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:2014/02/26(水) 23:33:28
転々流々
.
転々流々
いままで私はずいぶんあちこちと転居してきた。それが趣味でもなければ、マニアッ
クな記録に挑戦した訳でもない。風の吹くまま気の向くまま、結果として人より多かっ
たまでである。それは長じてからはその原因が様々な仕事にやむなく就かざるを得なか
ったからではなく、単に住居を点々としただけで一度も職業を変えたことはない。まし
てや孟母三遷などといったよい環境と未来のためにといった高邁な目的があった訳でも
さらさらない。
樋口一葉は24年という短い人生の間に、15回もの引っ越しをしている。 平均すれば
2年に1回となるが、彼女の生活の困難さがそうさせたようだ。その15回の引っ越しの
内訳は千代田区、港区、文京区、台東区といった、ほとんど東京の中心部に近い範囲で
ある。私はその点もう少し広い範囲で暮らした。
葛飾北斎は卒寿(90歳)で昇天、改号すること30回、転居すること93回とされ、その
多さもまた有名である。1日に3回引っ越したこともあるという。これは、彼自身と、絵
を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからであ
る。料理は買ってきたり、もらったりして自分では作らなかった。居酒屋のとなりに住
んだときは、3食とも店からデリバリーさせていた。だから家に食器一つなく、器に移
し替えることもない。包装の竹皮や箱のまま食べては、ごみをそのまま放置した。土瓶
と茶碗2、3はもっていたが、自分で茶を入れない。一般に入れるべきとされた女性であ
る娘のお栄(葛飾応為)も入れない。 客があると隣の小僧を呼び出し、土瓶を渡して
「茶」とだけいい、小僧に入れさせて客に出した。といった具合で北斎は絵を描くこと
一筋で、相当の奇人・変人だったらしい。
私も学生時代は身の回りの荷物は少なく、数冊の本を小脇に抱え布団は簀巻きにして
紐をつけたすき掛けに背負い、山手線や私鉄沿線を走り回っていた。そのようにおそら
く北斎も家財道具もほとんど持たない身軽さで江戸の町を放浪していたのだろう。
私自身は今まで28回という転居をかなり多いと心の中で得意になっていたが、北斎に
は負ける。たとえ私が90歳まで、すなわち後20年生きるとして、どんなに努力してもせ
いぜい40回がいいところで、もし樋口一葉が長生きしたとしたら、彼女の50回にも超さ
れそうだし、とても北斎の93回には届きそうもない。私も1年間に5回の転居をしたこと
があるが、これもまた北斎の1日に3回引っ越しには脱帽するのである。世の中にはとて
つもない記録保持者がいるものだ。だからといって葛飾北斎の93を記録更新のためには、
私の2年半に一回の引っ越し係数でいけば2.5×94=235歳になるまで生きなければなら
ない。いくら長寿が尊ばれてもごめん被りたい。
そんな転居好きの私でも、間違えて或いはぼんやり考え事をしていて、前の住まいに
うっかり戻りそうだがそんなことは今まで一度もなかった。転居するということが私に
とって、過去を清算したいためなのかそれとも未来に夢を託すためなのか、はっきりと
意識したことはない。そのどちらも時によってあるだろうが、しかし一度そこを離れた
ら何が何でも前に向かって進むという心境になることは確かで、長きに渡ってそんな生
活をしていると、あまり過去には振り返らない性格に出来上がってしまったようだ。昔
住んだところを懐かしむ感情は全くないとは言えないが、そんな恋々といつまでも執着
することはない。長年のそんな習慣が帰属意識をも薄くするのだろうか。それともあま
りにもあちこち引っ越すものだから、故郷というものがどこなのか判然としないためな
のだろうか。
学校を卒業してすぐは長崎の会社に就職した。そこでは4年間で3回転居した。その後
首都圏に住まうようになった最初の住居は、横浜の保土ヶ谷区にあった会社の社宅であ
った。それからすぐに近くの戸塚のアパートへ引っ越した。そして六本木にあった会社
への通勤を楽にするために、一年もせずに大田区の田園調布本町へと移った。その3年
後会社を辞めて独立し、小岩に移った。そして江東区の東陽町へ。バブル崩壊で東京の
事務所や住宅を処分して郷里へ、半年後また上京文京区本郷へ転居現在に至る。暇に任
せてその軌跡を追うと、左巻きの螺旋となり今に江戸城に入城しかねない。
そうだ本籍は日本のどこでも登録できるらしいから、 東京都千代田区千代田1番1号
(皇居)(郵便番号は100-0001)に、斃る前に一度移してみたいと考えている。
註:樋口一葉および葛飾北斎における資料はWikipedia による
斜光16号
3
:
α編集部
:2014/02/27(木) 20:25:12
本音と建前の狭間で
.
