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Re: 分岐してから「5万年w」。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外w: 縄文人に比べれば、我々日本人にとって米先住民の方が遥かに重要だ!!!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009459M.jpg
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大阪トホホ秦野ボケ老人へのお返事です。
図で分かるように、「早期東アジア人」(Tianyuan〔田園洞人〕4万年前)の分派と古東南アジア人(の分派)が交雑して、日本人の祖でもあるところの「古東アジア人」が形成される。
一方、古東南アジア人の別の一派は、「早期東アジア人」や「古東アジア人」と混交することなく、日本に向かい「縄文人」になる。
図では、縄文人がアンダマンのオンゲ人から分かれて、便宜上華中を通っているが、その後の研究で、フィリピンや台湾の島嶼と僅かな沿岸住民にのみ「縄文ゲノム」が共有されることが確認されたので、「シナ海ランド」ルート(水没)で良い。
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この縄文人に比べれば、我々日本人にとって米先住民の方が遥かに重要だ。
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毛玉さんから教わった新知見を織り交ぜて復習しよう。
極北東の古人骨Kolyma1は、早期東アジア人(田園洞人)から75%、古代北シベリア人(ANS)から25%遺伝的影響を受けている。
米先住民の場合、早期東アジア人から63%、A古代北アジア人から37%引き継いでいる。Kolyma1よりも「早期東アジア人要素」が12%少ない。
「東アジア人と米先住民との共通祖先」として田園洞人を捉えることができるのであれば、y-Qは、日本人の0.3%以下を占めるに過ぎないとはいえ、日本のD1(D1b, D1a2)などより遥かに重要だ。
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ウスチ・イシム人(4万5000年前)や田園洞人(4万年前)は、その圧倒的な古さにも拘わらず、
まだ我々の中に生きている。
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一方、縄文人、弥生時代まで日本に棲息していたにも拘わらず、お前は既に死んでいる!笑
Re: 分岐してから「5万年w」。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外w: 縄文人に比べれば、我々日本人にとって米先住民の方が遥かに重要だ!!!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009460M.jpg
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
> 「東アジア人と米先住民との共通祖先」として田園洞人を捉えることができるのであれば
残念でした、田園洞人は航海術が幼稚で、日本には来れず、皆さん遭難しているの・・・
その頃、縄文人はクジラを獲ってたの、お前は既に死んでいる!笑
> 大阪トホホ秦野ボケ老人へのお返事です。
>
>
> 図で分かるように、「早期東アジア人」(Tianyuan〔田園洞人〕4万年前)の分派と古東南アジア人(の分派)が交雑して、日本人の祖でもあるところの「古東アジア人」が形成される。
>
> 一方、古東南アジア人の別の一派は、「早期東アジア人」や「古東アジア人」と混交することなく、日本に向かい「縄文人」になる。
>
> 図では、縄文人がアンダマンのオンゲ人から分かれて、便宜上華中を通っているが、その後の研究で、フィリピンや台湾の島嶼と僅かな沿岸住民にのみ「縄文ゲノム」が共有されることが確認されたので、「シナ海ランド」ルート(水没)で良い。
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> この縄文人に比べれば、我々日本人にとって米先住民の方が遥かに重要だ。
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> 毛玉さんから教わった新知見を織り交ぜて復習しよう。
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> 極北東の古人骨Kolyma1は、早期東アジア人(田園洞人)から75%、古代北シベリア人(ANS)から25%遺伝的影響を受けている。
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> 米先住民の場合、早期東アジア人から63%、A古代北アジア人から37%引き継いでいる。Kolyma1よりも「早期東アジア人要素」が12%少ない。
>
> 「東アジア人と米先住民との共通祖先」として田園洞人を捉えることができるのであれば、y-Qは、日本人の0.3%以下を占めるに過ぎないとはいえ、日本のD1(D1b, D1a2)などより遥かに重要だ。
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> ウスチ・イシム人(4万5000年前)や田園洞人(4万年前)は、その圧倒的な古さにも拘わらず、
> まだ我々の中に生きている。
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> 一方、縄文人、弥生時代まで日本に棲息していたにも拘わらず、お前は既に死んでいる!笑
Re: 分岐してから「5万年w」。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外w: 縄文人に比べれば、我々日本人にとって米先住民の方が遥かに重要だ!!!
秦野北斗さんへのお返事です。
> 残念でした、田園洞人は航海術が幼稚で、日本には来れず、皆さん遭難しているの・・・
> その頃、縄文人はクジラを獲ってたの、お前は既に死んでいる!笑
>
当該図の矢印を見てみろ...w
田園洞人は日本には来ていない。
ホント馬鹿だな、お前は。さては高校も卒業してないな?なので学者コンプが酷い。
文章も読めなければ、図も読めない。小学生のレベルwww
まじで、分からないの?読めないの?いや、信じられない、こんな低知能なお前が。短期記憶が失われる老人ボケとかいうそう類いじゃない。知能がね。
Re: 分岐してから「5万年w」。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外w: 縄文人に比べれば、我々日本人にとって米先住民の方が遥かに重要だ!!!
秦野北斗さんへのお返事です。
> 残念でした、田園洞人は航海術が幼稚で、日本には来れず、皆さん遭難しているの・・・
> その頃、縄文人はクジラを獲ってたの、お前は既に死んでいる!笑
>
>
> > 大阪トホホ秦野ボケ老人へのお返事です。
あははは、あはははは、皆さん、この哀れな低学歴老人・秦野は、
な、なんと!4万年前に縄文人がいたと信じてます!w
おいおい、じーさんまじかよ
紀元前300年
紀元前300年
日本
皇紀361年←おいおいおいw
孝安天皇93年
中国
周 - 赧王15年
秦 - 昭襄王7年
楚 - 懐王29年
斉 - 湣王元年
燕 - 昭王12年
趙 - 武霊王26年
魏 - 襄王19年
韓 - 襄王12年
朝鮮
檀紀2034年←おいおいおいw
信用できるのは中国の歴史
秦の涇陽君が斉の人質となった。
秦の華陽君が楚軍を撃破し、楚将の景鞅を戦死させ、襄城を奪った。楚の懐王は太子の羋?を人質として斉に送った。
秦の樗里疾が死去し、趙出身の楼緩を丞相とした。
この年以降、燕は大将秦開を派遣して東胡を打ち破った。
ちょっとこの辺りに注目したい。
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秦野←人事不省w
O-JST002611はチベット・ビルマ語集団には関与しないが、シナ語形成の中核集団と考えられるため重要です。 分布の中心は中国東部にあり、江蘇地区では3人に1人がO-JST002611に属します。
O-M134に比べて余りO-JST002611について研究されていませんでしたが、最近良く分かってきました。論文を紹介します:
Improved phylogenetic resolution for Y-chromosome Haplogroup O2a1c-002611
Scientific Reports volume 7, Article number: 1146 (2017)
この論文も指摘するように、O-JST002611はチベット・ビルマ語集団には関与しないが、シナ語形成の中核集団と考えられるため重要です。
分布の中心は中国東部にあり、江蘇地区では3人に1人がO-JST002611に属します。
北部系統と東部・南部系統に分かれます。O-JST002611のO2a1c1b1-F238とO2a1c1b2-F1266の分布が北部に偏っており、東部・南部では1%以下であることが重要です。
このサブグループがシナ語・殷の中核と見ています。
また、遼河集団(N1, O-M134, C2)の南下の前にO1b2集団を北方モンゴロイドがした集団ではないでしょうか。
言語系統はどこまで遡るか?
印欧語でもおよそ1万年前が限界と見られています。
O2で見ると、O2の起源が3万年前。
O2のシナ語族O-JST002611とチベット・ビルマ語族(TB)・テュルク語族O-M134は3万年も開いています。
シナ語族に特徴的なO-JST002611のサブグループ
・O2a1c1b1-(F238)1万年前
・O2a1c1b2-(F1266)
TB語族・テュルク語族に特徴的なO-M134のサブグループ
・O2a2b1a1 (M117/Page23)1万年前=TB語族
・O2a2b1a2 (F444)=テュルク語族
やはり、およそ1万年が限界のようです。
ただ、シナ語族とTB語族は、遺伝系統は異なるものの、相互に影響し合ったと見ています。
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O-JST002611
The Haplogroup O2a1c-002611 probably didn’t participate in the formation of Tibeto-Burman groups but was heavily involved in the origin and expansion of Han Chinese12, 15, 16.
The geographic distribution pattern of Haplogroup O2a1c-002611 in our current study is consistent with previous estimations that this haplogroup enriches in the eastern part of China. The population in Jiangsu, Anhui, Zhejiang, and Shanghai have nearly one-third of the males belonging to this lineage as shown in Table 1.
There are interesting substructures in distributions regarding different sublineages. One of the two main subclades of O2a1c-002611, O2a1c1a-F11 (and its sublineages), is equally distributed in eastern, northern and southern China regarding frequency.
However, the other subclade O2a1c1b-F449 and its sublineages O2a1c1b1-F238 and O2a1c1b2-F1266 are particularly enriched in northern China with a frequency of 1.12% but only 0.47% and 0.61% in eastern and southern China, respectively. The observation is consistent with our hypothesis in Wang et al.12 that mutation of O2a1c1b1-F238 probably occurred in Proto-Han-Chinese in northern China after the split with Tibeto-Burman and other southern native populations.
The lineage O2a1c1a*-F11 (the samples only have derived alleles at sites F11 and F425 but other no downstream derived SNPs) is two to three times lower in frequency in northern China compared with that in eastern and southern China, and we have not found O2a1c1a1*-F632 in northern China. However, Haplogroup O2a1c1a1a1b, O2a1c1a5, O2a1c1b1a1, and O2a1c1b2 are more frequent seen in northern China than in southern and eastern China.
『古代アトランティス人』の末裔『バスク人』とモロッコの『ベルベル人』、そしてユカタン半島の『古代マヤ人』
タジク族もヒッタイト系民族の末裔 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F3163
…日本人とカザフスタン人のDNAは90%同じで、ゾロアスターが誕生した地でもある。
イラン・インドのアーリア人のルーツとなった中央アジアの遊牧アーリア人は、夢蛇鬼説ではヒッタイト人である。
彼らは司祭を中心とし、部族単位で麦を栽培し、自然現象を神として信仰していた。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fshinsengumi3.seesaa.net%2Farticle%2F144961999.html
古事記によると、朝鮮半島南西部にあった百済や新羅との交渉の場に、「たたら場」という言葉が登場する。
また、パミール高原の麓のタジキスタンを中心に、アフガニスタン北部や中国領ウイグル自治区に居住するタジク族は、中央アジアの多くの民族の系譜を引いているが、インド・ヨーロッパ系の言語を使い、カザフ族やモンゴル族に似て、勇壮なこと好むという。
以上の事から、タジク族もヒッタイト系民族の末裔であることは間違いないだろう。
更に、タジキスタンには「クダラ」という地名が残っているが、クダラの民族が朝鮮半島に移動して、百済を建国した可能性もある。
スサノオは扶余族だったはずで、当然ながら扶余族は、モンゴル高原を遊牧する騎馬系遊牧民(タタール人=ヒッタイト人)だったと考えて良い。
・・・
起源のスキタイ騎馬民族は ヒッタイト民族の末裔である。 .... その他、ローマ神話のアイスクラピウス、フェニキアや カルタゴで信仰されたエシュムーンも、蛇が巻き付いた杖を持っている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fshinsengumi3.seesaa.net%2Farticle%2F148545511.html
アフガニスタンのパターン人(パトゥシュン人)、インドのカシミール族、ミャンマーのカレン族、ミナシェ族、中国のチャンミン族なども、失われたイスラエル10支族の血を引いていることが明らかになっている。
イザナミの出身地とされるアフガニスタンやインドにも、イスラエル10支族の子孫が実在している事は注目に価する。
また、インドと中国を結ぶルートにパミール高原と天山があるが、天山を隔てた西のカザフスタン人のDNAは、日本人のそれと90%同じである。
紀元前2000〜1500年、今日のカザフスタン付近に、鉄器文化を持ったインド・ヨーロッパ語族が進出してきた。
彼らは「アーリア人=高貴な人」を名乗り、年代的に見ても「ヒッタイト人」である事は間違いない。
アフガニスタン北部のバクトリアは元々、アッシリアが分裂して出来た4王国の1つであるメディア王国の一部で、ゾロアスター生誕の地でもある。
・・・
アルタイ系民族 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.weblio.jp%2Fwkpja%2Fcontent%2F
アルタイ諸語を話す民族はY染色体ハプログループC2が高頻度で観察され、とりわけC-M86との関連性が想定される[30]。ただしこのタイプはニブフやコリヤーク人でも高頻度であり、アルタイ諸語の基層にニブフ語のような古アジア諸語を想定できるかもしれない。
アルタイ系民族は騎馬遊牧民が多いが、騎馬文化の起源は印欧系クルガン文化にさかのぼる。最初に南シベリアに騎馬文化をもたらした民族はトカラ語派を話したアファナシェヴォ文化の担い手である。アルタイ系民族は彼らから騎馬文化を取り入れたと考えられる。その後南シベリアではオクネフ文化が興るが、この担い手としてアルタイ系民族(テュルク系民族)が想定できる。その後イラン系アンドロノヴォ文化、スキタイ時代をへて、アルタイ系民族が中央ユーラシアで覇権を握る時代が訪れる。テュルク諸語、モンゴル諸語、ツングース諸語の分化時期は明らかでないが、各々の拡散に、印欧系騎馬文化の影響があったことは明らかである。
ハプログループR1b系統は西ヨーロッパと南ヨーロッパに顕著に分布している系統であり、バスク人やケルト系民族に80%以上の高頻度に見られる
ネアンデルタール人とホモサピエンス /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Foyasumipon%2Fentry-12145898879.html
ホモサピエンス(HS)とネアンデルタール人(HN)及びデニソーワ人(HD)は約50万年前に分離、その後40万年ごろネアンデルタール人(HN)とデニソーワ人(HD)が別れたと考えられている。これまで紹介してきたように、分離したとはいえ3種の間で遺伝子のやり取りがあったという事実は、互いに性的交渉が可能で、完全に異なる種として分離してはいなかったことを意味している。
ホモサピエンス(HS)も約20〜10万年前に徐々に現代のアフリカ人とユーラシア人に分離をはじめていることから(←これは具体的には遺伝子上のどういう変化なんでしょうね?)、現代のユーラシア人は10万年前にアフリカを離れたグループの子孫と言える。一方、ネアンデルタール人(HN)は、ホモサピエンス(HS)より先にユーラシア全体に広がった。ヨーロッパでもクロアチアやスペインに分布した西部ネアンデルタール人(HN)と、シベリアアルタイ地域に分布した東部ネアンデルタール人(HN)は遺伝的に異なっている(私たちの民族の違いと同じように考えればいい)。 (←スペインとクロアチアはだいぶ離れているけれど、クロアチアも西部ネアンに入るんですね)
3者のゲノムを比べた研究から、1)西部ネアンデルタール人(HN)から現代ユーラシア人の祖先、2)デニソール人(HD)からポリネシアやチベット族の祖先、そして3)ネアンデルタール人(HN)からデニソーワ人(HD)、という方向性で遺伝子導入が認められているが、不思議なことに、この逆の流れは検出できていなかった。
(略)
論文の結論は次のようにまとめることができる。
1)まず、東部ネアンデルタール人(HN)には、確かにホモサピエンス(HS)から遺伝子が流入している(1〜7%)。この流入は、西部ネアンデルタール人(HN)やデニソーワ人(HD)には認められない。
2)西部ネアンデルタール人(HN)からユーラシアホモサピエンス(HS)にゲノムが流入(3.3〜5.8%)したのは5万年前の話だが、東部ネアンデルタール人(HN)へのホモサピエンス(HS)ゲノムの流入は10万年から20万年前の間に起こっている。
3)この遺伝子流入(10〜20万年前)は、後にユーラシアホモサピエンス(HS)を形成する現代人の一部の集団がアフリカを離れる(6万年前)より前、今の北アフリカや、イスラエルで起こったと考えられる。
(←これの論拠は何なんでしょうかね?)
4)(ホモサピエンスからアルタイのネアンデルタール人に)流入した遺伝子には、肝臓の発生に関わる遺伝子など200近くの遺伝子が含まれているが、面白いのは言語の発生や進化に関係すると考えられてきた「FoxP2」遺伝子も含まれている。(←20〜10万年前に、ホモサピエンスの遺伝子流入を受けたアルタイのネアンデルタール人は、言語を巧みに操ったという事?)
5)人口が20,000人に達したと考えられる西部ネアンデルタール人(HN)とは違って、アルタイのネアンデルタール人(HN)は1,000人以下の小さな集団で他の古代人から孤立して暮らしていたと思われる。これが、現代人(ホモサピエンス(HS))ゲノムの流入の痕跡がより鮮明に残している一因と考えられる。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fbylines.news.yahoo.co.jp%2Fnishikawashinichi%2F20160225-00054771%2F
アルタイ:中央アジア・西シベリアでアルタイ山脈のある辺り。
*世界地図を広げると、アジア大陸のど真ん中にロシア、中国、モンゴル、カザフスタンの四国が接する場所があるのに気づく。現代の国境など紀元前のスキタイ人には知ったことではなく(スキタイ系の文化はポーランドから中国北部までの広い範囲に分布している)、アルタイ山脈の麓にあたるこの地域にはスキタイの古墳が点在している。ウクライナにあったスキタイの古墳は多くが盗掘されてしまったが、この地域は人もまばらなのでこうした未盗掘のクルガンがよく残っているようだ。代表古墳はバジリク古墳群(紀元前4-500)。1947年に発見されたパジリク古墳群 などはその代表格だが、ここでも木製の馬車や、模様も鮮やかな絨毯(現存する最古の絨毯だろう)、ミイラ化した人間や馬の遺が発見され、人間の遺体には刺青がくっきりと残っていた(ちなみにこの遺体も金髪のコーカソイドだったようだ)。今回のミイラ化した遺体の発見はこのパジリク以来の発見ではないだろうか。この地域は冷涼で、丹念に密封された古墳の地下の土が凍土となって有機物がよく残るのである。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2Fartaxerxes%2Fdiary%2F200608250000%2F
*スキタイ:スキタイの基幹民族である遊牧系の王族スキタイの遺骨から抽出された遺伝子と現代のスラヴ人の遺伝子を検査したところ、スキタイと一致するY染色体ハプログループであるハプログループR1a(R-M420)がスラヴ人の多くを占めていることが判明した。スラヴ人はこのほかハプログループR1b(R-M343, P25)も西スラヴを中心に多く含んでいる。このため、王族スキタイなど遊牧系のスキタイは西欧系の農耕スキタイとの婚姻により農耕スキタイ(スラヴ人)に吸収同化されて現代に至っているのであり、スラヴ人はスキタイの直系の末裔であると言える。またサルマタイの影響も強く受けている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2582%25B9%25E3%2583%25A9%25E3%2583%25B4%25E4%25BA%25BA
*Y染色体のハプログループRは、アジアの北西部に位置するコーカサス地方で、約30,000から35,000年前に初めて現れたと考えられている。このハプログループは、アジア南西で発生したと考えられ、その後、環境の変化などに伴って移動を開始し、現在ヨーロッパで最も一般的に分布している種である。また中央アジア、インド、エジプトやカメルーンでも分布が確認されている。ハプログループRは、早期に分岐したと考えられる姉妹グループR1系統(R-M173)とR2系統(R-M479)があるが、その大多数がR1系統(R-M173)の下流に属している。
R1系統(R-M173)は、最終氷河期(およそ7万年前に始まって1万年前に終了した一番新しい氷期のこと。最寒冷期の状態が続いたのは実際は非常に短い間、おそらく2000年ほどであったと専門家の間では考えられている。最寒冷期の直前は多くの地域では砂漠も存在せず、現在よりも湿潤であったようである。特に南オーストラリアでは、4万年前から6万年前の間の湿潤な時期にアボリジニが移住したと思われる。)の後に拡散を開始したと考えられ、現在ヨーロッパと西ユーラシアでは非常に一般的に分布している。R1系統(R-M173)の下流に属するサブグループとしては、ハプログループR1a(R-M420)や、ハプログループR1b(R-M343)に大別される。
ハプログループR1aはインド北部から中央アジアや東ヨーロッパに高頻度に分布していることから、インド・ヨーロッパ語族に属する集団が、このハプログループR1a系統(特にR1a1a)と、ほぼ同等であろうと考えられている。ハプログループR1b系統は西ヨーロッパと南ヨーロッパに顕著に分布している系統であり、バスク人やケルト系民族に80%以上の高頻度に見られる。新石器時代にアナトリアからヨーロッパに農耕をもたらした集団と考えられ、巨石文化の担い手と考えられる。大航海時代以降の人種の流動に伴って、南北のアメリカ大陸やオーストラリア大陸にも分布の範囲を拡大した。またバシキール人にも86%の高頻度である。この流れとは別に、古代にもアフリカ内陸部へ移動したR1b系統の一集団があったと見られ、ハプログループR-V88に定義づけられる分岐系統がチャド語派の言語を話すカメルーンの先住民族の間において高濃度で発見されている。
※ブリテン島に移住が始まった頃に別働隊の古代デーン人がバスク地方に拠点を築いた。そして本拠地の古代デーン人が大航海時代を始め前にバスク人が北アフリカに拠点を築き、現生人類と混血し、ベルベル人が出現した。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fsmall_creeps%2F46257607.html
古代の環境破壊(メソポタミアとマヤ) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkakuyomu.jp%2Fworks%2F1177354054882179642%2Fepisodes%2F1177354054882232239
バスク人
バスク人たちはバサジャウンとは接点を持たなかったが、気温が下がり生活が苦しくなると、バサジャウンたちは服の作り方と農業を教えて助けてくれた。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Ffmkn.hatenablog.com%2Fentry%2F2015%2F11%2F25%2F192537
バサジャウン、ネアンデルタール人の生き残りだったのではないかと考える人もいるようです。
太古のヨーロッパ人であることが証明された /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Ffmkn.hatenablog.com%2Fentry%2F2015%2F11%2F25%2F192537
Bryan Sykes博士がヨーロッパ人の遺伝情報を調べた結果、現在のヨーロッパ人は、古代ヨーロッパ人と、中東から移動してきた人々とが交配して生まれた人々であると結論づけました。
バスク人はこの交配がもっとも少なく、古いヨーロッパ人の姿を残していることが、遺伝情報から証明されました。(この内容は「イヴの七人の娘たち 」に書かれています)
最新の研究で、アジア人とヨーロッパ人は少々ネアンデルタール人の血を引いていることがわかっています(※「イヴの7人の娘たち」が執筆された時点ではこのことはわかっていませんでした)。つまり、ネアンデルタール人と私たちの祖先は出会って結婚していたというわけですから、可能性がなくはないですね。
ネアンデルタール人が絶滅したのは28,000年前、農業は8,000〜5,000年前に時間をかけてヨーロッパに広まった…ということは
・実は、1万年ほど前までネアンデルタール人が生き延びていた…そしてバサジャウンはその生き残りだった?
・バサジャウンは、クロマニョン人ではあったが、ネアンデルタール人との交配度が高く、孤立して暮らす人々だった?
ミトコンドリアDNAハプログループN9b系統が多数(64.8%)
M7a(南方系日本固有種)やG1b(北方系)、D10などが検出された。
北海道から出土した121体の縄文人骨のミトコンドリアDNAを解析した結果、北方系で日本固有種のハプログループN9bが多数(64.8%)を占めることが明らかとなった(注1)(注2)。これは、札幌医科大学が所蔵している縄文時代・続縄文時代の古代人骨を、安達登・篠田謙一らが調査した結果による。この縄文人骨121体の中からは他に、M7a(南方系日本固有種)やG1b(北方系)、D10などが検出された。
富山県富山市呉羽町北の小竹貝塚から出土した縄文時代前期人骨(約5,750年-6,530年前)(注1)のミトコンドリアDNAは、ハプログループN9bが多数(38.5%)を占めることが明らかとなった(注2)(注3)。これは、小竹貝塚から出土した縄文人骨91体のうち、ハプログループが判定できた13体から得られた結果に基づくもので、内訳はN9b(5体, 38.5%)、N9a(3体, 23.1%)、M7(2体, 15.4%)、A(2体, 15.4%)、G2(1体, 7.7%)である(注4)(注5)。この貝塚では身長170cmを越える長身の縄文人骨も出土している(注6)。
G2(1体, 7.7%)…
ハプログループG2aは西アジアで誕生
古代アフリカ大陸で誕生したホモサピエンスがまず「ヨーロッパ人」と「オセアニア人」に分かれ、その次に分岐したのが「縄文人」でした。
オセアニア人から別系列で分岐したのが「アメリカ先住民」と「東南アジア人」の2系列で、縄文人とは別のグループに分類されることになります。そして、現在の日本人は「東南アジア人」のグループに入っていますが、日本人のDNAのうち12パーセントは縄文人と共通していることが分かりました。
核DNAが解析されるまで、縄文人は日本人の先祖と考えられており、DNAには20パーセントから40パーセントの割合で縄文人の遺伝子が残っていると考えられてきましたが、実際にはわずか12パーセントだったのです。
縄文人の特徴|性格/遺伝子/歯/服/暮らし/刺青 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Furanaru.jp%2Ftopic%2F1013902
縄文人の刺青の特徴
アイヌ人と琉球民族の共通点の一つに「刺青(いれずみ)」があります。刺青といっても任侠が背中に背負っている和彫ではなく、「トラバイル・タトゥー(Tribal tattoo)」と呼ばれる幾何学模様で、ポリネシアやマヤ、台湾など、世界各地の民族部族の間で同時多発的に生まれた伝統文化の一つです。
トラバイル・タトゥーは、主にファッションとして、また宗教儀式に関わるものとして認識されています。
ある考古学者が、土偶の表面に刻まれた模様がトラバイル・タトゥーではないかと指摘されたことに始まり、1991年に発見された世界最古の冷凍ミイラ「アイスマン」の体に61か所の刺青が刻まれていたことなどから、刺青は早い時期から発展してきた人類共通の模様文化であると認識されるようになっています。
「アイスマン」…Y染色体は、ハプログループG2a2a1b(G-L91)ミトコンドリアDNAハプログループK1
アイスマンの父系の祖先を辿ることのできるY染色体は、ハプログループG2a2a1b(G-L91)であることが判明した[7][8][9]。このハプログループは、現在のサルデーニャ島やコルシカ島の住民にみられるタイプである[4]。また、アイスマンの母系の祖先を辿ることのできるミトコンドリアDNAを解析した結果ではハプログループK1であることが分かった[10]。その他にも、アイスマンは、動脈硬化の要因になる遺伝子を持っていたことも明らかとなった。国際研究チームによって胃腸の遺伝子が分析され、アイスマンがピロリ菌に感染していたことがわかった[11]。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ハプログループG2a2a1b(G-L91)
ハプログループG-M201 (Y染色体)(ハプログループG-M201 (Yせんしょくたい)、英: Haplogroup G-M201 (Y-DNA))、系統名称ハプログループGとは分子人類学において人類の父系を示すY染色体ハプログループ(型集団)の分類で、ハプログループFの子系統で、L116, L154, L204, L240, L269, L402, L520, L521, L522, L523, L605, L769, L770, L836, L837, M201, P257/U6, Page94/U17, U2, U3, U7, U12, U20, U21, U23, U33によって定義されるグループである。9,500-30,000年前に誕生した[1]。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
コーカサス地方に多い。ヨーロッパや中東、北アフリカでも低頻度に見られる。
下位系統のハプログループG2aは西アジアで誕生した後、農耕を携えてヨーロッパへ拡散したようである[2]。紀元前5000年〜紀元前3000年のヨーロッパの人骨の多くはハプログループG2aである[3][4]。このことから、新石器時代に中東からヨーロッパに農耕をもたらした[5]非印欧系集団と考えられ、ヨーロッパにおける巨石文化の担い手と考えられる[6][7]。en:Linear Pottery cultureなど新石器時代の中央〜西ヨーロッパの農耕文化の担い手であった。その後、ハプログループR1b (Y染色体)に属す印欧語集団に上書きされ、現在はヨーロッパでは非常に低頻度でしか見られない。
バスク人の祖先は、クロマニヨン人だという説もありますが、分かっていません。
バスク地方には,スペイン側に約265万人,フランス側に約35万人が住んでいるが,今日では,このうちスペイン側の約60万人,フランス側の約4万人がバスク語を話せるにすぎない。このほか,南北のアメリカ大陸(アルゼンチン,ウルグアイ,チリ,ベネズエラ,メキシコ,カリフォルニア州,カナダ)には,移住したバスク人の子孫約10万人が暮らしている。バスク人の起源については,イベリア系,カフカス系,ベルベル系など諸説があり,定説はないが,体型(前後に長い長頭),古語などからみて,バスク人の一部は,クロマニョン人の末裔であるとの説が提唱されている。… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
最近の遺伝子研究によると、『バスク人』とモロッコの『ベルベル人』、そしてユカタン半島の『古代マヤ人』はほぼ同じDNAを持っている事が分かり、これらの民族こそが『古代アトランティス人』の末裔ではないかとも言われています
ケルトについて その2 島のケルト /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.rui.jp%2Fruinet.html%3Fi%3D200%26c%3D400%26m%3D244177
最新の学説では、スコットランド人やアイルランド人は、元々イベリア半島からやってきた『古代イベリア人』とスコットランドやアイルランドの先住民族である『ピクト人』とが融合したものだとされています。そして後に大陸のケルト人が少数、そして更にゲルマン人、ベルガエ人、バイキング(ノルマン人:ノース人・デーン人・スヴェーア人)が少数、スコットランド、アイルランド、イングランドに渡来して混血したと言われています。
人類学的に見ても言語学的に見ても、『バスク人』は『古代イベリア人』の直系の子孫であり、そして『島のケルト人』のDNAは『古代イベリア人』の影響が大きいとされています。ですからどの歴史的な学説が正しいにしろ、現在私達がスコットランドやアイルランド等に見る『島のケルト』というのは、根底に『古代イベリア人=バスク人』的な世界観が色濃く反映されているものと言えるでしょう。しかし同時に、先住民族がピクト人であり、スコットランドやアイルランドがケルト語圏である事を考えると、スコットランド人やアイルランド人の祖先が、いくらブリトン人(大陸のケルト人)やピクト人を駆逐・粉砕したと宣言しても、ケルトやピクトの影響が文化的・民族的に大きかったと考える方が理にかなっています。ですから近代スコットランドやアイルランドに代表される『ケルト』とは、『バスク=イベリア的』なものと、『大陸のケルト』そして『ピクト』的なものの融合と考えるのが自然でしょう。
ちなみに『古代イベリア人』は『ストーンヘンジ』で有名な西ヨーロッパ巨石文明を造り上げた民族の子孫だという事です。ですから古代イベリア人は時代と共に分裂と部分的混血、そして巡回的な大移動を繰り返しながら、スコットランドやアイルランドに『古代巨石文明』と、『妖精が取り巻く神話的な世界』という色合いの違う文明を時間差で花咲かせたのかも知れません。
又、歴史的に見て、他民族が流入すると先住民族との間で激しい闘いが繰り広げられ、その結果敗者はジェノサイド(集団虐殺)され、その文化的要素は徹底的に排除されるというのが、殆どの民族で通例とされてきました。スコットランドやアイルランドに於ける『ケルティック クロス』に代表される様な、先住文化と流入文化の融合を行って来た民族は非常に稀です。ただ面白い事に、この傾向は、私達の祖先の一部である縄文人にも全く同じ傾向が見られます。そして、日本を代表する芸術家の岡本太郎氏は、ケルトの紐組紋から感じる生命美は、縄文土器の縄文から感じる生命美と信じがたいほどそっくりだと述べています。これらの事を考慮すると、スコットランドやアイルランドの先住的民族であると思われる『古代イベリア人=バスク人』系の人々は、その表現美、及び稀な民族的特性からすると、縄文人ともそのルーツを近しくしていた人々とも考えられます。ちなみに日本人に非常に馴染みの深い「蛍の光」はスコットランド民謡ですし、日本の国歌「君が代」を最初に作曲したのはジョン・ウィリアム・フェントンというアイルランド人(イギリス人という説もあり)です。又、怪談の『耳なし芳一』で有名な文学者、小泉八雲もアイルランド人です。ですから日本はケルト文化をあながち単なる遠くの異文化としては片付けらない間柄と言えるでしょう。
最近の遺伝子研究によると、『バスク人』とモロッコの『ベルベル人』、そしてユカタン半島の『古代マヤ人』はほぼ同じDNAを持っている事が分かり、これらの民族こそが『古代アトランティス人』の末裔ではないかとも言われています。ですから『島のケルト』と言われてきた人々の歴史をどんどん紐解いて行くと、『ドルイド』に代表される様な自然崇拝の魔術的世界だけではなく、人類の古代文明の謎が色々と見えて来るかも知れません。
◎古代デーン人(北極海ルート)
スラヴ人・サーミ人・アーリア人・トルコ人・儒家・縄文人・アイヌ人・オルメカ人
宗教(樹木/山岳/牡牛/巨石/蛇信仰・卜占/シャーマン文化・ヴェーダの宗教・ゾロアスター教・三皇五帝・儒教)
※北海道に拠点を定めた一族はアイヌの祖となり、その後、東方に出発。アラスカ・カナダ北部を抜けて南下し、ユカタン半島でオルメカ文明を築いた可能性がある。
一方オビ河を遡った勢力は現生人類と混血してアーリア人の祖となり、レナ河を遡った勢力も現生人類と混血してトルコ人の祖となった。ハーフの人を見ればわかるが、白人と黄色人種が混血するとトルコ系・イラン系の顔になる。
ブリテン島に渡った者たちはブリトン人の祖となり、ドルイド教を形成した。
スカンジナビアには混血する現世人類が居なかったため、サーミ人は古代デーン人そのままの姿を残していると考えられる。
◎古代デーン人(ドルイド神官団/古代)
アイルランド人・フリース人(オランダ人)・ルシタニア人(ポルトガル人・コキスタドール)・オック人
宗教(ドルイド教・デュオニソスの密儀・アナバプティスト・アルビ派)
※古代デーン人がブリテン島に移住。その後、ブリテン島に勢力を張った人々の一部勢力が周囲の地域、アイルランド・フリース・ルシタニアに侵攻。
◎古代デーン人(バスク系)
旧世代(地中海ルート):バスク人・ベルベル人・エジプト王族
旧世代(アフリカ周航ルート):プント王国・ベドウィン族・ドラヴィダ人・ニューギニア人
宗教(エジプト神話)
