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黒い皮膚 ベルベル人の中には純血のユダヤ人もいた…
人間の肌(皮膚)の色はメラニンの量で決まっており、メラニン量が多いほど肌の色は黒いのです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.uvcare1.com%2F2010%2F09%2Fpost-15.html
メラニン量が多いということは、それだけ紫外線から細胞を守る力が強いということなので、メラニン量が多い黒人ほど皮膚癌発症率が低く、メラニン量が少ない白人ほど皮膚がん発症率が高くなるのです。
日本人は白人でもなければ黒人でもありません。 →黄色人種です。 →日本人が、日本国内で浴びる紫外線は、全く問題はありません。
プロパガンダによって洗脳されてしまい、大多数の人達が、“紫外線は、有害である!”との間違った認識を持っているようです。
とんでもありません。 →紫外線が悪いという、その根拠を見て下さい。
オーストラリアにおける、白人のデータです。
19世紀は、植民地の時代と言われていますが、
その頃、イギリスは大英帝国と呼ばれ、世界の1/6を支配していました。
→その植民地の一つが、オーストラリアです。
オーストラリアは、地球儀で見れば解り易いのですが、中心部は砂漠です。
オーストラリアは、非常に“紫外線の強い国”です。
→イギリスは、北極に近く、非常に“紫外線の弱い国”です。
紫外線が弱い国に住んでいる民族は、皮膚の色が白い“白人”です。
少しでも多く、紫外線を体内に取り入れる為に、皮膚に色素を作らないのです。
その反対に、インドやアフリカでは、紫外線が強い為に、そこに住む民族の皮膚は、皮膚の色が黒い“黒人”です。
強い紫外線から体を守る為に、皮膚に濃い色素を作って“紫外線を遮断している”のです。
民族の皮膚の色の違いは、その国の“紫外線の強さの違い”であります。
日本人は、白人でも黒人でもなく、中間の“黄色人種”です。
…インド人の黒い皮膚は、紫外線が弱いにも拘らず、その紫外線を遮断しているのです。
極端に言えば、インド人の黒い皮膚が、紫外線を完全に遮断してしまい、紫外線0の状態だという事です。
黒人(こくじん)は、通俗的人種概念の一つで、肌の色が濃色で黒に近い人種の総称。黒色人種(こくしょくじんしゅ)。
過去の形質人類学でいうネグロイドと同義に用いられる。ただし、ネグロイド以外にも肌の色が濃いオーストラロイドを含めて「黒人」と呼ぶことも多い。いずれも文化的・社会的・政治的に形成され、便宜的に使用される用語であり、生物学的分類として有効な概念ではない。[1 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
アメリカ合衆国では、「黒人」の同義語(あるいは政治的に正しい言い換え)として「アフリカ系 (African)」が使われる。この語は通常、「アフリカに出自を持つ」という文字どおりの意味では使われない。たとえば、北アフリカのアラブ人やベルベル人を祖先とする者はアフリカ系ではない。
アメリカ合衆国では、「黒人」も「アフリカ系」も、単に人種的特徴を表すにとどまらず、奴隷の子孫という歴史と文化を共有した民族集団としての側面も持つ。 デブラ・ディッカーソン(英語版)は、「黒人[2]」や「アフリカ系[3]」という語は、奴隷とその子孫に限定すべきだと主張している。したがって彼女によれば、バラク・オバマは黒人ではない[2][4]。
1967年まで、いくつかの州では、先祖に一人でも黒人がいる者は黒人であるとする「ワンドロップ・ルール」があった[5]。黒人と白人のハーフであるバラク・オバマやハル・ベリー、黒人のクォーターにすぎないタイガー・ウッズなどが黒人とみなされるのもこの影響があるとされる[6]。
北アフリカのアラブ人やベルベル人を祖先とする者はアフリカ系ではない。 …
ベルベル人の先祖はタドラルト・アカクス(1万2000年前)やタッシリ・ナジェールに代表されるカプサ文化(1万年前 - 4000年前)と呼ばれる石器文化を築いた人々と考えられており、チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられている。
ベルベル人の歴史は侵略者との戦いと敗北の連続に彩られている。紀元前10世紀頃、フェニキアから北アフリカの沿岸に至って勢力範囲が広がったフェニキア人(ドイツ語版、オランダ語版、ロシア語版)[3]がカルタゴなどの交易都市を建設すると、ヌミディアのヌミディア人やマウレタニアのマウリ人(英語版)などのベルベル系先住民族は彼らとの隊商交易に従事し、傭兵としても用いられた。古代ギリシアではベルベル人のことをリビュア人と称していた。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ベルベル系ユダヤ人 (英語版) ムーア人 バルバリア海賊 - ヨーロッパ人にバルバリア海岸(ベルベル海岸)と呼ばれた北アフリカ沿岸で活動した海賊。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ベルベル人はカビール[要リンク修正]、シャウィーア(英語版)、ムザブ[要リンク修正]、トゥアレグの4部族をはじめ、リーフ[要リンク修正][要曖昧さ回避]、シェヌアス(英語版)、シルハ(英語版)、ザイエン(フランス語版、英語版)、Zouaoua、グアンチェ、Nafusis、Siwisなどの諸部族に分かれる。東はエジプト西部の砂漠地帯から西はモロッコ全域、南はニジェール川方面までサハラ砂漠以北の広い地域にわたって分布しており、その総人口は1000万人から1500万人ほどである。モロッコでは国の人口の半数、アルジェリアで同5分の1、その他、リビア、チュニジア、モーリタニア、ニジェール、マリなどでそれぞれ人口の数%を占める。北アフリカのアラブ部族の中にはベルベル部族がアラブ化したと考えられているものも多い。ヨーロッパのベルベル人移民人口は300万人と言われ、主にフランス、オランダ、ベルギー、ドイツなどに居住している他、北米ではカナダのケベック州にも居住している。
先史時代[編集]
「ポエニ人(英語版)」および「ポエニ語(英語版)」も参照
ベルベル人の先祖はタドラルト・アカクス(1万2000年前)やタッシリ・ナジェールに代表されるカプサ文化(1万年前 - 4000年前)と呼ばれる石器文化を築いた人々と考えられており、チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられている。
ベルベル人の歴史は侵略者との戦いと敗北の連続に彩られている。紀元前10世紀頃、フェニキアから北アフリカの沿岸に至って勢力範囲が広がったフェニキア人(ドイツ語版、オランダ語版、ロシア語版)[3]がカルタゴなどの交易都市を建設すると、ヌミディアのヌミディア人やマウレタニアのマウリ人(英語版)などのベルベル系先住民族は彼らとの隊商交易に従事し、傭兵としても用いられた。古代ギリシアではベルベル人のことをリビュア人と称していた。
ローマ帝国[編集]
古代カルタゴ(英語版)(前650年 - 前146年)の末期、前219年の第二次ポエニ戦争でカルタゴが衰えた後、その西のヌミディア(前202年 - 前46年)でも紀元前112年から共和政ローマの侵攻を受けユグルタ戦争となった。長い抵抗の末にローマ帝国に屈服し、その属州となった。ラテン語が公用語として高い権威を持つようになり、ベルベル人の知識人や指導者もラテン語を解するようになった。ローマ帝国がキリスト教化された後には、ベルベル人のキリスト教化が進んだ。
ヴァンダル王国[編集]
ローマ帝国の衰退の後、フン族の侵入に押される形でゲルマニアに出自するヴァンダル人が北ヨーロッパからガリア、ヒスパニアを越えて侵入し、ベルベル人を征服してヴァンダル王国を樹立した。この王国の公用語はゲルマン語とラテン語であり、ベルベル語はやはり下位言語であった。
ローマ帝国時代からヴァンダル王国の時代にかけて、一部のベルベル人は言語的にロマンス化し、民衆ラテン語の方言(マグレブ・ロマンス語)を話すようになった。
東ローマ帝国[編集]
ヴァンダル王国は6世紀に入ると、ベルベル人の反乱や東ゴート王国との戦争により衰退し、最終的に東ローマ帝国によって征服された。当時の東ローマ帝国はすでにギリシャ化が進んでいたため、ラテン語に代わりギリシャ語が公用語として通用した。ベルベル語はやはり下位言語とされ、書かれることも少なかった。
イスラーム帝国[編集]
7世紀に入ると、東ローマ帝国の国力の衰退を好機として、アラビア半島からアラブ人のイスラム教徒(ウマイヤ朝)が北アフリカのエジプトに侵攻・征服し、その勢いを駆ってベルベル人の住む領域まで攻め込んだ(マグリブ征服(英語版))。ベルベル人はこの新たな侵略者と数十年間戦ったが、7世紀末に行われた抵抗(カルタゴの戦い (698年)(英語版))を最後に大規模な戦いは終結し、8世紀初頭にウマイヤ朝のワリード1世の治世に、総督ムーサー・ビン=ヌサイル(英語版)や将軍ウクバ・イブン・ナフィ(英語版)によってベルベル人攻略の拠点カイラワーンが設置され、アラブの支配下に服した。イスラーム帝国の支配の下、北アフリカにはアラブ人の遊牧民が多く流入し、ベルベル人との混交、ベルベルのイスラム化が急速に進んだ。また言語的にも公用語となったアラビア語への移行が進んだ。ベルベル語は書かれることも少なく、威信のない民衆言語にとどまった。
イスラーム帝国の支配下でも、ベルベル人は優秀な戦士として重用された。711年にアンダルス(イベリア半島)に派遣されてグアダレーテ河畔の戦いで西ゴート王国を滅ぼしたイスラム軍の多くはイスラムに改宗したベルベル人からなっており、その司令官であるターリク・イブン=ズィヤードは解放奴隷出身でムーサーに仕えるマワーリー(被保護者)であった。ベルベル人は征服されたアンダルスにおいて、軍人や下級官吏としてアラブ人とロマンス語話者のイベリア人との間に立った。彼らは数的にはアラブ人より多く、イベリア人より少なかった。
マグリブとアンダルスでのベルベル革命(英語版)(739年 - 743年)、750年のアッバース革命の後、756年のムサラの戦い(スペイン語版、カタルーニャ語版)で後ウマイヤ朝(756年 - 1031年)が成立。
イブラーヒーム・イブン・アル・アグラブ(英語版)がイフリーキヤで自立しアグラブ朝(800年 - 909年)を興した。ウバイドゥッラー(英語版)がアグラブ朝を倒し、ファーティマ朝(909年 - 1171年)を興すと、ベルベル人はその支配下でズィール朝(983年 - 1148年)を興した。ズィール朝にアルジェが建設された。
タイファ期[編集]
11世紀、12世紀のタイファ期には、イスラム化して以降熱心なムスリム(イスラム教徒)になっていたベルベル人は、モロッコでイスラムの改革思想を奉じる宗教的情熱に支えられたベルベル人の運動から発展した国家、ムラービト朝(1040年 - 1147年)、ムワッヒド朝(1130年 - 1269年)を相次いで興した。ベルベル人が他民族を支配した数少ない王朝であったムラービト朝やムワッヒド朝でも、王朝の公用語はムスリムである以上アラビア語であり、ベルベル語ではなかった。
ベルベル人もイベリア半島に侵入し、アンダルスに入った。ベルベル人が樹立した征服王朝のナスル朝グラナダ王国(1232年 - 1492年)の時代、支配下の人民の多くがロマンス語やベルベル語の影響を受けたアル・アンダルス=アラビア語を用いていたとされる。ベルベル人は当初、支配者はより一層アラブ化してアラビア語を話すようになり、下位の者は民衆に同化してロマンス語を話すようになった。しかし年月がたち、改宗によってムスリム支配下の南部イベリアにおけるムスリムの全人口に占める割合が増加するにつれ、アラビア語の圧力はさらに高まり、ベルベル語話者やロマンス語話者の多くが民衆アラビア語に同化していった。時とともにベルベル人・アラブ人・イベリア人の三者は遺伝的・文化的に入り混じっていき、現在のスペイン語にはアラビア語とともにベルベル語の影響が見られる。またベルベル人の遺伝子もスペイン人やポルトガル人の遺伝子プールに影響を与えた。
ムワッヒド朝はアンダルスでのキリスト教徒との戦いに敗れて衰退、滅亡し、代わってモロッコ地域にはマリーン朝、チュニジア地域にはハフス朝というベルベル人王朝が興隆した。マリーン朝はキリスト教徒の侵入に抵抗するグラナダ王国などのイスラーム勢力を支援し、イベリアのキリスト教勢力と激しい戦いを行ったが、アルジェリア地域のベルベル人王朝であるザイヤーン朝との戦いにより国力を一時失い、それに乗じたカスティーリャ王国により1340年にはチュニスが占領された。しかしスルタンであるアブー・アルハサン・アリーにより王朝は一時的に持ち直し、1347年にはチュニスを奪回した。しかしマリーン朝の復興は長く続かず、アブー・アルハサンの次のスルタンであるアブー・イナーン・ファーリスの死後は再び有力者同士の内紛で衰亡し、ポルトガル王国により地中海や大西洋沿岸の諸都市を占領された。マリーン朝は最終的に15世紀の半ばに崩壊し、以後モロッコ地域は神秘主義教団の長や地方の部族が割拠する状態になった。
モリスコ追放[編集]
1492年にナスル朝が滅亡すると、イベリアに居住していたベルベル系のムスリムは、アラブ系やイベリア系のムスリムとともにモリスコとされた。モリスコは当初一定程度の人権を保障されていたが、やがてキリスト教への強制改宗によりイベリア人のキリスト教社会に同化させられ、それを拒む者はマグレブへと追放された(モリスコ追放)。現在でもマグレブではこの時代にスペインから追放された人々の子孫が存在している。
オスマン帝国[編集]
16世紀には、東からオスマン帝国が進出した。1533年にはアルジェの海賊、バルバロッサがオスマン帝国の宗主権を受け入れた。1550年にオスマン帝国はザイヤーン朝を滅ぼした。オスマン帝国の治下ではトルコ人による支配体制が築かれ、前近代を通じて、バーバリ諸国(英語版)におけるベルベル人のアラブ化は徐々に進んでいった。今日アラブ人として知られる部族の多くは、実際はこの時代にアラブ語を受け入れたベルベル人部族の子孫である。アルジェのデイは、沿岸のキリスト教国の船をバーバリ諸国(英語版)のバルバリア海賊を率いて襲撃し、キリスト教徒を奴隷にしていた。
19世紀になると、キリスト教徒の奴隷を解放する為に、第一次バーバリ戦争(1801年 - 1805年)と第二次バーバリ戦争(1815年)、1817年8月27日、アルジェ砲撃等が行なわれた。
フランス植民地[編集]
19世紀以降、マグレブ地域はフランスによる侵略と植民地支配を受けた。フランス語がアラビア語に代わる公用語となり、アラブ人の一部にはアラビア語を捨ててフランス語に乗り換えるものもいたが、ベルベル人の一部も同様であった。彼らはフランスの植民地支配に協力的な知識人層を形成し、フランス支配の中間層として働いた。しかし一方で植民地支配に対する抵抗も継続し、このときベルベル人はアラブ人とともに植民地支配者のフランス人に対抗して、ムスリムとしての一体性を高めた。しかし、独立後のマグリブ諸国では、近代国民国家を建設しようとする動きの中で、ベルベル文化への圧迫とアラブ化政策がかつてない規模で進められ、人口比の関係からもアラビア語を話す者が増えたため、20世紀後半にはベルベル語と固有文化を守っていこうとする運動が起こった。
遺伝子[編集]
形質的にはコーカソイドに属すとされるベルベル人であるが、Y染色体はネグロイド系ハプログループE1b1b系統が75[4]-93%[5]みられる。肌の色こそ薄いものの、実際はネグロイド由来の遺伝子を多数保有しているコーカソイドとネグロイドの混合人種であることが考えられる。
著名なベルベル人[編集]
マシニッサ - ヌミディア王。
ユグルタ - ヌミディア王。
アプレイウス - 古代ローマの作家。完存する唯一のラテン文学小説『変容(または黄金のロバ)(ラテン語版、英語版)』の著者。
アウグスティヌス - キリスト教の教父。
モニカ - アウグスティヌスの母。
アレイオス - アリウス派の祖。
ターリク・イブン=ズィヤード - 西ゴート王国、アンダルスの征服者。ジブラルタルの語源である「ジャバル・ターリク(ターリクの山)」の由来となった人物。
ユースフ・イブン=タシュフィーン(英語版) - ムラービト朝の建設者。
イブン=トゥーマルト - ムワッヒド朝の建設者。
イブン=バットゥータ - 14世紀の旅行家、『大旅行記』の著者。
ムーラーイ・アフマド・アル=ライスーニー(英語版) - リーフ族(英語版)の部族長。映画『風とライオン』のライズリのモデル。
アブド・エル・クリム - 植民地時代モロッコの反スペイン、反フランス闘争第三次リーフ戦争の指導者。
カテブ・ヤシーン - アルジェリアの文学者。
ジネディーヌ・ジダン - 元サッカーフランス代表、サッカー指導者。
ロリーン - スウェーデンの音楽家。
ユダヤ人 ユーチューブ
エチオピア・ベルベルのユダヤ人は孤立して発展し、タルムードを持たない。現在世界に散らばるユダヤ人は、全てがユダヤ教徒というわけではないが、ユダヤ人にとってユダヤ教は切り離せない宗教である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3Dwj2xH2hAfDw
歴史の中で他教徒から非常に多くの迫害を受けているが、現代に至るまでユダヤ人は滅ぶことはなかった。迫害は、当時のキリスト教社会が信仰の自由を許さなかったこと、キリスト教の一部の神学者がイエス・キリストを殺害したのがユダヤ人としたこと、ユダヤ人はキリスト教社会やイスラム教社会で疎まれていた金貸しや錬金術師が多く、トラブルが多かったことが原因ではないかと考えられている。18世紀頃から宗教的迫害が薄れていったことで、ユダヤ人は自由な信仰、活動が可能になり、今では多くの大企業の設立者や科学者にユダヤ人が存在する。
ユダヤ人はタルムードに従って行動すると思われているが、それはラビ的ユダヤ教徒の場合に限られる。ただし、一般的なユダヤ人の宗教はラビ的ユダヤ教である。ユダヤ人は何よりも学問を重視すると云われる。紀元70年にローマ軍によりイスラエルが一度滅びたときもラビ・ヨハナンが10人が入れる学校を残すことを交渉し、ローマ皇帝ティトゥスがこれを許したため、ユダヤ人は絶滅を免れた。今では最も知的な民族集団の一つと考えられており、一例としてノーベル賞の22%、フィールズ賞の30%、チェスの世界チャンピオンの54%がユダヤ人であるともいわれる 。
東ヨーロッパに住み着いたユダヤ人はアシュケナージ(アシュケナジム)と呼ばれ、ドイツ語圏に住む彼らの多くはドイツ語を話し、ドイツ語圏外に住む彼らの多くはドイツ語の方言であるイディッシュ語を話していた。
前近代のキリスト教圏においてユダヤ人(ユダヤ教徒)は政治家、農民など土地の保有と公的な職業に就くことを認められなかった。逆にキリスト教が禁じている金貸しを営むことが可能であったため、伝統的に金融業や商業に従事するものが多かった。また世界的に散らばり独自の情報ネットワークを持っていた。そのため現在でもユダヤ人には商人やメディア関係が多いとされる。アルトゥル・ショーペンハウアーは『フランクフルトでユダヤ人の足を踏んだらモスクワからサンフランシスコまで情報が行き渡る』と指摘していた。
スファラディ(セファルディム)系ユダヤ人は、オスマン帝国圏やスペイン・フランス・オランダ・イギリスなどに多く、かつてはラディーノ語を話していた。
アシュケナージや、スファラディといったヨーロッパに移り住んだユダヤ人に対して、中東地域、アジア地域に移り住んだユダヤ人はミズラヒと呼ばれていた。
ほかにもイラン、インド(主に3集団)・中央アジア・グルジア・イエメン・モロッコなどを含んだ大きな観念であるミズラヒム、カライ派・カライム人、中国、ジンバブエなどのユダヤ人のほか、インド(ミゾ族(英語版))・ウガンダ(アバユダヤ(英語版))・アメリカ黒人(ブラック・ジュー)などの新たな改宗者、イスラエル建国はメシア到来まで待つべきだとするサトマール派・ネトゥレイ・カルタ、キリスト教関連のメシアニック・ジュダイズム、ネオ・ジュダイズムなど多くの分派もある。エチオピア・ベルベルのユダヤ人は孤立して発展し、タルムードを持たない。
現在世界に散らばるユダヤ人は、全てがユダヤ教徒というわけではないが、ユダヤ人にとってユダヤ教は切り離せない宗教である。写真はユダヤ人の言語(ヘブライ語)から各国語に翻訳された聖書の一部である。
ベルベル人とユダヤ人
ベルベル人は、マグレブ(モロッコ、アルジェリア、チュニジアの北西アフリカ3カ国をさす)の先住民。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fooo.dismii.com%2F1810_1.html
ベルベルといいマスのは、バルバルス(=野蛮人)を意味する言葉で、其のその昔、ローマ人とアラブ人が非アラブ人をそう呼んだことに由来いたしましょう。勿論、当人たちはご自分たちをこのように呼びません。「イマジゲン(=自由な人びと)」と呼び、現在も古代からの伝統や習慣を守り続けて生活していマス。
ベルベル人:ユダヤ教改宗者だったのでは?
マグレブ(北アフリカ)1 [『ユダヤ人の起源』(9)]
「近代以前のユダヤ人の最後の戦闘は、しばしば断言されるように、紀元前1世紀のパレスチナの地でのローマ人に対する闘いではなく、まさしく5世紀のアフリカの大地での、アラブ人に対する戦いだったのである。」
・・・・
Re: (無題)
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
> ええ話や…
> 彼は日本のドブ川の上に咲く一輪の花と言って良かろう。推定O-M117。
>
> 日本人が南京でフリーハグをしてみた Free Hugs for China-Japan Peace 2019
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3D6F93Jtu7IiA%26feature%3Dshare%26fbclid%3DIwAR3HiXJdZVFxEiWJ2Cnv0CdBwLqdrVDvq0ZFBINufdKNX-V8d-750CSSekQ
>
その一方で、
秦野やキシのように、
「日本人は中国人に虐殺されD1bやO1b2が大陸に残っていない」などと妄想を宣伝する、生きる価値のない薄汚れた老人どもが、のうのうとしている。
そんな妄想をでっち上げて、日本軍が仕出かしたリアルな虐殺が精算されると思ってか?肩の重荷が軽くなると思ってか?
秦野やキシはもうすぐ死ぬ。
しかし、彼らが撒く穢らわしい投稿は残り、新たなネトウヨを生産していく…
Re: (無題)
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
AI君は、チベット・ビルマで羌族美人とフリーハグだな、ただし、イケメンならの話しです。
荊の紀氏は、年寄りでチベット・ビルマまで体力がない、フリーハグは不可能。
ところで、AI君は、トルコでフリーハグしたの、ホテルとツアーでボッタクリされたな。
> ええ話や…
> 彼は日本のドブ川の上に咲く一輪の花と言って良かろう。推定O-M117。
>
> 日本人が南京でフリーハグをしてみた Free Hugs for China-Japan Peace 2019
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3D6F93Jtu7IiA%26feature%3Dshare%26fbclid%3DIwAR3HiXJdZVFxEiWJ2Cnv0CdBwLqdrVDvq0ZFBINufdKNX-V8d-750CSSekQ
>
もっと知りたいワダイ チベット語とビルマ語はともに古代インドのブラーフミー文字に由来
【衝撃】これほどとは・・・ユダヤと日本の関連性に世界が震えた・・・。
545,495 回視聴
苔のむすすまで /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3D3zA93AxdgKk
シオンとはニホン…
後に王室からの恩赦を得てイングランドに戻り、ナイトの爵位に叙され、議会の議員となり、さらにイギリス海軍の中将に指名された[3]。
バルバリア海賊(バルバリアかいぞく、英: Barbary pirates、またはバルバリア・コルセア、英: Barbary corsairs、またはオスマン海賊、英: Ottoman corsairs)は、北アフリカのおもにアルジェ、チュニス、トリポリを基地として活動した海賊と私掠船乗員である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
歴史家のアドリアン・ティニスウッドに拠れば、最も悪名高い海賊はイングランドとヨーロッパの反逆者であり、その仕事を私掠船で覚え、平時にその業を追求するためにバーバリ海岸に移動した者達である。これらはぐれ者は最新式の航海術と造船術を海賊業にもたらし、海賊たちはアイスランドやニューファンドランド島など遠くまで奴隷捕獲のための長駆襲撃を行えるようになった[3]。イングランド人海賊のヘンリー・メインウォーリングは後に王室からの恩赦を得てイングランドに戻り、ナイトの爵位に叙され、議会の議員となり、さらにイギリス海軍の中将に指名された[3]。
『海賊の経済学』の中では、そういう風には書かれていませんが、他の海賊の本を合わせて読むことで、イギリスの繁栄が、海賊のおかげで成り立ったことがよくわかります。
『海賊の経済学』プラス、大英帝国の繁栄の礎は、海賊が築いたものだった! /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblog.livedoor.jp%2Fokada_toshio%2Farchives%2F51547971.html
イギリスが、やがてスペインに追いつき、その無敵艦隊をアルマダの戦いで破ります。そこから「大英帝国、日の沈むところなし」と讃えられた繁栄への快進撃が始まります。
その勝利やその後の快進撃は、ひとえに海賊の活躍にかかっていたのでした。
はっきり言ってしまうと、女王エリザベス一世が私財公費を含めて、海賊に裏金を払いまくったり、海賊を雇いまくったりしたおかげで、国はすごい速さで大きくなっていったのです。
それというのも、海賊はスペインの船を襲って船長を殺し、船員や船ごと盗んでしまうからです。海賊業は、仕入れも設備投資もゼロに近い、実に効率のよい商売だったのです。
とは言え、スペインが被害者かと言うと、そうとも言えません。
スペインは南米から銀などをどんどん盗んで運んでいたからです。
南米からの銀を盗むのを合法と言うなら、イギリス海賊による盗みも合法と言うのは、そんなに無茶な話ではありませんよね。
イギリスでは、海賊ドレイクが爵位をもらって、銅像までたてられました。今でも立っています。
ドレイクはどろぼうだけど、イギリスの英雄でもあるのです。
『海賊の経済学』の中では、そういう風には書かれていませんが、他の海賊の本を合わせて読むことで、イギリスの繁栄が、海賊のおかげで成り立ったことがよくわかります。
トルコの海賊の首領で アルジェ総督 ハイール・エディンヌ
天然の良港に恵まれたベルベル人の地、 アルジエは、古代から頻繁に異民族の支 配を受け、16世紀初頭にはスペインに侵 略されました。イスラム勢力からイベリア半 島を奪回するレコンキスタ(国土回復運動)を完了し、急速に国力を強めていたスペインは、アルジェ港を地中海支配の拠点とすべく、沖合の小島に要塞を築いたのです。
しかし、アルジェはほどなくこの要塞を奪回。戦いを指揮したのは、トルコの海賊の首領で、アルジェ総督でもあったハイール・エディンヌでした。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fworldheritagesite.xyz%2Falgiers%2F
アルジェの歩み /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Ftabi70.pro.tok2.com%2Ftabi%2Falgeria%2Fal4.html
町の歴史は古く、先住民はベルベル人ですが、紀元前1200年ごろにはフェニキア人が植民を建設。その後、ヌミディア王国の建国、ローマ帝国やビザンチン帝国の支配を経て、オスマン帝国の版図に組み入れられました。
海賊赤ひげのハイール・エディンヌがヨーロッパ諸国を恐怖に陥れたのは、オスマン帝国支配のころの話です。
世界遺産
彼はヨーロッパの商船を襲い、捕らえてきた捕虜の身代金で巨万の富を得、「赤ひげ」の異名で怖れられました。略奪で得た富で、堅牢な城壁を築いたり、モスクや豪奢な邸宅を建てていきました。後継者たちも町づくりを進め、繁栄の面影をいまに残すカスバは、1992年、世界文化遺産に登録されました。
余談ですが、捕虜の中には「ドン・キホーテ」の作者ミゲル・デ・セルバンテスもいて、5年間牢獄に閉じこめられました。哀れんだ修道士らが身代金を工面し、そのおかげで釈放されたということです。
モロッコ国民の多くはベルベル人と呼ばれる人々 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsahara-breezetravel.com%2Finfo%2Flanguage%2Fberber.html
ベルベル人とモロッコ人
「ベルベル人は民族の名前でしょ。モロッコやチュニジアにいる。いろいろな民族を意識したときは使うことはあるけど、普段は使わない。モロッコでは、観光客を誘うときに使う人たちが多いみたいだけど。ムーア人は、北アフリカ方面から来た『侵略者』というイメージで昔の話をするときに登場する。でも、ムーア人は過去の人物。私たちキリスト教徒の先祖に対してムーア人というわね。北アフリカから来たイスラム教徒という意味もあると思う。そう、今でも、冗談で『ムーア人だからねえ』なんて北アフリカ地方から来た人を揶揄して言うことはあるけど、それは過去の歴史を意識した冗談なのよ。ムーア人には、アラブ人もベルベル人も含まれるわ。でも、はっきりしたことはわからないけれど、ムーア人の中にはアラブ人やベルベル人以外の民族も入っていたんじゃないかな」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fkorekarafutari%2Fe%2F503feb054317f62cc4c04f2e3b5a58fc
ムーア人の用語解説 - フィリピンのイスラム教徒を総称する名称。16世紀後半にフィリピンを占領したスペイン人植民者によって命名された。
モール人とも。8世紀初め以降イベリア半島に侵入した北アフリカのイスラム教徒へのヨーロッパ人による呼称。北アフリカ地方の原住民を意味するMauri(ラテン語),Moros(スペイン語)に由来。実際にはベルベル人をさす場合が多いが,のちにはイスラム教徒一般の意味でも使われた。スペイン人はフィリピンのイスラム教徒原住民をもモロ(ムーア)と呼んだ。
ムーアじん【ムーア人 Moor】 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
ヨーロッパ人が,北西アフリカ(マグリブ)のイスラム教徒を指す呼称。フランス語でモールmaure。とくにベルベル,およびアラブ化したベルベルを指して用いられる場合が多い。 古代ギリシア・ローマ時代に,北西アフリカの住民(ベルベル)をマウロスMauros,マウルスMaurusと呼んだことに由来し,前1世紀には,北西沿岸地帯にローマの属州マウレタニアが設けられた。マウロス(マウルス)の呼称は,フェニキア人がベルベルを呼んだマウハリム(〈西国の人〉の意)にさかのぼるといわれる。
ムーア人は人種的にはコーカソイドの地中海集団に属する。ムーア人の多くはサハラ砂漠を基盤に遊牧生活を送っており、コブウシ、ヒツジ、ヤギ、ラクダなどの家畜の飼育と交易が生業の中心である。[片多 順]
【アフリカ】より
…アフリカは面積3030万km2,人口7億2036万(1996),面積ではアジアに次ぐ世界第2の大陸である。赤道をはさんで同心円状に,熱帯雨林,サバンナ,砂漠,地中海気候帯と多様な自然をもっている。サハラ砂漠をはさんで,北は西アジア・地中海世界とひとつづきのハム・セム系の文化をもつ白人(コーカソイド)が支配的な白人アフリカ,南は,ピグミーやコイサン(サン,コイ・コイン)の非黒人先住民と,おそらく北西部から移住拡散した黒人(ニグロイド)の世界,すなわち黒人アフリカである。…
フィリピン…
〉言語的にチベット・ビルマ化した後に日本へ渡来したのであれば都合が良い。
日本語の語順は、主語−目的語−動詞(S−O−V)で、名詞の後に後置詞(N−p)である助詞を使用し、形容詞は名詞の前(A−N)に来ます。韓国語や、モンゴル語、トルコ語などのアルタイ諸語、ウラル語の大部分、それに世間には余り知られていませんが、ヒンディー語、ベンガル語などのアーリア系諸語を含めたインドのほとんどの言葉がこの語順です。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.honyakunoizumi.info%2Fpath%2FPath_WorldLng.htm
これの変形で、形容詞と名詞の順序だけが逆(N−A)のものが、ビルマ語、チベット語の仲間です。
これと対照的なのが、フランス語などのロマンス語で、動詞が目的語の前(S−V−O)に来、名詞の前に前置詞(p−N)を使用し、形容詞は名詞を後から修飾(N−A)します。つまり日本語と語順がほぼ逆になります。ロマンス語の他に、ベトナム語、タイ語、インドネシア語など東南アジアの多くの言葉がこの語順を取ります。
これの変形で、形容詞と名詞の順序が逆(A−N)のものも、英語、ドイツ語などのゲルマン諸語、ロシア語などのスラブ諸語、それに中国語と、有力なものが多数あります。
さらに徹底しているのが、アラビア語で、動詞が最初に来て(V−S−O)となります。おまけにアラビア文字などのセム系文字は右から左へ書くので、その下に日本語の単語訳を付ければそのまま日本語訳ができることになります。アフリカのベルベル諸語やマサイ語、ケルト諸語や、サモア語などのポリネシア諸語もこの語順です。
(V−O−S)の語順を取るものには、マダガスカルのマラガシュ語、メラネシアのフィージー語、メキシコのオトミ語があります。
類型や語順は系統によってほぼ一定していますが、固定したものではありません。インド・アーリア諸語はドラヴィダ語の影響を強く受け、語順もSOV型になり、多くの現代語では助詞まで後置詞を使っています。エチオピアのアムハラ語などは先住のクシ語の影響を受け、語順もVSO型からSOV型に変わりました。ウラル語は本来SOV型ですが、ハンガリー語、フィンランド語は周りの印欧語の影響でSVO型に変わりました。
ベルベル語(ベルベル語: ???????? - Tamazight)は現在主にモロッコ、アルジェリア、リビアで話されているアフロ・アジア語族の言語。 正確に言えばベルベル語派またはベルベル諸語と呼ぶほうが実状に近い、少しずつ異なる同系統の言語群の総称である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
話者数の多い方言には、タリフィート、タマジグト(タマズィグト)、タシュリヒートの三つの方言がある。タリフィートは北モロッコ、タマジグトは中央モロッコ、タシュリヒートはアルジェリアで話される。
モロッコ、アルジェリアともアラビア語を重要視する政策をとるため、話者は辺鄙な山間部の村などに多く、家庭の中でしかベルベル語を話さないこともある。しかし、ベルベル語はアラビア語が広まる以前には、北アフリカで幅広く話されていた言語である。
ベルベル語話者は「ベルベル語」という呼称を一般に好まない。これはベルベルがギリシャ語で「言葉がわからない人」を意味するバルバロイから由来することによる。今日ヨーロッパ諸国で比較的よく用いられる言い換えは、本来北モロッコで話されるベルベル語を意味するタマジグト(タマズィグト)である。特に北部ベルベル語を指すときにはこの表現が好んで用いられる。
北アフリカ諸国ではベルベル語話者を公式の人口統計で集計していないため、ベルベル語話者の正確な人口を知ることは困難である。ベルベル語話者はモロッコ、アルジェリアのほか、中央アフリカ諸国、エジプト、フランスなどに住む。1955年の A. バセットの概算によれば、ベルベル語話者の人口は全世界で約550万人である。
他の言語への影響[編集]
ベルベル語はマグレブのアーンミーヤの基層言語として、これらの言語に影響を与えた。これはエジプト・アラビア語に対するコプト語の役割と類似している。またムスリムのイベリア半島支配の結果として、スペイン語やポルトガル語などのイベロ・ロマンス諸語にはアラビア語ほどではないにせよベルベル語の影響が見られる。そしてベルベル人とアラブ人のサハラを越えたブラックアフリカへの遠征と征服、およびイスラームの普及に伴って、いくつかのブラックアフリカの言語はアラビア語とともにベルベル語の影響を受けた。
現在では別の語族と考えられている
ミャオ・ヤオ語族やタイ・カダイ語族は、声調言語であり孤立語であること、現在シナ・チベット語族とされている言語と共通する語彙が多く見られることから、かつてはシナ・チベット語族に含まれると考えられていた。しかし、研究の進展によって語彙の共通性は主に借用によるものであることが明らかになり、借用語を除いた語彙の共通性が乏しいことから、現在では別の語族と考えられている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.weblio.jp%2Fwkpja%2Fcontent%2F
古代中国語はシナ・チベット語の中でとびぬけて古い記録を持つ言語である。甲骨文は紀元前1200年にさかのぼり、紀元前1千年紀に書かれた大量の文献が残っているが、漢字は音素文字ではない。学者は中古音や漢字の声符、詩の押韻などから上古音を再構しようとしている。ベネディクトとシェーファーは最初期の再構であるベルンハルド・カールグレンの『Grammata Serica Recensa』の音を使用している。 しかしカールグレンの上古音は多くの音が不揃いな分布をなしており、扱いづらい[22]。最近の学者は他の根拠を利用してカールグレンの上古音を改訂している。それらの提案のいくつかはシナ・チベット語族の同系語にもとづいているが、あるものは中国語内部に支持する根拠が存在する[23] 。
チベット語とビルマ語はともに古代インドのブラーフミー文字に由来する音素文字で記録されている。
ブラーフミー文字(ブラーフミーもじ、英語: Brāhmī script)は、初期のブラーフミー系文字の一種である。ブラーフミー文字で書かれた最も有名な碑文としては、紀元前3世紀頃の石に刻まれたアショーカ王法勅がある。これは長い間、ブラーフミー文字の最初期の使用例であると考えられてきた。しかし、最近の南インド[2]とスリランカ[3][4]における考古学的知見は、ブラーフミー文字が最も初期に使われたのは紀元前6世紀前後であると示唆している。年代は放射性炭素法と熱ルミネッセンス法で測定された。
ブラーフミー文字は南アジア、東南アジア、チベット、モンゴルのほとんどの文字体系の祖である。さらにパスパ文字を通じて朝鮮のハングルにも影響を与えている可能性が高い[5]。ブラーフミー数字は、現在世界中で使われているアラビア数字の元になっている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
最古のブラーフミー文字による碑文を見ると、当時のアラム文字と比べて2つの言語間で等価な少数の音素に関して著しい類似点が見られる。とくに書字方向の変更を反映して文字を反転させると明らかである[要出典]。
別の説によれば、ブラーフミー文字はおそらくインダス文字をその祖先として全く独自に発達した。この説はイギリスの学者G.R. Hunter[10]やJohn Marshall[11]やRaymond Allchin[12]などが主張している。
ブラーフミー文字
ブラーフミー文字(ブラーフミーもじ、英語: Brāhmī script)は、初期のブラーフミー系文字の一種である。ブラーフミー文字で書かれた最も有名な碑文としては、紀元前3世紀頃の石に刻まれたアショーカ王法勅がある。これは長い間、ブラーフミー文字の最初期の使用例であると考えられてきた。しかし、最近の南インド[2]とスリランカ[3][4]における考古学的知見は、ブラーフミー文字が最も初期に使われたのは紀元前6世紀前後であると示唆している。年代は放射性炭素法と熱ルミネッセンス法で測定された。
ブラーフミー文字は南アジア、東南アジア、チベット、モンゴルのほとんどの文字体系の祖である。さらにパスパ文字を通じて朝鮮のハングルにも影響を与えている可能性が高い[5]。ブラーフミー数字は、現在世界中で使われているアラビア数字の元になっている。
親の文字体系:
原カナン文字[1]
フェニキア文字[1]
アラム文字[1]
ブラーフミー文字
子の文字体系:
南アジア、東南アジア、北アジアのほとんどすべてのアブギダの祖となった。
姉妹の文字体系:
カローシュティー文字
ブラーフミー文字
アショーカ第6法勅の断片
ブラーフミー文字は、ほとんどの研究者によって、同時期にアケメネス朝の支配下にあった北西インドの一部で発生したカローシュティー文字と同様、アラム文字のようなセム語派の文字から生じた、あるいは少なくともその影響によって生じたと考えられている[6]。しかし、この問題は直接的な証拠がなく、セム語派の文字、カローシュティー文字、ブラーフミー文字の間に解明しづらい相違点が見られるため解決されていない[7]。いくらかの研究者(西洋とインドの両方)は、ブラーフミー文字がアショーカ王の治世の間に短期間で発明されて碑文のために広く使われたとし、その時にセム語派の文字の文献から触発されたという見解を示唆している[7]。それと対照的に、一部の研究者は外国からの影響とする見解を否定している[8][9]。
ブラーフミー文字の最古の使用例はスリランカの交易都市アヌラーダプラから見つかった紀元前5世紀初頭の陶片であると思われる。さらに、アーンドラ・プラデーシュ州のBhattiproluとインドタミル・ナードゥ州のAdichanallurの陶片からより古いブラーフミー文字の証拠が発見されている。放射性炭素年代測定がそれらは紀元前6世紀のものであると証明した[2]。
ブラーフミー文字はおそらくインダス文字をその祖先として全く独自に発達した。
Re: もっと知りたいワダイ チベット語とビルマ語はともに古代インドのブラーフミー文字に由来
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009354M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=3zA93AxdgKk
ブラーフミー文字 ヘブライ文字…
ブラーフミー文字は南アジア、東南アジア、チベット、モンゴルのほとんどの文字体系の祖である。さらにパスパ文字を通じて朝鮮のハングルにも影響を与えている可能性が高い[5]。ブラーフミー数字は、現在世界中で使われているアラビア数字の元になっている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.weblio.jp%2Fwkpja%2Fcontent%2F
ブラーフミー数字とは古代インドで用いられた数字で、紀元前3世紀以前のものであり、現代のインド数字、アラビア数字の直接の祖先である。ただし、概念的には後世の記数法とははっきりと区別される。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
梵字(ぼんじ)はインドで使用されるブラーフミー文字の漢訳名である。ブラーフミーは「ブラフマン(梵)の創造した文字」を意味する。また、単に「梵語(サンスクリット)を表記するための文字」とも解される。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fsusumu_shiba%2F23181343.html
悉曇文字(梵字)は前述のカローシュティー文字(紀元前)よりははるかに後の、西暦六世紀から九世紀にかけて北インドで流行した字体の一つであり、 現在使用してゐるのは主に日本の密教系仏教のみとの事で、これまた目から鱗でした。
カローシュティー文字 は,ブラーフミー文字と同様,インド系の言語を表記する文字である。この文字は,インド系言語を表記できるようにアラム文字を改良してできたものであり,アラム文字と同じように右から左に書かれる /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.chikyukotobamura.org%2Fmuse%2Fwr_sasia_14.html
アラム文字
現代のヘブライ文字は、アラム文字より派生したアブジャドの一種で、右書き(右から左に)で書く。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
類型:
アブジャド (アルファベットとして使われることもある)
言語:
ヘブライ語、イディッシュ語、ラディーノ語およびユダヤ・アラビア語群 (ユダヤ諸語参照)
時期:
紀元前200年頃-現在
親の文字体系:
原カナン文字
フェニキア文字
アラム文字
ヘブライ文字
> ブラーフミー文字
> ブラーフミー文字は南アジア、東南アジア、チベット、モンゴルのほとんどの文字体系の祖である。さらにパスパ文字を通じて朝鮮のハングルにも影響を与えている可能性が高い[5]。ブラーフミー数字は、現在世界中で使われているアラビア数字の元になっている。
> 親の文字体系:
> 原カナン文字[1]
> フェニキア文字[1]
> アラム文字[1]
> ブラーフミー文字
> 子の文字体系:
> 南アジア、東南アジア、北アジアのほとんどすべてのアブギダの祖となった。
> 姉妹の文字体系:
> カローシュティー文字
> ブラーフミー文字
> アショーカ第6法勅の断片
> ブラーフミー文字は、ほとんどの研究者によって、同時期にアケメネス朝の支配下にあった北西インドの一部で発生したカローシュティー文字と同様、アラム文字のようなセム語派の文字から生じた、あるいは少なくともその影響によって生じたと考えられている[6]。しかし、この問題は直接的な証拠がなく、セム語派の文字、カローシュティー文字、ブラーフミー文字の間に解明しづらい相違点が見られるため解決されていない[7]。いくらかの研究者(西洋とインドの両方)は、ブラーフミー文字がアショーカ王の治世の間に短期間で発明されて碑文のために広く使われたとし、その時にセム語派の文字の文献から触発されたという見解を示唆している[7]。それと対照的に、一部の研究者は外国からの影響とする見解を否定している[8][9]。
> ブラーフミー文字の最古の使用例はスリランカの交易都市アヌラーダプラから見つかった紀元前5世紀初頭の陶片であると思われる。さらに、アーンドラ・プラデーシュ州のBhattiproluとインドタミル・ナードゥ州のAdichanallurの陶片からより古いブラーフミー文字の証拠が発見されている。放射性炭素年代測定がそれらは紀元前6世紀のものであると証明した[2]。
> ブラーフミー文字はおそらくインダス文字をその祖先として全く独自に発達した。
>
シナ・チベット語族
話される地域:東アジア
言語系統:世界でも主要な語族の一つ。
下位言語:シナ語派 チベット・ビルマ語派 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.weblio.jp%2Fwkpja%2Fcontent%2F
ナガ語 (Naga) - インド北東部からミャンマー国境のナガ族の言語(共通の言語が無いためen:Nagamese creoleというクレオール言語を使用している)
チアン語群 (Qiangic)
ギャロン語 (rGyalrong)
彝語 - 中国雲南省周辺のイ族(彝族)の言語。彝文字を持つ。
リス語 - リス族
ペー語 (Bai) - 中国雲南省大理周辺のペー族(白族)の言語(ロロ諸語に入れる説、シナ語派に入れる説もある)
・・・・
チベット語は、7世紀なかばの吐蕃時代以来広く文字に書かれている。ビルマ語の初期の記録(12世紀のミャゼディ碑文など)はより限定的であるが、後には広く文献が発達した。チベット語とビルマ語はともに古代インドのブラーフミー文字に由来する音素文字で記録されている。比較の作業はこれらの言語の保守的な文語を利用して行われる。チベット語についてはハインリヒ・アウグスト・イェシュケの辞書、ビルマ語についてはアドニラム・ジャドソンの辞書が使われる。ただしどちらの辞書も異なる時代の語彙を含む[27]。
西夏(1038-1227)の言語である西夏語も多くの文献が残っている。西夏語は漢字に着想を得た表語文字で記されており、多言語辞書が存在するものの、その解釈にはさまざまな困難がある[28]。
龔煌城は古代中国語、チベット語、ビルマ語、西夏語を比較してその音対応規則を確立しようとした[14][29]。龔はチベット語やビルマ語の /a/ が古代中国語の *a と *? の2つの母音に対応することを見出した[30]。このことは中国語がチベット・ビルマ語とは異なる語派に属する証拠と考えられてきたが、ヒル(2014)ではビルマ語でも *-aj (> -ay) と *-?j (> -i) が区別されることを発見し、したがって *? > *a の変化はチベット語とビルマ語で独立に起きたと考えるべきだと主張した[31]。
ナガ語 (Naga) - インド北東部からミャンマー国境のナガ族の言語(共通の言語が無いためen:Nagamese creoleというクレオール言語を使用している)
チアン語群 (Qiangic)
土家語 (Tujia) - トゥチャ族
ギャロン諸語(英語版)
ギャロン語 (rGyalrong)
彝語 - 中国雲南省周辺のイ族(彝族)の言語。彝文字を持つ。
リス語 - リス族
ハニ語 - ハニ族
アカ語(英語版) - アカ族(英語版)
話者の遺伝子[編集]
シナ・チベット語族の話者はY染色体ハプログループO3、特にO3a2c-P164と関連している[37]。ただしチベット人には東アジア最古層のD系統が最大49%の高頻度でみられる。
所属未定の言語[編集]
インド、アルナーチャル・プラデーシュ州の言語Hruso語, Miji諸語, Puroik語などは元来シナ・チベット語族の一言語とされてきたが、最近になって、孤立した言語ではないかとの見方が出てきている[38]。
リス語 - リス族…
アカ族
台湾|花蓮とギリシャ系倭人(アミ族) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.satose.jp%2Freal-estate%2F95
