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Japanese Medieval History and Literature
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快挙♪ 3
本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!
41冊!!!
売れたと云々!!
すげェ!! としか言いようがない。
2日で、71冊。
快進撃である。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その15)
5月29日に、
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58fe1a0e555b518966af5e016849f79b
を投稿して以降、「白毫寺妙智房」を検討してきましたが、小川論文に戻ります。
「五 佐渡配流事件の再検討」は(その14)で紹介した箇所の後に若干の記述がありますが、省略して第六節に入ります。(p41以下)
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六 鎌倉後期の公家徳政における「口入」の排除
「事書案」には、「政道巨害及其沙汰者、前々如此関東御意見有之、今度東使沙汰之次第超過先規、已及流刑」とあり、伏見院自らが、朝廷の失政が取沙汰される時は前々から幕府の「御意見」があるもの、と認めている。つまり幕府による廷臣の処罰は、流罪は過酷であるにしても、起こり得る事態であったのである。幕府がこのような権利を有するに至ったのは承久の乱以後のことであるが、皇位継承の度に幕府が治天の君を推戴する実績が重ねられる中で生じてきた思考であろう。
【中略】
それにしても幕府は持明院統の治世に対して、厳しい注文を付けることが多かったように思う。後嵯峨院に仕えた評定衆・伝奏は亀山院政・後宇多院政でも重用され、大覚寺統はその多士済々の遺産をそっくり受け継いだのに対して、雌伏の期間が長かった後深草院・伏見院の下には政務の実務に堪える人材が少なかった。また持明院統の治世においては公卿の官位昇進が総じて速やかで、また公卿そのものの員数も急増することが指摘されている。これは政権基盤の脆弱な持明院統の露骨な人気取り政策であり、任官政策の放漫さと受け取られた。
幕府は後深草院を推戴した当初から、その統治能力に疑問を抱いていたらしい。院政が開始されてまもない正応元年(一二八八)正月二十日、幕府は政務につき後深草院に申し入れることがあった。『公衡公記』によれば、その事書は基本的に聖断を尊重するとしながらも、
一、任官加爵事。理運昇進、不乱次第可被行之歟、
一、僧侶・女房政事口入事。一向可被停止歟、
という項目があり、後深草院政は強く牽制されている。後条の僧侶や女房が政治に容喙してはならぬというのが、公武政権の常に掲げる題目であった。治天の君に奏事できるのは人物・識見を厳選された、主に名家出身の伝奏であり、後嵯峨院以後はとりわけその傾向を強め、制度的に僧侶・女房の口入を排除しようとしたのである。
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いったん、ここで切ります。
この時期の朝廷の実態について一番詳しいのは本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)ですが、小川氏の説明は本郷氏の見解とはかなり異なりますね。
小川氏は「雌伏の期間が長かった後深草院・伏見院の下には政務の実務に堪える人材が少なかった」と言われますが、後深草院政期には、例えば「後嵯峨・亀山上皇の第一の近臣ともいうべき人物」(本郷著、p159)である中御門経任(1233-97)が伝奏として存在しています。
経任と不仲だった弟の吉田経長(1239-1309)は経任の出処進退を厳しく非難していますが、その経長自身も「後深草・伏見上皇のもとでさかんに実務官として活動して」(同、p264)います。
本郷氏によれば、後深草院政期(弘安十年〔1287〕十月二十一日〜正応三年〔1290〕二月十一日)は次のような状況です。(p159以下)
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ところが、二君に仕えたからといって、経任一人を責めるのは酷であるようにも思われる。というのは、亀山上皇の他の近臣も、後深草上皇に近侍しているからである。試みに正応二(一二八九)年の評定衆をあげよう。