新世代(バスク人大西洋ルート):ナバラ王国・アラゴン王国・コロンビア・エクアドル・アルゼンチン・ボリビア
新世代(イエズス会大西洋ルート):グアラニー族・ガウチョ・プエブロ人・ポペの王国・ウルグアイ・ベネズエラ
新世代(イエズス会アフリカ周航ルート):ゴア・澳門・長崎
宗教(イエズス会・聖ザビエル修道会)
※ブリテン島に移住が始まった頃に別働隊の古代デーン人がバスク地方に拠点を築いた。そして本拠地の古代デーン人が大航海時代を始め前にバスク人が北アフリカに拠点を築き、現生人類と混血し、ベルベル人が出現した。
その後、北アフリカが砂漠化し、神官を兼務するバスク人諜報部隊はエジプト地域に侵入、エジプト古王国時代を開始。
一方、バスク人の別働隊はアフリカ大陸を周航し、プント王国・アラビア半島のベドウィン族の祖となった。またアフリカで混血したバスク人神官団はインド亜大陸に到達し、ドラヴィダ人の祖となり、あげくにニューギニア島・フィリピン諸島に到達した。ニューギニア人は大航海時代を敢行した古代バスク人の成れの果てではないか。デーン人は物作りに長けた現生人類を支配することで文明を手にしたが、ニューギニアには支配する現生人類が居なかったのだ。
◎古代デーン人(地中海ルート・サルディーニャ系)
旧世代:サルディーニャ人・クレタ人・テーベ人・ヌビア人・シュメール人・ヒッタイト人
宗教(巨石信仰・テーベ神官国家・クレタ神話・ヒッタイト神話)
新世代:シュメール人・ヘブライ人・ユダヤ人(エッセネ派)・カッチ人・コーサラ王国
宗教(ギルガメッシュ神話・ユダヤ教・キリスト教)
※一方、サルディーニャを拠点とした新規のデーン人地中海勢力はクレタ・ヒッタイト・ヌビア・シュメール勢力に分化した。その後、シュメール人だけがインドまで進出してコーサラ王国を聞き、テーベにも進出してエジプト人やヌビア人と対立。またシュメール神官団からはユダヤ人が輩出された、ユダヤ人はエジプトに潜入した。
◎古代デーン人(アフリカ周航ルート)
旧世代:エラム人・アフリカのシャーマニズム・インダス文明・台湾原住民・ミャオ族・蝦夷・ポリネシア人
新世代:蝦夷・第2世代エスキモー・ディネ族・アパッチ族・ピクト人
宗教(バアル神信仰・イスラム教)
※一足先にバスク人がアフリカ各地に拠点を築いていたため、エラム人は素通りし、アラビア半島・メソポタミア地域に入植。エラム王国を拠点にシュメール人と対立。カナンの地にモリヤという聖地を設定し、古代オリエント地域にバアル神信仰を広めたのではないか。
エラム人は、進出したメソポタミア地方でシュメール人と対立。インダス河にインダス文明を築いたがカッチに入植したシュメール人部隊に破壊された。その後、エラム王国の中枢を担っていた一部の部隊とアフリカ周航組が合同で東南アジアを周航、台湾に到達して卑南分化を残した。また、その後、台湾を拠点に太平洋・長江・日本東北に進出。
エラム人は蝦夷となり、一部勢力がまたそこから南北アメリカまで進出。アメリカ大陸を発見後、蝦夷の拠点に報告隊が帰還、彼らはモヨロ人と呼ばれた。時は奥州藤原氏が東北を治めていた時代であり、モヨロ人は奥州藤原氏の中枢を伴い、クスコ王国に案内、インカ帝国を形成する。
◎旧デーン人
・クルド人(アッカド人・アムル人・ヒクソス人/アッカド帝国・バビロニア帝国・ヒクソス朝エジプト・アッシリア帝国)
・ダルダニア人(ミケーネ人・スパルタ人・コリントス人・スキタイ人/ギリシア都市国家・サイス朝エジプト・マケドニア帝国・バクトリア王国・グプタ朝マガダ王国・アルメニア王国・ヴェネツィア共和国・キエフ公国・ロシア帝国)
・バクトリア人(サカ人・マッサゲタイ人・サルマタイ人/リッチャヴィ国家・カンボージャ王国・クメール帝国)
・キンメリア人
宗教(エレシウスの密議・ロシア正教・仏教・ジャイナ教・ボン教・バハーイー教)
※集団ストーカー被害者の方に向けて:被害者の方だけでなく日本人は報道通りシリア反政府軍は被害者であるという認識をしていると思うが、彼らは実際にはシリア国内でシリア国民に集団ストーカーを行う英米勢力と考えられる。それにシリアはセレウコス朝・アルメニア王国の古来からコリントス人の勢力圏と考えられるので、特に集団ストーカー被害者の方はシリア政府軍を応援しなければならない。反政府軍はアメリカの息がかかっている可能性があるのだ。
◎ドルイド神官団(旧世代)
ガリア人・ケルト人
宗教(ドルイド教・オルフェウスの密議・ピタゴラスの密議・改宗派・清教徒・モルモン教)
※ブリテン島に残った勢力が海の民として地中海に侵攻。スコーネの正統デーン人(旧デーン人)が協力を打診したと考えられるが周囲のフリース人・ルシタニア人なども遠征に参加。デーン人がミタンニ王国を築き、フリース人はフリギア王国を建てた。その他にも世界に進出し各地にA〜Gに至るドルイド神官部隊の末裔を残した。主に欧州にドルイド教を布教、ケルト人のドルイド教徒がガリア人と呼ばれたのではないか。
◎ドルイド神官団(新世代)
ブルグント人(ハプスブルグ家)・サヴォイア人・スエビ人・ザクセン人(ハンザ同盟)・ノルウェー人
宗教(サレジオ会)
※ローマ帝国に反抗するために各地のデーン人勢力はゲルマン人に協力を打診してまわっていた。それがゲルマン人大移動の真相だ。アテネ人はフランク人、フェニキア人はヴァンダル人、コリントス人はゴート人、そしてドルイド神官団はスエビ人・ブルグント人・ザクセン人に協力を打診。スエビ人は見事に旧勢力圏のルシタニア(スエヴィ王国)を奪還した。
その後、サヴォイアなど各地に築いた勢力が独自に動くようになる。ブルグント人はハプスブルグ家の祖となり、神聖ローマ帝国をアテネ人から奪い、背後からスペイン王国を操り、世界の半分を手にした。
スエビ人はプロイセン帝国を建国、ザクセン人はハンザ同盟を成し、サヴォイア人はイタリア統一を果たした。
その後、ハプスブルグ勢力はエフタル勢力がドイツで形成した組織を強奪、トゥーレ協会を基盤にナチスドイツを形成。サヴォイア人はムッソリーニの背後で暗躍し、両者は坂東八平氏・秦氏と同盟。新デーン人・ノルマン人連合に挑戦した。
集団ストーカー否定者の悪口 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fsmall_creeps%2F46257607.html
Re: 分岐してから「5万年w」。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外w: 縄文人に比べれば、我々日本人にとって米先住民の方が遥かに重要だ!!!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009466M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 人の移動の歴史
Re: 東漢氏の習俗: 竇氏: 竇 融: 張掖に赴任し、現地の羌族と交わり名声を得た
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
> 前漢の時に漢族の無頼の輩を河西に移住させているので、竇氏の遠いルーツは羌族であれ、
> 竇氏の祖先もその筋かもしれない。
>
> いずれにせよ、河西では既存の民族の枠を超えた集団の形成がこの時には既に見られたのだろう。この傾向が五胡十六国に受け継がれる。
>
> 前漢に、中国に占める羌族人口は最大になり、中国人口の4分の1、1200万人を占めたと言われる(楊光成『羌族歴史文化集』)。前漢期にはチベット人の祖である発羌がチベットにも拡がる。
>
> まさに、羌族が「諸民族のルーツ」とか「血液を供給する民族」と言われる所以である。
>
> しかし、後漢においては羌族蜂起が多発し、制圧によって「羌族受難の時代」となった。
> その人口は半分にまで減ったと言う。
羌族のイメージは現在だと少数民族といった感じがしますが、かつてはずっと大きかったわけですね。
それを理解しないと、羌の小月氏等が数万人もやってくるという事象を把握できないでしょう。
後に外戚として竇氏が出てくる背景にも彼らの力があったのは間違いないでしょう。竇氏に関する伝承と昨晩も触れた日本神話の大国主伝承との比較について、以前会報に記したものを再度引用しておきますね。
大物主(大国主)が蛇に変身する伝承がありますが、先の竇武に関して、東晋代の『搜神記』卷十四に、蛇に関する変身伝承があります。下記のとおりです。
「後漢の頃、定襄郡(山西省)の太守竇奉の妻が武(竇武)という男児を産んだとき、一緒に蛇を一匹産んだ。奉(竇奉)はその蛇を野原へ持って行って放した。 その後、武(竇武)は成長して、天下に名の聞こえた人物となった。やがて母が死に、これから埋葬をしようというとき、弔問客がたくさん集まっているところへ、草むらの中から一匹の大蛇が出て来た。そして一目散に棺のところまで来ると、そこにうずくまって天を仰いだりうなだれたりしたうえ、頭を棺に打ちつけて血涙を流し、いかにも悲しみに耐えないという様子であったが、やがて立ち去った。当時の人々は、これは竇家の栄える印だと考えたのであった。」
続いて大国主伝承と竇氏関連伝承について、比較分析をしてみたいと思います。
先述のとおり「竇」には「穴」の意味があり、大国主の別名「大穴牟持」にも「穴」が見える点で、両者には共通性が見られましたが、両者の関連伝承でも多くの共通性を見いだすことができます。そこでまず『資治通鑑』にみえる竇氏関連伝承を下記に引用いたします。
『資治通鑑』文帝前元年(B.C.179年)
「三月、文帝は太子劉啓(のちの景帝)の母竇(とう)氏を皇后にたてた。竇皇后は、清河郡の観津(河北省武邑県東)の人である。弟の竇広国は、字を少君といい、幼いとき誘拐されて売られてしまい、十余の家を転売された。姉が皇后になったと聞いたので、上書して出生をのべた。竇皇后が召して、問いただすと、事実だったので、田畠住宅や金銭を厚く賜り、長安城内の邸宅に兄の長君とともに住むことになった。絳侯の周勃と将軍潅嬰たちは相談していった。「わしらの生死は、この兄弟お二人の手にかかっている。二人とも賤しく低い身分の出だから、良い輔佐役と顧問を選ばねばならぬ。さもないと、お二人はまた呂后一族のまねをすることになる。これはまことに国家の大事だぞ」そこで知識人の中から人格高潔で節操があるものを選び、兄弟と同居させた。竇長君と竇少君は、それからというもの、温和で謙譲心のある君子となり、自分の身分が高いからといって他人に驕ることはなかった。」
『史記』「外戚世家」
「呂太后のとき、竇氏は良家の子女ということで宮中に入り、呂太后に仕えることになった。あるとき呂太后は、若い宮女を五人ずつ皇族の王たちに賜ることにした。竇氏も名簿の中に含まれていた。(中略)代国の王(のちの文帝)は五人の宮女のうち、竇氏だけを寵愛し、娘の嫖を生んだ。そのあと、男子二人(のちの景帝と梁の孝王)を生んだ。正妻の王妃も四人の男子を生んだが、代王が皇帝にならないうちに、王妃は死去した。王妃の四人の子も、代王が皇帝となったときに、つぎつぎと死んでしまった。代王が皇帝となって数か月たつと、大臣たちは太子をたてるよう奏上した。そのとき、竇氏が産んだ男児がもっとも年長だったので、太子とした。娘の嫖を長公主とした。その翌年、竇氏の末子の劉武を代王に封じた。そのあと梁国にうつして、梁の孝王とした。(中略)」
ここで竇氏の子女が、後の皇帝の妻(母)となりますが、そのことにまず留意しておきましょう。続く記載は下記のとおりです。
「竇皇后の兄は竇長君、弟は竇広国、字を少君という。少君の家は貧しかった。彼は四、五歳の幼児のときに、誘拐されて行方知れずになった。少君は十あまりの家々をつぎつぎに転売され、宜陽(河南省宜陽県西)まで流れて来た。」
ここで「少君」は幼少時に「誘拐」されて行方不明になり、さらに10余家で転売されます。ここに奴隷的な伝承要素が見えますが、大国主伝承でも、下記のように従者のように袋を担ぐ、身分の低いものとして表現されています。
「ともに稲羽に出掛けた時、八十神は大穴牟遲神に袋を持たせ、従者のようにして引き連れた。」
このように中国では人身売買があり転売の記載が出てきますが、しかし倭には奴隷・転売制度がなかった可能性もあり、大国主神話では「奴隷」を意味する「家来のように袋を背負う人」と表現したのかもしれません。続く伝承は下記のとおりです。
「その主人の下では、多数の少年たちが、山に入って炭をつくっていた。ある夜、あまりに寒いので、百人あまりの少年たちは崖下の穴で寝ていたところ、崖が崩れ、みな圧死してしまった。ただ少君一人だけが助かった。」
ここで「少君」以外の少年たちが崖下の穴で圧死するシーンがありますが、大国主神話では八十神が山上から投げ落とした大石の下敷きになって大国主が圧死したことや、木の間に挟まれて圧死したことと対応してきます。その関連記載は下記のとおりです。
「そこで、八十神はオオナムヂを恨み、殺すことにした。オオナムヂを伯岐国の手前の山麓につれて来て、「赤い猪がこの山にいる。我々が一斉に追い下ろすから、お前は待ち受けてそれを捕えよ」と命令した。オオナムヂが山麓で待ち構えていた所に、八十神は猪に似た大石を火で焼いて転がし落とした。オオナムヂはそれを捕えようとして、石に焼かれて死んでしまった。」「オオナムヂが生き返ったことを知った八十神は、またオオナムヂを殺すことにした。大木を切り倒して楔で割れ目を作り、そのなかにオオナムヂを入らせ、楔を引き抜いて打ち殺してしまった。」
そして大国主とスサノオ伝承ではその「穴」から助かる点で、先の「竇氏」の伝承における崖穴からの救出シーンと共通性しています。関連の大国主伝承は下記のとおりです。
「今度は、音の鳴りひびく矢を広い野原の中にはなち、それをオオクニヌシに探してこいと命令しました。オオクニが、原っぱに入ると、その回りに火を放った。どこから逃げ出せばいいのか、オオクニシが迷っていると、一匹のねずみが地面の穴から出て来て、「内はほらほら、外はすぶすぶ」(外から見ると穴はすぼまってるが、中はほら穴だ。)」
このように「大国主(大穴牟持)」や「穴師」の「穴」の語源が、この穴に落ちた伝承に起源があるように見えますが、ただこの場面だけで「穴」と名付けたとは考え難いでしょう。
「スサノオはオオナムヂを呼び入れ会ったが「ただの醜男ではないか。葦原色許男神と言った方が良い。蛇の室にでも泊めてやれ」と蛇がいる室に寝させた。スセリビメは「蛇の比礼」を葦原色許男神にさずけ蛇が食いつこうとしたら比礼を三度振るよういった。その通りにすると蛇は自然と鎮まったので葦原色許男神は無事に一晩寝て蛇の室を出ることができた。」
その後の竇氏伝承は下記のとおりです。
「そこで、自分で占ってみると、『数日内に、侯爵になれる』という卦がでた。それから、主人の家族にしたがって長安におもむいた。たまたま、ひとの噂に、今度、皇后になった女性は、故郷は観津で、姓は竇だと聞いた。それは自分と同じなので、もしかしたら、宮中にあがった姉ではないかと考えた。少君は、幼いときに攫われたけれど、生まれた県の名と姓はおぼえていたからである。また、かつて姉といっしょに桑の実を採ろうとして、樹から落ちたこともおぼえていた。そこで、そのことも書き記して竇皇后に上書した。」
ここで卦(占い)をして、「少君」が王になることを予告されますが、これは、大国主神話で因幡の白兔を大国主が助けた際に、白兎が発した次の言葉と対応します。
「「八十神は八上比売を決して得られない。袋を背負っていても、あなた様が獲得なさる」と畏み申した。」
「オオナムヂ(後の大国主)のたくさんの兄神たちである八十神は因幡国のヤガミヒメに求婚するが、ヤガミヒメはオオナムヂと結婚するといった。そこで、八十神はオオナムヂを恨み、殺すことにした。」
そして竇氏伝承のラストシーンは下記のとおりです。
「竇皇后は夫の文帝に告げて許しを得ると、少君を宮中に召して尋ねた。少君が詳細にのべた内容は、みな本当のことだった。竇皇后はさらに尋ねた。「ほかになにか覚えているかい?」 少君はこたえた。「姉さんが宮中に召される日に、伝舎の中で、ぼくはお別れしました。最後に、姉さんは湯浴みの道具をお役人から借りて、ぼくの身体を洗ってくれました。
食物ももらって、食べさせてくれました。それから、姉さんは旅立ったのです」
竇皇后は、その話しを聞いたとたん、弟のところへ走り寄り、かたく抱きしめ、大声をあげて泣きだした。二人とも涙があふれてとまらない。左右に侍していたお付きの人びとも、皆もらい泣きして、床につっ伏していたのであった。」
この宮中に召されて出世する場面は、大国主伝承ではスサノオの迫害から逃れて、「スセリビメを正妻にして、宇迦の山のふもとの岩の根にしっかりと宮柱を立て、高天原に届く様な立派な千木のある新宮を建てて住み、国づくりを始めた。」との記載になるでしょう。
あと、大国主を助けにくる少彦名がいますが、この少も、その少君に関係するでしょう。
こうみていくと、あきらかに大国主伝承は、漢の竇氏の伝承から取っているのがわかるのですが、高句麗の始祖伝承とも大国主伝承はかかわっています。
そして、この竇氏の伝承を、欧米人が読めば、一目で旧約聖書のヨセフ伝承を題材にしていることに気づくはずです。
すでに漢代にはローマ(大秦)との交易がありましたが、おそらくはそれ以前から、ユダヤ商人などとの交流もあったでしょうし、当然、文物や宗教伝承なども伝わっていておかしくはないんですね。
日本神話の起源を考えるにあたっては、まず中国・朝鮮文献を調べるべきだし、さらにその西方のシルクロードあたりまで視野にいれておくべきかと感じます。
そこでその東西文化の仲介役として歴史に出てくるのが、「羌の小月氏等」となるのでして、この集団が残した文化を解析することがさらに今後重要になってくるでしょう。
Re: 東漢氏の習俗: 竇氏: 竇 融: 張掖に赴任し、現地の羌族と交わり名声を得た: 羌族は公式には現代羌族(20万人)だけですが、中国ではチベット人、彝族、土家族等、多くの「羌族」がいるわけです。
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管理人さんへのお返事です。
> 羌族のイメージは現在だと少数民族といった感じがしますが、かつてはずっと大きかったわけですね。
>
> それを理解しないと、羌の小月氏等が数万人もやってくるという事象を把握できないでしょう。
>
ええ、だって、こうですからね(図)。
古匈奴人Q1aに競り勝って中原と東北に爆進するわけです。なので中原にも東北にもQがほぼ皆無で、僅かにQは南中国・東南アジアに逃れます。
...でも、ちょっと複雑。私、母系が古匈奴系mt-G3aだから…ワケアリの古西戎系、ワケアリの古匈奴系って感じ?w
図のように、原郷である甘粛・青海から東に直進したものを東羌族、残ったものを西羌族、
北東に進んだのを北羌族と呼んで良いでしょう。実際にそうした用語があります。
総称としては「古西戎人」。
羌族は公式には現代羌族(20万人)だけですが、中国ではチベット人、彝族、土家族等、
多くの「羌族」がいるわけです。
彝族だけで1000万、土家族が800万超えるわけですから、中国におけるチベット・ビルマ系の総人口はかなり多いです。語族ではシナ語に次ぐでしょうね。テュルクより多い。
日本人も言語では羌族です。
匈奴にシンパシーがあるからと言って、匈奴語だとは間違っても言いませんw
Re: 分岐してから「5万年w」。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外w: 縄文人に比べれば、我々日本人にとって米先住民の方が遥かに重要だ!!!
秦野北斗さんへのお返事です。
> AI君は何でも知っているんだな・・・、質問します、縄文人はクジラを獲ってたの、・・・
> 答えられないだろう・・・
>
どこからクジラの話になるんだよw おまえはパラノイアか!w
ちょっと切り返し方も幼稚すぎないか…
そりゃ、お前の知識量に比べたら遥かに多いさ。思考力で言えば、アリと人間。
まあ、私も「知識人」としては普通のレベルだろうね、謙遜してw 一応、博士号は取得してるんで普通の知識人とはしてもらうよ。
でも、お前、もう60過ぎてるんだろ?
それにしては、あまりにあまり過ぎる。馬鹿らしくて相手にしたくない。おまえ、ダッチワイフと自殺していいよ。
Re: 東漢氏の習俗: 竇氏: 竇 融: 張掖に赴任し、現地の羌族と交わり名声を得た: 羌族は公式には現代羌族(20万人)だけですが、中国ではチベット人、彝族、土家族等、多くの「羌族」がいるわけです。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009470M.jpg
> > 羌族のイメージは現在だと少数民族といった感じがしますが、かつてはずっと大きかったわけですね。
> >
> > それを理解しないと、羌の小月氏等が数万人もやってくるという事象を把握できないでしょう。
> >
羌の小月氏というのはもちろん実質上は羌族でしょうね。
月氏の一部が羌族に吸収されたということで、当然、元の月氏ではないでしょう。
ハプロ構成的にはこの小月氏の末裔が青海の玉樹チベット人ではないでしょうか。
玉樹チベット人(n=92):
K=22%、O-M117=20%、F=14%、C=14%、O1a=1%、O1b=0%。
このK=22%はNO以外で、K2a、MSQR、LT等と書いてあります。FはGやJでしょう。
私の西ユーラシア・ゲノムは他の日本人と比べると格段に多すぎるので、この方々が遠いご先祖かなと思っています。
図:青海チベット人のモデル楊秀措さん。
青海のチベット人には実際に欧米と共通するゲノムが見られます。一方、チベット自治区のチベット人にはインド・ゲノムです(6%)。印欧系と若干混血したことは確かです。
これは管理人さんには少しショックかも...:劉邦ハプロはシナ系O-JST002611ではなく、O-F155。O-F155は国別割合で中国が100%で、したがって日本の渡来氏族のうちで漢皇室出を標榜するものは、全てが経歴詐称である。
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管理人さんへのお返事です。
図1:劉姓分布
図2:劉邦ハプロO-F155の分布
表1:中国の姓氏とハプログループ
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1. 確信した!
劉邦ハプロは「有名人のハプロ」にあるようなシナ系O-JST002611(陳州劉氏)ではない。
劉邦ハプロは、ウィキ中国語版の「名人DNA」や他の中国サイトのように、羌族系の、
それも「日本・北京」のサブグループO-F438の下にあるO-F155である。
劉姓分布から分かるように、劉姓の分布の中心は、陳州=河南省東部ではなく、もっと北方だ。
少なくとも、劉氏の中心地は山東北部・河北、そして内陸の湖北・湖南にある。
一方、シナ系O-JST002611の分布図は一様に拡がっていて特徴がない。強いて言えば、山東省東部と陳州に多い。失格。
劉邦ハプロは、北方系と湖北・湖南・重慶に共通するO-F155が正統で、O-M155のうち4人に1人が劉姓である(表1)。同表によれば、O-F155は紀元前300年頃起源となっている。
2. 漢皇室のyDNAはO-F155で良い。
O-F155は羌族O-M133のサブグループO-F438に属し、系統樹は次のようになる。
O2a2b1a1 (M117/Page23)←日本=チベット・ビルマ語族
・O2a2b1a1a (M133)
・・O2a2b1a1a1 (F438)←日本・北京
・・・O2a2b1a1a1a (Y17728)
・・・・※O2a2b1a1a1a1 (F155)←劉邦ハプロ
・・・・・O2a2b1a1a1a1a (F813/M6539)←湘南・江西劉氏の95%
・・・・・・O2a2b1a1a1a1a1 (Y20928)
・・・・※O-F1754(O-F155の兄弟ハプロ)←日本
3. 整理
日本人における古西戎人O-M133
・O-F438=太公望(姜姓羌人)、北羌、犬戎、土家族・劉邦ハプロ
・O-CTS4658=羌族、現代チベット・ビルマ
・O-CTS9678=周族、秦人、客家
周族らのハプロは実質漢族と見なして良い。
重要なのはO-F438とO-CTS9678だ。それぞれ日本人のO-M133において36%を占める。
日本=チベット・ビルマ語族における日本語の特殊性から、O-F438が「日本語集団の中核」であると予想される。土家語も同じようにどの語派にも属さないことが注目される。
O-F438を日本語集団・初期大王ハプロと言って良いだろう。
そして、初期大王と漢皇室ハプロは対等のパラレル・ハプロ/兄弟ハプロなのである。
彼らに率いられた渡来人=日本人は、後に隋皇帝に対等な関係を主張する。小国が国際社会で生きるために国際法を生み出したオランダのグロチウスのように思えてくるではないか!
この結果により、日本の渡来氏族で漢皇室出自を標榜する者の真偽も判明する。つまり、O-F155が出なければ、経歴詐称に過ぎない。そして、今のところ、O-F155の国別割合で中国が100%である。したがって、すべて偽者ということになる。秦氏が始皇帝の末裔というのも同様に詐称に過ぎないだろう。
まあ、昔のことであるし経歴詐称は大目に見て、彼らが遺した仕事に目を向けようかw
Discussion
しかし、このO-F438は、朝鮮半島にいない…
「北京・日本」型と言われるように、Family Tree DNAの国別データに、韓国人が1人も見当たらないのだ。
面白いのは、O-F438のサブグループで「土家族・劉邦ハプロ」であるO-F155の兄弟ハプロO-F1754において日本人が8割を占めるということだ。
O-F155は中国人の割合が100%で、日本人にはいない。
一体どうなっているのか?
1つには東アジア人の被験者が少ない現段階ではデータに現れないということが考えられる。
しかし、韓国にO-F438が本当にいないのであれば、このハプログループが「中国から直接に日本に渡来した」可能性が出てくる。
Re: 分岐してから「5万年w」。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外w: 縄文人に比べれば、我々日本人にとって米先住民の方が遥かに重要だ!!!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009472M.jpg
秦野北斗さんへのお返事です。
5万年前に分岐…
5万年?
えーっ!50000年?
ゴマンだがな!w
5万年前にユダヤ人がいると思ってる猿。
5万年前にチベット人がいると思ってる人事不省。
5万年前に縄文人がいたと思っているパッパラパー。
おまえだよ、秦野www
Re: 分岐してから「5万年w」。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外w: 縄文人に比べれば、我々日本人にとって米先住民の方が遥かに重要だ!!!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009473M.jpg
http://www004.upp.so-net.ne.jp/saigot/iden/Nenpyo.htm
Re: 分岐してから「5万年w」。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外w: 縄文人に比べれば、我々日本人にとって米先住民の方が遥かに重要だ!!!
秦野北斗さんへのお返事です。
> AI君は絶望だな、「秀才」なんだろう、メンデルさんは、博士号は取得してないんだ、劣等性なんだよ
> 「天才」は、総合的には平凡もしくはそれ以下なんだ。
>
> 天才・秀才・鬼才・奇才の違い
>
うん、天才じゃなくてもいいよ。
でも5万年だよねw
5万年前のハプログループを同民族みたいに言ってるよね?
バカだよね。いや、完全キチでしょ?
ユダヤはJだから、CTまで遡って7万年前でしょ。
いるの?ユダヤ人と縄文人?ケラケラケラw
Re: 分岐してから「5万年w」。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外w: 縄文人に比べれば、我々日本人にとって米先住民の方が遥かに重要だ!!!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009475M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ イスラエル人
〉質問します、縄文人はクジラを獲ってたの、・・・
縄文時代の貝塚からは、クジラの骨が発見されており、クジラを食べていたことが判っています。また、クジラの骨も利用されていました。クジラの脊椎(せきつい:背骨)を、縄文土器を作るときの台として使ったことも知られています。そして、縄文時代の遺跡から発見されるクジラの骨は、子どものクジラだけではなく、大人のクジラのものが多数発見されています。
栃木県埋蔵文化財センター /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.maibun.or.jp%2Fqa%2Fa30.html
縄文時代には、丸木舟もあり、シカの角で作った銛(もり)もありました。しかし、丸木舟をこぎ出し、銛を使ってのクジラとりは行っていなかったようです。クジラは、泳ぐ早さが早く、丸木舟で追いかけられたでしょうか。また、大きいクジラを追いかけて仕留めるためには、大人数が必要ですが、果たして縄文時代に大人数を集めることが簡単にできたでしょうか。また、仮に仕留めたとしても、大きいクジラの体を運べたでしょうか。特に、セミクジラ、マッコウクジラ以外のクジラは、死ぬと海に沈んでしまいますので、小さな手こぎの丸木舟で運べたでしょうか。このようなことから、縄文時代には、舟と銛を使ったクジラ漁はなかったと考えられています。
しかし、クジラは時々浜辺に漂着(ひょうちゃく)して、身動きできなくなることがあります。クジラにはシャチという天敵がいるので、これに追われて浜に乗り上げることがあるようです。縄文時代には、このようにして漂着したクジラをとっていたと考えられています。
日本で、舟と銛を使って、集団による本格的にクジラとりが行われるのは、室町時代の終わりから江戸時代のはじめ頃からです。
なお、縄文時代には、イルカ漁は行われていたようです。丸木舟を使って、狭い湾にイルカを追い込み、銛で仕留めていたようです。
縄文時代の捕鯨
縄文時代には、舟と銛を使ったクジラ漁はなかったと考えられています。
しかし、クジラは時々浜辺に漂着(ひょうちゃく)して、身動きできなくなることがあります。クジラにはシャチという天敵がいるので、これに追われて浜に乗り上げることがあるようです。縄文時代には、このようにして漂着したクジラをとっていたと考えられています。
日本で、舟と銛を使って、集団による本格的にクジラとりが行われるのは、室町時代の終わりから江戸時代のはじめ頃からです。
なお、縄文時代には、イルカ漁は行われていたようです。丸木舟を使って、狭い湾にイルカを追い込み、銛で仕留めていたようです。<
例3:国立民族学博物館
捕鯨に関する文化人類学的研究における 最近の動向について(PDF)
>日本列島では,縄文時代早期(約10000 年前〜 6000 年前)の遺跡から鯨類の骨や歯が出土している。
また,九州の北西部から南西部にかけての縄文中期および後期の遺跡からナガスクジラやマッコウクジラ,イワシクジラなど大型鯨類の椎端骨製の土器製作用マットが出土している(平口2009)。
石川県の真脇遺跡(約5000 年前)からカマイルカの骨が出土しており,平口は分配や祭祀が行なわれたらしいと推定している(平口2003)。
縄文時代におけるイルカ漁についてはその存在が証明されているが,大型鯨類の捕獲は行われた可能性はあるものの,確証はないという(平口2009:41)。<
丸木舟…
日本の丸木舟のうち最も古いものは,福井県鳥浜貝塚,千葉県加茂遺跡出土のもので,ともに縄文時代前期にさかのぼる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
2艘(そう)の丸木舟を組み合わせて安定性を高める方法は、ヨーロッパのアルバニア、インドのガンジス川、ユダバリ川、チェンナイ(マドラス)やタンジャブール地方の河川や潟、シベリアのコリヤーク人の間に分布している。同じ効果をねらうものとしては、船側から横木を出して、その先に浮きをつけたアウトリガー・カヌーがある。これには片側のみに浮きを備えたものと両側に備えたものとがあり、前者は、スリランカの漁労民がサバのトロール漁で使っているのをはじめとして、ベンガル湾中のアンダマン諸島・ニコバル諸島、マレー西海岸、スマトラ西方のニアス島、さらにミクロネシア、メラネシア、ポリネシアに広がる。後者もフィリピン、インドネシアのほぼ全域、ニューギニアの一部、オーストラリア北東海岸、ニュージーランド、サモア、マダガスカルというように分布は広い。ミャンマー(ビルマ)南部のメルギー諸島のモーケンの人々は、移動生活を送るため、丸木舟の船幅を広くして居住空間を確保している。内側を水でぬらしながら外側を火で暖め、木を柔らかくして幅を広げるモーケンの方法は、アフリカ、北アメリカ北西海岸に住むネイティブ・アメリカン、シベリアのオスチャークやボグルの人々の間でも確認されている。アフリカのリベリアからシエラレオネの沿岸に住むクル人や北アメリカ北西海岸のネイティブ・アメリカンなどで使われている海洋用の大型丸木舟は、波への対策として、反り上がった舳(へさき)と艫(とも)を備えており、ウガンダでは舷(げん)側に波よけの板を縫い合わせた30人乗りの丸木舟を使っている。アイヌのイタオマチェップも含めて、こうした板材を継ぎ足した丸木舟を「複材刳船」とよぶ。
オセアニアでは、丸木舟は伝統的な技術、知識、儀礼を熟知した職人集団によってつくられ、しばしば首長や共同体の財産として継承される。また、保管する小屋がさまざまな儀礼の場になることもソロモン諸島から報告されている。[関 雄二]
縄文時代前期…
また縄文時代の丸木舟としては九州で初の発掘とされている。船底部のみで、フナクイムシによる腐食が激しいため、破損して放置されていたものだと考えられている。周辺からは錨に用いたと考えられる石が複数見つかっている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
先史時代の丸木舟[編集]
日本での先史時代の丸木舟の発見例はおおよそ200例ほどで、その分布は関東地方に最も多く150例近くあり、そのうち千葉県での発見例は100例を数え日本全体の半分を占める。各地域での発見例では、千葉県北東部の縄文時代のラグーン(潟湖)が湖沼群として残る栗山川中流域での出土がことに多く、流域には山武姥山貝塚などの貝塚も分布している。次に多いのが滋賀県の琵琶湖周辺で25例ほどあり、福井県から島根県にかけての日本海側がこれにつづく。また、大阪湾では古墳時代のものと推定される大型のものの出土例が何例かある。
日本の先史時代の丸木舟の出土例の多くは縄文後・晩期のものであるが、縄文早期や前期の出土例もある。これまで縄文前期の丸木舟として、福井県若狭町の鳥浜貝塚、京都府舞鶴市の浦入遺跡、島根県の島根大学構内遺跡、長崎県多良見(たらみ)町の伊木力(いきりき)遺跡、埼玉県草加市の綾瀬川や千葉県多古町の栗山川流域遺跡群などの出土例が報告されており、2013年には千葉県市川市の雷下遺跡(かみなりしたいせき)で、日本最古の縄文時代早期のものとみられる丸木舟が出土した。このうち、千葉県多古町の栗山川流域遺跡群で1995年に出土したムクノキの丸木舟は全長が7.45メートルあり、京都府舞鶴市の浦入遺跡で1998年に出土したスギの丸木舟の現在長は4.4メートルであるが全長8メートル、幅0.85メートルと推定されている。また、埼玉県草加市の綾瀬川出土や千葉県市川市の雷下遺跡出土のものもこれに次ぎ、このような大型の丸木舟は海洋での使用が十分可能であり、縄文前期には人々は、丸木舟に乗って島々に出かけていたと推測される。
なお、縄文時代の舟材に鳥浜貝塚、浦入遺跡や島根大学構内遺跡の出土例のようにスギ材が使われるのは稀であり、東日本での出土例ではイヌガヤ、ムクノキ、クリ、カヤなどが使用されている。古墳時代の大型の丸木舟にはクスノキの使用例が目立つ。
南西諸島の丸木舟[編集]
琉球王国で使用されていた船舶や舟艇のうち、大型構造船である進貢船はジャンクであり、やや小型の馬艦船(マーラン船)もそれに近い構造を持っていた。また、奄美群島の板付(イタツケ、イタツキ)や小早船(クバヤ)、沖縄本島北部のタタナー(二棚船)、大宜味村の祭ウンジャミに登場するハーリー船、八重山諸島の豊年祭に登場するパーレー船など和船に類似する構造を持つ船もあったが、それより南で用いられていた小型のサバニは全て丸木舟(クリブニ)であった。
丸木舟構造のサバニは、わずか2〜3名を乗せることができる程度の大きさで、櫂で操縦する小舟であるが、明治期以後、アギヤーと呼ばれる追込網漁の出現と進展に適応して大型化し、造波抵抗を除去するための工夫と配慮がなされるなど、船型を洗練させた。その結果、凌波性とともに高速性が向上し、サンゴ礁域のような障害の多い水域で操業するのに優れていた。
南太平洋地域[編集]
ソロモン諸島のレンネル島の丸木舟
この海域では現在までアウトリガーカヌーが広汎に使用されている。現在では板材を使用したものやFRP艇が多いが、歴史的には丸木舟が多く用いられた。また船底に刳り抜き材を用い、舷側や船首、船尾に別の材を付加して結び合わせるものも多い。
アウトリガーカヌーの起原はよくわかっていないが、東南アジアの島嶼部からオーストロネシア語族の拡散とともに広がっていったことは確実とみられる。丸木舟から発展したという説と、中国で発達したいかだから発展したという説があるが、史料に乏しく定説には至っていない。
北アメリカ[編集]
インディアンの丸木舟(1590年)
いわゆるインディアンのカヌーは丸木舟がほとんどであった。
オーストロネシア語族の拡散…
オーストロネシア人またはオーストロネシア系諸族(Austronesian peoples、Austronesian speaking peoples)とはオーストロネシア語族を話す民族の総称である。台湾先住民、フィリピン諸民族、マレー人、メラネシア人、ミクロネシア人、ポリネシア人等が含まれる。卓越した航海技術によって、東南アジアから太平洋諸島、マダガスカルへと分布を広げた。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
起源と拡散[編集]
オーストロネシア祖族は東アジアのモンゴロイドで、約6000年前に中国南部、現在の福建省付近から台湾へ渡ったとされる[1]。
この時に一部のグループは黒潮や対馬海流に乗って日本列島にも渡っており、特に沖縄県、鹿児島県、宮崎県や和歌山県南部、三重県、愛知県、静岡県南西部などに彼らの末裔が多いと言われている[2](隼人や南島系海人族)。HLAハプロタイプはB54-DR4がこの流れを示している[3]。ちなみに日本語は文法がアルタイ諸語のものであるが、音韻体系はポリネシア語の属するオーストロネシア語族と共通している部分がある。
いっぽうで台湾からは5000年前以降に一部がフィリピンやインドネシア方面へ拡散し[4][5]、紀元前2000年頃にインドネシアのスラウェシ島、ボルネオ島に到達した。
ボルネオ島のマレー人の一部はスンダ海峡を横断し、遠くマダガスカルへ達した。彼らは直接マダガスカル島まで航海した可能性が強く、この2つの島の間は4,500海里(8,300km)も離れているが、常に貿易風が追い風となる航海であるため、当時の東南アジア島嶼部の海民の技術レベルならば充分に現実的な航海である。
スラウェシ島のグループはここからニューギニア島海岸部、メラネシアと東進し、その間にオーストラロイドの先住民(パプア人、メラネシア人)と混血し、ポリネシア人、ミクロネシア人の始祖となる。彼らは紀元前1100年頃にはフィジー諸島に到達する。
現在、ポリネシアと呼ばれる地域への移住は紀元前950年頃からで、サモアやトンガからもラピタ人の土器が出土している。
サモアに到達した時点 でポリネシア人の東への移住の動きは一旦止まるのだが、紀元1世紀頃から再び移動を開始し、ポリネシア人たちはエリス諸島やマルキーズ諸島、ソシエテ諸島にまず移住した。その後、ソシエテ諸島を中心に300年頃にイースター島、400年頃にハワイ諸島、1000年頃にクック諸島やニュージーランドに到達した。ポリネシア人の移住の動きはこれ以降は確認されていないのだが、ポリネシア人の主食のひとつであるサツマイモは南米原産であり、西洋人の来航前に既にポリネシア域内では広くサツマイモが栽培されていたため、古代ポリネシア人は南米までの航海を行っていたのではないかと推測されている。
形質・遺伝子[編集]
オーストロネシア系諸族の祖先は元々モンゴロイドであったが、移住先の東南アジアにおいて先住民のオーストラロイドを多分に混血している[6]。特にメラネシアにおいては、オーストラロイド系メラネシア先住民が、後からやってきたオーストロネシア語族に言語交替を引き起こしたというほうが正確である。またマダガスカル人はアフリカ人(ネグロイド)と混血している。
ポリネシア人は、例外的なまでに大型の体格と、彫りの深い顔立ちが特徴である。体脂肪率が高く、世界保健機関の調査で住民の肥満率において、世界上位10カ国のうちの4カ国をポリネシア系諸国が占めるほどである。このことは長い航海における厳しい環境下で、大型の体格、高い体脂肪率という形質特徴が選択されていった結果と考えられる。