台湾のアミ族やタイ山地のアカ族は華麗な冠(かぶ)り物で知られますが男性はみすぼらしいです リス族やカレン族も同じでジョカジョカジョ・スプー・サンといった三味線に合わせて女性が踊ります
彼らが東アジアに来て羌族と同化するのは、おそらく紀元前5世紀ごろであろう。
秦の始皇帝や日本人はユダヤ人の末裔としてもおかしく無い /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fshimonose9m%2Fentry-12274211380.html
第6章で見たように、歴史的に羸氏(えいし)という姓は紀元前10世紀末、周(しゅう)の孝王(こうおう)から非子(ひし)が与えられたものであるとされる。非子が遊牧民の性格をもち、広い意味で羌族(きょうぞく)であったことは先に見た通りである。
当時はまだ失われたイスラエル10支族は存在しなかった。彼らが東アジアに来て羌族と同化するのは、おそらく紀元前5世紀ごろであろう。羌族とイスラエル人の同化の過程にはまだ不明な点が多い。イスラエルの調査機関、アミシャープの報告では、羌族が失われたイスラエル10支族の文化を保持している。最新の遺伝子の調査でも、日本人を含めてイスラエル人と非常に近い染色体を持っていることがわかっている。
アカ族と日本との不思議な共通点、鳥居。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.cromagnon.net%2Fpost_85%2F
大阪和泉市の弥生時代の遺構から、アカ族の村の門に置く鳥とまったく同じ形の木彫りの鳥が見つかっています。
カレン族(首長族) 〜アカ族・リス族・ヤオ族・モン族 .. /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fsachi-thailand%2Fe%2Fd7ac885069f8e857e83c009c52fbff5e
1975年、イスラエル政府は、国家プロジェクトとして「アミシャーブ」を発足させた。
内容は、2700年前にアッシリア侵攻によって消えてしまった
イスラエル十支族を探し出してイスラエルに帰還させるというものである。
アビハイルというユダヤ教ラビを責任者として、すでに40年近い活動が続いている。
すでにインド・エチオピア・中央アジアなどに十支族の末裔を発見し、イスラエルに帰還させている。
イスラエルの調査機関「アミシャープ」の活動
エルサレム・ポスト紙が1993年9月号で「失われた10部族」の帰還問題を扱い、その中でイスラエルにある10部族の調査機関「アミシャープ」の活動とリーダーであるラビ(ユダヤ教学者)、エリアフ・アビハイル氏を紹介した。それによると、近年、失われたイスラエルの10部族が自分たちのルーツであると主張する民族が増えていて、その信憑性が高いとなればイスラエルに戻ってくる可能性も出てくるというのである。またイスラエル政府は、失われた10部族の子孫であるという訴えの取り扱いに困惑し、慎重になっている、というのだ。
一般にユダヤ人は世界で1200万人とされているが「アミシャープ」の調査では、全世界で他民族と同化したユダヤ系の人々を含めると現在、ユダヤ系は2200万人もいるという。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fiwaoiwao.fc2web.com%2Fseishonoshinnsou.htm
1920年にキリスト宣教師トーマス・トランス撮影のチアン族の女性たち
(中国とチベット国境付近で)
典型的な東南アジア系の顔だちで、ノアの子孫 セム族系。
以下の人々が失われた10部族と考えられる。アフガニスタン、パキスタンに住むパサン族、インド北のカシミール地方のカシミリス族、インドとミャンマー国境のマナセ族、中国に住んでいるチアン・ミン族、インド中部のバニーイスラエルと呼ばれる人々、エチオピアのペーターイスラエルと呼ばれている人々、アフリカ南部のレンバ族などである。そして日本人は、とくに「失われた10部族」の可能性があるとして「アミシャープ」の調査対象になっている。
またスペインのマラノ(ユダヤ教から改宗したキリスト教徒)にも10部族の可能性があるという。
シルクロードに沿って、イスラエル10部族の足跡が残る(アミシャープ)
インドとミャンマー国境のマセナ族、「アミシャープ」によると、この部族にはイスラエルの習慣とおぼしきものが持続しており、名前からみても間違いなく、10部族の一つのマセナの子孫だという。この一族はミャンマーに約500人おり、イスラエルに移住することになるという。
日本に10部族が到着したことについて、「アミシャープ」はつぎのような公式見解を発表している。「10部族の大集団は、東方に向かってシルクロードを進み、その途中でときおり数人のグループの人々が、主流からはずれ定住していった。それらの人々が、今日アフガニスタン、パキスタン、カシミール、チベット、中国、その他に現存している10部族の人々であり、また中国に達したときに、幾人かのグループが南に向かって行き、タイ、ビルマ、インドに達した。そして本体は朝鮮を経由して日本に達したと思われる」
そして、イスラエルより離散して日本に到着した人々も、時が至ればイスラエルに帰ってくると信じられている。
4. イスラエル十部族の帰還について
(1) 日本人のユダヤ性:
エルサレムには、イスラエルの失われた支族を調査する機関 『アミシャブ』がある。そのトップであるラビ・エリヤフ・アビハイル氏(著書:『イスラエルの失われた、また離散した部族たち』)によると、失われた10支族の末裔が現在も、アフガニスタン、パキスタン、インド、カシミール、ミャンマー、中国にいるとされている。日本についての結論は、”日本と古代イスラエルとを結びつけるさまざまな証拠は説得力に富んでいる。いくつかの支族と日本人との結びつきを否定することは難しい”となっている。 また、多くのユダヤ人たちが日本に興味を持ち始めている。
BC660年にアッシリア捕囚となった北イスラエルの離散した末裔のエフライム族が日本に来て、神武天皇をはじめ 皇族が日本の支配的階級におさまったという説は、さまざまな状況証拠によって認められてきている。(残念ながら未だ決め手がない) さらに、AD4c、景教(ネストリウス派)に改宗したユダヤ人のグループである 秦氏一族が、キルギス、朝鮮半島を経て、2万人も大挙して日本にやってきたとされている。このあたりの歴史的経緯の真相は、後の仏教徒らによってかなり歪められている。( → 日本の歴史から見たリバイバルの展望 1. )
また、出雲大社の近辺に、ルベン、ガド、マナセの半部族が来たと言われている。
・・・・
〉チアン語群 (Qiangic) …
中国へ移住したユダヤ人については、 『中国にチアン族(チアン・ミン族)と呼ばれる人々がいる。 彼らには、自分たちが西方のかなたからやって来たという伝説がある。 彼らは、かつて自分たちが話していた言語を失ってしまった。
紀元前722年にイスラエル部族離散〜大宮散歩(32)
仏教のわが国伝来は「552年百済聖明王が欽明天皇に仏像・教典を贈呈、使者は西方姫氏」であるという。
また中国蘇州周辺を紀元前585年頃〜紀元前473年に支配した呉 (春秋)の君主の姓は姫だという。
呉 (春秋)の姫氏が滅んだ年、紀元前473年に大宮氷川神社は創建されている。
仏教を中国から伝えてくれた西方姫氏と、その1000年ほど前の呉 (春秋)の姫氏に「同一民族」という可能性はないだろうか。
例えばイスラエルを追われ、中国で国を作ったアジア系ユダヤ人一族など。
・・・・
彼らは古来、唯一神教を信じてきた。
彼らの神観念は聖書の神と同じである。
彼らの言い伝えによれば、自分たちはアブラハムの子孫であり、また自分たちの先祖には十二人の息子がいた。これはヤコブのことである。
チアン族には、かつてイスラエル十部族の間で行なわれていたような動物犠牲の風習が今もある。
彼らの祭司の服装は、古代イスラエルの祭司のものによく似ている。
祭壇は、古代イスラエルと同じく、切り石ではなく、自然石を用いて作られる。
祭壇の周りには十二個の旗が立てられる。
これは自分たちの先祖に十二人の息子がいたことを覚えるためだという。
チアン族には、古代イスラエルと同じ汚れの観念、禊ぎの観念がある。
彼らには過越の祭、また「亡き夫の兄弟との結婚」の風習がある。
これは聖書に由来する古代イスラエルの風習である。』(抜粋終わり)
中国にチアン族(チアン・ミン族)と呼ばれる人々がいる。…
カシミールには、イスラエル十部族の地にあったと同名の町名、人名が…
古代日本とイスラエルの類似すること /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fakaruihivi%2F24545397.html
イスラエル十部族がここに来ていた、という報告は世界中の多くの所から発見されている。
とくにそれはシルクロード付近に集中している。
アフガニスタンには、ユスフザイ人、またパタン人と呼ばれる人々が住んでいる。
ユスフザイの名は、ヨセフの子孫という意味である。ヨセフの子孫は、イスラエルの失われた十部族に属する部族。
彼らには、イスラエル人の風習のーつである上衣の裾につける房、安息日と安息日の前の金曜日の夜にロウソクを灯す風習、イスラエル人特有のペイオト(耳の前の毛を伸ばしてカールさせる)の風習がある。
パタン人にも、生後八日目の割礼の風習、衣の房、安息日、コシェル(食物規定)、フィラクテリー (山伏の頭につける兜巾(ときん) のようなものをかぶる風習。ユダヤ教のラビが、旧約聖書を朗読する際に、頭にフィラクテリーと呼ばれる黒塗りの小箱を額につける。)がある。
また山伏はホラ貝を吹くが、ユダヤ教のラビは羊の角から作られているショーファールと言う笛を吹く。
パタン人の土地からは、イスラエル的考古学遺物が、多く出土し、彼らの言語は、ヘブル語起源の言葉を多く含んでいる。
彼らには聖なる書物が伝わっていて、それはトーラー(モーセ五書)と内容が同じものである。
彼らは、イスラエルの失われた十部族に属するルベン族、ガド族、エフライム族、ナフタリ族、その他の部族の子孫と自負している。
インドの北部の地カシミールには、イスラエル十部族の地にあったと同名の町名、人名があちこちについている。
過越の祭もあり、自分たちがイスラエルの地から来たという伝承も残されている。
カシミールの人々の言語には、ヘブル語起源の言葉が多く含まれている。
カシミールには、イスラエルの失われた十部族に属するアシェル族、ダン族、ガド族、その他が来たという伝承があリ、彼らは自分達をイスラエルの子孫と呼んでいる。
インドとミャンマー(旧ビルマ)にメナシェ族と呼ばれる人々が住んでいる。メナシェとは、イスラエル十部族の一つ、マナセ族の意味である。
彼らには、自分達の先祖はイスラエルから来たという伝承がある。
イスラエルからアッシリヤに行き、中国方面で迫害され、インドとミャンマーあたりに移住してきた。
彼らには、かつてイスラエル十部族の間で行なわれていたのと同じ動物犠牲の風習がある。
彼らは今は中国語を話すが、自分たちのことを中国語でルシと呼んでいる。これは十部族という意味。彼らには割礼の風習があったが、今はすたれている。
彼らには一年のうち聖なる日とされた日が幾つかあり、それはイスラエルの暦によく似ている。
彼らには出エジプトの伝承があり、古代イスラエルの様な祭司が存在する。中国にチアン族(チアン・ミン族)と呼ばれる人々がいる。
彼らには、自分たちが西方のかなたからやって来たという伝承がある。
彼らは、自分達が話していた言葉と自分達が持っていた羊皮紙に記された聖なる本も失ってしまった。
だが彼らは古来より、唯一神教を信じてきた。彼らの神は聖書の神と同じ一神教である。
彼らの言い伝えによれば、自分達がちはアブラハムの子孫であり、また自分たちの先祖には十二人の息子がいた。これはヤコブ(イスラエル)の事。
チアン族には、かつてイスラエル十部族の間で行なわれていたような動物犠牲の風習が今も残っている。
彼らの祭司の服装はパタン人と同じく、古代イスラエルの祭司のそれによく似ている。
祭壇は、古代イスラエルと同じく、切り石ではなく、自然石を用い、祭壇の周りには十二の旗が立てられる。これは自分たちの先祖に十二人の息子がいた事を忘れない為だという。
チアン族には、古代イスラエルと同じ汚れや禊ぎの観念がある。
彼らには過越の祭と、夫を亡くした時の亡夫の兄弟との結婚の風習があり、これは古代イスラエルの風習である。
イスラエルの失われた十部族の人々がとくにシルクロード付近に足跡を残している事。 そしてシルクロードの終点は日本である。
イスラエルの失われた十部族は中国までは確実にやって来ていた。
さらに東に向かい、日本にまで到達した人々が居たかもしれないという事は考えられない事ではない。
日本に古代イスラエルとの類似点が見られる事を考えると、古代日本と古代イスラエルとは何らかの接点があったと言える。
イスラエルの契約の箱と神社の御神輿の箱を「担ぐ」という類似、イスラエルの祭司の服と神社の神主の服の類似、神主のお祓いの所作と古代イスラエルの風習との類似、イスラエルの神の幕屋の構造と神社の構造の類似などがある。
また日本神道の汚れと禊ぎの観念について、日本神道では、清め(禊ぎ)の為に、水や塩を用いる風習がある。
日本の神社は禊ぎ(心身の清め)を行なう為に、清流や、きれいな水の池、湖、海などの近くに建てられている。
古代イスラエルでも、水で体を清める風習があった。
「祭司は、その衣服を洗い、その体に水を浴びよ。その後、宿営に入ることができる」(民数記19:7)
日本神道の神主も、神社で仕える前に必ず衣服を洗って綺麗にし、水浴(禊ぎ)をする。
日本神道では、塩も清めの為に用いられる。
日本では出入り口に一握りの塩を盛塩とするが欧米の人はそれを見ても、何を意味するかわからない。でもユダヤ人なら、これは清めの為と理解出来る。
日本の相撲の力士は、対戦する前に土俵に塩を蒔く。ユダヤ人なら、土俵を清める為だと即座に理解する。日本で神社など聖地の清め、御神輿の清めなどにも塩は用いられる。
ユダヤ人は食事を始める時、パンに塩をふりかける事から始め食卓を聖なる祭壇とする行為をし、塩で清めて神様と共に食する(まおす)事をする。
日本では、神前の供え物には必ず塩が供えられる。
仏前には塩は捧げない。砂糖や甘い物…白飯などである。
神前に塩を…は、古代イスラエルの風習と類似している。
「あなたの捧げ物には、いつでも塩を添えて捧げなければならない」(レビ記2:1)と聖書に記されている。
ユダヤ教の教典タルムードにも、全ての犠牲や供え物に塩を添えるのを欠かしてはならないと記されている。
塩は腐敗を防ぎ保存や永遠を・表すの象徴とされた。
日本では、お葬式に参加すると、参列者に清めの為の塩が配られる。
参列者は、自分の家に帰った時、玄関前でそのお清め塩を塩祓いといって、頭や肩へ振りかけて貰う。
昔は死に触れた者は穢れてるとされ、そうやって身を清めてからでないと、穢れたとして家に入れて貰えなかった。
古代イスラエルでも、葬式に参加した人や、死体に触れた人は、定められた方法で禊ぎをしなければならなかった。
「身の清い人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを死人や墓に触れた者の上に振りかける」(民数記19:18)
イスラエルでは、死体に触れた者は禊ぎをして身を清めなければならない。今も、ユダヤ人墓地の入り口には必ず水がありユダヤ人の家の玄関の近くにも水がある。それは、穢れる所へ行ってから家に帰ってきた時、そこで禊ぎをする為です。
日本神道の神話に中にも、イザナギ大神は、イザナミ大神を黄泉の国から連れ戻そう降って行き、帰ってきた時に、穢れを祓うために川で水浴して禊ぎをしたと記されている。
日本神道は、死者の穢れ、忌み物の観念を持っている。「どのような人の死体にでも触れる者は、七日間汚れる」(民数記19:11)と旧約聖書に記されている。
日本神道でも同様に、家族に死人が出たときや、親族に死人が出たとき、一定期間穢れているとみなされる。
仏教の葬儀は寺社の中で行なわれるが、神道式の葬儀は、必ず神社以外の場所で行なわれる。それは穢れを神社内に持ち込まない為。
古代イスラエルにおいても、神殿では決して葬儀は行なわれなかった。
聖書に、モーセとアロンの死の際に、30日間泣き悲しみ、喪に服したと記されている(申命記34:8、民数記20:29)
日本神道でも人の死の忌みの日数を30日と定めている。
死体の穢れだけではなく、女性の月経や、妊娠中、また産後に関する血を流す事への穢れの観念が古代からある。
古来日本では月経中の女性は神事に参加は許されなかった。
月経中の女性は部落内に設けられた共同小屋に、月経中及びその後の数日あるいは七日程度にわたって、籠もっていなければならなかった。明治時代までは広く見られた風習。
忌みの期間が終わると、女性は川や泉、海などの自然の水で身を清める事を求められた。自然の水がないときは、自宅の浴槽でも可とされた。
これは古代イスラエルの風習に大変類似している。イスラエルにおいても、月経中の女性は神事に参加できず、夫から離れて、別小屋に籠もる風習があった。
籠もる期間は、月経中およびその後の七日間(レビ記15:19、28)。 この風習は今もユダヤ人の間にある。女性は生理中及びその後の七日間、夫との性交渉を禁じられている。その後女性は沐浴をして、水で身を清める。
月経、妊娠中、また産後の女性は肉体的にも精神的にも不安定であり、静養が必要で、その静養の必要の為の籠もりである。
また同様の理由で妊娠中、および産後の女性は一定期間、産屋小屋に妊娠中、および産後の女性は籠もっていた。
日本神道の風習でも、お産の忌みの期間が明けた後、その子どもを連れて初宮詣をする。
現在の日本では、初宮詣はふつう、男子の場合は生後31日目、女子の場合は生後33日目に行なわれる事が多い。
毎年10月(旧暦時代は9月)に伊勢神宮を中心に行なわれる神嘗祭は、収穫の初穂を神に捧げる祭である。初穂を神に捧げる風習は、古代イスラエル人も同様に持っていた。
「あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない」(出エジプト記34:26)
伊勢神宮では、神嘗祭の時にすべて新調され新年を迎えるようにすべてを新しく整える。
ユダヤ教でも、収穫の祭である仮庵(かりいお)の祭が行なわれる9〜10月は、新年である。
また伊勢神宮の10月の神嘗祭の約1ヶ月後、皇室を中心に新嘗祭が行なわれる。これは神嘗祭と同様、収穫を捧げる収穫祭。
新嘗祭は午後六時に始まり、終了するのは午前一時頃である。それは夜行なわれる。
今上天皇は、収穫の一部を神に捧げ、それを神の前で食する。天皇はこれによって、民を導く指導者としての役割を神から授けられる。
かつて古代イスラエルでも、イスラエルの指導者たち、モーセ、アロン、長老七十人、その他は、神の前で食することを行なった(出エジプト記24:11)
また、天皇が即位後初めて行なう新嘗祭を、大嘗祭と呼び。大嘗祭の時には、収穫を捧げる為の特連の儀式が終了したのち壊されて燃やされる。
大嘗祭も夜に行なわれ午後六時半から翌朝未明まで行なわれる。この時、即位した天皇は神と共に同衾し現人神としてのカを神より得るとされている。
Re: 〉チアン語群 (Qiangic) …
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009357M.jpg
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_22.html
碧眼・金髪…コーカソイドの末裔
一部白人に見られる金髪碧眼とは絶滅したと言われるネアンデルタール人との混血によってできたのでしょうか? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq14143175819
金髪碧眼はネアンデルタール人の絶滅よりも後に生じたことのようです。しかし,ソロモン諸島の金髪の人達はデニソワ人(ネアンデルタール人の兄弟種)の遺伝子を持っているからだという学者もおります。結論は今少し待たないとでないと思いますよ。
デニソワ人として新聞に載っているが、NCBIには Homo sp. Altai で収録されていた。 なぜ特別扱いか 1万2千年前まで原人が生息していた可能性があるらしい( ホモ・フローレシエンシス )。
アルタイ人(デニソワ人) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmikeo410.minim.ne.jp%2Fcms%2F%7Eotheralti
??ロシア・シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟で2008年に3-4.8万年前の小指の骨の化石発見された。mtDNAの全塩基配列が得られ、104万年前に共通先祖から分かれたとされる。
??デニソワ人として新聞に載っているが、NCBIには Homo sp. Altai で収録されていた。
なぜ特別扱いか
??1万2千年前まで原人が生息していた可能性があるらしい(ホモ・フローレシエンシス)。
??いろいろなことから、4万年も前なら、いろいろに分類されているヒトの近縁が並行して存在していたことは概ね確からしい。
??年代で重要なのは6万年ほど前に原生のヒトの直系の先祖がアフリカを出たと考えられていることだ。
??デニソワ洞窟では石器が発見され12万年前から人が住んでいたことが確認されているらしい。
??したがって、原人の発見の1つとも思える。
??mtDNAの全塩基配列が解明されたことは、ネアンデルタール人以外では例がないものと思う。
??したがって、ネアンデルタール人でないことは確認された。
??「新しい人類」と記されているが、他の原人ではないことはなぜわかるのだろう。
ネアンデルタール人は、およそ3万年前に絶滅しているので、少なくとも数万年間にわたって、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は、中東やその周辺エリアを生活圏としつつ、異種交配(性交渉)できる環境で共存していたと推察できる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fhealthpress.jp%2F2016%2F03%2Fdna-dna.html
カステラノ氏によれば、ホモ・サピエンスの人口が急増し、遺伝子の混合が何世代にもわたるにつれて、個体数が圧倒的に少なかったネアンデルタール人のDNAは、ホモ・サピエンスのDNAに吸収されたため、絶滅したという。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fhealthpress.jp%2F2016%2F03%2Fdna-dna_2.html
碧眼金髪になった北欧人はアーリア人(インドヨーロッパ語を話す人)ではなく、もっと古く北に移動したコーカソイドの末裔ということと理解しました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Foshiete.goo.ne.jp%2Fqa%2F7873733.html
ウイキペディアには、金髪碧眼で一番多いのはリトアニア人となっています。(前回回答)
リトアニア語とラトビア語はバルト語で、現在使われているインド・ヨーロッパ語の中で古い特徴を最もよく残していると言われるそうです。サンスクリット語や古代ペルシャ語などとの共通点も指摘されているとのことですが、他の言語圏から表現を持って来る(借用する)ことは多いので、人間が集団で移住してきたということにはなりません。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2583%25AA%25E3%2583%2588%25
金髪碧眼が多いフィンランドも民族、人種が違います。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2583%2595%25E3%2582%25A3%25
金髪碧眼が多いポーランド人もある意味人種のるつぼのようです。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2583%259D%25E3%2583%25BC%25
セント・アンドルーズ大学の後援を受けたカナダの人類学者ピーター・フロストは、最後の氷河期の終わりにおいて金髪の人種が急速な発生を見たのは、性淘汰の結果であるとの説を、2006年3月に Evolution and Human Behavior において発表した。この研究によれば、多くのヨーロッパの地域において金髪と青い瞳を持つ女性は、乏しい数の男性を相手にした過酷な配偶者獲得競争において、彼女らの競争相手より優位に立てたのである。ヨーロッパ圏において食糧不足の為にクロマニヨン人の人口が低下していた1万1千年前から1万年前の時期において、金髪は増加を見たのであると、研究は主張する。
ヨーロッパ北部におけるほとんど唯一の食料源は放浪するマンモスやトナカイ、野牛、野馬の群れのみであり、それらの獲物を発見するためには長く困難な狩りのための遠出が必要であり、狩りの間に多くの男性が命を落としたために、生き残った男性と女性の比率の不均衡が生じた。この仮説では、金髪の女性はその際立った特徴が男性を獲得する際に役立ったために、その結果として金髪の人口の増加につながったのであると主張されている。
『The History and Geography of Human Genes』(1994年)によれば、金髪は紀元前3000年頃に現在リトアニアとして知られる地域において、インド・ヨーロッパ祖語族の間でヨーロッパの支配的な頭髪の色となった(現在においても、リトアニアは金髪人口の比率が最も高い国として知られている)。男性が金髪の女性を魅力的であると見なすようになったために、この特徴はスカンジナビアへの移住が行われた際にも、性淘汰によって急速に広まったのであると考えられる。
クロマニヨン人の人口が低下していた1万1千年前から1万年前の時期において、金髪は増加…
クロマニョン人がハプログループU5b1h (mtDNA) に属す…
ハプログループI (Y染色体)、ハプログループJ (Y染色体)と対になる母系タイプ
U6はベルベル人を特徴づける型
東ヨーロッパ、中央アジア、西アジア、南アジア、北アフリカ、アフリカの角に広く分布する。 ヨーロッパ人の11%[4][5][6] 、インドではカーストの15%、指定部族の8%にみられる[4]。 特にU6はベルベル人を特徴づける型である[7]。 形質人類学でいうコーカソイドに広くみられるタイプであり、ハプログループI (Y染色体)、ハプログループJ (Y染色体)と対になる母系タイプと考えられる。
ハプログループU (mtDNA)https://ja.wikipedia.org/wiki/ ハプログループU_(mtDNA)
ハプログループU (mtDNA)は分子人類学におけるミトコンドリアDNAハプログループの一タイプであり、ハプログループRの子型のうち「11467, 12308, 12372」で定義づけられるものである。 43,000〜50,000(95% CI: 46,530 ± 3,290) に誕生したと考えられる[1]
ベルベル人はハプログループE1b1b (Y染色体)が高頻度であるが、ハプログループU6 (mtDNA)やH1(mtDNA)を中〜高頻度で持ち、遺伝的にはネグロイド(E1b1b(Y-DNA))とコーカソイド(U6,H1(mtDNA))の混血と言える。U6,H1(mtDNA)の対のタイプであるR1b(Y-DNA)はレバントからエジプト、スーダンを通ってカメルーン付近にいたり、現在はチャド語派の民族に高頻度に見られるが、R1b(Y-DNA)-U6,H1(mt-DNA)集団がエジプト・スーダン付近に到達した際に、南方からやってきたアフロ・アジア系E1b1b(Y-DNA)(ネグロイド)と、元来R1b(Y-DNA)の対であったU6,H1(mtDNA)(コーカソイド)が混合し、E1b1b(Y-DNA)とU6,H1(mtDNA)をもつ現在のベルベル人が形成されたと考えられる。
古代DNA[編集]
紀元前1000年紀のエジプトのアブシール遺跡から発掘されたミイラがハプログループUに属すことがわかった[8]。
2015年の遺伝子調査では、13,000年前のスイスのクロマニョン人がハプログループU5b1h (mtDNA) に属すことがわかった[9]。
ハプログループI (Y染色体)(ハプログループI (Yせんしょくたい)、英: Haplogroup I (Y-DNA))とは分子人類学において人類の父系を示すY染色体ハプログループ(型集団)の分類で、ハプログループIJの子系統で、L41, M170, M258, P19_1, P19_2, P19_3, P19_4, P19_5, P38, P212, U179の変異によって定義されるグループである。40,000-50,000年前にヨーロッパまたは中東で誕生したと考えられる。途絶えずに現代のヒトに直系の子孫を残す下位系統の最も近い共通祖先はおおよそ25,000-30,000年前にさかのぼると推定される。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ヨーロッパに高頻度である。I1系統が北欧に、I2系統がバルカン半島に多い。en:Herzegoviniansに63.8%[3]、ルーマニア人に48.1%[4]、ボスニア人に42.0%[5]、ノルウェー人に40.3%[6]、スウェーデン人に40%[7]などである。ハプログループC1a2 (Y染色体)に次いでヨーロッパに分布を広げたグループであり、32,000-22,000年前にヨーロッパに至った[8]。Swederian文化やクンダ文化の担い手と考えられる。サブグループI1は北方人種と、I2はディナール人種と分布の相関がみられる。
クロマニョン人[編集]
13,000年前のスイスのクロマニョン人を遺伝子調査したところ、ハプログループI2a (Y染色体)に属すという結果が出た[10]。これによりハプログループIはクロマニョン人のハプロタイプであることが明らかとなった。
農耕と巨石文明の受容[編集]
ハプログループIはヨーロッパ先住系の狩猟採集民(クロマニョン人)だが、後からハプログループG2aによってもたらされた農耕と巨石文明[11]を受容した。巨石記念物の作り手として、ハプログループG2aとともにハプログループI2aも検出されている[12][13]。
碧眼・金髪[編集]
ハプログループI(特にI1)は碧眼の分布と相関しており、碧眼遺伝子の担い手であったようである[14]。また金髪の分布とも相関している。
言語[編集]
ハプログループIの担っていた言語は印欧語などに言語交替したため完全に失われており、その詳細は全く不明である。しかしウラル語族のバルト・フィン諸語(フィンランド語、エストニア語など)の語彙にはその他のフィン・ウゴル語派と共通しないものがあり、それは古い基層言語に由来する可能性があること、また特にサーミ語に関しては、祖先は別の言語を話しており、のちにフィン・ウゴル語を受け入れたという可能性が高いこと、またゲルマン諸語の語彙にもその他の印欧語族と共通しないものがあることから、これらの基層言語として元来のハプログループIの言語の痕跡を垣間見ることができる可能性がある。
ハプログループJ-P209 (Y染色体)(ハプログループJ-P209〈Yせんしょくたい〉)、系統名称ハプログループJとは、分子人類学で用いられる、人類のY染色体ハプログループの分類のうち、IJのサブクレード(細分岐)の一つで、「12f2.1, L134, M304, P209, S6/L60, S34, S35」の変異で定義づけられる系統である。約48,000年前に誕生した。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
下位系統[編集]
大きくJ1とJ2にわかれる。J1はアラブ人に多くみられ、アラビア半島や北アフリカで多い。J2は肥沃な三日月地帯からトルコ、ヨーロッパの地中海沿岸、中央アジア、南アジアなどに多い。J1は南東人種、J2はアルメノイドの分布と概ね相関している。コーカサスでは民族や地域間の差が大きいが、全体的に見ればJ1もJ2も多い地方の一つとして挙げられる。
J
J* -
J1 L255, L321/PF4646, M267/PF4782
J2 M172/Page28/PF4908, L228/PF4895/S321
(系統はHaplogroup Tree 2015 Version: 10.26 Date: 10 April 2015による。)
J*[編集]
ソコトラ島71.4%[2]
J1系統[編集]
イエメン76%[3][4]、サウジアラビア64%、クウェート58%[5]、ダゲスタン56%[6]、アルジェリア35%[7]、イラク33%[8]、チュニジア31%[9]、リビア30.5%[10]、シリア30%、エジプト20%[11]、アシュケナジーユダヤ人20%[12]など。
J2系統[編集]
イングーシ人88.8%[13]、グルジア北東部72%[14]、チェチェン人56.7%[15]、イタリアCentral Marche 35.6%[16]、ウイグル人34%[17]、ウズベク人30.4%、キプロス30-37%[18]、レバノン30%[19]、イラク(アッシリア人、マンデ人、アラブ人)29.7%[20]、シチリア島22.6%[21]、アゼルバイジャン人24%-48%、シリア22.5%、クルド人24-28%、イラン人23%[22]、トルコ24.6%[23]、ギリシャ・クレタ島35%[24]、アシュケナジーユダヤ人24%、セファルディーユダヤ人29%、ドラヴィダ人(カースト)19%[25] など。
O系統がコーカソイドの系統…碧眼金髪…末裔が匈奴?
衝撃!黄河人は(古)コーカソイドの末裔? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.rui.jp%2Fruinet.html%3Fi%3D200%26c%3D400%26m%3D258757
>おもしろいのは、この黄河文明の遺跡から出土する人骨で、鑑定の結果、どうやら黄河流域に住み着いた黄河文明人たちは、モンゴロイドではない。では何かというと、これがコーカソイドです。
つまりヨーロッパ系の白人種です。<258650
>長江文明を滅ぼしたコーカソイドの黄河人たちは、長い年月の間に、強姦によってモンゴロイドと血が混じります。そして人口の違いによって、外観はモンゴロイドに酷似するようになった。<
実は以前から気になっていたのですが、Y遺伝分類の東アジアの主勢力、O系統は、系統樹から素直に見る限り、(古)コーカソイドの系統(≒脱アフリカ第3派)から分派したとしか見えない。
現在発表されている系統樹は、何かの間違いかと思っていたが、上記のようなことは十分考えられるかもという気がしてきた。O系統がコーカソイドの系統ということは、漢人だけでなく、東南アジア人=O1、O2系統も(古)コーカソイドの系統ということになる。
ただし、女性の遺伝子はアジアのタイプが継承されているのだろうから、女性によってアジアの共同体は守られ、何事もなかったように本源性を回復したということなのか。もうちょっと追跡調査が必要です。
〉碧眼金髪になった北欧人はアーリア人(インドヨーロッパ語を話す人)ではなく、もっと古く北に移動したコーカソイドの末裔ということと理解しました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Foshiete.goo.ne.jp%2Fqa%2F7873733.html
夏王朝は「西方の牧畜民=コーカソイド」が築いた? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.rui.jp%2Fruinet.html%3Fi%3D200%26c%3D400%26m%3D243011
「長江流域にモンゴロイドが稲作を基礎とする文明を築いていた。一方、西から移動してきた麦作と牧畜を基礎とした文化を携えたコーカソイドが黄河流域に定住した。武力に勝る北方黄河文明の支配者は、人口においては優勢な長江文明の人々と戦い勝利した。人口に勝るモンゴロイドは政治的軍事的文化的には敗者であったが、遺伝子的には黄河文明の人々をしのいで現代漢民族は『黄色』になった。」(242892)
漢民族の始祖は三皇五帝(伝説)のうちの黄帝といわれていますが、三皇は神話の要素が強く、五帝は人王の伝承になっているが、それも史実かどうか定かではありません。
古代に黄河流域に定住していた部族が、長江流域にいた南方モンゴロイドに勝利した伝承を基にして、後代に中原を支配した漢民族が、南方民族の始祖を神農に比定し、神農の子孫に勝利した黄帝を漢民族の始祖とする伝説にしたと思われます。
五帝の後、BC2070年に始まり、BC1600年に湯王に滅ぼされたとされる夏王朝も、実在したかどうかいまだに議論が続いていて(大勢は実在説に傾いているようだ。)、実在したとしても王朝を築いた民族が漢民族と断定する根拠はないようです。
むしろ、黄河流域にいた部族がモンゴロイドではなく、西方の牧畜民=コーカソイドであり、その部族が築いた国家が夏王朝であり、その末裔が匈奴だとする論考があります。
…匈奴が夏の末裔であるという記述は別に矛盾するものではなく、むしろ当然であるとさえ思えてきます。夏を建国した人々は北狄の地から来た牧畜民であり、龍はまさにそれを体現化させた象徴に他ならなかったからです。夏が牧畜民であったことは一つの都市に定住せず、各地に移動していたことからも伺えます。
夏が滅亡した後に、その末裔は故地である北狄の地、即ちモンゴル高原に帰還して牧畜を行うことになります。彼等はやがてテュルク系の種族(狄の発音はテュルクに通ずるとされています)を形成しますが、それと共に龍も「退化」して犬・狼となり、この犬・狼が「北狄=テュルク系」の新たなる信仰・トーテムとされています。
日本武尊の時代の東日本の蝦夷は匈奴だった /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Ftacchan.hatenablog.com%2Fentry%2F2014%2F04%2F29%2F174825
匈奴というのは、紀元前7世紀以前から3世紀頃まで、ユーラシア大陸のモンゴル平原を中心とした地域で繁栄した、遊牧騎馬民族国家でしたけど。
匈奴は2世紀から5世紀にかけて衰退の一途を辿りましたが。
北匈奴は西へ向かって、欧州を荒らしまわるフン族になり、これによって5世紀のゲルマン民族の大移動が起きたのでした。
南匈奴は後漢に寄り添って生き延びたものの、やがては群雄割拠の中国大陸の諸勢力に飲み込まれ、一見しては消失してしまうのでした。
5世紀に中央アジアで白匈奴(エフタル)が出現しますが、歴史上で6世紀頃には、中国大陸から匈奴の名は消えてしまう、これは歴史の定説です。
と思いきや、実は匈奴は日本列島の蝦夷の中に入り込んでいた、としたら、匈奴の郷土が新たに判明したということになり、にわかに匈奴まつりが始まってしまいます。
東日本の蝦夷は中国史書「宋書」では「毛人」とあって、通説的には縄文人の末裔だとか、アイヌ人のことだとかで、別名を毛野氏と言いますた。
毛野氏というのは群馬、栃木、埼玉付近の豪族で、崇神天皇の皇子である豊城入彦命が始祖と「日本書紀」にいわれるのですが、これは天皇が蝦夷を支配下に置いたことを表しているようです。
私見としては、日本武尊の頃の蝦夷とは、縄文人の末裔、縄文人の末裔としてのアイヌ、の両者を中心とした勢力と思ってたのですが、つい先日、考えが変わりました。
特に東日本の「中部地方〜関東地方」までの蝦夷と、「東北地方〜北海道」までの蝦夷はちょっと違ったかもしれない。
しかも中部地方〜関東地方の蝦夷には匈奴が入ってた、と思うわけなのですが、その解説をします。
…つまりスキタイ・サカと同じ風習を持っていた匈奴は、この血を飲む文化も踏襲していたとしておかしくないということになりそうです。実際匈奴にはスキタイ・サカ出身の人々も、入り込んでいたでせう。
ウィキペディアの髑髏杯のページを見ると、こうあります。
紀元前8世紀〜紀元前3世紀にかけて現在のウクライナに割拠した遊牧民族スキタイの習俗に「頭蓋骨は近親者か最も憎い敵に限り、髑髏を眉の下で切り牛の生皮を貼って杯として用いる」とあり、これが最も古い髑髏杯の記録だと思われる。
大プリニウスは『博物誌』に、ドニエプル川の北方部族が髑髏杯を用いる事や、夜間に泉から汲んだ水を髑髏に入れて患者に飲ませるという癲癇の治療法を記している。
イッセドネス人は親の葬儀で喜びを表し、集まって祝祭を催す。そして故人の遺体を引き裂いて家畜の胎児の挽き肉と混ぜ合わせ、宴に来た人々にふるまい、食べつくす。頭蓋骨は磨き上げて黄金を巻き、杯に使う。これらの行為はイッセドネス人における最大の親孝行であるという。
紀元前2世紀、モンゴル高原に割拠した遊牧国家匈奴の老上単于は、隣国(敦煌付近)である月氏の王を討ち取り、その頭蓋骨を盃にした。以後、この髑髏杯は代々受け継がれ大事な時に使用された。
516年、高車王の弥俄突(在位:508年 - 516年)は柔然可汗の醜奴(在位:508年 - 520年)と戦い敗北した。醜奴はその両脚を駑馬の上に繋いでこれを殺し、その頭蓋骨に漆を塗って盃とした。
・・・わかりますたね。
匈奴はスキタイ同様に髑髏杯を作って酒を飲んだ。スキタイ出身の郷土人なら、血を飲んだかもしれませぬね。
そういえば日本の戦国武将の織田信長も、髑髏杯を作ってたとか言います。まあ信長は第六天魔王だから、髑髏杯くらいは朝飯前だったとか?ウィキペディアの髑髏杯に詳しくありますので。
あと掛川城に、髑髏杯が展示されてます。こちらのサイトで見れるので。
ともかく東国の蝦夷の「人の血を飲む風習」が本当ならば、東国の蝦夷とは、ユーラシア大陸の騎馬民族出身者だった、もしくは一部のそうした騎馬民族出身者が景行天皇にも知られてたと考えられることになります。
もう一つ気になる一文がありまして、
「攻めれば草にかくれて、追えば山に入る」ですが、実はこれと同じような表現が「漢書・匈奴伝第六十四」にあるのですね。こうあります、
「有利と見れば進み、不利と見れば退いて、遁走するを恥と思わなかった」
「毛皮を着て」の部分も、匈奴伝に同様にあるし、
「男女親子の中の区別もなく」のところは、匈奴が老人を敬わず、目上に対しても敬語を用いず、レビラト婚制度(兄弟が死ぬと、妻は残った兄弟の妻となる)という、匈奴の風習を記したものと思えます。
匈奴(きょうど)・狗奴国(くなこく)・毛野国(けのこく)
東日本に匈奴が住んでたその理由は、地名にも見られます。
邪馬台国の卑弥呼に抵抗した狗奴国がどこにあったか、知ってますか。
九州の熊曾、球磨郡?そういう説もありますが。
違います。
実は狗奴国の位置は『後漢書』が正しいと思われます。
『後漢書』にはこうある。
「女王国の東千里、海を渡ったところに狗奴国あり」
女王国の本拠地は、九州だったと言って、個人的には間違ってないと考えますけど。
その理由は、女王卑弥呼の名前自体に日向(ひむか)が含まれるという意見は尤もであるでせう。
中国史書の「魏志」の記録を読み解くと、女王の都・邪馬台国は、武器で守護された土地ということが書いてあります。これに符合するのは、武器大量出土地の北部九州というわけなのですよ。
残念なことに近畿地方では遺跡から武器がほとんど出土しないので、邪馬台国畿内説は当たっていないでせう。
九州の東の海を超えた土地といえば、本州か四国ということになります。
つまり本州の近畿地方より以東は、ほとんど狗奴国の範疇にあったのではないかと考えてます。
その理由を説明すると、
北陸道は「くぬが道」と読むの知ってましたか。「日本書紀」にあります。くぬがの「くぬ」は、狗奴(くな)がなまったものだとすれば、北陸道は狗奴国の範囲だったことになります。
関東地方の毛野(けの)も、狗奴の転訛でせう。上野国(こうずけのくに)は群馬県のことで、下野国(しもつけのくに)というのは栃木県のことで、両者は「けの」を含んでます。
京都市の久何神社(久我神社)も、静岡県袋井市の久努国造の久努も、滋賀県長浜市の波久奴神社もやはり狗奴の名の名残であろうと思われます。神社の名前に、狗奴国が反映されてたのです。
関東地方を北から東へ流れる鬼怒川というのも、実は狗奴川のことなんじゃないかと思います。こうして狗奴に一致する大きな地名が多いのは、偶然とは言いがたいほど多くあるのでした。
崇神天皇に抵抗した武埴安彦=狗奴国王卑弥弓呼
ブログの右側で宣伝してる2つの拙著に度々書いてましたが、武埴安彦というのは、狗奴国王、卑弥弓呼と同一人物なのです。
名前からも分かります。
埴安彦 Ha-Ni-安-Hi-Ko
卑弥弓呼Hi-Mi- -Ku-Ko
卑弥弓呼は、卑弥安弓呼だったんじゃないかと思います。
で、この埴安彦の名前にも匈奴が見え隠れしてます。
埴 Ha-Ni
匈奴Hu-Na (Ku-Na)
狗奴Ku-Na
匈奴は地域・時代・民族により呼称が異なり、フン、フナとかいいましたので、武埴安彦はなにか匈奴と関係あるのかもしれません。
ところで、こういうフンとかフナとか言うと、歴史的名称でさえも、汚いものを連想してかけあわせる人がいたりするのですが、そういう悪魔の悪戯的な陵辱は、この場面ではまったく必要ありませんので、お願いいたしますね。
そういえば古事記によれば、武埴安彦(建波迩夜湏?古)の父は孝元天皇なのですが、母親の名前も波迩夜湏?売で、波迩がやはり匈奴を表していて、この女性が匈奴人だったのかもしれんです。もちろん推定ですが。
・狗奴(くな)国は鐘(かね)国
銅鐸というのは近畿地方を中心として日本列島に分布し、九州のほうでは出土例が少なくなってます。つまり私の言う狗奴国の位置と、銅鐸出土地の中枢は、重なっているのですね。
そしておそらく銅鐸というのは、倭の時代にあっては「かね」と呼ばれていたかもしれませんよ。
そうすると、
狗奴国 Ku-Na-国
鐘国 Ka-Ne-国
ということになり、狗奴の発音と鐘の発音をかけあわせているでせう。
・・・・
Re: O系統がコーカソイドの系統…碧眼金髪…末裔が匈奴?
荊の紀氏さんへのお返事です。
> 実は以前から気になっていたのですが、Y遺伝分類の東アジアの主勢力、O系統は、系統樹から素直に見る限り、(古)コーカソイドの系統(≒脱アフリカ第3派)から分派したとしか見えない。
>
OではなくO-M134のみがコーカソイドの要素も入っていたという可能性がある。
O1などは古モンゴロイドだ。
O-M134はコーカソイドが生まれる時点まで彼らと同じ地域にいた。パミールあたりだ。
いや、違う。どちらかと言えば、系統からはRがモンゴロイドのはずだったと見える。
K2の他のN,O,Qすべてモンゴロイドだからだ。
Re: (無題)
秦野北斗さんへのお返事です。
> AI君は、チベット・ビルマで羌族美人とフリーハグだな、ただし、イケメンならの話しです。
> 荊の紀氏は、年寄りでチベット・ビルマまで体力がない、フリーハグは不可能。
> ところで、AI君は、トルコでフリーハグしたの、ホテルとツアーでボッタクリされたな。
>
>
もうフリーハグはしてきた。第1回目のチベット訪問で。
高山病ではないようだがひどく体調を崩し、チベット人のおばちゃんに後ろからハグして医者に連れてってもらった。おんぶとも言うw
つか、チベット人のD1aを旧D2と勝手読みしてクダラナイ妄想を宣伝してたこと、
青少年の皆さんとチベット人や羌族に謝罪せい!
Re: (無題)チベットのD1(D1a)をD2(D1b)と勝手読みし馬鹿な妄想に浸ってたこと、内心に留めるどころかデマカセを宣伝していたこと、青少年とチベット人や羌族に謝罪せい!
秦野北斗さんへのお返事です。
> > AI君は、チベット・ビルマで羌族美人とフリーハグだな、ただし、イケメンならの話しです。
> > 荊の紀氏は、年寄りでチベット・ビルマまで体力がない、フリーハグは不可能。
> > ところで、AI君は、トルコでフリーハグしたの、ホテルとツアーでボッタクリされたな。
> >
> >
>
>
>
「チベット・羌族O-M117でmt-G3ですよ」と話せばフリードリンク&フリートークだろうw
ただし、彼女たちがDNA人類学などに関心がない可能性は非常に高いw
キシは、O-M117ではないので無理だ。彼は原始人D1bか漁民O1b2だ。
単純に40人集まらないと私以外にO-M117は現れない。
君らはアンダマンかカンボジアにでも行くがいい。
アンダマンでは吹き矢で襲われる危険が高いがw
つーか、チベットのD1(D1a)をD2(D1b)と勝手読みし馬鹿な妄想に浸ってたこと、内心に留めるどころかデマカセを宣伝していたこと、青少年とチベット人や羌族に謝罪せい!
「毛人(えみし・えびす)」…毛野氏…異母弟は天皇…
下毛野氏の末裔とされる一族が我が町長岡京市に現存する。「調子氏」である。調子氏古文書として多くの貴重な文書が残されている。
毛野(けの、けぬ)氏は、関東北部の毛野国(現在の群馬県・栃木県)を本拠地とした古代豪族である。10崇神天皇の第1皇子である豊城入彦(とよきいるひこ)命を元祖とする皇別氏族とされている。歴史上あまり有名な氏族とは言えないが、古代において日本の一番北に当たる関東北部一帯に大勢力をもった氏族である。これより北は蝦夷地であり、未だ当時の大和王権の勢力圏外であった。毛野国は後に上毛野(かみつけぬ)国(現在の群馬県)と下毛野(しもつけぬ)国(現在の栃木県)に分国された。さらに後年(713年)になって上野国(こうずけのくに)・下野国(しもつけのくに)と呼称が変化した。それぞれの国の国造家が上毛野(かみつけぬ)氏・下毛野(しもつけぬ)氏である。
共に「豊城入彦」の末裔である。この両氏を中心とした毛野氏一族は全国に分布していくが、東国六腹朝臣(上毛野・下毛野・佐味・池田・車持・大野氏)が中心である。684年に揃って朝臣姓を賜った。地方豪族としては破格の待遇であった。
毛野氏人物列伝
・10崇神天皇
・荒川戸畔
?父:諸説あり 母:不明
?子供:遠津年魚眼眼妙媛・ 中日女(物部大新河室) 別名:荒河戸弁
?男性か女性かよく分からない。古来女酋説強い。
?紀国造説あり。(紀国造系図にはないが、その他の諸系図には載っている)系図諸説あり。紀国在住の非天神系の勢力者という位置づけ。
・遠津年魚眼眼妙媛
2−1)豊城入彦(とよきいりびこ)
?父:10崇神天皇 母:遠津年魚眼眼妙媛<荒川戸畔 (異説あり)
?崇神の第1皇子。豊鍬入姫は同母妹。11垂仁天皇は異母弟。子供:八綱田
別名:豊木入日子、豊城命
?上毛野・下毛野君始祖。
?紀:崇神48年夢占いの記事。崇神天皇は後継者を決めるのに豊城入彦・活目入彦兄弟の夢から判断して活目(後の11垂仁天皇)を皇太子に決めた。
?紀:崇神48年、「崇神の命により東国へ派遣され、東国を治めしむ」
?東国で没したとの説あり。前橋市総社にある二子山古墳が墓か?