近衛家基・堀川基具・源雅言・中御門経任・久我具房・平時継・日野資宣・葉室頼親
翌年の後深草上皇の院司は次の人々である。
西園寺実兼・源雅言・中御門経任・日野資宣・葉室頼親・吉田経長・中御門為方(経任ノ子)・冷泉経頼・
坊城俊定・平仲兼・葉室頼藤(頼親ノ子)・日野俊光(資宣ノ子)・平仲親・四条顕家・藤原時経
これをみると、亀山上皇の伝奏はほとんど後深草上皇の院司となっており、何人かは評定衆にも任じられている。経任のごとくに伝奏にはならずとも、上皇の側近くにあったことはまちがいない。父子ともに院司になっている例もあり、兄経任を厳しく非難した経長も、弟経頼ともども上皇に仕えている。
まもなく起こる両統の迭立という事象を知る我々は、ともするとそれを前提として考察を進めてしまう。しかしこの時にそうしたことを想起するのは誤りである。伏見天皇が即位した時点では皇統はあげて後深草上皇の系統に移ったのであり、廷臣にしてみれば、忠臣は二君に仕えずというなら、出家して前途の望みを絶つしかない。さもなければ、後深草上皇に忠勤を励むだけである。吉田家の三兄弟、経任・経長・経頼が揃って後深草上皇に接近していったことでもよくわかるように、たとえば一家の内で兄弟が互いに反目し合っている、所領争いの危機を内包しているといっても、一方が持明院統に、他方が大覚寺統に、という選択の余地はなかった。それが後深草院政期である。
後深草上皇の側からこうした事態をみると、どのようなことがいえるか。それはやはり、上皇の周囲の人材の欠如であろう。以前から上皇に仕えていた近臣には、せいぜい平時継・忠世父子くらいしか、訴訟制の担い手となるべき人がいなかった。だから亀山上皇の近臣を用いざるをえない。
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次いで伏見親政期(永仁六年〔1298〕七月二十二日まで)に入ると、正応六年(1293)には有名な訴訟制度改革が行なわれます。
そして、本郷氏によれば、
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この改革の意義であるが、一つはいうまでもなく、庭中訴訟を重視し、雑訴と別に扱うようになったことがあげられる。雑訴の方では、評定衆・文殿衆の二つの階層の人を同じ番数に結い、同一日に出仕させ、対応させている点が注目される。いまだ両者は、身分の違いを越えて同一の場で審議を行うに至っていないが、これはその先行形態である。
組織された上・中流官人をみると、およそ亀山院政期から評定衆・伝奏・奉行として訴訟に携わっていた人が多く、伏見天皇が抜擢した人物が見あたらない。亀山上皇の伝奏は、死没した日野資宣・冷泉経頼のほかは皆選ばれていて、後深草院政に続いて重用されている。天皇はこの前年に平仲兼を参議に任じたが、周囲の強い批判にあい、任官の正当性を日記に縷々書き留めている。名家の人々を高く評価するその文言はよく知られるところだが、一人の廷臣を公卿の列に加えることが批判の対象になるのであるから、更にすすんで独自の近臣層を形成し、要職に就かせることは、一朝一夕には成し得ない非常に困難な行為だったと推測される。
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とのことです。(p165以下)
このように後深草院政・伏見親政期のいずれも、単純に人材が不足していたというようなことはなく、また、朝廷の制度史を専門としている研究者からは、伏見親政の評判はそれほど悪くない、というか結構良いのですね。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その16)
小川論文で非常に気になるのは、まるで幕府が客観的・中立的立場から朝廷に正しい「政道」を期待したにもかかわらず、持明院統は人材不足・能力不足から幕府の期待に応えられなかった、という書き方になっている点です。
しかし、もちろん幕府も一枚岩でなく、その首脳部を構成する人々の考え方も様々であり、かつ時期によって首脳部の構成自体が変動しています。
弘安八年(1285)の霜月騒動で安達泰盛派を潰滅させた平頼綱が、その八年後の正応六年(永仁元、1293)、成長した北条貞時に亡ぼされるなど、幕府側も朝廷以上の激動の時期ですね。
そして本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』によれば、
