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企業の提携・合併観察スレ

2293チバQ:2018/06/16(土) 11:52:28
 09年10月、世界最大の液晶パネル工場である堺工場が生産を開始した。進出企業を含めた総投資額は1兆円に上った。片山の我欲を牽制するため、町田は初の代表取締役会長になった。08年秋のリーマン・ショックで世界的な不況に突入。堺工場の稼働率は5割にとどまり、液晶部門の収益が悪化。会長の町田と社長の片山の責任のなすり合いが表面化した。

 12年3月期決算で3760億円の最終赤字に転落。経営責任を取り片山は代表権のない会長に追いやられ、一方、町田は相談役に退いた。だが、2人とも代表権も業務執行権もないのに、実権を離さなかった。

 6代目社長には常務執行役員の奥田隆司が昇格した。翌13年3月期の最終赤字は5453億円に膨らんだ。この時、片山がクーデターを敢行。奥田はたった1年で社長退任に追い込まれた。クーデターの実行部隊の隊長だった高橋興三が7代目社長の椅子に座った。

 15年3月期は2223億円の最終赤字を出し、高橋は経営者失格の烙印を押された。この時点で経営陣は当事者能力を失った。

 事ここに至って、官邸がシャープの救済に乗り出す。

 一方、シャープの経営の混迷ぶりを目の当たりにした台湾の鴻海精密工業会長の郭台銘(テリー・ゴウ)は、シャープを買収する好機が到来したと直感した。

 シャープは、同族色の強い企業形態のまま、内紛に明け暮れた揚げ句、当事者能力の欠如というオウンゴールで、鴻海精密工業の軍門に下った。

 会社を崩壊させたA級戦犯たちのその後について書いておく。

 町田は、佐伯の長女と結婚したことが社長の椅子に直結した。妻が56歳の若さで亡くなって12年後の12年9月に再婚。新しい愛の巣で悠々自適の日々を過ごしていると週刊誌で報じられた。

 片山は14年9月にシャープのフェロー(技術顧問)を退任。15年6月、日本電産の代表権を持つ取締役副会長に返り咲いた。 =敬称略


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