本音と建前の狭間で
山路を登りながら、かう考えた。
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい。
これは明治39年夏目漱石著の「草枕」の冒頭に出てくる有名な文章である。
人々はその昔より思ったことを率直に吐露すべきか、世間の習慣や常識や相手
の立場を考えて自分の意思を控えるべきか、という判断の狭間で随分割り切れ
ぬ思いを抱きながら世の中を渡らねばならなかったと見える。
書物や学説から得た知識や理屈で押し通し、相手を言い負かすとすれば角が
立つし、また情に共感すれば思わぬ方向へ押し流され抜き差しならない関係で
喘ぐことになる。理屈にあわず情にもほだされず自分の意地や虚勢を張り通す
と、途中で自分の非を認めたり正しい考えに方向を修正するという自由を自ら
の手で縛ってしまうことになる。兎に角人と人との関係は微妙で気を使うし窮
屈で難しいと嘆いているのである。そこに人々は立場立場によって本音を求め
たり、建前に分があったりすることに気付くのであるが・・・。
交通量の多い交差点では赤信号は守った方が安全で、建前という遵法の精神
を満足させるものであるが、人も車もめったに見かけないひなびた田舎道で何
かの故障で青に変わらない赤信号の交差点ではそう単純ではなかろう。馬鹿正
直に延々と待つか、交通法規を無視し周りを確認して渡るか。このことは心の
中で本音と建前の狭間で葛藤をよぎなくされることではあるが、そのような極
端な例や判
断に窮しない単純な問題では普通の生活の知恵で考えれば答えは自ずと決まる
し、頑なに建前を守るほど重要な問題でもない。しかし、抜き差しならない問
題では本音と建前の関係の判断基準が時代や場所や文化の違いでどのようにも
変化する故に却って厄介である。
では本音とは何か、建前とは何か。本音とは率直に表に現すことのできない
事情の中での、 「実は本当の自分の考えはこうなんだ、こうしたいのだ。」
という秘めたる思いで、赤提灯で焼酎を呷りながら同僚に愚痴る情景が似つか
わしく、むしろ常識や世間の慣例、規則などという建前に対立するものが多い
のではないかと思われ、「物事はそのような正論で解決できるほど単純ではな
いし、人の心をそのような一刀両断のやり方で割り切られるのはご免被りたい
」と反発したくなるのである。
法には「自然法」と「法定法」の二種類がある。それ自体が反社会的、反道
徳的である犯罪になるもの、強姦、強盗、放火、殺人など人の根源に関する犯
罪を対象とするものが「自然法」であり、その対をなすものとして最大多数の
最大幸福的な決まり、即ち多数の人々の利益を守るための秩序を目的とした規
則で、それ自体は反社会的、反道徳的という価値の基準の対象ではない「法定
法」である。
民法第210条の「袋地所有者の囲繞地通行権」である―或土地カ他ノ土地ニ
囲繞セラレテ公路ニ通セサルトキハ其土地所有者ハ公路ニ至ル為ニ囲繞地ヲ通
行スルコトヲ得―や第233条の「竹木の剪除載取権」―隣地ノ竹木根カ彊界
線ヲ踰ユルトキハ其竹木ノ所有者ヲシテ其枝ヲ剪除セシムルコトヲ得―や第2
34条の「境界線附近の建築制限」の―建物ヲ築造スルニハ彊界線ヨリ五十セ
ンチメートル以上ノ距離ヲ存スルコトヲ要ス、又第236条の「前二条に関す
る慣習」―前二条ノ規定ニ異ナリタル慣習アルトキハ其慣習ニ従フ―などは例
えその数値や定めが違ったものであっても一向にかまわず、それ自体が生命や
活き方に決定的な意味を含んでいるものではなく、ただ何らかの決まりがある
ほうが問題を解決しやすいからであろう。
そのように普通使われる建前という言葉のなかには、その「法定法」に規定さ
れる、交通法規、民法上の問題はいうまでも無いが、もっと軽微な公序良俗的
な判断分野、慣例や常識、掟、エチケットなどの社会生活上身の回りに発生す
る諸々の状況のなかで生じる過半数が納得する一般的な考え方を指すのではあ
るまいか。個人が本音か建前かの葛藤を覚えるのはこのような立場においてで
あろう。
これらの規範はほとんどが個人の良識に託された価値判断で、普通の場合は何
事もなく受け入れられるが、個人的に特殊な場合はその価値基準は実情に合わ
ず、その人に不満足な感覚を残してしまうのである。「規則は少ないがドイツ
人はよくそれを守り、沢山作るフランス人はそれを守らない」と国民性の違い
を面白く揶揄した小話でよく聞くが、ドイツ人は建前の世界が合っているのか、
フランス人は本音でしか物事を考えないのか。兎に角どちらにも徹し切れない
人々は後ろめたさの感情のなかで時々信号無視、花盗、無賃乗車など些細な違
反をするのだが、まともに罰せられたという話はあまり聞かないし、人格を全