オーストロネシア系諸族に高頻度に見られる遺伝子として、Y染色体ハプログループO1aがあげられる。O1a系統は台湾先住民に66.3%[7]-89.6%[8]、ニアス島で100%[9]など、東南アジアの半島、島嶼部、オセアニアにも高頻度であり、オーストロネシア語族との関連が想定される[10]。またO2a2*系統(xO2a2b-M7, O2a2c1-M134) もオーストロネシア語族と関連しており、スマトラ島のトバ人に55.3%, トンガに41.7%, フィリピンに25.0%観察される[11]。ポリネシア人などにはパプア・メラネシア先住民由来のC1b3、MS、K*なども観察される。
mtDNAハプログループはハプログループB4a1aが関連している。
約6000年前に中国南部、現在の福建省付近から台湾へ渡った…
Y染色体ハプログループO1aがあげられる。O1a系統は台湾先住民に66.3%[7]-89.6%[8]
mtDNAハプログループはハプログループB4a1a…
明らかになった!日本人のルーツ -HLAハプロタイプの流れ- /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fjapanorigen%2Fe%2F0eb4d308d9b708c94126908121ea0532
日本人全体で、最も多いハプロタイプB52-DR2(A24 -B 52-DR2-DQ1。以下B52-DR2)は北九州、山陽から近畿地方にかけて、そして山形や福島でも12〜13%以上と高かった。対照的に南九州と東北地方の青森、岩手では6%前後、沖縄では2%程度と低かった。従ってこのハプログループは北九州から本州の西部や中央部にかけて多いタイプといえよう。日本の周辺部をみると、中国南部や東南アジアの諸民族には観察されず、対照的に中国北部の漢民族や韓国人で2%前後あることがわかった。さらに興味深いことに、これはモンゴル人においても最も多いハプロタイプである可能性が高いのに対し、中国東北地方の満族やオロチョン族などではまれで、シベリアのヤクートやバイカル湖のほとりのブリアートにおいてもほとんどみいだされていない。
2番目のハプログループ(B44-DR13)は、特に北陸地方から秋田にかけて多いことが知られており、また近畿や東海地方でも6%以上と多かった。対照的に東北地方の太平洋側や南九州、四国、沖縄では少ない傾向にあった。先に述べた一番多いハプロタイプ(B52-DR2)の分布状況と似ているが、日本海沿岸、とくに北陸地方に分布の中心がある点でいくらか異なっている。日本の周辺における分布をみても、先のハプロタイプ同様、中国南部よりは北部に多いハプログループであるが、詳しく見てみると違いが認められる。じつはこのハプログループは韓国人では7%以上と最も高頻度で見出されるタイプであり、また中国東北地方の満族にもかなりの頻度で見られた。にもかかわらず中国北部の漢民族やモンゴル人では殆ど見られなかった。表に示される3番目のハプログループ(B7-DR1)も同様な分布パターンを示していた。
4番目のハプログループ(B54-DR4)は、先の三つのハプロタイプとは対照的に、南方に分布が偏っているようにみえる。日本列島においては、特に沖縄で最も多いハプロタイプであり、南九州、南四国や東海地方、神奈川でも比較的多く観察された。一方、本州中央部や東北地方では頻度は低い傾向にあった。つまり、このハプロタイプは日本の南部から太平洋側にかけて多いハプロタイプといえよう。日本の周辺地域について見てみると、北方では韓国のみに多く観察された。興味深いことに、中国南部にすむいろいろな民族ではほとんど見られず、南方のタイ人やベトナム人でもまれであった。
さて、5番目のハプロタイプ(B46-DR8)であるが、その日本列島における分布は再び前二者に類似したパタンをとっていた。このハプログループは北九州から山陽、近畿地方にかけて4〜6%と多い傾向にあり、沖縄、南九州や太平洋沿岸地域では2%前後と少ない。日本周辺部では韓国人と中国東北部の満族のみで多く、中国内でもその他の民族やシベリアあるいは東南アジアの集団には見られなかった。ところが、図12に示したように、このハプロタイプに非常に類似した別のハプロタイプ(B46-DR9)があって、中国南部、四川省やタイ、ベトナムの集団で最も多いことが知られている。この2つのハプロタイプは共通の祖先ハプロタイプに由来すると考えられるので、この両者が南方型と北方型という対照的な分布パタンをとっていることは非常に興味深い。
以上の例をみても、東アジアのHLAハプロタイプの分布状況から、はっきりとした地域差あるいは民族差が浮かび上がってくる。比較的均質と考えられてきた日本人の中にも明瞭な地域差が認められるわけである。
…HLA遺伝子及びハプロタイプの分布から、東アジアの諸集団、特に日本人の成立過程について考察したい。今まで述べてきたようにHLAハプロタイプの分布は明らかに異なっている。しかも、それぞれのハプロタイプがばらばらに分布しているのではなく線上のつながりを示し、少なくとも3つから4つの異なるパタンがみられる。この現象を説明する最も単純なシナリオは、日本人祖先が少なくとも3つから4つあり、それぞれ異なったルートから日本列島にやってきたというものであろう。
第1に、B52-DR2を高頻度にもつ集団が、中国北方より朝鮮半島を経て北九州や近畿地方に移住してきた可能性が考えられる。この祖先集団と現在のモンゴル高原周辺に住む人々との関係に多いに興味をそそられる。
第2に、B44-D13とB7-DR1で特徴づけられる集団が朝鮮半島あるいはその近隣を起点として、北陸地方などの日本海側に至った可能性が考えられる。先に述べたように、このハプロタイプをもっとも濃密にもつ集団は韓国人や中国の満族であったと考えられる。他のハプロタイプにも同様の分布パタンをとるものがあるので、以上2つの流れが現代日本人の遺伝的特徴に与えた大きな影響が想定される。
第3には、B54-DR4を多くもつ集団が、中国南部を起点として西南諸島や、九州、四国を経て、本州の太平洋岸に達するルートが考えられる。(ただしこのハプログループはおそらく海を渡って朝鮮半島にも伝わったのであろう。)
最後に、B46-DR8をもつ集団が考えられる。先に述べたように、おそらく祖先を共通する類似したハプロタイプ(B46-DR9)はあきらかに中国南部に由来するが、これらをもつグループは朝鮮半島を経由するかあるいは直接に、南九州ではなく北九州に到達したのかもしれない。
現時点でははっきりと断定できないが、以上のHLAハプロタイプとは別に、頻度は低いながら南九州と東北地方北部に共通して存在し、その間の本州中央部には極めて稀なHLAハプロタイプが観察されている。形質人類学の多くの成果も考え合わせると、これらが縄文時代人の特徴の一部を反映し、先に述べたハプログループはむしろ弥生時代に渡来してきた人々を特徴づけているのかもしれない。(以上引用)
なおアイヌ人のHLAハプロタイプは詳細研究が進んでいないが、日本人と異なったタイプが多いという。
日本人のY染色体Hg
日本列島および東アジアの周辺諸集団におけるY染色体Hgの割合を下表と次頁図に載せてみた。特筆すべきは日本固有のD1bが30%以上を占めることである。O2bも韓国以外では殆ど観察されない。Y染色体における日本人の特異性が読み取れる。国内の地域差については、西日本ほどO3、O2bが多く、東日本や沖縄でD1bが多い傾向があるが、調査地が少なく断定的なことはまだ言えない段階にある。周辺諸族の最多Y染色体を示したのが次々頁図である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fjapanorigen%2Fe%2F913a14fc04a493f6814ad824e763aa0a
日本人のY染色体Hg-2(タイプ各論)
HaplogroupD1b(D-M55)
ハプログループDは日本列島、チベット、アンダマン諸島などで高頻度に観察されている。非出アフリカ系統のハプログループEと姉妹関係を成し、起源は55000年前程と非常に古い。起源年代とその分布様相から、かつては東アジアを広く覆っていたが、駆逐され島国日本と高山チベットに取り残されたようである。ハプログループDはモンゴロイドを形成する集団の最古層に位置し、イラン→アルタイ山脈→東アジアという北ルートで東アジアに達したと考えられる(崎谷2009)。
日本列島に分布するのはHg:D1b(D-M55)で、他に朝鮮で0~2%程確認されるのみでほとんど日本列島固有である。D1bは日本人に25〜45%,琉球人に55%,アイヌに85%の頻度で確認されている。D1bの起源年代は33700±2200年前(She et al. 2003)で、日本列島に人類が居住し始めた年代とほぼ一致する。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fjapanorigen%2Fe%2F6801001084137696869349fefb5fc864
HaplogroupO1(O-MSY2.2)
このハプログループはオーストロネシア語族と関係し台湾先住民で66%を占める。東南アジアのタイ・カダイ語族にも比較的高頻度で確認される。ただし両語族ともハプログループO3も共担する。日本にはO1が0%〜4.2%(Nonaka 2007)ほど確認されている。
HaplogroupO2a(O-PK4),O2b(O-M176)
Hg:O2aは東南アジアで高頻度にみられ、オーストロアジア語族と関連している。日本では2.4%観察されたという報告がある(Hammer2006)。
Hg:O2bは日本、朝鮮、満州に高頻度で観察され、ベトナムやタイでも確認される。O2bの起源は7800年前と推定される(Katoh 2004)。O2bは日本で平均30%程観察され、D1bと共に日本人の2大Hgとなっている。
共に長江文明の担い手である。
HaplogroupO3(O-M122)
東アジアに広く分布し、下位グループも多い。北部漢民族では60%以上の高頻度で観察される。O3a2c1がシナ・チベット語族を担い、特にO3a2c1aがチベット・ビルマ語派を担っている。O3a2*などいくつかのブランチはオーストロネシア語族と関連しているようである。O3a2c1と関連するシナ・チベット語族は雑穀・麦作農耕の黄河文明の担い手である。日本にはO3全体で20%程が確認されるが、下位グループの分析が追い付いていないようである。
HaplogroupC1a1(C-M8)
このハプログループの最大の特徴は日本固有であることである。日本全国で平均5%ほど確認されるが、国外では一切観察されていない。つまり日本列島内で祖形C1a*から発祥した可能性が高いと思われる。遺伝学者の計算で発祥年代が12000年前後(Hammer et al.2006)とされており、縄文文化の開化とリンクしていることが考えられる。
HaplogroupC2(C-M217)
このハプログループはユーラシア中部〜北米に多い。アルタイ語族、古アジア諸語、ナデネ語族と関連している。日本には平均4%ほど観察され、日本固有のC2aも存在する。福岡で7%以上と高い(Hammer et al.2006)。アイヌでも12%観察されている。起源地はアルタイ・サヤン地域と推定される(Zegura et al.2004)。
HaplogroupN (N-M231)
このハプログループはユーラシア北部(極北地域)に多い。分布域は北東シベリアから北欧にまで及ぶ。日本では平均4%ほど観察され、特に青森で7%以上と高い(Hammer et al.2006)。N1cはウラル語族と関連している。起源地は中国北東部と考えられる。遼河文明の担い手である(Yuli et al.2013)。
HaplogroupQ(Q-M242)
このハプログループはアメリカ先住民の大半を占める。ユーラシアにおいてはケット族に90%以上、セルクプ族に60%以上認められるが総じて低頻度である。イラン付近で発祥し急速にシベリアを移動しアメリカへ入ったようである。日本人には約0.5%観察される。
日本人の Y 染色体の起源年代と言語の関係
以上紹介した日本人の Y 染色体の頻度、起源年代、関係言語をまとめたものが下表である。最も多い Hg:D1b は起源 34000 年前と最も古く、しかもほとんど日本列島固有であるから、列島内発祥の可能性も高く、日本人の最古層と考えられる。これが主に縄文時代人の中核を占めていたようである。彼らの言語を「原日本語」と呼びたい。大陸部でほとんど駆逐されてしまった Hg:D の系統が高頻度で残存していることは、日本における縄文から弥生への移行には武力征服はほとんどなく、平和のうちに推移したと推定できる。ハプロルグープ O の下位群とはおもに弥生時代以降に流入したようであるが、以下、考古学的、歴史的側面からもこの考えを検証していく。
日本人のミトコンドリアDNAHg、日本人は北ルート系モンゴロイド
ミトコンドリアDNA
ミトコンドリアDNAは多様性が高く一つずつ紹介できないので、下図で示す。日本人のミトコンドリアDNAは周辺の諸民族と連続性を示す傾向が強い。図2-20、図2-21をみてわかることは、周辺諸族とのトコンドリアDNAの頻度差が少ないことである。 Y染色体Hgの頻度が日本、韓国、中国北部で全く異なるのに対し、ミトコンドリアDNAはほとんど差がない。これは男性の方が淘汰圧が高く、子孫を残せる個体に大きな偏りがあるからであろう。例えば、チンギスハーンのY染色体Hgは中央アジアの1600万人に受け継がれているというし、清朝を打ち立てた太祖ヌルハチの祖父の子孫は160万人に及び、中国東北部の少数民族に多いHgは太祖一族に由来するとされる(篠田2007)。大陸部では、一握りの優位な男性が膨大な子孫を残すという歴史が繰り返されてきたと推定される。
なおハプログループN7aやN9bは沖縄やアイヌなど日本列島両端部で比較的高く、「縄文系」要素と認められる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fjapanorigen%2Fe%2Fd2c75e98e6f83b904ef4572a42c24064
日本人は北ルート系モンゴロイド
以上、日本人のY染色体、ミトコンドリアDNAハプログループはともに出アフリカ後北ルートをとったモンゴロイド系が100%であることを確認しておきたい。少なくともハプログループの面からは南ルートをとったオーストラロイド系の北上は確認できない(崎谷2009a,崎谷2009b)。また明治以降の混血を除き、西ルート系コーカソイド要素も数字には表れていない。ただし有史以降の渡来人の中には西ルート系の血を引く集団がごく少数混在していた可能性は否定できないことは後述する。
Gm遺伝子、形質人類学
日本人の起源を探るのによく用いられる遺伝子にGm遺伝子の頻度分布がある。これは大阪医大の松本秀雄博士が開発した免疫グロブリンGに含まれるGm遺伝子のタイプによる方法であり、親子関係が99%の確率で当てることができるという。この手法でアジアの各民族を調べてみた結果が図2-23である。一目見ただけで南北で割合が大きく異なるのが見て取れるであろう。ここからモンゴロイドは大きく北方モンゴロイド(東アジア中北部、アメリカ)と南方モンゴロイド(東南アジア)に大分できるとされる。アイヌも日本人も琉球人もみな北方モンゴロイドということになる。(ただしGm遺伝子組成の南北差はマラリアへの耐性の有無とする見方もある。)松本氏によると日本人に最も近いものはシベリアのバイカル湖の周辺に住むブリアート人であるという結果が出ている。確かにこの民族の顔は日本人そっくりであり、その歌は節分節に似ている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fjapanorigen%2Fe%2F3d6f1b91e7fcadc21326030703e342a8
ユーラシア先史学者の加藤晋平教授も「旧石器のルーツを調べていくとブリアートにたどりつく」と言っている。このことは旧石器時代人が日本列島に移住してきた後に若干の混血があって現在に至ったことを意味しており、これも真実の一端を物語っているのであろう。また、人間と共に行動する犬についても同じことが言えるという。
形質人類学の立場からまた別の区分がなされている。モンゴロイドは大きく古モンゴロイドと新モンゴロイドに大別されるとされる。中国人やモンゴル人などアジア大陸中央部の人々が寒冷適応した平顔の新モンゴロイドであるのに対し、アイヌや東南アジア人、アメリカ先住民などは彫りが深く立体顔で、寒冷適応前の古い形質を残す古モンゴロイドであるという。日本人は両者の中間といったところであろうか。
遺伝子と整合させてみると、古モンゴロイドは北方及び南方にもみられ、新モンゴロイドは北方にのみ認められる形質である。つまり、南北に分かれた後に北方モンゴロイドの一部から新モンゴロイド的形質が生じて広がったことになる。年代的にはここ1万年くらいの出来事ではないだろうか。日本人の場合、縄文系が古モンゴロイド、弥生系が新モンゴロイドとされる。
縄文系、弥生系の人々の形質については、形質人類学の分野で長らく研究がなされてきた。まとめたのが表2-9である。耳垢の乾湿、指紋の模様、蒙古襞の有無など縄文系と弥生系で明らかな差異が存在することをおさえておきたい。図2-27に示したのはアルコール分解能(酒に強いか弱いか)を表すものである。弥生系が多い近畿や中国で下戸が多く、縄文系の東北や九州、沖縄で酒に強い人が多い。確かに九州の人は酒が好きだとよく聞く。図2-28は日本人の頭型分布であるが、近畿地方に短頭の人が多いことはっきりと示されている。これは近畿を中心に定着した弥生系渡来人の流れを示すものと思われる。
HaplogroupQ(Q-M242)…
HaplogroupD1b(D-M55)ハプログループDは日本列島、チベット、アンダマン諸島などで高頻度に観察されている。非出アフリカ系統のハプログループEと姉妹関係を成し、起源は55000年前程と非常に古い /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fjapanorigen%2Fe%2F6801001084137696869349fefb5fc864
ハプログループDは日本列島、チベット、アンダマン諸島などで高頻度に観察されている。非出アフリカ系統のハプログループEと姉妹関係を成し、起源は55000年前程と非常に古い。起源年代とその分布様相から、かつては東アジアを広く覆っていたが、駆逐され島国日本と高山チベットに取り残されたようである。ハプログループDはモンゴロイドを形成する集団の最古層に位置し、イラン→アルタイ山脈→東アジアという北ルートで東アジアに達したと考えられる(崎谷2009)。
日本列島に分布するのはHg:D1b(D-M55)で、他に朝鮮で0~2%程確認されるのみでほとんど日本列島固有である。D1bは日本人に25〜45%,琉球人に55%,アイヌに85%の頻度で確認されている。D1bの起源年代は33700±2200年前(She et al. 2003)で、日本列島に人類が居住し始めた年代とほぼ一致する。
非出アフリカ系統のハプログループEと姉妹関係…
E1b1b1a3
フェニキア人のY染色体DNAハプログループはE1b1b1a3、一般のユダヤ人はJ2aが多いがフェニキア人との交配でE系統も多い。日本にはJ系統もE系統も見当たらないが、日本に多いD系統(縄文人)はE系統と同系で、分派してDとEに分かれた。
ユダヤ人言語学者のヨセフ・アイデルバーグ(1916年-1985年)によると、日本語とヘブル語の類似した単語が3,000語を超えると紹介している。
ユダヤ人のラビ・マーヴィン・トケイヤー(ニューヨーク在住、1936年出生)は、京都の祇園祭を見たユダヤ人はイスラエルの祭りを連想すると云っている。トケイヤーは1967年に東京広尾の「日本ユダヤ教団」の初代ラビで、早稲田大学で古代ヘブライ文化を教えたこともある。
トケイヤーは「ユダヤ人は長い歴史の中で何回も敗北を味わってきたのに、自らの歴史に誇りを持って生きてきた。それに対して日本の民族はたった一回の敗戦によって、自国の歴史に誇りを亡くしてしまった。」と述べている。
これを聴いて私は戦後史学を早く修正しなければならないと痛感しています。戦前の皇国史観に戻ろうとしているのでは決してありませんよ。古代史を正しく理解することです。ナショナリズムになってもいけません。日本の周辺国では歴史をナショナリズムによって大きく歪曲して国是としています。これに関わってもいけません。
日本人のmtDNA(ミトコンドリアDNA)の約67%はアジア系と言われる「M」系列、約33%は西欧系と言われるmtDNA「N」系列です。ミトコンドリアDNAは母親から引き継ぎます。
人類の出アフリカにより、アジア系と言われるmtDNA「M」(母親由来)は、縄文系のY-DNA(父親由来)の「D」と「C」と共に、紅海、アラビア海からインド洋沿岸部を航海して日本列島にやってきた。
mtDNA「M」系列の中で最も古い「M」が日本列島で見つかっているので、出アフリカ後のmtDNA「L3」が中東でネアンデルタール人と交配して分化した「M」と「N」の最も古い亜型がそのまま日本列島に移動してきたことになる。2015年1月13日投稿の「ネアンデルタール人との混血」をご参照ください。
人類の出アフリカは10万年前から6万年前ぐらいですが、フェニキアがローマとの3回にわたるポエニ戦争に敗れ、紀元前146年に壊滅したので、戦争に敗れて列島に来た人がいるのなら紀元前2世紀頃になるでしょう。それともフェニキアが活躍していた紀元前4世紀頃に列島まで航海して来たのか・・・
2016年2月7日投稿の「貝紫色(フェニキアの紫)」をご参照ください。
紀元前4世紀から紀元前3世紀頃にフェニキア人とユダヤ人が航海により、日本列島まで来た可能性はあります。2015年4月27日投稿の「ユダヤ人のY遺伝子」をご参照ください。
日本人とチベット人に多いY染色体D系統は出アフリカ間もない時期のDNAをそのままチベットと日本に移動しています。他のDNAからの変化を受けていない希少な例です。D系統は日本、チベット、中東にしか存在しません。
D遺伝子を持つ縄文人の言葉(縄文語)の文法がS(subject、主語)・O(object、目的語)・V(verb、動詞)の順のSOV型になっています。
縄文人の後に列島に渡来した江南人(揚子江周辺の倭人)の文法はSVO型ですから、江南人は先住民の縄文人の言葉に同化し、交配し、弥生人になったと考えられます。
古い型の遺伝子を持つ縄文人の文法がSOV型であることは、人類の初期の文法がSOV型であったことを物語ります。その後の人類の分岐・拡散によりSVO型が派生したと考えられます。
同じ文章をSOV型とSVO型に置き換えて話してみてください。SOV型の方が優しく曖昧な感じがしませんか? SVO型はきつく聞こえませんか?
縄文人は優しいのです。国内で縄文系の比率の高い人々はアイヌと沖縄で、次に関東と東北が高いのです。
古代の日本の中心であった奈良と京都の人々のDNAはどんな形だったのでしょうか。両地区のDNAのサンプルが少なすぎて判断できません。天皇家のDNAも分かりません。
日本人とフェニキア人 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fenkieden.exblog.jp%2F23742661%2F
E1b1b系統
アフロ・アジア語族に関連するタイプであり、特にベルベル人に80-93%[7]と高頻度である。下位系統E1b1b1a1b1-V13がアルバニアで高頻度であり[8]、有史以前のある時期にエジプト付近からの直接渡来が存在したようである。ヨーロッパで見られるタイプはほとんどがこのE-V13系統またはE-M123系統である。また話者の多くがR1bとなっているチャド語派の元来の担い手はカメルーン北部にのみ低頻度に見られるE-V259と考えられる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
E系統のユダヤ人の多くは、初期の歴史の中で本来のJ系統ユダヤ人グループに合流したものと考えられる。 ソロモン以降、フェニキアとのかかわりの時代に 積極的な交流があったことを示す。
ユダヤ人周辺のDNA /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fyohane.natsu.gs%2F00%25200%25200%2520dna2.htm
G2c系統: これもセム系で、アシュケナジ系ユダヤ人に G2cのみが見出される。コーカサスのG2aは入っていない。
・ G2a ・・・ コーカサス(黒海、カスピ海の北)、 イラン、アフガニスタン、カシミール
ex) ヨシフ・スターリン G2a1a、 アイスマン(コルシカ島・特殊) G2a2a1b
・ G2c ・・・ アナトリア(トルコ中部)、 アシュケナジム・ユダヤ
・・・・・ したがって、アシュケナジムが ハザール王国(コーカサス)の改宗者の子孫(7−10c)という説は、DNAから見て間違いで、現在では俗説とされている。
3) E1b1b1a3(E-V22)系統: E系統は、創世記10章の ハムの子孫(クシュ、ミツライム、プテ、カナン)の代表であり、D系統と共に、Y染色体DNAに YAP変異を持ち、アフリカ、地中海沿岸に、ごく普通に非常に幅広く分布している。(A系統、B系統を半ば駆逐するような形で) 日ユ同祖論に近い議論でたびたび言及される YAP共通の点は、E系統と D系統が ごく初期の段階で分かれ、その後は互いに交流の形跡が無いことから、YAPのしるしはそれほど重要な意味を持たないと考えられる。(初期の 階段状ピラミッドまでは共通と思われる。 バベルの塔 → エジプトの階段状ピラミッド → エジプトの大ピラミッド → 小規模のピラミッド状の墓; → チベット・中国のピラミッド、 → 日本の海底ピラミッド)
・ E1a(E−M33)系: 西アフリカ (→ るいネット)
・ E1b1a(E−M2) ソマリア、エチオピア、ギニア、サハラ以南 ・ E1b1a7(E−M191) モザンビーク、ジンバブエ、南アフリカ
ex) ラムセス3世 E1b1a(E−V38) (・・ 2012 12)、 バラク・オバマ E1b1a(E−V38)
・ E1b1b(E−M215、M35 (旧)E3b)系: 東アフリカ、北アフリカ、南ヨーロッパ(ドイツとオーストリアに9%弱もいる)
ex) アドルフ・ヒトラー E1b1b1(E−M35) ・・・ E1b1b1a3 と異なり、フェニキア・ユダヤ系ではない
・ E1b1b1a(E−M78、 (旧)E3b1a)、 ・ E1b1b1a1(E−V12)、 ・ E1b1b1a2(E−V13) 古代ギリシャ人、 ・ E1b1b1a4 モロッコ人
・ E1b1b1a3(E−V22) フェニキア人、古代ユダヤ人(レヴァント(=シリア、パレスチナ(ペリシテ人の地)))、アラビア半島
・・・・・・ E系統のユダヤ人の多くは、初期の歴史の中で本来のJ系統ユダヤ人グループに合流したものと考えられる。 ソロモン以降、フェニキアとのかかわりの時代に 積極的な交流があったことを示す。(アハブの妻イゼベル)、 さらに古くは ヒッタイト(ヘテ人)、モアブ人などが混じっているはずである。
● ハム系 → ミツライム(エジプト) → カスルヒム → ペリシテ人(E系統) + J2系統(シリア人) ≒ フェニキア人(言語はセム語系の フェニキア語、 人種は混合) → BC9cにはアッシリアに服属、 カルタゴへ移る → ポエニ戦争以降 共和政ローマに併合
ハム系 → シドン人
ハム系 → カナン → ヘテ人(ヒッタイト) ・・・ エジプトに、”鉤鼻”のヒッタイト兵士の彫刻、ヘテ人とはアブラハムの頃に交流、
エサウの妻(ヘテ人2人と ヒビ人1人) → 5人の子 → エドム人 ・・・ このエドム人がフェニキアの航海技術を持ち、ユダヤ人と共に 南洋ルートで沖縄・山陰に来たと考えられる(→ (1) エドム人とユダ族の移動 ) 琉球人から見たフェニキア人は 背の高い人々だったとされる(下に 沖縄のフェニキア遺跡)
モアブは、アモンと共に、アブラハムの甥のロトと彼の娘たちとの近親相姦の子孫
・ E1b1b1b2(E−Z830) アルバート・アインシュタイン ・・・ 上記(E1b1b1a3)と異なるので、本当のユダヤ人ではない
・ E1b1b1b2a1*(E−M34) ナポレオン・ボナパルト ・・・ 家系が中部イタリア出身
・ E2(E−M75) サハラ以南
・ セファルディム(北アフリカ)や、特に エチオピアのユダヤ人(ベト・イスラエル(ダン族)、A3b2(M13) 41%、E3*(M40) 18%、E3b(P2) 32%、 J2(M172) 5%・・・ E系統50%、黒人系で90%以上、ユダヤ系は5%もいない)への E系統の混入率は高い。(ディアスポラ時代に混入)
4) R1a1系統: R1a1: 東欧系、 R1b: 西ヨーロッパ人の40〜80%
2005年の調査により、 アシュケナジー系男系 Yの 11.5%が R1a1系統であり、母親がユダヤ人で 一部の東欧系の父親の子供がユダヤ教になったことを裏付けている。 ( R1a: 東欧人で 54−60%、2001年) 母系(ミトコンドリア↓)の80%以上との違い
* また、アシュケナジムのミトコンドリアDNAの解析では、はるかに多く、母系の81%がヨーロッパ系(mt−DNAの H 20.5%、K 31.8%、N1b 9.2%、J6.3% など)、中近東(ペルシャ、アナトリア) 8.3%、アジア1.1%であり、80%以上が(コーカサスではなく)ヨーロッパ人種であることを裏付けている。(→ Nature Asia、 Figure10 (2013 10))
これは、エルサレム陥落後まもなく ヨーロッパ人の妻を多く娶ったためといわれる。歴史では、8-9世紀に北フランスにユダヤ人集団の記録があり、14末-15世紀にかけて西ヨーロッパを追放され(イギリス1290−、フランス1394−、ドイツ15c−)、東欧へ移動し、特に ポーランドの保護に入った。この時、特に 現地人の妻との間に子孫が多くできたことを表している。(同族結婚では奇形などが多くうまく育たなかったと思われる。)
** アシュケナジー系の 人口ボトルネックの存在:
25〜32世代前、すなわち 1200-1400年頃に アシュケナジムが わずか250−420人程度にまで減少した形跡が発見された。これは、ヨーロッパ人と比べて、劣性遺伝疾患が100倍に増幅されていることなどから推測されたものである。 この時期には、十字軍による組織的虐殺、あるいは ペストの罹患 および その迫害 という、きわめて厳しい環境下に置かれた歴史を経てきた事を表している。(申命記28章の のろい、「星の数ほど多くても、残された者はわずか。」(28:62) ただし、今は回復の時になってきている。)(「東欧系ユダヤ人は250〜420人が創始者」ゲノム解析で判明、2014、記事元・WIRED.jp.)
ハプログループ R1b…
ハプログループ R1b はヨーロッパ大西洋岸で高く、また、言語においてはトカラ語派の担い手と考えられています。ちなみに縄文人の Y 染色体ハプログループは D とされています。
縄文遺跡への旅 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fmiyamoto83885%2F28427073.html
ナショナルジオグラフィックによると、イギリスのストーンサークルにおいて巨大な石組みを造った人々は科学的調査の結果、体格は華奢であり、虫歯が少ないことから糖分の摂取は少なく比較的健康で生活していたことがわかったということです。彼らが小柄であったことは日本の縄文人の体格と共通していますが、興味深いものがあるのではないでしょうか。
これらの共通点を考えると、4千年以上前に巨大な石のストーンサークルを造った古代のブリテン島の住人の血脈と日本の縄文人との関連を知りたいと思いますが、ストーンサークルを含む巨石文化の担い手はDNA解析によると、Y染色体ハプログループR1bが想定できるということです。
ハプログループR1bはヨーロッパ大西洋岸で高く、また、言語においてはトカラ語派の担い手と考えられています。ちなみに縄文人のY染色体ハプログループはDとされています。
・Y染色体ハプログループR1b
(オリエント発祥・巨石文化の担い手)
R1b(M343)は西ヨーロッパと南ヨーロッパに多く分布している系統ですが、バスク人やケルト系民族に多い系統であるそうです。
ハプログループR1bは 18500年前以降に西アジアで発祥しました。
縄文人の遺伝子であるハプログループD系統は一説によると、中東で発生したハプログループであり、この集団は20000年前頃に日本列島に入ってきたと言われます。
遺伝子の系統樹を見ると、D系統はR1b 系統より古い時代に誕生したハプログループです。私の考えですが、共に中東に起源を持つことから、彼らの文化が共通していたと考えると、日本列島の巨石文化とヨーロッパの巨石文化に共通点があることが理解できるのではないでしょうか。
ハプログループR1bは新石器時代にアナトリアからヨーロッパに移住して広がり、彼らはヨーロッパに農耕をもたらした巨石文化の担い手であったと考えられています。
狩猟採集文化を営んだ縄文人と異なる点は、ハプログループR1bは農耕によって栄えた集団であり、食料を自給できることから移住先に広まり繁栄したものと思われます。
彼らは「非欧印系集団」であると考えられていますが、彼らの姿は現在私達がイメージするヨーロッパの人々の身体的特徴とは異なり、縄文人と同じで小柄であったと思われます。
・黒海の大洪水がきっかけとなりヨーロッパへ移住
彼らは、もともとはオリエントに居住する農耕民であったと考えられていますが、西アジアからヨーロッパへの移住の引き金となった一つの原因は、黒海の大洪水(ノアの洪水の原型)でした。
大洪水で黒海平野が水没したため、新たな耕作地を求めてヨーロッパへ旅立ったと推測されています。
彼らのmtDNA(女性の遺伝子)はHおよびXと考えられていますが、現在ヨーロッパ人の41%がHに属しており、またXはヨーロッパ、中東、アメリカ先住民に多く、これはY染色体ハプログループR1bの流れと関連していることから、彼女らもまた農耕の拡散と共にオリエントからヨーロッパ〜アフリカ北部へ進出したと考えられています。
ツタンカーメンのDNAはハプログループR-M269であるそうですが、このタイプはヨーロッパに分布しており、現在のエジプト人にはほとんど見られないそうです。このことから、巨石記念物と同様に、ピラミッドの建設者としてハプログループR1bが想定出来るのではないかとの意見があります。
また、西ヨーロッパや南ヨーロッパは地形的に見るとアメリカ大陸に近く、中南米にもハプログループR1を持つ先住民がおり、アステカ文明にエジプトと同様のピラミッドが存在すること、マチュピチュにおいて驚くほど高精度な石材加工技術が存在するなどのことからコロンブスがアメリカ大陸を発見する遥か前の時代にハプログループR1bの集団が農耕と巨石文化を持って北米~中米〜南米に移住した可能性もあるといわれています。
日本では南米大陸と縄文人との関係が折に触れて取り上げられますが、大まかに考えると、これは2万年以上前から中東地域に居住し、共通の文化を持っていた人々が移動先で創り上げた文化であると考えられるのではないでしょうか。
東北地方には日時計の仕組みを持つ縄文遺跡が複数存在しますが、次回NO3ではヨーロッパの青銅器時代初期に作られた古代の天文盤「ネブラ・ディスク」と農耕文化を通して、日本の縄文時代とヨーロッパの初期の青銅器時代を比較してみようと思います。
Re: 〉質問します、縄文人はクジラを獲ってたの、・・・
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009477M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=Y8t2od3QhIc
Re: これは管理人さんには少しショックかも...:劉邦ハプロはシナ系O-JST002611ではなく、O-F155。O-F155は国別割合で中国が100%で、したがって日本の渡来氏族のうちで漢皇室出を標榜するものは、全てが経歴詐称である。
劉氏
渊源
・刘累:帝?后裔祁姓刘氏。?的后裔刘累?孔甲??,后来有一条?病死,刘累携家眷逃亡?阳(今河南?山?),?是刘姓的起源(另一?法??刘累故地在【河南偃?】)。
・【刘知几考?刘氏不是?的后裔,而是??的苗裔[1][2]。
陸?
??,或作祿終,中国上古人物,??的玄?,称的曾?,老童的?子,吴回的儿子。根据《史??楚世家》??,吴回?承兄?重黎祝融的?位】。
根据安徽大学收藏安大?的??,老童生有四子分?是重、黎、吴和回,生昆吾、参胡、彭祖、会人、晏安、季?六人的是黎,并没有??其人,黄??????是祝融之?[1]。
・王季后人:周成王曾封曾祖父王季后人于刘邑(河南偃?),后失考。
刘康公:周定王八年(公元前592年)又封刘邑与王弟季子,王季子即刘康公,建立了刘国。
・項伯;劉邦感念項伯當年在鴻門宴時的解救之恩,賜予項伯劉姓。
・婁敬:建議與匈奴和親,並且徙六國後裔和豪族十餘萬人至關中,定鼎長安,獲賜姓劉,拜為郎中,號奉春君。
・匈奴?族:西漢初年,漢朝派遣宗室女與匈奴王室政治聯姻,匈奴?族之後多改劉姓。
偃?市
Archaeological sites
There are two important archaeological sites in this area.
Erlitou site
The Erlitou culture (1900?1500 BC) was discovered in Yanshi in 1959.[1] Erlitou is the name of the modern village nearby; the traditional name of the settlement was Zhenxun (斟鄩, Zhēnxún).
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??,或作祿終,中国上古人物,??的玄?,称的曾?,老童的?子,吴回的儿子。根据《史??楚世家》??,吴回?承兄?重黎祝融的?位。
根据安徽大学收藏安大?的??,老童生有四子分?是重、黎、吴和回,生昆吾、参胡、彭祖、会人、晏安、季?六人的是黎,并没有??其人,黄??????是祝融之?[1]。
祝融
中国上古神?人物,号赤帝,后人尊?火神,广?一?亦有尊?南海神。有人?祝融是古時三皇五帝的三皇之一。亦為夏神,是神農氏的輔佐神。据《山海?》??,祝融的居所是南方的尽?[1],是他?下火?,教人?使用火的方法。
有一?祝融為顓頊帝孫重黎[2],高辛氏火正之官;《史??楚世家》:“高阳生称,称生卷章,卷章生重黎。重黎?帝?高辛居火正,甚有功,能光融天下,帝?命曰祝融……(帝?)?重黎,而以其弟吴回?重黎后,?居火正,?祝融。”?里的祝融是一?官名。祝,大也;融,明也。
祝融氏是神?氏?代,或者早在伏羲氏?代一个以善于用火而?名的部落,?中?先民用火技?的?展作出了突出?献。到五帝?代,“祝融”被用作官?名称。
在日常用語中,「祝融」是火的代名詞,近代媒體?常把“祝融”作?火灾的代称;實際上祝融所司的是有利于原始初民生?活?的火,而古神?中火灾往往被???特定的怪?和怪?,如?方。
另一?法,伏羲死后共工作乱,黄帝派祝融平叛,?然打?了共工,但没有?死所有共工氏成?,黄帝?了祝融。后由他的弟弟吴回担任火正官,依旧称祝融氏。??後來?回的後代分成八姓,分別是曹姓、彭姓、禿姓、董姓、?姓、斟姓、己姓及羋姓,為祝融八姓。
Re: これは管理人さんには少しショックかも...:劉邦ハプロはシナ系O-JST002611ではなく、O-F155。O-F155は国別割合で中国が100%で、したがって日本の渡来氏族のうちで漢皇室出を標榜するものは、全てが経歴詐称である。
劉備玄徳
劉 備(りゅう び、延熹4年(161年) - 章武3年4月24日(223年6月10日))は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は玄徳。
黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の、魏・呉・蜀漢による三国鼎立の時代を生じさせた。
明代の小説『三国志演義』では中心人物として登場する。
風貌について
劉備は背丈が七尺五寸(約173センチ)、腕が膝に届くまであり、耳が非常に大きく自分の耳を見ることが出来たと言う[5]。
「蜀書」周羣伝には張裕に「潞涿君」(ひげの薄い人の意[6])とあげつらわれたとある[7]。
呼称について
名を備。字を玄徳(げんとく)[8]と言う。『三国志』(正史)では、劉備を諡号の昭烈帝ではなく、「先主」と呼んでいる[9]。生存中、後主劉禅と一緒に「主公」と尊称されている。『演義』では、この呼び方は主君に対する敬称として広く用いられた。
系譜について
劉備は前漢の景帝の第9子、中山靖王劉勝(? - 紀元前113年没)の庶子の劉貞の末裔という。劉勝は子と孫も含めて120人以上の子を残しており、劉備の祖とされる劉貞は、紀元前117年に涿郡涿県の列侯として陸城亭侯の爵位を賜った[10]。だが、紀元前112年の年始(正月)頃に、彼は列侯のみに課された漢朝への上納金(酎金)を納めなかったために、侯国を除かれ、史書の系譜もそこで止まっている。
また、「先主伝」注に引く『典略』では、劉備は臨邑侯[11]の庶流と記されている。
景帝−劉勝−劉貞 以後の系譜は不詳(『三国志』蜀書先主伝)
景帝−常山憲王劉舜−真定頃王劉平−真定烈王劉偃−真定孝王劉由−真定安王劉雍−真定共王劉普−臨邑侯劉譲(『典略』/下記の系譜も同様)
景帝−長沙定王劉発−舂陵節侯劉買−鬱林太守劉外−鉅鹿都尉劉回−南頓県令劉欽−斉武王劉縯−北海靖王劉興−臨邑侯劉復−臨邑侯劉??