?毛野国に出雲の神々を祀ったとされる。赤城神社・二荒山神社。
赤城神社の祭神は、大己貴命・田心姫・味鋤高彦根命・事代主命である。主祭神は大物主神ともいわれている。
<上毛野氏>
2−6−1)上毛野竹葉瀬(たきはせ)
?父:荒田別 母:不明
?子供:島名 別名:多奇波世命
?紀(仁徳53):新羅に派遣された。
?蝦夷征伐。
2−6−2)島名
2−6−3)腹赤
子供:努賀(皇別田辺史氏祖)
・新撰姓氏録に皇別田辺史氏発生の云われについて雄略朝の記事あり。
・この流れに田辺史難波が出る。
・田辺史難波
750年上毛野君姓を賜った。従五位上。出羽守。皇別田辺氏。大野東人と蝦夷征伐。
渡来人系であるはずの田辺史氏が何故上毛野氏の姓が与えられたかは謎である。
上毛野腹赤ー努賀ー百尊ー徳尊ー斯羅の流れが皇極朝に田辺姓を名乗った。どこかの
段階で渡来人系の田辺史氏が上毛野氏と婚姻関係により同一視されるようになったものとも言われている。この田辺氏は蕃別氏族ではなく、皇別氏族となっている。
5)毛野氏関連系図
・毛野氏元祖関連系図
諸々の公知系図を組み合わせた筆者創作系図である。
・(参考系図)1)天野祝氏系図2)大丹生・丹生氏系図
1)2)系図を参考に荒河戸畔の出自系図を示した。
・下毛野氏系図(調子氏系図)
長岡京市史記載の系図。
・参考系図)宇都宮氏嫡流関連系図
公知系図を組み合わせて筆者創作系図とした。
・宇都宮頼綱周辺系図
公知系図を組み合わせて筆者創作系図とした。
毛野国は、大和王権が誕生した頃(4世紀初頃)の呼称で、王権勢力が及んだ北の端の国である(4世紀に大和王権の勢力がここまで及んだことにも疑義あるとされている)。これより北は、蝦夷地であり未だその支配権は及んでいなかったのである。
隣には越国・科野国・武藏国・常陸国がある海の無い内陸国であった。
「毛」の意味は、大和王権からみて「毛人(えみし・えびす)」(アイヌ人とは必ずしも同義語ではない)が住む土地という意味があったとする説が主流。それ以外にもこの地に最初に来た弥生人(当時としての文化人)が紀の国にいた出雲神を信奉する氏族が中心だったので、「紀」が訛って「け」になった。現在鬼怒川と言われている毛野国の中心的川も元は「毛野川」と呼ばれており、これも「紀ノ川」からとられた呼称である。という説もある。武藏国との境界は利根川である。武藏国は既稿「出雲氏考」で述べたように出雲臣氏の累孫が国造となっている。
先代旧事本紀の「国造本紀」によると、仁徳朝に渡良瀬川を境として、上毛野国(かみつけぬ、現:群馬県)・下毛野国(しもつけぬ、現:栃木県)の二国に分けられた、とある。
これがさらに大化の改新後下毛野国の北隣にあった小国「那須国」が下毛野国那須郡として併合され、713年の「畿内七道諸国郡郷名は二字の好字にせよ」との詔勅により、上野(こうずけ)国(上州じょうしゅう)、下野(しもつけ)国(野州やしゅう)と呼称するようになった。下毛国では意味がよろしくないということで「毛」の字は外されたが呼称はそのまま残ったとされる。
さて、この毛野国から始まる大和王権最北端の地に10崇神天皇の長男「豊城入彦命」が天皇の命によってこの地を治めよ(崇神紀48年)とされたことから、この地の記紀の記述が始まっている(毛野氏元祖関連系図参照)。11垂仁天皇との大和御諸山(三輪山)での夢占いにより、異母弟は天皇になり兄は未開の地蝦夷との境界の地への派遣が決まったとされている。これが古代豪族「上毛野氏・下毛野氏」らの元祖である。
清和源氏 足利氏一門桃井氏庶流 橋本氏[編集]
清和天皇を祖とする清和源氏の大族 河内源氏の嫡流 足利氏の一門 桃井氏の子孫に橋本氏がある。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
毛野氏らの末裔は日本全国に散らばり、或る氏族は武士となり、源氏・平氏の影響下に、或る者は藤原氏の笠の下に入って、永続したものと思われる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fek1010.sakura.ne.jp%2F1234-7-27.html
伊達政宗の家系図 を簡単に、かつ出来るだけわかりやすく解説しました。 伊達家は源頼朝の時代から続く家柄であり、その系図は現在に至るまで続いています。
伊達家の初代は伊達朝宗(ともむね)という人物です。朝宗は源氏との縁が深く、自分の娘を源頼朝の側室として嫁がせたり、また母親は頼朝の祖父である源為朝の娘であるという説もある他、名前の「朝」の字も頼朝から拝領したものという説がありますが、本当にそうなのかは謎が残されています。
朝宗は頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした合戦に従軍して手柄を立て、その功績によって伊達郡を貰った事から伊達氏を名乗ったと言われています。また7代目当主である伊達行朝は南朝方として戦うも、その跡を継いだ宗遠の代に北朝へ降伏。
その跡を継いだ8代目当主である伊達政宗は鎌倉府と3回戦った事で知られ、伊達家中興の祖としてその名前は戦国武将である「伊達政宗」へと受け継がれました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnihonshimuseum.com%2Fdatemasamune-familytree%2F
伊達政宗は幼少期に目を失明していた? ? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Frekisi-omosiroi.com%2Fdatemasamune-me-gantai%2F
二本松氏は戦国時代に入っても勢力を盛り返すことができず、周囲の伊達氏や蘆名氏などの有力な国人に圧迫され、第10代当主・義国の頃には、古記録に「二本松畠山家、次第に衰微して、ようやく安達半郡、安積半郡を知行せられ、この節、会津の蘆名盛氏の武威輝かしかば、彼の風下にぞ属せられける」と記されるほどになっていた。
そして天正13年(1585年)10月、義国の子・義継は伊達輝宗拉致事件(粟之巣の変事)を起こして伊達政宗に殺され、天正14年(1586年)7月、二本松城は無血開城する。この時、蘆名氏を頼った息子の義綱も同氏が政宗に滅ぼされた際には、蘆名義広に同行して佐竹氏の下に逃れたが、常陸国江戸崎で義広に殺害され、二本松氏は滅亡した。『続群書類従』所載の「二本松系図」によれば、義綱には遺児があった(満重)というが、その詳細は不明である。
清和源氏(河内源氏) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
二本松氏(にほんまつし)は、陸奥国安達郡二本松城に拠った戦国大名。二本松畠山氏、奥州畠山氏とも。奥州管領畠山国氏の子、国詮を祖とする[1][2]。
本姓は清和源氏。足利氏の支流で室町幕府の三管領の一つである畠山金吾家の兄系にあたる。元々は畠山氏の嫡流筋だった
中国に侵入した異民族は匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五胡、誕生した王朝は十六国あったため五胡十六国時代という。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq12190108497
6の政権と、代表的な非漢民族の5つ(匈奴、鮮卑、羯、氐、羌)から、「五胡十六国時代(304年〜439年)」という呼称をすることになります。
>ユダヤ人 - 12世紀初期の北宋徽宗の治世、中国に移住・定着して商業を営んだ。漢姓として金・李・俺・艾・趙・張など17の姓を称した
羌族の中で金姓を称するものがあった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
この項目では、漢姓の金について説明しています。日本の姓については「金氏」をご覧ください。
金(きん)は、漢姓の一つ。中国・朝鮮などに見られる。とくに朝鮮民族の姓の中では最大の姓となっている。中国では、漢民族・回族・満州民族などが多く称している。
金氏の由来は多様である。主要な起源としては以下がある。
#漢民族由来の姓 - 漢民族の伝説によれば、五帝の一人少昊(金天氏)の子孫が金氏を称したとされる。
のちに、賜姓・改姓・漢化によって、漢民族を含むさまざまな民族が金氏を称することとなった。
#朝鮮の姓 - 朝鮮民族の金氏は、新羅の始祖金閼智や金官加羅国の始祖首露王に由来する。金 (朝鮮人の姓)も参照。
#回族の姓 - 祖先のムスリム名に因むもののほか、賜姓による改姓や他民族からの改宗に由来する。
#満州民族の姓 - 満州民族では、愛新覚羅氏などが漢風の姓として早い時期から金氏を用いていた。
主要な起源[編集]
伝説
五帝の一人少昊(金天氏)の子孫は、「金」を姓とした。
賜姓
前漢の武帝の時、匈奴の休屠王の子・日?らが捕えられ「金」の姓を与えられた。
明のとき、モンゴルの王子・也先土幹や、額森図克、阿爾哈特実哩らが降伏し、「金」の姓を与えられた。
清の乾隆帝は台湾原住民(高山族)に7つの姓を与えた。その一つが「金」であった。
改姓
五代十国の呉越で、劉氏が「金」に改姓した。
他民族の漢化
羌族 - 南北朝時代、羌族の中で金姓を称するものがあった。
ユダヤ人 - 12世紀初期の北宋徽宗の治世、中国に移住・定着して商業を営んだ。漢姓として金・李・俺・艾・趙・張など17の姓を称した。中国のユダヤ人については、開封のユダヤ人参照。
朝鮮民族(朝鮮族)、満州族 は別項参照。
満州民族の姓[編集]
金姓は、女真族(満洲民族)の中では最も早く用いられた漢姓である。元末明初、火児阿万戸である阿哈出(中国語版)(本姓は古倫)は、漢姓として「金」を称した。朝鮮の『朝鮮王朝実録』によれば、鉄嶺北部女真の都夫失里千戸の火失貼木は金を姓としたという[1]。
満州族が金(後金、のちに清)を建国すると、愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)などの皇族が南下した。「アイシン」(?????)は「金」という意味の部族名に由来しており、清朝滅亡後、愛新覚羅氏の多くが漢語に翻訳した「金」姓に改めた。
満州族の金姓は、もともとの愛新覚羅氏、金佳氏、精吉氏、精格理氏、索爾済氏、鈕祜禄氏、車勒庫車氏、錫爾馨氏、馬佳氏、索爾済氏などの氏族を含んでいる[1]。
また、旗人に編入された朝鮮族の金氏や漢民族の金氏、モンゴル族の阿穆尼布塔斯氏などが、満洲系の金氏に含まれる[1]。
高山族
「高山族」は、蘭嶼(台湾島東南海上の島)に住むタオ族や東部平原に住むアミ族を除き、基本的に台湾本島の山地や山裾に居住し、人口は計40万人ほどで、台湾の総人口の2%ほどを占める
中国に移住した高山族は、ショオ族、満州族、回族等に次ぐ福建省の主要な少数民族として中国政府に公認されている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
先住少数民族に対する差別的呼称「生蕃」と「熟蕃」を「高砂族」と「平埔族」に改正した。この改称は、秩父宮雍仁親王の要請によると言われている。
チィアンとかチィヤンじゃないと。
チアン語?
チャン語だろw
でも、「チャン」と言っても中国人には絶対通じないんだよね。日本語ってiが取れる傾向がある。
チィアンとかチィヤンじゃないと。
西田龍雄はちゃんとチィアンと表記してる。
別に漢語普通語ではなく、"(現代)羌語"で良いと思うがね。
しかし、これ、漢語であって、当の羌族の自称は「アマ」。
そうね、O-M117天孫・天神族のアマ。
一国の君主。天皇。天子。
君…応神天皇以後の皇族の後裔と称する皇親氏族も君の姓を有していた。
君の姓を持つ地方有力豪族の例としては,上毛野(かみつけぬ)君,筑紫胸肩(むなかた)君などがあり,また /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
解字 甲骨文字は手に棒状のものをもった形で、殷代には王の臣下の汎称だという。[甲骨文字辞典]は、「棒は道具であり、尹は道具を持って奉仕する者が字源であろう」とする。私は、尹の系列字の展開を考えるとき、この棒は現場で指揮をとる人がもつ指揮棒ではないかと思う。のち、この指揮棒をもつ人は、長官の意味となり、おさめる・ただすなどの意味も持つようになった。
意味 (1)おさめる。ただす。 (2)おさ。長官。「令尹レイイン」(周代の楚国で最高位の大臣。また、地方長官) (3)姓のひとつ。 (4)[国]かみ(尹)。古代の四等官。
イメージ 「指揮棒をもつ」 (尹・伊)
音の変化 イン:尹 イ:伊
君 クン <まとめる> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F685f90b3419617de927037d7b6b3378a
解字 「口(言葉を発する)+尹イン(指揮棒をもつ)」 の会意。指揮棒をもち言葉を発して号令をかける統治者をいう。古くは地域の統治者を言ったが、のちに人々を治める君主の意味になった。
意味 (1)きみ(君)。人の上に立って支配する者。「君主クンシュ」 (2)きみ(君)。大名や諸侯。地方の統治者。「君侯クンコウ」(諸侯。高官や身分の高い人)「君子クンシ」(徳の高い立派な人) (3)年長者などに付ける敬称。「父君ちちぎみ」 (4)同輩や目下の者を呼ぶ時に付ける語。「諸君ショクン」
イメージ 人々を支配し地域を 「まとめる」 (君・郡・群・裙)
群 グン・むれる・むれ・むら 羊部
解字 「羊(ひつじ)+君(まとまる)」 の会意形声。まとまりのある羊のあつまり。
尸 シ・しかばね・かたしろ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F77ea82cd0fe778b2f56cce6b0e79564e
「尸シ」<死者および死者の代わりに席にすわる人> と「屍シ」
解字 甲骨文は、足が不自然に曲がった人の側面形であり、人間の屍体を表す。祭祀の供物として用いられており、人牲であろう[甲骨文字辞典]。金文の用法は不明。篆文第一字は人が椅子に腰かけた姿勢の象形。祖先の祭祀の時に亡き死者に代わって近親者が椅子に座った姿をいう。(祖父の祭祀には、孫が代わりに座ったとされる)。正体ではないが時々見られるタイプで、正字である第二字への移行を示す段階の字といえる。現代字は尸となった。意味は、?しかばね。?死者の代わりになるので、かたしろの意となる。
意味 (1)しかばね(尸)。かばね。死体。なきがら。「尸諌シカン」(しかばねとなって主君をいさめる)「尸所かばねどころ」( 死体を埋めるところ。墓場) (2)かたしろ(尸)。亡き死者に代わって座る人。また、代わりの人形など。「尸位シイ」(?人が死者に代わって祭祀の死者の位置につくこと。?才能がないのに高い位置について何もしないこと)「尸位素餐シイソサン」(しかるべき地位にいながら職責をはたさず無駄に俸禄をもらっていること。素餐は、ただ食事をすること)「尸者シシャ・ものまさ」(?祖先の祭祀に神霊の代わりになって祭りを受ける者。?葬儀で死者に代わって弔問を受ける人)「尸童よりまし」(神霊がよりつく人間。特に、祈禱師きとうしが神霊を乗り移らせたり、託宣をのべさせたりするための童子や婦女)
参考 尸は部首「尸しかばね」になる。漢字の垂れ(上部から左下にかけた位置)となり、(1)死体・死者、(2)すわる形から腰をおろした部分である「おしり」、(3)さらに「人のからだ」などの意味となる。また、(3)垂れの形から「建物の屋根・建物」の意ともなる。常用漢字では15字あり、約14,600字を収録する『新漢語林』では、尸部に49字ある。尸部の主な字は以下のとおり。
(1)死体の意。屍シ・しかばね・届カイ・とどけ・屠ト・ほふる
(2)おしりの意。尻コウ・しり・居キョ・いる・尾ビ・お・尿ニョウ・屈クツ・かがむ・屎シ・くそ・属ゾク・つく
(3)人のからだの意。尼ニ・あま・履リ・はきもの・展テン・のべる
(4)建物の意。屋オク・や・層ソウ
(5)便宜的に含めたもの。尺シャク・尽ジン・つきる・局キョク
このうち、居・屈・尼・展・屋・尽・局は音符になる。
イメージ 「しかばね・死者」の他、死者の代わりに椅子に座るので、座ったとき椅子に着く部分である「おしり」のイメージがある。
「しかばね・死者」(尸・屍)
「おしり」(屎)
音の変化 シ:尸・屍・屎
うさぎ座はトイレ 厠(し)、屏(へい)、屎(し) うさぎ座という星座があるのですよ。 有名なオリオン座のすぐ下にある、小さくてかわいらしい星座です。 くらい星をむすぶと、ちゃんとウサギの形になります
このうさぎ座の星たちがが中国ではどんな星座になっているかを知ったときでした。
なんと、中国の人たちはここに「厠」というトイレの星座をおいたのです。
ウサギの後ろの方がトイレで、頭の方は「屏」、つまりトイレの壁です。
これは、まあ、つまりですね、なんというか、トイレからはみ出たものです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.aqumari.com%2Fmimas%2Fasia%2Fa_09.html
さらに、このずっと下の方、西洋の星座では「はと座」という、隣の星座になりますが「屎(し)」という星があります。
はと座は、旧約聖書にあるノアの箱舟物語に登場する鳩がモデルだと言われています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fseiza.imagestyle.biz%2Fsinwa%2Fhato.shtml
はと座の東にはアルゴ座(アルゴ船座)と呼ばれる船の姿を描いた星座がありましたが、現在では、りゅうこつ座、ほ座、らしんばん座、とも座という四つの星座に別けられています。
このアルゴ座をノアの箱舟に見立てて、その隣に、箱舟物語に登場するはとの星座が作られたとも言われています。
しかし、この鳩は、アルゴ遠征の冒険物語に登場する鳩だとも言われています。
アルゴ遠征隊の物語は、ギリシャ神話で伝えられる物語ですが、その冒険の途中、船(アルゴ号)が難所を通り過ぎるのに、手助けをした鳩がモデルだと言われています。
鳩
平氏流以外の諸氏も鳩紋を使用している。たとえば、源満仲の弟満政を祖とする尾張源氏の一族足助氏・小島氏などである。両家の紋は「見聞諸家紋」にも見ることができる。
鳩紋を見ると、二羽の鳩が向き合った「対い鳩」が多い。これは八幡神の八を表したものとされ、後世「八」の字の紋も生まれている。いずれも八幡を表したものであることには違いない。また鳩に鳥居とか寓生とか蔦とかを添えたものも多い。
鳩紋は、八幡神の使いとして武士の間に広まり、八幡神を信仰する家々の紋として定着したいった。
アークの上部には2つのケルビムの像が羽を広げて向かいあっているが、日本の神輿も金で覆われていて神輿の上には鳳凰(ほうおう)と言われる鳥が作られており大きく羽を広げている。
『旧約聖書』の『出エジプト記』にはそのアークの作り方が克明に記されているのだが、その記載を見る限り日本の神輿(みこし)にそっくりである。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fkokusaijinn%2Fentry-10054835536.html
アークの上部には2つのケルビムの像が羽を広げて向かいあっているが、日本の神輿も金で覆われていて神輿の上には鳳凰(ほうおう)と言われる鳥が作られており大きく羽を広げている。アークの下部には2本の棒が貫通しており、移動するときにはレビ族が肩にかつぎ、鐘や太鼓をならして騒ぎ立てた。しかもかつぐための2本の棒は絶対にアークから抜いてはならなかったように神輿の棒も抜かれることはない。祭りが終わった後も棒を差し込んだまま保管されているのである。このように日本の神輿と聖櫃(アーク)との類似性は高い。
八幡神と鳩の関係
八幡信仰は、皇室のほか源氏一族をはじめとして崇敬を集め、又広く地域の民衆の神様としても信仰されるようになった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fyamaibaaosainaikyo%2F25565929.html
八幡神は、皇室の祖先である誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神とし、誉田別命が国内を平定するときに、水先案内人となったのが鳩であったとされ、以来、鳩は八幡神の使いであるとされるようになったこと。
…源氏は嵯峨天皇を起源とするらしいから、「サガ」は、古代ヘブライ語では、「性(サガ)」で、これまた、「源」と同じ、「起源」を表す。また清和源氏が有名だが、「セイワ」は、「セイ」で、「聖」で「正しい」という意味になる。…
「キム」は、君が代の「キム」で、日本語の「決める」や「君」になったという。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2F5dolphin%2Fdiary%2F201202220000%2F
エロヒムは、古代ヘブライ語では、「エホヤキム」で、「ヤハウエ神が君臨(樹立)し給う」という意味になるという。また「エホヤキム」の「キム」は、君が代の「キム」で、日本語の「決める」や「君」になったという。
「キム」といえば、朝鮮族の「金」の姓が思い浮かぶ。恐らくなんらかのつながりがあるのだろうと思って検索してみると、新羅の王族の姓で、満州族の清も、キムと発音していたという情報にぶちあたった。満州族を検索すると、金朝に辿り着いた。きりがないのでやめるが、古代イスラエル人となんらかの関係をもつのだろう。
「エホヤキム」の「エホ」は丁寧な表現だそうで、日本語の「御」にあたるようである。大阪人が、「エライ何々ですなぁ」というときの「エライ」の語源なのではないか、と勝手に想像してしまう。おそらく、丁寧な表現が、大袈裟な表現に変化したのだろう。
「エライ」といえば、日本語の「偉い」で、「偉い神」なら「オオギミ」で、日本語の「大君」は、古くは、「エロヒム」の意味なのではないか?とも思えてくる。ヘブライ語で、神は、「エル」だから、「エルい」が転じて「偉い」となったと思われる。
さて、話を注連縄に戻し、「カラス」を古代ヘブライ語で考えると、「カタス」が、黄泉の国を表すようである。カタスは、日本語では、「片付ける」という意味にもなるし、「形」ともとれる。
だから、鳥居は、神の門で、三本足のヤタカラスは、三位一体の対称の形に片付ける神の働きで、「シンメ」は、この世とあの世を統治し、審判する基準ということになる。
結局のところ、三種の神器の八咫の鏡が思い浮かぶ。
八咫の鏡は、上のサイトによると、「ヤダー」=「知れ」、「偲べ」、「親しめ」の意味を含み、鏡に込められている意味は、「この鏡を見るときは、われ(神)を見るごとくにせよ」というもので、また、「感謝・感恩」、「頌栄賛美(しょうえいさんび)」という意味を持つ語句で、ユダヤ国名の「ヤウーダ」の語源で、日本全国の地名や神社名に残る「八幡」(ヤワダ)となっているようである。
つまり、注連縄は八咫の鏡に同じことになる。八咫の鏡には、古代ヘブライ語で、「我、ある者なり」と書かれているという。恐らくその意味は、自分のことのように、全てに親しみをもって扱い、感謝すれば、神様が現れる、ということなのだろう。
なにしろ、全てを公正に対称的に働かせているのが神様なのだから。
さて、「シメナワ」の「ナワ」の方だが、「ナワ」は、古代ヘブライ語でも、「縄」の意味をもち、「ナワー」というそうだ。また、「代々受け継がれる民族の営み」をも意味するようだ。
だから、「シメナワ」は、代々受け継がれる八咫の鏡で、公正な見方で、神への崇拝ということになる。単純にいうならば、法律のことだろう。神は、宇宙を法で動かしているから、人間は、それに見習って鏡のように、人間社会を、法で動かす必要がある。
つまり、注連縄とは、法律に思えてくる。
では、法律を犯すとどうなるのだろうか?
注連縄により罰せされると考えられる。罰する者は誰なのか?
注連縄は、あの世とこの世をつなぐ縄である。先祖から受け継がれた法である。人類の祖はアダムで、古代イスラエルの祖はアブラムである。
そこで、「アブラム」の古代ヘブライ語の意味を調べると、「アブラム」は、「ヘブライ」、「ヘブル」とも呼ばれ、原語は、「インブリ」だそうである。「インブリ」といえば、キリストが処刑されたときの十字架に刻まれた「ユダヤの王」という意味の「INRI(インリ)」を思い出させる。
余談だが、「インリ」は、「イナリ」として、稲荷神社につながるともいわれている。私見では、かつてメソポタミアの神殿といわれたイシュタルの呼び名の「イナンナ」が転じたほうをとりたいが、どちらでも、東洋の秘儀に変わりはないだろう。
で、「インブリ」の意味は、「彼方の」で、仏教でいう彼岸の「あの世」ということなのだろう。古代イスラエル人の祖のアブラムは、はじめは「インブリ」と呼ばれていたが、途中で、「インブリヒーム」と複数形になったそうである。
単数形の神「エル」が、複数形の神「エロヒム(エホヤキム)」にかわるのと同じにみえる。だから、日本の現代でいえば、アブラムは、アブラム君と呼ばれるようになったわけである。複数形というよりは、代表や象徴という意味なのだろう。
「インブリ」は、日本語の「燻る」や「いびる」に通じているようである。「追放する」という意味である。村八分というわけだ!
アブラムは、追放の身ではないが、モーセも、イエスも、追放の身に遭い、モーセはエジプトを追放され、キリストは、この世から追放された。
何がいいたいかといえば、追放した者が、追放された彼方の者により裁かれる公正さ、つまりカルマのことである。ちなみに「カルマ」は、日本語の「こみ」で「関係をもつ」という意味に辿り着く。また「刈る魔」や「蹴る魔」ともとれる。ちなみに、「蹴る」は、英語の「kick」にあたる。
死後、あの世の門で、閻魔様に裁かれると誰もが聞いているだろう。この閻魔様が、実は、人類が追い出したイエス・キリストなのである。
それを古代ヘブライ語から、解き明かしたのが、上のサイトであり、閻魔とは、日本語の「エンマン」、つまり、「円満」からきたもので、古代ヘブライ語では、「インマヌ」で、「イン・マニ」で、「間に入る」という意味になるという。
誰の間に入るのかといえば、「エル(神)」で、「インマヌ・エル」となり、神に取り次ぐイエスということになる。
神と円満な関係にあるイエス・キリストなのである。しかも、イエス・キリストは、人類から迫害されたので、裁くのに、充分な資格をもっているわけである。
このことを、この世の裁判官は肝に銘じておくべきである。
では、円満に裁くというのはどういうことなのか?
円満は、円が満ちるということで、円というのは、高度な対称性をもっている。なにやら八咫の鏡を連想させる。
つまり、八咫の鏡から、この世で自分が成したことが、あの世では、逆の立場の相手の立場に立って、鏡のように裁かれるというわけなのである。だから、注連縄は、相手の立場に立って思いやる気持ちを大切にしましょう、という教えの象徴にもなる。
伊達氏…(尹)。古代の四等官。?
藤原朝臣 - 中臣鎌足の子孫。長らく朝廷の重職を独占し、摂家を筆頭に堂上家の大半を占めた。武家では伊東氏、小山氏、上杉氏、伊達氏などが知られる /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
〉尹 イン 尸部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F685f90b3419617de927037d7b6b3378a
〉意味 (1)おさめる。ただす。 (2)おさ。長官。「令尹レイイン」(周代の楚国で最高位の大臣。また、地方長官) (3)姓のひとつ。 (4)[国]かみ(尹)。古代の四等官。
四等官…
四等官の目(さかん))の中には、任期が終わったあとも京へ帰らず、土着する例も多くみられ、公地(名田)の負名となり、そのうち有力なものは、在庁官人として権勢をふるうようになる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwhite.ap.teacup.com%2Fapplet%2Fsyumoku%2F201902%2Farchive
「尾張権守大中臣朝臣安長」や「尾張権守中臣朝臣」の朝見氏もそういう在地の有力者であったと思われる。
尾張
尾張は一説には魏志倭人伝の狗奴国と言われていて、隣接する美濃とともに大きな勢力を築いていました。 それから、東国では北関東地域の毛野が大きな国です。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq11174438576
毛野(けの/けぬ)は、日本の古墳時代の地域・文化圏の1つですが、蝦夷と、毛野氏の境が解り辛いですが、
羽州、津軽・陸奥には、それぞれ別の国が存在していたように見えますね。
田村麻呂のころ、東夷と北荻に対し、夫々軍を発し、柵を建て征服したように読めますね。
日本海側手前では、越国:高志が、福井県から山形県近くまで領有していた。みたいですね
毛野
毛国(けのくに) 蔵人 倉持 車持?? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1495
毛野国から始まる大和王権最北端の地に10崇神天皇の長男「豊城入彦命」が天皇の命によってこの地を治めよ(崇神紀48年)とされたことから、この地の記紀の記述が始まっている(毛野氏元祖関連系図参照)。11垂仁天皇との大和御諸山(三輪山)での夢占いにより、異母弟は天皇になり兄は未開の地蝦夷との境界の地への派遣が決まったとされている。これが古代豪族「上毛野氏・下毛野氏」らの元祖である。
さて、この「豊城入彦命」の母親の出自が紀国造「荒川戸畔」と古事記には記されている。
この人物は古来色々物議をかもしている人物である。古代史のプロの学者は余り問題にしないがアマチュア古代史ファンの間では、人気のある謎の人物である(参考系図も参照)。
紀氏関係の古系図に登場するものと全く登場しないものとがある。登場する場合でも嫡流として登場するものと非嫡流としてのものがある。筆者の参考系図は非嫡流の例である。
例えば「紀伊続風土記」では、天道根ー比古麻ー智名曽ー蔭佐奈朝ー荒河戸畔ー大名草比古ー菟道彦ー紀直豊耳ーーーとなっており紀国造氏嫡流である。これ以外にも色々ある。しかも男性なのか女性なのかもはっきりしない。女酋説も強くある。神武東征記事に登場する「名草戸畔」も女酋だとされているらしい。筆者系図は女性として表した。
とにかく、紀国造氏に関係する女腹の子供が「豊城入彦命」なのである。しかもこの紀国造氏は、元来出雲神を奉祭してきたのであるとされている。勿論正式には紀国造氏は、天照大神を祀る氏族とされている天神系の氏族となっている。非常にややこしいのである。元々紀国には出雲神を奉祭する弥生人が住んでいた。そこへ天神系の弥生人が侵攻してきた。そして婚姻関係などで元々の弥生人紀国造氏の名跡が天神系の弥生人に引き継がれた。しかし、一部は昔のままの紀国造氏系の氏族が残っていた。荒川戸畔はその一人であろう。と言う説がある。よってこの血脈を引く毛野氏は出雲神を毛野国で祀った。と考えるのである。(一説では、これが記紀に記されている国譲り神話に関係しているとされている)
Re: チィアンとかチィヤンじゃないと。:今の天皇は、古西戎人=天孫・天神族ハプロO-M117を継承していない可能性がとてつもなく大きい。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009367M.jpg
> しかし、これ、漢語であって、当の羌族の自称は「アマ」。
> そうね、O-M117天孫・天神族のアマ。
>
今の天皇は、古西戎人=天孫・天神族ハプロO-M117を継承していない可能性がとてつもなく大きい。
天皇制を支持する輩は、天皇の正統性として、男系での万世一系しか持ち出せない。
んなもん色んな意味でフィクションである。
はよ古墳暴け。
チベットのD1(D1a)をD2(D1b)と勝手読みし、縄文人はチベット人とぉ…とか、 馬鹿な妄想に浸っていた秦野がオトナシイ。
チベットのD1(D1a)をD2(D1b)と勝手読みし、縄文人はチベット人とぉ…とか、
馬鹿な妄想に浸っていた秦野がオトナシイ。
笑
15年の夢から醒め、もっと廃人になったか?爆w
〉オリオン座のすぐ下にある「はと座」、隣の星座「屎(し)」という星
「はと座」の見つけ方を紹介しました。冬のかなり南の低い位置にある星座で、3等星が2つほどあるので、コンディションが良ければ、見つかります。実は「おおいぬ座」の一部を割いて作られたという曰付きです。
「オリオン座」の南側のリゲルと、その隣で輝く「おおいぬ座」のシリウスを把握しておきましょう。
シリウスとリゲルで南に向かって正三角形を作った時に、3等星に行き着きます。このβ星は「はと座」の中心部にあたります。
おおいぬ座 6 野鶏 Wild Cockerel ヤケイ おおいぬ座 1 天狼 Celestial Wolf 天上の狼、侵略を表す おおいぬ座 1 丈人 Grandfather 祖父 はと座 2 子 Son 子供 はと座 2 孫 Grandson 孫 はと座 2 老人 Old Man 南極老人すなわち寿老人 1
井宿には20の星官がある。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
井宿(せいしゅく・ちちりぼし)は二十八宿の一つで、南方朱雀七宿の第1宿。距星はふたご座μ星。 星官 主体となる星官(星座)としての井は、ふたご座μ、ν、γ、ξ、ε、36番、ζ、λの8つの星によって構成される。
ふたご座…
埴山姫はにやまひめ・水罔女みずはのめの二神…
「厠」則(=測の略体。はかる)鼎…アリダード
「厠」埴輪
「鬼の厠<かわや>・雪隠<せっちん>(便所)」、底の方が「鬼の爼<まないた>」といわれるようになった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fasukanet.gr.jp%2FASUKA2%2FASUKAKOFUN%2FonikawayaK.html
「刂りっとう」の元の形である「刀トウ」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F846daa1daffd259e424a51f988e634fa
則ソク(刂+貝の会意)…貝…鼎
字形貝(鼎)+攴の会意。甲骨文に、貝に従うものと鼎に従うものどちらもある。貝であれば財を打ち壊す意味、鼎であれば盟約を破る意味であろう。隷書で鼎が略されて貝となる字は多い(則、貞、賊、員など)が、敗は略して貝になった
貝(鼎) 女(宿) 「くびかざり」(賏・嬰・桜) ・「宿曜経二十八宿」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F4098
ポイントを起点・・・「矢(シ)は屎(シ、くそ)」
Y(ヨッド)…10・・・十・・・壱(臺?台?)
「弓矢の話(2)」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F510.kyoto.jp%2F%3Fp%3D642
古代中国では矢を放って邪悪なものを追いはらう清めの儀式が行われていました。たとえば、祖先の霊を祀まつる大切な建物を建てるようなとき、どこに建てるのがふさわしいか、矢を放って場所を選ぶ儀式が行われたのです。
放った矢が地面に落ちた場所こそ、邪気のよりつかない神聖な場所と考えました。
それはとても重要な儀式だったので、放った矢が落ちた場所を表す漢字が生まれました。
放たれた矢()が地面()に突き刺さっているそのままを字にした象形文字です。なんという字かわかるでしょうか。矢が弧を描いて飛んでいって地面に落ちるところまでを表す字です。
「至シ」、「至いたる」という字です。三千年以上もたっていますから現在の字はずいぶん変化していますが、「至」という字は逆さまになった矢と地面を示す一本棒から成り立っている漢字なのです。今は広く「〜に至る」という使い方をする字ですが、初めは矢が放たれて「至った場所」を表す字であったことを古い文字が教えてくれます。
さて矢が至った場所には大切な建物が建てられました。その建てられた建物を表す字が出来ました。それが、建物の屋根を表す「宀うかんむり」をつけた「室」です。今は室内とか部屋の意味で使っていますが、古くは矢を放って建てた重要な建物「いえ」を表す字でした。
さて、もう一つ建物に関係する字があります。屋内という時の「屋」という字です。これにも「至」が入っています。これはどんな建物か、至を「尸(しかばね)」が覆っているので、実は死んだ人を安置する建物を示します。古代中国の上流階級では、人が亡くなると仮の安置所を作り、亡くなった人が白骨化するまで置いておいたのです。白骨化して初めて本当の「死」を迎えたのです。(風葬といいます)
仮とはいえ、この建物も死んだ人の眠る大切な建物なので、矢を放つ儀式をして建てられたことがわかります。
現在、屋は「いえ、やしき、すまい」等の意味で広く使っていますが、最初は死んだ人を安置する仮の建物を表す字でした。
「室」や「屋」以外にも、「至」が入った漢字は、到着の「到」、倒れるの「倒」、一致とか誘致とかに使われる「致」などがあります。今は簡単な字になっていますが、台という字の旧字体は臺だいで、この字の中にも至が入っています。高い建物を表す「台」も矢を射て神聖な場所に立てられたのでした。
至
「不は上に去りて、 至は下に來るなり」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fdic.nicovideo.jp%2Fa%2F%25E8%2587%25B3
意味到達する、行き着く、来る、経過する、極めて、いたって、善い、太陽が回帰点に達している日、という意味がある。また、〜まで、というように空間や時間の終点を表す助字として用いられる。字形矢の倒文に地面を表す一を組み合わせた字で、矢が到達するという意味(羅振玉)。人によって会意としたり、指事としたりする。白川静は、矢の到達点によって土地を占い、そこに建物などを建てたので室、屋、臺(台)という字に至が使われているという。〔説文解字〕は「鳥飛びて高きよりし、下りて地に至るなり。一に從う。一は猶ほ地のごときなり。象形」とし鳥が地に向かって下りる象形としている。続いて「不は上に去りて、至は下に來るなり」とあるように、〔説文〕は不は鳥が上に飛ぶ象形としていて、至と対応するものとしている。ただ字形は鳥のものではなく、矢の象形。ほかに、人が逆さになっている字とする説などもある。音読みはシ(漢音、呉音)、訓読みは、いたる、はなはだ。ちか・のり・みち・むね・ゆき・よし
意符至は到達することを表す意符として用いられる。至を含む会意字に、屋(尸+至)、臺(高+至)、到などがある。声符至を声符とする漢字に咥、挃、室、姪、庢、荎、郅、致、桎、?、窒、?、蛭、絰、銍、?などがある。
臺 (ダイ)
鼐とは (ダイとは) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fdic.nicovideo.jp%2Fa%2F%25E9%25BC%2590
〔説文解字・巻七〕には「鼎の?(はなは)だ大なる者なり」とあり、とても大きな鼎のことと する。これは〔爾雅・釈器〕の「鼎の?だ大なる、之れを鼐と謂ふ」による。一方で〔説文〕 には「〔魯詩〕説、鼐は小鼎なり」と、〔魯詩〕では小さい鼎ともしている。
厠を守護する神。卜部うらべ神道では埴山姫はにやまひめ・水罔女みずはのめの二神。仏教(密教または禅家)では烏芻沙摩明王うすさまみようおうをさす。民間の信仰では水の神やお産と関係して信仰され、男女一対の土人形をまつったり、新築の際に便壺の下に紙製の人形を埋めたりしてまつる所もある。便所神。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
埴山姫
波邇夜須(ヤニヤス)とはどんな意味? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fshinto-jinja.jp%2F%3Fp%3D1015
神名に共通する「ハニヤス」とは埴粘(はにやす)のことで、土器や瓦などの材料となる赤土の粘土を表す古語です。埴輪(はにわ)の「ハニ」と同じ意味です。「ハニ」とは「ホニ」からきたもの考えられており、神聖なパワーを宿した「ニ(泥)」、つまり、神に捧げる神器や祭具をつくるためにとくに練り込んだ粘土という意味があるとされています。
こうした考え方は古くから見られています。たとえば日本書紀には、神武天皇の御代、飛鳥の天香山(あまのかぐやま)の社から神聖な土を持ち帰り、天平瓮(あまのひらへ)や厳瓮(いつへ)をつくって戦勝を祈願した、とあります。
伊邪那美神が火の迦具土神を生み、陰所を焼いて苦しみ給うたおりに屎(糞)をしたが、その屎から化生した神が、 波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神の男女の二神。
波邇夜須は埴粘(はにやす)のことで粘土のこと。
『日本書紀』には、伊邪那美尊が死のうとするとき、埴山媛(土神)と罔象女の二神を生み、 この二神の間に生れた稚産霊神の、頭上に蚕と桑、臍の中に五穀が生じたとある。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.genbu.net%2Fsaijin%2Fhaniyasu.htm
その形をかたどったのが圭という王器で、土地領有のしるしとなり、転じて、諸侯や貴族の手に持つ礼器となった。その形はまた、日影をはかる土圭(どけい、日時計の柱)の形ともなった。 日影をはかる土圭(どけい、日時計の柱) 鼃は
経糸(たていと)緯糸(よこいと)・・・経緯 鼃は蛙の古文 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F3752
蛙 土圭・・・おたま 杓子定規?
圭は「土+土」で、土を盛ることを示す。土地を授けるとき、その土地の土を三角の形に盛り、その上にたって神に領有を告げた。その形をかたちどったのが圭という玉器で、土地領有のしるしとなり、転じて、諸侯や貴族の手に持つ礼器となった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1930
奎宿(けいしゅく)白虎の足、倉庫や大豚を表す /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F4522
『奎』 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F5go.biz%2Ffbo%2Fread%2F2%2F7013
とかき星、文運をつかさどる星、アンドロメダ星
股ぐら
《解字》
会意兼形声。圭ケイは、土を三角の形に盛ったさまを示す会意文字で、△形をなす意を含む。奎は「大(人のまたを開いた姿)+音符圭」。またを開いた形が△形をなすので、またを奎という。
斗掻きとは,桝に盛った米をならす棒のこと。ペガサスの四辺形を 桝に見立て,アンドロメダを棒とみたらしい。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F%25E6%2596%2597%25E6%258E%25BB%25E3%2581%258D%25E6%2598%259F-104534
オリオン座の α ,β,γ,δの四辺形を酒桝星,三つ星を斗掻き星とも呼んでいる。
外屏, Outer Fence, 便所の囲い, うお座,
奎宿(けいしゅく)、和名は斗掻き星(とかきぼし)、二十八宿の一つで西方白虎七宿の第1宿。距星はアンドロメダ座η星。
奎宿 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A5%258E%25E5%25AE%25BF
奎宿の距星は時代と共に変化しており、アンドロメダ座ε星であったが、唐の開元年間に行われた観測ではアンドロメダ座δ星、明の崇禎年間の観測ではアンドロメダ座η星であった。[
中国星座は、今から 2,500 年位くらい前に. 成立した星座体系で、西洋 などの影響を受け. ずに独自に発達したといわれています。01.pdf#search=%27%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%98%9F%E5%BA%A7%E3%82%92%E5%8F%82%E8%80%83%E3%81%AB%E4%BD%BF%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3%27
うさぎ座付近を見ると、トイレの星座「厠」と、トイレのついたての星座「屏」
「屏」
尸(居の略形
「并ヘイ」 <あわせる・ならぶ> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F81156f49ec87b486a0289b89168758df
ならぶ
屏 ヘイ・ビョウ・おおう 尸部
解字 「尸(居の略形:すまい)+并(ならぶ)」 の会意形声。住居の周りをならんで取り巻いているへい、およびへいの中をいい、おおう・(へいの中に)ひきこもる意となる。
意味 (1)へい。かきね。(2)おおう(屏う)。かくす。ふせぐ。ついたて。「屏風ビョウブ」(室内に立てる風よけ、また仕切り)(3)(へいの中に)ひきこもる。しりぞく(屏く)。「屏居ヘイキョ」(?家にひきこもる。?世の中からしりぞく)「屏息ヘイソク」(息をひそめる。おそれ縮こまる)「屏語ヘイゴ」(ひそひそ話)
意味はこ、(貯と通じて)貯える、(佇と通じて)たたずむ、(著と通じて)宮廷の正門と大門の間の君主が政務を聴く場所、という意味がある。〔説文解字・巻十四〕には「物を辨ち積むものなり」とある。〔爾雅・釈宮〕に「門屏の間、之れを宁と謂ふ」、〔釈名・釈宮室〕に「宁、佇なり」とある。字形物を収蔵する箱の象形。貯の初文。ほかに〔説文〕の物を分けて積んだところの象形説、糸巻きの象形とする説(丁山)などがある。ただ、卜文に四角の中に貝を加える字、金文に四角の中に戈を書き加える字形があって、収納の箱の象形とされる。
〉中国の人たちはここに「厠」というトイレの星座をおいたのです。
廁[厠] シ・かわや 广部
解字 「广(やね)+則(かたわら)」の会意。母屋のそばに作られる屋根のあるトイレ。
意味 (1)かわや(廁)。便所。俗字の「厠」もよく使われる。「廁神かわやがみ」 (2)まじわる。まじえる
「則ソク」 <かなえに刻んだ重要文書> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F54b20b5f66dffb93d719b344e39f7a4b
解字 金文は「鼎(かなえ)+刂(刀)」の会意。鼎の側面に刀で刻まれた文字のこと。重要な契約は鼎に文字で残したことから、のり(一定のきまり)の意味を表わす[字統]。実際に文字があるのは鼎の内側の側面である。篆文から鼎が貝に変化した。
意味 (1)のり(則)。きまり。「規則キソク」「法則ホウソク」 (2)のっとる(則る)。手本とする。「則天去私ソクテンキョシ」(私心を捨てて自然の道理に従って生きる) (3)すなわち(即ち)。接続の助字。
イメージ
「きまり・基準」(則・測・惻)
文字が刻まれているのは鼎の側面であることから、「かたわら」(側・廁)
音の変化 ソク:則・測・惻・側 シ:廁
きまり・基準
測 ソク・はかる 氵部
解字 「氵(水)+則(基準・ものさし)」の会意形声。ものさしで水の深さをはかること。
意味 (1)はかる(測る)。長さ・広さ・深さを測る。「測定ソクテイ」「計測ケイソク」「測量ソクリョウ」 (2)おしはかる。「臆測オクソク」「推測スイソク」
惻 ソク・ショク・いたむ 忄部
解字 「忄(心)+則(=測の略体。はかる)」の会意形声。相手の心を推し量ること。不幸な境遇にある相手に対して推し量る心をいう。
意味 いたむ(惻む)。悲しむ。あわれむ。「惻隠ソクインの情」(いたわしく思うこと)
かたわら
側 ソク・がわ イ部
解字 「イ(人)+則(かたわら)」の会意形声。かたわらにいるひと。転じて、かたわら・そばを表わす。
意味 (1)そば(側)。かたわら(側ら)。「側近ソッキン」「側室ソクシツ」(貴人のそばめ) (2)かわ・がわ(側)。一方の面。「両側リョウがわ」「外側そとがわ」「側面ソクメン」
鼎…アリダード
鼎 アリダード 貞 テイ <鼎による占い> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F4247
貞 テイ・ただしい 貝部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fed08f168932e140822db7232ef713e77
解字 甲骨文字は鼎の省略形で占う意を表している。金文は、「ト(占う)+鼎(かなえ)」 の会意。精巧に作られた青銅器の鼎は国家の君主や大臣などの権力の象徴として用いられた。この鼎を用いて占いを行なう形が貞で、「(神意を)伺う」、(神意の結果が)「正しい」意味を示す。しかし、鼎を用いて具体的にどのように占ったか判明していない。篆文から鼎が貝に変化した貞になった。
意味 (1)問う・きく。占って神意をきく。「貞吉テイキチ」(貞して吉なり) (2)ただしい(貞しい)。心が正しい。まっすぐである。「貞淑テイシュク」(女性がしっかりしてしとやか)「貞女テイジョ」「貞操テイソウ」(女性の正しいみさお)
イメージ 鼎で占うことから「神意をうかがう」(貞・偵)
占いで「吉とでる」(禎)
「同音代替」(幀)
音の変化 テイ:貞・偵・禎・幀
神意をうかがう
鼎とは、古代中国で使われた釜の一種である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fdic.nicovideo.jp%2Fa%2F%25E9%25BC%258E
鼎は、耳が立っていて対になっており、足が3つ付いた容器で、物を煮るのに用いた。陶製、または金属製(青銅製)である。口が丸い物、四角い物がある。神秘的な文様が射込まれていることが多い。牛をまるまる煮ることができるほどの大きさのものもあり、刑として人を煮殺すのにも用いられるものもあった。
神への犠牲を煮るのに用いたことから神聖視され、祭器・礼器として扱われ、占いにも用いられた。また王侯の象徴として扱われた。鼎の軽重の話は有名である。
煮るための器具、祭器、宝器、三脚のもの、三対のもの、という意味がある。〔説文解字・巻七〕に「三足兩耳、五味を和するの寶器なり」とあり、また「昔、禹、九牧の金を收め、鼎を?山の下に鑄る。山林川澤に入るも、螭魅?蜽、能く之れに逢ふもの莫し。以って天の休(さいは)ひに協承す」と、禹が九鼎を鋳た説話が載っている。ただ青銅の鼎が作られるようになったのは殷代に入ってからで、夏の時代に金属の鼎は無かった。また当と通じて、まさに、あたる、貞と通じて、正しい、という意味がある。
目
意符の目(貝または鼎の省略形)と、意符と音符を兼ねる収(両手で支える意)とから 成る。
「Y」の追求12 /60 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fshoukei.blog65.fc2.com%2Fblog-entry-62.html
鼎(測斜儀)による平板測量 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F3664
二段の鼎?・・・アリダード! ... こしき(甑・鼎・アリダード)に ちり(地理)が積(目論見モクロミ)もり、かま(缶・瓶・・・甕棺?・・・・古墳?)に魚(キリスト教徒?・・・・・測量士?)がわく意。 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F2936
鬲(れき)…・
[4261] >>>神祭具・・・具・・・鼎・・・アリダード・・ https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/4261
古代中国における地の測り方と邪馬台国の位置 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.geog.or.jp%2Ffiles%2Fh27-autumn_01.pdf%23search%3D%2527%25E4%25B8%2589%25E8%25A7%2592%25E6%25B8%25AC%25E9%2587%258F%2B%25E5%258F%25A4%25E4%25BB%25A3%25E4%25B8%25AD%25E5%259B%25BD%2527
方位と距離: 地図が未だ存在しない時代には、事物の所在地は既知の点からの方位と距離によって示されていた.『出雲国風土記』では、郡家からの(8)方位と距離(里)によって、多数の山や社寺の位置が示されている.また道路も「方位+距離」の繰り返しで通過点が記述されている.