面的に否定されるほどのこともない。しかし現代もなお人々は日々の生活にお
いて真っ向から本音を表明することに躊躇せざるをえないことが多すぎて、勢
い建前の世界の包囲のなかで己の真の意思を引っ込めざるをえなかった屈辱と
束縛とに苦悩するのである。またそれだけに建前の世界は安易に体制を守るた
めだけの論理となりやすく、庶民生活のなかで変化する価値基準に追いつけず
必ずしもその全部が庶民の利便を代表するものではない状態が生じることとな
り、なんとも窮屈で実情に合わない規制が多すぎると感じるのである。本音と
はその閉塞感を打ち破るための個人の密かな反撃と秘めたる藻掻きに似ていて、
建前との間で終わることのない戦いに悩まされることになる。
数年前の歳の暮れに我がマンションの目の前の公園に「巾60?高さ15?の
下水道の工事基地を造りシールド工事を始めるように決定しましたので協力く
ださい」と東京都の下水道局の課長以下施工業者共々藪から棒に挨拶に来た。
我々住民はあまりの予期せぬ出来事に判断に窮するなか、このような決定が住
民の知らないところでなされてよいものか、またその工事の内容や期間、当マ
ンションの住民に対する影響はどのようなものか等の調査や考察がなされてい
るかの疑問を提示した。日時を替えて説明会を開催するように要求してその日
は引き取ってもらった訳だが、この事件が住民の要望(本音)と行政の方針建
前)との熱き戦いの始まりで2年の長きに渡るとは誰も予想しなかった。
説明会に提示された工事の資料は、法律、手続き、「住民のための施設」と
いう錦の御旗などの建前も十分揃っていて何の支障を来すものではなかった。
しかしその内容は我々の生活環境に与える影響を無視した非常識な計画であっ
たのである。工事による騒音や粉塵、振動、通行等の沢山の問題点があったな
かで、誰が考えても受忍の限度を遥かに越えていたのは日影問題であった。当
マンションの南面バルコニーの5?先に 15?に及ぶ5階建てに等しい高さの
建物の工事基地を建設し、その期間は5年という乱暴な計画であった。この条
件でビルを建てると通常は日影規制に抵触し違法の建築物になるのだがと疑問
に思い、難解で悪名高い建築基準法を紐解いて見た。法85条4項に「特定行
政庁は、仮設興行場、博覧会建築物、仮設店舗その他これらに類する仮設建築
物について安全上、防火上及び衛生上支障がないと認められる場合においては、
年以内の期間(建築物の工事を施工するための工事期間中当該従前の建築に
替えて必要となる仮設店舗その他の仮設建築物については、特定行政庁が当該
工事の施工上必要と認める期間)を定めてその建築を許可することができる。
この場合においては、第21条第1項及び第2項、第12条から第72条まで、
第13条、第34条第3項、第35条の2並びに第35条の3の規定並びに第
3章(第6節を除く)の規定は、適用しない」と有った。建築の専門家でさえ
半日かけなければ解読できない代物で、まして一般の人が理解することにおい
ては絶望的な文章である。ここまで真面目に読んでくれた読者にはその努力に
敬意を惜しまないが、いかに我々が日ごろこの建前を代表する法律の悪文に悩
まされているか、お分かりであろう。早い話が「工事用の仮設建築物は基本的
な建築基準法の規制を免除し、たとえ民家が数年におよんで日が全く射さない
状況に陥ろうとかまわない」という緩和規定である。だから我々住民の希望な
ど正当性がなく、多くの人達の幸せのためなら少々の忍従は止むを得ないとい
う意図が見え隠れしていた。この役所対住民のぶつかり合いは正に建前と本音
のぶつかりあいで、なかなか同じ土俵の上で正面からお互いにハッシと受け止
めて立ち会う状況に至らなかった。住民の要求する資料や結論がスムーズに提
出されず、いたずらに建前論を説明することで時間を浪費したのである。これ
が民間のプロジェクトであれば年の歳月が十分の一で解決したであろう。国
民から絶え間無く供給される税をもとに成立つ公的事業と違い、採算を第一と
する民間の事業者としては短期間のうちに解決出来なければ会社の存亡に関わ
る事態になるであろう。それゆえ、問題が生じると正に本音と本音のぶつかり
合いで、迅速にかつ真剣に問題解決に取り組み、住民も休めないくらい事情説
明のための説得攻勢をかけられたと思う。役所との永きに渡る折衝の結果、幸
いにも我々の希望にそった結論を得、工事上の監視と住民の要望の調整を取り
持つ機関である「下水道対策委員会」なるものを設置し、最初の接触から工事
完成まで7年という長い役目となったのである。
そして草の根運動を通して得たものは 「住民運動には『女、子供』を含めた
