高は模範を示し、家臣を引っ張る行動派の大名だった。5月、6月は家臣に麦飯を食べさせたが、「家臣に食えと命じたからには、自分も」と麦飯を食べた。妻木貞徳の娘である妻もまた、常に木綿の衣服を着て、夫の意向に従った。

身をもって手本を示す広高は、毎朝寅の刻(午前4時)に起きて、陽の出の卯の刻(午前6時)には庁に顔を出した。それから馬場に出て騎乗し、汗をかいた後、食事をとって、すぐ槍刀の稽古をした。

寒の時期には若者たちのため弓の達人を招き、的の巻藁を自ら先頭に立って射た。夏は鉄砲の腕を磨き、水泳で身体を鍛え、皆と一緒に一汁一菜でご飯を食べた。夜、武芸に励む際は粥の類を一緒に食した。そして、普段は酉の刻限(午後6時)には寝床に入った。

関ケ原合戦で家康に味方し、4万石を加増され、12万石の大名になっても、夫婦は決して奢らなかった。そして倹約によってできたお金で、優れた家臣を雇用した。

現在、唐津を訪れると、唐津城はまちのシンボルとなり、海辺には防風林として植樹した「虹の松原」が、日本三大松原の一つに指定されて、私たちの心を和ませてくれる。ともに、広高の遺産である。

楠戸義昭(作家)

207とはずがたり:2021/09/03(金) 01:15:49
謎解き日本中世史
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon

208名無しさん:2021/09/06(月) 20:55:28
『逆賊、ドゴール将軍、神風、持明院統』
.
.
.
▼平治の乱の後、死一等を減ぜられ、平清盛の嫡男、平重盛の家人である藤原南家の伊東祐親(工藤祐親)の監視下に 少数の従者を伴って13歳で流された清和源氏の嫡流、頼朝。

▼名誉を重んじ 一族が睦み合う関東の自然恩沢の守護人(名門)たる小山氏や千葉氏、三浦氏などと全く異なり、辺境の伊豆では 本拠地の伊東を中心とする久須美庄の開発領主となった工藤祐隆の一族のように肉親同士が血で血を洗う骨肉の相続争いを繰り返していた。

▼工藤祐隆の本拠地 伊東が 後妻の連れ子である工藤祐継から その息子の工藤祐経へと相続され、嫡流を自負する己には辺境の河津しか宛がわれなかったことに反発した前妻の孫、河津(工藤)祐親が伊東を掠め取って伊東祐親を名乗り、すると今度は工藤祐経が逆襲して 伊東祐親の嫡子、河津(工藤)助通を奥野の巻き狩りの帰路、射殺した。

▼そして相模の小領主である曽我祐信と再婚した河津(工藤)助通の未亡人の連れ子が『曽我物語』に登場する曽我十郎祐成(幼名 一万)と曽我五郎時宗(幼名 筥王)である。

▼辺境 伊豆の豪族達は、名誉を重んじて同じ血筋で結束するよりも おのおのが暴力、詐欺、脅迫で生き残る道を切り開くのが流儀だった。

▼流人である源頼朝の監視役だった伊東祐親の目を盗んで、頼朝が祐親の娘、八重姫と密通し千鶴御前をもうけたのを知ると、伊東祐親は容赦なく千鶴御前を松川に沈めて殺害したので、頼朝は北条時政に庇護を求め 時政の娘、政子と結婚した。

▼この時 北条時政は伊東祐親の娘を正室に迎えており 既に義時や政子などをもうけていたが、矢張り同じ血筋で結束するよりも 伊豆の豪族達の流儀に従い、勝ち馬に乗るべく我を通す道を選んでいる。

209名無しさん:2021/09/06(月) 21:15:18
(続き)
.
.
▼伊豆の豪族達は、 名誉と血統を重んじ 宗家に対し庶家として忠義を尽くす関東の自然恩沢の守護人達と全く異質であり、おのおのが暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀の信奉者だったので、同族への裏切りも日常茶飯事だったのだ。

▼源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、平家方の伊東祐親の娘を正室に迎え 自らも平氏の末裔である北条時政は 躊躇することなく頼朝に従軍し 伊東祐親や平家軍と戦火を交えた。

