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欠陥コピペ王

24資料管理請負人:2014/10/03(金) 16:31:39
目取間俊の世界(おきなわ)―歴史・記憶・物語―
◆東京大学女子院生が書いた書評をパクル。実にさもしい。いい年の男子が恥ずかしくな
 いのだろうか。
◆大王にとって書きたいことは本の紹介ではなく、前書きの部分にあるとしか思えない。
??「僕の友達の紹介」「僕にはこんなにたくさんいい友人がいます」「僕はたくさん本を
  読みました」等々。



<抜粋>
茶:コピペ箇所 青:底本  緑:底本著者

コピペ作品 (コピペルナー検出 2014/6/22)

5月の本?? 2012年 5月29日(火)23時13分
 3年ぐらい前だったか、私達の同期生である旅人(武藤)さん、おーちゃん(田村さん)、佐賀で反原発の運動をやっている牟田洋子さんの3人がニュージランドの風光明媚なハイキングコースを1週間に渡って歩き、その旅の模様を聞いたことがある。
(中略)
 さて今月に紹介したい本は、昨年12月に発刊されたそのスーザン・ブーテレイさんの著書である。渡辺さんが友人のよしみで沢山購入されたのだろうか、私やおーちゃんにも彼女のこの著書が送られてきた。
 この本のタイトルは『目取間俊の世界』。
 沖縄在住の作家・目取間俊については私も少なからず関心がある。私のファイルを探っていたらこの掲示板で2008年に「5月の本」として目取間俊著の「虹の鳥」という小説を紹介している。

 1960年生まれ。県内の高校教師をしながら文筆活動し、作品「水滴」で第117回芥川賞を受賞。以前にも書いたが、私が注目したのは彼の作家活動ではなく、オピニオンリーダーとして新聞や雑誌で、反時代的批評を熱く鋭く語っていることによる。特に地元沖縄の不条理を沖縄人の目線から告発する舌鋒は極めて厳しく理にかなったものだ。

 目取間俊の世界(おきなわ)―歴史・記憶・物語―
                       スーザン・ブーテレイ 著(影書房)

 本書は四つの章から構成されている。
?  第一章は作家・目取間俊およびその作品を紹介し、作品を通底するテーマを探り、目取間俊の作品における戦争の捉え方と語り方の特徴を概説する。

?  第二章は1997年に発表され、九州芸術祭文学賞、芥川賞を受賞した目取間の代表作の一つである「水滴」を取り上げ、テーマ、表現方法、ストーリーの紡ぎ方、登場人物の役割など、多様な角度から綿密な分析を行い、さらにジェンダーの視点を取り入れることにこの作品をめぐる従来の読みに見られなかった新しい視点を提示している。

 第三章 (略)*編集部
 第四章 (略)
 第五章 「結論」として、作家・目取間俊が沖縄戦をめぐる従来のディスクールに大      いなる疑問を提出し、(略)

?  私が本書を読んで共鳴したのは、目取真俊が自分の作品で「個別体験」に焦点化していることを力説していることだ。「個別体験」を読むことを通して読者は戦争体験の聞き手の位置に置かれ、体験の分有へと誘われていく。「戦争の集合的な記憶」から排除されてきた「個別体験」、すなわち言語化できない/されていない体験に光が当てられることで、「戦争の集合的な記憶」に亀裂が生じるプロセスが示されているのは、本書の大きな魅力の一つである。
 ことに興味深いのは、「風音」を取り上げた第三章である。「風音」の主人公清吉は、沖縄戦の最中、父とともに特攻隊員の遺体を風葬場に運ぶ。遺体の傍にあった万年筆に惹かれ、再び風葬場に足を運んだ清吉は、蟹に食い荒らされる遺体を見てしまう。それ以来、清吉は特攻隊員の頭蓋骨が風音を鳴り響かせる村で、死者を汚してしまったという思いに囚われ続けている。「風音」に描かれているのは、頭蓋骨を抜ける風の音、聞き取ることのできなかった呟きなど、言葉としての意味をなさないまま、「音」として聴覚に刻まれた出来事の残滓に囚われる当事者の姿である。著者は「風音」という作品自体が出来事や行為に断定的な意味が付与されることを拒む構造を持っており、それゆえに「常に空白の謎に向かって問い続けるしかない場に読者は立たされる」と指摘する。その上で豊かな解釈を広げていく著者は、常に語りきれない残余を含み込む戦争の記憶を、体験を、非当事者がいかに想像し、分有していくかという可能性にかける一つの試みを実践していると言えるだろう。