種々雑多な能力を集めることが成功の秘訣である」と悟ったことである。差別
の謗りを免れないこの表現の「女、子供」の強さは、建前の社会で飼育された
男性達の、相手方による「建前論」に感服すれば簡単に説き伏せられるという
弱点を補うことに十分に力を発揮したことである。建前の前に危うく陥落しそ
うになった男共を尻目に、一度は納得しても次の日には「やっぱりその論理に
は納得できない。白紙に戻すことを要求する」となかなかの粘り腰で、容易に
白旗をあげることはなかったものである。論に強い者は論に弱く、情に強い者
は情に脆い。
さてそこで我が身の周りを眺めまわすと二通りの困った人達がいるのに最近
気付いた。一つは建前の世界に染まった人、もう一つは本音だけで勝負する人
である。公的社会活動のような場合には建前が正面に出てくることは止むを得
ないことではあるが、私的な付き合いのなかでも腹を割った話に参加すること
なく建前論しか表明できない人達がいる。彼らとの付き合いの難しさ、もどか
しさは議論がなかなか噛み合わず現実の解決すべき問題の議論が前に進まない
ことである。彼等は会社や役所での長い勤めにおいて、建前の論理のなかに埋
没する毎日で、知らず知らずのうちに本音の声が聞こえないように努力し又本
音を心の片隅に押し込める努力を余儀なくするうちに、建前のみの意見しか表
明できなくなってしまったものと思えるのである。常識や多数者の意見から逸
脱したり、間違いを指摘されることを恐れ、本音を表明できないのである。そ
のような人達は、どこそこのお菓子は有名であるとか、あそこの品物は権威が
あるとか、ここが日本一絶品の料理を食わせてくれるレストランだとかの肩書
きを信用し、豪も疑うことをしない人達であるような気がする。己の目や耳や
舌による感性を信じようとしないし、本当の味や美しさや良さなどを自分の判
断ですることを停止し、噂や看板や効能書を信じて自分の能力を開発し高めよ
うとしない。
一人の人間としての感情や思いやりや美しいものに対する感性を無くし、或
いは内に秘めたる人はいるかもしれないが周りの人との関係を面倒くさがり、
深くつきあうことを嫌い、関わることを避ける人がいる。
そういう人は意見を問われると建前論しか言わず、汗をかいて問題解決に努
力することは滅多になく、人々がうまい具合に解決の方法を見つけていざ纏め
ようとするときに必ず些細な建前や屁理屈を盾に壊しにかかるのである。そし
て纏まった意見に問題が生じると、自分の建前論の正しさを強調し、積極的に
物事を解決しょうとする意欲が見られない。そのような人はどのような結果に
なろうとも正論を吐いている限り決して傷つくことがなく、常に勝者側にいる
と思っているのである。そして本音で問題解決に奔走し汗を掻く人達のように
苦労多く下積みではあるが、仲間達に胸襟を開き、共感を分かち合い、響き合
う喜びを知ることはない。
しかしまた、本音で凝り固まった人も困り者である。独断と偏見をものとせ
ず声高で押し付けがましく、人の気持ちを考えずに自分の感じたままを吐露す
るのである。そのような人は組織のなかで実力と実績を認めざるを得ない人の
なかに多く、生きる自信と物事を推し進める迫力を身につけていて有能ではあ
るが、周りへの心遣いに欠け、視野は狭く、今の価値観と彼の習得した時代の
それが変化しているのも理解しない。そして大した価値もない理屈を振り回し、
事実誤認をものともせず白を黒と言い包め、無理やり自分の主張を押し通すの
である。
下腹は弛んで醜い体を曝しているにも係わらず、自分は堂々としていて威厳
があり皆が畏敬の念を抱いているだろうと思い込んで、出物腫れ物所嫌わずと
いった感覚で自己満足に甘んじている裸の王様よろしく、迷惑で煩わしく疎ま
しく生理的に嫌悪を感じる人達である。
そしてまた、私は己の意識の中でも本音と建前の葛藤があることに気付く。
電車やバスの中で子供を抱いた婦人や、初老の人達に席を譲る時抱く複雑な思
いは何なのか?心から譲りたいと思っているのか、そうすべきという義務感な
のか、建前だからそうしているのではないか。心から発する自然な感情なしに
する行為は偽善ではないかというもう一人の本音の自分に責めさいなまれ、そ
の行為に嫌悪を感じることがある。人種偏見や学歴や職種によって人を評価し
てはいけないと頭の中では思っていても、はたして最後の判断までそれを貫き
徹すことのできる自分かどうか、確たる自信はないのである。そのような既成
の思想や宗教や道徳の中にも偽善を嗅ぎ取る私は、自分のなかの本音と建前の
狭間で揺れ動き、かつ悩み苦しむ
己を見出す。
4号 1999年10月
4
:
α編集部
:2014/02/27(木) 21:05:05
都市と田舎の狭間で
.