3 世紀中ごろの倭国を記述した最初の地誌『三国志』魏書東夷伝倭人条(倭人伝)では、倭の30 ヶ国の国名が挙げられているが、そのうち9 ヶ国は倭国を訪れた魏使の行程であるかのような「方位+距離」で次々に国の位置が記述されている.
このように古代測量は方位測量と距離測量が基本であった.
天文測量法としての「1 寸千里法」: 『周碑算経』は数学書『九章算術』より更に古く、周代(紀元前11 世紀〜)から漢代(BC206〜AD220 年)を通じて書き継がれ、後漢代(AD25〜220)には既に成立していた.『周碑算経』は朝廷百官(文官)の天文学・測量学に関する教養書であったとされている.
周代(紀元前11 世紀〜)
商末周初 紀元前11〜紀元前10 世紀
てい 鼎. 1個 退化饕餐紋 高52.2 口径40.0 考古 中国・商末周初 紀元前11〜紀元前10 世紀 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.narahaku.go.jp%2Fcollection%2F1317-108.html
神祭具・・・具・・・鼎・・・アリダード・・・国見 火の神のカグツチ(迦具 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F4592
「桶」の元の字形「甬」は「用」に従う文字ですから、「ヨウ」の音読みもあるのです。でも「通」の字にも「甬」が含まれているように「ツウ」の音読みもあるのです。
さて、最後にその「通」です。これは「甬」と「(シンニュウ)」でできた文字です。「甬」は手桶のような筒形のもの。「(シンニュウ)」は道を行くことです。
手桶のような筒形の容器の中は空洞(くうどう)になっていて、その空洞の中を通って、滞(とどこお)ることなく通り抜(ぬ)けることができます。そのことを「通」というのです。そのため「通」は「とおる」「とおす」「ゆきわたる」などの意味があります。(共同通信編集委員 小山鉄郎)
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地球の大きさを測る 二龠で一合 子午線弧 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F3715
龠 〔意味〕容積の単位。二龠で一合になる。また、その量を入れるます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fhomepage3.nifty.com%2Fayumi_ho%2Fyaku.htm
この容器というのは、サイコロ(立方体)の1角に集まる3つの面で構成されていますが、この容器に水を注いでも、3つの角の高さまでしか水は溜まらないので、水面のかたちは「正三角形」になり、正方形の上半分は遊んでいます。
〔ます〕の歴史は「6龠為1升」から始まった。
「品」(3つの穴)
小篆の字形について『説文解字』は「品」(3つの穴)と「侖」(秩序の意)の会意文字とするが、金文など古文字を見ると、むしろ「△」部分がなく、二三の穴と管の形に象っていることが分かる。「△」部分は後で付け加えられたもので、人の口あるいは管を束ねることを表していると考えられる。
升 が意味する容器
大きな柄杓のことを「斗」という。「斗(北斗七星)」は星座が柄杓の形をしている。)
「圭」
〔多迩具久〕は名前からしてヒキガエルの姿をした神様ですが、漢字で「蛙」の旁になっている「圭」とは、三角形や角錐が鋭く尖った形のことです(ただヒキガエルの場合は末広がりの末端から足が出ています)。人の手に乗る程度の大きさですから、目下の話題に引き寄せて、「龠」や「合」をかたどるものと見てもよい。
肅(規則正しい文様をえがく)」…・
龠 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F4592
迎え結ぶ
僉 龠
「倹=儉」は《人部》に分類され、 「約也。従人僉声。」=「約す=迎え結ぶ、誓う。“人”に従い“僉(セン)”を音とする。」と 記す。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmei2jikai.blog113.fc2.com%2F%3Ftag%3D%25E5%25A7%2593%25E5%2590%258D%25E5%2588%25A4%25E6%2596%25AD%25E5%25AD%2597%25E7%2594%25BB%25E6%2595%25B015%25E7%2594%25BB%26newwindow%3Dtrue
。“?(シュウ)=集まる”に従い、“?(ケン)=ワイワイとやかましい”に従い、“从(ジュウ)=従う”に従う。」と記している。
要するに、「?(シュウ)」と「?(ケン)」と「从(ジュウ)」から成りたつのが「僉(セン)」という漢字であると解説しているのである。
しかし、それは篆文(テンブン)で描かれた「僉(セン)」を解説するものであり、金文(キンブン)に描かれる「僉(セン)」とは異なっている
「僉(セン)」で中ほどに描かれているのは、“言”という字である。
“言”という字を並べて描くことで意見を交わすことを表し、さらに○(マル)を重ねて描くことで、意見をまとめて契(ちぎ)り=協定・誓約を結ぶことを意味しているのである。
協定・誓約を結ぶこと
誓約 龠
龠(やく)
「口(穴)三つ+侖(そろえてあわせる)
口(穴) 龠〔解字〕 会意。 「口(穴)三つ+侖(そろえてあわせる) ... ところが、『漢字源』を見る と、意味 によって「ふえ」のことを先に挙げて、〔字解〕では「口(穴)」と理解して「ふえを ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F3110
合
「龠を合わして1合となしていた」ので、「龠」は、「合」を基準にして、〔2分の1〕になる量と定義されていた。また逆に、「合」は、「龠」を基準にして、〔2つぶん〕になる量と定義されていたわけです。しかし、これだけでは、その立方体が龠6つぶんの量になることはわからない。それがわかるためには、「2つぶんの素」は「合」があるからよいとして、これに輪を掛ける「3つぶんの素」の存在が必要です。
龠
... サイコロ(立方体)の1角に集まる3つの面で構成されていますが、この容器に水を注いでも、3つの角の高さまでしか水は溜まらないので、水面のかたちは「正三角形」になり、 ... そんな彼のことを一言でいえば、圭の先端にあるようなミクロの探求者です。
圭の先端にあるようなミクロの探求者
龠+禾は和の異体字で、唐代の学者の説 では和の古字であるともいわれておりますが、 左側が口になっている隷書の「和」も きちんとあって、 後漢の字書『説文解字』では「口+禾(和)」と「龠+禾」を ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Foshiete.goo.ne.jp%2Fqa%2F5364053.html
「口+禾(和)」と「龠+禾」を微妙に違うニュアンスを持つ別の字として区別して収録しています。
「口+禾(和)」
侖(そろえてあわせる)」。何本かの竹管 をそろえてあわせた笛を表す。 ※ 龠(音;ヤク、訓;ふえ) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.k3.dion.ne.jp%2F%7Emasatono%2Fevery%2Fkanzi%2Fsyousai_10.htm
そろえてあわせる
?(シュウ)=集まる”
>加わる。集まる。まじわる。
>厽ルイ(三本のかんざし) 「見参ケンザン」
参[參] サン・シン まいる ム部 解字 金文第一字は、三本のかんざしを頭髪に挿した人が 、ひざまずいている形。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F489450704ba013e5ab07530b3b83e43e
解字 金文第一字は、三本のかんざしを頭髪に挿した人が、ひざまずいている形。第二字は、かんざしの玉が光ることを示す彡サンを加えた形。かんざしを付けて盛装した人が宮中などに参内しひざまずく形で、「まいる・もうでる」意となる。多くの人が行くので、加わる・集まる意ともなる。旧字は「厽ルイ(三本のかんざし)+人+彡サン」の形になり、新字体は旧字の厽⇒ムに簡略化され、参となった。
意味 (1)まいる(参る)。目上の人の所へゆく。宮中などへ行く。「参内サンダイ」「見参ケンザン」 (2)寺社などに詣でる。「参詣サンケイ」 (3)加わる。集まる。まじわる。「参加サンカ」「参集サンシュウ」 (4)くらべる。しらべる。「参考サンコウ」「参照サンショウ」 (5)人蔘ニンジンの代用字。「人参」 (6)「三」の代用字。
イメージ 「まいる・くわわる」 (参・驂)
「同音代替」 (惨・滲・蔘)、 「その他」 (鰺)
鋤星
参宿(しんしゅく)、和名は唐鋤星(からすきぼし)、二十八宿の一つで西方白虎七宿の第 7宿。距星はオリオン座ζ星(三つ星の東端の星)。 星官[編集]. 主体となる星官(星座) としての参は、オリオン座のζ星、ε星、δ星、α星、γ星、χ星、β星の7つの星によって構成 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%258F%2582%25E5%25AE%25BF
参宿の距星は、本来はオリオン座δ星であったが、歳差や恒星の固有運動のために明代頃には觜宿の距星を西に越えてずれ込んでいた。つまり、觜宿と参宿の順序が逆になってしまっていた。このため参宿の距星を別の星に置くなどの措置が取られるようになった。
參 ムムム
鋤星(すきぼし)
耜(すき)」の原字、 ひじを曲げた形・・・ム=角度 八進法では 0 から 7 までの八種類の 文字を数字として扱い数を表現 ... 穂で、旁の「ム」は耜( すき)の形で、耜を使って耕作 する人を表わしている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F2911
唐鋤星とは? 〔唐鋤に見立てていう〕 二十八宿の参(しん)宿の和名。オリオン座の中央 部に三つ連なって並ぶ星。三つ星。三連星(みつらぼし)。参星(しんせい)。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.weblio.jp%2Fcontent%2F%25E5%2594%2590%25E9%258B%25A4%25E6%2598%259F
・・・・
> うさぎ座はトイレ 厠(し)、屏(へい)、屎(し) うさぎ座という星座があるのですよ。 有名なオリオン座のすぐ下にある、小さくてかわいらしい星座です。 くらい星をむすぶと、ちゃんとウサギの形になります
> このうさぎ座の星たちがが中国ではどんな星座になっているかを知ったときでした。
> なんと、中国の人たちはここに「厠」というトイレの星座をおいたのです。
> ウサギの後ろの方がトイレで、頭の方は「屏」、つまりトイレの壁です。
> これは、まあ、つまりですね、なんというか、トイレからはみ出たものです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.aqumari.com%2Fmimas%2Fasia%2Fa_09.html
> さらに、このずっと下の方、西洋の星座では「はと座」という、隣の星座になりますが「屎(し)」という星があります。
>
> はと座は、旧約聖書にあるノアの箱舟物語に登場する鳩がモデルだと言われています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fseiza.imagestyle.biz%2Fsinwa%2Fhato.shtml
> はと座の東にはアルゴ座(アルゴ船座)と呼ばれる船の姿を描いた星座がありましたが、現在では、りゅうこつ座、ほ座、らしんばん座、とも座という四つの星座に別けられています。
> このアルゴ座をノアの箱舟に見立てて、その隣に、箱舟物語に登場するはとの星座が作られたとも言われています。
Re: チベットのD1(D1a)をD2(D1b)と勝手読みし、縄文人はチベット人とぉ…とか、 馬鹿な妄想に浸っていた秦野がオトナシイ。
> チベットのD1(D1a)をD2(D1b)と勝手読みし、縄文人はチベット人とぉ…とか、
> 馬鹿な妄想に浸っていた秦野がオトナシイ。
> 笑
> 15年の夢から醒め、もっと廃人になったか?爆w
いや、既にこの世にいない可能性もある。
Re: チベットのD1(D1a)をD2(D1b)と勝手読みし、縄文人はチベット人とぉ…とか、 馬鹿な妄想に浸っていた秦野がオトナシイ。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009371M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 三苗人
Re: チベットのD1(D1a)をD2(D1b)と勝手読みし、縄文人はチベット人とぉ…とか、 馬鹿な妄想に浸っていた秦野がオトナシイ。: そして、O-M117の(1)起源集団と(2)起源地だね。 それが特定できるんだよ。O-M117に限ってはね。 つまり
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009372M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009372_2M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009372_3M.jpg
秦野北斗さんへのお返事です。
> AI君はO2a2b1a1系統(O-M117)の分布図をしってるな。
> 分布が広すぎて特定できない・・・
>
まず、お前が貼ったO-M117分布図は、韓国人のシロウト作成のもの。
きちんとした論文での分布図はコチラ。
こちらとO-M117の兄弟ハプログループO-F444の分布図を参照するように。
それじゃ、原始人の負け犬D1bでも分かるように説明するよ?
O-M117は中国に15%と全体的に多いね。現代チベット・ビルマ語族集団に普遍的に高比率で存在しているのがO-M117だ。対して、D1aはチベット高原のチベット族にほぼ限定される。D1aはチベット・ビルマ語集団にとって例外、特殊例でしかない。
また、中国本土に遍く存在するシナ系O-JST002611はチベット・ビルマ集団には不在だ(ビルマを除く)。
分布図で1.チベット・ヒマラヤにすごく多いのと、2.北東の内モンゴルに拡散地点2つ確認できるくらいは中学生にも分かるだろう。
日本のO-F438は2.後者になる。
そして、O-M117の(1)起源集団と(2)起源地だね。
それが特定できるんだよ。O-M117に限ってはね。
こんなハプログループはそうはない。R1aくらいだろう。
まず、
(1)起源集団。
これは至極簡単。
現代羌族とギャロン人のO-M117の多様性が最も高い。すなわち、現代羌族とギャロン人がチベット・ビルマO-M117の起源集団となる。
これに対して、D1aの方は、そういうことが言えない。チベット人のD1aはチベット人のO-M117よりも時代が新しい。よって、D1aはチベット人に後から吸収された雑魚ということでヨロシイ。
次、
(2)起源地の推定。
こちらは、?羌族の伝承から、彼らが甘粛・青海から南下したことが追跡できる。
?また、?の羌族伝承は、?紀元前2500年までの甘粛・磨溝遺跡(斉家文化)の400体以上の古人骨で、O-P201=100%を示しており、サブグループが特定されたものがO-M117であることと一致する。
?さらにだ!
?の磨溝遺跡近くの大地湾遺跡の放射線の値が、「羌」の字を刻印されて死んだ生贄羌族の歯のエナメル質に含まれる放射線の値と一致したことにより、磨溝遺跡人が羌族であることもきちんと確認される。生贄羌族もレッキとした羌族だったということも判明したわけ。
対して、D1aやM9aは一体もいない。すなわち、原羌族においてD1aは存在しない。
つまりだ、
************************************************************************
チベット・ビルマO-M117の起源集団は、羌族であり、起源地は西域の甘粛・青海になる。
そのことは古人骨のyDNAと歴史的事実によっても再確認できるというわけだ。
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,,,完璧過ぎる!!!w解明され過ぎていてツマラナク思えても来る程にね。
このように多くの証拠から論理的に切れるハプログループは東アジアには存在しない。
日本人のO-M117の中国での位置など細かいこともじきに分かってくる。インシャーアッラー!
D1aは羌族に本来的なハプログループではないものの、現代の彼らには一定程度存在している。紛れもない羌族だ。
しかし、日本人のD1bなんざゴミなのだよ。
分かったか、中卒・古代史チャレンジのジジイ。
古代史は曖昧だから何でも言えるなんて思ったら大間違い!
はよ、諦めて逝け、負け犬さん。
Re: チベットのD1(D1a)をD2(D1b)と勝手読みし、縄文人はチベット人とぉ…とか、 馬鹿な妄想に浸っていた秦野がオトナシイ。: そして、O-M117の(1)起源集団と(2)起源地だね。 それが特定できるんだよ。O-M117に限ってはね。 つまり
秦野北斗さんへのお返事です。
これらはね、何も私が調査して考えたものではなく、私が書物や論文などを調べて分かったことを組み立てて書いている。
しかしね、書物・論文を消化してまとめて書くという、そんな基本的なことをも、君らにはできないのだよ。
諸君の駄文は、すべて妄想に基づいた独り言に過ぎない。
ただの老人の暇つぶしだ。ゲートボールでもやってた方がいいんじゃね?
中国十大考古遺跡のひとつ羌族遺跡「磨溝遺跡」(斉家文化)O-M117
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甘粛省にある中国十大考古遺跡のひとつ羌族遺跡「磨溝遺跡」(斉家文化)。
羌とは殷の西方に住んでいた西戎であり、チベット系牧畜民のことです。(しばしば「チベット系羌族」とされるが「羌系チベット人」が正しい)
とくに、「野蛮人」として殷族の目の敵にされ、生贄の儀式で首を切断されました。発見されたもので一万体!その多くに「羌」の字が刻まれています
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この殷墟の生贄羌の歯に含まれる放射性物質の値が甘粛省の大地湾遺跡の歯と一致したことで、生贄羌が甘粛・青海省あたりに住んでいたことが明らかにされたことは以前に紹介しました。
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磨溝遺跡は正式には「臨潭磨溝斉家文化墓地」と言うそうです。斉家文化とは、甘粛・青海省で栄え、前1900年頃に滅亡した文化です。
2017年の論文で、同墓地の古人骨yDNAハプログループ全てがO-P201、そのうちでサブグループまで特定できたものが羌・チベット系O-M117だと分かったのです!
この墓地は私のDeepなAncestryの墓とも言えるかもしれませんよォ!
(ああ、胸アツだな〜笑)
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また、この磨溝遺跡人と同時代の中原人(山西省Hengbei遺跡)のyDNAは、最大で3割共有していることが分かっています。
古墳時代
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 応神天皇#即位
Re: 中国十大考古遺跡のひとつ羌族遺跡「磨溝遺跡」(斉家文化)O-M117: NHK出版社『中夏文明の誕生』(2012年)
シルクロード・ブームに代わって21世紀の日本人がノスタルジーを抱くべきは羌族、中国内陸、甘粛・青海地域である!
殷墟で一万体の首なし人骨が見つかったが、殷人によって生贄にされていた「羌」について、異民族説の他に、特定の民族集団を指すのではなく奴隷一般を指すとする「奴隷説」、また「殷の罪人一般説」があった。
しかし、生贄羌族の「歯」の分析からその出自が分かった。
生贄羌の歯に含まれる放射性物質の値が甘粛省の大地湾遺跡の歯と一致したことで、生贄羌が甘粛・青海省あたりに住んでいたことが明らかにされた
甲骨文字に見える「羌」とは遊牧を生業にする異民族説に間違いなかったのである。
日本の原始人D1bや漁民O1b2は「大陸から中国人に駆逐された」と被害妄想を持っているが、
んなもんタダの与太話である。リアルに受難したのは羌族系O-M117である。
我が祖先は、数万の同胞の屍を越えて殷を打ち破り東進、
遙か日本までやって来て日本語を齎したのである!
ムネアツだなぁ〜。
いや、多分、日本のO-M117の大半は受難してないw
甘青から遼河への内モンゴル・ルートを通ってきたから。
受難していたとしても甘青地域と中原地域のやったりやりかえしたりは、お互い様である。
気の遠くなる昔のことであるし、水に流す。
ほとんど日本人に関係がないシルクロード・ブームやモンゴル・ブームがあったが(モンゴル・ブームはあったのか?)、
21世紀の日本人が郷愁を抱くべきは羌族、これからは「羌族ブーム」到来である!
Re: 古墳時代
管理人さんへのお返事です。
> その前の九州で生れたとされる応神にあたる王は、370年代に日本へ渡来してきた集団の長と関係するでしょう。東漢氏です。
>
応神天皇は漢族だった!
非常にありうるね。
(無題)
ranher.comってサイト、中国のハプログループの分布図見るのに良いですよ。
ミャオ族の先祖は、…デーン人?
ミャオ族の先祖は、
ミャオ族の先祖は、宋代以降の漢族の南下に伴って、揚子江流域から山岳内陸部に移動してきたと推定されるが、史料上で歴史的変遷を確定するのは難しい。 1995年頃からは、ミャオ族の祖先を蚩尤とする言説が急浮上した
ミャオ族(中国語: 苗族、miáozú) は、中国の国内に多く居住する民族集団で、同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいる。自称はモン族 (Hmong) であるが、Hmongは狭義にはミャオ族の一支族に用いられる呼称である。中国では55の少数民族の一つである。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
「ミャオ族」は自称ではなく漢民族による他称である。中国国内では「ミャオ」と称するを得ないが、「ミャオ」は差別と結びついて、やや低く見られるニュアンスを伴う。中国以外の地域では主として自称モンの人々が居住しており、近年は「ミャオ/モン」と併記することが増えてきた。なお、現在のタイのランプーン付近にハリプンチャイ王国(11〜13世紀)を建てたモン族は、全くの別系統の人々である。東南アジア研究者の著作などでは、必ずどちらのモン族に言及するか断りを入れるのが普通である。近年では、中国国外の人々は、総称をモン (Hmong) と表記することが多い。
タイやラオスではモン (Hmông, ???, mong) で、白モンと青モンに分かれる。ベトナムではモン(ベトナム語: H'Mông)といい、黒モン族、赤モン族、花モン族と多彩に分かれる。タイ・ベトナムではメオ (M?o, ????, mεεo) とも呼ばれるがこれは侮蔑語である。
ミャオ族の多くはすべてのものに霊魂や生命が宿ると信じ、樹、岩、山、川、泉などを崇拝する。祖霊や祖先の祭祀を怠らない。毎年旧暦10月頃の卯日や辰日を年越しの日の苗年(ノンニャン)として祖先に感謝する祭りを行う。男性は蘆笙(キー)を吹き、女性は華麗な銀飾りと豪華な刺繍の衣装をきて舞う。この時は、男女の自由恋愛の機会でもあり、ユーファンと呼ばれる歌掛けで感情を表現した。貴州省の黔東南の香炉山で旧暦6月19日に行われるチーピエ(山に登る)の祭りは有名で、沢山の若い男女が「歌垣」に集まる。また、黔東南では、13年に一度の大きな祖先祭祀であるノン・ニュウを父系氏族 (clan) が合同して行い、大量の水牛や豚を供犠して祖先を祀る。ノンとは「食べる」、ニュウは「鼓」の意味で、祖先の霊魂が宿るとされる楓香樹から作った木鼓をたたいて、祖先の霊を呼び戻して交流する。銅鼓を使用することもある。黔東南のミャオ族の間では、楓香樹から生まれた蝶々のメイパンメイリュウが、樹下の水泡と恋愛して12の卵を生み、そのうちの一つから人間が生まれ、他の卵から生まれた龍や水牛と兄弟であるという創世神話が語られている。その後、人類は天上の雷神と争い、大洪水を起こされ、瓢箪に乗って兄と妹が生き延びる。兄と妹が結婚して(兄妹始祖神話)、その子孫が現在のミャオ族になったという。ノンニュウは神話にちなんで、蝶々や兄妹始祖、祖先や死者の霊を祀り、再び東方にあるとされる究極の故郷に送り返す祭りである
タイのミャオ族の精霊信仰[編集]
以下では特にタイのミャオ族の精霊信仰について述べる。タイのミャオ族は中国文化に影響を受けた精霊崇拝を行っている[15]。さらにシャーマンによる儀礼を持つ。タイのミャオ族は大きく白ミャオ族と青ミャオ族に分けられるが信仰は似通っている。
世界観は陰界 (yeeb ceeb) と陽界 (yaj ceeb) によって構成されており、さらに天界 (ntuj) をつけ加える場合もある。陰界は精霊と死んだものが行くあの世のことである。ミャオの信仰において、あの世は山の中もしくは地下にあると考えられている。陽界は精霊と人間の住むこの世と考えられている。
精霊は基本的にダー (Dab) と呼ばれるが、さまざまな種類と呼び名がある。
陰界の精霊
陰界にはツォー・ニュン (Ntxwj Nyug) と呼ばれるあの世を統括する精霊がおり、死者の魂を審判し、転生の先を決めるとされている。さらにニュー・ヴァー・トゥアム・テーム (Nyuj Vaj Tuam Teem) がその仕事を補佐しており、魂の年齢を管理している。シャーマンの守護精霊 (Siv Yis) もここに住むといわれる。
陽界の精霊
基本的には善意のある守護霊 (Dab quas) と森などに住む悪意のある精霊 (Dab qus) に分かれる。守護霊は家の柱、竈などさまざまな場所を守護していると考えられている。また、それぞれの男系の氏族長が祖先霊 (Dab xwm kab) の祭壇を持っている。祖先霊の祭壇の隣には薬の精霊 (Dab tshuaj) を作ることもある。さらに女性の寝室には結婚生活を守護する精霊 (Dab roog) が祀られている。また、外界と家内をつなぐ家の入り口の敷居には敷居の精霊 (Dab txhiaj meej) がおり、悪い精霊が家内に入ってくることを防いでいる。森の中には悪い精霊 (Dab qus) がすんでいるとされる。特に、ポン・ツォーン (Pog Ntxoog) 呼ばれる老女の精霊は恐れられている。また、病気や驚いた際に人体より抜け出てしまうプリン (plig) と呼ばれる魂の概念があり、タイのピー信仰のクワンに近い。治療の際にはシャーマンによるフー・プリン (Hu plig) と呼ばれる招魂が行われる。
天界の精霊
天界には、人間を助けるヨーム・スア (Yawm Saub) という精霊がいるとされている。この精霊はミャオの洪水神話や、初めての結婚などの神話に登場する。また雨をつかさどる龍 (Zaj Laug) や虹 (Zaj sawv) もいるとされるが、在所は海の下もしくは湖の下の宮殿であるとされている。その他にも太陽の精霊 (Nkauj Hnub)、月の精霊 (Nrang Hli)、雷神 (Xob) などが知られている。
神話[編集]
洪水神話:太古の洪水の際にミャオ族の一組の男女が天の精霊(ヨーム・スア Yawm Saub(タイ・ミャオ族))の指示に従い、瓢箪(船、太鼓の場合もある)にのって逃れる神話がある。
射日神話:ミャオ族の英雄(カー・ユウアム Kaj Yuam(タイ・ミャオ族))が太古に九つあった太陽を八つ射落とした神話がある。中国の射日神話と類似している。
中国国内のミャオ族(苗族)は漢・蔵(チベット)語族、苗・瑶(ヤオ)語派に属し、三つの方言集団に分かれ、 ミャオ族の英雄(カー・ユウアム Kaj Yuam(タイ・ミャオ族))が太古に九つあった太陽を八つ射落とした神話がある。
9はイエスを表す数字 九 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F536
女媧は古代中国神話に登場する女神。三皇の一人に挙げる説もある。姿は蛇身人首と描写される。伏羲とは兄妹または夫婦とされている。
女媧は中国少数民族の苗族が信奉した神
ミャオ族の英雄(カー・ユウアム Kaj Yuam(タイ・ミャオ族))が太古に九つあった太陽を八つ射落とした神話がある。中国の射日神話と類似している。
古代デーン人
祭壇がある住居に暮らす民族はタイ・プワン、タイ・ ダム、タイ・デーンに多くみられた。ラオ族、タイ・プ ワンは仏教を信仰し、タイ・ダム、タイ・デーンはアニ ミズムを信仰すると一般的に言われている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.arch.shibaura-it.ac.jp%2Fmultidatabases%2Fmultidatabase_contents%2Fdownload%2F1071%2F91d9e44b1d26584de8454dd75c7cbce0%2F2826%3Fcol_no%3D5%26frame_id%3D1387
…デーンはアニ ミズムを信仰すると一般的に言われている。…
デーン人(デーンじん。デンマーク語: Daner)は、現在のデンマークおよびスウェーデンのスコーネ地方に居住した北方系ゲルマン人(ノルマン人)の一派である。現在のデンマーク人の祖先にあたる。ヴァイキング時代にイングランドおよび西ヨーロッパ一帯に侵攻した。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ブリトン人(ローマ化したケルト人)は、北からのデーン人の侵入に対抗するために、ゲルマン人であるアングル人やサクソン人を傭兵として呼び寄せてしまう。
「インドヨーロッパ語族のケルト語派に属する言語を話していたブリトン人がブリテン島南部の、(言語系統不明だか後のピクト人につながっているならケルト語派かもしれない)カレドニア人がブリテン島北部の、それぞれ記録に残る限り最も古くからいる住民」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq13164612423
アイルランド人もスコットランド人もウェールズ人も自分達をケルト人と思っていません。
古代デーン人E(東北・北海道縄文人、蝦夷、アイヌ人、ミャオ族)
古代デーン人 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fempirex.web.fc2.com%2F1danekakurega.html
第一次大航海時代(北極海ルート)
バルト海・ジーラント・スコーネ・スカンジナビア半島東岸(古代デーン人Z/旧デーン人の先祖)
スカンジナビア半島西岸北岸・古代フィンランド・古代ロシア地方(古代デーン人Z)=サーミ人、フィン人、スラブ人
シベリア(古代デーン人Z)=エヴェンキ族、ブリヤート族、モヨロ人
第二次大航海時代(大西洋ルート)
ブリテン島・アイルランド島(古代デーン人Y/海の民の先祖)
古代フリース地方(古代デーン人Y)
古代ブルターニュ地方(古代デーン人Y)
古代バスク地方(古代デーン人Y)
古代ルシタニア地方(古代デーン人Y)
カナリア諸島(古代デーン人Y)
第三次大航海時代(大西洋・地中海・紅海・ペルシア湾・インド洋・太平洋ルート)
勢力圏・
古代デーン人A=サルディーニャ島・エーゲ海文明・クレタ文明・ヒッタイト帝国・ヌビア地方・アフリカ南部
古代デーン人B/地中海ルート=サハラ帝国・エジプト王朝・テーベ神官国家
古代デーン人B/アフリカ周航ルート=プント王国・エチオピア帝国・アラビア半島
古代デーン人C/地中海ルート=メソポタミア・シリア・シュメール諸都市
古代デーン人C/アフリカ周航ルート=エラム王国
古代デーン人D=カッチ・ハラッパー・マレー半島・セレベス島
古代デーン人E=日本東北地方・中国北部・長江流域・百越・台湾島・沖縄・三韓
古代デーン人F=南北アメリカ大陸
・支配下の民族・
古代デーン人A=(サルディーニャ人、シチリア人、クレタ人、ヌビア人、バンツー族)
古代デーン人B1=(エジプト人、テーベ人)
古代デーン人B2=(ベドウィン族、プント人、エチオピア人)
古代デーン人C1(シュメール神官団A)=(ヘブライ人)
古代デーン人C2(シュメール神官団B)=(カッシート人、アッシリア人)
古代デーン人C3=(エラム人)
古代デーン人D=(ダーサ人、パニ人、カッチ人、チャンダーラ、デミアル人、ワナ人、ポリネシア人)
古代デーン人E(東北・北海道縄文人、蝦夷、アイヌ人、ミャオ族)
古代デーン人F(ディネ族、ナバホ族、アパッチ族、アパラチー族他)
※古代デーン人はピクト人として故国に帰還、新デーン人と対立し、敗北、配下となる
・旧デーン人Aグループ・
メソポタミア侵攻第一波(旧デーン人A1/アッカド人)
第二波(旧デーン人A1/アムル人・フェニキア人「バビロニア帝国」、フルリ人「ミタンニ王国」)
シルクロード侵攻第一波(バクトリア・マルギアナ文明、大月氏/旧デーン人A2)
ギリシア侵攻第一波(イオニア人/ケルト人、アケーア人/旧デーン人A3)
第二波(テッサリア人、エオリア人/ケルト人)
エジプト侵攻第一波(ヒクソス人/旧デーン人A4)
・旧デーン人Bグループ・
ギリシア侵攻第三波(ドーリス人/旧デーン人B)
ドーリス人の第一後裔、スパルタ人(旧デーン人B1)
ドーリス人の第二後裔、コリントス人(旧デーン人B2)
シルクロード侵攻第二波(キンメリア人、スキタイ人、サカ人/旧デーン人B3)
・アケーア系デーン人(Aグループ)勢力圏=(テーベ市、アルゴス市/ギリシア、サムニテ王国、カンパニア王国/イタリア南部)
・スパルタ系デーン人(B1)勢力圏=(スパルタ市、クレタ島、リビア、サイス朝、マウリア朝、グレコ・バクトリア、サルマタイ、アラン人)
・・・・
デーン人が作った宗教と秘密結社…古代デーン人:デーン人+ドルイド教ケルト人「ドルイド教」
ケルト人は、ヨーロッパ文明の基層のひとつとなったケルト文明を築きました。ケルト文明の精神の基底は、「アニミズム」にありました /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fbiz.trans-suite.jp%2F23805
アニミズムとは、「自然界のすべての現象や事物に霊魂が宿るとする考え方」のことです。日本語訳では「精霊信仰」「地霊信仰」などと訳されます。
アニミズム
苗族は精霊信仰(アニミズム)で、女性中心の母権制社会で、女性のシャーマンもいたことからも、日本の邪馬台国に近いものがあり、魏志倭人伝にも江南人と倭人との習俗の共通性が記述されております。
日本人と苗族(みゃおぞく)の類似性 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.rui.jp%2Fruinet.html%3Fi%3D200%26c%3D400%26m%3D243139
古代デーン人 シュメール文明とユダヤ人 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fempirex.web.fc2.com%2F2sumerjew.html
古代のサハラには湖沼が存在し、緑豊かな土地だったと考えられるが、薪として森林が伐採され、砂漠化が促進したと考えられる、つまり、サハラ砂漠はデーン人による環境破壊だった
一方で、ノアの箱舟の原型になったかもしれない、ノアと考えられる諜報機関・宗教組織の司令官はサルディーニャ、クレタ島など地中海を支配し、ハムは北アフリカ、セムはカナーン・紅海・アラビア半島、ヤペテはインダス地方の支配を任されたのだろう
…サハラの砂漠化にデーン人が関与している可能性がある、当時、燃料は薪なので森が伐採され砂漠化の要因になったのかもしれない、当時、北アフリカ帝国は近隣のエジプト人と対立していただろうこの時、北アフリカに入植した古代デーン人Aは古代デーン人Bとなった
メソポタミア、インダスに進出するには拠点が必要だったはずだが、それがクレタ島ではなかったかクレタ文明は古代デーン人が現地人、同行させたケルト人に作らせた文明だったか?
・・・・
古代デーン人C(シ)vs旧デーン人A1
シュメール人(古代デーン人)がアッカド人を排除、シュメール人最後の王朝ユダヤ人を輩出した伝説の都市、ウルがウル・ナンムによって第三王朝を迎えた、後にユダヤ人がエジプトでアトン神のみを信じる一神教を作ったりユダヤ教を産んだりしたわけだが、当時のシュメールの神殿都市郡はユダヤ人の祖が運営していたのだろう、そこへアモリ人が侵入し、バビロニア帝国が成立するが、その時に神殿都市の神官達の一派がメソポタミアを出る決意をし、後にユダヤ人の祖となった
古代デーン人C(シ)vs旧デーン人A1
カッシート人の背後にはシュメール人(古代デーン人)がいたと考えられる
ブリテン系デーン人Aグループブリテン系デーン人Bグループvs古代デーン人C(ヘ)
海の民、アケーア人連合はアナトリア沿岸に拠点を築き、古代デーン人勢力である内陸のヒッタイト帝国を滅ぼした
ブリテン系デーン人Bvs古代デーン人C(ヘ)
海の民はフェニキア人を伴い、地中海アフリカ沿岸を支配、カルタゴ市を作る
・・・・
イラン系アーリア人旧デーン人B3vsブリテン系デーン人Bグループ
アーリア人とスキタイ人の連合がブリテン系デーン人Bグループの前哨を撃破
アーリア人は、後に旧デーン人勢力であるスキタイ人を追放する
BC550年
アケメネス朝ペルシア帝国オリエント統一
イラン系アーリア人vs古代デーン人Cvs旧デーン人Avsブリテン系デーン人B
アーリア人が、巨大なオリエント系デーン人勢力を抑え、オリエント地方の覇者となった
・・・・
Re: ミャオ族の先祖は、…デーン人?
荊の紀氏さんへのお返事です。
おバカさんw
ミャオ族の先祖は、…ハプログループH…H1:ベルベル人14~61%、
ミャオ族の先祖は、宋代以降の漢族の南下に伴って、揚子江流域から山岳内陸部に移動してきたと推定されるが、史料上で歴史的変遷を確定するのは難しい。 1995年頃からは、ミャオ族の祖先を蚩尤とする言説が急浮上した
ミャオ族(中国語: 苗族、miáozú) は、中国の国内に多く居住する民族集団で、同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいる。自称はモン族 (Hmong) であるが、Hmongは狭義にはミャオ族の一支族に用いられる呼称である。中国では55の少数民族の一つである。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
「ミャオ族」は自称ではなく漢民族による他称である。中国国内では「ミャオ」と称するを得ないが、「ミャオ」は差別と結びついて、やや低く見られるニュアンスを伴う。中国以外の地域では主として自称モンの人々が居住しており、近年は「ミャオ/モン」と併記することが増えてきた。なお、現在のタイのランプーン付近にハリプンチャイ王国(11〜13世紀)を建てたモン族は、全くの別系統の人々である。東南アジア研究者の著作などでは、必ずどちらのモン族に言及するか断りを入れるのが普通である。近年では、中国国外の人々は、総称をモン (Hmong) と表記することが多い。
タイやラオスではモン (Hmông, ???, mong) で、白モンと青モンに分かれる。ベトナムではモン(ベトナム語: H'Mông)といい、黒モン族、赤モン族、花モン族と多彩に分かれる。タイ・ベトナムではメオ (M?o, ????, mεεo) とも呼ばれるがこれは侮蔑語である。
ミャオ族の多くはすべてのものに霊魂や生命が宿ると信じ、樹、岩、山、川、泉などを崇拝する。祖霊や祖先の祭祀を怠らない。毎年旧暦10月頃の卯日や辰日を年越しの日の苗年(ノンニャン)として祖先に感謝する祭りを行う。男性は蘆笙(キー)を吹き、女性は華麗な銀飾りと豪華な刺繍の衣装をきて舞う。この時は、男女の自由恋愛の機会でもあり、ユーファンと呼ばれる歌掛けで感情を表現した。貴州省の黔東南の香炉山で旧暦6月19日に行われるチーピエ(山に登る)の祭りは有名で、沢山の若い男女が「歌垣」に集まる。また、黔東南では、13年に一度の大きな祖先祭祀であるノン・ニュウを父系氏族 (clan) が合同して行い、大量の水牛や豚を供犠して祖先を祀る。ノンとは「食べる」、ニュウは「鼓」の意味で、祖先の霊魂が宿るとされる楓香樹から作った木鼓をたたいて、祖先の霊を呼び戻して交流する。銅鼓を使用することもある。黔東南のミャオ族の間では、楓香樹から生まれた蝶々のメイパンメイリュウが、樹下の水泡と恋愛して12の卵を生み、そのうちの一つから人間が生まれ、他の卵から生まれた龍や水牛と兄弟であるという創世神話が語られている。その後、人類は天上の雷神と争い、大洪水を起こされ、瓢箪に乗って兄と妹が生き延びる。兄と妹が結婚して(兄妹始祖神話)、その子孫が現在のミャオ族になったという。ノンニュウは神話にちなんで、蝶々や兄妹始祖、祖先や死者の霊を祀り、再び東方にあるとされる究極の故郷に送り返す祭りである
タイのミャオ族の精霊信仰[編集]
以下では特にタイのミャオ族の精霊信仰について述べる。タイのミャオ族は中国文化に影響を受けた精霊崇拝を行っている[15]。さらにシャーマンによる儀礼を持つ。タイのミャオ族は大きく白ミャオ族と青ミャオ族に分けられるが信仰は似通っている。
世界観は陰界 (yeeb ceeb) と陽界 (yaj ceeb) によって構成されており、さらに天界 (ntuj) をつけ加える場合もある。陰界は精霊と死んだものが行くあの世のことである。ミャオの信仰において、あの世は山の中もしくは地下にあると考えられている。陽界は精霊と人間の住むこの世と考えられている。
精霊は基本的にダー (Dab) と呼ばれるが、さまざまな種類と呼び名がある。
陰界の精霊
陰界にはツォー・ニュン (Ntxwj Nyug) と呼ばれるあの世を統括する精霊がおり、死者の魂を審判し、転生の先を決めるとされている。さらにニュー・ヴァー・トゥアム・テーム (Nyuj Vaj Tuam Teem) がその仕事を補佐しており、魂の年齢を管理している。シャーマンの守護精霊 (Siv Yis) もここに住むといわれる。
陽界の精霊
基本的には善意のある守護霊 (Dab quas) と森などに住む悪意のある精霊 (Dab qus) に分かれる。守護霊は家の柱、竈などさまざまな場所を守護していると考えられている。また、それぞれの男系の氏族長が祖先霊 (Dab xwm kab) の祭壇を持っている。祖先霊の祭壇の隣には薬の精霊 (Dab tshuaj) を作ることもある。さらに女性の寝室には結婚生活を守護する精霊 (Dab roog) が祀られている。また、外界と家内をつなぐ家の入り口の敷居には敷居の精霊 (Dab txhiaj meej) がおり、悪い精霊が家内に入ってくることを防いでいる。森の中には悪い精霊 (Dab qus) がすんでいるとされる。特に、ポン・ツォーン (Pog Ntxoog) 呼ばれる老女の精霊は恐れられている。また、病気や驚いた際に人体より抜け出てしまうプリン (plig) と呼ばれる魂の概念があり、タイのピー信仰のクワンに近い。治療の際にはシャーマンによるフー・プリン (Hu plig) と呼ばれる招魂が行われる。
天界の精霊
天界には、人間を助けるヨーム・スア (Yawm Saub) という精霊がいるとされている。この精霊はミャオの洪水神話や、初めての結婚などの神話に登場する。また雨をつかさどる龍 (Zaj Laug) や虹 (Zaj sawv) もいるとされるが、在所は海の下もしくは湖の下の宮殿であるとされている。その他にも太陽の精霊 (Nkauj Hnub)、月の精霊 (Nrang Hli)、雷神 (Xob) などが知られている。
神話[編集]
洪水神話:太古の洪水の際にミャオ族の一組の男女が天の精霊(ヨーム・スア Yawm Saub(タイ・ミャオ族))の指示に従い、瓢箪(船、太鼓の場合もある)にのって逃れる神話がある。
射日神話:ミャオ族の英雄(カー・ユウアム Kaj Yuam(タイ・ミャオ族))が太古に九つあった太陽を八つ射落とした神話がある。中国の射日神話と類似している。
中国国内のミャオ族(苗族)は漢・蔵(チベット)語族、苗・瑶(ヤオ)語派に属し、三つの方言集団に分かれ、 ミャオ族の英雄(カー・ユウアム Kaj Yuam(タイ・ミャオ族))が太古に九つあった太陽を八つ射落とした神話がある。
9はイエスを表す数字 九 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F536
女媧は古代中国神話に登場する女神。三皇の一人に挙げる説もある。姿は蛇身人首と描写される。伏羲とは兄妹または夫婦とされている。
女媧は中国少数民族の苗族が信奉した神
ミャオ族の英雄(カー・ユウアム Kaj Yuam(タイ・ミャオ族))が太古に九つあった太陽を八つ射落とした神話がある。中国の射日神話と類似している。
古代デーン人
祭壇がある住居に暮らす民族はタイ・プワン、タイ・ ダム、タイ・デーンに多くみられた。ラオ族、タイ・プ ワンは仏教を信仰し、タイ・ダム、タイ・デーンはアニ ミズムを信仰すると一般的に言われている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.arch.shibaura-it.ac.jp%2Fmultidatabases%2Fmultidatabase_contents%2Fdownload%2F1071%2F91d9e44b1d26584de8454dd75c7cbce0%2F2826%3Fcol_no%3D5%26frame_id%3D1387
…デーンはアニ ミズムを信仰すると一般的に言われている。…
デーン人(デーンじん。デンマーク語: Daner)は、現在のデンマークおよびスウェーデンのスコーネ地方に居住した北方系ゲルマン人(ノルマン人)の一派である。現在のデンマーク人の祖先にあたる。ヴァイキング時代にイングランドおよび西ヨーロッパ一帯に侵攻した。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ブリトン人(ローマ化したケルト人)は、北からのデーン人の侵入に対抗するために、ゲルマン人であるアングル人やサクソン人を傭兵として呼び寄せてしまう。
「インドヨーロッパ語族のケルト語派に属する言語を話していたブリトン人がブリテン島南部の、(言語系統不明だか後のピクト人につながっているならケルト語派かもしれない)カレドニア人がブリテン島北部の、それぞれ記録に残る限り最も古くからいる住民」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq13164612423
アイルランド人もスコットランド人もウェールズ人も自分達をケルト人と思っていません。
古代デーン人E(東北・北海道縄文人、蝦夷、アイヌ人、ミャオ族)
古代デーン人 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fempirex.web.fc2.com%2F1danekakurega.html
第一次大航海時代(北極海ルート)
バルト海・ジーラント・スコーネ・スカンジナビア半島東岸(古代デーン人Z/旧デーン人の先祖)
スカンジナビア半島西岸北岸・古代フィンランド・古代ロシア地方(古代デーン人Z)=サーミ人、フィン人、スラブ人
シベリア(古代デーン人Z)=エヴェンキ族、ブリヤート族、モヨロ人
第二次大航海時代(大西洋ルート)
ブリテン島・アイルランド島(古代デーン人Y/海の民の先祖)
古代フリース地方(古代デーン人Y)
古代ブルターニュ地方(古代デーン人Y)
古代バスク地方(古代デーン人Y)
古代ルシタニア地方(古代デーン人Y)
カナリア諸島(古代デーン人Y)
第三次大航海時代(大西洋・地中海・紅海・ペルシア湾・インド洋・太平洋ルート)
勢力圏・
古代デーン人A=サルディーニャ島・エーゲ海文明・クレタ文明・ヒッタイト帝国・ヌビア地方・アフリカ南部
古代デーン人B/地中海ルート=サハラ帝国・エジプト王朝・テーベ神官国家
古代デーン人B/アフリカ周航ルート=プント王国・エチオピア帝国・アラビア半島
古代デーン人C/地中海ルート=メソポタミア・シリア・シュメール諸都市
古代デーン人C/アフリカ周航ルート=エラム王国
古代デーン人D=カッチ・ハラッパー・マレー半島・セレベス島
古代デーン人E=日本東北地方・中国北部・長江流域・百越・台湾島・沖縄・三韓
古代デーン人F=南北アメリカ大陸
・支配下の民族・
古代デーン人A=(サルディーニャ人、シチリア人、クレタ人、ヌビア人、バンツー族)
古代デーン人B1=(エジプト人、テーベ人)
古代デーン人B2=(ベドウィン族、プント人、エチオピア人)
古代デーン人C1(シュメール神官団A)=(ヘブライ人)
古代デーン人C2(シュメール神官団B)=(カッシート人、アッシリア人)
古代デーン人C3=(エラム人)
古代デーン人D=(ダーサ人、パニ人、カッチ人、チャンダーラ、デミアル人、ワナ人、ポリネシア人)
古代デーン人E(東北・北海道縄文人、蝦夷、アイヌ人、ミャオ族)
古代デーン人F(ディネ族、ナバホ族、アパッチ族、アパラチー族他)
※古代デーン人はピクト人として故国に帰還、新デーン人と対立し、敗北、配下となる
・旧デーン人Aグループ・
メソポタミア侵攻第一波(旧デーン人A1/アッカド人)
第二波(旧デーン人A1/アムル人・フェニキア人「バビロニア帝国」、フルリ人「ミタンニ王国」)
シルクロード侵攻第一波(バクトリア・マルギアナ文明、大月氏/旧デーン人A2)
ギリシア侵攻第一波(イオニア人/ケルト人、アケーア人/旧デーン人A3)
第二波(テッサリア人、エオリア人/ケルト人)
エジプト侵攻第一波(ヒクソス人/旧デーン人A4)
・旧デーン人Bグループ・
ギリシア侵攻第三波(ドーリス人/旧デーン人B)
ドーリス人の第一後裔、スパルタ人(旧デーン人B1)
ドーリス人の第二後裔、コリントス人(旧デーン人B2)
シルクロード侵攻第二波(キンメリア人、スキタイ人、サカ人/旧デーン人B3)
・アケーア系デーン人(Aグループ)勢力圏=(テーベ市、アルゴス市/ギリシア、サムニテ王国、カンパニア王国/イタリア南部)
・スパルタ系デーン人(B1)勢力圏=(スパルタ市、クレタ島、リビア、サイス朝、マウリア朝、グレコ・バクトリア、サルマタイ、アラン人)
・・・・
デーン人が作った宗教と秘密結社…古代デーン人:デーン人+ドルイド教ケルト人「ドルイド教」
ケルト人は、ヨーロッパ文明の基層のひとつとなったケルト文明を築きました。ケルト文明の精神の基底は、「アニミズム」にありました /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fbiz.trans-suite.jp%2F23805
アニミズムとは、「自然界のすべての現象や事物に霊魂が宿るとする考え方」のことです。日本語訳では「精霊信仰」「地霊信仰」などと訳されます。
アニミズム
苗族は精霊信仰(アニミズム)で、女性中心の母権制社会で、女性のシャーマンもいたことからも、日本の邪馬台国に近いものがあり、魏志倭人伝にも江南人と倭人との習俗の共通性が記述されております。
日本人と苗族(みゃおぞく)の類似性 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.rui.jp%2Fruinet.html%3Fi%3D200%26c%3D400%26m%3D243139
古代デーン人 シュメール文明とユダヤ人 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fempirex.web.fc2.com%2F2sumerjew.html
古代のサハラには湖沼が存在し、緑豊かな土地だったと考えられるが、薪として森林が伐採され、砂漠化が促進したと考えられる、つまり、サハラ砂漠はデーン人による環境破壊だった
一方で、ノアの箱舟の原型になったかもしれない、ノアと考えられる諜報機関・宗教組織の司令官はサルディーニャ、クレタ島など地中海を支配し、ハムは北アフリカ、セムはカナーン・紅海・アラビア半島、ヤペテはインダス地方の支配を任されたのだろう
…サハラの砂漠化にデーン人が関与している可能性がある、当時、燃料は薪なので森が伐採され砂漠化の要因になったのかもしれない、当時、北アフリカ帝国は近隣のエジプト人と対立していただろうこの時、北アフリカに入植した古代デーン人Aは古代デーン人Bとなった
メソポタミア、インダスに進出するには拠点が必要だったはずだが、それがクレタ島ではなかったかクレタ文明は古代デーン人が現地人、同行させたケルト人に作らせた文明だったか?