一方、『三国志平話』および『三国志演義』では、中山靖王劉勝、その子の陸城亭侯・劉貞以後の系譜では劉貞の子の劉昂は沛侯、その子の劉禄は漳侯、その子の劉欒は沂水侯、劉英は欽陽侯に封ぜられ、劉貞以後の数代は列侯の爵禄を受けた。しかし、家運が衰退し、劉備の父母の代より沓売りや蓆売りに落ちぶれている。劉備の代に献帝に拝謁し漢の宗親と認められ、左将軍・宜城亭侯に封ぜられ、家運が上昇し、後漢の滅亡により、蜀漢を興してその皇帝として君臨していることになっている。これは一部を除いて創作である。
なお、漢代の復除(徭役の免除)を研究している山田勝芳は、延熹2年(159年)以降、属尽と称されていた宗室の資格を失った歴代皇帝の子孫は各種の免税特権を受けていたことを指摘し、劉備の幼少期の逸話(一族の集住や学資援助を受ける話)は彼が属尽の一員として一族集団の保護を受けていた(一族の団結は官吏や外部の人々に特権の存在を明示する手段になる)、すなわち彼が属尽であっても宗室の家に連なる者であったことを確認できる証明になるとしている[12]。
日本人が古代ユダヤ人である事が証明される日が近い
親系 O2a2b1a1a1a1 母系 M10a1a1b
父系はM117下流支系に属し、漢民族の主流の1つ、すなわちOαの大きなクラスターに属し、拡大と新石器時代、現代は漢民族に広く分布している。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.wegene.com%2Fquestion%2F858
O2a
ハプログループO-M122 (Y染色体)(ハプログループO-M122 (Yせんしょくたい)、系統名称ハプログループO2とは、分子人類学で用いられる、人類のY染色体ハプログループの分類のうち、ハプログループOのサブクレード(細分岐)の一つで、「M122」の子孫の系統である。2015年11月にISOGG系統樹が改訂[1]される前はハプログループO3と呼ばれていた。
ハプログループO2-M112はシナ・チベット語族と関連し、一部下位枝はミャオ・ヤオ語族、オーストロネシア語族とも関連する。漢民族(最大65.7%[2])やビルマ系民族(最大86.7%[3])、朝鮮人(最大50.9%[4])に高頻度であり、東南アジア人でも中頻度で見られる。日本人にも約20%に観察される[5]。モン・ミエン語族に関連するO-M7は大渓文化の遺骨から高頻度に観察されている[6]。
日本国内の分布は九州北部 - 本州中部に多い。崎谷満はO2-M112系統の一部は縄文時代に日本にミレット農耕をもたらしたが、その大部分は弥生時代以降の中国大陸及び朝鮮半島からの流入であろうとしている[7]。また日本にはオーストロネシア語族に関連する可能性のあるO2a2(xO2a2b-M7, O2a2c1-M134)が4.2%観察された例があるが[8]、系統樹上の位置が詳細に解明されている1人の日本人男性のY-DNAについては、オーストロネシアの人よりも中国の湖南省に住む1人の土家族の男性のものに近いことがわかっている。
O2a2b1 (M134) - シナ・チベット語族と関連
O2a2b1a1a1a1 (F155)
O2a2b2a1 (N7) 中国、ベトナム、韓国、日本
O2a2b2a1a (F4110) 土家族(湖南省)
O2a2b2a1a1 (F4068) 中国(浙江省、福建省)
O2a2b2a1a2 (SK1780) ダウール族(黒竜江省)
O2a2b2a1a3 (MF1510) 中国(浙江省)、トンガ(エウア島)
O2a2b2a1b (F4124) 中国(新疆)
O2a2b2a1b1 (IMS-JST008425p6) 日本、土家族(湖南省)、中国(河南省、福建省)
O2a2b2a1b2 (F14875) ベトナム(ホーチミン市)
O2a2b2a2 (F706)
O2a2b2a2a (F717) 中国(上海、福建省、湖南省、広東省)、韓国、キリバス(ライン諸島)、サモア(アトゥア)
O2a2b2a2b (AM01847/B451) オーストロネシア、恐らく中国北部(河北省、山東省)にも分布
O2a2b2a2b1 (A17418)
O2a2b2a2b2 (AM01756) フィリピン、ポリネシア(トンガ、サモア)、メキシコ(ハリスコ州)
O2a2b2a2b2a (B450) フィリピン、インドネシア(バジャウ人)、シンガポール(マレー人)
O2a2b2a2b2b (AM00472/B452) フィリピン(パラワン・バタク人)、シンガポール(マレー人)
O2a2b2a2b2c (A16427) フィリピン(セブ島等)、アメリカ(カリフォルニア州)
O2a2b2b (A16433) 中国(山西省、上海、湖南省)
O2a2b2b1 (Y125645)
O2a2b2b1a (PF5573)
O2a2b2b1a* 中国(広東省)
O2a2b2b1a1 (MF14338)
O2a2b2b1a1* ロシア(タタールスタン)
O2a2b2b1a1a (Y153434)
O2a2b2b1a1a* 中国(山東省)
O2a2b2b1a1a1 (MF76414) 中国(重慶市)、2083 +- 27 BP uncalの匈奴時代のモンゴル(ウムヌゴビ県ノムゴン郡)に於ける漢族等の異民族の人々を虐殺して埋めたと思われる集団埋葬地から出土した古人骨一体
O2a2b2b1a2 (Y101407) 韓国
O2a2b2b1b (Y149134) 中国(安徽省、河南省)
O2a2b2b2 (MF56976) 中国(安徽省)、ロシア
O2b (F742)中国(上海、江蘇省、浙江省、安徽省、江西省、湖南省、山東省)、韓国、日本、ベトナム、ラオス、タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン
ハプログループM (mtDNA)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ハプログループM (mtDNA)(ハプログループM (ミトコンドリアDNA)、英: Haplogroup M (mtDNA))とは、分子人類学で用いられる、人類のミトコンドリアDNAハプログループ(型集団)の分類のうち、「L3」より分岐したものである。「263, 489, 10400, 14783, 15043」の変異で定義づけられる。ハプログループNとともに、出アフリカを果たし、子孫がユーラシア、オセアニア、アメリカ大陸に広がっていった[1]。アフリカ外で見つかったものはすべてハプログループMに属しているため、ハプログループNへの分岐がアフリカ内で起きたかアフリカ外に起きたのかの議論がある。ハプログループMは西ユーラシアにはほとんど存在しないが、東アジア及び南アジアでは優勢であり、それに対し欧米ではハプログループRが主流グループになっている。
主な子系統[編集]
M1 最初に分岐したため、出アフリカをしなかった系統。アフロ・アジア語族と関連
ウラル系民族の歴史[編集] /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ウラル語族を話す民族は大きくサモエード系とフィン・ウゴル系に大別される。
言語学的知見からは、サモエド祖語とフィン・ウゴル祖語の分岐年代はおよそ紀元前4000年ごろと考えられている[3]。
分子人類学的知見からは、ウラル語族話者に関連する遺伝子としてY染色体ハプログループNがあげられる。ハプログループNは東アジア発祥と考えられ[4]、ほとんどのウラル系民族で高頻度に観察される。中国北東部の遼河文明時代の人骨からY染色体ハプログループNが60%以上の高頻度で検出されており[5]、フィン・ウゴル系民族と関連する櫛目文土器の最古のものが遼河地域の興隆窪文化(紀元前6200年-紀元前5400年)の遺跡で発見されている[6]ことを併せて考えれば、ウラル系民族と遼河文明の担い手集団の関連性が示唆される。
またmtDNAハプログループZは極北地域を中心にサーミ人、フィン人、シベリア、北東アジア、中央アジア、朝鮮、日本などで観察されており[7]、Y染色体ハプログループNと同じような流れが想定され[8]、ウラル語族の拡散との関連を示唆するものと考えられる。
朝鮮半島では紀元前4000年から紀元前1500年にかけて櫛目文土器が発見される。さらにウラル語族に広く見られる中舌母音[?]が古代朝鮮語に存在したと考えられることから、朝鮮民族の基層がウラル系民族である可能性がある。
また日本の日本海側や東北地方に観察される中舌母音の[?](いわゆるズーズー弁)についてもウラル語族の音声特徴に由来する可能性がある[9]。
ユカギール語との間でウラル・ユカギール語族を形成するという説が有力である。両者は人称代名詞等が明らかに同源であり、否定動詞が存在するなど類型的特徴も類似している。ユカギール人はかつては西はバイカル湖まで分布していたといわれており、遼河・モンゴル付近でウラル語族と分岐し東方へ向かったと考えられる。ハプログループN (Y染色体)がユカギール人でも31%観察される[10]ことから遺伝子の面からも両者の同源性が示唆される。
アルタイ諸語との間にウラル・アルタイ語族を形成するという説が古くからあるが、語族としての条件を満たさないため現在は棄却されている。話者の点からもアルタイ諸語はハプログループC2 (Y染色体)、ウラル語族はハプログループN (Y染色体)と異なっている。しかしウラル語族とアルタイ諸語の類型的類似は甚だしく、おそらく、アルタイ山脈付近に分布していた原アルタイ諸語が、遼河方面から拡散してきたウラル語族を上層言語として混合し、ウラル語族の類型的特徴を持つ現在のアルタイ諸語が形成されたものと思われる。
一方で、一部の形態素の著しい一致からインド・ヨーロッパ語族との同系説も存在する。しかし、インド・ヨーロッパ語族の原郷は黒海北岸であり、両者が同源であるとは考えられない。クルガン仮説では、古い時代にインド・ヨーロッパ祖族が北方森林地帯のウラル系民族との活発な交流があったことが想定されており、おそらくインド・ヨーロッパ語族の成立過程において、ウラル語族との接触により言語混合を起こしたものと推測される。フィン・ウゴル語派におけるインド・ヨーロッパ語族との形態素の類似が、サモエード語やユカギール語におけるそれに比べて高いのは、インド・ヨーロッパ祖語との接触がフィン・ウゴル語に限られていたことを示唆する。
また、マイケル・ホーテスキューによって1998年に最初に提案されたウラル・シベリア語族[11]も存在する。これはウラル語族、ユカギール語、チュクチ・カムチャツカ語族、エスキモー・アレウト語族が含まれるが、現段階では定説には至っていない。ただし、上記諸語族の話者にハプログループN (Y染色体)が高頻度で含まれていることから、ハプログループNに属す集団の流れを反映している可能性がある。
金平譲司は、ウラル語-日本語同系説を提唱しており[12]、ウラル語族の語彙が、日本語などの東アジア北部の言語に多く影響を及ぼしたとしている[13][14][15]。
ユダヤ人 アフリカの民族 ルーマニアの民族 イランの民族 ウラル系諸族 日本の民族 コンゴ民主共和国の民族 ザンビアの民族 ベラルーシの民族 ポルトガルの民族 中華人民共和国の民族 東南アジアの民族 バルト系諸族 ウクライナの ...
インドの民族の一覧 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.weblio.jp%2Fontology%2F
コーチン・ユダヤ人は、インドの南西海岸の港市コーチンに住む、古代ユダヤ人の子孫である。ケーララ州に住んでいる人々は伝統的にマラヤーラム語を話す。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.weblio.jp%2Fcontent%2F
ハプログループZ (mtDNA)(ハプログループZ (ミトコンドリアDNA)、英: Haplogroup Z (mtDNA))とは、分子人類学で用いられる、人類のミトコンドリアDNAハプログループ(型集団)の分類のうち、「CZ」を祖先に持ち152 6752 9090 15784 16185 16260[1]の変異を持つものである。中国北部で誕生したと考えられる。
ハプログループZはフィン人、サーミ人、ロシア人、ハザーラ人、日本人、朝鮮人、中国北部、カムチャツカの先住民[2]などで観察される。一部はY染色体ハプログループNと同じような拡散経路をたどったと考えられ[3]、ウラル語族との関連が想定される。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
サーミ人(サーミじん、北部サーミ語:Sápmi)は、スカンジナビア半島北部ラップランド及びロシア北部コラ半島に居住する先住民族。フィン・ウゴル系のうちフィン・サーミ諸語(英語版)に属するサーミ語を話すが、ほとんどがスウェーデン語、フィンランド語、ロシア語、ノルウェー語なども話すバイリンガルである。ちなみにラップランドとは辺境の地を呼んだ蔑称であり、彼ら自身は、サーミ、あるいはサーメと自称している。北方少数民族として、アイヌ民族などとの交流もある。錫を使った手工芸細工が有名である。
もともと狩猟・遊牧を行なう民族であるが今日、ほとんどのサーミは定住生活を営んでいる。チェルノブイリ原発事故以降、トナカイの汚染が進み、伝統的な放牧生活を送る事はいっそう難しくなってきている。キノコや地衣類などの菌類は放射性物質を吸収しやすいと言われ、トナカイの主食がハナゴケ(地衣類の一種)であることから、特に汚染が進んだと思われる。
ノルウェー語ではかつて「ラップ人」とも呼ばれていたが、現在では古語または蔑称と受け取られる。フィンランド語ではラッピ県にいるフィンランド人はlappilainenを自称し、サーミ人のことをlappalainenと呼びどちらもラップランドに住んでいるため外国人にはわかりにくい違いとなっている。人種はフィン人とともに北ヨーロッパ系の特徴である金髪碧眼のゲルマン系同様にコーカソイドに属するが、モンゴロイド系の父系遺伝子、ハプログループNも多分に見られる(紀元前の中国東北部にある遼河文明人からも発見される[7])。
サーミ人と思われる民族のことが初めて文献上に現れるのは、紀元1世紀に古代ローマの歴史家タキトゥスによって著された『ゲルマーニア』においてである。この文献では、サーミという名前ではなく、フェンニーという名前で呼ばれている。
「フェンニー」という名は今日の「フィン(ランド)」に通じるものがある。実際、フィンランド人の間に民族復興の機運が高まった当時、このフェンニーこそが我々の直接の祖先であると主張する動きも存在したが、しかしここで挙げられたフェンニーがフィンランド人の祖であるとは考えられない。今日までに行われた研究によると、ここに言うフェンニーはむしろ、西はヴィスワ川下流からウラル山系に向かう地域を点々と長く居住地とし、後にはフィンランド湾の沿岸に至る方面にも来ていた印欧系以外の若干の民族を広く指したものであるらしい[8]。また、サガの世界にも、交易を行う民として、サーミ人らしき民族について言及している個所もある。
いずれにせよ、それ以後スカンディナヴィア半島に移住してきた様々な民族、「国家」が再びこのサーミ人に注目し始めるのは、13世紀以後、北欧諸「国家」が誕生し、その国境を規定する必要が生じた時であった。
以下、サーミ人の歴史を大きく3つの時代に分けて説明する。
サーミ人は大分類ではコーカソイドに属すが、ウラル語族と関連するモンゴロイド系ハプログループN (Y染色体)が48%の中頻度でみられる[18]。次いで多いのが原スカンジナビア系Y染色体‐I1で、約31%みられる[19]。mtDNAはヨーロッパの古いタイプが多いが、東アジアを起源とするウラル系ハプログループZ (mtDNA)もわずかにみられる。
ユダヤ人の男性から採取されたY染色体の比率を表したグラフ(2014) ※分岐指標となるSNPを追記し、ハプログループの系統名をISOGG 2017(ver.12.31)に更新 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FY
J1, J2
J-M267, J-M172
30%
純ユダヤ系
E1b1b1, E1b1b1b2a1a
E-M35.1, E-M34/PF2022,
25%
地中海系
R1b1a1a2
R-M269
15%
欧州系
R1a1a1
R-M417
10%
アーリア系
G系統
G-M201
10%
Q1b1a1a
Q-M3
4%
T1a1a
T-L208/Page2
3%
I1, I2a2a
I-M253, I-M223
3%
北欧系
注1)ETZ YOSEPH"Jews Y-DNA"(2014)
人類のY染色体ハプログループ
ハプログループとは、遺伝子の中に単一の一塩基多型変異(共通祖先)をもつ、よく似たハプロタイプの集団です。我々は、ハプログループを調べることで、その由来を調べることができます。通常は、mtDNA(ミトコンドリアDNA)やY-DNA(Y染色体)を用います。
女性の mtDNA は総じて地域性が高く、人種との相関関係が高くなります。一方男性の Y-DNA は支配・被支配の関係で簡単に上書きされ易く、語族と相関関係が高くなります。従って mtDNA からは民族性と地域性が浮かび上がり、Y-DNA からは移動経路を辿ることができます。
Y染色体ハプログループ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.taizanweb.com%2Fscience%2Fhuman%2Fhaplogroup.php
人類の移動ルート /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.taizanweb.com%2Fscience%2Fhuman%2Fmovement.php
古代遺伝子の移動と拡散
【65,000年前 → 45,000年前】Y-DNA Adam と mtDNA Eve の子孫たちが、エチオピアから各地へ移動・拡散して行きます。A, B, E は、E の一部を除いて出アフリカをしませんでした。草原の狩猟民族 A は南アフリカの草原地帯へ移動し、森の狩猟民族 B は、先祖が住んでいた中央アフリカの森林地帯に戻ります。
海洋民族で冒険遺伝子の C系は、現生人類最初の出アフリカ集団で、55,000年前にはすでにオーストラリアに到達していたと思われます。
YAP と呼ばれる DE は、他の系列には見られない特殊な Y-染色体の変異を持っていました。DE から分岐した D は、よほど C系との相性が良かったようで、常に行動を共にして出アフリカを成し遂げます。漁猟採集民族 C と狩猟採集民族 D の組み合わせは、食糧確保や移動手段の選択肢を広げました。砂浜のハイウエイを突っ走り、中東・インド大陸・東南アジアを通って、東シナ海から中国大陸・日本列島に上陸、50,000年前にはチベット・バイカル湖周辺に到達します。この C系と D系が、いわゆる古モンゴロイドです。
DE から分岐して D と別れた E系は、A, B と交配しながらアフリカ最大のハプログループになります。
後に多くの新興遺伝子を生み出す F は、野生の雑穀が生い茂った、メソポタミア地方を中心に半定住します。
新興遺伝子の発生と拡散
【45,000年前 → 25,000年前】バイカル湖・湖畔に到達した Y-C1aと Y-D1は、細石器や土器を発明してバイカル湖やアルタイ山脈の麓を中心に、シベリア・中央アジア・日本列島に拡散し、旧石器時代最高峰の文化圏を確立します。日本列島では40,000年前〜30,000年前に、石器の最終形である磨製石器が世界に先駆けて沢山作られました。
古代遺伝子の移動は一段落し、メソポタミア地方からインダス川流域に半定住していた F から、多くの新興遺伝子が発生します。
中央アジアで F から K が分岐します。K は、L, M, N, O, P, Q, R(いずれも近い将来 K に統合されるようです)の侵入拡散型新興遺伝子を数多く輩出します。
F から分岐したシンハラ系 H と、K から分岐したドラヴィダ系 L は、共にインド大陸に移動して拡散します。
メソポタミアで F からセム族 J が分岐。南東アジアで K から O が分岐。
移動生活から定住生活へ
【25,000年前 → 5,000年前】最終氷期が終焉に向かい、マンモス、ナウマンゾウ、オオツノジカなどの大型動物は絶滅してしまいます。温暖化に伴い、人類は移動・拡散のスピードを増します。狩猟民族の人口は減少し、変わって農耕民族の人口が急増します。
ヨーロッパでは、F から分岐したノルマン民族 I が、初めて氷河を超えてスウェーデン・バルカン半島に入植します。
アルタイ地方では、D1 と C2b系の移動が始まります。磨製石器・細石器と土器制作技術を伴ったアルタイ文化の拡散です。南に向かった集団は、満州・遼東半島から黄河中・下流域に移動します。西に向かった集団(テュルク系)は、中央アジア・古トルコの地へ移動します。北に向かった集団は、ベーリング海を横断して、人類で初めて北米に入植します。
大型動物を追って日本列島へやって来た D1, C1a, C2 は、海面上昇により孤立します。人々は、狩猟採集・漁猟採集・栗栽培に転じ、それぞれ列島固有の遺伝子 D1b, C1a1, C2a に変異して縄文文化を花咲かせます。
長江中流域では、12,000年前に L系(ドラヴィダ族)と D1a系(苗族)が焼き畑から水田稲作の長江文明(玉蟾岩遺跡)を興し、10,000年前には長江下流でも、 D1a系と O1系(台湾先住民、タイ・カダイ語族)が水田稲作(上山遺跡)を開始します。黄河中流域では、7,000年前に D1系がヒエ・アワを主体にした黄河文明(仰韶遺跡)を興します。本格的な農耕による定住化の始まりです。
農耕は、ほぼ同じ時期に世界各地のドラヴィダ系民族によって始まります。メソポタミアでは 9,000年前にシュメール(ドラヴィダ系)文明が興ります。インド大陸でも、ドラヴィダ族 L がインダス川流域で農耕に着手し、インダス文明の基礎を築きます。
8,000年前に南下した N系が、中国北部に侵入します。先住民の D1系(興隆窪遺跡)は、黄河流域へ移動します。磨製石器・轆轤(ろくろ)製土器・翡翠の玉・龍・骨の笛・甲骨文字・醸造酒・犬。周囲と全く異なったこの特異な文化は、黄河中流・准河(わいが)流域の買湖遺跡(9,000年前)にも、夏族に占拠されるまで残ります。
有史時代は侵略の歴史
【5,000年前 → 現代】メソポタミア文明の影響を受けて、エジプト文明が興ります。メソポタミア文明はシュメール人(ドラヴィダ系)、エジプト文明は E1系が起源と思われます。農耕民族の周囲には遊牧民族が点在して交易の役を担います。
農耕の始まりは、侵略の始まりでもありました。遊牧民は、豊かな土地に侵略して土地と文化を奪い、住民を支配下に置きます。そこにはまた、新たな異民族が侵入して来て忌まわしい歴史を繰り返します。
中国・黄河中流域で、羌族の夏が苗族の邑々を平定して夏王朝を建てます。どちらもチベット系先住民族ですが、遊牧民族と農耕民族の対立になりました。この夏王朝が中国最初の国家となり、以後、N系(ツングース系)の殷、D1a系の周、J系の秦、O3系の漢、・・・と遊牧民族の侵略国家が入れ替わり誕生することになります。
Re: 日本人が古代ユダヤ人である事が証明される日が近い←←精神病発作
荊の紀氏さんへのお返事です。
ユダヤは終ってるの・・イスラエルの紋章は奈良の籠目紋なんですな意外でしょ。←←ノイローゼの悪化
秦野北斗さんへのお返事です。
ああ!古匈奴人(LBAK, 北西モンゴル)に最も近いのはトゥヴァ人とアルタイ人。次いでケット人。G3aはLBAKにも匈奴にも現代南シベリア人にもあり!自分のG3aとトゥヴァ・西シベリアゲノム(1割)と古匈奴人が南シベリアでクロスした瞬間です!←←中二病w
.
(無題)
Y-DNAでは、中国の英雄だった漢の高祖劉邦などとごくごく遠いにしても繋がっているのだろうから、
いろいろ読んでみよう。
なんかない?漫画でw
Re: これは管理人さんには少しショックかも...:劉邦ハプロはシナ系O-JST002611ではなく、O-F155。O-F155は国別割合で中国が100%で、したがって日本の渡来氏族のうちで漢皇室出を標榜するものは、全てが経歴詐称である。
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
> 管理人さんへのお返事です。
>
>>
> 劉邦ハプロは、ウィキ中国語版の「名人DNA」や他の中国サイトのように、羌族系の、
> それも「日本・北京」のサブグループO-F438の下にあるO-F155である。
>
> 劉姓分布から分かるように、劉姓の分布の中心は、陳州=河南省東部ではなく、もっと北方だ。
> 少なくとも、劉氏の中心地は山東北部・河北、そして内陸の湖北・湖南にある。
>
> 一方、シナ系O-JST002611の分布図は一様に拡がっていて特徴がない。強いて言えば、山東省東部と陳州に多い。失格。
>
> 劉邦ハプロは、北方系と湖北・湖南・重慶に共通するO-F155が正統で、O-M155のうち4人に1人が劉姓である(表1)。同表によれば、O-F155は紀元前300年頃起源となっている。
>
>
> 2. 漢皇室のyDNAはO-F155で良い。
>
> O-F155は羌族O-M133のサブグループO-F438に属し、系統樹は次のようになる。
> O2a2b1a1 (M117/Page23)←日本=チベット・ビルマ語族
> ・O2a2b1a1a (M133)
> ・・O2a2b1a1a1 (F438)←日本・北京
> ・・・O2a2b1a1a1a (Y17728)
> ・・・・※O2a2b1a1a1a1 (F155)←劉邦ハプロ
> ・・・・・O2a2b1a1a1a1a (F813/M6539)←湘南・江西劉氏の95%
> ・・・・・・O2a2b1a1a1a1a1 (Y20928)
> ・・・・※O-F1754(O-F155の兄弟ハプロ)←日本
>
>
> 3. 整理
> 日本人における古西戎人O-M133
> ・O-F438=太公望(姜姓羌人)、北羌、犬戎、土家族・劉邦ハプロ
> ・O-CTS4658=羌族、現代チベット・ビルマ
> ・O-CTS9678=周族、秦人、客家
>
>
> この結果により、日本の渡来氏族で漢皇室出自を標榜する者の真偽も判明する。つまり、O-F155が出なければ、経歴詐称に過ぎない。そして、今のところ、O-F155の国別割合で中国が100%である。したがって、すべて偽者ということになる。秦氏が始皇帝の末裔というのも同様に詐称に過ぎないだろう。
> まあ、昔のことであるし経歴詐称は大目に見て、彼らが遺した仕事に目を向けようかw
>
>
>
さっそく情報ありがとうございます!
東漢氏については、血縁集団というよりは、職人の集合体というか、上表文にあるように、小さな国や村落の住民ごと移動してきてるので、後漢王族のハプロよりは、東晋の中でも山東半島の住民とかその辺の平均的なパプロが出てくれば、彼らの出自は東晋→百済で正解ということになりますね。
シナ系O-JST002611の分布が、山東半島に多く、それが奈良にも多いという点で、東漢氏の影響を裏付けうるかもしれません。
もちろん、その中に劉邦の子孫もいてそのハプロをもっていたのもいたかもしれませんが・・・。
あと、6世紀初頭の渡来人に司馬氏の末裔がいます。彼の子孫がいれば、晋の王族パプロの可能性がありますね!!
司馬 達等
出自
『日本書紀』雄略天皇条に記載される鞍部堅貴の一族[1]。一説には南梁の人とも言われる[2]。
経歴
日本に仏教が公に伝わる(仏教公伝)以前から仏教を信仰していたとされる。『扶桑略記』によると、522年(継体天皇16年)2月に日本に渡来し、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝したという。
584年(敏達天皇13年)播磨国で高麗からの渡来僧で還俗していた恵便に、娘の嶋(善信尼)とその弟子2人を出家させたという。崇仏派の蘇我馬子が邸宅内に仏殿を建立し、請来した弥勒仏を安置した際には、仏舎利を献上し、また法会を開催したとされる。585年に排仏派の物部守屋は達等を面罵し、善信尼ら3人の法衣を剥奪して監禁したとされる。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%258F%25B8%25E9%25A6%25AC%25E9%2581%2594%25E7%25AD%2589
鞍作 止利もその子孫ですが、姓は村主なので、漢氏の中に取り込まれていったようですね。
鞍作 止利(くらつくり の とり、生没年不詳)は、飛鳥時代の渡来系の仏師、技術者。名は鳥とも記される。姓は村主[1]。司馬達等の孫で、鞍部多須奈の子。
人物
飛鳥時代を代表する仏師である。推古天皇13年(605年)推古天皇は摂政の聖徳太子を始め諸王・諸臣に対して、ともに誓願を立てること、一丈六尺の金銅仏と繍仏を各1体ずつ制作を始めることを命じたが、その際に止利は造仏の工(担当者)に任ぜられた[2]。翌推古天皇14年(606年)仏像は完成したものの、金銅仏の高さが元興寺(飛鳥寺)の金堂の戸より高く、戸を破壊しないと堂内に入れられない問題が発生したが、止利の工夫により無事に金堂に安置した[3]。この功績により止利は大仁の冠位に叙せられるとともに、近江国坂田に水田20町を与えられたという[4]。
仏教の信仰に篤い一族であり、父の多須奈は用明天皇のために坂田寺の建立を発願し、のちに出家して、日本で最初の僧侶である徳斉法師となったと伝えられる[5]。蘇我氏と深いつながりがあったと見られ、大化の改新により蘇我氏が失脚するとともに止利様式の作品も見られなくなった[5]。
作品
法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像(623年)が代表作。安居院(飛鳥寺)本尊の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)も止利作とされているが、後世の補修が甚だしく、当初の部分は頭部の上半分、左耳、左手の指の一部のみとされていた。しかし、2012年7月に早稲田大学の大橋一章らの研究チームが詳しく調査を行った結果、現存像の大部分は造立当初のものである可能性が高いとの結論を得ている。
その他、法隆寺等には「止利様式」と呼ばれる同系統の仏像が現存する。中国北魏の仏像の様式の影響を受けた、古式の衣文や服制、杏仁形の眼、古式の微笑(アルカイックスマイル)などに止利および止利式の仏像の特色がある。 また、止利式の金銅仏の特徴として、銅の厚みが薄く均一に仕上がっており、鋳造の際に中型の固定に使う鉄心を取り去っているなど、他の金銅仏に比べて卓越した技法が見られる[5]。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E9%259E%258D%25E4%25BD%259C%25E6%25AD%25A2%25E5%2588%25A9
この日本にきた司馬氏は北燕遺民の可能性があります。北魏がその技術者なり遺品を一部吸収し、残りは高句麗、新羅方面へと遺民として流れて、6世紀初頭に日本へ渡来してきます。
ただ、彼が南梁の人だったとの見方に従うと、つまり南朝の東晋の後の502年以降の渡来ですね。晋の王族が東晋に流れて、さらに、そこに残っていた王族のうちの一部が、山東半島経由かなにかで日本へ渡来して漢氏に取り込まれた、そんな感じでしょうか。
司馬氏の末裔で仏師となった家系があって、それが日本へ渡来してきたのでしょうね。もとは敦煌の仏師とも関係あったはずですが、なぜか司馬氏なんですよね。しかも名前に達をつけるのは、晋王族の特徴です。司馬 懿 仲達が有名ですが、下記のように息子は達がつきます。
兄に司馬朗(伯達)が、弟に司馬孚(叔達)、司馬馗(中国語版)(季達)、司馬恂(中国語版)(顕達)、司馬進(恵達)、司馬通(雅達)、司馬敏(幼達)らがいる。司馬家の8人の男子は字に全て「達」が付き、聡明な者ぞろいであることから「司馬八達」と呼ばれた(ただ単に八人の達たちということでなく、「八人の達人」という意味合いにかけている)。妻に張春華、息子に司馬師、司馬昭らが居る。兄の司馬朗と同様に曹操に出仕した。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%258F%25B8%25E9%25A6%25AC%25E6%2587%25BF
もともと司馬氏は名門で知られてましたね。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%258F%25B8%25E9%25A6%25AC%25E6%25B0%258F
アルカイックスマイルの仏像の技能は、やはりアフガンやシルクロートの石窟寺院あたりで仕入れた技法はないでしょうか。
その技能者が、どうして司馬姓をもっているのかは謎ですが、蘇我氏と関わりがあるのはよくわかるような気がします。蘇我氏は秦氏の親分で秦氏はやはりシルクロード交易とかかわっていますからね。広隆寺の弥勒(観音)菩薩像などもアルカイックスマイルで有名です。
6世紀前半は、蘇我の下の秦と、東漢氏の下の新漢人等が競い合っていたでしょうから、その辺の兼ね合いで、技能や職人がまじりあって、飛鳥の仏像が仕上がっていったんでしょうけど、その起源はシルクロード方面に求めるべきなんでしょう。
Re: これは管理人さんには少しショックかも...:劉邦ハプロはシナ系O-JST002611ではなく、O-F155。O-F155は国別割合で中国が100%で、したがって日本の渡来氏族のうちで漢皇室出を標榜するものは、全てが経歴詐称である。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009487M.jpg
https://kknews.cc/history/bjqka49.html,
人類のY染色体ハプログループ
ハプログループとは、遺伝子の中に単一の一塩基多型変異(共通祖先)をもつ、よく似たハプロタイプの集団です。我々は、ハプログループを調べることで、その由来を調べることができます。通常は、mtDNA(ミトコンドリアDNA)やY-DNA(Y染色体)を用います。
女性の mtDNA は総じて地域性が高く、人種との相関関係が高くなります。一方男性の Y-DNA は支配・被支配の関係で簡単に上書きされ易く、語族と相関関係が高くなります。従って mtDNA からは民族性と地域性が浮かび上がり、Y-DNA からは移動経路を辿ることができます。
Y染色体ハプログループ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.taizanweb.com%2Fscience%2Fhuman%2Fhaplogroup.php
人類の移動ルート /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.taizanweb.com%2Fscience%2Fhuman%2Fmovement.php
古代遺伝子の移動と拡散
【65,000年前 → 45,000年前】Y-DNA Adam と mtDNA Eve の子孫たちが、エチオピアから各地へ移動・拡散して行きます。A, B, E は、E の一部を除いて出アフリカをしませんでした。草原の狩猟民族 A は南アフリカの草原地帯へ移動し、森の狩猟民族 B は、先祖が住んでいた中央アフリカの森林地帯に戻ります。
海洋民族で冒険遺伝子の C系は、現生人類最初の出アフリカ集団で、55,000年前にはすでにオーストラリアに到達していたと思われます。
YAP と呼ばれる DE は、他の系列には見られない特殊な Y-染色体の変異を持っていました。DE から分岐した D は、よほど C系との相性が良かったようで、常に行動を共にして出アフリカを成し遂げます。漁猟採集民族 C と狩猟採集民族 D の組み合わせは、食糧確保や移動手段の選択肢を広げました。砂浜のハイウエイを突っ走り、中東・インド大陸・東南アジアを通って、東シナ海から中国大陸・日本列島に上陸、50,000年前にはチベット・バイカル湖周辺に到達します。この C系と D系が、いわゆる古モンゴロイドです。
DE から分岐して D と別れた E系は、A, B と交配しながらアフリカ最大のハプログループになります。
後に多くの新興遺伝子を生み出す F は、野生の雑穀が生い茂った、メソポタミア地方を中心に半定住します。
新興遺伝子の発生と拡散
【45,000年前 → 25,000年前】バイカル湖・湖畔に到達した Y-C1aと Y-D1は、細石器や土器を発明してバイカル湖やアルタイ山脈の麓を中心に、シベリア・中央アジア・日本列島に拡散し、旧石器時代最高峰の文化圏を確立します。日本列島では40,000年前〜30,000年前に、石器の最終形である磨製石器が世界に先駆けて沢山作られました。
古代遺伝子の移動は一段落し、メソポタミア地方からインダス川流域に半定住していた F から、多くの新興遺伝子が発生します。
中央アジアで F から K が分岐します。K は、L, M, N, O, P, Q, R(いずれも近い将来 K に統合されるようです)の侵入拡散型新興遺伝子を数多く輩出します。
F から分岐したシンハラ系 H と、K から分岐したドラヴィダ系 L は、共にインド大陸に移動して拡散します。
メソポタミアで F からセム族 J が分岐。南東アジアで K から O が分岐。
移動生活から定住生活へ
【25,000年前 → 5,000年前】最終氷期が終焉に向かい、マンモス、ナウマンゾウ、オオツノジカなどの大型動物は絶滅してしまいます。温暖化に伴い、人類は移動・拡散のスピードを増します。狩猟民族の人口は減少し、変わって農耕民族の人口が急増します。
ヨーロッパでは、F から分岐したノルマン民族 I が、初めて氷河を超えてスウェーデン・バルカン半島に入植します。
アルタイ地方では、D1 と C2b系の移動が始まります。磨製石器・細石器と土器制作技術を伴ったアルタイ文化の拡散です。南に向かった集団は、満州・遼東半島から黄河中・下流域に移動します。西に向かった集団(テュルク系)は、中央アジア・古トルコの地へ移動します。北に向かった集団は、ベーリング海を横断して、人類で初めて北米に入植します。
大型動物を追って日本列島へやって来た D1, C1a, C2 は、海面上昇により孤立します。人々は、狩猟採集・漁猟採集・栗栽培に転じ、それぞれ列島固有の遺伝子 D1b, C1a1, C2a に変異して縄文文化を花咲かせます。
長江中流域では、12,000年前に L系(ドラヴィダ族)と D1a系(苗族)が焼き畑から水田稲作の長江文明(玉蟾岩遺跡)を興し、10,000年前には長江下流でも、 D1a系と O1系(台湾先住民、タイ・カダイ語族)が水田稲作(上山遺跡)を開始します。黄河中流域では、7,000年前に D1系がヒエ・アワを主体にした黄河文明(仰韶遺跡)を興します。本格的な農耕による定住化の始まりです。
農耕は、ほぼ同じ時期に世界各地のドラヴィダ系民族によって始まります。メソポタミアでは 9,000年前にシュメール(ドラヴィダ系)文明が興ります。インド大陸でも、ドラヴィダ族 L がインダス川流域で農耕に着手し、インダス文明の基礎を築きます。
8,000年前に南下した N系が、中国北部に侵入します。先住民の D1系(興隆窪遺跡)は、黄河流域へ移動します。磨製石器・轆轤(ろくろ)製土器・翡翠の玉・龍・骨の笛・甲骨文字・醸造酒・犬。周囲と全く異なったこの特異な文化は、黄河中流・准河(わいが)流域の買湖遺跡(9,000年前)にも、夏族に占拠されるまで残ります。
有史時代は侵略の歴史
【5,000年前 → 現代】メソポタミア文明の影響を受けて、エジプト文明が興ります。メソポタミア文明はシュメール人(ドラヴィダ系)、エジプト文明は E1系が起源と思われます。農耕民族の周囲には遊牧民族が点在して交易の役を担います。
農耕の始まりは、侵略の始まりでもありました。遊牧民は、豊かな土地に侵略して土地と文化を奪い、住民を支配下に置きます。そこにはまた、新たな異民族が侵入して来て忌まわしい歴史を繰り返します。
中国・黄河中流域で、羌族の夏が苗族の邑々を平定して夏王朝を建てます。どちらもチベット系先住民族ですが、遊牧民族と農耕民族の対立になりました。この夏王朝が中国最初の国家となり、以後、N系(ツングース系)の殷、D1a系の周、J系の秦、O3系の漢、・・・と遊牧民族の侵略国家が入れ替わり誕生することになります。
マスコミは「Y染色体はやがて消失する」、「Y染色体は何の役にも立たないゴミ屑のような情報しかない」というかようなセンセーショナルな記事はこぞって報道するが、のちにその説が誤りであり「Y染色体は無くならない」、「Y染色体上には人類拡散の歴史が集約された有益な情報が残されている」という報道は正しく成されただろうか。
皇室のY染色体はD1b1a2(D-IMS-JST055457)である。- 公正中立な報道がされているか。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblog.livedoor.jp%2Facademicrecords%2Farchives%2F3110635.html
Y染色体D系統は、日本人以外では、チベット人やアンダマン諸島のジャラワ族とオンゲ族、フィリピンのマクタン島、グアム島から検出されるだけである。これに近いE系統は、中近東や地中海沿岸、アフリカの一部の人々だけで、このD系統とE系統のみがYapという特殊な遺伝子構造を持っており、その他の全世界の人々はこれらの遺伝子構造を有していない。
地理的に最も近い、お隣の朝鮮半島では、このタイプを持つ人々はほぼゼロ%というか結果である。
このD系統の日本国内の分布は、アイヌ88%、沖縄56%、日本本土42〜56%である。
世界でも稀な古代血統とされるY遺伝子D系統が、日本人を特徴づける要素ではないかと考えられている要因でもある。
しかし、マスコミでは大々的には報道されず、wikiなどでは、まるで誰かに検閲されているかのように、この関連の記事は削除されている。(削除を行っているのは「ABCEdit」なる人物)
日本人が古代血統であると困る人々がいるのだろうか?