▼治承・寿永の乱を制し 源頼朝が将軍に就任すると、平家方だった伊東祐親は恩赦を辞退して自刃した。

▼仮に恩赦を受けていたとしても、 久須美庄を奪い取りたい北条時政によって義父の伊東祐親は容赦なく暗殺されただろう。

▼『曽我物語』によれば 治承・寿永の乱を制し 将軍に就任した源頼朝の催した富士野(駿河国)の巻き狩りに潜入して頼朝の側近となっていた工藤祐経を暗殺した伊東祐親の孫が曽我十郎祐成と曽我五郎時宗だった。

▼しかし 敵討ちを成し遂げたところで何も得るものも無いのに 伊豆の豪族である曽我十郎祐成と曽我五郎時宗は本当に父の敵として工藤祐経を、祖父の敵として源頼朝を討とうとしたのだろうか?

210名無しさん:2021/09/06(月) 21:29:21
(続き)
.
.
▼暴力、詐欺、脅迫で我を通し 肉親を裏切る骨肉の争いも厭わない破落戸ヤクザの流儀で生きる伊豆の豪族の端くれが、何の得も無いのに父や祖父の仇討ちをしたとは考えられない。

▼平家方に付いた伊東祐親や孫の曽我兄弟が 源氏方に付いた工藤祐経を殺害したところで、頼朝が敵方に恩賞を与える道理は無い。

▼矢張り曽我十郎祐成と曽我五郎時宗(時の字は北条時政から与えられた)の伯父で 五郎時宗の烏帽子親である北条時政が、発足したばかりの鎌倉幕府で冷遇されたことに憤慨し、暴力、詐欺、脅迫で我を通す意を体して (時政が警備を担当する駿河国富士野の巻き狩りで頼朝の側近を暗殺するよう)曽我兄弟を唆したと解する方が説得力が有る。
.
▼すっかり北条時政の仕打ちに恐懼した源頼朝は、頼朝の側近である工藤祐経を殺害し、あまつさえ頼朝の本陣に討ち入って来た曽我五郎時宗を赦免しようとした。

▼また御家人の筆頭であり将軍を補佐する執権職を新設して 北条時政を任命したのである。

▼同じ平家の血筋で結束するよりも 北条氏は頼朝の平家打倒の挙兵に加勢し 躊躇なく同族の平家や伊東祐親軍を蹴散らしたが、それもこれも暴力、詐欺、脅迫で我を通す伊豆の破落戸ヤクザの流儀に則り、勝ち馬(官軍)に乗っかったまでのことだった。

▼辺境の地である伊豆の豪族達にとって 我を通すために同族を裏切り、暴力、詐欺、脅迫で仕打ちを加えることは別にルール違反ではなかったのである。

211名無しさん:2021/09/06(月) 21:42:04
(続き)
.
.
▼梶原景時の変(西暦1199年)、頼家暗殺(西暦1203年)、比企能員の変(西暦1204年)、畠山重忠の乱(西暦1205年)、和田合戦(西暦1213年、和田義盛)、牧氏事件(西暦1215年、北条時政)、実朝暗殺(西暦1219年)、承久の乱(西暦1221年)、宝治合戦(西暦1247年、三浦泰村)、千葉宗家 乗っ取り(西暦1281年、千葉胤宗)、霜月騒動(西暦1285年、安達泰盛)、後醍醐暗殺未遂事件(西暦1334年、西園寺公宗、北条泰家)と中先代の乱(西暦1335年、北条時行)、大覚寺統への帰順と持明院統への反逆(北条時行)…

▼名誉と血統を重んじ 宗家に対し庶家として当然の忠義を尽くす関東の自然恩沢の守護人達と全く異質であった伊豆の豪族 北条氏は、御家人の筆頭であり将軍を補佐する執権職を世襲すると、暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀に則り、意の侭にならない身内の源家将軍である頼家や実朝を躊躇なく裏切って暗殺したばかりか、容赦なく後鳥羽上皇に弓を引いて隠岐への流罪を言い渡した。

▼鎌倉幕府滅亡後も、生き残った北条泰家が西園寺公宗と共謀して後醍醐暗殺未遂事件を起こしたかと思えば、今度は逆に北条時行が臆面も無く後醍醐天皇に帰参して持明院統の朝廷に対して躊躇なく弓を引いた。