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亀山院政は弘安八(一二八五)年十一月十三日に、二十条の制符を発する。文書審理の徹底、謀書棄捐、越訴の文殿への出訴の規定、訴陳の日数制限など手続法に属する項目と、別相伝の禁止、後嵯峨上皇の裁定の不易化、年紀法の制定など実体法に属する項目とからなるこの制符は、朝廷におけるはじめての本格的な訴訟立法ということができるだろう。整備された機構を備え、訴訟の法を内外に示した亀山院政のもとで、朝廷の訴訟制は一応の完成期を迎えることになる。
【中略】
朝廷で右の訴訟立法が行なわれるおよそ一年前の弘安七(一二八四)年八月、幕府は「手続法の集大成」と高く評価される追加法を発布した。この時期、安達泰盛の主導のもとで、幕府の訴訟制はその最盛期を迎えようとしていた。
京都と鎌倉の動向が関連をもっていることにはこれまでも何度か言及しているが、近年の網野善彦氏、笠松宏至氏の業績によるならば、この時もまた幕府と朝廷とは「東西呼応して」徳政を推し進めていた。幕府と朝廷とで相前後して重要な制法が発せられたことは、それを象徴している。
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とのことですが(p141以下)、しかし、「弘安八(一二八五)年制符が発せられたわずか四日の後、霜月騒動によって泰盛派は滅亡」(p142)してしまいます。
すると安達泰盛の期待に応えて徳政を推進した亀山院の立場も微妙となり、二年後の「弘安十(一二八七)年十月十二日、東使佐々木宗綱によって理由もなく東宮の践祚が要求され、亀山院政は突如として終わりを告げる」(同)ことになります。
何とも皮肉なことに、亀山院が幕府の期待に応えて「徳政」を推進したが故に亀山院政は終わってしまった訳ですが、幕府は別に朝廷の「徳政」の度合いを審査する客観的・中立的な存在ではないのですから、当たり前と言えば当たり前の話です。
なお、小川氏が言われるように、後深草院の「院政が開始されてまもない正応元年(一二八八)正月二十日、幕府は政務につき後深草院に申し入れることがあ」り、そこでは「僧侶・女房政事口入」を禁止するよう要請があった訳ですが、この申入れの後、間もなく善空(禅空)という律僧が朝廷の人事・所領政策に干渉するようになり、しかも善空の背後には平頼綱の一族がいたようです。
僧侶の口入を禁止するように要請した幕府側が、幕府の威光をひけらかす僧侶を通じて朝廷に口入を繰り返した、少なくとも後深草院側からはそのように見えた訳で、幕府の申入れなるものも文字通り素直に受け止めることはできません。
この善空の一件は小川氏も触れているので、後で改めて少し論じます。
さて、小川論文に戻って、続きです。(p42以下)
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その意味でいえば、為兼は伝奏でさえなく、「政道」について公的なルートでは何も奏上する立場にはなかった。為子も養子たちも同様である。為兼がしばしば伝奏の如き役割を果たしたのは事実であるが、それは「藤氏公卿不出仕之間、無人伝奏、或直問答、或以為兼卿問答、王威軽忽可恥可悲」と伏見院自ら認めるように、全くイレギュラーな事態であり、為兼が当時の「政道」の中心たる寺社の抗争・雑訴・叙位任官の問題について言上することは、すべて非分の「口入」とみなされた。ここで為兼が院政の実務を担当する廷臣に不可欠とされた文道(儒学)の才に乏しく、「無才学」とか「為兼卿文盲」と言われたのは致命的であった。「後ノ三房」を始めとする、大覚寺統の治天の君に重要された廷臣が、こぞって文道の才学を謳われたことを想起すればよい。「世の人、漢家の才のみ政道にはよろしとおもへり。就中、近比この趣を度々奏聞に及べるよし聞こゆ」(『古今集浄弁注』)という二条為世の歎声はそれを受けている。いかに為世が「歌は神代のことわざとして漢土の書いまだ渡らざりし時より出で来て、風刺風化の心分明に侍るものを」と虚勢を張ったところで、歌道は所詮「政道」の実際の用には立たないのである。
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「「無才学」とか「為兼卿文盲」と言われたのは致命的であった」に付された注(31)を見ると、「無才学」は『花園院宸記』正和二年(1313)六月四日条、「為兼卿文盲」は『園太暦』貞和二年(1346)十一月九日条ですね。
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