都市と田舎の狭間で
お断り・・・ここに登場する時代、場所、団体、人物等の構成する環境は架空のもので、
現実のものとして特定できるものでなく、また普遍的価値を含むものでもない。
プロローグ
三十年間暮らした首都圏を離れ、郷里の親元で暮らすこととなった。それはドフトエフス
キーの 「スチェパンチコブォ村とその住人」 にでてくるフォーマー・フォミッチを巡る
人々のごとく、価値観の微妙なずれによるさまざまなトラブルを発生させた。私はそこで
都会生活では考えたこともない悩ましい環境に陥ってしまった。
パンドラの箱その?
大都会を離れたことを都落ちと考えるか、自ら都心の窮屈な生活から脱出したのだと考え
るかは個人の感じ方次第であろう。とは言え、若い頃は知的で洒落た都市の生活に憧れて
田舎から出て来た訳だから、どの時点ではっきりと「田舎に帰っても良いかな」という心
の変化を覚えたかは定かでない。兎に角バブル崩壊が大きな要因に間違いなさそうである。
その不況の結果とんでもない会社に就職してしまい、その労務のはちゃめちゃぶりに辟易
し、また新宿西口の朝の殺気だった出勤風景に嫌気がさしたのが決定的であった。オーナ
ーと呼ばれるヤクザまがいの風貌と前近代的な思考の輩に支配されることは長年自由業で
過ごした私には耐えがたいものであった。 しかし、私が「今の勤めは地獄のようなもの
だ」と嘆いても、友人達は「地獄の苦しみはそんなもんじゃない。その程度の環境はサラ
リーマンなら殆どの人が経験するもので、あんたは甘い。地獄とはもっと過酷でずっと先
にあるものだ」といって、一向に同情してくれなかった。
それにしても朝八時半から夜十一時までの拘束時間、休日も日曜だけなのに突然の召集命
令でどこにいようとも駆けつけなければならず、まさにやくざの世界であった。私的時間
まで拘束されるより飢えても自由が欲しいと思っていた丁度その時、脱税で一年十ヶ月程
の実刑を受けまもなく収監されるオーナーとの幹部会でのやりとりで、「歳ばかりとって
いて何もできないなら辞めてしまえ」という売り言葉に「じゃあ辞めましょう」の買い言
葉の結果、その日のうちに三ヶ月間勤めた会社を辞めてしまった。社員を殴る蹴るの暴力
が日常茶飯事の彼のその言葉は口癖だったし、いままでそれで辞めた社員はいなかったの
で、まさか私がそのような行動に出るとは夢にも思わなかったにちがいない。それでも二
百人近い社員を擁し、人権無視の労働で膨大な利益を確保した結果、近い将来上場を目指
す会社なのである。その会社の常識であれば、残務整理や、引継ぎに数ヶ月は引き止めら
れることは確実であるが、あまりにも酷い組織の正体が判明するにつれて、そうでなくと
も切れかかっていた私の側にとってきっぱり辞める口実を作ってもらったという有難いチ
ャンスに他ならなかった。途中で仕事を投げ出すのはいかがなものかという幹部の説得と
も叱責ともつかない話し合いはあったが、「辞めさせたのはそちらで、私は明日から路頭
に迷う覚悟でそういう行動をとったのだからその責は拒否できる」と主張した。
*
もうひとつ私に決断させたことは朝夕の出勤退社時のあの風景である。それまで私は幸い
なことにそのような殺人的混雑の出勤とは縁がなかった。どの首都圏の主な駅も同じ光景
ではあるが、特に新宿西口の地下通路の殺伐とした雰囲気は、慣れない人にとっては異様
で寒気を生じるほど殺気だっていた。例えば、うら若き女性といえども例外なく、目的地
に向かってあらゆる方向に一直線に通り抜ける人のその速さと強引さは、少しでも心に余
裕をと考える人、やさしく道を譲る生き方をしている人には耐えがたい情景である。最早
気合の勝負で、少しでも怯(ひる)んだほうが負けで道を譲るはめになるのだ。
その空間のすべての人々が自分の目的のために周りの人のことも切り捨てて行動できるに
到った経緯はなんであろうか。そして子供や老人のいないその時空間の異常さは、それが
都会の現実とはいえ、そのような環境にたいする慣れや割り切り方を私はとてもできない
と思った。その決断の結果、遂に次の日からまた私は浪々の身となってしまったのである。