▼相手が誰であろうと帰順したかと思えば躊躇なく裏切り、暴力、詐欺、脅迫という弱肉強食原理で同族だろうが何だろうが容赦なく相手を打倒することは、辺境の地である伊豆の豪族達にとって当たり前のサバイバル術だったのだ。

▼更に、破落戸ヤクザの流儀で関東における領土拡大を狙う北条氏は、比企氏に続き 武勇と人望の誉れ高い秩父平氏の畠山重忠を騙し討ちにして武蔵国を手中に収め、次いで和田合戦や宝治合戦、霜月騒動で和田氏や三浦氏、安達氏を滅ぼして名実共に相模国を支配下に置いた。

212名無しさん:2021/09/06(月) 22:00:11
(続き)
.
.
▼『裏切り』が全て悪い訳ではない。寧ろ裏切る方が正義である場合も多い。

▼悪逆非道な狂人ヒットラーと誼を通じた暗愚な上役のペタン元帥を裏切って亡命政権「自由フランス」を樹立したドゴール将軍は誰が見ても正しい行動を取ったと言える。

▼ところで 戦前まで横行した南朝正統論とは端的に言えば、「持明院統の天皇方は 平将門と同じように『天皇』を詐称した言わば大覚寺統の朝廷に対する逆賊であり偽主であったが、明徳の和約により それまで『天皇』を詐称していた偽主であった後小松天皇に神器が移ったため、後小松天皇以降、(平将門と同じように『天皇』を詐称した)逆賊や偽主の地位から正統性を有する天皇に変わった」というものだ。

▼しかしながら 易姓革命論に従えば、平将門と同じように『天皇』を詐称した逆賊であり偽主であった徳の無い人物に 後から正統性を有する天皇の地位が移ることは有り得ないであろう。

▼戦前まで横行した南朝正統論は持明院統の天皇方に対して甚だ無礼であったと言わざるを得ない。

213名無しさん:2021/09/06(月) 22:03:16
(続き)
.
.
.
▼千葉氏は小山氏や三浦氏などと並び、名誉と血統を重んじ 宗家に対し庶家として当然の忠義を尽くす関東の自然恩沢の守護人であった。

▼辺境の伊豆から進出して来て 暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀を振り翳し関東に勢力を伸ばす北条氏は、南関東攻略の総仕上げとして 元寇に際し領国を留守にした千葉宗家の当主、宗胤の隙を突いて 北条一門の金沢顕時の娘を娶っていた弟の千葉胤宗に躊躇なく兄を裏切らせて家督を掠め取らせ、あまつさえ千葉宗家が信仰していた日蓮宗を排撃して北条一門が尊崇する真言律宗への宗旨替えを断行したのである。

▼南関東を攻略し完全な支配下に置いた北条一族が、同族だろうが輝かしい歴史を誇る名門(自然恩沢の守護人)だろうが 暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀に則って 次に北関東の足利、新田、小山、結城などを潰しに掛かるのは時間の問題だった。

▼特に足利、小山などは北条得宗家の女子を正室に迎え 親密な関係を代々 築いて来たが、そのような努力も ひとたび北条一門に狙いを付けられれば何の抑止力にもならないことは明白だった。

▼江戸時代に『大日本史』を編纂した水戸光圀は、後鳥羽上皇に弓を引いた北条義時を“逆臣”と手厳しく批判したが、南北朝期に『神皇正統記』を著した北畠親房は、“北条義時は人望に背かなかった。陪臣である義時が天下を取ったからという理由だけでこれを討伐するのは、後鳥羽に落ち度がある。謀反を起こした朝敵が利を得たのとは比べられない。従って、幕府を倒すには機が熟しておらず、天が許さなかったことは疑いない”(wikipedia)という官軍批判を展開した。

▼果たして北畠親房の官軍批判は当を得ていたのだろうか。

▼暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀は 今日まで辺境である伊豆に深く根を張っているようだ。

▼伊豆に起源を持つ朝鮮ゴロツキ・ヤクザの稲川会も、正に北条一族の足跡をなぞるように神奈川県に進出し神奈川県議会を手中に収め、横須賀の小泉一家を担いで国政に多大な悪影響を及ぼした。

214名無しさん:2021/09/06(月) 22:14:01
(続き)
.
.
▼南朝正統論を肯定する一方、悪逆非道な狂人ヒットラーと誼を通じて「持たざる国」(無産階級国家)を自称し 国家社会主義三国軍事同盟を結んで、米・仏を盟主とするブルジョア憲法を共有する運命共同体に対して無謀な階級闘争を仕掛けようとした藤原摂関家の総理大臣 近衛文麿。