・・・・
古代デーン人C(シ)vs旧デーン人A1
シュメール人(古代デーン人)がアッカド人を排除、シュメール人最後の王朝ユダヤ人を輩出した伝説の都市、ウルがウル・ナンムによって第三王朝を迎えた、後にユダヤ人がエジプトでアトン神のみを信じる一神教を作ったりユダヤ教を産んだりしたわけだが、当時のシュメールの神殿都市郡はユダヤ人の祖が運営していたのだろう、そこへアモリ人が侵入し、バビロニア帝国が成立するが、その時に神殿都市の神官達の一派がメソポタミアを出る決意をし、後にユダヤ人の祖となった
古代デーン人C(シ)vs旧デーン人A1
カッシート人の背後にはシュメール人(古代デーン人)がいたと考えられる
ブリテン系デーン人Aグループブリテン系デーン人Bグループvs古代デーン人C(ヘ)
海の民、アケーア人連合はアナトリア沿岸に拠点を築き、古代デーン人勢力である内陸のヒッタイト帝国を滅ぼした
ブリテン系デーン人Bvs古代デーン人C(ヘ)
海の民はフェニキア人を伴い、地中海アフリカ沿岸を支配、カルタゴ市を作る
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イラン系アーリア人旧デーン人B3vsブリテン系デーン人Bグループ
アーリア人とスキタイ人の連合がブリテン系デーン人Bグループの前哨を撃破
アーリア人は、後に旧デーン人勢力であるスキタイ人を追放する
BC550年
アケメネス朝ペルシア帝国オリエント統一
イラン系アーリア人vs古代デーン人Cvs旧デーン人Avsブリテン系デーン人B
アーリア人が、巨大なオリエント系デーン人勢力を抑え、オリエント地方の覇者となった
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デーン人
ヨーロッパ人の遺伝学的な起源が判明
約7500年前の新石器時代前期、今度は中東からヨーロッパに次の波が押し寄せた。作物の栽培方法とともに、ハプログループHの変異型が持ち込まれた。
遺伝的な証拠によって、LBKの農耕民と彼ら固有のハプログループHの到来が、ハプログループUの激減と一致することが示されている。当時、ヨーロッパの狩猟採集民の間では、ハプログループUが優勢だった。
「ヨーロッパの考古学的な記録には遺伝子変化を伴う。つまり、人とそのDNAの移動に伴って、文化の変化が起きたのだ」。
LBKグループとその子孫は繁栄を極め、瞬く間にヨーロッパ全域に広がった。「ヨーロッパを席巻した最初の文化と言ってもよいだろう」とクーパー氏は話す。
この大躍進を考えると、彼らが多くの現代ヨーロッパ人の重要な遺伝的祖先と考えるのが自然だ。
ところが研究チームの遺伝子解析結果は、常識を覆すような事実を示している。約6500年前の新石器時代中期、LBKの文化が衰退。そして突然、このグループ固有のハプログループH変異型が希少な存在となり、同グループの異なる変異型を持つ人々に取って代わられてしまうのだ。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnatgeo.nikkeibp.co.jp%2Fnng%2Farticle%2Fnews%2F14%2F7884%2F
ハプログループH…
ハプログループH (Y染色体)(ハプログループH (Yせんしょくたい)、英: Haplogroup H (Y-DNA))とは分子人類学において人類の父系を示すY染色体ハプログループ(型集団)の分類で、ハプログループFの子系統で、「M69」の変異によって定義されるグループである。30,000-40,000年前[1]にインド亜大陸で誕生したと考えられる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ハプログループHはインド亜大陸に特徴的なタイプであり、特に狩猟採集民コヤに71%[2]の高頻度に見られることから、オーストロアジア語族やドラビダ語族が分布する以前の、狩猟採集民のタイプであったことが想定される。またロマにも60%の高頻度である[3]。
ハプログループHはヨーロッパ人に最もよくみられるタイプであり、中東からヨーロッパ、北アフリカにかけて広範囲かつ高頻度に分布する。ヨーロッパ人の41%がハプログループHに属す[3][4]。下位系統のH1はベルベル人とバスク人に高頻度であり、おそらくハプログループR1b (Y染色体)の流れと関連している[5]。
主な下位系統[編集]
H
H1:ベルベル人14~61%、バスク人最大27.8%[6]などヨーロッパに広く見られる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
H3:バスク人に13.9%など[7]。
H5:西アジア、コーカサス
ハプログループUの激減…
2015年の遺伝子調査では、13,000年前のスイスのクロマニョン人がハプログループU5b1h (mtDNA) に属すことがわかった[9]。
ハプログループU (mtDNA)は分子人類学におけるミトコンドリアDNAハプログループの一タイプであり、ハプログループRの子型のうち「11467, 12308, 12372」で定義づけられるものである。 43,000〜50,000(95% CI: 46,530 ± 3,290) に誕生したと考えられる[1] /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
東ヨーロッパ、中央アジア、西アジア、南アジア、北アフリカ、アフリカの角に広く分布する。 ヨーロッパ人の11%[4][5][6] 、インドではカーストの15%、指定部族の8%にみられる[4]。 特にU6はベルベル人を特徴づける型である[7]。 形質人類学でいうコーカソイドに広くみられるタイプであり、ハプログループI (Y染色体)、ハプログループJ (Y染色体)と対になる母系タイプと考えられる。
^ ベルベル人はハプログループE1b1b (Y染色体)が高頻度であるが、ハプログループU6 (mtDNA)やH1(mtDNA)を中〜高頻度で持ち、遺伝的にはネグロイド(E1b1b(Y-DNA))とコーカソイド(U6,H1(mtDNA))の混血と言える。U6,H1(mtDNA)の対のタイプであるR1b(Y-DNA)はレバントからエジプト、スーダンを通ってカメルーン付近にいたり、現在はチャド語派の民族に高頻度に見られるが、R1b(Y-DNA)-U6,H1(mt-DNA)集団がエジプト・スーダン付近に到達した際に、南方からやってきたアフロ・アジア系E1b1b(Y-DNA)(ネグロイド)と、元来R1b(Y-DNA)の対であったU6,H1(mtDNA)(コーカソイド)が混合し、E1b1b(Y-DNA)とU6,H1(mtDNA)をもつ現在のベルベル人が形成されたと考えられる。
日本人の大半は9〜10のハプログループ…
日本人の大半は9〜10のハプログループ…
〉ハプログループRの子型
ハプログループRは約7万年前にインド、南アジアで誕生したといわれるグループです。南アジアのさまざまな民族にまたがるグループで、多様性と古さを持っています。古代エジプトのミイラからもハプログループRが確認されています。ハプログループAやN9と同じくグループNを共通祖先としています。南アジアを中心に分布したグループですが、彼らの子孫は北アフリカ、ヨーロッパ全土やオーストラリア、アメリカ全土など広域に広がっていきました。
ハプログループR…
イギリス王室のウィリアム王子や母のダイアナ妃がハプログループRに属していると分かっています。同じハプログループに属するということは、共通の祖先をもつ遠い親戚と考えることもできます。古代エジプトの住民と英国王室が同じハプログループというのも、面白いものですね。日本人の大半は9〜10のハプログループに分類できます。中にはもっと珍しいグループに属している人もいます。あなたもアジア・ヨーロッパの分岐点となったグループRに属しているかもしれません。
ハプログループ R (Y染色体) 推定発生時期 約19,000〜27,000年前 [1] 推定発生地 西南アジア 親系統 P 子系統 M207 高頻度民族・地域 在来分布:ユーラシア大陸西部、北アメリカ北東部 南北アメリカ(16世紀以降ヨーロッパからの移住)
Y染色体のハプログループRは、中央アジアからコーカサス地方にかけてのいずれかで、約19,000から27,000年前にハプログループK2の子系統であるハプログループPから誕生した。[1] [5]ハプログループRはその後、環境の変化などに伴って移動を開始し、中央アジアやヨーロッパで最も一般的に分布している系統である。またインド、エジプトやカメルーンでも分布が確認されている。ハプログループRは、早期に分岐したと考えられる姉妹グループR1系統(R-M173)とR2系統(R-M479)があるが、その大多数がR1系統(R-M173)の下流に属している[6][1]。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
分布[編集]
R*[編集]
ブルショー人、パシュトゥーン人で10%、カラシュ人で6%みられる[7]。シベリアの24,000年前のen:Mal'ta?Buret' cultureの人骨から発見されている[8]。
R1[編集]
R1系統(R-M173)は、最終氷河期の後に拡散を開始したと考えられ、ヨーロッパや中央アジア等、西ユーラシアでは非常に一般的に分布している。また、大航海時代以降、南北アメリカ大陸やオセアニア地域にも多数進出し、現在においては東ユーラシア系であるハプログループOと並んで地球上で最も多く見られる系統となっている。
R1系統(R-M173)の下流に属するサブグループとしては、ハプログループR1a(R-M420)や、ハプログループR1b(R-M343)に大別される。
R1a[編集]
ハプログループR1aはインド北部から中央アジアや東ヨーロッパに高頻度に分布していることから、インド・ヨーロッパ語族のサテム語の担い手と考えられる[9]。
R1b[編集]
ハプログループR1bの分布図
ハプログループR1bは西ヨーロッパと南ヨーロッパに顕著に分布している系統であり、バスク人やケルト系民族に80%以上の高頻度に見られる[10][11][12][13]。印欧語族ケントゥム語の担い手と考えられる[14]。大航海時代以降の人種の流動に伴って、南北のアメリカ大陸やオーストラリア大陸にも分布の範囲を拡大した。またバシキール人にも86%の高頻度である[15]。この流れとは別に、古代にもアフリカ内陸部へ移動したR1b系統の一集団があったと見られ、ハプログループR-V88に定義づけられる分岐系統がチャド語派の言語を話すカメルーンの先住民族の間において高濃度で発見されている[16][17][18]。
アメリカ大陸[編集]
アメリカ先住民における分布の起源については、よくわかっていない。
北米先住民に見られるR1系統に関しては、コロンブスの大陸発見以降の植民地化によるヨーロッパ人との混血によるものか、有史以前にヨーロッパからの移住した何らかの集団があったものなのか、あるいはシベリア経由でやってきた先住民に由来するものかははっきりと結論が出ていない。北アメリカにおけるR1の分布はミトコンドリアDNAハプログループXと似ていることも興味深い事実である。
かつてはハプログループQが大多数であったアメリカ大陸も、ヨーロッパ人由来の西洋社会となっている今日においては、ハプログループRが最多である。
R2[編集]
ハプログループR2はインドの南部ほど、かつ下位カーストほど高頻度でみられるが、トライブでは逆に低頻度となっている[19]。
ハプログループM系統のグループは、インドから進出してきた人たちと考えられ、N系統のR9、B、Fも元のRの拡散の中心がインドにあるため、同じく南アジアを経て東アジアにやってきたと思われます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffirst-genetic-testing.com%2Fgene%2Fhaplo.html
Re: チベットのD1(D1a)をD2(D1b)と勝手読みし、縄文人はチベット人とぉ…とか、 馬鹿な妄想に浸っていた秦野がオトナシイ。: そして、O-M117の(1)起源集団と(2)起源地だね。 それが特定できるんだよ。O-M117に限ってはね。 つまり
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009384M.jpg
https://zh.wikisource.org/wiki/ 舊唐書/卷197
Re: チベットのD1(D1a)をD2(D1b)と勝手読みし、縄文人はチベット人とぉ…とか、 馬鹿な妄想に浸っていた秦野がオトナシイ。: そして、O-M117の(1)起源集団と(2)起源地だね。 それが特定できるんだよ。O-M117に限ってはね。 つまり
秦野北斗さんへのお返事です。
話し反らすんじゃないよ。
おまえの勝手読みなどには興味ないって言ってるだろう?
そもそも、素人ブログの「チベット人のy-D」という記述を勝手にD2(D1b)と読み見違えること自体が、マトモに文章解釈できないことの証左ではないかwww
遠くに逃げて吠えるな負け犬!なんて潔さのなさだ、お前は既に日本人失格だ!
> これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
>
> >これらはね、何も私が調査して考えたものではなく、私が書物や論文などを調べて分かったことを組み立てて書いている。
>
> 秦野の書物は中国史籍なんだけど・・・、AI君の思いつき論文とは、別物
> もし、中国史籍が論文なら、AI君の年齢はキリストを超えるな、凄い。
> 中国史籍は記録書ですよ・・・。
> では、問題です、大化の改新はあったのでしょうか? 中国史籍には、なかった。です。
>
>
>
> 舊唐書/卷197
> 林邑國[??]
> 林邑國,漢日南象林之地,在交州南千餘里。其國延袤數千里,北與皛州接。地氣冬?,不識冰雪,常多霧雨。其王所居城,立木為柵。王著日氈古貝,斜絡膊,繞腰,上加真珠金鎖,以為瓔珞,卷髮而戴花。夫人服朝霞古貝以為短裙,首戴金花,身飾以金鎖真珠瓔珞。王之侍衛,有兵五千人,・・・
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fzh.wikisource.org%2Fwiki%2F%25E8%2588%258A%25E5%2594%2590%25E6%259B%25B8%2F%25E5%258D%25B7197
>
>
>
> > 秦野北斗さんへのお返事です。
> >
> >
> > これらはね、何も私が調査して考えたものではなく、私が書物や論文などを調べて分かったことを組み立てて書いている。
> >
> > しかしね、書物・論文を消化してまとめて書くという、そんな基本的なことをも、君らにはできないのだよ。
> >
> > 諸君の駄文は、すべて妄想に基づいた独り言に過ぎない。
> > ただの老人の暇つぶしだ。ゲートボールでもやってた方がいいんじゃね?
>
Re: ミャオ族の先祖は、…ハプログループH…H1:ベルベル人14~61%、
荊の紀氏さんへのお返事です。
キシよ、同じ内容を連続投稿して何の意味があるのだ?
短期記憶が失われてるのか?w
Re: チベットのD1(D1a)をD2(D1b)と勝手読みし、縄文人はチベット人とぉ…とか、 馬鹿な妄想に浸っていた秦野がオトナシイ。: そして、O-M117の(1)起源集団と(2)起源地だね。 それが特定できるんだよ。O-M117に限ってはね。 つまり
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009387M.jpg
https://zh.wikisource.org/wiki/ 舊唐書/卷197
Re: チベットのD1(D1a)をD2(D1b)と勝手読みし、縄文人はチベット人とぉ…とか、 馬鹿な妄想に浸っていた秦野がオトナシイ。: そして、O-M117の(1)起源集団と(2)起源地だね。 それが特定できるんだよ。O-M117に限ってはね。 つまり
秦野北斗さんへのお返事です。
お前は人が言うことを正しく解釈して受け答えるという能力にホント欠けるのな。
すぐに自分勝手に話し始める。アスペルガーの傾向もあるぞ。
諦めろ、お前じゃ「研究ごっこ」すら無理だ。
Re: チベットのD1(D1a)をD2(D1b)と勝手読みし、縄文人はチベット人とぉ…とか、 馬鹿な妄想に浸っていた秦野がオトナシイ。: そして、O-M117の(1)起源集団と(2)起源地だね。 それが特定できるんだよ。O-M117に限ってはね。 つまり
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009389M.jpg
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
手も足もでません、ですか・・・
> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> お前は人が言うことを正しく解釈して受け答えるという能力にホント欠けるのな。
> すぐに自分勝手に話し始める。アスペルガーの傾向もあるぞ。
>
> 諦めろ、お前じゃ「研究ごっこ」すら無理だ。
AI君が出てるで・・・
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009390M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=NGlqidcKLNA
Re: 讃・珍・済・興・武…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009395M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 倭の五王
Re: チベットのD1(D1a)をD2(D1b)と勝手読みし、縄文人はチベット人とぉ…とか、 馬鹿な妄想に浸っていた秦野がオトナシイ。: そして、O-M117の(1)起源集団と(2)起源地だね。 それが特定できるんだよ。O-M117に限ってはね。 つまり
秦野北斗さんへのお返事です。
「論理的思考には限界がある」か・・・
思考を放棄したんじゃ、終わりだな...
オメはここから退場しろ。
老虎山文化Oα3-M1707-CTS9678 - ?海人?学 forum
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009398M.jpg
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図の黄河ループ北東端にある老虎山文化(紀元前3000年〜紀元前2000年)のyDNAハプロ
老虎山文化人群的Y染色体的一些?索- Oα3-M1707-CTS9678 - ?海人?学 forum
老虎山文化人群指的是河套和正北?城区域的人群(不包括?河燕山区域),体???北?型。因?没有老虎山?址的直接?骨数据,都是从与老虎山文化有?育、?承?系的文... 老虎山文化人群的Y染色体的一些?索,?海人?学 ...
論文の出所が分からないが、Oα3-M1707-CTS9678とある。
O-M117の周族のサブグループである。
図の「古西戎人の分布」のうち、古人骨で既知のものは、
・出発点の甘粛・磨溝遺跡O-P201=100%(特定O-M117)
・途上の内モンゴル・三関遺跡O2=100%
・遼河文明・夏家店上層文化O-M134(特定O-M117)。
これらに加え、老虎山文化もO-M117となると、さらにこのルートの妥当性が補強される。
三関遺跡O2=100%に時期的・位置的に重なるのが、殷代の鬼方である。
三関遺跡のO2もO-M117と見て間違いないだろう。
周族とはこの鬼方と同系の集団が南下したものということになる。
夏家店上層文化人は後の東胡になったと考えられる。東胡の中身は広義の羌族(古西戎人)に加え、テュルク・モンゴル、東胡の東に粛慎、粛慎の南方に濊貊。これらの集団に日本人のルーツ・日本語の系統を解くカギがある。
「アルタイ系」の日本語への関与はないので、古西戎人の言語を中核に粛慎・濊貊との言語接触が考慮される。
当然ながらD1bやO1b2など無関係だw
O-F438のサブグループ「劉邦ハプロ」O-F155
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周族を襲い南下させた犬戎というのは、O-M117の「日本・劉邦ハプロ」O-F438である可能性が高い。犬戎の北の鬼方・土方でも良い。古西戎人として同じような集団だ。
図1:日本人のO-M117の多くを占める「北京・日本」O-F438のサブグループ「劉邦ハプロ」O-F155の分布図(「人類学在線 ?海??F155、F813、Y20928各自在全国的分布情况」ranher.comより)。
図2:中国のO-M117の最大サブグループである「周族ハプロ」O-CTS4678の分布図(同上)
ーーーーーーーーー
1.
羌族O-M117(O-M133)のサブグループO-F438のそのまたサブグループを探ると、面白いことが分かってくる。
ここまで来ると紀元前数百年の起源となりリアリティーも出てくる。
O-F438の下位集団は次のとおり、
O2a2b1a1a1 (F438)←日本・北京(紀元前1000年頃起源)
O2a2b1a1a1a (Y17728)←日本
O2a2b1a1a1a1 (F155)←劉邦・土家族(紀元前300年頃起源)
O2a2b1a1a1a1a (F813/M6539)
O2a2b1a1a1a1a1 (Y20928)←劉邦
Re: O-F438のサブグループ「劉邦ハプロ」O-F155: 周族を襲い南下させた犬戎というのは、O-M117の「日本・劉邦ハプロ」O-F438である可能性が高い。犬戎の北の鬼方・土方の一部でも良い。同じような集団だ。
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2.
図1「日本のO-F438」の分布で、山東省とともに黒龍江省が二大集積地であることに気付くだろう。それに対し、図2「中国のO-CTS9648」の現在の分布は雲南や福建・台湾と南方寄りだ。
ここで、周族には、北方の故地にいたところを犬戎に攻められ南下したという伝承があることが思い出される。
なるほど、周族を襲い南下させた犬戎というのは、O-M117の「日本・劉邦ハプロ」O-F438である可能性が高い。犬戎の北の鬼方・土方の一部でも良い。同じような集団だ。
O-F438が黒竜江省に多いということは、華夏族=古西戎人が勃興した頃の最初の征服過程で北上した集団のうち最北の集団かもしれないし、紀元前3000年頃からの古西戎人の本格的な北東への移動によるものかもしれない。あるいは両方による結果かもしれない。
北東寄りということで姜姓、嬴姓、また王氏の分布にも共通する。
ちなみに、D1bやO1b2には全く縁のない話だ。
笑
Re: O-F438のサブグループ「劉邦ハプロ」O-F155:この劉邦ハプロ、O-M117の中の日本人と同じO-F438に属する。 漢皇帝と日本に渡来し日本語を齎した集団の大王は非常に近い関係にあるということだ。
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3.
犬戎の盟友であった姜姓羌人(そこから太公望が出る)や申戎もO-F438である可能性が高い。
また、O-CTS4678の現在の分布からして、客家とは詰まるところ周族なのではないか?O-M117は台湾で大陸の2倍の23%、台湾客家では38%にも上る。
なお、劉邦ハプロには他に陳州劉氏のハプロに基づくシナ系O-JST002611説があるが、中国サイトでは専らO-M117説が取られているように見える。ウィキ中国語版の「名人ハプロ」でも同様に劉邦O-F155としている。彼らの23%を占める姓が劉姓である。
4.
西と東が戦い、西(秦)が中華を統一する。
束の間、北東方面が出身の劉邦ハプロO-F155によって秦が倒され、世界帝国漢が成立。漢代にシナ人と戎狄が融合する。
DNAで見ても東西南北の関係、複雑だな。
この劉邦ハプロ、O-M117の中の日本人と同じO-F438に属する。
漢皇帝と日本に渡来し日本語を齎した集団の大王は非常に近い関係にあるということだ。
Re: O-F438のサブグループ「劉邦ハプロ」O-F155:大陸から列島に齎した集団(O-M117)は、この中に必ずいる。名が現れる前に同系だった集団も含めて。
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渭河流域。
これを私は「西戎銀座」と名付けた。
大陸から列島に日本語を齎した集団(O-M117)は、この中に必ずいる。名が現れる前に同系だった集団も含めて。
とくに内モンゴル経由の北東への道を占めた「古西戎人」はO-F438と関係するだろう。
また、渭河ルートを通ってきたのは現代チベット・ビルマ集団にも一致するO-CTS4658だ。
この2つで日本のO-M117の70%を占める(35%ずつ)。
さらに、我が国には周族系O-CTS9678もおり、O-M117に占める割合は18%。
この3グループゴチャ混ぜでやって来たのかもしれない。
村上源氏にO-F438がいるので、初期大王のハプロとして今のところO-F438が有力だが、
他のサブグループ、またO-F444も諸大王の中に見つかるはず。
古西戎人で現存する集団は日本人しかいない。
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渭河流域「西戎銀座」と古西戎人の内モンゴル・ルート
古西戎人で現存する集団は日本人しかいない。
D1bやO1b2には全く縁のない話だ。
笑
Re: O-F438のサブグループ「劉邦ハプロ」O-F155:大陸から列島に齎した集団(O-M117)は、この中に必ずいる。名が現れる前に同系だった集団も含めて。
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> これを私は「西戎銀座」と名付けた。
> 大陸から列島に齎した集団(O-M117)は、この中に必ずいる。名が現れる前に同系だった集団も含めて。
>
> とくに内モンゴル経由の北東への道を占めた「古西戎人」はO-F438と関係するだろう。
>
図:犬戎
にわかに浮上してきた日本人=(ワケ有り)犬戎説。
内モンゴル方面の諸古西戎人を犬戎で代表させる。
中国王室皇族YDNA
夏〜隋、ほとんどO-M117
・夏:羌族O-M117
・殷:O-JST002611(複数の王統あり)
・周:O-M117(O-CTS9678)
・秦:O-M117(O-CTS9678)
・漢:O-JST002611あらためO-M117(O-F438>O-F155)
・五胡十六国時代:O-M117氐羌とO-F444慕容・拓跋部。
・隋:O-M117
・唐:O-P201(サブグループ不明)
・南詔:O-M117
(『中国王室皇族YDNA?倍群推』より)
ハプログループD
ハプログループDは、今より約6万年[1]以上前にアフリカ[2]にてハプログループDEから分岐し、出アフリカ後内陸ルートを通って東アジアへ向かったと考えられている[3]。現在、このハプログループDは、日本列島・南西諸島やアンダマン諸島、チベット高原で高頻度に観察されるほかは、アジア、アフリカの極めて限られた地域で散発的にしか見つかっていない。チベットではD1a1-Z27276、日本ではD1a2?M64.1、アンダマン諸島ではD1a3-Y34537[4]が高頻度である。これらのハプログループは、同じハプログループDに属していても、サブグループが異なるため、分岐してから5万3000年以上の年月が経ている[5]。
ハプログループDは、現在の日本や中国、朝鮮、東南アジアにおいて多数派的なハプログループO系統や、その他E系統以外のユーラシア系統(C,I,J,N,Rなど)とは分岐から7万年以上の隔たりがあり、非常に孤立的な系統となっている。
D系統は東アジアにおける最古層のタイプと想定できるが[1]、一つの説として東アジア及び東南アジアにO系統が広く流入した為、島国日本や山岳チベットにのみD系統が残ったと考えられている。そのため形質人類学的には古モンゴロイド(アイノイド)の分布と相関しているようである。
なお、同じくハプログループDEから分かれたハプログループEは、アフリカ大陸で高頻度、中東や地中海地域で中〜低頻度に見られる。またDEの子型でD系統にもE系統にも属さないDE*が西アフリカやチベット人でごくわずかに発見されている[6][1]。
最近の研究 (Haber et al. 2019) から、ハプログループDの最も古くに分岐した系統(D2系統)がナイジェリア人の3サンプルから見つかった。この系統は、ハプログループEの持たないSNPを、D1-M174と7つ共有している。このことから、ハプログループDはアフリカで既に誕生していたと推定されている。[7]D2は、西アジア(サウジアラビア、シリア)でも見つかっているという。[8]
ハプログループ D1
ハプログループ D1 は、アラビア半島からインド・南アジアの沿海岸を通って東南アジアに到達した系統であるハプログループ D から南シナ海周辺で分岐した /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.taizanweb.com%2Fscience%2Fhuman%2Ffamous_ydna_d.php
タイ人男性のY染色体を調査したところ、ハプログループ D系統が4%検出された。この内訳は、ハプログループ D*(D-M174*)が1.33%、ハプログループ D1a1(D-M15)が2.67%である。
1958年、中国広西チワン族自治区柳州市の石灰岩洞窟で出土した柳江人(りゅうこうじん、3万5千〜4万年前)の古人骨を復元した結果、日本固有の縄文人の人骨に近い形状であったことから、Y染色体ハプログループ D1b(D-M64.1)系の縄文人の祖系に近いハプログループ D1(D-CTS11577)系のグループであったと推定されている。現在の中国広西省では、ハプログループ D1a(D-Z27276)系の人々がみられる。
ハプログループ D1 は、アラビア半島からインド・南アジアの沿海岸を通って東南アジアに到達した系統であるハプログループ D から南シナ海周辺で分岐したと思われる。
チベット人の約半数にあたる49%は、ハプログループ D1a(D-Z27276)系に属している。また、チベット人からは D系と E系の祖形 DE から分岐した DE*系の人もわずかにみられる。父系系統で比較する場合、日本人と最も近い民族がチベット人である
ベトナム後黎朝大越国の建国の功臣、阮廌(げんせん, グエン・チャイ, 1380-1442)のY染色体は、ハプログループ D1a1(D-M15)である。これは阮の子孫によるデータに基づくものである。
民国土匪・王三春(本名:王汝仁, 1884-1939)のY染色体は、ハプログループD1a1(D-M15)である。王三春は、四川省巴中(現 平昌)の出身。
ベトナム人男性のY染色体を調査したところ、ハプログループD1a1(D-M15)が4.17%検出された。
台湾人男性のY染色体を調査したところ、ハプログループD1a1(D-M15)が0.28%検出された。
バンクーバー近郊に住む、カナディアン・インディアンのアダムス家のY染色体は、ハプログループD1a1a2(D-F1070)である。この結果により、このカナディアン・インディアンとラオスのモン族とは約9,200年前に共通祖先から分岐したことが明らかとなった。
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)のY染色体は、ハプログループD1b(D-M64.1)であると推測される。これは瓊瓊杵尊の子孫による遺伝子データに基づくものであり、瓊瓊杵尊の御陵である可愛の山陵(宮内庁所管)の学術調査が出来ないため確定的な結果ではない。
アイヌ人のY染色体は、縄文系のハプログループD1b*(D-M64.1*)が88%(D1b*が13/16=81.25%、D1b1aが1/6=6.25%)を占め、残りの12.5%がシベリアから樺太を経由して南下してきたニヴフ(ギリヤーク)系のC2(C-M217)である。
琉球国舜天王朝の太祖・舜天王(しゅんてん-おう, 1166-1237)のY染色体は、ハプログループD1b(D-M64.1)であると推定されている。
東山天皇のY染色体遺伝子は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である。これは、東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔粘膜の解析による。
鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147-1199)のY染色体は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)である。
饒速日命(ニギハヤヒノミコト)のY染色体は、ハプログループD1b1c1(D-CTS1897)系統であると推定される。これは、出羽国雄勝郡(現 秋田県湯沢市)に移住した物部氏の子孫ら複数名から得られたデータに基づくものである。
饒速日命(ニギハヤヒノミコト)のY染色体は、ハプログループD1b1c1(D-CTS1897)系統であると推定される。これは、出羽国雄勝郡(現 秋田県湯沢市)に移住した物部氏の子孫ら複数名から得られたデータに基づくものである。
Re: ハプログループD
荊の紀氏さんへのお返事です。
ハプログループD1bなんて窓際の窓際、実体なしのゴミ・ハプロと言って良い。
出来得るのは妄想のみ。
違うか?違うなら「証拠」を出してもらおうか。
諸君と同レベルのゴミ・ブログからの妄想は受け付けない。
Re: 古墳時代
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> > その前の九州で生れたとされる応神にあたる王は、370年代に日本へ渡来してきた集団の長と関係するでしょう。東漢氏です。
> >
>
> 応神天皇は漢族だった!
> 非常にありうるね。
そうですね、東漢氏の影響が河内王朝の周辺に強く働いていたでしょうから、中国系の遺伝子が多くもたらされた可能性を感じます。
特に先日の地域別の遺伝子分布表で奈良に特に多くみえたO-JST002611の存在、これがシナ語族のハプロでしょうから、やはり奈良の歴史を顧みても、ある時期に大量の中國人が移住してきたと考えるべきでしょう。
平安初期の新撰姓氏録にみえる奈良の官人の三分の1は渡来系ですし、特に昨晩の投稿にもあったように、飛鳥南部には東漢氏が集住していましたから、東晋系の集団のハプロ、つまりO-JST002611が今もそのそこにみえてくれば、立証しうるでしょう。
そういう意味でも、都道府県レベルから、さらに細かい市町村レベルでのハプロ分布が出てくるのが待ち遠しいところです。
記紀には村落レベルで追える移住の記録はたくさんありますから、その地域の住民のハプロの構造を理解できれば、そこからダイレクトにその先祖の出自がわかるようになります。
本日の迷言:秦野「論理的思考には限界がある( ・?ω・?)」←サピエンスを放棄した類人猿www
秦野北斗さんへのお返事です。
Re: 中国王室皇族YDNA
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009411M.jpg
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
中国の王朝は全部O-M117じゃないぞ、読めんだろう。
文章が有るんだよ、AI君も韓国学者の仲間に入り捏造するか、
> 夏〜隋、ほとんどO-M117
>
> ・夏:羌族O-M117
> ・殷:O-JST002611(複数の王統あり)
> ・周:O-M117(O-CTS9678)
> ・秦:O-M117(O-CTS9678)
> ・漢:O-JST002611あらためO-M117(O-F438>O-F155)
> ・五胡十六国時代:O-M117氐羌とO-F444慕容・拓跋部。
> ・隋:O-M117
> ・唐:O-P201(サブグループ不明)
> ・南詔:O-M117
> (『中国王室皇族YDNA?倍群推』より)
>
>
>
Re: 中国王室皇族YDNA
秦野北斗さんへのお返事です。
> これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
>
> 中国の王朝は全部O-M117じゃないぞ、読めんだろう。
> 文章が有るんだよ、AI君も韓国学者の仲間に入り捏造するか、
>
あははははは。
安心しろ、D1bやO1b2は、中国の村長すらにもいないw
え、文章がある?バカ言え。
糞ブログの「チベット人y-D」をD2と勝手読みして15年間信じ込んでいたお前に、文章読解などできるものか!www
学問以前の問題がお前にはある。
君はね、正直言えば、ビョーキ。なにかしらの障害はある。君の書く文章もおかしいよね。
ずーっと「、」が続くところとか、前後の繋がりがないとことか...
誰も指摘してくれなかったんだね。
とにかくビョーインいけ、治らないけどw
Re: 古墳時代
管理人さんへのお返事です。
> > 応神天皇は漢族だった!
> > 非常にありうるね。
>
> そうですね、東漢氏の影響が河内王朝の周辺に強く働いていたでしょうから、中国系の遺伝子が多くもたらされた可能性を感じます。
>
> 特に先日の地域別の遺伝子分布表で奈良に特に多くみえたO-JST002611の存在、これがシナ語族のハプロでしょうから、やはり奈良の歴史を顧みても、ある時期に大量の中國人が移住してきたと考えるべきでしょう。
>
> 平安初期の新撰姓氏録にみえる奈良の官人の三分の1は渡来系ですし、特に昨晩の投稿にもあったように、飛鳥南部には東漢氏が集住していましたから、東晋系の集団のハプロ、つまりO-JST002611が今もそのそこにみえてくれば、立証しうるでしょう。
>
>
> そういう意味でも、都道府県レベルから、さらに細かい市町村レベルでのハプロ分布が出てくるのが待ち遠しいところです。
>
> 記紀には村落レベルで追える移住の記録はたくさんありますから、その地域の住民のハプロの構造を理解できれば、そこからダイレクトにその先祖の出自がわかるようになります。
>
>
日本に渡来した最初の「文明人」はO-JST002611でしょう。漢族そのものでしょう。
漢字は絶大だね。弥生人も漢字見て拝んでたってね。
一方、O-M134やC2は武力。朝鮮東部は文字さえなかったと言う。
だからこそ、北方集団との関わりも出てくる。
周族も伐殷後、漢字は継承し、それを文明化した。
その意味でも、周族は日本人のルーツとして重要。周族ハプロはO-CTS4678、日本のO-M117の18%を占めます(Family Tree DNA)。
ここでもお前にレスしてくれるの私しかいないだろ?w お前、何度も毛虫さんにレスしていたが最初から無視されたろ。これが普通で私は優しいんだよ? 自覚しなさい。
秦野北斗さんへのお返事です。
秦野のような老人は結構いるそうだ。
私が留学していた時のホームステイ先の老人がそうだった。
自分の思い込みを何度も何度も話し続ける。彼に捕まるのが嫌だった。昨日話したのにまた今日話している。
そこは旅行者の宿的なこともやっていて、オランダ人婦人が彼に捕まっていた。でも、彼女は耳を傾けている。
老人が去ったあと、彼女に「良くあんなの聞いていられますね」と話したら、彼女いわく、ヨーロッパにもそういう老人がいるそうだ。若い時に自分を押し殺して欲求不満が残った人にそういう老人が多いとのこと。
でもね、秦野、ここにはお前の妄想を聞いてくれる人はいないのだよ。きもちわるくて迷惑なの。
ここでもお前にレスしてくれるの私しかいないだろ?w
お前、何度も毛虫さんにレスしていたが最初から無視されたろ。これが普通で私は優しいんだよ。
自覚しなさい。
東漢氏の習俗
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http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index214.htm
Re: 讃・珍・済・興・武…
秦野北斗さんへのお返事です。
> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 倭国の五人の王、讃・珍・済・興・武は中国の武将なんだ、歴史家は天皇としているが、舊唐書卷八十四/列傳三十四/劉仁軌伝に記録される。
>
>
中国姓の可能性も確かに視野には入れておくべきかもしれませんね。問題はどう立証するかですが・・・。
Re: 中国王室皇族YDNA: 夏、殷、周、秦、漢、隋のうち6ー7割をO-M117 が占める。隋唐までを「華夏族=古西戎人の時代」と呼んで良いだろう。そして、彼らの影響を我が国も大きく受けていることは言うまでもない。日本語集団は華夏族=古西戎人そのもの.
1. 夏:羌族O-M117
2. 殷:O-JST002611(複数の王統あり)
3. 周:O-M117(O-CTS9678)
4. 秦:O-M117(O-CTS9678)
5. 漢:O-JST002611あらためO-M117(O-F438>O-F155)
6. 五胡十六国時代:O-M117氐羌とO-F444慕容・拓跋部。
7. 隋:O-M117
8. 唐:O-P201(O-M188だと言い、高麗の王建と同じとなる)
(『中国王室皇族YDNA?倍群推測』より)
参考:日本語集団=初期大王:O-M117(のうちO-F438は確実にいらっしゃる)
一応、以上の妥当性を説明して置こう。
1. 夏王朝O-M117はこれで良い。夏王朝の前に甘青O-M117が中原に3割入り込むことが確認されている。また、夏王朝の主体が羌族ということも問題はない。禹にまつわる伝承の分布と殷代の羌族の分布が一致している。
2. 殷は良く分からない。
シナ語であればO-JST002611だろうが、王統が複数あったというので、不明。
3. 周は確実にO-M117だ。
中国において最も強勢なサブグループO-CTS9678。
姫姓王氏の実に25%をこの型が占める。
4. 秦は山東の嬴姓徐氏のハプログループがO-M117であり、甘粛という居住地からしてもO-M117は支持しうる。ただ、嬴姓とも見なされる李氏はO-F444が多いという話しもある。私の知り合いの李さんのO-F444だ。
5. 漢。
これは二種ある。O-JST002611(陳州劉氏)とO-M117(O-F155, 湖北・湖南の劉氏)。最近はO-M117説が優勢で、ranher.comでO-JST002611のグループを見ても劉邦についてのスレッドはない。
6. 五胡十六国。
この時代の主役は氐羌のO-M117と鮮卑のO-F444、C2だ。
民族融合の時代。
7.隋。
これは楊堅のルーツが関隴貴族集団にあるのと国姓・楊が羌族に好まれて採用されることから肯定的に思える。
一方で、我が国の昔の学者は楊堅を鮮卑と見るのが好きだったようだ。
しかし、鮮卑関隴にはさまざまな民族集団が跋扈していたし、融合が進んでおり、漢族の将軍にしか従わない鮮卑部隊もあった。また、楊堅の父・楊忠に与えられた鮮卑風漢姓は西魏の創始者・宇文泰によって与えられたものであるから、姓だけをもって彼の民族的出自を鮮卑とすることは早計である(アーサー・F・ライト 『隋代史』)。
以上のように、殷と漢がグレー、また五胡十六国が多様であるほかは夏から隋すべてO-M117と考えて良い。
夏、殷、周、秦、漢、隋のうち6ー7割をO-M117が占める。
隋唐までを「華夏族=古西戎人の時代」と呼んで良いだろう。そして、彼らの影響を我が国も大きく受けていることは言うまでもない。日本語集団は華夏族=古西戎人そのものである。
ひいては「炎帝ハプロの時代」とも言える。
Baidu百科「姜姓」
「炎帝,黄帝,堯,大禹,夏朝皇帝,周朝皇帝等等都是羌人的后裔」。
あ〜、温故知新はあと
Re: 中国王室皇族YDNA: 夏、殷、周、秦、漢、隋のうち6ー7割をO-M117 が占める。隋唐までを「華夏族=古西戎人の時代」と呼んで良いだろう。そして、彼らの影響を我が国も大きく受けていることは言うまでもない。日本語集団は華夏族=古西戎人そのもの.
いまのメンバー以外で多分このサイト覗いてる人、いたらw、私の投稿しか読んでない可能性が非常に高いw
青少年の悪いお手本MATさんと秦野さん
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青少年の悪いお手本
MATのブログのMATさん。下関在住。IT関係退職。
秦野がどういうわけか彼を尊敬してて鵜呑みにしちゃってるわけw??類は友を呼ぶ、だね。
(サイト覗くと、地図上の山に線引いてアレコレ想像したり、管理人さんにも似てるのがチョッピリ心配…)
で、MATさんていうのは、D1(D1a)が秦人の遺伝子で、東の漢族に殲滅されたって妄想持ってるのだけど、←バカジャナイノ
秦野はD1を日本のD2(D1b)だとずっーと何年も勘違いしてて、彼の哀れな脳みそは、次のように情報処理しちゃったワケ:
「秦人は縄文人?」←バカジャナイノ・バカジャナイノ
↓
「なら、秦氏も縄文人?」←バカジ ャナイノ・バカジャナイノ・バカジャナイノ
↓
「縄文人が大陸渡って秦人になったんだー。テレビで確か縄文人が米大陸にも行ってた」バカジャナイノ・バカジャナイノ・バカジャナイノ・バカジャナイノ
・・・MATよか重症患者でしょ、コレ?w
本人は思考が支離滅裂なことを意識もせずに盲信してる...
Re: 東漢氏の習俗
管理人さんへのお返事です。
> 私の予想では、光武帝の後漢の宮中には、光武帝を助けた月氏の技能者や武人の影響が強くあり、その彼らの得意としたチャリオットにかかわる製鉄技法や、その遺伝子も混じっていると思います。
>
光武帝を助けた月氏って誰ですか??
Re: 東漢氏の習俗: 道教-起源は、自然と一体化していた「古西戎人」の宗教です。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009421M.jpg
管理人さんへのお返事です。
> ただ、これは、隋唐代の祝詞とは全然違って、道教とは関係するのですが、もっと古い漢代の儀式・信仰要素を継承しています。
>
> 西王母などは、邪馬台国時代の魏と関わる三角縁神獣鏡にもみえる文言ですし、南を炎光とするのも、かなり古いものです。扶桑、弱水なども春秋戦国の山海経時代の観念に由来するものです。
>
> それが神人車馬紋様として当時の画像鏡などに刻まれていくのですが、先の西王母なども一緒に描かれていくわけです。軍旗のようなものも描かれていて、また仙人なども出てきます。
>
> 後漢末以降の道教成立以前の神仙思想ですね、その影響が上記の祝詞にも見えてくるとすると、かれらが皇帝の寿命を延ばすためにささげていた金の刀というのも、まさに金精錬によるもので、銀人の銀も同様に銀だったことでしょう。後代の人形のような形式化したものではなかったかもしれません。
>
私も道教には興味があって、今 『道教とは何か』という本を読んでます。
中国人の宗教は道教ですね。こちらが断然古く、庶民の生活に根ざしている。
儒教を仏教としたら、道教はヒンドゥー教です。
この道教ですが、哲学的なことは後付で、内容は呪術と呪術に重なる医術ですね。
あくまで現世利益なところは日本人の宗教と似ています。
起源は、自然と一体化していた「古西戎人」の宗教です。
医術が道教の重要な柱となっていることなど、炎帝が医学を開いたとされることを想起させますね。
チベット・ビルマ系は垂直型の移牧ですから、山を上ったり下がったりするわけです。
それも常人じゃ行けないようなかなりの高山です。そこには未知の薬草などの知識を持った現地人がいて、たしか、TK(Traditional Knowledge)とか呼ばれて注目されています。
一方、こりゃ、論証のお手本だね! 全部こんな感じに進むと良いんだけどね〜w
O-M117は中国に15%と全体的に多いね。現代チベット・ビルマ語族集団に普遍的に高比率で存在しているのがO-M117だ。対して、D1aはチベット高原のチベット族にほぼ限定される。D1aはチベット・ビルマ語集団にとって例外、特殊例でしかない。
また、中国本土に遍く存在するシナ系O-JST002611はチベット・ビルマ集団には不在だ(ビルマを除く)。
分布図で1.チベット・ヒマラヤにすごく多いのと、2.北東の内モンゴルに拡散地点2つ確認できるくらいは中学生にも分かるだろう。
日本のO-F438は2.後者になる。
そして、O-M117の(1)起源集団と(2)起源地だね。
それが特定できるんだよ。O-M117に限ってはね。
こんなハプログループはそうはない。R1aくらいだろう。
まず、
(1)起源集団。
これは至極簡単。
現代羌族とギャロン人のO-M117の多様性が最も高い。すなわち、現代羌族とギャロン人がチベット・ビルマO-M117の起源集団となる。
これに対して、D1aの方は、そういうことが言えない。チベット人のD1aはチベット人のO-M117よりも時代が新しい。よって、D1aはチベット人に後から吸収された雑魚ということでヨロシイ。
次、
(2)起源地の推定。
こちらは、?羌族の伝承から、彼らが甘粛・青海から南下したことが追跡できる。
?また、?の羌族伝承は、?紀元前2500年までの甘粛・磨溝遺跡(斉家文化)の400体以上の古人骨で、O-P201=100%を示しており、サブグループが特定されたものがO-M117であることと一致する。
?さらにだ!