本当に不気味な現象である。
しかし、一部の人々にとって「不都合」なことであっても、科学は「真実を射抜き」それらを隠し通すことは出来ない。
弥生系のO1b2a1a1(O-CTS10145) 25%、O1b(O-M268) 10%、渡来系のO2(O-M122) 20%
邪馬台国研究概要『縄文系の神武天皇』「近年、分子生物学は飛躍的に発展し、考古学はもとより歴史学においても必要不可欠の分野となってきた。特に父系祖先をたどるY染色体の研究は、日本人のルーツを解明するための大きな手掛かりとなり得る。日本人のY染色体ごとの割合は図(別表1)の通りであり、D1b(D-M64.1) 36%、C1a1(C-M8) 5%に代表される縄文系や、弥生系のO1b2a1a1(O-CTS10145) 25%、O1b(O-M268) 10%、渡来系のO2(O-M122) 20%に大別される。中でも縄文系D1bの主流系統であるハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)は、今から約700-800年前頃より、他のグループと比べ、圧倒的に多く子孫を増やしていることが明らかとなった。世界中いつの時代も「権力者が子孫を多く残すのに圧倒的優位性を保つ」という分子生物学の常識に照らし合わせて考えると、この現象の要因は、日本史上における「武家政治の台頭」が挙げられる。特に皇別氏族の平氏、源氏、足利氏、徳川氏の台頭は著しいものであった。またそれ以前に繁栄したと見られる弥生系のO1b2a1a1(O-CTS10145)のグループは、神別氏族・藤原氏による摂関政治の時代と重なる。皇別氏族、特に源氏が、天皇家より臣籍降下した皇胤氏族であることは諸書の記録から明らかであるため、翻って考えれば、天皇家のY染色体は、縄文系のグループであるD1b1a2(D-IMS-JST022457)の系統に位置することが伺える。天皇家の発祥地は、記紀の記録に従えば、南九州の現在の宮崎県の辺りであると伝承されてきたが、縄文系遺伝子を受け継いだD1b系統であると裏付けられた意義は大きいのではないか。やはり記紀の記述は正しかったのである。ちなみにアイヌ民族は上記の表でいえば、旭川あたりの調査で多く確認されるD1b系統であり、天皇家と同祖から分岐した同士であることがわかる」
ハプログループDとハプログループEは、Y染色体の長腕部にYAPと呼ばれる約300塩基からなる特徴的なAlu挿入の痕跡を持っていることで知られ、両系統が共通の父系祖先をもつことが明らかとなった(注9)(注10)(注11)(注12)(注13)。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwiki3.jp%2Ffamousdna%2Fpage%2F23
ハプログループDE (DE-M203)
古代イスラエルの12支族の一部族である ガド族 (Tribe of Gad)のY染色体は、ハプログループDとE系統の中間に属する ハプログループDE (DE-M203)であると推定されている(注1)。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FY
エフライム族
古代イスラエルの12支族の中の一部族であり、ヨセフ族から分かれた2部族(マナセ族、エフライム族)の内の1つであるエフライム族(Tribe of Ephraim)のY染色体は、ハプログループDとE系統の中間に属するハプログループDE(DE-M203)であると推定されている(注1)。これは、久保有政(Arimasa Kubo)らの説に基づく推定であり確定的ではない(注2)(注3)(注4)。
ガド族
古代イスラエルの12支族の一部族であるガド族(Tribe of Gad)のY染色体は、ハプログループDとE系統の中間に属するハプログループDE(DE-M203)であると推定されている(注1)。これは、小谷部全一郎(Zenichiro Oyabe, 1868-1941)の説に基づく飛鳥昭雄(akio Asuka)らの推定であり確定的ではない(注2)(注3)。
柳江人
1958年、中国広西チワン族自治区柳州市の石灰岩洞窟で出土した柳江人(3万5千〜4万年前)の古人骨を復元した結果、日本固有の縄文人の人骨に近い形状であったことから、Y染色体ハプログループD1b(D-M64.1)系統の縄文人の祖系に近いハプログループD1(D-CTS11577)系統のグループであったと推定されている(注1)(注2)。現在の中国広西省では、ハプログループD1a(D-Z27276)系統の人々がみられる(注3)(注4)。
現代の日本列島においては、D1b系統が多数を占める一方で、D1a系統も大阪や宮城から検出されていることなどから日本列島に到達した当初は、D1系統やD1a系統であったと考えられている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FY
司馬氏(しばし)は、中国の氏のひとつ。著名な者に晋(西晋・東晋)の国姓となった河内郡温県孝敬里のものがある。 司馬は元々軍事をつかさどる官職のことである。この司馬の職にあった者の子孫が司馬の氏を使うことが多い。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
秦の将軍司馬錯の家系からは、白起に属して長平の戦いで活躍した司馬靳、その子孫である学者の司馬談、そして談の子で『史記』の著者である司馬遷が出ている[1]。 司馬遷は宮刑に処されたが、その前に娘を一人もうけており、娘は丞相の楊敞に嫁いで、後漢の名門貴族である弘農楊氏の遠祖となった。
・・・・※O-F1754(O-F155の兄弟ハプロ)←日本(国別割合で日本人=80%)
Y染色体ハプログループO2a2b1a1a系統(秦系)
秦始皇帝 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FY
秦始皇帝のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1a(O-M133)であると推定される(注1)(注2)(注3)。
秦河勝ハプログループO2a2b1a1a(O-M133)
聖徳太子の側近として活躍した秦河勝のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1a(O-M133)であると推定される(注1)(注2)(注3)。
秦河勝の子孫としては、楽家の東儀家、猿楽の始祖観阿弥・世阿弥親子、四国の戦国大名の長宗我部元親・長宗我部盛親親子などが知られる。
Y染色体ハプログループO2a2b1a2a1a2系統(カザフ系)
箕子(清州韓氏)
朝鮮清州韓氏のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2a1a2(O-F563)である(注1)。これは、清州韓氏の男性複数名から得られたサンプルに基づくものである(注5)。清州韓氏の族譜『清州韓氏世譜』によると、韓氏は「箕子朝鮮の最後の王・準王の後代に友誠、友平、友諒の3兄弟がいて、それぞれ箕氏、鮮于氏、韓氏となり、清州韓氏の始祖「韓蘭」は友諒の子孫である」と記載されている(注2)(注3)(注4)。この記載内容が正しければ、朝鮮半島に最初の王朝を開いた箕子のY染色体は、ハプログループO2a2b1a2(O-F444)系統である可能性が高いと言える。1959年、北朝鮮の金日成は「箕子陵」を破壊し、跡地に「牡丹峰青年公園」を造成させた。
Y染色体ハプログループQ1a2系統
殷・帝辛紂王
古代中国・殷の末代王である帝辛紂王(在位:BC1075-BC1046)のY染色体は、ハプログループQ1a2(Q-M346)であると推定される(注1)(注2)。
司馬氏(しばし)は、中国の氏のひとつ。著名な者に晋(西晋・東晋)の国姓となった河内郡温県孝敬里のものがある。
司馬は元々軍事をつかさどる官職のことである。この司馬の職にあった者の子孫が司馬の氏を使うことが多い。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsangokushirs.com%2Farticles%2F164
Y染色体ハプログループC2c1a2a系統
司馬炎 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FY
西晋武帝・司馬炎(236-290)のY染色体は、ハプログループC2c1a2a(C-F3880, subclade-F948, F1319)である(注1)。これは臨沂洗硯池晋墓の埋葬者・M2から得られたサンプルを、復旦大學が解析した結果に基づく。この墓の埋葬者は琅琊王・司馬覲、もしくは司馬裒と見られている(注2)。
この結果に基づき、司馬炎の祖父である司馬懿(179-251)のY染色体もハプログループC2c1a2a(C-F3880, subclade-F948, F1319)であることが明らかとなった(注3)。
孔子
中国・春秋時代の思想家、哲学者・孔子(BC552-BC479, Confucius)が、いかなるY染色体の系統に属するかを解析するために、曲阜孔氏の男性1,118名を対象に調査を行ったところ、ハプログループC2c1a2a2b*(C-F3555, subclade-F13136)(46.06%)、ハプログループQ1a1a1(Q-M120)(27.01%)、ハプログループO2(O-M122)(20.66%)、その他(6.27%)であることが判明した(注1)(注2)。
この結果により、従来は同一父系に属すると考えられてきた「曲阜孔氏」が、実際には、ほぼ3系統の異なる父系の子孫に分かれることが明らかとなった。また、実際の孔子の系統は、ほぼ半数(46.06%)を占めるハプログループC2c1a2a2b*(C-F3555, subclade-F13136)である可能性が高いと考えられる一方で、漢民族としては比較的珍しいハプログループQ1a1a1(Q-M120)が「曲阜孔氏」の男性から4人に1人以上(27.01%)の高頻度で検出されたことなどから、こちらが実際の孔子の系統ではないかと考える研究者もいたが、その後、孔子の家系の祖系である宋前湣公の系統がハプログループC2c1a2a2b*(C-F3555, subclade-F8841)であることが判明し、孔子の子孫を名乗る家系の内C2系統とされたグループと父子関係が立証された為、約半数(46.06%)に当たる(C-F3555, subclade-F13136)が孔子の真の系統であることが明らかとなった。(Q系統は孔子の弟子・子路が迫害にあった際、事情があって孔子の家系の者の養子となったのではないかと推測されている) これらは、濟南鐡路公安局刑事技術所や、復旦大學らの研究チームの解析によるものである(注3)(注4)。
ハプログループC2c1a2a2b*(C-F3555, subclade-F8841)…
Y染色体C2c系統
Y染色体ハプログループC2c1系統 【縄文系】
C2c1系統(C-F2613/Z1338)の分布図 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fupload_dir%2Ff%2Ffamousdna%2Fb18068e72edcaaddfba24f861d93f1c7.jpeg
百済・温祚王
百濟王族の太祖・温祚王(Onjo of Baekje/???)のY染色体は、ハプログループC2c1(C-F2613/Z1338)であると推定される(注1)。
『隋書』新羅伝によれば、「新羅国は高句麗の東南に在り(中略)、その王(新羅王)は、もとは百済人で、(中略)新羅に進入し、遂にその国の王となった。(百済の太祖)温祚(王)から伝世、金真平に至り、開皇14年(594)に遣使を以て方物を貢献した。真平は高祖に拝謁し、上開府、楽浪郡公、新羅王の爵位を賜った」とあり、また『梁書』新羅伝には、「新羅、その先祖は元の辰韓の苗裔である。辰韓は秦韓ともいう。(中略)辰韓(新羅)王は常に馬韓(後の百済)人を用いて擁立し、代々に継承され、辰韓(新羅人)は自ら王を立てることはできない」とある。これに基づけば、新羅王族のハプログループC2c1b(C-F845, CTS10923)金氏は、百済王家の太祖のハプログループC2c1(C-F2613/Z1338)からの分岐である可能性が考えられる。
Y染色体ハプログループC2c1a系統 【縄文系】
百済・蓋鹵王
百濟 第21代・蓋鹵王(加須利君/かすりのきみ/餘慶/慶司, -475)のY染色体は、ハプログループC2c1a(C-Z1300, Z1301/CTS4021)であると推定される(注1)(注2)。
百濟王族の始祖は温祚王で高句麗王と同祖。高句麗王の始祖は朱蒙(東明王)と言われ、その先は扶餘氏に出る(注3)(注4)。(※しかし、高句麗王の子孫、百済王の子孫それぞれから得られたサンプルによれば、父系関係は無い) 蓋鹵王は、宋 泰始4年(468)、雄略天皇に七支刀を奉献したことで知られ、七支刀は奈良 石上神宮に現存している(注5)。
注1)『朝鮮半島のY染色体分布地図』(2013.10.7)
注2)ISOGG 2017(ver12.31)による表記。改定される前の原文のISOGG 2013迄の表記では「C3e1(C-Z1300)」である。
百濟王族は、扶餘系C2c1a(C-Z1300)を出自とするが、百濟の民衆は南方系のO1b2a1(O-F1204)系統が多数であったと考えられている。
注5)七支刀の銘文(表面)には「泰始四年五月十六日丙午正陽、造百練鋼七支刀。?辟百兵、宜供供侯王永年大吉祥(泰始四年(468)夏の中月なる5月、夏のうち最も夏なる日の16日、火徳の旺んなる丙午の日の正牛の刻に、百度鍛えたる鋼の七支刀を造る。これを以てあらゆる兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを)」とある。七支刀の伝来年に関しては、従来「東晋 太和4年(369)」説が主流であったが現在は否定されている。その理由は、1.太和4年(369)に「五月十六日丙午」が存在しないこと。2.東晋の年号は「太和」であって「泰和」ではないこと。3.百濟が東晋に初めて朝貢したのが「西暦372年正月」であることから、それより以前に、東晋の年号を使う(臣下に入る)ことが不審である。4.「太和」の「太」は「泰」と同意味で、両方通用したとの説があるが、銘文に刻む際、画数の少ない漢字から、画数の多い漢字に置き換えることは不審であるとの見方が強い。5.「泰??四年」は百濟の独自年号とする説があるが、それでは何年にあたるか全く確証が無く、かつ百濟の年号で「泰??」を持つものが一切確認できる無いことなどが上げられる。「西晋 泰始4年(268)」に比定した場合は、『日本書紀』神功皇后 摂政52年(252)條の記載に最も近いことになるが、西暦268年は、百濟の建国以前であり(※伝説上は、百済 第8代・古尓王(在位:234-286)の治世にあたる)、百濟が西晋に朝貢を行った事実も無いため、西晋の年号を使うことは不審とされる。そもそも「七支刀」に刻まれている銘文の漢字は、臣下から献上されたものでも下賜されたものでも無い吉祥句の文言である。そのため、王から王へ外交上、同盟関係を表す意味で贈られた可能性が高い。「宋 泰始4年(468)」であれば、暦でも「五月十六日丙午」が存在し、百済は宋に朝貢を行っており、かつ倭王・武も、宋に遣使を行っている為、外交上、宋の年号が使われたとしても矛盾が生じない。『日本書紀』の記載によれば、現在は「泰??四年」となっている箇所が、『日本書紀』の編纂当時は「泰始四年」と読めていたことを示しているが、残念ながら『日本書紀』の作者は、これを「西晋 泰始4年(268)」と誤認したため『日本書紀』の紀年に基づき「神功皇后の時代に献上されたもの」と理解されたと考えられている。その証拠に、七支刀の裏面にある銘文「先世以来未有此刀。百濟王世子奇生聖徳。故為倭王旨造、伝示後世(先代以来、未だ此の如き刀は無かった。百濟王の世子は奇(めずら)しく生れて聖徳があった。そこで倭王の為に嘗(はじ)めて(この七支刀を)造った。後世に伝示せんかな)」とある「百済王の世子(王子)」は、蓋鹵王の子・武寧王(嶋王)が日本で生まれたこと指しており、このことに関して『日本書紀』は「(百濟の)昆支が倭国に向かう際に伴った婦人(蓋鹵王の妃)が筑紫の各羅嶋(かからのしま)まで来たときに王子が生まれたので百濟に戻され、その王子が武寧王である」と言うことが記載されている。武寧王は、嶋君(しまきみ, 斯麻王, 461-523)という日本名を持ち、1971年、韓国公州にある宋山里古墳群の武寧王陵を発掘したところ、棺に使われていた木材が日本産の高野槙であることが学術調査の結果、明らかとなっている。
百済・扶余豊璋
百濟 第31代・義慈王の世子・扶余豊璋(623?-668?)のY染色体は、ハプログループC2c1a(C-Z1300, Z1301/CTS4021)である(注1)(注2)(注3)(注4)。
豊璋は、弟・善光と共に日本と百済の同盟を担保する人質として来日したが、日本側は太安万侶の一族・多蒋敷の妹を豊璋に娶わせるなど賓客扱いであった。660年、唐・新羅の連合軍(唐羅同盟)が百済を滅ぼし、父・義慈王が薨去したという知らせが届いた為、弟と共に百済を復興すべく帰国。豊璋と日本軍は、百済復興軍の司令官・鬼室福信と合流し、豊璋は百済王に推戴されたが、次第に実権を握る鬼室福信との確執が生まれ、663年6月、豊璋は鬼室福信を殺害した。実戦に長けた鬼室福信を失ったことにより百済復興軍は著しく弱体化し、8月27、28日の両日、百済復興軍と日本水軍の連合軍は、唐・新羅の連合軍と白村江で合戦し大敗を喫した。豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃れたが、高句麗も内紛につけ込まれて668年に唐に滅ぼされた。豊璋は高句麗王族らとともに唐の都に抑留され、高句麗王・宝蔵王らは許されて唐の官爵を授けられたが、豊璋は許されず、嶺南地方に流刑にされた。
信濃の善光寺は、もと金刺氏(注5)の氏寺で、金刺氏の先祖の科野(しなの)国造家の一族の一部は、百済の朝廷に仕えていたが、白村江の敗北で百済復興が不可能になったため、日本に帰国した。この百済からの亡命者の中心になったのが、百済王豊璋の弟・善光(注6)であり、日本への亡命の際に「百済仏」を持ち帰り奉った。科野氏は善光の薨去後、その菩提を弔って信濃に「善光寺」を開基。善光の持ち帰った百済仏を本尊とした。善光の子は持統天皇の御代、百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、百済王の血統を今に伝えている。
諸葛孔明?
中国後漢末期から三国時代にかけて活躍した蜀漢の天才軍師・諸葛孔明(本名:諸葛亮, Zhuge Liang, 181-234)のY染色体は、ハプログループC2c1a(C-Z1300, Z1301/CTS4021)である可能性が浮上した(注1)。
これは、韓国人ブロガー、ユーチューバー・Karasaro-濊貊韓朝から得られたサンプルに基づく。Karasaroは、韓国慶尚南道昌原市出身の漆原諸氏で、漆原諸氏は族譜によれば諸葛孔明の子孫・諸葛嬰を始祖とする氏族である。諸葛孔明の本貫は、中国徐州琅邪郡陽都(現 山東省臨沂市沂南県)で、司隷校尉・諸葛豊の子孫。泰山郡丞・諸葛珪の子。諡は忠武侯であるが、実際には「漆原諸氏」は滅亡した百済王族の末裔である可能性も浮上している。(※詳細は【議論】の頁へ)
Y染色体ハプログループC2c1a1a1系統 【蒙古系】
チンギス・カン
モンゴル帝国の太祖・チンギス・カンのY染色体は、ハプログループC2c1a1a1(C-M407)である(注1)(注2)。モンゴル帝国の正史である『元朝秘史』によれば、モンゴル帝国の太祖チンギス・カンの遠祖は「天の命令を受けてバイカル湖畔に降り立ったボルテ・チノ(蒼き狼)とコアイ・マラル(白き雌鹿)である」と記されているがこれはトーテミズムによる神話的伝承である。現在チンギス・カンの子孫という家系の人々はモンゴル・中国・インド・アラビア・朝鮮など世界に約1600万人存在すると言われている。その中で、チンギス・カンのY染色体は概ねハプログループC2c1(C-F2613)であることは間違いないと推定されているが、子孫と言われる人たちのY染色体のSTRが完全に一致している訳ではなく、チンギス・カン自身の墓が見つかっていないため断定的ではない(注2)(注3)。
孔子
中国・春秋時代の思想家、哲学者・孔子(BC552-BC479, Confucius)が、いかなるY染色体の系統に属するかを解析するために、曲阜孔氏の男性1,118名を対象に調査を行ったところ、ハプログループC2c1a2a2b*(C-F3555, subclade-F13136)(46.06%)、ハプログループQ1a1a1(Q-M120)(27.01%)、ハプログループO2(O-M122)(20.66%)、その他(6.27%)であることが判明した(注1)(注2)。
この結果により、従来は同一父系に属すると考えられてきた「曲阜孔氏」が、実際には、ほぼ3系統の異なる父系の子孫に分かれることが明らかとなった。また、実際の孔子の系統は、ほぼ半数(46.06%)を占めるハプログループC2c1a2a2b*(C-F3555, subclade-F13136)である可能性が高いと考えられる一方で、漢民族としては比較的珍しいハプログループQ1a1a1(Q-M120)が「曲阜孔氏」の男性から4人に1人以上(27.01%)の高頻度で検出されたことなどから、こちらが実際の孔子の系統ではないかと考える研究者もいたが、その後、孔子の家系の祖系である宋前湣公の系統がハプログループC2c1a2a2b*(C-F3555, subclade-F8841)であることが判明し、孔子の子孫を名乗る家系の内C2系統とされたグループと父子関係が立証された為、約半数(46.06%)に当たる(C-F3555, subclade-F13136)が孔子の真の系統であることが明らかとなった。(Q系統は孔子の弟子・子路が迫害にあった際、事情があって孔子の家系の者の養子となったのではないかと推測されている) これらは、濟南鐡路公安局刑事技術所や、復旦大學らの研究チームの解析によるものである(注3)(注4)。
ハプログループQ1a1a1(Q-M120)…
ハプログループQ1a2(Q-M346)であると推定…殷・帝辛紂王
Y染色体ハプログループQ系統
漢代・北匈奴の王庭附近墓地出土・古人骨 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FY
漢代北匈奴の夏の王庭から出土した複数の男性古人骨を解析した結果、それぞれハプログループQ*(Q-M242*)、ハプログループQ1a*(Q-MEH2)、ハプログループQ1b1(Q-M378)であることが明らかとなった(注1)。これらは、2007年9月に中国・新疆ウイグル自治区バルコル県の東黒溝遺跡から発掘された古人骨に基づく解析結果である(注2)(注3)(注4)。
注3)中国通信社『新疆東黒溝遺跡は北匈奴の夏の王庭、専門家が初歩的認定』(2007.9.16)によれば「(中国通信=東京)ウルムチ2007年9月16日発新華社電によると、新疆ウイグル自治区文物局と考古研究所は先ごろ、現在発掘、整理中のバルコル県東黒溝遺跡は中国最大の古代遊牧民族の集落跡であるだけでなく、漢代北匈奴の王庭と初歩的に認定されたと発表した。西北大学文化遺産・考古研究センター、新疆ウイグル自治区考古研究所、ハミ地区文物局は昨年から、バルコル県東黒溝遺跡について2年連続の考古学発掘を進めている。これまでに石で築いた高台1基、石で囲んだ住居の土台4基、墓12基が発掘され、大量の岩画が発見され、少なからぬ土器と銅器が出土した。発掘作業の推進者の一人、西北大学考古学科主任の王建新教授は出土文物の真剣な考証を行うとともに、詳細な歴史資料を参照した後、遺跡の年代が最も古くて、戦国晩期から西漢初期に遡ることを確認した。遺跡は同時に、当時強大な匈奴が月氏を打ち破り、この地域を占拠したという史実を証明している。東黒溝遺跡の規模を基に、王教授はこれが北匈奴の夏季の王庭であることを確認した。また、早くもシルクロード開通以前に、東・西洋の各民族間の交流、融合がすでに始まっていたとみている。小河墓地考古学研究の発起人、新疆ウイグル自治区考古研究所所長の伊弟利斯教授は次のように話している。中国で古代遊牧文化の大型集落跡の総合的考古学研究が行われるのは初めてであり、東黒溝遺跡の発見と研究は、古代遊牧文化の社会・経済形態の探求、特に漢代の匈奴と月氏両民族の文化の研究に、非常に重要な最新資料を提供している」とある。
注4)ISOGG Tree(ver.10.79)による表記。原文ではISOGG 2008による旧表記で各々「Q*(Q-M242*)」、「Q1a*(Q-MEH2*)」、「Q1b(Q-M378)」である。
Y染色体ハプログループQ1a1系統
周・文王
古代中国・周朝の始祖・文王(BC1152-BC1056)のY染色体は、ハプログループQ1a1a1(Q-M120)であると推定される(注1)(注2)。
孔子(温州平陽派)
中国・春秋時代の思想家、哲学者・孔子(BC552-BC479, Confucius)の第42世孫・孔檜の子孫のY染色体は、ハプログループQ1a1a1(Q-M120)である(注5)。
孔子が、いかなるY染色体の系統に属するかを解析するために、曲阜孔氏の男性1,118名を対象に調査を行ったところ、ハプログループC2(C-M217)(46.06%)、ハプログループQ1a1a1(Q-M120)(27.01%)、ハプログループO2(O-M122)(20.66%)、その他(6.27%)であることが判明した(注1)(注2)。これは、平陽派孔氏から得られたサンプルに基づく。孔檜は、孔光嗣の堂弟で、孔檜とその族弟である孔庄は曲阜を出て温州平陽に遷り、平陽派孔氏の始祖となったとされる。
マヌエル・ガレゴス
インカ帝国の末裔でアメリカのインディオ・マヌエル・ガレゴス(Manuel Gallegos, 1729-1776)のY染色体は、ハプログループQ1a2a(Q-L53/S326)である(注1)。
ゴヤスレイ・ジェロニモ
白人のアメリカ大陸侵略に対抗した英雄で、アパッチ族の戦士・ゴヤスレイ・ジェロニモ(Goyathlay Geronimo, 1829-1909)のY染色体は、ハプログループQ1a2a1a1(Q-M3)であると推定される(注1)(注2)(注3)。アパッチ族は、北アサバスカ語系ナ・デネ語族の系統(注4)であり、アパッチ族の大多数を占める78%がこのハプログループに属している(注5)。
ケネウィックマン
1996年7月31日、アメリカのワシントン州にあるコロラド川流域の「ケネウィック」で発掘された古代人骨(約8700年前)・ケネウィックマン(Kennewick Man)のY染色体は解析の結果、ハプログループQ1a2a1a1c(Q-M199)であることが明らかとなった(注1)。これは、モルテン・ラスムッセンら欧米研究チームが発表した遺伝子解析の論文に基づくものである(注2)。ケネウィックマンのミトコンドリアDNAはこちらを参照。
Y染色体ハプログループQ1b系統
ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(大量破壊兵器の開発者)
ユダヤ系アメリカ人の理論物理学者で、原子爆弾(大量破壊兵器)開発の指導者的役割を果たした、ジュリアス・ロバート・オッペンハイマーのY染色体は、ハプログループQ1b(Q-L275)である(注1)。
オッペンハイマーは、ユダヤ系アメリカ人の物理学者である。理論物理学の広範な領域にわたって国際的な業績をあげたが、第二次世界大戦当時ロスアラモス国立研究所の所長としてマンハッタン計画を主導。卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たしたため「原爆の父」として知られる。オッペンハイマーの父は、ドイツ生まれ。17歳でアメリカに移民したジュリアス・オッペンハイマーで、母は東欧系ユダヤ人の画家のエラ・フリードマンである。オッペンハイマーの開発によって世界の悲劇が始まったと言われている。
トニー・クシュナー
ユダヤ系アメリカ人の劇作家、脚本家・トニー・クシュナー(Tony Kushner, 本名:アンソニー・ロバート・クシュナー/Anthony Robert Kushner, 1956- )のY染色体は、ハプログループQ1b(Q-L275)である(注1)。これは、PBSテレビ『あなたのルーツを見つける(Finding Your Roots)』シリーズによって明らかになった(注2)。
ディーパック・チョプラ
インド系アメリカ人で代替医療の提唱者、ニューエイジ運動の著名人・ディーパック・チョプラ(Deepak Chopra 1947- )のY染色体は、ハプログループQ1b(Q-L275)である(注1)。これは、PBSテレビ『あなたのルーツを見つける(Finding Your Roots)』シリーズによって明らかになった(注2)。チョプラは、インド・ニューデリーの出身。
Y染色体ハプログループQ1b2b1a2a系統
マルティン・リスベルグ
スウェーデンのマルティン・リスベルグ(Mårten Risberg, 1724-1767)のY染色体は、ハプログループQ1b2b1a2a(Q-YP5085)である(注1)。これは、彼の子孫から得られたデータに基づく。
Y染色体ハプログループR1a1系統 【スキタイ系】
シベリアで出土した北方アジアの騎馬遊牧民族・スキタイ人の男性ミイラ(約2,500年前)18体のY染色体を解析した結果、17体がヨーロッパ系のハプログループR1a1(R-M459)で、1体がアジア系のハプログループC(C-M130)に属することが明らかとなった(注1)(注2)。これらのミイラは、金髪碧眼で刺青の特徴があった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FY
ザラスシュトラ
ゾロアスター教の開祖・ザラスシュトラ(Zaraθuštra, BC650?-BC500?)のY染色体は、ハプログループR1a1a(R-M17)であると推定されている(注1)。
古代ゾロアスター教は、ユダヤ教、キリスト教、初期仏教にも影響を及ぼした言われる。
日本へは推古天皇の時代に舶来
Y染色体ハプログループR1a1a1b1a2系統 【アーリア系】
ガウタマ・シッダールタ
インド・アーリア系(注1)シャーキャ族(注2)の尊者であるガウタマ・シッダールタ(注3)のY染色体は、ハプログループR1a1a1b1a2(R-S466/Z280)(注4)であると推定されている(注5)(注6)。これは、シャーキャ族王族の男系子孫であるパキスタン人男性から得られたデータと、仏舎利の調査に基づくものである(注7)。ガウタマ・シッダールタの火葬骨である仏舎利は、マウリヤ朝のアショーカ王の時代に8万余に分骨され膨大な寺院に再配布された。日本へは推古天皇の時代に舶来(注8)し、推古元年正月15日(西暦593年)には、法興寺の刹の柱の礎の中に置かれた(注9)(注10)。
ウィレム=アレクサンダー
オランダ王・ウィレム=アレクサンダー・クラウス・ヘオルフ・フェルディナント・ファン・オラニエ=ナッサウ(Willem-Alexander Claus George Ferdinand van Oranje-Nassau, 1967- )のY染色体は、ハプログループR1a1a1b1a2(R-S466/Z280 subclade-S18681)である(注1)。ウィレムの父・クラウス・フォン・アムスベルク(1926-2002)は、ドイツ貴族・アムスベルク家の出身。
Y染色体ハプログループR1a1a1b2系統 【アーリア系ユダヤ人】
ベンヤミン・ネタニヤフ
イスラエルの首相・ベンヤミン・ネタニヤフ(Benjamin Netanyahu, 1949- )のY染色体は、ハプログループR1a1a1b2*(R-F992/S202/Z93, subclade-Y2630)である(注1)(注2)。これは、彼の弟から得られたサンプルを、遺伝子鑑定会社・FTDNAが解析した結果に基づくものである。
『旧約聖書』によれば、ヘブライ人は白人系ではなく古代イスラエル人と血統的につながりをもつのは、アブラハムのときにわかれたパレスチナ人である。『旧約聖書』に載せるところによれば、人類共通祖と言われるアダムとイブ(エヴァ)の子孫にノアがあり、ノアの3人の息子、セム、ハム、ヤペテは、洪水の後も生残り、それぞれ、セム=黄色人、ハム=黒人、ヤペテ=白人の祖先になったとされる。さらに、セムの子孫から、アブラハム、ダビデ、ソロモン、イザヤ、イエス・キリストの義父・ヤコブらが生まれている。当然ながら、イスラエルの12支族も全て、セムの子孫、すなわちアジア系民族(ハプログループJ系統)とされる。これは『旧約聖書(創世記)』第11章の10節〜26節に「アブラハムの系図」が記載がされていることからも明らかである。
現在イスラエルにいる白系ユダヤ人は、血統的なイスラエル人(純ユダヤ人)ではなく、彼らは白人系民族のユダヤ教改宗者とされる。これらの人々の元を辿れば、8世紀頃、黒海の北方に存在したアーリア系白人国家・カザール王国の人々の末裔であることが歴史的に証明されている。カザール王国は、国をあげてユダヤ教に改宗したが、そのカザール王国も、ビザンチン帝国とモンゴル帝国に攻め滅ぼされ、11世紀に滅亡した。その後、流浪の民となった白系ユダヤ教徒は西に移動し、ヨーロッパでユダヤ人として生きていく。これらの白系ユダヤ教徒は、アシュケナジー系ユダヤ人と呼ばれる。勿論、血統的ユダヤ人(純ユダヤ人)もヨーロッパに移り住んだが、その多くはパレスチナの地から遠くには離れず、血統的に近縁種であるパレスチナ人と共に生活をしてきた。この血統的ユダヤ人(純ユダヤ人)は、スファラデェイ系ユダヤ人と呼ばれ、イスラエルの建国と同時に「約束の地(シナイ半島のイェルサレム)」に戻ったが、彼ら質素で貧しい生活をしていたため、次第に、血統的にユダヤ人ではない白系ユダヤ人(アシュケナジー系ユダヤ人)よりも、下層階級として扱われてしまっている(注2)。
注1)Eupedia"Famous people's Y-DNA listed by haplogroup"
注2)『ヘブライ人はアジア系民族』より抜粋
世界史の意味 ユダヤ人という人たち3――地中海世界からオランダへ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.japan-world-trends.com%2Fja%2Fcat-1%2Fpost_1378.php
オランダの大国化におけるユダヤ人の役割
オランダのことばかり話してきたが、このアムステルダム振替銀行、東インド会社設立のあたりで、ユダヤ人の名前が登場する。
スペインやポルトガルのユダヤ人は15世紀後半、カトリックへの改宗を迫られて以来(それまでユダヤ人は教会税支払いを免除されていた。スペイン王室はローマ教会と提携していたから、イスラム勢力を完全に駆逐したところで、ユダヤ人に対して強く出たのだろう)くすぶっていたが、オランダ独立戦争あたりを契機にイベリア半島からオランダにかなりが移住、ユダヤ教に再改宗した上(オランダはプロテスタントで宗教的規制が緩かったし、経済は上昇気流に乗っていた)、アムステルダムに西欧最大の居住地を構築した(「スペインのユダヤ人」関哲行)。
アムステルダムはユダヤ人の間で新エルサレムと呼ばれ、東インド会社の株の4分の1をユダヤ人が所有した(「ユダヤを知る事典」P74)。最大の株主はIsaac le Maireという名だったそうで(百科事典ブリタニカ)、名から判断するとユダヤ人だろう。
「オランダ」と「ユダヤ人」という視点から見えてくる歴史の真実
ユダヤ人資本家たちは、対立していた議会と国王、双方に資金援助して、イングランドの歴史を背後から操っていたということになります。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblog.livedoor.jp%2Fanmikako%2Farchives%2F15742201.html
インターネットで"爵位"が買える?! /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fallabout.co.jp%2Fgm%2Fgc%2F79288%2F3%2F
宮廷ユダヤ人(きゅうていユダヤじん、英語:Court Jew, ドイツ語:Hofjude(n), Hoffaktor)は、主として中世ヨーロッパにおいて、キリスト教徒の貴族を相手に資金運用や資金貸付を行ったユダヤ人銀行家、金融業者のことを指す言葉。
後に宮廷ユダヤ人と呼ばれる人たちの登場は、ルネッサンス時代に地方の支配者がユダヤ人銀行家に短期の借り入れをしたことに始まる。彼らは貴族に融資する過程で自然と社会的影響力を持った。
金融業のほか、宮廷ユダヤ人は自分たちの仕える貴族のために外交や貿易を行ったり、自分の仕える貴族たちに主として食料・武器・弾薬・貴金属などを、一族やユダヤ人同士の繋がりを利用したりして調達した。
宮廷ユダヤ人は次第に肩書きや、ゲットーの外で住む権利などの社会的特権を獲得するようになる。宮廷ユダヤ人のごく一部は巨大な財力を持ち、また社会的、政治的影響力を得ていった。
宮廷ユダヤ人はその地域のユダヤ人社会の中では突出した存在であり、ユダヤ人社会を保護する事ができた。彼らはユダヤ人たちの中にも影響を与えるようになる。上流階級との接点がある唯一のユダヤ人であるため、他のユダヤ人のために、その地域の支配者への陳情を行ったりもした。
しかし彼らの社会的立場は仕えていた貴族に依存しており、貴族が返済に応じない事もあった。また彼らの保証人であった貴族が死ぬと、国外追放や処刑の危機に直面した。ユダヤ人大量虐殺が起こると、ユダヤ人の金融業者と共に貸付金の多くが闇に消える、ということもあった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
爵位も中央行政の官僚に与えられる。宮中貴族ともいい、金銭で売買された例もある(準男爵)。
王(king):王国で一番偉い人。語源は”血族(kin)”。同じ土地に住み、同じ言語や風習を共有する民の長。王族と呼ばれる一族の最有力者が付く地位。敬称は陛下。
重視されるのはどちらかといえば血縁であり、中世欧州では王の直系が途絶えた時、血筋が近い他国の王族(政略結婚が多いので欧州王家はほとんどが親類なのだ)を王に迎える場合もある。ただし言語・出身地・宗派さえ違う王を頂くと大抵混乱が起こる。
なお異名が付き易い立場でもある。『獅子心王』『兵隊王』『勝利王』など格好良いのはいいが、『魔王』『狂王』『悪魔公』とか完全に悪役である。他にも『腰抜け王』『無思慮王』『背教者』にいたっては悪口でしかない。
王の最大の敵は、国内の貴族達であることが多い。王は有力な貴族達から力を奪うために課税をしたがるし、領土を拡げるために戦争をしたいからだ。先代より受け継いだ土地は長男に残し、治世の間に侵略で得た土地を次男以下に分配するためである。まあ、国内貴族を取り潰してその領地を息子に与える王もいたが……総スカンを食らって廃位されたりする(実話)。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fncode.syosetu.com%2Fn3373cw%2F7%2F
何の役にも立たないゴミ屑のような情報…ナゼ 嫌がる?
