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歴史掲示板
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日下部氏
先の九州オフ会で、日田市刄連(ゆきい)町の法恩寺山古墳群に向かいました。
ここは、日下部氏との関わりが指摘されています。
『 豊後国風土記 』日田郡 靭編(ゆきあみ)郷の条に、 日下部君の祖である 邑阿自(おうあじ) がこの村に宅を構えたとあります。
その辺の詳細はこちら参照。
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n663.htm
この古墳群には装飾壁画をもつものもあります。
http://www.hita.ne.jp/~city/isn/hoon2.htm
日下部氏の詳細。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kusakabe.htm
日下部氏と当地の装飾古墳がどうつながっていくのか?
そこが課題ですが、ご意見お待ちしています。
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日下部氏
日下部氏
起源にはいくつかの説がある。
開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)
孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)
狭穂彦王(さほひこのみこ、生年不詳 - 垂仁天皇5年(紀元前24年)10月没)とは、記紀における皇族(王族)。『日本書紀』では狭穂彦王、『古事記』では沙本毘古王。彦坐王の子で、開化天皇の孫に当たる。日下部連・甲斐国造の祖。母は春日建国勝戸売の娘、沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)。同母の兄弟に葛野別・近淡海蚊野別の祖袁邪本王、若狭耳別の祖室毘古王、垂仁天皇皇后狭穂姫命がいる。ウィキペディア
彦坐王(ひこいますのみこ、生没年不詳)は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。彦坐命、日子坐王、彦今簀命とも。開化天皇の第3皇子。母は姥津命の妹・姥津媛命(ははつひめのみこと)。崇神天皇の異母弟、景行天皇の曾祖父。神功皇后の高祖父にあたる。
ウィキペディア
三角縁神獣鏡:開化天皇の孫は卑弥呼とその弟になる。卑弥呼(170年頃 - 248年頃)
『新唐書』日本伝:開化天皇の曾孫は神功皇后(じんぐうこうごう)、(170年-269年)
日下部氏は開化天皇とは考えずらい。それより、彦坐王、日子坐王、日子、ヒルコ(水蛭子、蛭子神、蛭子命)えびす(ゑびす)夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須に当たると思われる。
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ヒコ・クサカ
秦野さん、こんにちは。さっそく日下部についてご意見ありがとうございます。
日下部で「クサカベ」と読みますが、もとはそうすると「ヒコ+ベ(部民)」ということになりそうですね。沙本毘古王。彦坐王、日子坐王・・、確かに「ヒコ」が強調されているように感じます。
仁徳天皇の大草香・若草香王の部民との説もありますが、こちらは「クサカ」の読みに変化していて、クサカという地名なり氏族のもとで育った皇子、という感じもします。
あと雄略天皇の時の日下部連使主の記事が、比較的信憑性があるように感じます。この反乱伝承と、垂仁の時の伝承が類似性を持っていることを考えると、後者から、前者の伝承が派生したのではないかと感じます。
おそらく宮中・地方等の相違で伝承、天皇の代は異なるものの、実は同じものという具合ですね。
ヒコと呼ばせて、また別のところではクサカと呼ばれた。それぞれ話す言葉が違うとかいう線もないでしょうか。時代によるかもしれません。
隅田八幡鏡の銘文で
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」
男弟王がいわゆるヲヲド王で継体なのですが、継体の父親が彦主人王と言うんですね。継体自身も袁本杼命・男大迹王・彦太尊と言うらしいのですが、
その「日十大王年」とあるのも、「ヒコ大王」の年と読めれば、「日十」「彦」「ヒコ」という連関が出てくると思うんです。
だから「日下」とかいて、「ヒコ・ヒカ」と読ませた可能性があって、継体のころの読みの話で、欽明の時代になって朝廷で使えはじめたという線になるでしょうか。
オキナガ・ワニは新漢人と極めて関わるの深い系統で、滋賀・吉備・そして九州日田・八女方面へと流れた、その辺の話ではないかと感じます。
それで白鳳時代になると草壁王、草香部キシとかいう氏族が出てくるのですが、日下の読みを、和風に変えている、避けている、忌んでいる・・・という線で、仁徳紀のあたりに、草香・・が代替えされて記載されていく・・。
ヒコと、後代のクサカは、宮中でも使う言語が変ってきたことを示すのかもしれません。
もちろん、この辺は推論にすぎませんが、勘としてそんなことを考えてみました。
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継体天皇
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000005M.jpg
継体天皇
秦野著作、徐福と邪馬台国で韓半島の地図を読み取り。越の特定、地図添付
越は韓半島南部越国(倭奴国)、(モッポ)
『日本書紀』では、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
上記文章から韓半島南部に越(倭奴国)になる。その名は出雲風土記、国引き神話にも登場する。越前地方(近江地方説もある)でなく、韓半島南部越国(モッポ)
注、『日本書紀』の解釈に間違いが多く、地名は韓半島南部に存在する。しかし、総て日本の地名を当てはめている。韓半島南部の筑紫は白村江のキーポイントになるが、九州の筑紫になっている。
『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀』では省略されており、辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。『上宮記』逸文は近年、黛弘道の研究によって推古朝の遺文である可能性も指摘され、その内容の信憑性や実際の血統については前述の通り議論が分かれているものの原帝紀の編纂(欽明朝か)と同じ頃に系譜伝承が成立したものと思われる。
『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため大連(おおむらじ)・大伴金村らは越前に赴いて、武烈天皇とは血縁の薄い男大迹王をヤマト王権の大王に推戴した。これを承諾した王は、翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。
ウィキペディア
彦主人王に接近したい。
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