そしてその時私は田舎の八十四歳になる一人暮らしの母と同居することを決断したのだっ
た。
*
私はそれまで都市生活者として、大都市の便利な交通システムを満喫し、全国のあらゆる
食品や品物を選択し、自分にあった職業に従事し、最先端の学問や文化を享受出来ること
に満足していた。たとえ午前様になっても公共の乗り物で安全に家にたどり着くことがで
きることに快適さを覚え、不思議なことに生産地よりも安く新鮮な一級の食材を求められ、
会社勤めをしないフリーターとよばれる若者達も食べるには困らない社会、世界の一流の
芸術に毎日接することのできる生活環境があった。しかし最近私の意識のなかに影のよう
に潜むものに気づいた。それは髪は白く、足は遅く、肩は痛く、物忘れに閉口する自分を
叱咤してこの都会生活を楽しむというメリットに疑問を抱くようになっていた。それまで
はたしかに些細なこととして敢えて無視してきたか、あるいは気づかなかった大都会のデ
メリットにたいする意識が密かに私の頭の隅に巣を作り始めていた。人口集中による交通
の渋滞、空気、水の汚染、騒音、土地の高騰、危険物の集積、大地震の予感、人々の心の
荒廃などである。 私は二度と郷里には戻らないと親に息巻いていた自分の考えを翻し、
希望をもって田舎暮らしをしてみようという心境が、例えやくざのような会社からの離脱
という契機があったとしても、知らないうちに出来上がっていたのだった。
*
パンドラの箱その?
そこは肥前風土記逸文にも記してあり、また和泉式部の生誕地といわれるある山の麓の町、
行政上では町ではあるがむしろ昔風に村落という方が理にかなっている。山と川に挟まれ、
堤防や道路の拡張で平地の水田はほとんどなくなってしまってはいるが、何十年も前から
変わらない家々が散らばって建つ、いわゆる里山とよばれる風景である。
同居する母の土地は山が四町、裏山の段々畑が千坪ほどである。その山のほとんどを生産
性のない雑木が占めるなか一部梅の木が二十本ばかりある。一方畑地は四十坪の家に隣接
して梅およびみかんが数十本、柿、すももその他の野菜が育てられている。私がその箱を
開けてしまったのはこのような環境のもとでである。
私はまず、都会の三LDKのマンションに収まっていた家財道具をこの家に押し込めなけ
ればならないという困難にぶつかってしまった。八帖と六帖の二間続きの座敷と二十帖の
LDK、六帖の母の寝室、そして六帖の私達の寝室と十六帖の土間。広い家とはいえ、そ
れらの品物を納める場所はそう多くは無いということが判った。私は親兄弟に指示される
まま、それらの家財道具の全部を一時別の家すなわち甥の広い家に預けることにした。
そして徐々に母の家を整理しながら運び込む目論見であったが、田舎の家の押入れや、納
屋に詰まっている品物がいかに不合理な代物であるかということが段々分かってきた。ま
ずお中元、お歳暮、冠婚葬祭の引き出物の氾濫に驚くとともに、いかに日本の社会経済が
虚礼の集積で成り立っていることかと思った。本人が夢みる、自分の好みに合ったものに
囲まれた趣味の生活が、溢れ返っている贈答品や引き出物でどのくらい損なわれているか
一度考え直して見る必要がある。私はだから人からものを貰うことが厭だし、また好みの
わからないまま人にものを贈ることも憚るのである。
そのような中、二ヶ月かけてやっとそれらの数十年に積もり積もった不要なものを焼却し
たりゴミとして処分した後出来た空間に家財道具をなんとか持ち込んだ。しかしこの「も
の」を処分するという行為は物の無い時代を生き抜き、人様から頂いた物を無下には出来
ないという母の生き方や好みに大いに反することであったとみえて、整理のための廃棄の
決断を促すときにはいつも「捨てろ」「捨てない」の鬩ぎあいを繰り返すのであった。
*
都会に住む人達が想像もつかないことが田舎にはある。着いたその日、白い子猫が庭先に
こちらを向いて座っていた。一点の斑毛もなく全身真っ白でいかにも優雅で愛らしかった。
しかし初めて見る人間に逃げようと後ろを向いたその瞬間、私はなんと形容してよいか戸
惑う姿を見てしまった。それは「因幡の白兎」よろしく腰から下の皮膚がべろりと剥げて