?の磨溝遺跡近くの大地湾遺跡の放射線の値が、「羌」の字を刻印されて死んだ生贄羌族の歯のエナメル質に含まれる放射線の値と一致したことにより、磨溝遺跡人が羌族であることもきちんと確認される。生贄羌族もレッキとした羌族だったということも判明したわけ。
対して、D1aやM9aは一体もいない。すなわち、原羌族においてD1aは存在しない。
つまりだ、
************************************************************************
チベット・ビルマO-M117の起源集団は、羌族であり、起源地は西域の甘粛・青海になる。
そのことは古人骨のyDNAと歴史的事実によっても再確認できるというわけだ。
***************************************************************
,,,完璧過ぎる!!!w解明され過ぎていてツマラナク思えても来る程にね。
このように多くの証拠から論理的に切れるハプログループは東アジアには存在しない。
日本人のO-M117の中国での位置など細かいこともじきに分かってくる。インシャーアッラー!
D1aは羌族に本来的なハプログループではないものの、現代の彼らには一定程度存在している。紛れもない羌族だ。
(しかし、日本人のD1bなんざゴミなのだよ。ゴミというか「無」だね。チベット・ビルマ系に
今も昔もD1bなどいない、彼らに縄文ゲノムなんてのもゼロ。D1aとD1bは4万年も開いた別物)
伏羲(紀元前3300年 - 紀元前2737年)
ユーラシア大騎馬民族の時代 5 四輪馬車からチャリオットへの技術革新 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Falternative_politik%2F24478999.html
車輪は最古の最重要な発明とされており、その起源は古代メソポタミアで紀元前5千年紀(ウバイド期)にさかのぼり、元々は轆轤(ろくろ)として使われていた。その北方のカフカースでは洞窟がいくつか発見されており、そこに紀元前3700年ごろから荷車などが使われていた痕跡が見つかっている。車輪のある乗り物(ここでは四輪で軸が2つあるもの)と思われる最古の絵は、ポーランド南部で出土した紀元前3500年ごろのものと思われる Bronocice pot に描かれたものである
(引用 ウィキペデシア /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
以前は、車輪が発明されたのは紀元前4000年ごろのシュメールであったとされていた。しかし、最近の調査によると、車輪は、上記のポーランド南部の他、カフカース北部のマイコープ文化(今日のグルジア)、インダス文明のハラッパー遺跡、そしてメソポタミアのウバイト文明でも発見され、おそらく様々な地域で同時に発明されたということが定説になっている。
戦闘馬車チャリオットの起源
古代世界において、明らかに機能性と馬がもつ本来のUSPを活かそうとするために四輪車から二輪車へ改良を行ったというのは、シュンペーターの言うところの技術革新そのものだろう。
青銅器時代の隆盛とともに食糧問題が解決に向かうと、今度は資源や豊かな土地をめぐって争いが起こり始めた。
技術革新は、他でもない軍拡競争の賜物だろう。
『The Standard of Ur』というシュメール文明の遺物がある。紀元前2600 ? 2400年ごろに作成されたようで、大きさ縦21センチ、横50センチほどの箱には、貝、ライムストーンやラピスラズリなどのモザイクで装飾されている。実際何に使用されたのかは分かっていないらしいのだが、2つの大きなパネルから成り立っていて、1つは平和な日常生活を描いたもの、もう1つは戦争の様子を描いたパネルだ。戦争が描かれているパネルには、4輪車の戦闘馬車が描かれている。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.britishmuseum.org%2Fimages%2F12_standardur_l.jpg
また、同じメソポタミアにおいて紀元前2800〜2700年頃と推定される遺跡から2頭立て2輪の戦車(チャリオット)の模型が発掘されているが、どうもこれは、装着された4輪もしくは2輪の車輪があまりにも重いらしく戦闘馬車としては見られていない。
やっぱり、4輪の戦闘馬車などかったるいと感じていた民族が、2輪のチャリオット開発したのだろう。
そして、それは本質的に戦闘民族であった遊牧騎馬民族によって開発されたようだ。
紀元前2800〜2700年頃…
出来事[編集] /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
紀元前2800-2700年頃 - キクラデス文明を代表する「ハープ奏者の坐像(ニューヨークのメトロポリタン美術館蔵)」が作られる。
紀元前2800-2600年頃 - インダス文明領域形成期(ハラッパーII期)。シンド地方でコト・ディジ文化が始まる。
紀元前2800-2400年頃 - イラン東部のシャフリ・ソフタ遺跡II期。
紀元前2800年頃 - シュメールで実在が確実視されている最古の王キシュ第1王朝のエンメバラゲシの治世。
紀元前2775年-2650年頃 - エジプトで第二次王朝戦争が起こる。
紀元前2750年頃 - メソポタミアで早期王朝I期が終了し、早期王朝II期が始まる。
紀元前2750年頃 - 東ヨーロッパのククテニ・トリピリャ文化が衰退する。
紀元前2737年 - 伝承では中国で神農が茶を発明する。
紀元前2715年頃 - エジプト古王国が成立する(紀元前2660年との説もある)。
死去[編集]
(紀元前3300年 - 紀元前2737年) - 古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王
発明・発見[編集]
シルベリーの丘 - イギリスにある標高40mの人工の丘で、紀元前2750年頃に建設が始まった。…
エーヴベリーの巨石群周辺にある「シルベリー・ヒル」は、ヨーロッパ最大級の人工的に造られた高さ約40mの丸い古墳。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fskyticket.jp%2Fguide%2F86895
伝説上の帝王…
禹(う)の解説。中国古代、夏 (か) 王朝の始祖とされる伝説上の帝王。姓は姒 (じ) 、名を文命ともいう。父鯀 (こん) の業を継いで治水に成功。舜 (しゅん) から帝位を譲られた。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdictionary.goo.ne.jp%2Fword%2Fperson%2F
二輪の馬車
宮殿の南側の道の上に、東西に二本、平行して走る、長さ5メートルの車の轍の跡が発見された。二本の轍跡の間隔は1メートル前後であることから、車軸の幅が約1メートルの二輪の馬車が走った跡だと推測されている
禹(羽人?)=蚩尤 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1193
禹(羽人?)=蚩尤
禹. 中国古代の王様。 三苗. 苗族ともいい、中国 五大の異民族。凶暴で中国政府に反抗したが次第に駆逐される。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.tsurezuregusa.com%2Findex.php%3Ftitle%3D%25E5%25BE%2592%25E7%2584%25B6%25E8%258D%2589%25E3%2580%2580%25E7%25AC%25AC%25E7%2599%25BE%25E4%25B8%2583%25E5%258D%2581%25E4%25B8%2580%25E6%25AE%25B5
羌とは、チベット の民族とされている。 →夏王朝がチベット族によるものであると ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.sizen-kankyo.net%2Fbbs%2Fbbs.php%3Fi%3D200%26c%3D400%26m%3D251423
禹の父の先代皇帝の黄帝は蚩尤を討って人望を集めたが、その蚩尤は羌であり、ミャオ族もこれに含まれる。黄帝が勝ったため、ミャオ族は離散、追放された。羌とは、チベットの民族とされている。
→夏王朝がチベット族によるものであるとすると、この伝説とは一見矛盾する。
・孟子や陸賈(前漢時代の政治家・儒教家)によると、夏はチベット族による王朝とされている
・黄帝陵は陝西省(リンク)にあるが、史書では、黄帝はチベットの崑崙山脈に住んでいたとされる。
・蚩尤は三帝の一人である神農、五帝の一人ともいわれる炎帝の子孫とされている。蚩尤の祖先が奉られているというのはそれなりの理由が必要である。
これらを含めて考えると、以下のような仮説が成立するのではないか。
当時は諸侯による戦乱が多かったとされ、西アジアからはじまった略奪闘争の玉突きが中国まで及んでいた。黄帝はチベット出身であるが、東部に進出してから、徐々にチベットに残ったチベット族と対立、戦争に至った。これが、黄帝と蚩尤の戦争。神農、炎帝を奉ったのは、もともと同族であるからであり、子孫である蚩尤は切り離して扱った。
遺跡の状況
近年になって、夏王朝の遺跡が次々に発見されているが、巨大宮殿の外側に沿って「井」の字形に、四本の10〜20m幅の道の存在が確認され、明確な都市計画がなされていたと推測されている。
また、宮殿の南側の道の上に、東西に二本、平行して走る、長さ5メートルの車の轍の跡が発見された。二本の轍跡の間隔は1メートル前後であることから、車軸の幅が約1メートルの二輪の馬車が走った跡だと推測されている。
場所は洛陽平原の二里頭村。総面積375万平方メートルもある大規模なもので、二里頭村など五つの村にまたがって分布。
(以上、リンク参照)
これらのことから、メソポタミアの都市計画技術や馬車技術などが既に遊牧民族を通じて伝わっていたのではないかと推測される。
印欧語族の文化は中央アジア→チベット→ツングースというルートで伝わったと考えられており、この時期には既にチベットまでは伝わっていたということか?(そうであるとすると、上記仮説とも整合する。)
牢屋 牛祭 | 日本古代史掲示板(荊の紀氏)
2010年10月20日 - たとえば封建時代の牢屋(ろうや)町や傾城(けいせい)町などの名称は現在の町名として はふさわしくないかもしれない。 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F100.yahoo.co.jp%2Fdetail%2F%25E5%259C%25B0%25E5%25
貢禹(こう う、? - 紀元前44年)は、前漢の政治家。 字は少翁。 琅邪郡の人。 ...
琅邪から「蓬莱山」などの三神山を探し求める東海探検の船旅を斉の人・徐福に ... 「越人」である呉越の故地は長江河口付近にあるが、そのすぐ南に禹の死地とされる会稽(かい ...
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkoizumi-.hp.infoseek.co.jp%2Ftaketori-mans.htm
越人は夏王の後裔と自称するが、始皇帝は同210年にこの会稽山に登り、夏の始祖・禹を祭っている。
このように華南の海人である「越人」は海岸沿いに琅邪まで北上し、さらに東海へ漕ぎ出していったという伝承を持つ。
竹かんむりが付いたカゴという字である。聖なる者は籠もりながら、何かに被い包まれて現れる。
仏教というよりニッポン教的な信仰としてこそぴったり来る。
籠(ロウ)の中の隹
「越王句践(こうせん)。その先は禹の苗裔(びょうえい)にして、夏后帝 ...
邪馬台国を知る事により、常世の国が開けるこの文章は児島神の力により、未開の内容 となっているこの文章は、児島宮歴研会著作製作 ... 会稽に封じ、以て禹の祀 (まつり) を奉守(ほうしゅ)す。 ... 会稽(浙江省、いまの紹興)から、琅邪台に移したのです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F6729.teacup.com%2Fsiyujin%2Fbbs%2F315
禹 羽人 仙人 修験者羅馬 鷺(ロ)呂(集まる意=旅) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F2268
兎(ウ)・・・ 一羽 羽人=羽人(禹=兎(鬼)=月・・・陰・・・召す)=仙人. ウソ鷽〔【黌】 [黄/25] [コウ/] まなびや、学校 +鳥=フクロウ(梟)福朗? 【翳】 [羽/17]
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1266
「うじん/うにん」です。
仙人になるための通過儀礼である「羽化昇天」から来た名前で、正確には「道士(修行中の者)」のことを言います。
「遷人(せんじん/せんにん)」という言い方もあります。
「羽化昇天」
羽化します。
白黒の マダラ模様が見えると直ぐに羽化します。 中: 羽化して間もない頃の ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblog.livedoor.jp%2Fr4910307081016%2Farchives%2F51923057.html
マダラ神(黒黄白の混血?)
ハム・セム語族【ハムセムごぞく】. 1件の用語解説(ハム・セム語族で検索). Tweet ? Buzzurl. 百科事典マイペディアの解説. 北アフリカを中心に分布するハム語とアラビア 半島,メソポタミアを中心とするセム語族が同系であるという考えに基づいて想定された 語族 ...
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F%25E3%2583%258F%25E3%2583%25A0%25E3%2583%25BB%25E3%2582%25BB%25E3%2583%25A0%25E8%25AA%259E%25E6%2597%258F
北アフリカを中心に分布するハム語とアラビア半島,メソポタミアを中心とするセム語族が同系であるという考えに基づいて想定された語族名。しかしこの説は現在否定されており,かわりにアフロ・アジア語族などの名称が使われる。
【中国】夏王朝の起源に関する仮説 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.rui.jp%2Fruinet.html%3Fi%3D200%26c%3D400%26m%3D251423
…以下のような仮説が成立するのではないか。
当時は諸侯による戦乱が多かったとされ、西アジアからはじまった略奪闘争の玉突きが中国まで及んでいた。黄帝はチベット出身であるが、東部に進出してから、徐々にチベットに残ったチベット族と対立、戦争に至った。これが、黄帝と蚩尤の戦争。神農、炎帝を奉ったのは、もともと同族であるからであり、子孫である蚩尤は切り離して扱った。
…遺跡の状況
近年になって、夏王朝の遺跡が次々に発見されているが、巨大宮殿の外側に沿って「井」の字形に、四本の10〜20m幅の道の存在が確認され、明確な都市計画がなされていたと推測されている。
また、宮殿の南側の道の上に、東西に二本、平行して走る、長さ5メートルの車の轍の跡が発見された。二本の轍跡の間隔は1メートル前後であることから、車軸の幅が約1メートルの二輪の馬車が走った跡だと推測されている。
場所は洛陽平原の二里頭村。総面積375万平方メートルもある大規模なもので、二里頭村など五つの村にまたがって分布。
(以上、リンク参照)
これらのことから、メソポタミアの都市計画技術や馬車技術などが既に遊牧民族を通じて伝わっていたのではないかと推測される。
印欧語族の文化は中央アジア→チベット→ツングースというルートで伝わったと考えられており、この時期には既にチベットまでは伝わっていたということか?(そうであるとすると、上記仮説とも整合する。)
印欧語族… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
世界最大規模の語族。その地理的範囲は、ヨーロッパのほぼ全土と、そこからインドを経て中国のトルキスタン(天山南路のトルファンおよびクチャの付近)にいたる 広大な地域である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.fermi.jp%2Fned%2Fyougo_html%2Finougozoku.html
印欧語族系統図 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.fermi.jp%2Fned%2Fyougo_html%2Fkeitouzu.html
トカラ語…
トカラ語派を話す人たちはミイラのDNA型鑑定の結果、後述のアファナシェヴォ文化を担った集団と非常に近く、個体の7割が南シベリアに特徴的なミトコンドリアDNAを持っていたため、北方から南下して来たことが明らかになった。タリム盆地では紀元前2千年前後といわれる遺跡(「楼蘭の美女」などのミイラで有名)が発見されており、これらは上述の鑑定結果や葬制の類似から、紀元前3千年紀の青銅器時代初期に北方のアルタイ山脈方面に栄えたアファナシェヴォ文化人が西からインド系集団に征服されながら南下してタリム盆地へ移り住んだことが判明しており、アファナシェヴォ文化はトカラ語と強い関連があると考えられている。
アファナシェヴォ文化はヤムナ文化と同源の文化と考えられ、トカラ語派の担い手はY染色体ハプログループR1b-M269と想定される[9]。
楼蘭などでは紀元後にカロシュティー文字で書かれるガンダーラ語(インド語派。ヴェーダ語や近縁の他のプラークリットから派生したと考えられている)が用いられていたが、その中にもトカラ語に類似した単語が散見されるため、古くはタリム盆地の多くの地域でトカラ語派の言語を話していたと思われる。
楼蘭
楼蘭は、シルクロード上のオアシス国家。史書へ登場するのは紀元前一世紀。匈奴の王が漢の皇帝へ宛てた書簡の中で、自分が支配する西域の国々の中のひとつとして言及しているのが肇である。その後、最盛期を迎えるのは三世紀。西域南道の東部を支配し、東西交易の要衝として栄える。
やがて中国の王朝の支配を受けることになるが、七世紀を最後に全ての記録から姿を消してしまう。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Ftabichina.com%2Ftaizen%2Fshinkyo%2Fshinkyo.htm
その楼蘭が再び、人々の前に姿を現したのは、二十世紀。スウェーデンの探検家・ヘディンにより遺跡が発見されてからである。
「楼蘭の美女」とは1980年に楼蘭の遺跡から発掘された女性のミイラである。埋葬の時期は紀元前1000年。45歳、157cm、O型。顎のやや尖った細面の顔だちで大きな眼をもつ。髪の毛は明るいブラウン。人種はヨーロッパ系。足には鹿の皮の靴を履き、頭には、鳥の羽根をさしたフェルトの帽子をかぶっている。
「民族民俗展」では、ウイグル族のほかハザク、キルギスなどの民族の住居、衣服、生活様式などを示す展示がされている。特に衣服については、それぞれの民族が持つそれぞれの色彩感覚が鮮やかに表現されていて興味深い。
紀元前293年、秦軍は韓と魏(ぎ)の連合軍を破るが、この時24万人を斬首している。その後も数万人レベルの斬首はざらで、最もすさまじかったのは紀元前260年の長平の戦いである。この時、秦軍は山西省高平県の長平で45万の大軍を擁した趙(ちょう)軍を降伏させるが、問題はその後である。45万の趙軍のうち戦闘中で命を落としたのは5万人。残りの40万人は捕虜となったが、秦の白起将軍によりこの40万人の捕虜ほぼ全員が生き埋めにされて処刑(坑殺)されたのである。
…東アジアから東ヨーロッパまでを支配した大征服王朝の元は、南宋を滅ぼした際、金が北宋に対して行なったようなむごたらしい行為は行なわなかったが、統治においては厳しい身分制度を敷いて徹底的に民族差別を行なった。民族をモンゴル人・色目人・漢人・南人に分け、中央政府の首脳部と地方行政機関の長はモンゴル人が独占した。色目人とは色々な目の色をした人の意味で、中央アジア・西アジア出身の異民族、さらにはヨーロッパ人も含む。早くから譜代関係にあったために、モンゴル人に次いで重用され、モンゴル人とともに支配階級を形成した。支配階級であるモンゴル人と色目人を合わせて人口は約200万人で、その人口構成比は約3%に過ぎなかった。漢人は、金の支配下にあった人々の総称で、淮河以北に居住していた宋代の漢人の子孫の他に、女真人・契丹人・高麗人・渤海人などが含まれ、人口は約1000万人、人口構成比は約14%であった。そして、一番下の階級である南人は南宋の支配下にあった漢民族を指し、人口は約6000万人、人口構成比は約83%を占めた。漢人・南人は被支配者階級であり、特に人口の大部分を占める南人は最下層に置かれ徹底的に差別された。その決まりは細かく、例えばモンゴル人と漢人・南人が争ってモンゴル人が漢人・南人を殴っても、漢人・南人は殴り返してはいけないというような細かいことまで法で定められていた。また、同じ漢族でも、金の支配下にあったか南宋の支配下にあったかで差別しているが、これの基準は中国化しているかしていないかであり、徹底して中国式を抑圧した。私たち日本人からすると、元は遊牧民族が作った中国式王朝のようなイメージがあるが、実際には中国式の要素はほとんどなかった。ただ、「パスパ文字」という独自の文字とともに支配の都合上漢字も使っていたというだけなのだ。
中国4000年の“抗争と断絶”の歴史 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.saisei21.jp%2Freport%2F2012%2Freport-1
、余談になるがこのパスパ文字、ハングルとそっくりである。実は、ハングルは、元の属国であった高麗(朝鮮)王朝がモンゴル化し、その時伝わったパスパ文字が基礎となって、高麗王朝に代わった李氏朝鮮の時代に作られたと言われている。このパスパ文字起源説は韓国外の学界では広く受け入れられているが、韓国内では当然、圧倒的に非主流派である。しかし韓国内においても、きちんとした学究も一部ではなされている。例えば、国語学者のチョン・クァン高麗大名誉教授がそうだ。チョン・クァン名誉教授は、次のように述べ、韓国における国粋主義的研究を糺している。「訓民正音とハングルに関する国粋主義的な研究は、この文字の制定とその原理・動機の真相を糊塗してきたと言っても過言ではない」。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fjapanese.joins.com%2Farticle%2F430%2F107430.html
唐(6〜7世紀)アスターナ古墳群の墓…
…中国新疆ウイグル自治区のトルファン市にある高昌国と唐代の住民の墓地。
伏羲
伏羲と女媧については、既にブログで何度かとり上げてきた
半人半蛇で国作神話の神とされ、通常下半身の蛇の部分は絡み合った(交尾の)状態で描かれます。前漢時代の馬王堆の画像では女媧単体でしたが、ここでは伏羲と夫婦になっています(間にいるのは高媒という子を授ける神という説もある)。
(伏羲女媧) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Ftaishi6764%2Fimage-12003080987-13330364813.html
葬儀用の幡 唐(6〜7世紀)アスターナ古墳群の墓の復葬物の中でも特徴的な品であり、かなりの数の例が発掘されている。
*アスターナ古墳群は、中国新疆ウイグル自治区のトルファン市にある高昌国と唐代の住民の墓地。この地は古くより交通の要所であり、シルクロードの要衝として栄えた。
女媧はコンパスを、伏羲は差し金(L字形の定規)を手にしています。これはコンパスで円(天)を、差し金で方(地)を創造したことを象徴的に表現しています。
これは、古代中国の宇宙観である天円地方説で、天は円く、地は四角であるとする説。
天は男であるため円を書くコンパスを伏羲が持ち地は女であるため方形を描く短尺を女媧がもつこの陰陽の二神が交わる時に持ち物を交換するという。
交尾したあとの状態の構図は、後に伏羲が本来の持ち物「太陽」を女媧が「月」をもつようになるという。(児島健次郎「敦煌の美と心」)
天円地方(てんえんちほう)とは、天は円く、地は方形であるという古代中国の宇宙観である。中華文化圏の建築物や装飾のモチーフとして用いられる。天が円で表されるゆえんは、星の運行が円運動で表されるためである。
天壇
1420年、明の永楽帝が建立したとされる。建設当時は天地壇と呼ばれていたが、1534年、天壇と地壇に分離、天壇と呼ばれるようになった。
皇帝が天を祭るための儀式を執り行う場所で、毎年冬至に豊作を祈る儀式を行い、雨が少ない年は雨乞いを行った。
形は天円地方の宇宙観に則り円形である。また欄干や階段などが陰陽思想でいう最大の陽数である9や、その倍数で構成されている。
各壇の直径を合計すると45丈であり、これは単に9の倍数という意味だけでなく、九五之尊という意味も持つ。
地壇(ちだん)
天壇が紫禁城の南東に築かれたのに対して、地壇は紫禁城の北東に築かれており、これは古代中国の天南地北説に符合する。
天壇の主な建築が円形であるのに対して、地壇は方形である。
これは『大清会典』の述べる「方(四角)は地を表す」に従っており、中国の天円地方の宇宙観を体現している。
「天は陽、地は陰とみなす」という陰陽思想に従い、天壇の石塊や、階段、柱などはこぞって奇数(陽数)で構成されている。
一方地壇は偶数(陰数)で構成されている。例えば方澤壇の階段は8段であり、壇は6方丈である。使用した石版の数も偶数であり、中華文化を反映している。
月壇
明・清両代の皇帝が月神を祀ったところで、明清代の皇帝が天に対して祭祀(祭天)を行った宗教的な場所(祭壇)である。
壇…
厚くて平ら
壇 ダン・タン 土部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F1ddab7ad8110ec78ea0d3d54fb78b5a8
解字 「土(つち)+亶(厚くて平ら)」の会意形声。土を盛り平らにした台。土にかかわらず高い台をいう。
意味 (1)他より一段高くした台。「祭壇サイダン」「壇上ダンジョウ」「基壇キダン」(2)(同じ壇に乗っている)専門家の集団。「画壇ガダン」「文壇ブンダン」
氈 セン 毛部
解字 「毛(け)+亶(厚くて平ら)」の会意形声。厚くて平らな毛織りの敷物。
意味 もうせん(毛氈)。毛織の敷物。「緋毛氈ヒモウセン」(赤い色の毛氈)「毛氈苔モウセンごけ」(赤い腺毛があり緋毛氈を敷いたように生える苔)
旦 タン <地平線から太陽が上がる>
旦 タン・ダン・あした 日部
篆文は、「日(太陽)+ 一 印(地平線)」の会意。太陽が地平線から上る形で早朝の意を示す。金文は朝雲から太陽がのぼる形。旦を音符に含む字は、地平線から太陽が上る意から「あらわれる」イメージがある。
意味 (1)あした(旦)。よあけ。あさ。あけがた。「元旦ガンタン」「旦夕タンセキ」(朝夕) (2)あける。夜があける。「平旦ヘイタン」(よあけ) (3)梵語の音訳語。「旦那ダンナ」(僧に施しをする人)
イメージ
地平線から太陽が「あらわれる」(旦・袒・但)
地平線が 「たいら」(坦)
「同音代替」(担・胆・疸)
「タンの音」(靼)
音の変化 タン:旦・袒・但・坦・担・胆・疸・靼
靼…
韃靼人はユダヤ教徒ですか? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq10175501790
「韃靼(タタール)人」はロシアから見たモンゴル人を含む東方のモンゴル系・テュルク系遊牧民ですね。大別すれば、モンゴル系の方はチベット仏教徒(ラマ教徒)、テュルク系の方はイスラーム教徒になります。しかし、ヨーロッパの「韃靼(タタール)人」であればユダヤ教徒がいてもおかしくはありません。
クラシック音楽の名曲『ダッタン人の踊り(韃靼人の踊り。ポロヴェッツ人の踊り)』もあり、カバーも沢山されていますから、ユダヤ教徒はいるはずです。
韃靼人の踊り…
マイム・マイムの振り付け 現在のマイム・マイムの振り付けは、1963年に来日したイスラエル人女性グーリット・カドマンが現地の踊り方をそのまま日本で指導し定着させたものである
マイム・マイムの原題は"U’sh’avtem Mayim" (????? ???)。直訳すると「あなた方は水を汲む」という意味である。シオニズム運動によって全世界から現在のイスラエルの地に戻ってきたユダヤ人が「国を建て、新しい息吹きのもとに未開不毛の地に希望の「水」をひいて開拓にはげむ喜び」[1]をあらわした歌であるとされている。
歌詞は、旧約聖書の一書で、三大預言書の一つイザヤ書第12章第3節の"U’sh’avetem mayim be-sasson Mi-ma’ayaneh ha-yeshua"(?????? ??? ????? ??????? ??????)「あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水をくむ」[2]をそのまま歌詞として用い、曲全体がこのフレーズ(あるいはその一部)のリフレインからなっている。ちなみに"mayim"(???)はヘブライ語で「水」を、また"be-sasson"(?????)は「喜びのうちに」をそれぞれ意味しており、したがって有名な一節である"Mayim mayim be-sasson"(??? ??? ?????)は、水源の乏しい乾燥地に入植した開拓者たちが、水を掘り当てて喜ぶさまを表したものと解釈できる。なお、イザヤ書はユダヤ教の聖典・旧約聖書の一書であるが、メシアの来臨を預言することから、後にユダヤ教から分派したキリスト教から見ればメシア=イエス・キリストに絡めて解釈されることが多い。「救いの井戸」を「救い主=キリスト」のメタファーとする解釈は、したがってキリスト教徒からの視点であり、キリスト(ナザレのイエス)をメシアと認めないユダヤ教の立場からは(そして現代イスラエル人の大部分はユダヤ教徒である)関係ない解釈である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ミトラ教の影古代モンゴル人の価値体系や社会の調整システムにおいます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.totetu.org%2Fassets%2Fmedia%2Fpaper%2Ft161_109.pdf
モンゴル帝国の支配層はテングリ信仰を主とするシャーマニズムを信じていたが、征服や支配に際してしばしば発生する狂信性や宗教的情熱とはおよそ無縁であった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
テングリ信仰…
「テングリ」 蓬莱山 木星 おとめ座
日本の「高天原」とテングリを語彙上の結びつきがあるという見方が有る。>中国の「天」はテングリから派生したものだとする見方も>テングリ崇拝は中国の天命思想の影響のもとに成立したという見方が /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fopen.mixi.jp%2Fuser%2F3472200%2Fdiary%2F1944354787
テングリ教は、天上神テングリと大地の女神エイエに対する信仰を基本としている /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.dndjunkie.com%2Fcivilopedia%2Fja-jp%2FRELIGION_TENGRIISM.aspx
ミトラMithra(大女神ミュリッタ)は火の女神にして、男神ミトラスMithrasの母であると ...
三重の女神ミトラ、別名で大女神ミュリッタ(女神ミトラ) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F5029
炎の女神アン・ナール…獅子面の神…ミトラ
…ゾロアスター自身はそういう属性もミトラではなくアフラマズダに属すると考えていたようです
アフラマズダとミトラ・キリスト教 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.ffortune.net%2Fsymbol%2Fsinwa%2Fzoro%2Fafra2.htm
ゾロアスター教の基本的世界観では、世界には善と悪の対立があるが、やがて善が悪に打ち勝って、理想の世界がやってくる、と考えられています。その時に「最後の審判」が行われます。
「神との契約」と「最後の審判」の思想は、正確にいうと、ゾロアスター教から直接来たものではなく、ゾロアスター教と3000年以上前から互いに影響しあってきたミトラ教(あるいはミトラ思想)から来たものです。
獅子面の神…
ミトラは、アシャ(正義)を基準として、ドゥルジ(虚偽)にしたがう者を罰し、世界に公平さと正義をつくりだした。ミトラは人間の一生を見守り、アシャを基準として、死後の裁きをおこなうことにした。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fheibay.exblog.jp%2F17902722%2F
ミトラとはインド・ヨーロッパ語族である古代アーリヤ人が信仰する男神の名である。現今の研究では紀元前3000年頃、出自不明の古代アーリア人は中央アジアを起点として、ヨーロッパへ向かう西方系とイラン高原・インド亜大陸に向かう東方系に分かれて、民族移動を開始したとされている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmetalogue.jugem.jp%2F%3Feid%3D2097
東方系アーリア人は、紀元前2000年頃にイラン高原とインド亜大陸に分岐した。すなわちイラン系アーリア人とインド系アーリア人である。そして紀元前1500年頃、インド亜大陸に本格的に侵入を始め、先住民族のドラヴィタ人と支配・融合過程で双方の宗教が融合して、バラモン教が形成された。
紀元前1〜後5世紀頃のイラン高原東部からインド亜大陸西部にかけては、素朴な太陽信仰・ミトラ教・ゾロアスター教などが混交分布していた。ここに大乗仏教化・菩薩信仰化しつつある仏教が進出してきて生まれた弥勒菩薩(マイトレーヤ)信仰には、ミトラ神崇拝が深く影響したと考えられている。
「悟れ。人の子よ。その幻は、終わりの時のことである」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmeigata-bokushin.secret.jp%2Findex.php%3F%25E3%2583%2580%25E3%2583%258B%25E3%2582%25A8%25E3%2583%25AB%25E3%2581%25AE%25E8%25A6%258B%25E3%2581%259F%25E7%25AC%25AC%25E4%25BA%258C%25E3%2581%25AE%25E5%25B9%25BB%25E3%2580%2580%25E3%2580%258C%25E9%259B%2584%25E7%25BE%258A%25E3%2581%25A8%25E9%259B%2584%25E3%2582%2584%25E3%2581%258E
雅歌では「かもしか」で使われています(2:9, 17/8:14)。日本のかもしかとは違って、見るからに華奢で、美しいです。
太陽が地平線から上る形で早朝の意を示す。…ミスラ ミトラ
ミスラ(Miθra)は、イラン神話に登場する英雄神として西アジアからギリシア・ローマに至る広い範囲で崇められた神。インド神話の神ミトラ(????? [mitra])と起源を同じくする、インド・イラン共通時代にまで遡る古い神格である。その名は本来「契約」を意味する。
イランでのミスラの他、インドのミトラやギリシア・ローマのミトラース(ミトラス)についてもここで説明する
ミスラ神の光明神としての性格が強調され、太陽と同一視された結果、中世ペルシア語では日曜日のこともミフルと呼ぶようになった。これがソグド語に借用されてミールになり[4](バクトリア語からの借用とも[5])、「蜜」と音写された[6]。
宿曜道とともに平安時代の日本にも伝えられ、当時の具註暦では、日曜日に「密」「みつ」「みち」などと朱書きされていた。
「密」…
密教の最高神
ヘブライ・ユダヤ人ですら、ヤハウエを裏切ってミトラ神を象徴する金の仔牛像を拝んでました
ミトラ神を崇拝していた支族は、ヤハウエの怒りに触れ散らされたとします
これが、失われたイスラエルの10支族です /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq14202707389
ミトラ神は、ペルシャ帝国で帝国の守護神ミスラとされており、ミスラからアフラ・マズダが創出され、ゾロアスター教(拝火教)の主神として世界中に影響を与えてます
特にユダヤ教&キリスト教のシンボルとされる7枝の燭台(メノラー)は、もろに拝火教の影響です
ユダヤ教自体、ゾロアスター教にそっくりで後発であることから、真似ではないかとも言われてます
ミスラ(ミトラ)は、ペルシャからインドに伝わりアスラ=阿修羅(アシュラ)です
インドでも一時期最高神とされ、インド人は未だに牛を神聖視して食べません
阿修羅はその後大日如来となり、密教の最高神として釈迦を凌ぐ存在であるとされます
日本の密教でも同様です
ミトラ(バール)神の影響は凄まじく、バール神によるヒッタイトの7頭の悪龍退治の神話は、日本の須佐之男命による八岐大蛇(ヤマタノオロチ:8頭の蛇)と世界で一番酷似した神話と呼ばれてます
恐らく、中東からシルクロードを経て日本に伝わった神話と思われます
このヒッタイトの7頭の悪龍が、実はキリスト教の序列第1位の悪魔ルシファー(サタン)です
聖書には、ルシファーの正体は7頭の龍であり、蛇は龍であると明確に記述されてます
キリスト教の序列第2位の悪魔ベルゼブブは、バール・ゼブブのことであり、つまりバール神(ミトラ神)です
ローマ帝国ではミトラ多神教とキリスト教が2大宗教であり勢力争いをしていたため、キリスト教は、ライバル宗教の神などを悪魔に仕立てたのですね
聖書には邪神バアルとも記述してます
ミトラ(バール)神は、インドに何度も伝わりそのたびに別の神格として仏教に取り込まれてます
ミトラ(バール)神=阿修羅・大日如来・牛頭天王・毘沙門天(四天王)・弥勒菩薩です
ちなみに、ミトラ(バール)神の神紋は、「16弁菊波紋」です
つまり、天皇家の紋章と同一です
ミトラ神を信仰した最古の高度文明シュメール人…
Re: 一方、こりゃ、論証のお手本だね! 全部こんな感じに進むと良いんだけどね〜w
でも、あ〜、ホント良かった、O-M117で。調べればかなりのことが分かるからね。
羌族やギャロン人の美人ちゃんとも(ちょっとくらい遠い関係であれ)、繋がれるし。
O2(旧O3)の他のサブグループとかC2だった人はどうしてるんだろう・・・
彼らなら調べれば、かなり自分のルーツに迫れて、大陸の集団と繋がれるし(ちょっと遠くてもね)、エキサイティングだろうが。O-M188の人なら、土家族と同じ型でした!とか。
うん、そろそろ、そういう話が聞きたいなぁ〜。
これがもしD1bだったりしたら、有りもしない実体求めて妄想の中に彷徨い続けるしかないわけでしょ?
縄文ゲノムって言ったって、すべてD1b由来なわけないし。旧石器時代の方がずっと長いんだよね。
エヴェンキの鳥のトーテム
エヴェンキとは、ツングース系民族の1つで、主にロシア国内のシベリア連邦管区にあるエヴェンキ自治管区に居住します。
エヴェンキも馬韓人と同じで馬をもちませんでした。
韓国外国語大学ロシア語科のカン・トクス教授はサハ共和国南北辺境に住んでいるエヴェンキたちが使うエヴェンキ(ツングース)語は 数字や一家親戚を称する単語が韓国語ととても似ていると話します。
朝鮮の歌「アリラン」には「アーリアリラン、スールスーリラン」と歌われ、韓国語ではアリラン、スーリは意味不明ですが、エヴェンキの言葉では、「アリラン(迎える)・スーリ(感じとる)」で、遠くの人を懐かしむ歌の歌詞にもなっていて、韓国のアリランの歌と節回しも酷似しています。
ツングース人の顔は、朝鮮人に似ています。
ヤマトの近くには、ハン・テングリ(Khan Tengri)山があります。
キルギスなどの中央アジアの言葉ではハンは族長の称号であり、テングリ(テングル)は天神を示します。
天山山脈に「天」の文字が使われているように、ここは特別な神聖なる地でした。
紀元前1世紀ごろの中国の歴史書『史記』を見ると、天山山脈の麓に「夜は光り輝き、昼は煙が立ちのぼる」と記した地帯があり不気味がっています。
実際は、金属精錬場の可能性もありますが、わざわざそれを記しているからには、それだけ金属精錬場や製鉄場が多かったのか、別の可能性があったのです。
その記述内容は、ヤハウェが現れる光景とも一致します。
モーセたちが荒れ野を旅するときの記述です。
秦の始皇帝の血を引く東ユダヤ人、もしくはイスラエル10部族の者が秦人として馬韓がある朝鮮半島に流入していました。
秦朝のもととなった秦国の王家は西戎(せいじゅう)、羌(きょう)族の流れをくむ人々でした。
とくに秦の始皇帝の実父と噂される呂不韋(りょふい)は羌族でした。
王家の血は長い歴史の中で秦国の住民の中に広まっていたでしょう。
少なくとも秦朝の貴族や支配層は事実上、羌族が占めていました。
イスラエル共和国の調査機関アミシャーブの所長であったラビ・エリヤフ・アビハイルによれば、古代の羌(きょうぞく)族の末裔とされている「チャン族」は、行方の知れないイスラエル10部族の末裔であると科学的に判明していると述べています。
羌族はチベット系の民族の1つで、歴史は古く紀元前16世紀〜前11世紀までの殷(いん)の時代にもいた民族で、今日でも河南省を中心に存在しています。
時代的に考えて、羌族の発祥からすべてイスラエル10部族であるとは考えにくいですが、彼らの中に含まれています。
羌族の歴史はイスラエル10部族よりもはるかに古くパレスチナに古代イスラエル王国が誕生する以前にさかのぼります。
羌族はアブラハムの時代に東へと移動したヘブル人の一派なのでしょう。
預言者アブラハムの子孫は、遠く東アジアへと来ました。
さらに、羌族とは別に秦朝にはアケメネス朝ペルシャの流れをくむ多数のペルシャ人がいました。
アケメネス朝ペルシャには、バビロン捕囚後も当地にとどまった東ユダヤ人がいました。
彼ら東ユダヤ人もまた、ペルシャ人の東へ移動するとともに秦朝に流入してきたのです。
その血統は秦の始皇帝自身にも流れていた可能性があります。
したがって、秦朝の滅亡にともなって、その住民が朝鮮半島に流入して秦人となったとすれば、彼らはイスラエル10部族か東ユダヤ人の末裔だった可能性があるのです。
紀元前3世紀末ごろ、秦から秦の始皇帝の血を引く東ユダヤ人、もしくはイスラエル10部族の者が秦人として馬韓がある朝鮮半島に流入してきました。
のちにこの秦人は集団で日本に渡来し、原始キリスト教徒となったので秦氏と名乗ります。
平安時代初期の紀元815年に編纂された古代氏族名鑑である『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』によると、秦氏は自らの出自が秦の始皇帝であると主張します。
はたして秦の始皇帝の子孫が帝国末期の戦乱を生き延びることができたのかは疑問ですが、ご落胤(らくいん・落し子)を含めて1人でも生存していれば、彼らの主張は少しは正しいことになります。
日本に渡来した秦氏が平安京を建設したことは有名ですが、山背国(やましろのくに)を開発するにあたって、彼らは葛野(かずの)川に大きな堰(せき)、すなわち葛野大堰(かどのおおい)を建設しています。
『新撰姓氏録』の中の秦氏の作った『秦氏本系帳(はたうじほんけいちょう)』には、建設にあたって秦氏が一致団結して比類のない堰を造ったことが記されています。
しかし、その先例は秦の始皇帝の祖父秦の昭襄王(しょうじょうおう)が黄河を塞ぎ止めて造った都江堰(とこうえん)であると思えます。
秦氏が秦の始皇帝の末裔を強く意識しているだけに伝承は割り引いて考える必要があるのですが、考古学者の森浩一は実際に都江堰を視察し両者の類似性は明らかだと指摘しています。
10部族の秦人
紀元前2世紀ごろ〜紀元1世紀ごろにかけて断続的に「秦人」のイスラエル10部族が大量に朝鮮半島へ来ました。
扶余族は騎馬民族で、紀元前2世紀から紀元5世紀ごろ、東北アジアを中心に活躍しました。
伝説によれば、扶余族は満州の北方の松花江流域に起こったとされ、国名を「北扶余」と称しました。
のちに、北扶余から東扶余が起こります。
さらに、この東扶余から高句麗(こうくり 紀元前37年ごろ‐668年)が派生していきます。
紀元前1世紀ごろから、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の古代国家からなる三国時代を迎えます。
中でも、高句麗は遼東半島や満州など現在の中国の領土にもおよぶ広大で強力な古代国家を建設し、歴代の中国政権に対して命運を分ける程の影響力を与えましたが、668年に中国の唐と連合した新羅によって滅亡しました。
唐と連合し結局、韓国朝鮮民族の領土を狭めてしまった新羅に比べ、今でも高句麗は朝鮮の人々のあこがれの的です。
のちには遼東半島、満州まで領土とした広開土王(在位 紀元391年‐412年)を輩出し、早くも4世紀には仏教を受容しました
また、高句麗の文化は日本に対しても大きな影響を与えました。
再構された高句麗語語彙と周辺言語との比較の結果、高句麗語は中期朝鮮語よりも上代日本語とのほうが、類似語が見出される割合が大きいという研究があります。
資料がほとんど残っていない高句麗語の復元については、『三国史記』(1145年成立)の巻37にある高句麗の地名の表記が手がかりとされています。
・・・・
応神も崇神も、神武天皇の業績を投影した神武の別名なのです。
初代 神武天=第10代 崇神=第15代 応神天となります。
神話の中の神は、働きなどで別の名前や別の存在として表現されるので、同一人物の場合があります。
「神」の共通文字こそが同一人物であることを示しているのです。
『記紀』では、応神天皇の母は「神功皇后」といいます。
女性でありながら、海を渡って朝鮮半島に攻め上り、いわゆる「三韓征伐」を行った人物として知られます。
『日本書紀』では、ほかの天皇陛下に並んで『神功皇后紀』が設けられるなど別格扱いです。
こうしたイエス・キリストや聖人のハンド・サインは、カトリック教会のほか、ギリシャ正教やロシア正教などの東方教会の絵画でも見られ、東洋に伝来したネストリウス派(景教)の絵画にも認められます。
これらのハンド・サインは神会を示しています。
カトリックやギリシャ正教がハンド・サインを用いるのは、そもそもイエス・キリストや原始キリスト教徒たちが使っていたからです。
神殿の儀式のエンダウメントにおいては、決まった動作があります。
ハンド・サインの延長で、その動作をもってさまざまな意味を象徴します。
たとえば、先の弥勒菩薩半珈思惟像の場合、手を頬の近くに当てます。
頬杖をしているとか、考えごとをするときに頬に指を当てる仕草だとか指摘されていますが実際は違い、手を頬や首の近くに当てることはすなわち死を意味する首を切る象徴です。
フリーメイソンリーのハンド・サインとしては、もっと直接に平手を首に当てます。
儀式に入るとき、フリーメイソンは秘密を守る宣誓を行います。
折り曲げた右手をあげたのち、机を叩き腹を裂く動作をし首に平手を当てます。
もしも、秘密を漏らすことがあれば首を切られても腹を刺されても己の体が地中に埋められてもかまわないという意味です。
ここでいう首に手をあてる仕草が1つのハンド・サインであり、弥勒菩薩半珈思惟像のポーズなのです。
最近の中国側の研究から、この碑には日本の新羅征伐どころか高句麗と日本が戦った内容さえ記されていないことが判明しました。
日本が新羅をどうしたかを記す肝心な部分が、発見当初から広開土王の碑に欠落していること、そして当時の中国にも日本が新羅や高句麗と戦った記録が存在しないのです。
朝鮮半島に隣接している高句麗とも深い関係にあった中国に、半島をめぐる大戦争があれば記録されないはずがありません。
こうして応神天皇は、新羅から秦氏の一団を船に乗せ再度海峡から渡来しました。
迅速に列島を支配するために不可欠なのは、軍隊であり軍馬です。
各方面の技術集団が必要になるのはそれ以降ですから、こうした技術集団の秦氏は応神天皇が率いる兵の家族とともに安全な半島の南端の伽耶で待機していたと見るほうが常識的にも戦略的にも正しいのです。
Re: 讃・珍・済・興・武…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009427M.jpg
http://www.guoxue123.com/shibu/0101/00jtsf/087.htm
Re: 伏羲(紀元前3300年 - 紀元前2737年)
荊の紀氏さんへのお返事です。
> ・黄帝陵は陝西省(リンク)にあるが、史書では、黄帝はチベットの崑崙山脈に住んでいたとされる。
>
どの史書よ?キシが貼る出所ってブログなんだけど既に存在しないのがすごく多いんだよね。
> 当時は諸侯による戦乱が多かったとされ、西アジアからはじまった略奪闘争の玉突きが中国まで及んでいた。黄帝はチベット出身であるが、東部に進出してから、徐々にチベットに残ったチベット族と対立、戦争に至った。これが、黄帝と蚩尤の戦争。神農、炎帝を奉ったのは、もともと同族であるからであり、子孫である蚩尤は切り離して扱った。
>
蚩尤
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009429M.jpg
想像。
この地図では「タク鹿の戦い」ってすごく北方で行われる。
蚩尤が遼河文明のO-M117とO-M188ってこともあり得る。
元は同族の黄帝・炎帝に敗れて南下する。
その流れで東北にも流れるというイメージもわく。
そうすると夏王朝前。
南下した蚩尤は東夷の頭領になる。これは禹の父コンが東方に流されその子孫から東夷が出るという伝承と一致する。
蚩尤… 羌 キョウ <牧羊民>…えびす(羌)…ユダヤの民
羌 キョウ・コウ 羊部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F84dd1a3adbfa91d5c2f9cdd9144d4892
解字 甲骨文は羊の頭を持つ人のかたちで、牧羊民族の羌人をさす。金文から「羊+人」の羌になった。羌族は中国の最も古い少数民族のひとつ。現在の四川省の羌族自治県や、甘粛省・陝西省などに住み、伝統文化を保持している。
意味 えびす(羌)。中国西部に住んでいた民族の名。五胡のひとつ。現在、四川省・甘粛省・陝西省などに少数民族として続いている。「羌笛キョウテキ」(羌族系の少数民族の使う笛)
姜 キョウ <牧羊民の姓>
解字 羌の下部を女にかえて、姜姓を示した字。同じく女偏の姫キ姓などとともに紀元前二千年以上前の母系氏族社会に起源をもつ姓。
意味 (1)姜姓。中国で最も古い姓氏の一つ。中国古代の伝説上の帝王・炎帝を始祖とする伝承をもつ。(2)川の名。「姜水キョウスイ」(陝西省を流れる川。炎帝がこの川のほとりで生まれたという伝説をもつ)(3)「生姜しょうが」とは、ショウガ科の多年草。根は横に走り数個のかたまりとなり、黄色で辛味があり食用・香辛料とする。正式な名は「生薑ショウキョウ」で、薑キョウ(はじかみ。ショウガ)を同音の姜キョウに置き換えた字。
ユダヤの民が牧羊民を祖とすることが語られる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsmcb.jp%2Fdiaries%2F7862416
牧羊から農耕へと変化していく過程…カインの子孫=カインの末裔が農耕社会を築いていく流れなのか?