F から分岐したシンハラ系 H と、K から分岐したドラヴィダ系 L・…
F からセム族 J が分岐。南東アジアで K から O が分岐…
人類のY染色体ハプログループ https://8220.teacup.com/toraijin/bbs
ドラヴィダ系 L
Y染色体ハプログループH系統
ドラヴィダ人 (Dravidian peoples)プログループJ(10.5%)
古代からインドに定住していたと考えられる民族ドラヴィダ人(達羅?荼人, Dravidian peoples)のY染色体は、ハプログループHが32.9%で最も多く、以下、ハプログループO(13.6%)、ハプログループL(11.6%)、ハプログループR1a(11.0%)、ハプログループJ(10.5%)の割合である(注1)。インダス文明の担い手はドラヴィダ人であるとする説もあるが、反論もあり詳細は未解明である。ドラヴィダ人はアーリア人とは外見が異なり、アーリア人よりも一般的に肌の色が黒く、背が低いが手足が長い、ウェーブがかった毛髪などの特徴がある。
タミル・ナードゥ州出身でタミル語を母語としその文化を担うドラヴィダ人はタミル人と呼ばれるが、タミル(?????;Tamil)という語はドラヴィダ(???????;サンスクリット語 ??????, ??????, ???????;Dravida)という語と語源が関係している可能性が高い。タミル語は、日本語と文法が良く似ている言語で、語順は日本語と同様、基本的にはSOV型である。OSV型となる場合もあるが、動詞に接辞をつけて文相当の意味を持たせる場合はSOVが基本となる。複文を作るための関係詞はなく、日本語と同じく「水を-飲む-人」、「私が-見た-物」という順でつなげば良い言語である。また、詩歌(サンガム)には、五七五七五七……七、五七五七七、五七七の音節を持つものがあり、日本の七五調・五七調や三十一文字に類似するような形式が見られる。また日本の古語に多く見られるような「係り結び」も存在する。国語学者・大野晋は、日本語の原型がドラヴィダ語族の言語の影響を大きく受けて形成されたとする説を唱えている(注2)。
ドラヴィダ人のY染色体ハプログループは他のインドの民族同様、…J:10.5%となっている[2]。
ヘブル語 タミル語 ドラヴィダ語系…?
ユダヤ人の言葉・ヘブル語やタミル語などのドラヴィダ語系の言葉とも比較 します。
詩と写真(旧題名:外国語散策) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblog.livedoor.jp%2Fr4910307081016%2Farchives%2F52081511.html
ヘブライ語(ヘブライご、?????, Ivrit, ラテン語: Lingua Hebraea )は、アフロ・アジア語族のセム語派に属する北西セム語の一つ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
アフロ・アジア語 ドラヴィダ語…
アフロアジア語族(セム・ハム語族) ウラル語族 アルタイ語族 ドラヴィダ語族 コーカサス諸語 の6つの語族が、1万年から1万5千年前に遡る、「ノストラティック」と呼ばれるヒトツの言語から発生したというものです。
「徹底検証! 日本語タミル語起源説」
「ドラヴィダ言語学の権威」の見解について /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Froz.my.coocan.jp%2Fwissenshaft%2Ftamil_2_A.htm
ドラヴィダ語族とウラルアルタイ(Uralaltaic)語族
ドラヴィダ語族とエラム語
ドラヴィダ語族と日本語
エラム・ドラヴィダ語族(Elamo-Dravidian languages)はドラヴィダ語族と死語となったエラム語を結合される仮説段階の語族である。死語となったハラッパー語(英語版)もこの語族に含まれる。ノストラティック大語族の提唱者は早い段階からエラム・ドラヴィダ語族を受け入れた。
ロバート・コールドウェルが1913年にベヒストゥーン碑文のエラム語とドラヴィダ語との比較を行い、フェルディナンド・ボルク(1924年)はエラム語が現在インドで話されているドラヴィダ語系のブラーフーイー語と関係があるとの説を提唱した。これらの説を継承した言語学者デイビッド・マカルピンが主導となって「エラム・ドラヴィダ語族」が提唱された。
文明との関連 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwpedia.goo.ne.jp%2Fwiki%2F
考古学の観点からは、インダス文明の担い手の言語がドラヴィダ語族である可能性が高いと考えられており、インダス文明にはメソポタミア文明からの影響、類似が多数見られる。従ってメソポタミア文明のエラム語とインダス文明のドラヴィダ語族が同系であってもなんら不思議ではない。またドラヴィダ語族とウラル語族、アルタイ諸語の間には文法の著しい類似性が存在し、このことは少なくとも一部において両者が共通の起源より派生したことを示唆する。両者の共通祖先としてエラム語の存在を位置づけることができるかもしれない。
ユダヤ人の顔の特徴や見た目・外見だけではなく、日本人との関係についても紹介します! /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fethnic-world.net%2Farchives%2F672
ヘロデ王朝時代に進められていた“別神崇拝”が取り入れられ、ユダヤ教の経典である『トーラTorah』には新たな解釈が施され、解釈書集の『タルムードTalmud』を基調とした悪魔崇拝的な教義が成立していたようなのです。…
イルミナティーは、なぜ「黒いユダヤ人」を嫌うか?
バビロニア系ユダヤ教とは /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkuranishi-yuuko.hatenablog.com%2F
イルミナティーを構成している3つの勢力であるイエズス会(フランシスコ派)、ロスチャイルド家、サスーン家の背景を調べてみますと、如何に、イルミナティーが危険な国際秘密結社であるのかがわかります。
この3つの勢力の構成員が、いずれも「黒いユダヤ人」である点を踏まえますと、イルミナティーによる世界支配問題を考えるにあたり、まずもって、ユダヤ教の問題に注目する必要があるようです。
ユダヤ教と言いましたならば、「モーゼの十戒The Ten Commandments of Moses」が想起されてくるでしょう。「モーゼの十戒」は、モーゼがシナイ山の山頂にて神様から授かった教えであり、その内容は、「汝殺すなかれ」や「汝盗むなかれ」によってよく知られております。人類社会の治安と秩序を守るための道徳律であり、仮に、人類のすべてが「モーゼの十戒」を守りましたならば、さぞかし世界は平和であることでしょう。
では、イルミナティーは、ユダヤ教の経典である『トーラTorah』に収められている「モーゼの十戒」を守っているのか、と言いますと、答えは「いいえ」であり、むしろ逆の思考によって行動していると言うことができます(『トーラTorah』は、キリスト教の経典である『聖書The Bible』の「旧約聖書The Old Testament」とほぼ同じ内容)。
その理由は、「黒いユダヤ人」は、バビロニア系ユダヤ教というユダヤ教の異端を信仰しているからです。バビロニア系ユダヤ教とは、「モーゼの十戒」を授けた神様とは異なる“別神”を崇拝する宗教であり、その起源は、太古に遡るようです。ユダヤ12/13支族の内のいずれかの支族が、ユダヤ教の成立以前に信仰していた神が、“別神”であり、「マルクート神」や「バール神」という名であったともいいます。ユダヤ教の成立後にも、密かに“別神”を信仰するユダヤ教徒もあり、紀元前9世紀のソロモン王も、その“別神”を密かに信仰していたとも言います。キリスト教では、悪魔と称されているのが「マルクート神」や「バール神」であるようです。「マルクート神」や「バール神」は、多産の神であるとともに子供の生贄を求める神であり、生贄の如何に応じて願いを叶えることから、その信者には、ウルトラ自己中心主義という特徴があります。
このようにユダヤ教における“別神”問題は、もとよりあったと言うことになるのですが、これに拍車をかける事態が、紀元前1世紀から1世紀にかけて発生いたします。非ユダヤ人のイドメア人であり、所謂「ネオ・ユダヤ人」であったヘロデ王は、エルサレムの第2神殿を改築するなど、ユダヤ教の‘教皇’として振る舞うようになるわけですが、スタイン・ザルツStain Salts氏の『The Essential Talmud』(217頁)は、司祭の任命などについて、「After the rise of the Herodian dynasty and in the days of the Roman governors, corruption was involved in the appointment on priests, and the high priesthood was sometimes awarded to people who paid enormous sums in order to purchase the honor.(ヘロデ王朝以後、ローマ支配時代の間、汚職が司祭の任命においてはびこった。司祭長は、しばしば、この名誉ある地位を買うために莫大な金額を支払った人に与えられた)」と述べております。すなわち、ヘロデ王は売官行為によって、伝統あるユダヤ教司祭の家々を潰していったと言えるでしょう。『聖書』「旧約聖書」に近い内容を持ち、さまざまな戒律は、口伝でありましたので、伝統あるユダヤ教司祭の家の人々が、司祭長や司祭になれないといった事態は、ユダヤ教の断絶をも意味したはずです。これとともに、異端ユダヤ教である「マルクート神」や「バール神」崇拝が影響力を増していったことは想像に難くありません。
こうしてユダヤ教の変質が起こるわけですが、では、なぜ、バビロニアにおいて、異端ユダヤ教が隆盛してゆくことになるのでしょうか。
ユダヤ教のラビのスタイン・ザルツStain Salts氏の『The Essential Talmud』(11−12頁・85−86頁)によりますと、西暦135年にディアスポラ(ユダヤ人の離散)が起こりますと、その多くがペルシャ湾沿岸地域、すなわち、バビロニアに移動したそうです。こうして、バビロニア(現在のバグダッドの周辺域)には、遅くとも2世紀のディアスポラ以降、「黒いユダヤ人」の大きなコミュニティーができており、ヘロデ王朝時代に進められていた“別神崇拝”が取り入れられ、ユダヤ教の経典である『トーラTorah』には新たな解釈が施され、解釈書集の『タルムードTalmud』を基調とした悪魔崇拝的な教義が成立していたようなのです。
このような経緯においてバビロニア系ユダヤ教は成立しておりますので、その信者でもあるイルミナティーのメンバー達は、ウルトラ自己中心的な思想の持ち主であると推測することができるのです。
Re: (無題)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009491M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 項羽と劉邦_(小説)
掲示板の投稿について
いろいろ考えたのですが、ここで建設的な論議を進めるために、他のサイトからの情報の羅列のみで、自己意見がまったく見えない長文投稿は、今後削除したいとおもいますが、いかがでしょう?皆さんのご意見をお聞きかせください。
フィーリングとして理解してほしいという提供もNGにしたいのですが・・・。どなたかの投稿について、自分はこういう情報を提供したいのですが、いかがでしょうか?といったご自身の言葉を添えていただけないかぎり、削除対象となっても仕方ないと思います。
また同様に、今後は、古代史に関係ない誹謗中傷についても、管理人の判断で削除しますので、あらかじめご了承ください。
漢字ペディア辞典とインド弁辞書
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_17_1.html #no
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
ギャロンの 「丹巴(たんば)」 と 日本の「丹波(たんば)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
>「丹巴(たんば)」 と 日本の「丹波(たんば)」…契丹族…
丹巴県(たんは-けん、ロンタク、rong-brag)は中国 四川省 カンゼ・チベット族自治州の東部に位置する県。県城は海抜1,800mにある。チベット族の中でもギャロン・チベット族(嘉絨蔵族)と呼ばれる人々が多く住む /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
四川省
蜀(しょく)は華南の四川省を中心とし成都が首都であった。道教国家であった。 北朝の仏教 西晋 ... 契丹族が中国東北部を中心に建てた国
インドでは原始仏教、部派仏教、初期大乗仏教(阿弥陀、初期般若、法華経など)、中期大乗仏教(中観、唯識、如来蔵)、密教と時代を経て仏教が展開したのに対して、中国では原始仏教から初期大乗仏教までが一度に伝わった。そして、後に中期大乗や密教が伝わり、どの教えを採用してよいのか混乱をきたした。その中から、教相判釈という中国独自の経典の体系付けが行われ、その所依の経典の違いから中国独自の宗派や信仰が生まれていった。
中国人の祖先ではなく、東大古族といわれていた日本人と契丹人の 共通の祖先だった、ということになるからだ。
、『契丹古伝』によれぱ、私たち日本人と契丹人の共通の祖先である「東大神族(シウカラ)」(『契丹古伝』では「東大古族(とうたいこぞく)」とも記される)の歴史は、過去三千年にわたってエジプト、シュメール、インダス、黄河の地を次々に侵略してきたアッシリヤ人、つまり中国で漢人(あやひと)として知られる欧米の支配階級アーリヤ人の手で抹殺され、改竄(かいざん)されてきたという。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Ftsukioto2011%2Fentry-11391175392.html
『契丹古伝』は、紀元前の中国大陸の主人公はあとからやって來た漢民族ではなく、もともとそこに住んでいた日本人の祖先だった、と記す。
ともかく「丹生」という「水銀」を表す言葉で、「庵月山」と「丹生都比売神社」は繋がった。
西宮の甲山と神呪寺のレイライン−2 丹生都比売神社と兵庫県 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblog.livedoor.jp%2Fomtakebe%2Farchives%2F66501758.html
それと共に、そのライン上に現れる山、磐、神社などを地図上から探し出して行くと、次々に意味ありげな場所が浮かび上がってくる。
南南西方向にある「三川山」887.8mを本体とする、「修験道」の社のようだ。ここは「役小角」と関連ありそうだ。
朱砂 丹生 中臣鎌足 清和源氏 レイライン /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F3788
「巴ハ」 <大蛇が地をはう>
解字 古文(春秋戦国時代の文字)は蛇が地面をはっている形の象形。象を食うという伝説がある大蛇とされる。へび・うずまきの意を表す。篆文から形が変わった。日本では古文と似た図形が巴紋(ともえもん)として文様になっている。
意味 (1)大蛇。「巴蛇ハダ」(はっている大蛇) (2)うずまき。 (3)[国]ともえ(巴)。勾玉のような文様。「巴紋ともえもん」「巴投げ」(柔道の技のひとつ。二つ巴のようになって相手を投げる) (4)外国地名の表記。「巴里パリ」「巴奈馬パナマ」
イメージ 「大蛇・幅広く長い」 (巴・芭)
はう時に地面に腹を「ぴたりとつける」 (把・爬・杷・耙)
「ハの音」 (琶・葩)
「同形異字」 (肥)
音の変化 ハ:巴・把・爬・杷・耙・琶・葩 バ:芭 ヒ:肥
邑 ユウ・むら 邑部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F0a8d2bf2d46c54739aaed363c5052991
解字 「囗(かこい)+卩セツ(人のひざまずいた形)」の会意。囗イは外囲いを表し、都市の城壁をめぐらした形。卩セツは人のひざまずいた形で、のちに巴に変化した。両者を合わせた邑ユウは、城壁の中に人がひざまずいている形で、人々が支配者に管理されて住む都市を表す。また、都市のほかに一般の村里の意でも使われる。邑は漢字の右辺に位置するとき、阝(おおざと)の形になる。
意味 (1)みやこ。くに。諸侯の領地。「大邑ダイユウ」(王都。殷の都)「都邑トユウ」(?みやこ。?みやこと、むら)「城邑ジョウユウ」(都会・みやこ)「食邑ショクユウ」(領地。知行所)「采邑サイユウ」(領地。知行地) (2)むら(邑)。さと。「邑宰ユウサイ」(村長)「邑里ユウリ」(むらざと)「邑落ユウラク」(むらざと)「邑犬群吠ユウケングンバイ」(村里の犬が群がって吠える。つまらない者どうしが集まって騒ぎ立てる) (3)うれえる。(=悒)「忿邑フンユウ」(いかり、うれえる)
イメージ
「外囲いの中に住む人々」(邑・阝)
「同音代替」(悒)
音の変化 ユウ:邑・悒 おおざと:阝
外囲いの中に住む人々
阝[邑] おおざと 阝部
解字 邑ユウは漢字の右側(旁つくり)に置かれたとき阝のかたちに変化する。邑⇒阝への変化をたどる一例として郡グンの篆文テンブンと隷書レイショ(漢代の役人などが主に使用した書体)を上に挙げた。篆文の邑は「口+卩セツ」の形だが、隷書第一字で「口+巳」になり、第二字で「口二つがタテ線でつながった形」になり、第三字で阝になった。すなわち、隷書の時代に邑⇒阝への変化は完成している。
意味 部首「阝おおざと」は、邑ユウの意味である、みやこ・くに・むら・さと等、人が住む比較的大きな場所や領域を示す。漢字の左側にきたときも同じ形になるが、これは阜フ(おか)の簡略形で、「こざと」と呼んで区別される。
丹邑…
ニムラ 【丹村】
丹は古来「に」と読み、赤色硫化水銀のことで、朱色の顔料の原料であり、珍重されました。古墳の内部など朱色で塗られていますが、朱色は神聖な色だったわけです。
その「丹」を生み出す場所に丹生という地名がつき、丹を採掘する技術者が丹生氏という古代氏族でした。この丹生氏の一族で武蔵国に移住した者の子孫が広まり「丹党」と武士団を形成しました。この丹党の中に丹氏があります。基本的にはこの流れが各地の丹氏かと思います。(丹党の流れというより、名字の由来としての「丹」ということです。)
伊予の丹氏は、河野通胤が土佐一柳氏から「丹」の名字を賜ったという伝承を持っているそうです。(あくまでも伝承なので、多分上記「丹」に関わった氏族が河野家に系図をつなげただけかも知れません。)
筑前の丹氏は、奈良時代にすでに太宰府の役人に丹姓の人物が見えます。
常陸国北部・磐城国南部にも丹氏がありますが、由来は不明。水戸藩士に丹氏があります。
最上郡金山村の丹氏は最上氏の重臣。秋田藩士の丹氏もこの流れと思います。(秋田県公文書館に丹氏系図が収められています。)
兵庫県の白亜紀火成活動に伴うと言われる生野銀山や明延鉱山 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fstaff.aist.go.jp%2Fsudo-gsj%2Fchishitsu558%2Fchishitsu558-2.html
丹生都比売神
丹生都比売神の性格については大きく分けて2説がある[8]。
1つは水神とみるもので、その根拠として天野の地が紀の川の一水源地であること、空海が丹生都比売神社から譲り受けたという神領は有田川・貴志川・丹生川・鞆淵川の流域のほぼ全域を占めていたこと、関係する丹生川上神社は水神信仰であること、東大寺のお水取りで水を送る遠敷明神(おにゅうみょうじん;若狭彦神社)の存在、御田祭などの祭事における性格等が挙げられる[8]。
もう1つは、「丹」すなわち朱砂(辰砂:朱色の硫化水銀)の採掘に携わる人々によって祀られたという説である[8]。後述の『播磨国風土記』逸文にも「赤土」の記載が見えるほか、全国にある「丹生」と名のつく土地・神社は、水銀の採掘に携わった氏族(丹生氏)と深い関係にあることが明らかとなっている[8][9]。これらに対する一説として、丹生一族が水銀採掘で一大勢力を築いたが、その枯渇に際して天野や三谷で帰農、丹生都比売神社も水神信仰に変化したとする説もある[8]。
なお『丹生大明神告門』[注 3]では、丹生都比売神を伊佐奈支命・伊佐奈美命の子とする。また稚日女尊と同一神とする説もある。また、大国主神の御子神とする説もある。
高野御子神
高野御子神は、その神名が示すように丹生都比売神の御子神といわれる[10]。しかし後述のように、この神が関わった高野山開創伝承は、丹生氏に伝わる「神の贄のため二頭の犬を連れた狩り人の伝承」に由来すると見られている。そのため、本来は「祀られる神(丹生都比売神)」と「奉祀する神(高野御子神)」の関係であったと推測される[10]。なお、文献では古くは『日本紀略』延喜6年(906年)条に記載が見える。
『延喜式』神名帳(927年成立)の記載では祭神は1座。その後に上記2座になり、平安時代末頃からは4座になったと見られている[10]。仁平元年(1151年)の文書に「第三神宮」の記載があるほか[10]、正応6年(1293年)には天野四所明神の「三大神号蟻通神」の神託が見え、第三殿に「蟻通神」が祀られていたことがわかる[10]。祭神の増加に関して、『高野春秋』によれば承元2年(1208年)10月に北条政子の援助で行勝上人と天野祝により、気比神宮の大食比売大神[注 2]、厳島神社の市杵島比売大神が勧請されたという[10]。年代は史料間で食い違うものの、現在の祭神はこれに基づいている。
丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ/にうつひめじんじゃ、丹生都比賣神社)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある神社。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
レイラインの最重要神社
伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fpower-spot.me%2Fizanagijingu%2F
淡路国一宮 兵庫県淡路市多賀740
伊弉諾神宮がある淡路島は、国生み神話の舞台であり日本で一番最初に生まれた陸地と伝えられています。伊弉諾大神は国生みの仕事と後は伊弉諾神宮で余生を過ごしました。伊弉諾神宮の地下には古墳があり、伊弉諾尊の墓所であると言われています。
レイラインとは重要なパワースポットが直線に並んでいる状態です。パワーが連なっている強大なエリアですが、伊弉諾神宮はいくつものレイラインの中心地です。太陽の軌道を見ると、「夏至には諏訪大社から日が昇り、伊弉諾神宮を通って出雲大社に沈む。春分・秋分は伊勢神宮から日が昇り、伊弉諾神宮を通って対馬の海神神社に沈む。夏至には熊野那智大社から日が昇り、伊弉諾神宮を通って高千穂神社に沈む。」という日本の神社の中心といってもいいパワースポットです。
北緯34度27分36秒 東経134度51分08秒
律令制以前は但馬、丹後も含み丹波国造の領域とされ、現在の京都府の中部と北部、兵庫県の北部と中部の東辺に加え、大阪府の一部にも及んでいた。そのため現在では丹波・丹後・但馬を「三丹」、但馬を含まない場合は「両丹」[8]と総称することもある。7世紀の令制国成立に伴い北西部を但馬国、その後、和銅6年(713年)4月3日に北部5郡を丹後国として分離し、後世まで長く続く領域が定まった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F12
丹波国は大まかに言って亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う大きな盆地があり、互いの間を山地が隔てている。このため、丹波国は甲斐や信濃、尾張、土佐のように一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化した。地域性として亀岡・八木・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津と、福知山・綾部の中丹は丹後・但馬と、篠山は摂津・播磨と、氷上は但馬・播磨に密接に係わる歴史を持った。
中世[編集]
丹波国は古くより京都(平安京)の北西の出入口に当たる地理的条件から、各時代の権力者から重要視され、播磨や大和などと並んで鎌倉時代の六波羅探題や江戸時代の京都所司代などの直接支配を受けた。それだけに、都の政局に巻き込まれやすい国でもあった。鎌倉時代末期には足利尊氏が桑田郡篠村(現・京都府亀岡市篠町)で挙兵し、安土桃山時代にも丹波亀山城主の明智光秀が本能寺の変を起こすといった時代変革の重要な舞台となった。さほど有名ではないが、戦国時代に八上城の波多野氏(松田氏)は丹波諸豪族をまとめると、これを率いて山城など周辺諸国に進出したこともある。
室町時代は、おおむね細川京兆家の領国として、守護代内藤氏の下で栄えた。
安土桃山時代は羽柴秀勝や羽柴(小早川)秀秋、前田玄以といった豊臣政権の親族などが亀山に置かれた。一方、福智山は小野木重勝が封じられた。織田信長の弟である織田信包が氷上郡柏原に陣屋を構えた。
Re: 漢字ペディア辞典とインド弁辞書
鳩摩羅童子さんへのお返事です。
古代インドの言語「古インドアーリヤ語」はヨーロッパ諸言語の多くと同じ起源から発し、インド・イラン共通時代を経て成立しました。
ヘブライ語はインド=ヨーロッパ語族ではなく、アフロ=アジア語族である。他方でイディッシュはドイツ語からつくられたユダヤ人語であり、ゲルマン語派に属する。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Frossia.web.fc2.com%2Fpc%2Fnarod%2Findoevropeiski.html
イディッシュ語
イディッシュ語(イディッシュ語: ???????、ドイツ語: Jiddisch、英語: Yiddish、ヘブライ語: ???????)は、中・東欧のユダヤ人の間で話されていたドイツ語に近い言葉である。ユダヤ語とも称される。インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派のうち西ゲルマン語群に属する高地ドイツ語の一つで、世界中で400万人のアシュケナージ系・ユダヤ人によって使用されている。イーディッシュ語と表記されることもある。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
> 小学校漢字の名詞(≒ 動詞・形容詞 以外) 約 500 単語
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww5d.biglobe.ne.jp%2F%7Ethe_imai%2Fetymology%2FGrimm%27s_Law_in_J_17_1.html%23no
>
> 小学校の教育漢字約 1000 単語の 700 個以上を既に調べたが、訓読み・音読み、は全てインド弁辞書に載っていた。
> 初めて見た読み方の物も、インド弁辞書にはチャント載っていた。
> ex. 風(かぜ)を「ならわし」、原(はら)を「ゆるす」、間(あいだ)を「ひそかに」と読む、等の例。
> つまり、インド弁辞典は、日本語の国語辞典の語源辞典となり得る。
> c. secretly で 「ひそかに」 が載っているのは、当たり前。 between で 「ひそかに」 が載っている所が、スゴイ。
>
>
> ./%22http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_17_1.html #n.201
> ./%22http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_17_1.html #n.204
> ./%22http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_17_1.html #n.287
Re: ギャロンの 「丹巴(たんば)」 と 日本の「丹波(たんば)」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009497M.jpg
https://fubozoku2.exblog.jp/19837240/
>田端環状積石遺構
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009498M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 田端遺跡
Re: ギャロンの 「丹巴(たんば)」 と 日本の「丹波(たんば)」←関係ない。カンゼのmdzesは日本語に関わる。
鳩摩羅童子さんへのお返事です。
> ギャロン地区の地名 「丹巴(たんば)」 と 日本の「丹波(たんば)」 は、似ているが何故だ?。
>
> 前からの、素朴な疑問です。
>
丹巴はRong brag。チベット語だ。Rongは「戎」だろう。ギャロンのロン。
現代読みではロン・チャックになる。漢語の名称「丹巴」とは関係ない。
日本の丹波とはもっと関係ないwwwいや、関係ゼロだ。
丹巴があるカンゼ・チベット族自治州の「カンゼ」の方が日本語と関わる。
カンゼとは、チベット語でdkar mdzes。
上代日本語「めづ」【奇】(動下二、メはメ乙類)、「めづし」【愍】(形ク,メはメ乙類)、「恵」【愍、愛、恵】(動四、メは乙類)や後代の派生語などを含めて、単語家族として比較すると良い。
ギャロン語もk?mt?er(ク・ムチェル)、語根はmt?er。やはり関係する。
【ギmt?erーチmdzesー日めづし】
Re: 掲示板の投稿について<<<大々賛成!
管理人さんへのお返事です。
> いろいろ考えたのですが、ここで建設的な論議を進めるために、他のサイトからの情報の羅列のみで、自己意見がまったく見えない長文投稿は、今後削除したいとおもいますが、いかがでしょう?皆さんのご意見をお聞きかせください。
>
>
大々賛成!
キシの投稿・コピペは長過ぎて、私の玉稿が埋もれてしまうw
第一さ、役に立たない屑情報ばっかでしょ?
初めてこの掲示板覗く人はキシの超長コピペ見て、どんびきする。
って、管理人さん、前からそう言ってるけど削除しないでしょ...w
Re: これは管理人さんには少しショックかも...:劉邦ハプロはシナ系O-JST002611ではなく、O-F155。O-F155は国別割合で中国が100%で、したがって日本の渡来氏族のうちで漢皇室出を標榜するものは、全てが経歴詐称である。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009501M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009501_2M.jpg
https://kknews.cc/history/bjqka49.html)
Re: 掲示板の投稿について<<<大々賛成!
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
> 管理人さんへのお返事です。
>
> > いろいろ考えたのですが、ここで建設的な論議を進めるために、他のサイトからの情報の羅列のみで、自己意見がまったく見えない長文投稿は、今後削除したいとおもいますが、いかがでしょう?皆さんのご意見をお聞きかせください。
> >
> >
>
>
> 大々賛成!
> キシの投稿・コピペは長過ぎて、私の玉稿が埋もれてしまうw
> 第一さ、役に立たない屑情報ばっかでしょ?
>
> 初めてこの掲示板覗く人はキシの超長コピペ見て、どんびきする。
> って、管理人さん、前からそう言ってるけど削除しないでしょ...w
>
>
>
お返事ありがとうございます。
茨のきしさんの奥様を亡くされてから発症したという鬱性の健忘症については、私も心を痛めており、なんとか回復を願ってますが、ただここ十年ほどのご投稿をみるかぎり、その改善の兆しもなく、このままだと、皆さんにご迷惑をおかけするだけではなく、ご自身の自立生活にも支障をきたしていくのではないかと判断し、今回、あえて、ご自身の言葉でしっかり話して、みなさんとコミュニケーションができるところまでリハビリテーションの支援をしたいと考えて、先のような提言をさせていただきました。
きしさん的には迷惑千万と思われるかもしれませんが、これを機に面倒くさがらずに、コピペの繰り返しをやめて、投稿する際にはご自身の言葉でみなさんにわかるようにご説明を加えていただくよう、改めて管理人からここでお願いいたします。みなさんからも、どうぞきしさんのご回復にむけて、お手伝い、ご配慮よろしくお願いいたします。
Re: 掲示板の投稿について<<<大々賛成!
管理人さんへのお返事です。
> お返事ありがとうございます。
> 茨のきしさんの奥様を亡くされてから発症したという鬱性の健忘症については、私も心を痛めており、なんとか回復を願ってますが、ただここ十年ほどのご投稿をみるかぎり、その改善の兆しもなく、このままだと、
>
>
それは知らなかった。
でも、彼の投稿の頻度から見るに、うつ病ではないと思うよw
Vitalityが見える。本当のうつ病はネットさえできないと言う...
Re: 掲示板の投稿について<<<大々賛成!
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
> 管理人さんへのお返事です。
>
>
>
> それは知らなかった。
> でも、彼の投稿の頻度から見るに、うつ病ではないと思うよw
> Vitalityが見える。本当のうつ病はネットさえできないと言う...
そうですね、詳しい病状はご本人に聞かないとわからないのですが、本来は体も大きくバイタリティのあふれる方なのだろうと感じます。早く回復していただきたいです・・。
Re: ギャロンの 「丹巴(たんば)」 と 日本の「丹波(たんば)」←関係ない。カンゼのmdzesは日本語に関わる。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009505M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 上代日本語
Re: ギャロンの 「丹巴(たんば)」 と 日本の「丹波(たんば)」
鳩摩羅童子さんへのお返事です。
> ギャロン地区の地名 「丹巴(たんば)」 と 日本の「丹波(たんば)」 は、似ているが何故だ?。
>
> 前からの、素朴な疑問です。
>
> ギャロン DB に、簡体字丹巴、繁体字丹巴、拼音Dānbā。 と言う地区があるが /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
> 神奈川県に丹沢という地名がある、これも完全に山の中である。関係すると思うが、誰か調べて欲しい。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
丹波の語源はwikiだと下記のようにありますね。
『先代旧事本紀』の巻十『国造本紀』によれば、成務天皇の時代、尾張連同祖の建稲種命の4世孫にあたる大倉岐命を国造に定めたことに始まるとされる。なお京都府宮津市の籠神社に伝わる国宝海部氏系図には、その16代目に大倉岐命の名が記されているという。
丹波国造の領域の南部にある亀岡盆地は太古は大きな湖であり、風が吹くと美しい丹色の波が立ったところから、このあたりを丹のうみ・丹波と呼ぶようになったとされている。出雲神話で有名な大国主命が亀岡と嵐山の間にある渓谷を切り開いて水を流し土地を干拓して、切り開いた渓谷を妻神「三穂津姫命」の名前にちなみ「保津川・保津峡」と名付けたという伝説も残っており、出雲大神宮(亀岡市千歳町)の祭神となっている[1]。事実、湖だったことを示す地層も明らかになっている。真偽は不明だが、5世紀に秦氏が亀岡市域の桂川の治水工事を行ったため、この辺りの桂川は大堰川と呼ばれているという。
6世紀ころには「丹波」の名のつく女性が天皇の后[2]になっており、古くから丹波の名称があったとされている。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E4%25B8%25B9%25E6%25B3%25A2%25E5%259B%25BD%25E9%2580%25A0
丹波の語源は、お隣の但馬(たじま)と関係あるのではないでしょうか。
外来系の話としては田道間守の伝承があります。
田道間守の生まれについて、『日本書紀』垂仁天皇3年条では天日槍(新羅からの伝承上の渡来人)の玄孫で、清彦の子とする。一方『古事記』応神天皇段では、天之日矛(天日槍)の玄孫は同じながら多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子とし、清日子(清彦)は弟とする。
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」[2]すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日[3]に天皇は崩御する。翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味[4])を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという[5]。
『古事記』垂仁天皇段によれば、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」[2](同じく橘)を求めに常世国に遣わされた。多遅摩毛理は常世国に着くとその実を取り、縵8縵・矛8矛を持って帰ってきた。しかしその間に天皇は崩御していたため、縵4縵・矛4矛を分けて大后に献上し、もう縵4縵・矛4矛を天皇の陵の入り口に供え置いて泣き叫んだが、その末に遂に死んだという。
そのほか、『万葉集』巻18 4063番では田道間守の派遣伝承を前提とした歌が、巻18 4111番(反歌4112番)では田道間守を題材とする歌が載せられている[6][7]。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%2594%25B0%25E9%2581%2593%25E9%2596%2593%25E5%25AE%2588
タチバナ(橘)が関係してますね。
あとその姫に関連しては、新羅のタバナ姫の話があります。
下記のサイトで、そのタバナ姫と新羅の王と丹波との関連を論じておられるのでご参照ください。
もともと新羅に丹波の語源があるのではないですかね・・・。
■□■□■ 第四代新羅王は日本人か(オロモルフ) ■□■□■
◆◆◆ 『三国史記』 ◆◆◆
朝鮮最古の史書『三国史記』(1145年成立)の新羅本紀には、第四代の王について、つぎのように書かれています。
「脱解尼師今、立。(一云吐解。)時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里。・・・」
「脱解尼師今が即位した。(または吐解ともいう。)王はこの時、年が六十二歳であったが、姓は昔氏で、妃は阿孝夫人である。脱解はもと、多婆那国の生れで、その国は倭国の東北千(百)里の所にある。・・・(林英樹訳)」
「脱解尼師今が即位した〈吐解ともいう〉。王はこの時(A・D五七)、年が六十二歳で姓は昔氏、妃は阿孝夫人である。脱解王はもと多婆那国の出身で、その国は倭国の東北一千里のところにある。・・・(金思燁訳)」
(注1:このあと、朝鮮によくある伝説として、多婆那国の王の妃が卵を産んで海に流されて生まれ、海岸に漂着した――という話があります)
(注2:脱解尼師今は(トヘニサコム)で、尼師今(ニサコム)は王様といった意味だそうです。箱(船)から出てきたので脱解という名がついたという話も書かれています。多婆那国は(タバナ国)と読めます)
◆◆◆ 《籠神社》に残る伝説 ◆◆◆
天橋立を参道にしている丹後の《籠神社》には、古代にこの地から一人の日本人が新羅に渡って王様になった――という伝説が残されているそうです。
◆◆◆ 《丹後国》と《丹波国》 ◆◆◆
丹後半島付け根の《籠神社》の伝説が、《多婆那国》=《丹後国》を暗示していて興味深いのですが、もともと丹後地方は、海洋族として知られた海部一族の勢力圏であり、大和朝廷も〈天照大神〉(伊勢神宮)の大和以外での最初の奉斎地に選んだほど重視していた所です。
ですから、丹後の王権の王子の誰か(またはその一族)が、新羅に渡った可能性は大きいのですが、それはもちろん可能性の問題です。
さてつぎに、「多婆那国とは現在の丹後ではないか」という推理の根拠を、読みで示しますが、その前に丹後と丹波の関係を記します。
現在の丹後は、かつての《丹後国》ですが、さらに昔は《丹波国》の一部でした。
西暦713年に《丹波国》の(都から見て)後ろの方が独立して《丹後国》になったので、新羅云々の時代には《丹波国》と呼ばれておりました。
つまり、《籠神社》の一帯は、古代においては《丹波国》だったのです
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.asahi-net.or.jp%2F%7Exx8f-ishr%2Ftabana%3Dtango.htm
Re: >田端環状積石遺構
山田さんへのお返事です。
> 多摩埋蔵資料館に田端遺跡の資料を尋ねたら、町田の郷土館へお訪ねくださいでした。
> 数年前に、敷石住居の石柱が丹沢の山(?)に沈む冬至の太陽と呼応してる展示があり、同じものかと。学芸員の説明では別のもので青梅の○○遺跡とのこと。今度こちらの郷土館に尋ねてみましょう。
>
> >田端環状積石遺構は田端遺跡の墓地に縄文時代後期から晩期にかけて作られた遺構とされている。大小約900個の石を東西に集積した9メートル南北に7メートルの楕円形のストーンサークルである。
> 1968年に玉川学園考古学会の浅川利一らが中心となり発掘、加曾利B式の土器などが出土。町田市が土地を買い取り・保存、1971年(昭和46年)3月29日に東京都指定史跡に指定された。また遺構下部は未調査である。
> 丹沢山地や富士山が展望できたとされ、また冬至に蛭ケ岳の真上に太陽が沈むのが観測できることからこの場所が選ばれたとされている[1]。
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%2594%25B0%25E7%25AB%25AF%25E9%2581%25BA%25E8%25B7%25A1
>
> ・・
> 飛騨金山の岩屋岩蔭遺跡と呼応があるのは、驚きですね。
そう、先日田端遺跡に向かったおりに、町田の資料館があることに気づいて訪問したかったのですが、時間がなくあきらめたところでした。
多摩埋蔵資料館は行ったことないですね・・。近くに住んでいたことあったんですが(汗)
多摩ニュータウンはずいぶん発展しましたね。田端遺跡のあった多摩境あたりは、野原だったのに、先日いったら住宅街に変貌していて驚きました。
ぜひまた町田の資料館の報告もお待ちしてます!