いるのだ。母にその経緯を聞くと、生死の瀬戸際だったので犬猫病院に二月ほど入院させ
て戻ってきたばかりだという。犬でも猫でも噛み付いてもそこまではダメージを与えない
のにと考えていると、獣医さんがいうには「たぶん狐か狸のような野生の動物に噛まれた
のでしょう」との説明であったとか。
新月の真夜中は墨を流したような闇夜で、寝室の裏山に面した窓から得体の知れない鳥な
のか動物なのかはたまたこの世のものでないものか、陰陰とした鳴き声が聞こえてくる。
今は簡易水洗便所でほっとするが、小さいころは床の穴の下は奈落に通じているかもしれ
ないほど暗く、散々お化けの話を聞かされた夜の便所へ行く恐怖は計り知れないものだっ
た。幸い今は改良されて奈落と魑魅魍魎の恐ろしさから開放されているが、猫の一件はま
さにこれからの私の田舎ライフを暗示するにふさわしい出来事であった。
*
梅ちぎりの作業をしていると毛虫や蜂や蚊に刺され、免疫のない私にはつらい環境である。
引越してきたばかりのある夜中、寝ている私の髪の上でもそもそとしたものがいた。思わ
ず手で払いそうになったのを制止したのは、夢心地のわが脳の正しき判断であった。飛び
起きて明かりを点けて枕を見ると二十?もある巨大なムカデで、その体の黒さはいかにも
毒の強さを表すものであった。噛まれたら手が二倍に腫れたという人を知っている。この
時首筋を這って行ったのだから、頚動脈でも食らわれたらこの物語も書けず、今ごろはベ
ッドの上で生死の狭間でさ迷っていたにちがいない。
また、昼間入り込んだ親指大の蜂に気づかず、夕方の暗がりのなか広縁のカーテンを勢
いよく閉めたその瞬間右手中指の第一関節の甲にナイフでスパリと斬られた感触を覚える
ほど痛い蜂の一刺しを食らった。幸いそんなに腫れるほどでもなかったが、一晩中その痛
さに悩まされたのである。ムカデといい蜂といい油断できない現実の自然を都会生活で誰
が予想したか。優雅な田舎の暮らしなどという軟弱な雑誌の特集をみていると、あれは田
舎に持ち込まれた都会の暮らしで、冗談もほどほどにしろ生死の瀬戸際の格闘があること
を知るべきだと反駁したくなるのである。編集者に蝿、蜘蛛、蜂、蚋(ぶよ)、毛虫、ムカ
デ、マムシのいる中での生活を一度体験させてみたい。 それでもなお「田舎暮らし」は
素晴らしいと絶賛すれば本物である。
*
私はちょうどその時、そうとは知らないまま運悪く一年中で一番忙しい時期に引っ越して
きたのであった。梅の採取の作業である。それで生計を立てている訳ではないが、亡くな
った父が趣味として丹精したもので、毎年お世話になった人に差し上げたり、一部青果市
場に出荷したりして楽しみに育てたものである。数十本ある中から出来具合を判定しその
日のうちに採取するわけだが、種類も多くちぎるに適した日もまちまちで、しかも成熟し
た果実は一日として延ばせないのでやたらに忙しい。成熟してくると産毛のある細長い形
から艶のある丸い実に変化する。それらを午前中に採取し、午後に選別して次の日の朝早
く市場に出すという一工程の作業がある。ジャンボ高田とか青軸とか白加賀とか南高梅、
小田原梅などいままで私の想像だにしなかった世界である。競走馬などその道でない人に
はなんだか変に聞こえる名前のように、最初は私にはどれがどれなのかさっぱりわからな
かった。加賀とか南高、小田原などの品種を聞くと生産地の名前なのかと思うが、これか
ら私も毎年従事することから逃れられないとすれば、その謂(いわ)れぐらい知る必要を
迫られるに違いない。
しかし、そのような収穫物を百?や二百?市場に出してもたいした収入にはならない。こ
れで生活費を賄うとすれば、今までの都市生活からは想像も出来ないくらいの労力を必要
とし、知識も体力も忍耐も足りない軟弱な私ではとても持ちこたえることは不可能だと悟
った。実際毎日そのような作業を続けている八十四歳の母のほうが私より持久力において
は優れているのである。男一人のここでは、母にそのような農作業にこき使われ、疲れで
ダウン寸前までいったことがある。なにせ毎日の重労働で筋肉痛が治るひまもないのだ。