▼出鱈目な判断を下す藤原摂関家の近衛文麿を裏切ることもせず、ひたすら出鱈目な判断に盲従し 連合艦隊司令長官の地位に恋々として真珠湾奇襲攻撃を立案し 日本海軍を指揮した山本五十六は著しく正義に反する行動を取ったと断じざるを得ない。
.
.
>1338年9月、大覚寺統の朝廷では劣勢を挽回するために東国の軍勢を糾合して京都へ攻め上るという案が用いられ、北条時行も義良親王・宗良親王や北畠親房・結城宗広・伊達行朝・新田義興らと共に伊勢国大湊から出帆したが、遠州灘を過ぎた辺りで暴風雨に遭遇して四散した。北条時行の漂着した場所は不明であるが潜伏して探索を逃れていたらしい。
.
.
▼神国史観に照らせば、日本史の重要な時期に神風が二度 吹いている。

▼一度目は言わずと知れた元寇の時であり、二度目は持明院統の朝廷に味方した西暦1338年の遠州灘の神風である。

215天照皇大神を軽んじた外宮優位の伊勢神道:2021/12/19(日) 15:58:33
>天照皇大神を疎んずる外宮上位の伊勢神道を妄信した大覚寺統の朝廷のみを正統と買い被り、内宮の天照皇大神を崇拝した持明院統を侮辱する南朝正統論を奉じる一方、悪逆非道な狂人ヒットラーと同盟を結んで 米・仏を盟主とするブルジョア憲法を共有する運命共同体に対して無謀な階級闘争を仕掛けた70年以上前すなわち軍国主義時代の戦前日本
.
.
.
未だに持明院統の北朝5代はヨソ者扱いだな

216天照皇大神を軽んじた外宮優位の伊勢神道:2021/12/19(日) 18:23:25
>未だに持明院統の北朝5代はヨソ者扱いだな
.
.
.
今上陛下は126代。『皇統譜』によると持明院統(北朝5代)は歴代に算入していない。

217人工地震は逆賊・極右の仕業:2022/01/03(月) 16:07:32
2022年1月3日(月)15時25分頃 茨城南部で反米・極右が震度1の人工地震(深さ50km)。 核戦力を保有するロシアと手を結んで在日米軍を追い出そうと企んだ浅知恵の反米・極右。 天照皇大神を軽んじる伊勢神道を妄信したため衰勢を辿った大覚寺統を買い被り 天照信仰を貫いた正統派の持明院統(北朝5代)を皇統譜の歴代から未だに排除し続ける逆賊ども。

218人工地震は逆賊・極右の仕業:2022/01/05(水) 22:33:00
2022年1月5日(水)21時34分頃 茨城南部で反米・極右が最大震度3の人工地震(深さ50km)。 天照皇大神を軽んじる伊勢神道を妄信したため衰勢を辿った大覚寺統を買い被り 天照信仰を貫いた正統派の持明院統(北朝5代)を歴代天皇から排除した逆賊 水戸光圀。
.
未だに『逆賊 水戸光圀』を美化するゴミ時代劇を流し続けるカスTBS。

ドイツ・オーストリアのカトリック圏から出て来た反米・極右の狂人ヒットラー、イタリアのカトリック圏から出て来た反米・極右の変人ムッソリーニ、スペインのカトリック圏から出て来た反米・極右の独善フランコ…

219カルト教団カトリックと逆賊 日本会議:2022/01/20(木) 14:10:01
反社カルトのカトリック教会が誼(コンコルダート)を交わした反米・極右の主な例は以下の通り。
.
1.ドイツ・オーストリアの狂人ヒットラー
2.イタリアの変人ムッソリーニ
3.スペインの独善フランコ
4.逆賊 日本会議