Re: ギャロンの 「丹巴(たんば)」 と 日本の「丹波(たんば)」
秦野北斗さんへのお返事です。
> 鳩摩羅童子さんへのお返事です。
>
>??神奈川県に丹沢
> 丹沢は丹(あか)、沢(さわ)、を整理すると、水銀の谷
>
> 沢(さわ)山間に流れる小川
> 金と水銀で調べると面白い紹介記事がいくつかあります。
> 仏像を金メッキするとか、丹生一族とか、丹沢は辰砂(水銀鉱物)が取れる沢とか、
>
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffubozoku2.exblog.jp%2F19837240%2F
>
>
そうですね、丹沢の丹は、朱の意味でしょうね。川と関連するならばその可能性大です。
Re: これは管理人さんには少しショックかも...:劉邦ハプロはシナ系O-JST002611ではなく、O-F155。O-F155は国別割合で中国が100%で、したがって日本の渡来氏族のうちで漢皇室出を標榜するものは、全てが経歴詐称である。
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
> 図1:O-F438系統樹と姓氏
> 図2:景帝から光武帝までの系図
>
> ------------------------------
> O-F438fullを確認したら、O-F316は劉邦ハプロの親で、日本のO-F1754の兄弟ハプロですね。なるほど、O-F316は劉姓ばかり(図1)。
>
> 一方、O-JST002611の方には江蘇省の1例を除いて劉姓は見られません。
> 楊・鄭・陳・姚などバラバラです。
>
すごいですね!中国も系譜がしっかり残ってますし、それにハプロ分岐がしっかり対応していて、文献ではみえなかった細かい集団の流れも追えそうです。
奈良に多いシナ語族のO-JST002611を、東漢氏に比定したいところですが、他の渡来人も多くいましたから、その比率から再検討する必要があるかもしれませんね。
下記のサイトに新撰姓氏録の諸蕃にあたる畿内の渡来系氏族の出自が見えますが、坂上氏などは後漢皇帝に出自をもってきてますが、百済にもってくる集団も多く、特に奈良つまり大和国の他の渡来系氏族の出自も確認しておく必要がありますね。奈良でなくて京都のハプロ分布もわかれば、いっそう、どの氏族が中国系ハプロをもってきたか明らかにできそうな感じですが・・・。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkitagawa.la.coocan.jp%2Fdata%2Fshoji03.html
「水銀」をキーワードに
インドでは、水銀はシヴァ神の精子でできているとされ、『ラサ・シャストラ(英語版)』という錬金術書にしたがって、水銀アマルガム製のパワーストーン仏像(parad shivalingam ラサリンガム(英語版))やラサマニrasa mani(水銀宝珠)と呼ばれるアクセサリーが製作されている /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
空海と水銀の流れ(1) もう大昔のことになるが、オーストリア在住の英国の建築家の通訳として以前高野山に行ったことがある。そのとき宝物殿の中にカドケウスの杖(二匹の蛇が、螺旋状に絡み合った杖)があった。
「日本史は今後、世界史のキーになるだろう」と予想している。またこんなことも言っている。「王権や律令国家の基礎は曽我氏が作って今日に至るのだ。また北日本を中心にして、金属高山関係者、水利事業者、運搬事業者、山岳信仰関係者、遍歴の商人など、非主流に回った曽我氏や聖徳太子の一統が残されたのである。蝦夷の将軍アテルイ、奥州藤原氏、北関東の王・平将門は、いずれもその関係者またはその後裔である。」
そして栗本氏は、日本の文化要素を、ゾロアスター教よりもっと古いミトラ教に求めている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblog.livedoor.jp%2Fhsmt55%2Farchives%2F50806598.html
日本神話の起源もこのスキタイの遊牧民の神話にそのルーツももっているという。
日本神話と水銀―これらも同源の伝承と考えられていますが、それでは、どうして伊勢と、出雲や播磨に同じ伝承が残されたのでしょうか。
丹は水銀のことで、水銀の採れるところを丹生と呼びますが、多気町丹生も丹生鉱山があり、1973年(昭和48年)まで採掘がおこなわれていました。
丹生鉱山に隣接する池ノ谷・新徒寺・天白遺跡から発見された縄文式土器は、粉砕した辰砂を利用したもので、他にも辰砂原石や辰砂の粉砕用に利用したと見られる石臼も発見され、縄文時代の頃から採取されていたことがわかっています /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fsadalon%2Fe%2F357ed2202400e4deefcf13d0a4990d60
『出雲国風土記』のアジスキタカヒコの神話…
アジスキタカヒコ・ホムツワケを累ぐ唖伝承の暗合 *水銀を採取する人びと /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fasajihara.air-nifty.com%2Fmu%2F2004%2F03%2Fpost_36.html
オオクニヌシと阿遅須枳高日子命(アジスキタカヒコ)
大国主の誕生179―日本神話と水銀―これらも同源の伝承と考えられていますが、それでは、どうして伊勢と、出雲や播磨に同じ伝承が残されたのでしょうか /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fsadalon%2Fe%2F357ed2202400e4deefcf13d0a4990d60
扶余は、大陸の、鹿のトーテムの騎馬民族です
ツングース系扶余(ふよ)族の帰化人である物部氏縁の神社・神と言えます /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq12183157092
ソグド人の銀製ワインカップ。水銀アマルガムの金メッキが施されている。
古代中国では、各都市は、シルクルードの商人であるペルシャ人、ソグド人、ユダヤ人が大量に住み着いており、聖域文化の影響が強い都市が幾つもあった
「旧約聖書」出エジプトの子羊の血=朱(紅)が、魔除けとされ建物などを赤く塗った。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq14206907574
オクサス(プラアムダリア)は、北方遊牧(後の騎馬)民族と南方農耕都市文明との出会いの場所であり、契機は、鉱石の採取にあった。しかし遊牧民族特有の男系社会が生んだ「男性結社」の暴走で、「善」の宗教が形成され、インドに移動したのがインド・アーリア系で、東イラン(アフガニスタンを中心)に残ったのがイラン・アーリア系。インド・イラン系アーリア人が、まだ未分化の時代に、先住のインダス文明やインダス系の人々がオクサス河(プラアムダリアか?)のデルタ地帯に形成した農耕都市文明と接触する過程で、「アディティ」や「アナーヒター」という女系農耕社会の「自由の女神」と融合した。そして、元々遊牧民であったイラン・アーリア人は山麓で「牧畜」と「農耕」も営むことを選択し、鉱山採掘技術を生かして地下水脈・カレーズ(カナート)を掘削、インダス文明を特色づけた「水路」を山麓で確保、インド・アーリア系は「地下水脈の伝説」(サラスヴァティ)を伝承した。−ここまでが23号までに記述したことである。今回は、女系農耕都市文明と男系遊牧社会との接触が、人類史にどのような影響を与えたかについて記す。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.lait.jp%2Fserial%2Fserial_asiaseye421.html
Re: 「水銀」をキーワードに
荊の紀氏さんへのお返事です。
ここで建設的な論議を進めるために、
"他のサイトからの情報の羅列のみで、自己意見がまったく見えない長文投稿"
は、今後削除したいとおもいます.
...コピペは短くなったけど、どうせすぐやりはじめるんだから…
(無題)
キシさん、まずは皆さんにひとこと、、、ないかい?
それからが更生の道だよ。
ビミョ〜な立ち位置
ちょっと気づきました。
面白いことに、中国のハプロ・サイトではO1aの鼻息が荒いですw
実は漢族にもO1aは15%あまりいて、かなり存在感はあります。また、稲作を開始したのはO1aのオーストロネシアとタイ・カダイで良いでしょう。
ただ、生粋の漢族としてはビミョ〜な立ち位置。
日本のネットでも、日本人としてはおろか東アジア人としてもビミョ〜なハプロの皆さんが頑張ってるよねwww
いや、アフリカで起源したんじゃ、yDNA的にはもはや「ユーラシア・アメリカ・オセアニア人」としてもビミョ〜w
Re: これは管理人さんには少しショックかも...:劉邦ハプロはシナ系O-JST002611ではなく、O-F155。O-F155は国別割合で中国が100%で、したがって日本の渡来氏族のうちで漢皇室出を標榜するものは、全てが経歴詐称である。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009514M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009514_2M.jpg
http://www.wwdoa.com/2013/0625/11673.html
Re: これは管理人さんには少しショックかも...:劉邦ハプロはシナ系O-JST002611ではなく、O-F155。O-F155は国別割合で中国が100%で、したがって日本の渡来氏族のうちで漢皇室出を標榜するものは、全てが経歴詐称である。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009515M.jpg
https://www.23mofang.com/new/report/ancestry/family/5acf27050cf269f98ecf3532
Re: (無題)
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
> キシさん、まずは皆さんにひとこと、、、ないかい?
> それからが更生の道だよ。
個人攻撃…持っている情報の量や内容も…
個人攻撃(こじんこうげき、personal attack)とは、議論(何らかの係争関係にある会話・対話など)において、相手の発言の内容ではなく、発言者である相手自身を話題にして応答すること。論点のすり替えの一種[1]。人格攻撃(じんかくこうげき、personality attack)。議論におけるルール違反[2]。個人攻撃によってビジネス上の議論や交渉の本筋から脱線してしまうが、こうしたことを避けて上手に伝達することは教育分野や家族間においてもコミュニケーション上の重要な考え方となる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
参加者の思考の差異により、一つの方向に決めることが難しい
一人ひとりのこれまでのバックボーンが違えば、持っている情報の量や内容も当然のことながら異なってきます。
また、多くの人は自身の感情やポジションにとらわれたまま発言します。
人は「自分の考えや立場ありきで意見を言う生き物」であるがゆえに、合議の場にいる個々人の思考を一つに合わせるのは至難の技です。
合議では、参加者それぞれの意見を尊重する傾向にあるため、シャープな結論には行き着きにくい難点があります。
誤解を恐れずに言うと、合議においては、前提となる問題解決から遠ざかり、誰も責任を持つことなく、その場にいるあらゆるメンバーの異なるポリシーや意見の最大公約数が反映され、本質的な問題から遠ざかる方針に落ち着くケースが少なくない、と考えています。
合議という形態は、一見すると民主的で素晴らしいように思われがちですが、ほとんどの場合、問題の本質的な解決に繋がりにくくなり終わってしまうのです。
Re: (無題)
荊の紀氏さんへのお返事です。
まーここは民主主義じゃないんだけどね。管理人さんという意思決定者がいる。
それに従えばどうかね。駄文の長文ほんとに迷惑。
Re: これは管理人さんには少しショックかも...:劉邦ハプロはシナ系O-JST002611ではなく、O-F155。O-F155は国別割合で中国が100%で、したがって日本の渡来氏族のうちで漢皇室出を標榜するものは、全てが経歴詐称である。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009518M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 単一民族国家
『隋書』新羅伝 金真平(王名=金姓)…百済人…ユダヤ
其王本百濟人、自海逃入新羅、遂王其國。傳祚至金真平、開皇十四年、遣使貢方物。
高祖拜真平為上開府、樂浪郡公、新羅王。其先附庸於百濟、後因百濟征高麗、高麗人不堪戎役、
相率歸之、遂致強盛、因襲百濟附庸於迦羅國。
その王は本の百済人で、自ら海に逃れ、新羅に進入し、遂にその国の王となった。
温祚(おんそ)から伝世、金真平(王名=金姓)に至り、開皇十四年(594年)に遣使を以て方物を貢献した。
高祖は真平を拝謁し、上開府、楽浪郡公、新羅王の爵位を賜る。
その先祖は百済に従属し、後に百済が高句麗を征したが、高句麗人は戎役に堪えられず、相次いで帰国し、遂に強勢となり、百済を襲い迦羅国を従属国とする。
温祚王 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
百済人のルーツはヘブライ人(ユダヤ人)で、彼ら百済人の同族が倭国に渡り、始祖が応神天皇となったとの説がある。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fshimonose9m%2Fentry-12073327288.html
クダラ〔百済〕&シラギ〔新羅〕
(Heb.),????????????,KDVR-ShLG,kedur-sheleg 〔球-雪〕雪の玉(雪だるま)
(Heb.),?????,KDVR,kedur 球、玉、ボール:クダラ〔百済〕
(Heb.),??????,ShLG,sheleg 雪:シラギ〔新羅〕
※韓半島にヘブライ語が入っていたことの証明である。
金、元、清など、漢民族以外の少数民族が中国を支配…
過去には五胡十六国、金、元、清など、漢民族以外の少数民族が中国を支配していた時期もある。これらのうち、自らの文化を保持したまま中国を支配した王朝に関しては征服王朝と呼ばれるが、漢民族の文化を進んで取り入れ同化していった王朝に関しては浸透王朝と呼ばれる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
金
金(きん)は、漢姓の一つ。中国・朝鮮などに見られる。とくに朝鮮民族の姓の中では最大の姓となっている。中国では、漢民族・回族・満州民族などが多く称している。 金氏の由来は多様である。
金氏の由来は多様である。主要な起源としては以下がある。
#漢民族由来の姓 - 漢民族の伝説によれば、五帝の一人少昊(金天氏)の子孫が金氏を称したとされる。
のちに、賜姓・改姓・漢化によって、漢民族を含むさまざまな民族が金氏を称することとなった。
#朝鮮の姓 - 朝鮮民族の金氏は、新羅の始祖金閼智や金官加羅国の始祖首露王に由来する。金 (朝鮮人の姓)も参照。
#回族の姓 - 祖先のムスリム名に因むもののほか、賜姓による改姓や他民族からの改宗に由来する。
#満州民族の姓 - 満州民族では、愛新覚羅氏などが漢風の姓として早い時期から金氏を用いていた。
他民族の漢化
羌族 - 南北朝時代、羌族の中で金姓を称するものがあった。
ユダヤ人 - 12世紀初期の北宋徽宗の治世、中国に移住・定着して商業を営んだ。漢姓として金・李・俺・艾・趙・張など17の姓を称した。中国のユダヤ人については、開封のユダヤ人参照。
朝鮮民族(朝鮮族)、満州族 は別項参照。
漢民族由来の姓
主要な起源 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
伝説
五帝の一人少昊(金天氏)の子孫は、「金」を姓とした。
賜姓
前漢の武帝の時、匈奴の休屠王の子・日?らが捕えられ「金」の姓を与えられた。
明のとき、モンゴルの王子・也先土幹や、額森図克、阿爾哈特実哩らが降伏し、「金」の姓を与えられた。
清の乾隆帝は台湾原住民(高山族)に7つの姓を与えた。その一つが「金」であった。
改姓
五代十国の呉越で、劉氏が「金」に改姓した。
他民族の漢化
羌族 - 南北朝時代、羌族の中で金姓を称するものがあった。
ユダヤ人 - 12世紀初期の北宋徽宗の治世、中国に移住・定着して商業を営んだ。漢姓として金・李・俺・艾・趙・張など17の姓を称した。中国のユダヤ人については、開封のユダヤ人参照。
朝鮮民族(朝鮮族)、満州族 は別項参照。
歴史[編集]
紀元前121年春、漢の武帝は霍去病に命じて隴西を攻めさせ、匈奴の休屠王が天を祀る儀式に用いていた像「祭天金人」を手に入れた。同年秋、休屠王の太子日?は渾邪王とともに漢に降伏した。武帝は日?を寵愛し、休屠王の「祭天金人」にちなんで「金」を姓として与えた。金日?は漢の重臣となる。金日?と弟の金倫の末裔は「金」を姓とした。金日?の一族は武帝より七世にわたって内侍を務め、張湯の末裔とともに「金張」と並び称されて功臣世族の代名詞となった。
魏晋南北朝時代から隋唐にかけての貴族の時代、金氏の郡望(豪族として基盤を有する土地、のちに同じ祖先を戴く氏族集団の発祥地を示す)は彭城郡や京兆尹であった。
南北朝時代、金氏の中には現在の甘粛省に移る者がいた。北斉の大都督金祚は安定(現在の甘粛省涇川県)の人である。唐の貞観年間、益州蜀郡(現在の四川省成都市)の「三姓」の一つが金氏であり、汾州河西郡(現在の山西省臨汾市)の「四姓」の一つが金氏であった。
五代十国の一つである呉越では、初代皇帝銭鏐の諱である鏐(りゅう)と同音であることを避け、国内の劉姓の人(項伯の末裔)はみな「金」に改姓した。「劉」の字の頭の「卯」と旁を取り除いたものである。
宋から明の時代、金氏は南方では現在の浙江・江蘇一帯に発展し、現在の江西・安徽・湖南・湖北・福建・広東などに広がった。北方では、河南・河北・遼寧などの地域で金氏が集住する拠点があった。清朝の嘉慶年間より、閩・粤の金氏の中には台湾に移る者があり、またさらに海外(シンガポールなど)へと移住する者があった。
現代の台湾において、金姓の人口は第90位と多くはないが、台湾各地に暮らしている。大陸の金氏の台湾への移住は清代にはじまっているが、史料によればその出身地は時代によって変遷がある。山東に起源を持つ金氏は、まずは安徽・江蘇・浙江などに移住したのち福建・広東に至り、その後福建省を経て台湾に移っている。最初期に台湾に移った金氏は、清の嘉慶年間の金寿老で、台湾の金氏の始祖と見なされている。
Re: 『隋書』新羅伝 金真平(王名=金姓)…百済人…ユダヤ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009521M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 温祚王
同じやん!w
あれ、キシさん、反省の色ないみたいですw
コピペしたサイトのアドレスを消しただけという・・・
同じやん!w
Re: ギャロンの 「丹巴(たんば)」 と 日本の「丹波(たんば)」
管理人さんへのお返事です。
管理人さん、キシさんの投稿削除しにくいんなら、私が代わりに引き受けてもいいよ。パスワードちょうだいw
Re: これは管理人さんには少しショックかも...:劉邦ハプロはシナ系O-JST002611ではなく、O-F155。O-F155は国別割合で中国が100%で、したがって日本の渡来氏族のうちで漢皇室出を標榜するものは、全てが経歴詐称である。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009524M.jpg
管理人さんへのお返事です。
劉だけど別のハプロだった人、どうすんだろ?w
DNA人類学、怖いですねw
で、劉邦ハプロO-F155の兄弟ハプロO-F1754が日本におり、Family Tree DNAの国別割合で
日本人が8割を占める。O-F155は日本にはいない。
私の結果は今のところO-F438止まりだが、劉邦ハプロO-F155と日本人O-F1754との共通祖先O-Y17728まで出た日本人はいる。もう一度まとめて図示しておこう。
O-F438系統樹(※は兄弟ハプロの関係)。
O2a2b1a1 (M117/Page23)
・O2a2b1a1a (M133)←(日本=)チベット・ビルマ語族
・・O2a2b1a1a1 (F438)←日本・北京、私
・・・O2a2b1a1a1a (Y17728)←日本・中国、日本人に出ている
・・・・※O-F316←中国人の2%(サブグループで中国最大)、劉姓では全国平均の4倍の8%。
・・・・・・O2a2b1a1a1a1 (F155)←劉邦ハプロ(約2300年前起源)、国別割合で中国人=100%
・・・・・・・O2a2b1a1a1a1a (F813/M6539)←漢景帝(前188年ー前141年)の子孫。湘南・江西劉氏の95%。
・・・・・・・・O2a2b1a1a1a1a1 (Y20928)←光武帝劉秀(前5ー57年)の支脈。
・・・・※O-F1754(O-F313の兄弟ハプロ)←国別割合で日本=80%
劉邦ハプロの起源が紀元前300年なので、O-Y17728の起源時期は戦国時代だ。
劉邦はヤクザだが、ここで劉姓の起源を見てみよう。司馬貞は劉邦を「晋の士会の子孫」としている。
ウィキ先生:
起源
堯の子孫である祁姓(中国語版)の劉氏。堯の嫡流(堯の嫡男の丹朱、堯の長男の祁監明の子の祁式、堯の九男の祁源明の説があおる)の子孫が劉邑に封じられ、以来その地名を氏としたという。
祁姓劉氏からは、夏孔甲の代に龍を御する名手として劉累が現れている。龍の病死後、劉累は家族を伴って魯陽(現在の河南省魯山)に逃れた。これが河南劉姓の起源とされる(一説には、劉累の故地は河南偃師であったともいう)。
劉累の子孫からは、龍使いの職業を氏とした御龍氏、周初の「興滅継絶」の時期に堯の故地の唐を氏とした唐氏、周の成王が劉累の子孫を杜に移した杜氏、杜氏の杜伯(中国語版)の子の隰叔(中国語版)が晋に移り、士師に任じられたことから、官職を氏とした士氏(中国語版)、晋の士会(范武子)が范に封じられ、封地を氏とした范氏の各氏が出た。
他に姫姓劉氏もあるが没落した。
なるほど。
龍使いの劉累とかいうのは置いておいて、
そこから御龍氏と唐氏が出て、唐氏から杜氏が、さらに杜氏から士氏が出て有名な士会が范に封じられ范氏となる。
・御龍氏
・唐氏
・杜氏→士氏→范氏
すると、唐氏、杜氏のいずれかに日本のO-F1754もいるっぽい!!!
范は朝鮮姓でもあるが、2000年の国勢調査による韓国内での人口は発音の同じ凡と合わせて3,472人しかいないと言う。杜姓は韓国に6000人弱いる。始祖は宋太宗の代の兵部尚書杜慶寧で、杜慶寧は1004年宮池県に漂着して帰化したと言う。
Family Tree DNAの国別割合でO-F438が朝鮮半島にいないこととも合致する。
大学院時代に杜さんという北京からの美人留学生がいたので気になるw
ウィキ先生「杜氏」:
出自姜姓,神農氏的後代。相傳在商朝時已經有杜國,是神農氏的後裔後土的子孫,以杜樹為神樹,故稱杜,杜古國在今陝西長安東北。商末周國興起,杜人歸順于周。史書上沒有留下姜姓杜氏後裔的消息,可能完全融入進祁姓杜氏之中。
なるほど、祁姓と姜姓とがあるが、姜姓杜氏は祁姓に埋もれて行ったようだ。周成王が杜氏を西安郊外に移したというが、どこから移したのかは不明。
同じルーツとされる唐氏を調べると、唐とは中国中部・山西省の中部平原辺りを指す。
起源
從陶唐氏:陶唐為堯帝部落氏族的名稱,所以堯帝也被稱為唐堯或唐放勳。「陶」指陶器,是非常重要的發明和工具;「唐」在中國古代指目前中國中部、山西省的中部平原;堯帝的後代把姓氏由陶唐簡化為唐。
從周成王:在西周時,當周成王還是個孩子,他與弟弟叔虞玩遊戲,把一片葉子裁成玉珪的形?,送給叔虞,封他為唐侯(「唐」指目前中國中部、山西省的中部平原),一旁的周公立即請周成王選擇一個吉祥的日子,舉行冊封儀式;周成王指他們只是在玩遊戲,周公回答指國王不能?笑,因為王者的話會被史家記?,並舉行儀式;周成王便封叔虞為唐侯,從此叔虞便被稱作唐叔虞。[2],唐叔虞因此以「唐」作為姓氏。
除此之外,一些甘肅的回族人雖然姓唐,但他們是和改信伊斯蘭教的漢人結婚,並非因以上兩個起源而姓唐[3]。
とまー、劉邦ハプロO-F155の兄弟ハプロO-F1754と、共通祖先ハプロO-Y17728のルーツを探り、彼らの故地を山西省中部平原にまで特定できました。
山西ねぇ〜。そう言えば太原からの留学生に短期間中国語教わってわ。陝西省と内モンゴルは行ったけど、山西省はまだ回ってない。
しかし、yDNA的に自分があの!劉邦!にも関わるとは、、、
DNA人類学ってホント素晴らしいものですね!w
チベットの旧表記D1を日本のD2だとずっと勘違いして妄想してた秦野とかいう勝手解釈トンチンカンも今後どうするのだろう?www
秦野北斗さんへのお返事です。
> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 荊の紀氏さん、デタラメ翻訳をコピペしてますな。
>
>
チベットの旧表記D1を日本のD2だとずっと勘違いして妄想してた秦野とかいう勝手解釈トンチンカンも
今後どうするのだろう?www
Re: 同じやん!w
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
> あれ、キシさん、反省の色ないみたいですw
> コピペしたサイトのアドレスを消しただけという・・・
> 同じやん!w
そうなんですよね。全然まじめに聞いてくれないまま十数年が経ってしまいましたよ・・。
それを例えてたいえば、ジャンクフードをよく噛まずにに飲み込んでどんどん太っていく人がいて、奥さんがもう少しよく噛んでセーブしなさいと怒り続けているのに、まったく聞く耳をもたずに、俺は俺だ!大丈夫だ!と言い続けてきた人に似ています。
こういうとき、愛のある隣人たちはどう対処すべきなのか?が課題となりますが、やはりこのままではいけないよ!物事やりたい放題ではなく、よく自制して慎重に相手のことを思って物事を行うように勧めることしかできないと思うんですよね。
日本人のルーツさんはよくその点できしさんにいろいろ忠告してくださっていて頭が下がりますよ。私はあきれてしまって、ものも言えなくなってしまって、理解不可能な投稿については削除することしか考えていませんでしたからね・・・。
ただ、確かにきしさん流のスタンスなりコミュニケーション手段というのがあることはよく理解してるつもりですし、それを否定するつもりはないのですが、やはり多くの方が集まっている場ですから、それなりに協調性とか配慮といったものをもって投稿するのが大人としての在り方ではないでしょうか・・・。そんなことを思いますが、今後の参考にしていただければ幸いです。
思考の痕跡
あとね、これは管理人個人の思いなのですが、いわゆるコピペによる関連情報の羅列というのは、あまりありがたくないことがあります。
興味があれば、個々人でウィキペディアとかですぐ調べれる時代になってきてますから、それは自分で調べるんです。
それよりも、みなさんの投稿で重視したいのは、その情報群の中から、何を見いだせたのか?考えたのか?という結果をわかちあっていただきたく感じてます。
確かに的外れな結論とか、平凡な先人と同じ結論に至っているようなケースもあるかもしれませんが、それはそれで努力した結果だからいいと思うんです。
その思考の痕跡を、どこかに見出すことができれば、お互い切磋琢磨できてありがたいかなーと感じてます。
だから、ただ関連情報をコピペして貼り付けて終わりというのではなくて、その情報を集めた結果として、ご自身が何を考えたのか、その思考の痕跡を、ぜひわかちあっていただきたい、このことはきしさんへの今後の宿題として差し上げたいところです。すぐには無理かもしれませんが、努力してがんばっていただけることを期待しています。
Re: これは管理人さんには少しショックかも...:劉邦ハプロはシナ系O-JST002611ではなく、O-F155。O-F155は国別割合で中国が100%で、したがって日本の渡来氏族のうちで漢皇室出を標榜するものは、全てが経歴詐称である。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009528M.jpg
https://ctext.org/shiji/gao-zu-ben-ji/zh
否定の理由を羅列して頂ければ幸いです。
私は ユダヤ人渡来説 を支持しています。
否定する根拠が解りません?
参考HP
↓
ユダヤ人渡来説の真偽は?日本神話に見つけられるユダヤの痕跡 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsengoku-jidai-kassen.com%2Fshinwa%2F20171014%2F
聖書関連のDNAまとめ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fyohane.natsu.gs%2F00%25200%25200%2520dna1.htm
15代は 神功/応神 としてしばしば系図に書かれている。 ・・・ このあたりで D系統が入ったと思われる。
6. 古代日本のDNAと その性格(2) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fyohane.natsu.gs%2F00%25200%25200%2520dna6.htm
(参考リンク) INRI リバイバル・渡来人のDNA
INRI リバイバルについて /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fyohane.natsu.gs%2F00%25200%25200%2520inri.html
・・・・・ 渡来人時代の 日本の大リバイバル、 ”ユダヤ文化”ではなく 「福音」が いかに宣べ伝わったかについて
否定の理由を羅列して頂ければ幸いです。
Re: 同じやん!w
管理人さんへのお返事です。
> こういうとき、愛のある隣人たちはどう対処すべきなのか?が課題となりますが、やはりこのままではいけないよ!物事やりたい放題ではなく、よく自制して慎重に相手のことを思って物事を行うように勧めることしかできないと思うんですよね。
>
>
十数年ですか、大変でしたね。
「愛のある隣人として」ですか。管理人さんはキリスト教徒ですかね。
この点、クルアーンによると、キリストのような人格者はそういるものではないから、汝らは身丈にあわせて善行を行えば良いというスタンスです。気は楽です。
まー、隣人に愛を持って接して自分まで破滅することはないでしょう。
いずれにしましても、十数年も付き合ってあげたのだから、もう良いでしょう。彼についてはプロのカウンセラーないし精神科医に任せた方が良いと思います。
なので、私からのキシさんへの助言は、「ビョーイン行け!」。それだけです。
Re: 太公望に代表される姜姓羌人はO-M117のいずれのサブグループか。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009531M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009531_2M.jpg
管理人さんへのお返事です。
劉邦ハプロO-F155の兄弟ハプロが日本のO-F1754であることは判明した。
共通祖先ハプロO-Y17728のルーツは山西省中部平原。
O-F155は日本にはいないが、O-F1754は中国にも僅かにいる。残念ながらその分布地域は不明だが、今後その辺りも分かってくるはずだ。
ここで、もうひとつ気になるのが姜姓羌人だ。
彼らが殷代には既に山東に分布していたという事実は我々には驚きだ。
すでに羌族本体からずっと離れたところにいる。
臨淄辺りの山東にO-M117が高頻度だが、これは太公望由来と見て良い。
山東にも劉邦ハプロO-F155が多く3%を占めることは分かっている。
ただし、山東のO-M117の圧倒的多数は非O-F155となる。
姜姓羌人の中国東部での歴史は古い。
伐殷後の羌族諸侯らの山東進出とは別のルートの、もっと早いルート、つまり内モンゴル・ルートでやって来た可能性が高い。
鬼方の分布と重なる三関遺跡のO2=100%や遼河文明・夏家店上層文化のO-M117の存在から裏付けられる。
殷代の羌族は、陝西省北部から山西省中南部、河南省北部の斜めの地域に分布していた。
劉邦ハプロO-F155と日本のO-F1754の共通祖先O-Y17728のルーツを探り、彼らの故地を山西省中部平原辺りにまで特定できた。この辺りは、まさに殷代の羌族分布地域とも重なる。
太公望に戻る。
太公望が属した集団は、羌族の中の呂氏あるいは呂族である。
太公望・呂望は姜姓だが、姜姓と嬴姓が近い関係にあたることが窺われる。姓としては姜だが、氏としては嬴姓呂氏に属すのだろう。
呂国は河南省西部の南陽市の西にあった。
この呂から北上すると嵩山がある。嵩山からさらに北上すれば黄河となる。
商民族が西方進出する前は、黄河中流域から淮水の上流域にかけて、羌族が多数遊牧を行っていた。ちなみに、 嵩山の近くに、 禹王が築いたとされる陽城があり、羌族と夏王朝も歴史の上で重なる。
嬴姓徐氏のハプログループがO-M117であることは分かっている。問題はそのサブグループは何かということになるが、姜姓と嬴姓については劉邦ハプロO-F155も属すO-F438である可能性がある。姜戎・申戎は犬戎と盟友関係にあったというから、犬戎もO-F438かもしれない。
移動のシナリオはこうなる。
甘青地域から北東に進んだ古西戎人は黄河ループ北東端で古匈奴人とぶつかり、一部が南下して陶寺文化(O-JST002611であることが分かっている)を滅ぼして夏王朝を建設する。そのまた一部が東進して姜姓羌人になった。
となると、田氏による姜斉の簒奪によって、姜姓羌人は山東から日韓に流れたのだろうか。韓国にも姜姓がおり、慶州南道に集中している。辰韓・新羅の地域だ。ただし、朝鮮に流れたのは隋代だと言う。
参考
朝鮮の姜姓
本貫は文献上に100余本が伝わるが、系譜が明確なのは下記の7本である。みな慶尚南道・晋州姜氏の支派である。始祖姜以式は高句麗の兵馬元帥で、隋の軍隊を打ち破った名将である。
姜氏は河氏・鄭氏と共に晋州・晋陽の3大姓であり、特に河氏と共に地方の土姓である。人口割合は1960年の統計で50万人近い。
Re: 太公望に代表される姜姓羌人はO-M117のいずれのサブグループか。→→韓国・姜姓はO-F444か?関連して蘇伐都利うんぬん
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009532M.jpg
https://tol6560.tistory.com/247
>共通祖先ハプロO-Y17728のルーツは山西省中部平原。
山西省
>劉邦ハプロO-F155の兄弟ハプロが日本のO-F1754であることは判明した。
>共通祖先ハプロO-Y17728のルーツは山西省中部平原。
山西省
6世紀には、山西省にユダヤ人は数ヶ所のユダヤ教の教会を持つに至っていた。唐の時代にはユダヤ人の宗教は危険であるとされ、9世紀の中頃、広東で4万人のユダヤ人が殺された。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq13165206273
「「古代ユタ?ヤ人は日本に来ていた」都内で神戸平和研究所が講演会 」↓
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.christiantoday.co.jp%2Farticles%2F20420%2F20160409%2Fkobe-peace....
杣氏は、中国の仏教寺・白馬寺の建物に見られるメノラー、ハヌキアの写真を提示し、中国におけるキリスト教の痕跡について調査報告を行った。
Re: >共通祖先ハプロO-Y17728のルーツは山西省中部平原。
荊の紀氏さんへのお返事です。
> 山西省
> 6世紀には、山西省にユダヤ人は数ヶ所のユダヤ教の教会を持つに至っていた。唐の時代にはユダヤ人の宗教は危険であるとされ、9世紀の中頃、広東で4万人のユダヤ人が殺された。
>
うん、頑張ってるようだね!
向上心なく勝手解釈一辺倒の秦野よりは偉いよ。
まー、我々としては、知恵袋のシロウトの文章より、「山西省にシナゴーグが存在した」ことを確認できる資料が欲しいんだなぁ。知恵袋じゃホントか嘘が分からないでしょ?
Re: >共通祖先ハプロO-Y17728のルーツは山西省中部平原。
> 山西省
> 劉邦ハプロO-F155の兄弟ハプロが日本のO-F1754であることは判明した。
> 共通祖先ハプロO-Y17728のルーツは山西省中部平原。
>
その後、山西中部平原(汾河谷地)から東南に移動した。河南省北部。韋国を成す。
そこに御龍氏が封じられる。嬴姓徐国に関わる。
劉姓御龍氏。
遼河文明の龍。関係アリ。
龍*[m?]-roŋ、劉*m?-ru。関係アリ。
一応、Proto-Sino-Tibetanでは*m-bru(ŋ/k) (“dragon; thunder”)とされている。
上古音の劉m?-ruと近いね。
夏王・孔申が御龍氏という姓を与え、昔祝融氏の子孫が封ぜられた豕韋の地に封じた。
豕韋=河南省北部=羌族の分布地。関係アリ。
辰韓の辰も龍。
上古音の発音は、デュンまたはドゥル。関係アリ。
龍が!