本当の親子かどうか一度DNA鑑定をしてもらうべきではなかろうか、しかしもし親子で
なかったと判明したらこの三倍は酷使されるかもしれないリスクを覚悟しなければならな
いと思ったりした。
*
この時期はお金よりもむしろ梅の実が労働の代価となる。円という貨幣の呼称よりむしろ
一?梅(ばい)という単位の通貨が似つかわしく、お手伝いに来る近所の人にはその日の
労働のお礼として市場に出荷しないものの中から何キロという梅を持って帰ってもらう習
慣なのである。そして、私は一?の梅が行商のオバアサンの魚の干物と交換されたり、進
呈した何がしかのそれが苺やケーキや田舎饅頭に化けたりする物々交換の時代が未だに存
在しているのを見たのである。この時期は実の出来具合や自分の漬けた梅干しの自慢の話
題で沸き返っていて、この集落は興奮状態であり、いままでその喜びを知らない私達はた
だその迫力に見入るばかりである。
*
村舅(むらじゅと)という言葉をご存知であろうか。これは辞書には載っていない言葉で
はあるが、字面らや意味がぴったりの誰からともなく聞かされる造語である。私は都会で
は既に失われた人情や環境が、田舎ではまだ充分に残っていると期待していた。静かで、
空気は清く、素朴ないい人に囲まれて平和で、命が延びる生活ができると思い喜んでいた
のだが、いざそこで暮らしてみるとそう単純ではないことを思い知らされた。確かに田舎
の家は玄関のみならず、広縁や勝手口や土間からの出入りは自由であるが、どの部屋であ
ろうと近所のおばさんの侵入攻撃を受けるのである。おまけに食べ物の味付けに口を出す
し、プライバシーのなさと、声の大きさと、まだ残る因習に悩まされている。そこでの生
活習慣をまったく知らない私達が犯した村のルールを即座に指摘するのが村舅である。彼
らにとっては無知な私達を好意で修正してやるという思いがあろう。しかし私達にとって
それはたいした支障でもないと考えている者なので、私達は「余計なことを」と、片方は
「礼儀知らず、世間知らず」という思いの違いが生じてくるわけである。
財産をめぐる長子制度による兄弟の確執や、日々の行動を規制する迷信、しきたりといっ
た都会生活で忘れ去られていたものが、真夜中の裏山の藪の中だけでなく現実の日々暮ら
しの中に出没する魑魅魍魎の世界に私はついに足を踏み入れてしまった。田舎の人は素朴
で、人が良くて、大人しくシャイであると相場は決まっているはずなのに、声高に早口で
喋り、ちらりと皮肉を言い放って去り行き、したたかで繊細さに欠ける人達がいる。それ
も人に危害を加えたり、良心に付込んで財産を奪ったりするような悪ではなく、好意的に
考えて「裏返せば親しさの現れかもしれない」と思わぬでもないが、私達が大事に守って
きたテリトリーの中に平気で踏み込まれるという不快さがあるのである。
また、鶏の飼料の生臭い匂い、何かの食べ物の腐った匂い、家に染み付いた説明のつかな
い不快な匂いの数々。一日中うんうん唸っている冷蔵庫の音、数匹飼われている近所の犬
によるリズムも音程もめちゃくちゃな暁の大合唱、地鳴りのような耳の底に残る虫の鳴き
声。ヘビ、アブ、蚊、蚋(ぶよ)、蜂、ハエ、毛虫、ムカデ、ヤスデ、なめくじ、くも、
道路の向こうの偏狭で強欲で粗野な鼻つまみ老人、白の餌をぬすみに来るふてぶてしい黒
斑のオスの野良猫、そしてこのすべてを焼きつくような高温多湿の今日このごろ、そして
一番の問題は「金も力もなかりけり」の甲斐性なしの己の存在である。
エピローグ
あまりにも清潔に、あまりにも繊細に、あまりにも個人主義的な都市の暮らしが、この田
舎の荒削りのしぶとい生き方に翻弄されてその脆弱性を露呈したことを認めずにはいられ
ない。しかし私は自ら望んでここを選んだのだからそれらの攻撃にいかに対処するか、排
除するのかあるいは受け入れるのか、感覚を鈍化させて慣れてしまうのか、この田舎ライ
フを続けていくためはケリをつけなければならない大問題の狭間で私は苦悩しているので
ある。
5号 2000年7月
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