逆賊 日本会議は (1)天照皇大神を軽んじる度会神道を妄信したため 遠州灘で神風を蒙り衰勢を辿った大覚寺統を買い被り 逆に天照信仰を貫いた正統派の持明院統(北朝5代)を皇統譜の歴代天皇から排除した逆賊 水戸光圀の反米・極右(尊攘・質素倹約・緊縮財政)思想を引き継ぎ、(2)水戸光圀の反米・極右(尊攘)思想にかぶれて 日米修好通商条約を結び開国した大老 井伊直弼を暗殺した逆賊 水戸浪士や浅墓な吉田松陰を神格化し、あまつさえ(3)核武装したロシアと手を結んで 返還される北方領土などから在日米軍を追い出そうと企んだ。
.
縁談を餌に カトリックに入信させる気 満々で40年近くカトリックでない異教徒の上智大卒業生や栄光学園卒業生に 独善的パターナリズムを強要しようと付き纏うカルト教団、イエズス会。
.
カルト教団、イエズス会が御膳立てした胡散臭い縁談を拒絶し、オンライン・ゲームなどを利用して他の方と繋がろうとすると、大叶鉱山で大発破を轟かせて威嚇したり、人工地震で驚かせたり、爆音バイクで周囲を徘徊したり、au PAY マーケットやマカフィー・モバイル・セキュリティー、Google Japan、Twitter、d払い、TVerなどに潜伏するカトリック秘密工作員を動員してジャンク通知をプッシュして妨害を繰り返したり、遠隔操作でYouTubeやTVerの音量を頻繁にゼロ(ミュート化)したり、陸自ヘリで徘徊して爆音を撒き散らしたり、公道にゴミを散乱しに来る…
.
反社カルトのカトリックが 押し付けがましい振る舞いを自重しないなら 中間選挙を控えたカトリックのジョー・バイデンに迷惑が掛かることになるぞw

220自分の手を汚さず同和教育に熱心に取り組むズル賢い男:2022/03/03(木) 07:33:30
2022年3月2日(水)午前9時8分頃、茨城県南部で最大震度3の人工地震(核戦力を保有するロシアと手を結んで北方領土などから米軍を追い払おうと企んだ カルト教団カトリックを黒幕とする日本の反米・極右の仕業)
.
2022年3月2日(水)深夜、タケオが堅気の住宅地に宅地を提供したため小山市間々田六丁目の同和部落から来たダンプ屋ヤクザ宅から夜通し番犬騒音。
.
自分ん家の隣でなく遠い堅気の住宅地に同和ヤクザを呼び込み 自分の手を汚すことなく同和教育に熱心に取り組むズル賢い校長タケオ。
.
そんなに同和教育が好きなら 校長タケオは自分の双子の孫に同和ヤクザの嫁を貰え!

221とはずがたり:2023/11/04(土) 21:41:34
https://twitter.com/1059kanri/status/1720626637371322742
まとめ管理人
@1059kanri
やっぱりこれは興味深いなあ。元寇の影響により、日本刀は対遊牧民用の武器として改良され、それは中華世界でも有用なものだと認識されていた、と

戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000379305

16世紀半ば、戦国時代の日本をルポルタージュした中国人がいた。その後すっかり忘れ去られていた貴重な記録『日本一鑑』には、いったい何が書かれているのか。明清時代の中国を、ユーラシアの陸と海から大きな視点でとらえた著作で高く評価される著者が、日本の戦国時代を描き直す意欲作。
1523年、戦国日本の有力者、大内氏と細川氏が日明貿易をめぐって争い、中国の港町を争乱に巻き込んだ「寧波事件」は明朝に衝撃を与えた。密貿易と倭寇への対策に悩む朝廷の命を受けて、日本の調査のために海を渡ったのが、『日本一鑑』の著者、鄭舜功である。「凶暴、野蛮な倭人」という従来の先入観にとらわれない鄭舜功の視線は日本の武士から庶民におよぶ。生活習慣や日本刀の精神性、切腹の作法、男女の人口比など多岐にわたって、凶暴なるも礼節を重んじ、秩序ある日本社会を描いている。
また、日本さらに畿内への詳細な航路の記録は、当時の日本の政治・軍事状況を映し出す。九州の東西どちらを通るのか、瀬戸内航路か太平洋航路か――。しかし、大きな成果をあげて帰国した鄭舜功には、過酷な運命が待っていたのだった。
本書によって、日本の戦国時代は、応仁の乱から関ヶ原の合戦へという「陸の物語」ではなく、実は日本からの銀の輸出と海外からの硝石・鉛の輸入を主軸とする「海の物語」であったというイメージが、新たに像を結んでくるだろう。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板