3、カナン征服と士師の時代
ヨシュアは、カナンの地に住む先住民と戦い、士師と呼ばれる指導者たちとともに、カナン全域を占領し、部族ごとにカナンの地を分配したという。
ヨシュアが死に、士師の時代になると、繰り返しバアル神を拝むものも現れ、ヤハウェは、度々、イスラエルの民に警告を発し、罰を与えている。
士師(獅子座・・・ミトラ) 土師
聖書には士師(しし)記と題された記事があります。 検索すると、士師ではなくて、土師(はじ)と記す場合もありますね。長年牧師をした人でさえ、士師と記したり土師と記したり、するくらいだから混乱はあるようですね。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fcova-nekosuki.cocolog-nifty.com%2Fblog%2F2013%2F02%2Fpost-5fde.html
「士師」あるいは「さばきつかさ」は"?????????"の訳です。
?????????は、現代でいえば裁判官に当たります。
「士師」はさしづめ、師匠格の弁護士ということでしょうか。
「さばきつかさ」なら、つかさは仕切り役とすれば裁きと仕切り役の二役をこなす指導者ということになります。
土師は、祭事用土器を掌った人たちです。
士師は、裁きを掌った人たちです。
こうしてみると、混同されるはずのない人たちですよね。
しかし、古代において法とは神から出たものとされたから、祭事という共通点は持っていました。
さらに、祭事用土器は、芸術性も求められるかもしれないけれど、基本的には教えに精通していないと、神の意に沿った造形はできません。
じゃあ、フリーメイスンがもともと、神秘思想に通じた腕の立つ石工集団であったのと、似てきますね。
土師器は、もともとは古墳時代以来の素焼きの土器で、それを作る工人が土師(はにし)と呼ばれていました。
「はじ」は、この「はにし」の変化した呼称とされます。
…
土師氏らは新しい四本柱の大社を建て、その祭神を大国主命とし、併せて八百万の 神々(ユダヤ12部族の神々+倭王たちの氏神)を祀りました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffolklore2017.com%2F010.htm
土師(はじ)氏: 「土師」の名字の由来
・ 埴輪や土器の製作、葬礼・陵墓などを管理した土師部の伴造氏族。
・ 日本書紀の垂仁天皇32年7月条に、野見宿禰が殉死にかえて埴輪を陵墓に立てることを進言したとある。
・ 8世紀には土師氏の伝統的職掌が火葬の普及とともに衰微し、官人としての叙位も五位で外位におかれた。
・ 天応元年(781年)・延暦元年(782年)・延暦9年に、「菅原」「秋篠」「大枝(大江)」と改姓を請願し許された。
・ 続日本紀の延暦9年12月条によると、桓武天皇の外祖母は土師氏の出身とある。
・ 土師氏は、和泉国百舌鳥(大阪府堺市)、大和国菅原と秋篠(奈良県奈良市)、河内国志紀・丹比郡(大阪府羽曳野市・藤井寺市)を本拠地とした4支族に分立した他、土師氏。土師部は山城国、出雲国、遠江国、武蔵国、下総国、常陸国、美濃国、若狭国、丹後国、但馬国、因幡国、石見国にあり、また土師郷は上野国、下野国、備前国、筑前国にみられた。
土師氏からは、やがて、菅原氏、秋篠氏、大枝氏や大江氏が派生していきます。
土師氏は、アマテラスとスサノオが誓約をしたときに、アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った天之菩卑能命、天菩比神などとも記される天穂日命を祖神とする一族です。
具体的には、天穂日命の14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士、野見宿禰から出たとされます。
垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ったのでしたね。
蹴速が持っていた大和国当麻の地、現在の奈良県葛城市當麻を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えたのでしょ。
垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられました。
後裔氏族である土師氏は、代々天皇の葬儀を司ることとなったといいます。
石工との繋がりと言えば、野見宿祢の「野見」は、石材を加工する際に使われている道具である「ノミ」と関連があるとみられてます。
ここから、野見宿祢が石材とかかわっていたと推定されることもあるそうです。
この伝承は、石材を供給する二上山の支配権が、在地の当麻氏の手から、野見宿祢に移ったことを示唆するとみられています。
畿内で、石工と言えば、まさにフリーメースンが連想できる神仙思想に通じた腕の立つ石工集団がいたと推定される遺跡もありますね。
土家族のルーツは古代巴人と見られており、2000年前から現在の湖南省西部・湖北省西部一帯に居住していたと考えられている。 漢語の史籍にはこの一帯の土家族のことを“土人”、“土民”と称しており、清末以降“土家”という ...
トゥチャ族土家族(トゥチャ族)は中国少数民族の一つで、主に湖南、湖北、四川の3省が隣接している地区に集中して住んでいます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftohoyukai.com%2Fbusiness%2Ftujiazu%2F
きらびやかな銀頭飾りの民族衣装を着た土家族の女性の姿をご覧になった事があるかもしれません。(苗族の女性も同じような衣装をするようです。)
苗族…蚩尤民族はミャオ族と黎族に分裂…
中国 海南島 鹿回頭公園(ろっかいとうこうえん)
海南島の鹿回頭公園にある鹿と女性の石像ですが、その昔、鹿を追っていた黎族の男子が、鹿をこの地まで追い詰めた時、鹿が美しい黎族の女性へと変身し、二人は恋をしてこの地で幸せに暮らしたと言う伝説があります。
紀元前26世紀頃、黄帝が蚩尤を破りますが、この時、蚩尤の味方についたのが、九黎族で、敗れた蚩尤民族はミャオ族と黎族に分裂し、長江に逃れ、貴州・雲南省・四川省・海南省などに移り住み、一部の部族が楚や呉を建国しました。
この鹿回頭公園にあるように、稲作と漁業をなりわいとする海人族である苗族や黎族は、鹿信仰もあったようです。
大阪の小阪合遺跡では、古墳時代前期の手あぶり土器に鹿や船を線刻したものが出土しましたが、
海人族では、鹿は角の生え替わる時期が稲作のサイクルと一致し、稲の精霊を船が運ぶと信じられており、実際に日本の稲作は海人族によって、広がってゆきました。
日本でも鹿を信仰しており、日本の島々と鹿は深いつながりがあります。 私の推測ですが、おとなしい鹿を食料として乗せた、また、鹿は稲穂を食べてしまうので、島に飼ったのではないかと思います。
魏志倭人伝には、倭人は中国大陸の揚子江沿岸地域にあった呉越地方の住民習俗がよく似ているとしており、天孫降臨とは、黄河文明の漢民族の侵略から逃げた長江文明の人々が南九州に流れ着いたものでしょう。
そこでの地名がいきなり鹿児島、福岡県の志賀(しか)島、広島県の宮島、愛媛県の鹿島、愛媛県伯方島、岡山県の鹿久居島(かくいじま)、兵庫県の淡路島、香川県の小豆島、など瀬戸内海の島々には多く鹿が生息しています。
ご存知、奈良県の奈良公園には多くの鹿が生息していますが、鹿は春日大社の神使であり、春日大社創建の際、茨城県にある鹿島神宮の祭神・武甕槌命が神鹿に乗ってやってきたと伝えられています。 ちなみに、鹿島神宮の祭神・武甕槌命は、天孫の天(あま=海)津族の中臣氏(後の藤原)の祖であります。
ここでも鹿島で、日本では鹿と島の関係が深いことが分かります。
Re: 蚩尤… 羌 キョウ <牧羊民>…えびす(羌)…ユダヤの民: まんまと「帝国主義の武力の裏側」である宣教師の浅知恵にハマりおって!奴らは同じことを地球の至るところで吹聴してたのだよ。米先住民にも、だ。
荊の紀氏さんへのお返事です。
キシのバカが、まんまと「帝国主義の武力の裏側」である宣教師の浅知恵にハマりおって!奴らは同じことを地球の至るところで吹聴してたのだよ。米先住民にも、だ。
いいか、騙しによる宣教は禁じられている。地獄行きだ。その宣教師の行為が悪意であろうと善意であろうと、だ。
ウィキ先生「チャン族」
キリスト教
1898年、フランスの宣教師が茂州城に入り、カトリック教会堂を建てる。1909年、プロテスタントが茂州に伝わり、つづいて1911年に汶川県,理県などの地区に伝わり、茂州,威州,薛城,雑谷脳などの地区に教会が建てられた。1942年、「中華基督教会」の「辺疆服務部」が威州に事務所を開設し、その勢力は雑谷脳,薛城,雁門,佳山,通化,茂県などのチャン族,チベット族の雑居地区にまで伸展した。以上のいろいろな外国宗教勢力は学校を作り、医療を行うなどさまざまな恩恵を施して人心を寵絡し、信者になるよう人々を誘導した。さらに「チャン族の信仰する天神はすなわちキリストである」「チャン族と西方の民族とは同種同族である」などといい、キリスト教の影響を拡大しようとした。ただし、実際に外国の宗教を受け入れて信者になるチャン族は極めて少数であり、それも交通が発達し、都市に隣接する地区に限っていた。広範な山村地区では「イエス」というチャン族にとっては耳慣れないものを信奉する者はほとんどいなかったのである。ここにおいてもチャン族のアニミズム信仰の根強さを知ることができる。
汗明ハプロ推定O-M7
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私もやはりユーラシア東海岸・島しょ部よりも内陸の方に高級さを感じる類いなので、楚も気になる。この系統の日本人もいて欲しい。O-M188は5%いるが、O-M188(xO-M7)かO-M7かは不明。
(O-M188〔xO-M7〕は拡散が半端なくてトンガまで行ってる。トンガ人で45%の高比率。
トンガ人もアジア人では身長・体重とも最もガタイが良いので、O-M188はパワー系なのかも)
で、西(秦)の最強・蒙武vs南(楚)の最強・汗明
汗明ハプロ推定O-M7
蒙驁・蒙武・蒙恬も、元は山東方面がルーツで、「蒙」という姓も苗族の自称Hmongを想起させる。もしかしたら、O-M7かもしれない。
しかし、壮絶な戦いであった。でも、汗明を調べてみると、
ウィキ先生:
「汗 明(かん めい、生没年不詳)は、中国戦国時代の遊説家。巧みな口舌でもって、楚の令尹(宰相)である春申君に取り入ろうとし、その弁論は「塩車の憾み」あるいは「驥 塩車に服す」の故事成語の起源となった」。
ー全く正反対の人物だねw 。口先だけの空威張り?秦野系の負け犬?
がっくし。
「汙人」について。
「汙人」について。
『後漢書』の編者南朝・劉宋の范曄は、その鮮卑伝に「倭人国」の記載をしたが、これは他の史料では「汙人国」となっている。
「汙」は「汚」の正字とされるが、半島のもう一つの種族「濊」同様、「水辺の汚い場所」を表わすらしい。「サンズイ」を「禾」に変えれば「汚穢」という熟語がある。
で、清代の考証学者による『後漢書集解』では「倭」と「汙」の音が近いとした。また、「汙」は「于夷」の一派が水辺に住んで河川や湖沼の漁撈を生業としていたので、サンズイを付けた種族の総称としたのだろう。
日本では特に邪馬台国九州論者の范曄に対する評価が低いが、蜀出身の陳壽と異なり、南朝でしかも倭の五王の最初の遣使の時代に『後漢書』を編纂した范曄には、土地勘や遠夷朝貢を果たした倭人に対する興味も深かったのだろう。范曄は「汙人」が倭人の一派だという確信があって、「汙」を「ワ」に改めたのだと思う。
そうね。倭人という概念は広いものであるが、もしかすると、「倭人」というのはO-M188かもしれない。
O-M188のこの方面での歴史は遼河文明からと古い。O-M188は一般に中国には低比率であるが、これがかなり重要で富山にO-M7が2割というデータもある。
Re: 東漢氏の習俗
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> > 私の予想では、光武帝の後漢の宮中には、光武帝を助けた月氏の技能者や武人の影響が強くあり、その彼らの得意としたチャリオットにかかわる製鉄技法や、その遺伝子も混じっていると思います。
> >
>
> 光武帝を助けた月氏って誰ですか??
>
>
漢代の外戚として竇氏があげられるのですが、彼らが月氏と絡んでます。以前こちらで論議して、会報にまとめて載せておいたのですが、下記のとおりです。
「建武8年(32年)夏、光武帝が隗囂を親征すると、竇融は河西5郡太守、羌の小月氏などで構成される歩兵・騎兵数万と、輜重車5千輌を率い、第一城(安定郡高平県)に到着した。」
このように「河西五郡太守、羌の小月氏」を率いていますが、「河西五郡」とは武帝の時に置かれた「武威・張掖・酒泉・敦煌郡」の四郡と、その後加わった「金城郡」のことです。
光武帝の軍に合流後、竇融は光武帝と会見する際の儀礼について、事前に使者を派遣して問い合わせ、光武帝から感心されます。光武帝も竇融を引見する上では特別な儀礼をもって歓待し、竇融の弟竇友は奉車都尉、従弟の竇士は太中大夫に任命しました。
竇融軍が光武帝軍に加わったことで隗囂軍は大いに崩れ、光武帝が進軍する先で隗囂側の城は次々と投降します。
その後、光武帝は竇融の功労に報いるため詔を下して、4県を封土として安豊侯に封じ、一族や梁統らの配下もそれぞれ侯に封じました。このように、竇融と月氏等の西域遊牧民あっての後漢王朝であったことにまず留意しておく必要があります。
なおここにみえる「車馬」は、チャリオット文化にみられるような西方遊牧民の専門分野で、その輜重車5千輌の記載は、その影響が強かったとみるべきでしょう。後に竇融の弟・竇友が「奉車都尉」とされているのも、その車馬を専門としていたことに由来したはずです。
またその月氏等で構成された軍隊が至った「安定郡高平県」は、洛陽北部にあたり、後代先述のコーカソイド系の羯羌族が見える地域と近接します。さらに同様に当時その地域に展開した「河南白羊王」の本拠地とも重なることとも留意しておくべきでしょう。
その後、竇融は「安豊侯」に封じられますが、「安豊」は安徽省のことで、呉の領域になります。こちらも山東省の南部に位置しています。そして配下の羌・月氏兵の一部が、そのままこのあたりに移住したケースも考慮すべきかもしれません。
さらに、竇融の位は特進となり、建武23年(47年)には、行衛尉事兼領将作大匠となり、城門校尉となっていた弟の竇友と共に禁軍を率いています。竇融の一族は「一公、二侯、三公主、四二千石(級の高官)」を同時に得たとされました。
その「三公」については、時代は下りますが、魏の「位至三公鏡」の銘文等を想起させます。
鏡職人の先祖に三公に至ったものがいたりすると、銘文にも影響も出てきたかもしれません。
そして三角縁神獣鏡にもその「三公」の記載があります。下記のとおりです。
「景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜地命出吏人△之位至三公母人△之保子宜 孫寿如金石
兮」
「杜」の「地」とは、長安の西域にあたる「鎬京」の地と考えうることがあり、仮にここに見える「吏人」を竇氏、「母」を竇太后とすると、次のように解釈できるかもしれません。
「景初三年、陳(氏)が鏡を作る。本、是(銘文)は経書に、杜(鎬京西域) の地・京師(都)へと吏人(と母)を出し、その子孫が三公の位階に至り、金石の如く長寿を保ったことに命(名付)けたことに自る。」
またその安徽省は、ちょうど呉の画像鏡の製造地に近接します。後漢時代の画像鏡や神獣鏡には、神獣紋様や、車馬の画像に特徴がありますが、先のとおり車馬の製造がスキタイ系の得意分野であり、さらに先の竇友が奉車都尉となっていましたから、各種官営工房にも、その車馬関連の技術者を配していたことは想像に難くないでしょう。
そして、また城門校尉に竇友がなり「禁軍(宮中の護衛兵)」を率いたことが記されていますが、後代その月氏が宮中の警備にあたっていた事例とも関係してくるかもしれません。
なお遊牧民系の外国人傭兵については、西晋の事例では、匈奴や鮮卑を傭兵に雇い入れたことがあり、そのことで内情が外部の周辺民族へ流れだし攻め入られることもありました。
このように、月氏が数万人単位で参加したことがわかります。五千両の戦車とともにですから、相当な軍勢だといえるでしょう。そして彼らの一部は、故郷の西域に戻らず、洛陽の宮廷内や周辺に居残ったのですね。
だから後漢の銅鏡などの文様には遊牧民風の車馬や動物文様が刻まれることとなったのでしょう。
月氏の一部は傭兵として宮中を護衛しています。
そして、その月氏を含む技能者集団が、後漢滅亡後に、魏晋朝の王族のお抱えとなり、結果として東晋へと流れて、一部が百済、日本へと渡来したのが、昨晩の漢氏ではないかと考えるわけです。
ただ、技術的な系譜を追えるかどうかが、その証明の鍵となってきますね。特に製鉄の鍛造技術、七支刀に用いられているそれです。
あと、その後漢の外戚の竇氏のうち、160年代に中国のトップ官僚だった「竇武」は、166年の「党錮の禍」で失脚し、一族ごと滅亡の憂き目にあいます。
名門一族で相当数の枝氏がいたはずで、先述のように山東半島近くにも拠点がありましたから、そのまま山東半島経由で、朝鮮半島、さらには倭へと逃亡してきたのかもしれません。
そこでこの「竇氏」と倭との接点を考えてみると、まず「竇」には「穴」の意味があります。
そして先の「少彦名」の相方「大国主」の別名が「大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち)・ 大名持」で「穴」に関係することが判ります。
関連して「穴師」との地名や信仰拠点もあります。「穴師坐兵主神社」は、三輪山麓に鎮座し、元は穴師坐兵主神社、巻向坐若御魂神社、穴師大兵主神社の3社で、後代合祀されました。
そしてこの「穴師坐兵主神社」は、垂仁2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいわれます。その旧鎮座地は「弓月岳」となり、月氏の故地「弓月国」や秦氏の祖「弓月君・民」と類似します。
この「穴師」の名称が、先の「大国主」=「大穴持」と関係することは明白です。
さらに「大穴牟遅神」「穴師坐兵主神社」について考えると、「アナ(ム)ジ」が、その「穴」関連の語の原型と推測されます。
そこで先の「竇氏」の「竇」の字を分解すると、「穴(アナ)」+「士(シ)」+「四(シ)」+「貝」で、ちょうど「アナシ」に近い読みになります。またその「貝」については、大国主伝承に「?貝比売」と「蛤貝比売」が出てくることがあり、さらに先述の「竇武」を和風に分解すると、「アナム」になり「アナムジ」を想起させます。
詳しいことは割愛しますが、竇氏の伝承に竇少君の話があり、これが迫害を生き残って宮廷に抱え込まれるシンデレラストーリーなんですが、つまり大国主・オオ穴ムジの伝承と重なるわけです。
竇氏が抱えていた月氏の影響、これが弥生末から古墳時代のある時期に日本にもたらされていったのではないかとにらんでますが、まだまだ立証までには時間がかかりそうです。
東漢氏の習俗2
昨晩、東晋・百済とかかわる東漢氏の中の文氏の漢文風の解除儀の祝詞が、4文字構成であり、それが後漢時代の三角縁などの銅鏡の銘文の4文字構成と類似することを指摘しましたね。
それで、その文氏が河内王朝時代の文官のトップだったろうことを考えると、当時の倭王の武の上表文にもその影響があるのではないかと感じます。以前も調べたような記憶があるのですが、再度、その4文字構成に注目していくと下記のようになります。
『宋書』倭國伝
【順帝昇明二年、遣使上表曰】
【封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國】
ここで、「東征毛人 五十國 西服衆夷 六十六國、渡平海北 九十五國」と、2つに分けることで、4文字構成で記載しようとした意図がわかります。
この文書の癖が、東晋・百済時代からのものだとすると、370年代に漢氏が渡来してから、100年経つ中で、自氏族内で文書技能を継承したことになるでしょう。
毛人などは、独自に作り上げた観念ですね。逆に衆夷とか、海北などは、中国の観念のままです。
三角縁神獣鏡の銘文記載にも下記のように「海東」の記載がありますが、それに類する観念です。
吾作明竟 眞大好 浮由天下□(敖)四海 用青同 至海東
下記のもそれに類似した銘文ですね。夷の部分に注目。三角縁神人車馬画像鏡で前述した車馬をメインとした絵柄が特徴です。
田氏作竟四夷服 多賀國家人民息 胡虜殄烕天下復 風雨時節五 長保二親得天力 山人高赤枩子
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.ne.jp%2Fasahi%2Fisshun%2Foriginal%2Fmater10.html
山東の田氏を想起させますね。北方遊牧民系という視点からいくと、以前も話に出ていた翟氏の鏡もあります。
三角縁半肉彫神獣鏡
翟氏作竟 幽湅三商 統徳序道 配像萬彊 曾年益壽 富貴番昌 巧成事 見師命長
この神獣紋様というのが、遊牧民風なわけです。翟氏については、下記のように、トルコ系北方遊牧民の由来ですね。
丁零族の翟氏は代々康居に住んでいたが、後に中国に移住し、翟斌(てきひん)の代になって後趙に臣従した。前秦の苻堅が華北を統一すると、翟斌ら丁零族は前秦に臣従し、新安郡,澠池郡に移住した。
翟魏(てきぎ/たくぎ[1]、388年 - 392年)は、五胡十六国時代に丁零(テュルク系遊牧民族)の翟遼が黄河南岸の滑台に建てた政権である。領土が小さく、期間も短かったため通常「五胡十六国」の十六国には数えられない。
丁零の勢力は後燕・西燕・東晋等の国に従っていたが、388年に後燕の慕容垂との関係修復に失敗すると翟遼が独立して魏天王を名乗った。392年、翟遼の子の翟釗の代に後燕に滅ぼされた。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
翟氏がどうして、後漢代の鏡職人にみえてくるのかですが、これは一度宮中に、月氏なり東胡なりの金属精錬技術者が宮中の官営工房に入ったからでしょう。その後、地方の工房に派遣されて同様な鏡を制作したのではないかと思います。
その原因が、先の後漢時代の光武帝時代からの月氏などの西方遊牧民とのかかわりだと思うんです。
彼らの金属精錬技術と武器があったからこそ、光武帝と外戚の竇氏は権力を持ちえたわけですね。
日本人のルーツさんがご指摘なさるように、中国の各王朝への北方遊牧民の遺伝子の混入の可能性について考えるのも、個人的には重要な視点ではないかと感じますよ!
この辺、もう少し考えていきたいところですね。
Re: 東漢氏の習俗: 竇氏
管理人さんへのお返事です。
> > 光武帝を助けた月氏って誰ですか??
> >
> >
>
> 漢代の外戚として竇氏があげられるのですが、彼らが月氏と絡んでます。以前こちらで論議して、会報にまとめて載せておいたのですが、下記のとおりです。
>
あ、竇氏が月氏で、それが光武帝を補佐したというわけではないのですね。ちょっと調べても竇氏が月氏の系統とはどこにも出てきません。
とはいえ、竇憲が、南匈奴・烏桓・羌胡の兵3万余を率いて北匈奴を討つというとことか面白いです。
そこで、竇(とう)姓のルーツを調べてみると、
ウィキ先生:
起源
・出自姒姓:為夏朝之後,以地名為氏。
・出自古代氐族:該族有姓竇者,分佈在今陝西、甘肅、四川一帶。
・出自少數民族被賜改竇氏:如北魏鮮卑族有姓沒鹿回氏、紇豆陵氏,在北魏末改為竇氏。
なるほど。鮮卑の改姓は後代なので、竇姓のルーツは夏王朝姒姓・羌族か、氐族のようです。出身も陝西・咸陽です。
?史名人
孝文竇皇后(前3世紀−前135年),為西漢 漢文帝皇后、漢景帝生母
竇嬰:西?武帝?期大将,曾任丞相,在?廷外戚的政治斗争中失?,无辜遭?决
竇憲:東漢名將,大破北匈奴,造成匈奴西逃中亞及日後的民族大遷移
竇武:東漢外戚,被宦官所殺。
竇建?:隋末民變軍領袖之一
劉邦ハプロが日本のO-F438に近いO-F155というので、漢にもかなり興味が沸いてきました。宮城谷昌光の『沙中の回廊』でも読んで見ようかな?劉邦の本家筋の士会の話。三国志にもハマりたいんだが、なんか入り込めない。どこが面白いでしょう?
Re: 讃・珍・済・興・武…
秦野北斗さんへのお返事です。
> 管理人さんへのお返事です。
>
> 倭国の五人の王、讃・珍・済・興・武は中国の武将なんだ、歴史家は天皇としているが、舊唐書卷八十四/列傳三十四/劉仁軌伝に記録される。状況の記録で、具体的な名前は別資料になる。
>
> 舊唐書卷八十四/列傳三十四/劉仁軌伝の抜粋
> 仁軌曰:「春秋之義,大夫出疆,有可以安社稷、便國家,專之可也。況在滄海之外,密邇豺狼者哉!且人臣進思盡忠,有死無貳,公家之利,知無不為。主上欲?滅高麗,先誅百濟,留兵鎮守,制其心腹。雖妖孽充斥,而備預甚嚴,宜礪戈秣馬,擊其不意,彼?無備,何攻不克?戰而有勝,士卒自安。然後分兵據險,開張形勢,飛表聞上,更請兵船。朝廷知其有成,必當出師命將,聲援纔接,凶逆自殲。非直不棄成功,實亦永清海外。今平壤之軍?迴,熊津又拔,則百濟餘燼,不日更興,高麗逋藪,何時可滅?且今以一城之地,居賊中心,如其失?,即為亡虜。拔入新羅,又是坐客,?不如意,悔不可追。況福信兇暴,殘虐過甚,餘豐猜惑,外合?離,鴟張共處,勢必相害。唯宜堅守觀變,乘便取之,不可動也。」
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.guoxue123.com%2Fshibu%2F0101%2F00jtsf%2F087.htm
>
> 興味ある方は、倭国の五人の王、讃・珍・済・興・武の名前を探してください。
>
なるほど、この時代の漢文は、4文字にまとめる傾向はあるわけですね。5、6語もあるけれども・・・。全体として4語が多いというのと、あきらかに意図的に4語でまとめているのとの相違を、考えるべきなのかな。
Re: 東漢氏の習俗: 竇氏
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
> 管理人さんへのお返事です。
>
> そこで、竇(とう)姓のルーツを調べてみると、
> ウィキ先生:
> 起源
> ・出自姒姓:為夏朝之後,以地名為氏。
> ・出自古代氐族:該族有姓竇者,分佈在今陝西、甘肅、四川一帶。
> ・出自少數民族被賜改竇氏:如北魏鮮卑族有姓沒鹿回氏、紇豆陵氏,在北魏末改為竇氏。
>
> なるほど。鮮卑の改姓は後代なので、竇姓のルーツは夏王朝姒姓・羌族か、氐族のようです。出身も陝西です。
>
なるほど、竇(とう)姓のルーツ調べれるんですね!古代氐族が出てくるのが面白い・・!あの辺の民族を総まとめしていたのでしょうね。それが漢王朝の外戚としてずっと影響を与え続けていたわけです。深いですね・・!
Re: 東漢氏の習俗: 竇氏: 竇 融: 張掖に赴任し、現地の羌族と交わり名声を得た
なるほど、陝西の前のルーツは甘粛です。張掖に赴任し、現地の羌族と交わり名声を得たとあります。
ウィキ:
竇 融
竇 融(とう ゆう、紀元前15年 - 62年)は、中国の新代から後漢初期にかけての武将、政治家。字は周公。司隷扶風平陵県(現在の陝西省咸陽市秦都区)の人。河西[1]に割拠した新末後漢初の群雄の一人で、後に後漢草創期の功臣となった人物である。後、光武帝の功臣団「雲台二十八将」と並び洛陽南宮の雲台で顕彰されたため、「雲台三十二将」のひとりと称されることもある。
河西を掌握
王莽が斬られて新が滅亡すると、竇融は漢軍の趙萌に投降し[2]、その校尉として登用された。まもなく、趙萌は竇融の器量を見込み、これを鉅鹿太守に推薦している。しかし当時の東方は混乱していたため、竇融はその赴任を望まず、むしろ祖先や一族が地方官として歴任していた河西への赴任を趙萌に願い出た。その結果、竇融は張掖属国都尉に任命され、竇融も大いに喜び、家族を連れて赴任している。河西へ到着した竇融は、現地の豪傑や羌と交流して、幅広く人心を掌握した。
Re: 東漢氏の習俗: 竇氏: 竇 融: 張掖に赴任し、現地の羌族と交わり名声を得た
前漢の時に漢族の無頼の輩を河西に移住させているので、竇氏の遠いルーツは羌族であれ、
竇氏の祖先もその筋かもしれない。
いずれにせよ、河西では既存の民族の枠を超えた集団の形成がこの時には既に見られたのだろう。この傾向が五胡十六国に受け継がれる。
前漢に、中国に占める羌族人口は最大になり、中国人口の4分の1、1200万人を占めたと言われる(楊光成『羌族歴史文化集』)。前漢期にはチベット人の祖である発羌がチベットにも拡がる。
まさに、羌族が「諸民族のルーツ」とか「血液を供給する民族」と言われる所以である。
しかし、後漢においては羌族蜂起が多発し、制圧によって「羌族受難の時代」となった。
その人口は半分にまで減ったと言う。
羌族人口最大期で羌族のO-M117が中国に占める割合は25%。夏王朝から周・秦、漢に至るO-M117の膨張で中国全体の比率も同等の水準に達したと見て良い。後漢期に羌族が半減したと言うが、五胡十六国時代には再び羌族が氐族も含めて中国内地に進出する。
Re: 東漢氏の習俗
管理人さんへのお返事です。
> 「建武8年(32年)夏、光武帝が隗囂を親征すると、竇融は河西5郡太守、羌の小月氏などで構成される歩兵・騎兵数万と、輜重車5千輌を率い、第一城(安定郡高平県)に到着した。」
>
そのウィキ先生では、「河西5郡太守、羌の小月氏などで構成される歩兵・騎兵数万と、輜重車5千輌」ですね。
> このように、月氏が数万人単位で参加したことがわかります。五千両の戦車とともにですから、相当な軍勢だといえるでしょう。そして彼らの一部は、故郷の西域に戻らず、洛陽の宮廷内や周辺に居残ったのですね。
>
で、ここでは、「月氏=数万」に入れ替わっちゃってる。
> 月氏の一部は傭兵として宮中を護衛しています。
>
なので、本当?となる。
丁寧に分析していけば誰でも出来ることです。まずは、自分に正直になること。ウソやトリックは使わない。研究にあたって、これが重要になります。:日本語「風」「草」もチベット・ビルマ語と同源です。
道教またはその前身のような信仰が、チベット・ビルマに由来するということは、例えば、「気」がキーになっていることからでも分かる。
チベット語で風をlung(ルン)と言う。例えば、ルンが体内に入ると怒りっぽくなると言われる。
嬴など上古姓に多く見られる*lengなども、このルンなのではないかとか、「風夷」というのは彼らではないかとも思うが、ここでは置いておこう。
日本語「風」という語の語源を検討してみたい。
「気風」の「ヂ」(「ヅェ」は転)と比較すべきだろうが、kadze(カヅェ)でも構わない。
【風(ヂ)】
・日本語:d3i(ヂ)、dze(ヅェ)、ka-dze
・チベット語:r-dzi(dzi〔ヅィ〕が語根、r-は接頭辞)
・ギャロン語:ka-le(カレ)、ka-l?(カル)、wu-l?(ウル)、u-l?(ウル)
=ka-は接頭辞、leなどが語根
・ヅォンカ語:lung=上記の「気」
語根の類似だけでなく、チベット語r-とギャロン語と日本語のka-が対応する。
日本語は「風」もチベット・ビルマ語と共有する。
「草」という語でも確認される。
【草(クサ)】
・日本語:kusa
・チベット語:r-tswa(r-は接頭辞、tswa〔ツワ〕が語根)
・ヅォンカ語:tsa(ツァ)
・ギャロン語:ka-tsa(ツァ)
ここでも、語根のみならず、接頭辞のチベット語r-とギャロン語と日本語のka-が対応します。
日本語はもともと単音節の語が多いが、二音節以上の語における接頭辞の可能性も検討されるべきだろう。
手品ではありませんよ。笑
丁寧に分析していけば誰でも出来ることです。まずは、自分に正直になること。ウソやトリックは使わない。研究にあたって、これが重要になります。
--------------------------------
> この道教ですが、哲学的なことは後付で、内容は呪術と呪術に重なる医術ですね。
> あくまで現世利益なところは日本人の宗教と似ています。
>
> 起源は、自然と一体化していた「古西戎人」の宗教です。
> 医術が道教の重要な柱となっていることなど、炎帝が医学を開いたとされることを想起させますね。
>
> チベット・ビルマ系は垂直型の移牧ですから、山を上ったり下がったりするわけです。
> それも常人じゃ行けないようなかなりの高山です。そこには未知の薬草などの知識を持った現地人がいて、たしか、TK(Traditional Knowledge)とか呼ばれて注目されています。
>
Re: 「汙人」について。:倭韓
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009443M.jpg
高句麗と戦った倭や倭の五王とは、大和朝廷とは関係のない「倭韓」で、日本人のルーツはこの倭韓。
この本に興味がある。誰か買って読んでみてくれないか。
著者は柴田文明。2013年刊行。
ただ、この著者は学者ではなく研究家のよう。早稲田文学部卒。
Re: 東漢氏の習俗2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009444M.jpg
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
分岐してから「5万年w」。そこまで行くと、「我々y-CF」ではy-Fのレベル。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外!w
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009445M.jpg
秦野北斗さんへのお返事です。
チベットのy-D2(D1a)が日本人のD1(D1b)と同じだと15年間考え違いしてた人だ!w
あ、そう言えば、ウィキ先生もy-Dが新表記になったね。
で、ちゃーんと前々からチベットのDと日本のDなんて関係ないこと、ウィキ先生にも書いてあっただろw
ウィキ先生:
「チベットではD1a1-Z27276、日本ではD1a2?M55、アンダマン諸島ではD1a3-Y34537[4]が高頻度である。これらのハプログループは、同じハプログループDに属していても、サブグループが異なるため、分岐してから5万3000年以上の年月が経ている[5]」。
篠田の本(2007年)にもその点について書いてあるんだけどね。盲信者には見えなかったらしいwww
しかし、分岐してから「5万年w」。
*****************************
そこまで行くと、「我々y-CF」ではy-Fのレベル。
ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外!
*****************************
(図:"われらFの民"w)
前のwikiバージョンには残ってたが、さすがに「y-Dの北ルート」については文章では言及されなくなったね。崎谷の地図は残っちゃってるけど、そのうち消えるでしょ。アタリマエw 遅すぎる。
崎谷さんもちゃんと南ルートも載せていた!
Re: ハプロの場合も、古けりゃ古いほど当然縁遠くなります。 y-D同士の場合、完全に縁が切れてから気の遠くなる年月が流れています。 一方、O-M133は語族形成期にもマッチするんです。 チベット人と日本人のO-M133は「真正に連関」します。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009446M.png
> で、ちゃーんと前々からチベットのDと日本のDなんて関係ないこと、ウィキ先生にも書いてあっただろw
> ウィキ先生:
> 「チベットではD1a1-Z27276、日本ではD1a2?M55、アンダマン諸島ではD1a3-Y34537[4]が高頻度である。これらのハプログループは、同じハプログループDに属していても、サブグループが異なるため、分岐してから5万3000年以上の年月が経ている[5]」。
> 篠田の本(2007年)にもその点について書いてあるんだけどね。盲信者には見えなかったらしいwww
> しかし、分岐してから「5万年w」。
>
その点、O-M133で見ると、5000年の年月。
こちらも普通の感覚では結構な大昔だけどね。
でも、5万年と5000年。考えて見て。
ハプロの場合も、古けりゃ古いほど当然縁遠くなります。
y-D同士の場合、完全に縁が切れてから気の遠くなる年月が流れています。
y-D同士だとハプロでもゲノムでも言語文化でも繋がれません。お呼びでない!ってことですわw
一方、O-M133は語族形成期にもマッチするんです。
チベット人と日本人のO-M133は「真正に連関」します。
まあ、「日本=チベット・ビルマ語族」の形成はその前、O-M117の時でしょうネ。
1万年ほど前。現在、O-M117の直近のサブグループはO-M133しか残っていません。
DNA人類学と言語学によって拓かれた、"東アジアの西端と東端の稀有な再会"です。
いえ、アッラーフが開くことを許可したからこそですね!!!歓びましょう!
Re: 分岐してから「5万年w」。そこまで行くと、「我々y-CF」ではy-Fのレベル。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外!w
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009447M.jpg
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
AI君、前にも言ったね、700年ぐらいの歴史なの、ハプログループには痕跡は難しいのだな、
> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> チベットのy-D2(D1a)が日本人のD1(D1b)と同じだと15年間考え違いしてた人だ!w
>
>
> あ、そう言えば、ウィキ先生もy-Dが新表記になったね。
> で、ちゃーんと前々からチベットのDと日本のDなんて関係ないこと、ウィキ先生にも書いてあっただろw
>
> ウィキ先生:
> 「チベットではD1a1-Z27276、日本ではD1a2?M55、アンダマン諸島ではD1a3-Y34537[4]が高頻度である。これらのハプログループは、同じハプログループDに属していても、サブグループが異なるため、分岐してから5万3000年以上の年月が経ている[5]」。
> 篠田の本(2007年)にもその点について書いてあるんだけどね。盲信者には見えなかったらしいwww
>
>
> しかし、分岐してから「5万年w」。
>
> *****************************
> そこまで行くと、「我々y-CF」ではy-Fのレベル。
> ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外!
> *****************************
> (図:"われらFの民"w)
>
>
> 前のwikiバージョンには残ってたが、さすがに「y-Dの北ルート」については文章では言及されなくなったね。崎谷の地図は残っちゃってるけど、そのうち消えるでしょ。アタリマエw 遅すぎる。
> 崎谷さんもちゃんと南ルートも載せていた!
>
古本、追
?La Divina Commedia Inferno
DANTE ALIGHIERI biblioteca classica
?Les Borgia??"Figures"
?LE MAGHREB??"que sais-je"
?タッシリ遺跡 サハラ砂漠の秘境 H・ロート
?PROVENCE????Les Guides Verts MICHELIN
・・
Re: 分岐してから「5万年w」。そこまで行くと、「我々y-CF」ではy-Fのレベル。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外!w
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009449M.jpg
これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
>あ、そう言えば、ウィキ先生もy-Dが新表記になったね。
アイヤー、コピペの荊の紀氏が困るジャーないの・・・
むかし、むかし、天岩戸はないの・・・で、困るて、嘆いてたな。
南無阿弥陀仏・・・
> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> チベットのy-D2(D1a)が日本人のD1(D1b)と同じだと15年間考え違いしてた人だ!w
>
>
> あ、そう言えば、ウィキ先生もy-Dが新表記になったね。
> で、ちゃーんと前々からチベットのDと日本のDなんて関係ないこと、ウィキ先生にも書いてあっただろw
>
> ウィキ先生:
> 「チベットではD1a1-Z27276、日本ではD1a2?M55、アンダマン諸島ではD1a3-Y34537[4]が高頻度である。これらのハプログループは、同じハプログループDに属していても、サブグループが異なるため、分岐してから5万3000年以上の年月が経ている[5]」。
> 篠田の本(2007年)にもその点について書いてあるんだけどね。盲信者には見えなかったらしいwww
>
>
> しかし、分岐してから「5万年w」。
>
> *****************************
> そこまで行くと、「我々y-CF」ではy-Fのレベル。
> ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外!
> *****************************
> (図:"われらFの民"w)
>
>
> 前のwikiバージョンには残ってたが、さすがに「y-Dの北ルート」については文章では言及されなくなったね。崎谷の地図は残っちゃってるけど、そのうち消えるでしょ。アタリマエw 遅すぎる。
> 崎谷さんもちゃんと南ルートも載せていた!
>
「嬴」…秦の始皇帝の本名。姓が嬴で実名(諱いみな)が政。…
元は嬴姓。周孝王によって秦亭に封じられた一族が秦姓を吊乗った。始皇帝の一族。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F2577
秦 Qin2
1、元は姫姓。魯公の公子のうち秦邑に封じられた一族が後に秦を姓とした。
2、元は嬴姓。周孝王によって秦亭に封じられた一族が秦姓を吊乗った。始皇帝の一族。
3、西暦226年に海路で呉に到達したローマ人が帰化して秦を吊乗った説
・・・
日本列島開拓
『説文解字』によれば、「汗」は「穢(わい)」であり、 ... 同じく前二〇年「・・・辰韓の遺民から卞韓、楽浪、倭人に至るまで恐れ・・・瓠公という人は、その族姓がつまびらかでないが、もと倭人で、はじめ瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した」 ...
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.geocities.co.jp%2FHeartLand-Namiki%2F1627%2Fougin%2F3g.htm
鬯草(ちょうそう)
鬯草とは酒の醸造等に用いる芳香草のことで、揚子江南部の特産とされている。倭は揚子江以南の国と見られていたのである。周は、殷を崩落させて紀元前一一〇〇年から二五六年まで続いた国であるが、春秋戦国時代はあってなきがごときの存在であった。
鬯 ちょう. 意味;香草で匂いをつける。 《解字》会意。 「器に穀物や香草を入れたさま+匕(さじ) ... 《解字》象形。 しかの姿を描いたもの。 ... 《解字》会意兼形声。 古くは口の中のはを描いた象形文字。 のち、これに音符の止を加えた。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.k3.dion.ne.jp%2F%7Emasatono%2Fevery%2Fkanzi%2Fsyousai_10.htm
姓は姜、 氏は呂、字は子牙もしくは牙、諱は尚とされる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F3542
始皇帝(しこうてい、紀元前259年 - 紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王(在位 紀元前246年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)、諱は政(せい)。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A7%258B%25E7%259A%2587%25E5%25B8%259D
焚書坑儒を実行したことでも知られる
・・・
呂尚(姜氏)の祖先は禹に仕へて四岳(四方の長. 官)となる。 ここは田氏が四岳の子孫 たる姜氏に. 代りて齊王となりしをいふ。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F2456
姜氏
太公望(呂尚、姜斉の太公)以来の姜氏の家系は断絶した。
太公(たいこう、? - 紀元前385年、在位:紀元前386年 - 紀元前385年)は、中国戦国時代の田斉の初代君主。姓は嬀、氏は田、諱は和。田白の子。陳完の10世の孫にあたる。
前379年に康公が死去し、太公望(呂尚、姜斉の太公) 以来の姜氏の家系は断絶した。これにより、斉の支配権は完全に田氏に移ることとなっ た。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A4%25AA%25E5%2585%25AC_%28%25E7%2594%25B0%25E6%2596%2589%29
田氏
趙氏
ある意味、日本の藤原氏のようなもので、数百年の間に かなり国内に拡散していった一族なのかもしれませんね、趙氏も田氏も。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fno1685j_s_bach%2F6307876.html
なお趙奢は戦の功により馬服君に任じられ、その子孫はその頭文字を取って馬氏を名乗りました。
後漢の功臣馬援及び三国志で有名な馬騰、馬超はこの趙奢の末裔とされています。
・・・
日本の歴史において重要な役割を果たしてきた秦氏ですが、中国の文献においても、 不思議とその出自に関する記述を殆ど .... さらに、始皇帝の肖像画を見ても西アジア人 特有の鷲鼻が際立ち、言い伝えでは「目は青く西洋人のようであった」ということからして??... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.historyjp.com%2Farticle.asp%3Fkiji%3D72
三木、羽田、海部、田中(後藤田は秦氏)。
物部氏が封印された理由2 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.millnm.net%2Fqanda3%2F83SSIa5PPc7sg34240.htm
藤原氏系は、近代においてフリー・メイソンにやられたように思えます。
鳩山などお公家さんたちが共産主義に騙されたようです。
近衛が藤原氏系だそうです。
この藤原王朝から物部への変換は、最近になってようやく顕著になってきたのではないでしょうか。
首相には秦氏が登場しはじめました。
[4137] 嬴姓・・・
「同盟した国が滅ん だのだ(秦と江は同じ嬴姓の国で、同盟もしていたようです)。救うことはできなかったが 、憐れま ... 九] 冬十一月壬寅(初一日)、魯の夫人・風氏(釐公の母。成風)が死にました
前623年 戊戍 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fsanokuangxian%2F34744869.html%3F__ysp%3D5ay0ICDpoqjmsI8%253D
1.太?庖犠氏
風姓
蛇身人首
庖犠氏 ? ほうぎし(逆引き). 日本に於ても 素盞嗚尊 ( すさのをのみこと ) が 八岐大蛇 ( やまたのおろち ) を退治した話は周知のことであり、支那では三皇の 一人 ( いちにん ) 庖犠氏 ( ほうぎし ) が 蛇身人首 ( じやしんじんしゆ ) であつたと伝へられ、 印度 ( インド ) の神話とも見るべき 梨倶吠陀 ( リーグヴエダ ) の中にはセシアと称する 千頭の怪蛇のことが記されてある。? ほうぎし(逆引き). 日本に於ても 素盞嗚尊 ( すさのをのみこと ) が 八岐大蛇 ( やまたのおろち ) を退治した話は周知のことであり、支那では三皇の 一人 ( いちにん ) 庖犠氏 ( ほうぎし ) が 蛇身人首 ( じやしんじんしゆ ) であつたと伝へられ、 印度 ( インド ) の神話とも見るべき 梨倶吠陀 ( リーグヴエダ ) の中にはセシアと称する 千頭の怪蛇のことが記されてある。
中国の史書に詳細に伝えられる天皇氏がウ、地皇氏がガヤに相当し、大昊伏義氏、 又は庖犠氏と呼ばれるもののことである。その「フッキシ」「ホーキシ」が、ギリシャ語の Phorcysとの同一性を示しており、また、伏義氏、あるいは庖犠氏が竜蛇で表象される ことでも一致している。
邪馬台国と鉄 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F21seikinokadai.blog15.fc2.com%2Fblog-entry-49.html%3Fsp
ヤマタノオロチ退治の時にスサノオが使った十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」が登場します。
・・・
金刺氏の 成立は、かなり不鮮明で、科野国造家から分かれて同化した説、あるいは、東征から 戻った源氏の氏族が信濃に帰化・婚姻して金刺氏と同化した説などありますが、どうも 外部からの有力氏族が金刺氏と婚姻を通して同化したのは確かではない ...
諏訪大社の上社と下社の対立 ・・金刺家の没落 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fshochanshochan_7%2Fe%2F6939cb10616458cda242d92c668dd455
諏訪大社の成立は、神話の時代に、天照大神と大国主命が”国盗り”を争い、天照大神の側の武甕槌命と大国主命の次男・建御名方命が相撲で決着し、敗れた建御名方命が諏訪に逃れた上社を造り、その妃・八坂刀売命が下社を造ったとされ、本来は一体とするのが習わしだったようです。
・・武甕槌命・タケミカズチノミコト
・・建御名方命・タケミナカタノミコト
・・八坂刀売命・ヤサカトメノミコト
天照大神は今の皇室に繋がり、大国主命は出雲系祭神で、確かにこの二大勢力は、”国盗り”で争ったのかも知れません。このことは古事記に記載された内容だが、日本書紀には記載されていません。
・・・
葛西氏と笠氏熊本県球磨郡に「十島菅原神社」があり何か関係ないか?と思って豊島氏 を検索。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fhikoshima.com%2Fbbs%2Fheike%2F101259.html
古代の笠氏
?嬴姓高丘系図
秦王26代・恵文王・諱駟((BC356-BC311))の子・昭襄王(BC325-BC251)の兄弟の高陵君・諱参の子孫で高軌の女子・真華姫と百済の百済蓋鹵王との間の子・百済第25代武寧王(斯摩(462-523))。
?武寧王の子孫が和史になり、1つの流れが桓武天皇后・高野新笠を出す。
1つのながれが若狭彦神社の笠氏になる。
※昭襄王の子孫が秦始皇帝。島津氏の祖・弓月君(太秦の君)
武寧王の子・聖王の子・琳聖太子。推古19年(611)渡來於日本國周防多々良濱
※大内氏がこの太子の子孫とする。
・・・
この時費は嬴姓を授かった。 その子孫らは殷に仕え諸侯となり、周の 穆王の頃、造父が馬をよく御するので寵幸された。造父は四疋の珍しい色の馬を献し たり御者として乱が起こった地に馬を馳せ、乱を鎮めた。そこで穆王は趙城に造父を封じ た。
益(えき)は、古代中国の伝説上の人物。帝舜と帝禹に仕えた。伯益、柏益(はくえき)、伯翳(はくえい)[1]、大費(たいひ)とも。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%259B%258A_%28%25E4%25B8%25AD%25E5%259B%25BD%25E7%25A5%259E%25E8%25A9%25B1%29
帝舜の時代には、虞(山沢を司る官)を務め、禹とともに治水などの政治を行った。禹が帝になったあとは、禹に仕えた。帝禹のもとで政治を取り仕切った皋陶(こうよう)が死んだ後に、益は政治の取り仕切り役となった。
非子は秦嬴と号した。その後その子孫、襄公の時になっ て周が犬戎に侵された。この時よく周を助け、爵を賜った。これが始皇帝の家系の直系 であるとする。 『史記索隠』によればこの大費は『尚書』や『漢書』にいう伯益と同一人物 である。
伯益は禹から嬴(えい)という姓を与えられた。子供には大廉(中国語版)(たい れん)若木(中国語版)(じゃくぼく)がおり、いずれも鳥と縁のある一族であると伝えられ ている。また、伯益の末裔にあたる子孫たちが秦王朝の王族になった、とも伝説では語 られている。 日本では、上述の子孫たち(秦王朝の遺民)が日本に帰化をして、秦氏に なったという説を見ることが出来、国学者・松田敏足などがこの説を著作に記している。
伯益・・・佐伯・・・道臣・・・鴉・・・諜報部員(忍者) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F2052
?「トラジ(桔梗)伝説」
現在北朝鮮ではアヘンはペグトラジ(白桔梗)という「隠語」で呼ばれ大変な問題になっています。おかげで、海外の朝鮮民族はおろか外国人まで、北朝鮮のペクトラジはアヘンだと混同するようになりました。朝鮮伝統民謡の「アリラン」と「トラジ」は日本の年寄り世代なら題名位は誰でも知っています。朝鮮民族とトラジとは切り離す事の出来ない言葉であります。
若木は、堯、舜、禹の 三代に仕えた宰相、伯益(はくえき)の次男だ。 .....