時代と言う名の劉が!関係アリ。
山西省とユダヤ人。関係ナシw
Re: >共通祖先ハプロO-Y17728のルーツは山西省中部平原。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009537M.jpg
https://www.christiantoday.co.jp/articles/20420/20160409/kobe-peace.htm
Re: >共通祖先ハプロO-Y17728のルーツは山西省中部平原。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009538M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009538_2M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009538_3M.jpg
https://www.itsfun.com.tw/ 御龍氏/wiki-2905001-828059
Re: >共通祖先ハプロO-Y17728のルーツは山西省中部平原。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009539M.jpg
https://www.itsfun.com.tw/ 御龍氏/wiki-2905001-828059
杜氏 秦氏 丹波杜氏の源流…
秦氏は、酒造りの神様として日本各地に松尾神社を分霊しました。篠山市の南西に位置する松尾山の一帯に移り住んだ秦氏の子孫が、丹波杜氏の源流と考えられています。以来、丹波杜氏は松尾神社と深い縁をもち、灘へ出稼ぎに行く道中や、明治時代になってから全国の酒蔵に指導を求められて出向いた際に、松尾信仰を広めていったといわれています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fjp.sake-times.com%2Fknowledge%2Fculture%2Fsake_g_tanbasasayama
杜氏(とうじ、とじ)とは、日本酒の醸造工程を行う職人集団、すなわち蔵人の監督者であり、なおかつ酒蔵の最高製造責任者をいう。
秦氏(呂氏)、金氏と欽明天皇の実像 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fjapmasa778%2Fentry-12490282277.html
新羅王族は「金氏」が独占するが、「金」とは、國體黄金の管理に当たった職掌を表すもので、スキタイ系、ツングース系、ウバイド系が混交した清国、満州国皇帝・愛新覚羅氏ら女真族、そして現在の北朝鮮・金一族とも同族(八幡族)と仄聞している。また、欽明天皇の「欽」にも、「金」とのつながりを匂わせるものがある。
> さらに遡ると羌族夏王朝でのO-F438の位置付けは、御龍氏なりか?!その時O-F438が起源してたか分からんけど。
>
> 陶唐氏(祁姓)------御龍氏(祁姓)-----豕韋氏(祁姓)------唐杜氏(祁姓)------范氏、杜氏、劉氏、士氏、隨氏(隋氏)、留氏、金氏(部分)等
>
> 氏族
> 陶唐氏(祁姓劉氏)------御龍氏(祁姓劉氏)-----豕韋氏(祁姓劉氏)------唐杜氏(祁姓劉氏)
>
> 范氏
> ------范氏、杜氏、劉氏、士氏、隨氏(隋氏)、留氏、金氏(部分)等
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.itsfun.com.tw%2F%25E5%25BE%25A1%25E9%25BE%258D%25E6%25B0%258F%2Fwiki-2905001-828059
>
Re: 杜氏 秦氏 丹波杜氏の源流…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009542M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 梅山古墳
Re: 太公望に代表される姜姓羌人はO-M117のいずれのサブグループか。→→韓国・姜姓はO-F444か?関連して蘇伐都利うんぬん: しかし、韓国の姜姓の祖とされる姜以式は、中国史書に現れないことから疑義もあり、実在の疑わしい伝説の人物かもしれない。
> ん?偶然見つけたこの韓国語サイトでは、韓国の姜姓=O-F444となっている。
> 「O-M117+O-F444=O-M134として羌族」とした方が良いかな。そうすると、O-F444の一部がテュルク化ということになる。
>
しかし、韓国の姜姓の祖とされる姜以式は、中国史書に現れないことから疑義もあり、実在の疑わしい伝説の人物かもしれない。
ウィキ:姜以式
姜以式(きょう いしき、カン・イシク、朝鮮語:???)は、晋州姜氏の始祖と高句麗の嬰陽王時代の将軍と記録されている。晋州姜氏の系譜とそれを基にした後代の資料のみに登場する人物で、他の国内外の資料では全く散見されておらず、実在が疑わしい。
中国語版:
姜以式是高句?平原王、?阳王和?留王的大将。他被??是?国晋州姜姓的祖先。姜以式是朝?半???人物中国史?无相???。
したがって、今のところは、仮に韓国の姜姓がO-F444だとしても、実在の姜子牙(太公望)まで同じと考えることはできないだろう。日本の東漢氏などが漢皇室出を標榜したのと同じ類いかもしれない。
山東省にももちろんO-F444はいる。
だが、それよりは、斉の都があった臨淄地区でO-M117が高頻度であることに注目した方が良いだろう。
Re: 杜氏 秦氏 丹波杜氏の源流…
秦野北斗さんへのお返事です。
> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 秦氏は、創作で存在しない。欽明天皇も日本には存在しない、梅山古墳は欽明天皇の陵でない。
> 荊の紀氏さん、シッカリしろ。秦じゃなく、奉るになる。
>
おいおいw
はたから見て、キシ君の方がお前よかまだマトモだよ。
なにしろお前は、日本人y-Dが日本から逆走してユダヤ人になったなんて思ってんだから、ね。
創作通り過ぎて「夢うつつのせん妄状態」w
>姜姓はO-F444か?関連して蘇伐都利うんぬん…
>[9548] Re: 太公望に代表される姜姓羌人はO-M117のいずれのサブグループか。→→韓国・姜姓はO-F444か?関連して蘇伐都利うんぬん: しかし、韓国の姜姓の祖とされる姜以式は、中国史書に現れないことから疑義もあり、実在の疑わしい伝説の人物かもしれない。
蘇伐 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fyourei.jp%2F
蘇我氏が倭漢氏=東漢氏である可能性 No217https://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/693d26d45972fcf89e3a187eb5dec169
東女国 (とうじょこく) 羅刹国 - 近世以前の日本人が南方に存在すると考えていた架空の島国の名称。 女国 - 西チベットに存在した女王国。シャンシュン王国に比定する説が有力。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fyoshi_iltuki%2Fe%2F693d26d45972fcf89e3a187eb5dec169
羅刹国(らせつこく)は、近世以前の日本人が南方(もしくは東方)に存在する信じていた架空の土地(島)の名称である。東女国(とうじょこく)とも書かれ、後には女護ヶ島伝説とも結びついて、女人島(にょにんじま)などとも呼称された。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnagaichi.hatenablog.com%2Fentry%2F20070707%2Fp3
西羌の別種である。西海中に別の女国があるため、東女と称した。女を王とした。
彼らの思いのままに動く秘密結社 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1429
Re: 杜氏 秦氏 丹波杜氏の源流…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009551M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 秦河勝
チベット・ビルマ(TB)語の語族形成期にO-F444も関わったか否かは難しい問題だ。
荊の紀氏さんへのお返事です。
> >[9548] Re: 太公望に代表される姜姓羌人はO-M117のいずれのサブグループか。→→韓国・姜姓はO-F444か?関連して蘇伐都利うんぬん: しかし、韓国の姜姓の祖とされる姜以式は、中国史書に現れないことから疑義もあり、実在の疑わしい伝説の人物かもしれない。
>
> 蘇伐 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fyourei.jp%2F
> 蘇我氏が倭漢氏=東漢氏である可能性 No217https://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/693d26d45972fcf89e3a187eb5dec169
> 東女国 (とうじょこく) 羅刹国 -
>
うん、頑張ってるね!コピペしたい感情を制御してる。そう、まずは1投稿10行程度に収めて書くと良い。今回は1行オーバー。今は守・破・離の守の段階だと心得ること。
さて、チベット・ビルマ(TB)語の語族形成期にO-F444も関わったか否かは難しい問題だ。
O-F444が見られるTB集団もいることにはいる。
チベット南東部からインド・アルナチャル州に分布するデン人(Deng:ピンイン読みなら「ドゥン」が適当か)には、O-F444が3割も存在する。彼らは最初期にチベットに入ったTB系だと考えられている。D1a=2%。
「知乎」より。
O2a2b1a1-M117(5000年前)
O2a2b1a1a-M133
O2a2b1a1a6-CTS4658 ?、藏、?西、彝
O2a2b1a1a5a-CTS9678 周文王多支后代的???果属于O-M117-CTS9678?个?倍群
O2a2b1a1a1a1-F155 多支刘邦后代的???果属于O-M117-F155?个?倍群
このようにO-M117が5000年前の起源だとしたら、O-M117+O-F444=O-M134自体をチベット・ビルマ語の語族形成時期のハプログループと見ることも可能だ。
一方、同じく「知乎」からYfull M117各支系共祖推算。これだと微妙だ。
如果F666,y-str估算的~3300比?接近事?的?。4.5万年前的Ust-Ishim至F666?存在~380个snp突?,依据此估算的年代:Ust-Ishim ~45,000(C14估算)
---NO-X ~44,346
---NO ~39,114
--- O ~32,683
---O-M122~29,849
---O-M134 ~17,750
---O-M117 ~13,281
--- M1706 ~5,433
--- CTS1642 ~4,997
--- CTS5063 ~4,561
--- CTS7634 ~5,215
CTS7634/F3599 F317(Oα3)~3,362
--- F438(Oα1) ~5,215
--- F438 F316(Oα1a)~3,253
--- M1726 ~5,324
--- Y8389 ~5,324
--- F666(Oα2) ~3,312(Y-STR估算)
しかし、O-F444も加えればO-M134=日本1割として重みが出るのは確か。
北九州では2割になり、華夏・西戎族=天孫・天神族としても正統性は増える。
Re: >姜姓はO-F444か?関連して蘇伐都利うんぬん…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009553M.jpg
http://yourei.jp/
Re: 太公望に代表される姜姓羌人はO-M117のいずれのサブグループか。
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
> 管理人さんへのお返事です。
>
> 劉邦ハプロO-F155の兄弟ハプロが日本のO-F1754であることは判明した。
> 共通祖先ハプロO-Y17728のルーツは山西省中部平原。
>
なるほどですね。しかし劉邦という人物は、どうして項羽に対抗できたのかな・・・。
出生
泗水郡沛県豊邑中陽里(現在の江蘇省徐州市豊県)で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生した。長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。生年については2説ある。
劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。その夢の後に劉邦が生まれたという。また、諱の「邦」は『史記』では記されておらず、現在に残る文献で一番古いものでは後漢の荀悦『漢紀』に記され、『史記』『漢書』の注釈でそれを引用している[3]。出土史料から諱が「邦」であったことはおそらく正しいと思われる。また、字の「季」は「末っ子」のことである[4]。
劉邦は鼻が高く、立派な髭をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたという。また、太股に72の黒子があった。72とは1年360日を五行思想の5で割った数で、当時ではかなりの吉数である。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%258A%2589%25E9%2582%25A6%23%25E5%2587%25BA%25E7%2594%259F
ややコーカソイド風の風貌ですね。西域系の中国人だったのかな?それが徐州まで東遷していったその末裔の可能性がありますね。
劉邦の配下の蕭何という人物が有能だったようですね。豊県の出身。
蕭何
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E8%2595%25AD%25E4%25BD%2595
豊県(ほう-けん)は、中華人民共和国江蘇省徐州市に位置する県。江蘇省・山東省・河北省・安徽省の境界に位置する。漢朝を創始した高祖劉邦と相国蕭何・燕王盧綰らの出身地であり、りんご・梨・山芋・ごぼう・アロエなどの生産と農産物の加工が盛んで、蘇北の果都として知られ、海外にも多く輸出されている。
歴史
秦代には豊邑と称され沛県に属した。前漢により豊県が設置された(一説には秦末に設置)。南北朝時代になると宋により廃止されたが、457年(大明元年)に再設置されている。
1949年から1952年にかけては山東省の管轄とされた。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E8%25B1%258A%25E7%259C%258C
徐州は日本とも縁が深い地域。ご指摘の劉邦ハプロと日本人の接点はこの辺にあったのかな?
Re: 太公望に代表される姜姓羌人はO-M117のいずれのサブグループか。
管理人さんへのお返事です。
> これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
>
> > 管理人さんへのお返事です。
> >
> > 劉邦ハプロO-F155の兄弟ハプロが日本のO-F1754であることは判明した。
> > 共通祖先ハプロO-Y17728のルーツは山西省中部平原。
> >
>
> なるほどですね。しかし劉邦という人物は、どうして項羽に対抗できたのかな・・・。
>
そうですね。
亭長という一介の小役人がいかにして大衆を動員できたかですね。自然発生だけでは片付けられない問題です。
類推ですが、伝統社会の市場経済化に際しても見られるように、従来の部族・氏族制が崩壊して新しい利益のネットワークみたいなものがあったのではないかと予想します。
あと漢も踏襲するのですが、秦が敷いた郡県制も寄与してるでしょう。長の公務員化です。
途上国のクーデターに際しても良く見られますが、州の長が静観の態度を取るのです。
この辺りのことが書いてある本があれば読みたいですが。
> 劉邦は鼻が高く、立派な髭をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたという。また、太股に72の黒子があった。72とは1年360日を五行思想の5で割った数で、当時ではかなりの吉数である。
> ややコーカソイド風の風貌ですね。西域系の中国人だったのかな?それが徐州まで東遷していったその末裔の可能性がありますね。
>
O-M117との関係で考えられるのは徐戎ですが、形質は個人差も大きいので、それは考えすぎでしょう。あり得るのは、劉氏も嬴姓徐戎だったが、後に祁姓に編入されたこと。同じ祁姓の杜氏も姜姓から編入された経緯があります。
Baidu百科:徐戎
?夷之一。夏至周分布于今淮河中下游。周初建立徐国,在?夷中最称?大,曾数次?合淮夷等抗周。春秋?曾?楚所?,周敬王八年(公元前512年)?吴国所并。
ウィキ:徐国
周朝?侯国
国君之姓嬴姓
爵位侯爵,周穆王?改成子爵
国都今江?省宿迁市泗洪?
始封此國者夏朝启后
?始年前21世?
始祖若木
?亡年前512年
亡国之君章禹
?亡原因被?國所滅
史???
荀子.非相篇
史記(卷4周本紀)、(卷5秦本紀)
楚辭.七諫.沈江篇
春秋左氏傳(始見於莊公二十六年)
徐国,是西周、春秋?代的?侯国之一,国君?嬴姓。又稱徐戎,亦稱徐夷或徐方,為淮夷中最?的一支力量。夏代至周初,分布在今山?郯城一?。周公?征之后,被迫迁至今安徽泗?、江?泗洪一帶,建立徐國。徐国在周穆王?期春秋時為周楚國??所敗,于前512年為?國所消滅。考えられる
Re: 太公望に代表される姜姓羌人はO-M117のいずれのサブグループか。:東海の嬴姓・姜姓諸国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009556M.jpg
> ウィキ:徐国
> 周朝?侯国
> 国君之姓嬴姓
> 爵位侯爵,周穆王?改成子爵
> 国都今江?省宿迁市泗洪?
> 始封此國者夏朝启后
> ?始年前21世?
> 始祖若木
> ?亡年前512年
> 亡国之君章禹
> ?亡原因被?國所滅
> 史???
> 荀子.非相篇
> 史記(卷4周本紀)、(卷5秦本紀)
> 楚辭.七諫.沈江篇
> 春秋左氏傳(始見於莊公二十六年)
>
この地域は、日本人のルーツを考える際に重要です。
なにしろ、中国人で日本人に最も近いのは山東・江蘇の漢族ですから。
実は、山東省一帯は姜姓と嬴姓だらけなのです(図)。
徐福も、秦の始皇帝と同じ嬴姓だとされています。
ただし、徐姓は2種類あります:
(1) 殷・子姓系(殷民六族:条氏、徐氏、?氏、索氏、?勺氏、尾勺氏)
(2) 嬴姓・徐国系
嬴姓諸国は、戦国時代七雄の秦と趙の二国ですが、春秋時代の東海地方にも多くの「嬴姓諸国」がありました。
春秋時代に王号を称した徐国は、九夷の雄だった風夷の子孫もいたでしょうが、
元来は嬴姓であったと考えるべきでしょう。
起源は夏王朝にまで遡る、夏族と同じ東羌族のうち最も東に展開したものです。
許姓にも同じく子姓と姜姓の2つがあります。
呂は嬴姓です。太公望は姜姓ですが姓は嬴姓・呂です。嬴姓から独立して立てられた姓かと思います。その他、申は姜姓です。
さらに、燕のキツ(女偏に吉)も甘粛起源の西戎です。
おそらく、徐も許も、元はそれぞれ嬴姓・姜姓であったものが、
殷代になって支配者である子姓を名乗るようになったものも現れたのでしょう。
劉氏も、同系の杜氏に姜姓がいることからして、嬴や姜といった東羌族の改姓だと見られます。
Re: 太公望に代表される姜姓羌人はO-M117のいずれのサブグループか。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009557M.png
図:土家族のガッキーこと龍夢柔さん
O-M117
O-M133
O-F438(Oα1) ~5,215
この起源時期を採れば、O-F438は紀元前3000年頃の起源で、夏王朝の時には出現している。
夏王朝の遺跡の古人骨が解析されるようなことがあれば、
この夏王朝の遺伝子にO-F438も含まれる可能性もある。
O-F438は東遷した古西戎人の先駆けに属する。
その場合、夏王朝崩壊に際して半島方面に流入したということもあり得るのである。
実際、王克林など夏王朝崩壊を中国最初の民族移動期と見る学者もいる。
嬴姓や姜姓とともに、?姓もO-F438の可能性がある。もとより、夏の創始者・禹の姓である。
例えば、盧という国。牧誓八国の1つとしても有名だ。
?姓あるいは姜姓だと言う。湖北省北部とも山東省済南付近にあったとも伝わる。
湖北・湖南は、古風なチベット・ビルマ語のヅォルガイ語を行う土家族の分布地域であり、
土家族と言えばO-F438が多い民族。のみならず、日本人のO-M188の型も土家族のものと一致するとも言う(ウィキO2項)。
盧国、斯盧国、末盧国、土家族、龍夢柔さん、龍、劉、辰国、龍夢柔さん…
何か関係アリ気だと感じるのは私だけではなかろう。
Re: 太公望に代表される姜姓羌人はO-M117のいずれのサブグループか。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009558M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 劉邦#出生
? ジ(姒 )…
姒古代中国祖だった児島祖の証拠はあるのか? ジ(姒 ). 勾践(こうせん、姒勾踐(じ・こうせん)、? - 紀元前465年)春秋時代後期の越の 王。 姒勾践(じ・こうせん)・・・越国・監国太子の後、越王 ... 家門を過ぐれ ...
児島祖は姒古代中国祖も姒氏 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fd.hatena.ne.jp%2Fmuoon%2F20111204
ジ(姒). 勾践(こうせん、姒勾踐(じ・こうせん)、? - 紀元前465年)春秋時代後期の越の 王。
姒勾践(じ・こうせん)・・・越国・監国太子の後、越王 ... 家門を過ぐれども入らずかこう うじせいぶんめいこんせんぎょく夏后氏禹は姒姓. なり。 ... 名は、文命(ぶんめい)、大禹 、夏禹、戎禹ともいい、姓は姒(じ)、夏王朝創始後、氏を夏后とした。文命文氏 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F6245.teacup.com%2Fkojimakousi%2Fbbs%2F307
>「季」は「末っ子」のことである[4]。
倭王の姓は「倭」
太王は季歴を周王として立て、ついで位を昌に継がせたいと思った。そこで太伯と仲雍の二人は南方荊蛮の地にはしり、入墨をし断髪して野心のないことを示し、季歴から遠ざかった
季歴之兄也。季歴賢、而有聖子昌、太王欲立季歴以及昌、於是太佰?仲雍二人乃・荊蠻、文身斷髮、示不可用、以避季歴。季歴果立、是為王季、
秦 ハタ
?「倭国」(やまとのくに:源流を中東の「ハッタイト」に置き、「秦氏」と呼ばれる)
現在の和歌山付近を拠点にしていたとされる「州」で、近畿および中部地方(岡山県から和歌山県、三重県や愛知県などの範囲)にかけて勢力下に置き、その「都」は現在の「堺」付近にあったとされる。
※1.「ハッタイト」は、中東地域(エジプトやトルコなど)においてピラミッドの建設や今の技術を持ってしても建築が不可能だとされる神殿などを造ったと言われている民族で、ユダヤ12支族(北イスラエル王国10部族と南ユダ王国2部族)の1つを構成する部族であるともいわれており、“頭脳集団”や“技術集団”としての流れを色濃く残す民族であるとされている。
「ハッタイト」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F4052
>南方系の天孫族 ・・・海人?
月・・・月氏?
月氏 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%259C%2588%25E6%25B0%258F
月氏(げっし、拼音:Yuèzhī)は、紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア、中央 アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央 アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。大月氏時代は東西交易で栄えた。
イシク湖周辺へ逃れて大月氏となり、もうひとつが南山羌(現在の青海省)に留まって小月氏となった。
当時の 中国の西域には、大月氏、大宛(たいえん)氏、大夏(たいか)といった人々がいたと言う 。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.ne.jp%2Fasahi%2Fdavinci%2Fcode%2Fhistory%2Fhadano%2Findex4.html
日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が、 朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったという。
秦氏が陸路ではなく海路で朝鮮半島や日本に来た可能性もある。
歴史の陰に秦氏あり・・・ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fuzumasa-1962.cocolog-nifty.com%2Fblog%2F2014%2F02%2Fpost-b573.html
何故「委」をつけたのか? 中国のネットによると「魏姓の源は西周の初期、周の成王が分封した?(姫)姓伯爵諸侯国の魏国」に由来するようである。?(姫)姓は女偏がつき母系氏族社会に起源をもつ姓とされる。その?(姫)姓諸侯国のひとつが母系氏族を表すために女の字が入った委をつけて姓や国の名としたのではないだろうか。
なお、巍の音符は「委イ」とする説(説文解字)と、「嵬カイ・ガイ・ギ」とする説(字統)がある。日本語の発音からは「嵬」説が納得できるが、現在の中国語は委(wěi)と同じ発音(巍wēi)である。本稿ではとりあえず音符「委」に含めた。
意味 (1)たかい。山がたかく大きいさま。抜きんでるさま。「巍峨ギガ」(高くそびえけわしい)「巍巍ギギ」(高く大きいさま)「巍然ギゼン」(高くそびえるさま。人物がひときわすぐれているさま)「巍闕ギケツ」(宮城の門外に設けられた二つの台。上に物見やぐらがある)
魏 ギ 鬼部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fd54b192c223e1a1bb600e10a9e17d690
解字 巍を参照のこと。
意味 (1)姓のひとつ。 (2)国名。?戦国時代七雄の一つ。現在の山西省西部に建国。のち秦に滅ぼされた。(前403-前225)?三国時代、曹操の子・曹丕が建てた国。(220-265)「魏志ギシ」(『三国志』のうち魏の歴史を記した部分)「魏志倭人伝ギシワジンデン」(「魏志」の東夷の条に書かれている日本についての記述) (3)たかい。高く大きい。(=巍)
> 東女国 (とうじょこく)答え出ませんか・・・AI君なら出来るかも 頑張れ
「東鯷国=南九州」説に訂正している。
「東鯷人」とは、何者でしょうか。 辞書で引けば「鯷」は?なまず″です。しかし?東 の「なまず」の人″では、何のことかわかりません。 そこで「魚へん」を?取って″みまし た。「倭人」の「倭」が志賀島出土とされていた金印では「イべん」が ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww3.kitanet.ne.jp%2F%7Enihirata%2F20111024.html
東鯷国=南九州」という新しい古田説をそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。その根拠を知りたいと思っていた。その説は『邪馬壹国の論理』(ミネルヴァ版)の『日本の生きた歴史(4)第4「誤認」論』で論じられていた。
、「東鯷人」とは、?東のはしっこの人″という意味となります。
会稽郡の外、つまり東シナ海に「東鯷人」と呼ばれる住民がいて、あの「倭人」と同じように、年々、きまった時に、中国へやって来る、というのです。この「東鯷人」とは、何者でしょうか。
辞書で引けば「鯷」は?なまず″です。しかし?東の「なまず」の人″では、何のことかわかりません。
そこで「魚へん」を?取って″みました。「倭人」の「倭」が志賀島出土とされていた金印では「イべん」がなく、「委」とされているのは、有名です。(第一回「日本の生きた歴史」参照)
三国志の魏志倭人伝でも
?狗邪韓国→対海国(度)
?対海国→一大国(渡)
?一大国→末盧国(渡)
となっています。「度」と「渡」と「共用」もしくは「混用」です。
ですから「鯷」も「魚へん」を?取り除き″、「是」で見ますと、?はしっこ″の意味です。音は「ティ」です。例の「土堤(どて)」の「是」だったのです。
とすると、「東鯷人」とは、?東のはしっこの人″という意味となります。
はしっこの人
南耑. はし・・会稽 東鯷(はし)・・・
耑・・・正しい位置・坐? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1811
禹は帝顓頊の 孫にあたる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%25A6%25B9
【鯀】より
…顓頊(せんぎよく)ののちとされるが,顓頊は〈死して蘇(よみがえ)る〉神,すなわち洪水神で,魚形の神であったらしい。鯀は治水に失敗して放逐され,その子である禹(う)が大洪水を治めて夏(か)王朝をひらいた。禹も顓頊と同じように,偏枯(へんこ)にして魚形の神とされる。…
【紹興】より
…城壁の内外にクリークが通じ,中国屈指の水の都として知られる。伝説によれば,禹(う)は全国の治水事業を終えたあと,諸侯をこの地に集め会計(会議)を行い,そのために会稽(計と稽は同音)と呼ばれるようになったという。これはこの地域が,治水の対象となるような中国世界の南端にあったことを意味する。…
>南端・・・会稽
> 南耑. はし・・・正しい南の位置?
>(1) 殷・子姓系(殷民六族:条氏、徐氏、?氏、索氏、?勺氏、尾勺氏)
?勺
杓?と鯷の関係・・・似ている> 楚人(東鯷人)の渡来以前に国を作っていた呉人(倭人)は、鯰を別の言葉で呼んで いたはずです。 それが「シャク、サク、タク」ではないでしょうか。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F3234
東鯷人・・・秦氏? 杓?と鯷の関係・・・似ている>
楚人(東鯷人)の渡来以前に国を作っていた呉人(倭人)は、鯰を別の言葉で呼んで いたはずです。 それが「シャク、サク、タク」ではないでしょうか。 シャクは、元々「澤(沢) 」という文字で表されたと考えられ、「光潤うなり。(説文解字)」、「めぐみ」という. /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.eonet.ne.jp%2F%7Etemb%2F5%2Fkika_3.pdf%23search%3D%27%25E9%25AF%25B7%2B%25E8%25A7%25A3%25E5%25AD%2597%27
(無題)
管理人さん、キシ氏のビョーキ再発です!www
秦野みたいに何の論拠もなしに自分の奇説をポンと出しっぱなしというのも問題だが、
君のコピペ三昧スタイルも大いに問題がある。何を主張したいのかコチラには全く伝わらない。
最後に所見でも書けないかな?
>楚人(東鯷人)の渡来以前に国を作っていた呉人(倭人)は、鯰を別の言葉で呼んで いたはずです。
鮧魚…鮧(エソ)…イ,テイ…イ(彝)族 氐族
魚 + 夷(テイ・イ)
夷イ・えびす大部解字甲骨文は、矢に紐がまいている形。獲物に矢が当たると、紐が獲物にからみつくように工夫された、「いぐるみ」という紐のついた矢を表す。金文も矢羽の部分が変化しているが同じ形。
意味 (1)えびす(夷)。東方の未開の異民族。「東夷トウイ」(東方の未開民族)「夷狄イテキ」(東方と北方の未開人。野蛮人。また、外国人をさげすんだ言い方)(2)たいらげる。平定する。たいらか。「夷滅イメツ」(逆らうものを平らげ滅ぼす)(3)[国]えみし。えびす。都(奈良・京都)から見て東方の未開人。「蝦夷えみし・えぞ」(北海道の呼称、蝦夷地。また、古代の奥羽から北海道にかけて住み、大和朝廷に従わなかった人々)。(4)[国]えびす(夷)。七福神の一つ。恵比寿・蛭子・戎とも書く。漁業と商業の神。「夷講えびすコウ」(えびすを祭り祝う行事)
イメージ 弓矢を扱う「異民族」、紐をつけた矢から「矢を射る」イメージがある。
「異民族」(夷・姨) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F34e7beff4022c8f4e9ba4f875622027a
「矢を射る」(痍)
「同音代替」(洟)
夷(テイ・イ)…
イ族の用語解説 - 中国の少数民族。中華人民共和国での公称はイ(彝)族。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
氐(てい、拼音:Dī/Dǐ)は、かつて中国の青海湖(現在の青海省)周辺に存在した民族。チベット系というのが有力で、紀元前2世紀ごろから青海で遊牧生活を営んでいた。近くには同じく遊牧を生業とする羌族がいた。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
イ(彝)族 彝族の新年 イ族の干支(えと)は60日周期で、12の動物も漢民族や日本とおなじ顔ぶれですが、 鶏、猪、牛、龍などの日はよくなく、彝年を迎える吉日として選ぶことはなく、猴、犬、 鼠、虎の日が吉日とされ、彝年はそれら ...
臣・子 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F230
氐族
故亥皇帝, 紀元前210−207年(在位) ... 滅亡後に流浪した前秦国人末裔が百済経由で 396年の来朝は、氐族が漢土西方出身で年代的にも符合する。 秦氏が祭る神の国・その謎 ? 秦氏とその民―渡来氏族の実像. (2)坂上氏や大蔵氏は後漢霊帝の末裔か ...
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.myj7000.jp-biz.net%2Fq%26a%2Fkikajin.htm
383年肥水の戦いで大敗北を喫して長安を放棄して衰退に向かい394年後燕に併合される。
滅亡後に流浪した前秦国人末裔が百済経由で396年の来朝は、氐族が漢土西方出身で年代的にも符合する。
テイ - Wikipedia
歴史 - 習俗 - 主な人物 - 関連項目
本来の表記は「氐」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものと なっています。 ... チベット系というのが有力で、紀元前2世紀ごろから青海で遊牧生活 を営んでいた。近くには同じく遊牧を生業とする羌族がいた。 ...
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2583%2586%25E3%2582%25A4
氐(てい、拼音:Dī/Dǐ)は、かつて中国の青海湖(現在の青海省)周辺に存在した民族。チベット系というのが有力で、紀元前2世紀ごろから青海で遊牧生活を営んでいた。近くには同じく遊牧を生業とする羌族がいた。
羌(きょう、拼音:Qiāng)は、古代より中国西北部に住んでいる民族。西羌とも呼ばれる。現在も中国の少数民族(チャン族)として存在する。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%25BE%258C
羌の主な種族 [編集]無弋爰剣から分かれた種族は約150種にのぼるとされ[2]、そのすべてが史書に記されたわけではないが、以下に主な諸族を記す。
日本では『和名抄』が鯷に比之古(ひしこ)の訓を与えて以来、ヒシコイワシ、カタクチイワシとされている。この用法はそのまま現代の中国でも使われている。鯷は装いを新たにした「里帰り漢字」の一つである。
[正しい語釈](案)
ナマズ科ナマズ属の淡水魚。中国特産のナマズの一種。長江などに生息する。体長は1メートルに達する。オオナマズ。大口鮎。河鮎。Silurus meridionalis/「ひしこ」は国訓。
典拠:『戦国策』趙策「鯷冠秫縫」(注釈に「鯷は大鮎。其の皮を以て冠と為す」)
魚の名の漢字(21)「鯷」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Frijitin.livedoor.biz%2Farchives%2F7355458.html
「鯷テイ」
前漢代(紀元前2世紀)に成立したとされる爾雅は「鮎」に「別名は鯷、江東通は鮎を呼びて鮧となす。」という説明を付けている。太平御覧は、「永嘉郡記(南朝宋400年代)曰く、漈湖渓中に大鮎多し、昔、流れに一死を得る有るは鬚 ...
鮎(デン、ネン)は鮎(あゆ)ではない /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.eonet.ne.jp%2F%7Etemb%2F9%2FRi%2FRi.htm
日本書紀、神功皇后摂政前記には、次のような話がある。「火前(肥前)の国の松浦県に着いて、玉島の里の小河のほとりで食事された。皇后が針を曲げて釣針を作り、米粒を餌に、着物から糸を抜いて釣り糸にして、川の石の上に登って針を投げ、占って言われた。『私は西にある宝の国を求めようと思う。もし事が成るなら、川の魚は釣り針を飲みなさい。』竿を上げると細鱗魚を獲た。」、古事記では年魚を釣り上げたことになっている。
アユを表す漢字がなく、細鱗魚、年魚と書いたらしい。鱗を気にせずそのまま食べられるし、一年で死ぬから、この呼び名はなるほどと思わせる。現在の中国では、細鱗魚はイワナやヤマメの類。年魚はナマズである。粘、鮎(ネン)と同音ということであろう。古代にこういう呼び名はなかったようである。
鮎 (あゆ)鮧…
うるか【鱁 = 鮧 / 潤香】 の解説 鮎 (あゆ) のはらわたや卵を塩漬けにした食品。
「東鯷国=南九州」説 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F3154
「東鯷」とは「倭」の東、
[3824] 論文紹介|古代のキクチ一族の謎 https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/3824
Re: (無題)
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
>何を主張したいのかコチラには全く伝わらない。
人の話が理解できないのには理由があった! 9つの原因と解決法 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fpsychology-japan.com%2Fmake-sense.html
人の話が理解できないと感じる原因は?
知識不足で言語がわからない
自分がわかる量以上に説明をされる
自分に聞く気がない
相手が嫌い
体調が悪い
人の話が理解できない病気とは?
ADHD
うつ病
認知症
自閉症スペクトラム障害
人の話が理解できない時の解決法は?
話を聞くことに集中する
メモを取る、自分で調べる
わからないことを明確にして確認する
視覚的な理解を深める
人の話を理解するために日頃から気を付けることは?
生活を整える、睡眠を整える
ストレスを減らす
人ではなく話にフォーカスする
病院に行く
> 管理人さん、キシ氏のビョーキ再発です!www
>
> 秦野みたいに何の論拠もなしに自分の奇説をポンと出しっぱなしというのも問題だが、
> 君のコピペ三昧スタイルも大いに問題がある。何を主張したいのかコチラには全く伝わらない。
> 最後に所見でも書けないかな?
Re: キシ氏の投稿
・・
長いのが難だけど、おもしろいですよ。
>典拠:『戦国策』趙策「鯷冠秫縫」(注釈に「鯷は大鮎。其の皮を以て冠と為す」)
魚の名の漢字(21)「鯷」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Frijitin.livedoor.biz%2Farchives%2F7355458.html
「鯷テイ」
前漢代(紀元前2世紀)に成立したとされる爾雅は「鮎」に「別名は鯷、江東通は鮎を呼びて鮧となす。」という説明を付けている。太平御覧は、「永嘉郡記(南朝宋400年代)曰く、漈湖渓中に大鮎多し、昔、流れに一死を得る有るは鬚 ...
鮎(デン、ネン)は鮎(あゆ)ではない
・・
Re: キシ氏の投稿
山田さんへのお返事です。
> ・・
> 長いのが難だけど、おもしろいですよ。
>
> >典拠:『戦国策』趙策「鯷冠秫縫」(注釈に「鯷は大鮎。其の皮を以て冠と為す」)
>??魚の名の漢字(21)「鯷」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Frijitin.livedoor.biz%2Farchives%2F7355458.html
そうそう、長くなければなんですけどね〜〜。巨大な文字の壁が毎日目の前に現れると、それを取り除きたくなるのは人間の本能です(笑) それが理解できないのが彼の問題なのかな・・・。貴重な情報があってそれを知らせたいと思っても、その周りの雑多な情報がその価値を落としてしまう。物事を相手に伝えるときは、優先順位と整理整頓を意識すること、これを学んでほしいものです。
九夷の原点…
九夷の原点は、前20世紀、東アジアの中国に突如として姿を現した、9つの部族からなる異国人の集団にあります。九夷については畎夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷と9部族の名前が具体的に挙げられるも、抽象的な名称しか用いられていないことから、その実在は疑う声もあがっているようです。しかしながら夏王朝と同時期、西アジアで勢力を持ちはじめたイスラエル12部族も、年の月や、個別の色に結びついてそれぞれの部族がシンボル化されていました。
九夷の原点に潜むシュメール人東夷に合流するイスラエル難民東夷の背景に潜むイスラエル文化諸子百家は博学なイスラエル人
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.historyjp.com%2Farticle.asp%3Fkiji%3D91
>「東鯷」とは「倭」の東、
西の風神は(イ彝)。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%3F
「イ族は人種的には漢族やほかの少数民族と異なり、大柄でアラブ系的な彫りの深い顔つきをしている。
西戎(秦・彝)
日本人のルーツ(秦氏) ... 氏は省略): 9C初 「新撰姓氏録」ヨリ 皇別 ;蘇我・葛城・平群 ・巨勢・吉備・春日・和邇・出雲等 平安期:源、橘,阿倍、高橋等 神別 :大伴・物部・中臣 ・越智・忌部・尾張等 平安期:藤原、越智、 ... 《 秦氏の系統の名前 》 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Ftorahiko-diary.cocolog-nifty.com%2Fblog%2F2007%2F07%2Fpost_0484.html
古代の歴史−大国主神
船(和邇)を操る技術に優れた海神族である和邇氏の祖先が、 猿田彦であることは 間違いないところだろう。 猿田彦は、 .... 八幡は、本来は「ヤハタ」と読んで、幡(秦氏)が 多いと言う意味だろうから、 宇佐八幡宮のあたりは、秦氏が多い地帯だったと想像され る。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.ne.jp%2Fasahi%2Fdavinci%2Fcode%2Fhadano%2Fhistory%2Findex3.html
丹波国造家海部氏は和邇氏:イザ!
・・・・
燕国と阿曇と和邇1 常世連と物部巫部連と豊国奇巫 そして秦氏 - 民族学 ...
2011年12月30日 - 公孫淵と公孫氏燕国. Wiki「公孫氏 遼東」解説「公孫氏は高句麗や後漢と争いながら、 朝鮮半島の北端である楽浪郡や山東半島まで勢力を伸張した。204年には、公孫度の 嫡子である公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置し、韓や倭を勢力下 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fkawakatu_1205%2F54429366.html
彝 人. (上). 烏里 烏沙. 中国には56民族が住み、それぞれの民族は異なる文化、風習 を持つ。彝族の「彝」は「夷」からきている。「夷」は「漢族」の周辺住む未開の民のことで、 古代中国では漢族政権の周辺に、東は東夷、南は南蛮、西は西戎、北は北狄などの ...蜀は秦に滅ぼされ、彝族の住民たちも追い払われ、民族集団として南に大移動した。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.gesanmedo.or.jp%2Fuli457.htmlhttp%3A%2F%2Fwww.gesanmedo.or.jp%2Fuli457.html
彝族のルーツにも、いろいろな説があり、彝族の祖先は、黄河上流地域を発祥地とし、その後しだいに南下して、長江上流域の金沙江・岷江の両河川流域に到達、定着したとされるのが一般的だが、もう1つは、二千年以上前から、彝族の祖先が雲南省の茲茲蒲武(現在の昭通)あたりに居住していたという説がある。しかし、どちらの説も私は納得できない。
、「彝」は米も、糸もあることで、豊かさの意味も表している。だが、1つの文字に複数の民族を無理にまとめたのは無理ではなかったかと思う。つまり、雲南省は新中国になるまで、「人種の博物館」といわれ、三百余種の少数民族がいて、そのうち半数以上は彝族系の民族だった。
彝族のルーツにも、いろいろな説があり、彝族の祖先は、黄河上流地域を発祥地とし、その後しだいに南下して、長江上流域の金沙江・岷江の両河川流域に到達、定着したとされるのが一般的だが、もう1つは、二千年以上前から、彝族の祖先が雲南省の茲茲蒲武(現在の昭通)あたりに居住していたという説がある。しかし、どちらの説も私は納得できない。
彝族は支系が多く、今日までも50以上の支系が数えられる。農業、牧畜業、天文、歴法、気象、医薬などの分野で独得の創造が多くみられ、自分の言語、文字を持ち、しかも、いまでも使われている。また1年を10か月、1か月を36日とする独自の太陽暦法があるが、一部分の地域では1年を13か月、1か月を28日とする独自の人体暦法(女性の月経で計算したもの)もあった。
彝族の総人口が約700万人で、中国の少数民族中第6位、彝語系原語を話すの少数民族(白族 ナシ族ラフ族 リス族など)のなかでは最大の人口を有する。主に四川省と雲南省の省境にある大・小涼山地区と雲南省内に分布し、ついで貴州省と広西壮族自治区の一部に分布し、一部はミャンマー、ベトナム北部、タイ北部などのインドシナ半島北部に至っている。
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