 しかし、それにしても(書評とは別に)すごく感心したことは、外国人でありながら書かれている単語や言葉の豊富な使用、日本的表現力の卓抜さ、日本人的な解釈や理解の秀逸さである。そんじょそこらの日本人の評論家や作家を凌駕するほどの日本語に通じておられる。            また参考文献として挙げられている本の多さ、沖縄戦や沖縄の歴史、沖縄に関する文学者の小説や評論など、何年の間にこれだけ読破されたのだろうかと思ったものだ。

?本書が目取真俊の作品世界をより深く味わうための重要な手引きとなることは疑いようがない。同時に沖縄の色々な問題や課題を考えるとき、大事な示唆と教訓を与えてもくれる。 ぜひ手にとってもらいたい一冊である。




コピペ元 (コピペルナー検出 2014/6/22)
http://www.kageshobo.co.jp/main/books/medorumashunnookinawa.html

●『出版ニュース』 2012.2中
? 現代沖縄文学を代表する作家・目取真俊の作品世界を紹介しながら、
作品を通底するテーマを探り、戦争の捉え方と語り方の特徴を概説。ここではまず、1997?年に発表された芥川賞を受賞した代表作『水滴』を取り上げ、テーマや表現方法から登場人物の役割まで、多様な角度から分析。さらに、新たな戦争の記憶の語り方を模索した作品として注目された『風音』や、もう一つの代表作と言われる『魂込め(まぶいぐみ)』をめぐる新解釈を提示する。いずれも、戦争体験者ですら忘れかけている記憶を掘り起こすことを通じて、「琉球処分」以降の、日本と沖縄の関係性を浮き彫りにして、歴史そのものを問う。」


●「沖縄オルタナティブメディア」
http://www.kageshobo.co.jp/main/books/medorumashunnookinawa.html
書評 2012.2.18
       評者=村上陽子(東京大学大学院生)

 本書で取り上げられている目取真俊の「水滴」、「風音」、「魂込め(まぶいぐみ)」は、どれも沖縄戦に深く関わる作品である。沖縄戦というすさまじい暴力にさらされた体験が、身体を媒介として回帰し、現前する。目取真俊の作品を読むとは、その作品世界に生きる者たちの身体感覚に共振し、到来する出来事の内部に投げ込まれることにほかならないのではないかと思われる。

?本書の著者もまた、これらの作品で目取真俊が「個別体験」に焦点化していることを重視している。「個別体験」を読むことを通して読者は戦争体験の聞き手の位置に置かれ、体験の分有へと誘われていく。「戦争の集合的な記憶」から排除されてきた「個別体験」、すなわち言語化できない/されていない体験に光が当てられることで、「戦争の集合的な記憶」に亀裂が生じるプロセスが示されているのは、本書の大きな魅力の一つである。

 ことに興味深いのは、「風音」を取り上げた第三章である。「風音」の主人公清吉は、沖縄戦の最中、父とともに特攻隊員の遺体を風葬場に運ぶ。遺体の傍にあった万年筆に惹かれ、再び風葬場に足を運んだ清吉は、蟹に食い荒らされる遺体を見てしまう。それ以来、清吉は特攻隊員の頭蓋骨が風音を鳴り響かせる村で、死者を汚してしまったという思いに囚われ続けている。「風音」に描かれているのは、頭蓋骨を抜ける風の音、聞き取ることのできなかった呟きなど、言葉としての意味をなさないまま、「音」として聴覚に刻まれた出来事の残滓に囚われる当事者の姿である。著者は「風音」という作品自体が出来事や行為に断定的な意味が付与されることを拒む構造を持っており、それゆえに「常に空白の謎に向かって問い続けるしかない場に読者は立たされる」と指摘する。その上で豊かな解釈を広げていく著者は、常に語りきれない残余を含み込む戦争の記憶を、体験を、非当事者がいかに想像し、分有していくかという可能性にかける一つの試みを実践していると言えるだろう。
 だが、「沖縄人のアイデンティティー」を土着的な文化に求める点、沖縄の文化の担い手としての「女性」像が批判的に検証されていない点には物足りない感覚を覚える。類型的な語りに亀裂を生じさせるスリリングな読みは、戦争のそれに対してだけではなく、文化的・ジェンダー的な語りに対してもなされる余地があるだろう。
? とはいえ、本書が目取真俊の作品世界をより深く味わうための重要な手引きとなることは疑いようがない。ぜひ手にとってもらいたい一冊である。




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