日本人に占める縄文人の比率は8%ほどであり、残りは弥生人と古墳人だ。
弥生人は、フェニキア人とユダヤ人で、地中海からアレクサンドロス?の東征で中国・朝鮮を経由して来日したと考えられる。
古墳人は、神功皇后以降に来日した秦氏や新羅人、百済人などの朝鮮半島人で西日本に多い。
部落は、東日本の蝦夷(弥生人)が西日本に連れて来られた佐伯部とする説があり、明治維新以降、多くの朝鮮人が部落に流入した。
朝日神社教祖・井出国子は、元天理教信者だった。
アッセンブリー三木アガペー教会と三木アガペーチャペルは、ほぼ同じ場所にあり、共に日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属している。この教団は、戦前は日本基督教団に属していた。
ウィキペディアによれば、大神氏は三輪氏の子孫で、三輪氏は神功皇后(白)の四大夫の1人だったが、後に物部氏や中臣氏と共に排仏派(赤)になったり、天智天皇(赤)の新羅討伐に従軍したり、大海人皇子(白)の壬申の乱に加わったりしている。
三輪氏は、三輪明神(ニニギ)の子の事代主(アジスキ)の子孫のオオタタネコの子孫と考えられる。(*22)
三輪氏の子孫の三好吉房が、豊臣秀吉の姉と結婚した。
三好氏は、信濃小笠原氏の分家、阿波小笠原氏の子孫で、同じ小笠原氏の子孫に丹波国亀岡穴太村出身の上田吉松がいて、その子が、牧口常三郎、出口王仁三郎、笹川良一とする説がある。
葛城は、ホアカリ系賀茂氏の地盤と思われる。
秦氏だけでなく、ホアカリも妙見信仰となる。
ホアカリは、日下部と共に九州南部から出雲経由で丹後に来たと考えられるからだ。
使主は、渡来人の姓だから、日下部は渡来人だ。
北欧神話の主神オーディンが、知恵を得る事と引き換えに差し出した左目が、月を象徴しているとされる。(*2)
北欧神話は、アーリア人とされるゲルマン民族の神話だ。
道教の万物創造の神、盤古も左目から太陽を、右目から月を産んだ。
ミトラ教は、太陽神崇拝だ。
両目を日月とする神話が、日月紋の由来だろう。
片目の神が、天目一箇神の由来だろう。
ミトラやホルスが、太陽信仰の由来だろう。
隼人がホルスだけに結びつくのは、ハヤブサしかないが、ホルスと日本神話の共通点は多い。
九州南部には、阿多、阿蘇という地名があるが、これらも阿和、阿保などと同じく、国王の名前だろう。(*3)
紀元前219年 秦の徐福が不老長寿の薬を求めて出航
後 57年 倭の奴国が秦に使いを出す
100年頃 オオナムチが出雲へ行く
107年 倭の国王の帥升が後漢に朝貢する
146〜189年頃 倭国大乱(大乱の後、卑弥呼が国王になる)
248年 台与が邪馬台国女王就任
2??年 神武東征
406年頃 百済の弓月君(ゆづきのきみ)が
秦(はた)氏を引き連れて日本に帰化
635年 唐に景教伝来
835年 唐の景教消滅
徐福の子孫が賀茂氏で、賀茂氏はニニギと姻戚関係を結び、アジスキタカヒコネとシタテルヒメが生まれた。
ホアカリとシタテルヒメが結婚して、物部氏の先祖のウマシマデが生まれた。
そのため、物部氏が徐福の子孫とする説は辻褄が合う。(*5)
桓武天皇の子の嵯峨天皇が源氏の始まりで、源頼朝は八幡宮だけでなく妙見信仰者でもあった。
妙見信仰は、北辰信仰の事だ。
北辰は「北天の星々」という意味で、北極星や北斗七星の事だ。
星辰崇拝は、バビロニアからインドを経由して、中国の道教に伝わり、北極星=皇帝となり、北極星や北斗七星を模した紫禁城が建てられた。
中国では、北極星は皇帝の居城、北斗七星は皇帝の車(乗り物)とされる。
中国では、黒い妖狐は、北極星の化身とされる。
日本では、狐は、稲荷神社の守り神だ。
中国では、泰山北斗と言い、北極星(太一)と共に泰山も崇拝対象だ。
太一は、万物創造を意味し、泰山は冥界だ。
泰山は、太山とも書け、太と泰は同じ意味だ。
太一と秦山で太秦(うずまさ)だ。
八咫烏は、金烏に由来し、金烏は太陽の象徴だ。
賀茂氏の子孫のアジスキと下照姫は太陽神だ。
縄文時代の卜占は、鹿や猪の骨だったが、神功皇后に重用された中臣烏賊津使主が、亀卜(きぼく)の始祖とされる。
中臣烏賊津使主は百済人と結婚したとされるが、亀卜は朝鮮半島では見つかっておらず、中国で殷の時代に始まった。
黄泉の国から戻ったイザナギが右目を洗った時に生まれたのが月読命で、左目を洗った時に生まれたのが天照大神で、鼻を洗った時に生まれたのが須佐之男命だ。
・・・
〉嬴など上古姓に多く見られる*lengなども、このルンなのではないかとか、「風夷」というのは彼らではないかとも思うが、ここでは置いておこう。
嬴
嬴エイ…神獣 解字「女(おんな)+?ラ(神獣)」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F5024
嬴エイ は神獣を後ろ盾とした女の意。
秦の王室の姓でもある。
?ラは神獣と考えられ、これに女をつけた嬴エイは神獣を後ろ盾とした女の意。母系制社会の時代に作られた姓のひとつ。姓セイは、「女+生(うまれる)」で、女から生まれる子へとつながる血筋を表す。古代の母系制の名残を残す字。中国古代の母系制社会の姓は、女偏がつく姜キョウ、?(姫)キ、姚チョウ、などがあり、嬴エイはそのひとつ。秦の王室の姓でもある。また、盈エイ(みちる)に通じて、みちる意がある。
意味 (1)姓のひとつ。秦の王室は嬴エイ姓を名乗った。「嬴政エイセイ」(秦の始皇帝の本名。姓が嬴で実名(諱いみな)が政。 (2)[盈エイ(みちる)に通じて]みちる。のびる。「嬴縮エイシュク」(のびちぢみ)「嬴土エイド」(肥沃の地)
?[?] ラ・(エイ) 月部にく
解字 動物の象形。[説文解字]は獣の名とし、その他にも蠃ラ(螺ラ・にし)の初文で巻貝とする説もあるが、甲骨文では細長い胴体が表現されており、また頭部に虍(トラ)のような形を用いたものや多足の象形などがあり、字源はムカデのような「噛みつく節足動物」と思われる[甲骨文字辞典]。金文は中央の頭の下方に月(にく)が付加された形をへて、篆文で上部が亡+口、下が月+丮となり、現代字(楷書)の?になっているが、卂の部分が丮や凡になっている字も同字である。
[甲骨文字辞典]は、意味が災厄であることから「噛みつく節足動物」としているが、私は中国ネットに出ていた「神獣」説を取りたい。理由は、この字と女を組み合わせた嬴エイが姓となっており、神獣を後ろ盾にした姓と考えられるからである。
意味 (1)(甲骨文字で)災厄。主に神や祖先の祟りとして用いられる。また、地名。祭祀名。 (2)(説文解字で)浅毛の獣。虎・豹・象の類。 (3)(騾ラに通じ)らば。うさぎうま。
イメージ
「神獣」(?・嬴・瀛・贏)
「同音代替」(蠃・臝・羸)
騾ラに通じ)らば。うさぎうま。…V…耳?角?
V…
馬あるいは牡牛や騾馬にまたがって描かれることもある。
オリュンポス神々の伝説 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Ftea-break.main.jp%2Fgrowth.html
「星座」アストライオスと「曙の女神」エオスは、 風の神「北風」ボレアス、「東風」エウロス、「南風」ノトス、「西風」ゼピュロスと、 「曙の明星」ポスポロスを儲ける。その住居はリバイアの山々の渓谷に住んでいると伝えられる。
ヘリオスの妹に当たる「月の女神」セレネも神格としては特別な重要性をもたず、 アポロンの妹アルテミスと同一視されることも多い。 彼女も2頭の馬を操るが、時には牛や鹿のこともある。また、馬あるいは牡牛や騾馬にまたがって描かれることもある。 これもまた色々な場所での逸話や神話の融合のためでしょうか。
V 字型が牡牛の顔の部分になり、そこには「ヒアデス星団」があります ... 南半球の星座「みなみじゅうじ座」を紹介しました。南半球にある星座で、見たことがなくても、名前は聞いたことがある方は多いのではないでしょうか ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fmarchof-gabriel.com%2F2382.html
シリウス 兎座
うさぎ座は、オリオン座のちょうど下くらいに位置する星座です。
暗い星で構成されているため見にくいかもしれませんが、近くにオリオン座や球状星団 M79があるなど、うさぎ座方向を眺めるのは面白いはずです。
ギリシャ神話によると、オリオンに踏みつぶされたかわいそうなうさぎが星座にしてもらった姿だそうです。
シリウスから来た存在は人類に対して叡智(DNA)を与え、プレアデスから来た存在は美的センスを、オリオンから来た存在は魂(自我)を人類に与えたのだそうです。
シリウス、オリオン、プレアデスの3つの意識が、今の人類にどのような影響を与えたのかについて少し調べてみました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2Fimimi%2Fdiary%2F201102270002%2F
シリウスは「神我」、プレアデスは「肉体」、オリオンは「霊」を象徴し、三位一体としての人類を象徴しているといったニュアンスのことを言われたことがありました。
他の星系から来た存在は、シリウスの領域にあるこの真ん中に飛び込み、さらに金星の領域を通過して、我々の住む太陽系という特殊な環境に入ってくるといった感じです。
我々の住む宇宙、とりわけ我々の住む太陽系は、ブラックホールのような特異点を形成しているように私には感じられます。
シリウス、オリオン、プレアデスが協力して今の人類に力を貸した最大の理由は、人類に「神の意識を体現させること」にありました。
趙(趙氏)は秦などと同じく嬴姓であるが、魏(魏氏)・韓(韓氏)はどちらも、滅ぼした晋と同じく姫姓である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fzodiac3721%2F12599747.html
趙
金、石、高、文、李、張、趙の八家を含んでいる
支那に渡来したユダ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fbewithgods.com%2Fhope%2Fdoc%2F1-32.html
〉[5894] O-M7とmt−M7a…
〉[5894] O-M7とmt−M7a https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/5894
> D1b ハプログループM7 「最古のムラ」から日本全国へM7a系統の縄文人が拡散したと想定している。
> 鹿児島・上野原遺跡縄文人 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FmtDNA%2520M7a
> 鹿児島県霧島市・上野原遺跡の縄文人(25,000年前)のミトコンドリアDNAは、ハプログループM7aであると考えられている(注1)。国立科学博物館人類研究部 研究主幹の篠田謙一博士によると、M7a系統の縄文人は、現在は海底に沈んでいる東南アジア・フィリピン沖のスンダランドが起源で、北上して南九州に到達し、大隅半島西北部の小高い台地にある上野原遺跡と呼ばれる「最古のムラ」から日本全国へM7a系統の縄文人が拡散したと想定している。このM7a系統は、縄文時代にすでに北海道へも到達し、北方系の要素を持つN9b系統の縄文人とも融和した生活を行っている。
>
> ハプログループM7 日本へは沖縄や北海道を通った
> 4〜5万年前に東中国で誕生したグループで、地殻変動で沈んだ「スンダランド」と呼ばれる陸地を起源としています。https://遺伝子検査キット.com/mitocondrial-haplo/#M7
> 氷河期に海の水が凍り、地続きになったことで台湾や、インドネシア、フィリピンに広がったと考えられています。
> 日本へは沖縄や北海道を通ったと考えられており、本州7%、北海道(アイヌ人)16%、沖縄23%の割合となっています。
> このM7グループは日本以外では朝鮮半島周辺でしか確認されておらず、日本固有のグループという見解です。
> ハプログループA
> 北アジアで3〜5万年前に誕生したグループです。
> アジア地域では少数派で、シベリアや北アメリカでは過半数を占めています。
> 旧石器時代はシベリアなど極寒の地域でマンモスを主食とする優秀な狩猟民族だったのではないかと推察されています。
> 誕生場所として最も有力なのは生物進化の博物館とも称されるロシアのバイカル湖です。
>
沖縄と北海道に多い?…縄文系?
ハプログループM7は海に沈んだ幻の陸地スンダランドの子孫かも… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fu-gene.jp%2Fcolumn%2Fhaplogroup-m7%2F
ミトコンドリア・ハプログループM7に分類される人は、約5〜4万年前に東中国で誕生したグループです。
日本人の約15%が属しており、海の底に沈んだという「スンダランド」に生きた人々の子孫である可能性があると言われています。
ハプログループM7は、氷河期に海の水が凍り水位が下がったことで、陸続きになった土地を渡ってきたと言われています。台湾、沖縄、インドネシア、フィリピン、北海道を移動して日本に入ってきたと考えられています。
M7から分岐した亜型であるM7bやM7cが、ベトナムなどの東南アジア、中国大陸南部などで多く検出されています。
ハプログループM7aという亜型は日本人の約7%が属していますが、沖縄では約23%、アイヌ(北海道)で約16%と割合が高くなります。
これは、同じ祖先をもつ人々が、南は沖縄、北は中国大陸を通って北海道から入ってきたからです。
日本以外では朝鮮半島などでしか確認されていないため日本固有のサブグループと見られています。
縄文人の人骨からも検出されているグループで、日本の社会を形作っていった人々の子孫ともいえます。
・・・
ハプログループM7 (mtDNA)(ハプログループM7 (ミトコンドリアDNA)、英: Haplogroup M7 (mtDNA))とは、分子人類学で用いられる、人類のミトコンドリアDNAハプログループ(型集団)の分類のうち、ハプログループMの子系統の一。
Mから分岐したグループであり、シベリア南部 - 極東あたりで発生した[1]。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ハプログループM7aは、日本人の約7.6%が属し、沖縄(23%)、本州(7%)の他、北海道アイヌ(16%)や、縄文人の人骨からも検出されている。日本列島以外では、沿海州や朝鮮半島にもごく僅かに見られる。
ハプログループM7bやハプログループM7cがベトナム、ラオス、タイなどの東南アジアや、中国大陸南部で多く検出される[1]。
ハプログループMは西ユーラシアにはほとんど存在しないが、東アジア及び南アジアでは優勢であり、それに対し欧米ではハプログループRが主流グループになっている。
ハプログループM (mtDNA)(ハプログループM (ミトコンドリアDNA)、英: Haplogroup M (mtDNA))とは、分子人類学で用いられる、人類のミトコンドリアDNAハプログループ(型集団)の分類のうち、「L3」より分岐したものである。「263, 489, 10400, 14783, 15043」の変異で定義づけられる。ハプログループNとともに、出アフリカを果たし、子孫がユーラシア、オセアニア、アメリカ大陸に広がっていった[1]。アフリカ外で見つかったものはすべてハプログループMに属しているため、ハプログループNへの分岐がアフリカ内で起きたかアフリカ外に起きたのかの議論がある。ハプログループMは西ユーラシアにはほとんど存在しないが、東アジア及び南アジアでは優勢であり、それに対し欧米ではハプログループRが主流グループになっている。
主な子系統
M1 最初に分岐したため、出アフリカをしなかった系統。アフロ・アジア語族と関連
M7
M7a:日本人に多い
M7b
M7c
M8
CZ
C
Z:一部はウラル語族と関連
M9
E
M12'G
G:一部はアイヌやオホーツク海沿岸の先住民族に多い
M29'Q:オーストラロイドの系統
Q
D:モンゴロイドに広くみられる
「L3」より分岐した
ハプログループMは西ユーラシアには存在しないが、インドでは優勢であり、またハプログループNが欧米ユーラシアで大きな主流グループになっている。
ハプログループN (mtDNA)https://www.weblio.jp/wkpja/content/ ハプログループN+%28mtDNA%29
ハプログループN (mtDNA)(ハプログループN (ミトコンドリアDNA)、英: Haplogroup N (mtDNA))とは、分子人類学で用いられる、人類のミトコンドリアDNAハプログループ(型集団)の分類のうち、「L3」より分岐したものである。「8701, 9540, 10398, 10873, 15301」の変異で定義づけられる。ハプログループMとともに、出アフリカを果たし、子孫がユーラシア、オセアニア、アメリカ大陸に広がっていった[1]。アフリカ外で見つかったものはすべてハプログループMに属しているため、ハプログループNへの分岐がアフリカ内で起きたかアフリカ外に起きたのかの議論がある。
ハプログループN9 (mtDNA)は分子人類学におけるミトコンドリアDNAハプログループの一タイプであり、ハプログループN (mtDNA)の子型である。
ハプログループN9はN9a、N9b、Yの3つの下位系統に分かれる。このうちYはアイヌを含むオホーツク海沿岸に多い(詳細はハプログループY (mtDNA)を参照)。ハプログループN9aは東アジア、東南アジア、中央アジアに広くみられるが、とくに中国南部や台湾先住民に比較的多く見出される[1]。一方のN9bは朝鮮半島や沿海州の先住民にもわずかに見られるが、基本的には日本にその分布が限られている[2]。
ハプログループN9 (mtDNA)https://ja.wikipedia.org/wiki/ ハプログループN9_(mtDNA)
ハプログループN9はN9a、N9b、Yの3つの下位系統に分かれる。このうちYはアイヌを含むオホーツク海沿岸に多い(詳細はハプログループY (mtDNA)を参照)。ハプログループN9aは東アジア、東南アジア、中央アジアに広くみられるが、とくに中国南部や台湾先住民に比較的多く見出される[1]。一方のN9bは朝鮮半島や沿海州の先住民にもわずかに見られるが、基本的には日本にその分布が限られている[2]。
ハプログループM系統のグループは、インドから進出してきた人たちと考えられ、N系統のR9、B、Fも元のRの拡散の中心がインドにあるため、同じく南アジアを経て東アジアにやってきたと思われます。残りのA、N9、Yについては、Rを経由…
ミトコンドリアDNAのハプログループでたどる日本人のルーツ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffirst-genetic-testing.com%2Fgene%2Fhaplo.html
Y染色体で探る日本人の起源 4−1.氷河期が終わるまでにやってきた人々1 D
問題のD仲間のチベット人が、高地の低酸素状態に順応する変異した遺伝子(スーパーアスリート遺伝子とも表現される)を、化石人類のデニソワ人から貰ったという、特殊な高地適応能力を持つ人々だという話題は知っておくべきところか。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fdigx.hatenablog.com%2Fentry%2Fj-origin4-1
チベットの人々が持つEPAS1の変異は、デニソワ人のサンプルで見つかった変異とほぼ同じものだった。
だがこの変異の痕跡は、漢民族以外の、デニソワ人の名残を受け継ぐとされる他の民族集団には全く存在しない。デニソワ人由来のゲノムの割合が5%と民族の中で最も高いメラネシア人にも、その痕跡はみられない。
アフリカを出たホモサピエンスのグループは、中国へ向かう途中でアジア中部を通過した際にデニソワ人と交配したとの説を論文は提唱している。
中国に移住したホモサピエンスのグループは、その後2つに分裂した。一つはチベットに移動し、もう一つは低地に残り今日の漢民族となった。
研究によると、種族間で交配を重ねた結果、チベット人の87%がEPAS1の貴重な変異を獲得するに至ったという。それに対し漢民族は、共通の祖先を持っているにもかかわらず、全体の9%しかこの変異を持っていない。
ちなみに日本人もこの変異はあまり持っていない。またチベット人には、男も女も漢民族に通じる染色体が混在している。
今現在の日本のDの移住経路の予測はどうなっているか?
これらDの分布状況などから、Dの移住ルートの推測(日本だけでなく他のDの移住ルートの推測も入る)は、おおまかに北方大陸横断説と南方海岸ルート説に分かれるが、決定的な過去の証拠は出てこない。
遺跡から学者さんたちは推測しているが、移住して遺跡を残すのはすべての人類であって日本人のDの祖先限定ではない。
世界のいろいろな方向で遺跡が見つかるのはむしろ普通で、遺跡人骨のDNAを分析して直接日本人の先祖たるDが出てこない限り、直接Dの先祖の移住ルートに結びつくものではないことに注意していただきたい。
まあそのうち大陸のどこかで決定的な遺跡人骨証拠が発見される可能性はあるから、楽しみに待ちましょう。
Dとは関係ないんだけど、だからこそマリタ人の話もここでするべきか。
北方ルート説の人たちは、1928年に発見された、このシベリアのマリタ遺跡の人骨に期待してたはずだよ。
NHKもやらかしてたし。
NHKスペシャル | 日本人 はるかな旅第1集マンモスハンター シベリアからの旅立ち
2013年に、NHKスペシャルにも出てきた、24000年前のシベリアのマリタの人骨を調べた結果、それは日本人の先祖ではなく、実は……
アメリカ先住民*3の先祖であり、しかもそのY染色体のハプログループがR*で、R1とR2に分化する前のものであり、さらに母系のミトコンドリアハプログループもUで、実はどちらもヨーロッパに多いが東アジアにほぼいない系統だった、という結果が待っていたのだ。
英語版wikipediaにも説明がある。こんな重要な話なのに日本語の記事がないが。
Mal'ta-Buret' culture#Relationship_to_American_Indians_and_Europeans
論文のデータも見たい?
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.nature.com%2Fnature%2Fjournal%2Fv505%2Fn7481%2Fextref%2Fnature12736-s1.pdf
日本人の祖先について、マリタ遺跡の存在を論拠にしていた説は、これで重要な論拠を無くしてしまったわけだ。(マリタ遺跡の発見が1928年で、かなり昔から知られていたことに注意。つまり間違っていた期間が長くて影響も大きいわけ)
だから、この事実がわかった2014年以前の日本の人類学に関する本や、言説には注意が必要となる、ということになってしまったわけだ。(それで崎谷さんのDNAでたどる日本人10万年の旅とかはもう古くてお薦めできず、それ以後に書かれた海部さんや篠田さんの本をお薦めするわけだ)
ただ少しフォローしておくと、実際にはあくまでも、アメリカ先住民となったヨーロッパに繋がるR系統の存在を証明しただけであって、必ずしもシベリアにおける東アジアに繋がる先祖の不在を証明したわけではない。マリタがたまたま東アジアに繋がる系統と無関係の場所であったとか、偶然とサンプルの少なさが生み出す問題もあり得なくはないわけだから。(私自身は、アジア人の先祖がモンゴルを通っていることが前提条件になってしまっている、根本的に駄目なネーミングである「モンゴロイド」は全く支持できないが、論理としてはそうなる)
ついでに、この事実はアメリカ大陸のRがベーリング海峡ルートで来た可能性を大きく高めている。ただしこちらも論理として、バスク人とかのケルト系海洋民族が大昔に大西洋を渡っていた可能性を否定する証拠とまではならないわけ。
北方大陸横断にもいくつかのルートがあり得る。
ヒマラヤの北を通って、大陸の北方まで行って九州から入ったり、北海道から入ったり、一旦は北に行くがヒマラヤの東からは中国南部に出て海から沖縄づたいで入るようなコースもあり得る。
今はチベットのDもヒマラヤの南を通って東からチベット高原に入ったという推測もあるが(チベットに西から入るコースは地形障壁が多く、アンダマン諸島のDを考えても、少なくともインド東部まで海岸コースが妥当か)、この場合でも日本のDはヒマラヤの東から一旦北上した(ちょうどNやOのように)というルートも考えられるわけである。
・・・
後期旧石器時代からいて、それ以後のすべての人類移動と人口増減の影響を受けているはずの日本固有のD1bが、これだけ多数しかも日本全体に満遍なく残っている、という状況こそが、過去の弥生人征服シナリオを否定し、新しい日本人成立のシナリオを要求するわけである。
この題材に興味のある人なら知っていそうだが、科学博物館にも「我々は、形態と遺伝子のデータに基づいて、旧石器時代から縄文〜弥生移行期まで日本列島住民の身体形質がいかに変化したか、という問題を再検討し、日本人形成過程の新シナリオを構築しようと試みました。」というページ(2010年だからマリタの事実発覚前)がある。
更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究
そして結局、「合意が得られなかった」という結果に達していたりするわけだ。
・・・
さて、縄文時代に日本にいて現代に子孫が残る人々はまだいる。
このD1bだけではないのだ。
次の「4−2.氷河期が終わるまでにやってきた人々2 C1」に進む /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fdigx.hatenablog.com%2Fentry%2Fj-origin4-2
縄文時代初頭かも知れないがひょっとするとD1bより古いかも知れない、C1a1(旧表記C1)の子孫も日本の男の約5%いる。
しかし5%と言っても人口換算すれば日本の男のほぼ三百万であり、これは充分に多いのだ。
・・・
どちらの土器文化もC2系統(旧C3。変異マーカーM-217。次回の主役)などが関係している可能性もある。さらに、既に大陸ではOも現れて分化して繁栄し始めていた。
彼らもまた、この土器文化の時期までに、というか、世界で最初の土器文化を携えて日本にやって来ていた可能性もあるのだ。(この土器文化こそが縄文時代の始まりの定義だったことを忘れてはいけない)
・・・実際の移住ルートは、前回触れたサイトの東南アジアに分散中心のある地図が近いと考えられる。氷河期なら東南アジアにもスンダランドが存在するわけだ。(このあたりの話はOなどを扱うときにしっかり触れるが、ちょうど下の地図のOの場所こそが栽培イネの起源地だったりもするわけ。作図の都合があるとはいえ、論文のコースは北に寄りすぎ。その代わり、長江沿いの最古の稲作遺跡彭頭山遺跡の近くに旧O2b(日本に多い現O1b2)と書いてあったりするが)
・・・
実はこのC1a1は、その系統樹上の位置づけと、その親類の分布状況から世界の注目を浴びている。
非常に古いがC1a1の近い親戚C1a2(旧表記C6)は、極めて少数だがヨーロッパ(Ray Banks先生によればイギリス・ハンガリー・ウクライナ・ギリシャ・スペイン・ポーランド。ここに記述はないがネパールにもいるとか)で見つかっていて、しかも7000年前の人骨「La Brana」(青い目に褐色の肌の狩猟民だそうな)も西の最果てスペイン(「(c)19-8kya」の地図のちょうどバスクの位置にR1bが書いてあるが、そのバスク系R1b居住地域より外側の、スペインがポルトガルの北側に飛び出してるあたり)で発掘されているのだ。
海外の掲示板 Is Haplogroup C6 in australoid ? found in La brana australoid(Eupedia)
La branaのC6ってオーストラリア原住民C4の親戚なん?→インドのC5にも見える→いや実は今はC1a2→これ日本の縄文人C1a1の親戚やで→マジで!?(超意訳)、という展開。旧ラベルの段階でこんな予測をした者はいなかっただろう。(ここまでの地図はこのヨーロッパの親戚C1a2を考慮していないから予想外っぷりも伺える。まあ、縄文人でもアイヌとは違う系統やでとツッコミ入れなきゃならんところ。実は結構昔から、どうも日本人はモンゴロイドっぽくなくてなんか違うと言われていた(この掲示板にも書かれてる)話はある。実際CやDは古い出アフリカ民直系で、最初はアジア人的特徴も持っていなかったと考えられる)
ここで、肌の色は人種系統に関する決定的な要素ではない。肌の色は、主に日照量に対する適応に左右される適応分布である。
なお、瞳や肌の色と関係する遺伝子は、X染色体を含む複数の染色体から発見されているが、Y染色体からは発見されておらず、つまり今のところY染色体は肌の色と直接の関係がない。ただし、赤毛遺伝子は16番染色体にあるがR1bの分布と関連性があるように見えるだとか、同じボート(肉体)にたまたま乗り合わせた同行者(異なる染色体)の間で生じるような、間接的関係性はあるようだ。(ちなみに赤毛も金髪もオーストラリア先住民やメラネシア人(たまたまどちらもC1系統)などにもいる)
このC1a系統は、ユーラシア大陸の両端という非常に極端な場所(つまり、まず最初期に拡がった集団だと予感させるシンボリックな場所)で見いだせる、遺跡で見つかった、起源も古い系統であり、しかもヨーロッパの現生の先住民集団である(滅んだネアンデルタールでなくクロマニョン)とも考えられるため、D1b以上に海外からの注目を集める存在なのである。
Eupediaのヨーロッパ古代史にもちゃんとC1a2は見えている。
Cの親類たちと分布
その他のハプログループCが、世界のどこに存在するか紹介しよう。
もう一つのC1系統であるC1b系統はみな日本の南方におり、C1b1(旧表記C5)は南アジア(インド)から東南アジア、C1b2a(旧表記C2)のニューギニア先住民・メラネシア人・ポリネシア人、そしてC1b2b(旧表記C4)が六割以上のオーストラリア先住民(アボリジニ)がいる。
オーストラリア最古の約45000年前の遺跡は、当然このオーストラリア先住民C1b2bのものだと考えられるわけで、このC1の親類たちはこぞって相当に古く、それもC1a1の古さを予測させるわけである。
なお、沖縄(最大海水位低下時でも海を渡らなければ絶対に到達できない場所にある)の港川人(約二万年前)の特徴は、Y染色体を調べたわけではないが「オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近い」(港川人(新型)|学芸員コラム|博物館|沖縄県立博物館・美術館)と説明されており、どうもこのC1系統と関係を持つ可能性がありそうだ。すると当然、実際にY染色体を分析することも求められる。(分析は難しいかも知れないが、どの系統が出ても面白い。海外ではガシガシ分析してるんだから)
次回の主役、現在のC2系統(旧表記C3。変異マーカーM-217)はC1系統と逆におよそ日本から北に多いが、しかし実はジャワ島やベトナムなどにもいる。C2a(ただし今はラベルを整理中)などがまた日本固有(この日本のC2は次回)、C2b1(C2でも北方系で、論文の地図だとC3-N)やC2c(南方系で変異マーカーF1067。ほぼ地図のC3-SだがこれはC2c1にあたり一段階違う*4)がツングース系およびその広い周辺(周囲への影響が大きいモンゴル人を含み、ジンギスカン遺伝子の異名も持つ。日本人にもアイヌにもいる)、C2b1a系統(細かく書けばC2b1a1a)はアメリカ大陸にも渡り一部のアメリカインディアンにも含まれ(割合の多い順で、タナナ・シャイアン・アパッチ・スーなど。人口順だとちょうどこの逆)、さらに南アメリカからアメリカインディアンと別のC2系統*5も発見されている。
次のZhong先生のCの拡散を語る論文では(ここまでの論文などと違い)比較的北での分岐を予測していたが、この論文の時点ではまだ東南アジアの情報が少なかった影響はありそうだ。(この論文は現C1a系統の日本とヨーロッパの予想外の関係がわかる前のものでもある。また、人口でなく比率で表示してしまう誤解要素も持っていることに注意)
このCは、世界の大陸を股に掛け、さらに海にまで進出しているわけだ。
その上にCは登場年代が古いということもあって、どうしても移住経路に謎のある人たちが多くなるわけである。何しろ、経路としては単純に見える人々でさえ、そんな古い時代にどうやって海や氷河などの障壁を乗り越えていったかという問題がつきまとうのだから。
また、古いために最初の移住者でもあり得ることは大きな話題要素となる。
しかもこのCは、ヨーロッパからアジア・オセアニアそしてアメリカ大陸まで世界中で、初期の移住者という人気の題材に絡んでいるわけだ。
そして、たまたまC系統が両方ともいる日本もまた確実にその世界全体に拡がる謎の一部となっており、それもあって日本の先史時代は注目されているのである。
特に中国などアジアではDまで含めて注目している。CとDは最初の現生東アジア人なのだ。(他に滅んだ化石人類もいるが)
・・・
*2:古い年代の南の4つのグラフは旧O1・O2a・O3(現O1a,O1b1a1a,O2)のみ調べられていて、グレー部分はそれ以外の何かに当たる(なお分析不可能は最初から計算に含んでいない)。直接名前に出したC,N,DはO以外で中国で多いもの上位三つだが、他にQやRなどの可能性もある。さらにOもすべて調べられているわけでなく、旧O2b(現O1b2。日本と韓国に多い)や現O1b1a2-CTS10887(これは旧O2*だが旧O2aでも旧O2bでもない。曹操の子孫とされる集団で出たらしきもの)も調べられていない。これら残りのOが大渓文化や長江河口部から出てくるかも非常に重要なところ。
Re: 〉[5894] O-M7とmt−M7a…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009453M.jpg
https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/5894
M168の変異に特徴づけられるSNPを持つ系統…
ハプログループDEの突然変異…二つの異なるグループに枝分かれ…
エチオピアからイスラエルに帰還した、見かけは黒人のユダヤ人もたくさんいるそうです。そもそも初めにDE系統があり、中東でD系統 E系統に分かれていったようです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkuhuu.info%2F2017%2F10%2F30%2Fyap%2F
ハプログループのDEの突然変異のYAP遺伝子
YAP系統は、二つの異なるグループに枝分かれします。
一つはハプログループのDで、アジアに見つかりM174という 突然変異マーカーに定義つけられています。もう一つはハプログループEで
主にアフリカや地中海地域に存在し、遺伝子マーカーM96を特徴としています。
イブ経由のDについて 女性だけに伝わるミトコンドリアイブです。mtDNA
【ハプログループD】
祖先系統:イブ→L1/L0→L2→L3→M→D
★YAP経由のDとの違いに注意!
およそ五万年前、中央アジアのステップ地帯で独立したもう一つのM集団は、 東アジアへと向かっていきました。ハプログループDの最初のメンバーになった人々は 東方へ移動し、子孫たちは最終的に両アメリカ大陸へ到着しました。
ハプログループC同様、Dもカスピ海とバイカル湖に挟まれた中央アジアの高原地帯に 住んでいました。
Dは典型的な東ユーラシア系統と見なされ、現在では東アジアの主要ハプログループとして mtDNA遺伝子プールの全体の約20パーセントを構成しています。
中央アジアの故郷から散開したDは北アジア人口の20パーセント以上に存在し、 東南アジアでは約17パーセントの頻度で見られます。
東ユーラシア全域における年代の古さと高い頻度から、この地域に初めて住みついた 人間が運んできた系統という見方が一般的です。
ハプログループDは、ユーラシア大陸を西に進むにつれて徐々に頻度を落としていきます。 中央アジア人の10〜20%はこのハプログループに属していますが 配列のまったく同じいくつかの系統を東アジア人と共有していることから、ごく最近の交流が示されます。
これらの系統は過去5000年以内、おそらくユーラシア大陸全域を結んだ 古代交易路シルクロードの時代に持ち込まれたのだろうと考えられます。
Dもまた北米大陸に渡り、南北アメリカ先住民に見られるmtDNA五系統のうちの一つとなりました。
Y染色体ハプログループCT系統
約7万年前の1人の男性に起きた、M168の変異に特徴づけられるSNPを持つ系統。かつては通称ユーラシアン・アダム(Eurasian Adam)と呼ばれ、近年はY染色体ノア(Y-chromosomal Noah)と呼ばれる系統。
Y染色体ノア /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FY
Y染色体ノア(Y-chromosomal Noah)のY染色体は、ハプログループCT(CT-M168)であると考えられている(注1)。
スラエルと米国の研究者を中心とする国際研究グループが、米学術専門誌『American Journal of Human Genetics』に発表した論文によると、東アフリカでは13万5,000年〜9万年前に激しい旱魃の被害にみまわれ、この旱魃の結果人口が減少、人数的に少ない集団に分離することを余儀なくされた人類は、約7万年前に一時、約2000人未満の集団にまで減少したと考えられる。その一方でこの系統の子孫は、絶滅の危機を乗り切って生き残り、ユーラシア大陸、オーストラリア大陸、南北アメリカ大陸へと伝播して人口拡大し、E系統の黒人、白人、アジア人の祖となり、現人類の繁栄の基礎を作った系統にあたる(注2)。
【人類は7万年前に絶滅寸前の状態に追い込まれれていた、国際研究グループ】 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkarapaia.com%2Farchives%2F51322325.html
7万年前に一時、約2000人未満の集団にまで減少したと考えられ、絶滅の危機をなんとか生き残った人類は再び集団を作り、他の大陸への移住を試みることで人口は拡大し、現在に至る繁栄の基礎を作ったと推測されたんだそうだ。
エフライム族 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FY
古代イスラエルの12支族の中の一部族であり、ヨセフ族から分かれた2部族(マナセ族、エフライム族)の内の1つであるエフライム族(Tribe of Ephraim)のY染色体は、ハプログループDとE系統の中間に属するハプログループDE(DE-M203)であると推定されている(注1)。これは、久保有政(Arimasa Kubo)らの説に基づく推定であり確定的ではない(注2)(注3)(注4)。
ハプログループDE(DE-M203)
ガド族
古代イスラエルの12支族の一部族であるガド族(Tribe of Gad)のY染色体は、ハプログループDとE系統の中間に属するハプログループDE(DE-M203)であると推定されている(注1)。これは、小谷部全一郎(Zenichiro Oyabe, 1868-1941)の説に基づく飛鳥昭雄(akio Asuka)らの推定であり確定的ではない(注2)(注3)。
Y染色体D系統 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffamousdna.wiki.fc2.com%2Fwiki%2FY
アフリカ大陸の北東部にいた古代(約6万8,500年前)のある一人の男性の遺伝子に起きたYAPと呼ばれる因子を持つ系統。この系統は、Y染色体上の長腕部「DYS287 Yq11」に、約300塩基からなるAlu配列(Alu sequence)の挿入多型を余分に持つことで知られる。
分子時計の推算によれば、ハプログループDE(D-Yap)から、さらにハプログループD(D-M174)へは、約6万5,200年前に分岐した系統である。
約6万5,200年前
スマトラ島でも73,000〜63,000年前の化石発見――続報:ヒトが初めてオーストラリアに到達したのは約65,000年前だった /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fdigx.hatenablog.com%2Fentry%2F2017%2F08%2F17%2F025901
約6万年前
ハプログループDは約6万年前、アフリカ、イラン、中央アジアにおいてハプログループDEから分岐し、内陸を通って東アジアへ向かったといわれています。約3万5000年前、中国大陸中部で誕生しました。アメリカ先住民の中で初めて見つかり、その後アジアの各所で発見されました。グループDが高頻度で見つかるのは、日本、チベット、ヤオ族、アンダマン諸島などで、グループ人口は数億人を超えています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fu-gene.jp%2Fcolumn%2Fhaplogroup-d%2F
ハプログループDEから分岐
約3万5000年前、中国大陸中部で誕生しました。アメリカ先住民の中で初めて見つかり、その後アジアの各所で発見されました。
約65,000年前
ハプログループDの子系統のうち、ハプログループD2はアフリカに留まり、ハプログループD1が出アフリカを果たした。 アフリカに留まり(又は出戻り)アフリカ大陸全土や一部は地中海地域やヨーロッパなどに父系を通じて広がった集団がハプログループEとハプログループD2であり、分岐後出アフリカを経て東方に向かい、チベット・アンダマン諸島・ヤオ族・フィリピンのマクタン島・グアム島・日本列島[5]などに父系を通じて広がったのがハプログループD1である。
またDEの子型でD系統にもE系統にも属さないパラグループDE*がシリア、チベット人、ナイジェリアなどの西アフリカでごくわずかに発見されている[6][7]。
E1b1b系統
ベルベル人に80-93%[7]と高頻度である。
U6はベルベル人を特徴づける型
13,000年前のスイスのクロマニョン人がハプログループU5b1h (mtDNA) に属すことがわかった [9]。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
東ヨーロッパ、中央アジア、西アジア、南アジア、北アフリカ、アフリカの角に広く分布する。 ヨーロッパ人の11%[4][5][6] 、インドではカーストの15%、指定部族の8%にみられる[4]。 特にU6はベルベル人を特徴づける型である[7]。 形質人類学でいうコーカソイドに広くみられるタイプであり、ハプログループI (Y染色体)、ハプログループJ (Y染色体)と対になる母系タイプと考えられる。
紀元前1000年紀のエジプトのアブシール遺跡から発掘されたミイラがハプログループUに属すことがわかった[8]。
2015年の遺伝子調査では、13,000年前のスイスのクロマニョン人がハプログループU5b1h (mtDNA) に属すことがわかった[9]。
ハプログループU
バイカル湖辺・マリタ遺跡古代人骨 (MA-1)
1928年、シベリアのバイカル湖辺のマクソホン村のマリタ遺跡で発見された24,000年前の古代人骨(MA-1)のミトコンドリアDNAは、ハプログループUである(注1)(注2)。これは、サンクトペテルスブルクのエルミタージュ美術館に保管されていた人骨(MA-1)から採取したサンプルを解析した結果によるものである。この結果に伴い、マリタ遺跡古代人骨(MA-1)は、現代のアメリカ大陸先住民と遺伝的には近縁で、東アジア人には類似していない領域があることが明らかとなった。
ミトコンドリアDNAハプログループU5系統
チェダー渓谷人(Cheddar Man)
イングランド最大の峡谷であるチェダー峡谷から出土した、約12,000年前の古代人骨・チェダー渓谷人(Cheddar Man)のミトコンドリアDNAは、ハプログループU5aである(注1)。
注1)"The Cheddar Man"(7MRU2)
クロマニョン人(Cro-Magnon man)
スイスで発見された約13,000年前のクロマニョン人(Cro-Magnon man)のミトコンドリアDNAは、ハプログループU5b1hである(注1)。これは、2015年に遺伝子解析した結果に基づく(注2)。クロマニョン人のY染色体はこちらを参照。
13,000年前
日本における旧石器時代(先土器時代とも言う)は、人々が日本列島に移住してきたころから、 約1万6000年前まで と考えられています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnihonshi-yururi.com%2Fnihonshi%2Fpalaeolithic
Re: ハプロの場合も、古けりゃ古いほど当然縁遠くなります。 y-D同士の場合、完全に縁が切れてから気の遠くなる年月が流れています。 一方、O-M133は語族形成期にもマッチするんです。 チベット人と日本人のO-M133は「真正に連関」します。
> 一方、O-M133は語族形成期にもマッチするんです。
> チベット人と日本人のO-M133は「真正に連関」します。
>
> まあ、「日本=チベット・ビルマ語族」の形成はその前、O-M117の時でしょうネ。
> 1万年ほど前。現在、O-M117の直近のサブグループはO-M133しか残っていません。
>
> DNA人類学と言語学によって拓かれた、"東アジアの西端と東端の稀有な再会"です。
> いえ、アッラーフが開くことを許可したからこそですね!!!歓びましょう!
古西戎人O-M133
・O-F438=太公望(姜姓羌人)、北羌、犬戎
・O-CTS9678=周族、秦人、客家
・O-CTS4658=羌族、現代チベット・ビルマ
Re: 分岐してから「5万年w」。そこまで行くと、「我々y-CF」ではy-Fのレベル。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外!w
秦野北斗さんへのお返事です。
> これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
>
> AI君、前にも言ったね、700年ぐらいの歴史なの、ハプログループには痕跡は難しいのだな、
>
あ、チベットのy-D2(D1a)が日本人のD1(D1b)と同じだと15年間考え違いしてた人だ!w え〜、やっだー、信じられな〜い!馬鹿だよね?
デキナイくせに学者はバカだぁしか言えない、人生の敗北者。
ただの学歴コンプ、馬鹿でしょ?
700年?
なんだそりゃ。また勝手解釈か。老眼鏡買い替えた方がいいんjyねーかw
いや、視界の問題じゃない。認識能力に障害が出てる。
Re: 分岐してから「5万年w」。そこまで行くと、「我々y-CF」ではy-Fのレベル。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外!w
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009457M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0009457_2M.jpg
大阪トホホ秦野ボケ老人へのお返事です。
> これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
>
> AI君、前にも言ったね、700年ぐらいの歴史なの、ハプログループには痕跡は難しいのだな、
>
ふぅん、ならゲノムには痕跡あるのかぇ?w
言語には?全くないね。
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気の遠くなる昔にy-Dの実体は死んでる。その亡霊と語り合ってるボケ老人が2人。秦野とキシw
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イタコかおのれらは!w
しかし!!!
4万5000年前の西シベリアの古人骨ウスチ・イシム人(y-NO*/K2a*)と現代の東アジア人とシベリア人はゲノムの38%を共有してる。北京の古人骨・田園洞人(4万年前)とも。
そして現代人で最もウスチさんに近いのはO-M117のチベット人なのだよ。
連関ある。
********************************
y-NO人は我々の中に生きている!!!w
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他方...
y-Dなんてものは実体なき幽霊に過ぎない。
分岐して5万年以上経ってる昔のものを恰も実在・現存しているかのように話すのが、
お前ら低能トンデモボケ老人! 秦野とキシw
おいおい、いくらなんでもいい加減気付けよ…日本人として情けない。
図:ウスチ・イシム人と青海チベット族
Re: 分岐してから「5万年w」。そこまで行くと、「我々y-CF」ではy-Fのレベル。ユーラシア人(アジア人、ヨーロッパ人)、米大陸先住民、みな兄弟!、輪になって踊れってね、y-D以外!w
大阪トホホ秦野ボケ老人へのお返事です。
(新表記にボケ老人は付いてけないだろうから旧表記で行くよ。)
ハプロの「通り道」にまでいちいち「領域権原」みたいなものを主張してたらだよ、
「y-NO人」は西シベリアや東欧を主張しなきゃならんのだよw
y-Rならバイカル地域とかな。
もちろん、そんな戯けたこと誰も言わんだろ?w
それにだな、
****************************
そもそも、y-Dの中でもマージナルな旧D1(D1b)は、大陸すら通ってないんだよ。あり得ても華南かすった程度。それすらも現時点で主張する根拠がない。沿岸オンリー、その沿岸は水没しているの。
******
恥ずかしげもなくバカ言うのが、お前ら低能トンデモボケ老人なんだよ。
いいかい、
わずかに「縄文ゲノム」を共有するのは、以下の半島と沿岸地域、東アジアの島しょ部にしかいないんだ。
・古東南アジアの狩猟採集民の古人骨
・ネグリートがいるフィリピン
・ネグリートがかって住んでいたと言われる台湾
・縄文人と交易し、また戦時中日本に領だった韓国の南端
・ウリチ人。
アイヌを除けば沖縄で最大の縄文ゲノム。古東南アジアから沖縄までの道がくっきり浮かび上がる。そんなことお前ら以外には常識。
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