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Japanese Medieval History and Literature
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快挙♪ 3
本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!
41冊!!!
売れたと云々!!
すげェ!! としか言いようがない。
2日で、71冊。
快進撃である。
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『感身学正記』に登場する「右馬権頭為衡入道観證」について(その2)
前回引用した『感身学正記』の弘安二年(1279)の記事、伊勢神宮に一切経を奉納する件に関して「右馬権頭為衡入道観證」が「叡尊と西園寺実兼の間を取り持っている」話の中に別の話題も入っていたので、少し分かりにくいところがあったと思います。
同年の記事は九月から始まっていて、最初に亀谷禅尼が西大寺に一切経を納入する話が出てきます。(p88以下)
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九月二日、一切経開題供養す。鎌倉亀谷禅尼法名浄阿弥陀仏、もと将軍家〔九条頼経〕の女房、摂津前司師員〔中原〕入道法名行厳の後家、予、関東下向〔弘長二年〕の時の新清凉寺宿所の亭主、越後守実時〔金沢〕朝臣の沙汰として借用し、去らしむ。それより以来、三宝に帰向し、所領〔下野国横岡郷〕の殺生を禁断し、菩薩の禁戒を受持す。時々の音信今に絶えざるの仁なり。にわかに六十人の人夫をもって一切経を当寺〔西大寺〕に渡し奉りて、開題し奉るべきの旨、慇懃の所望有り。黙止しがたき故、百僧を勧請して首題を礼さしむるなり。法会の事終わりて後、かの禅尼来たりて曰く、「摂津前司入道〔中原師員〕仏舎利を所持す。人に付嘱せず頸に懸けながら命終わりぬ。後家たるが故、年来奉持す。当寺に安置し奉らんと欲す。後日奉持してよく参詣すべし」と云々。すなわち領状し畢んぬ。
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幕府の評定衆であった中原師員(1185-1251)の後家・亀谷禅尼は、弘長二年(1262)、叡尊(1201-90)が金沢実時(1224-76)に招かれて鎌倉を訪問した際、新清凉寺を宿所として提供して以降、熱烈な律宗の信者となり、巨額の財政的援助もするようになったパトロン的女性です。
その亀谷禅尼が西大寺に一切経を奉納した後、夫の中原師員の遺品である仏舎利を西大寺に奉納したい、後で持参する、と言うので叡尊はこれを了承します。
中原師員(1185-1251)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%93%A1
この後、前回投稿で引用した部分となり、九月十八日に「右馬権頭為衡入道観證」が来たので、叡尊は「談話の次いでに大神宮に一切経安置の願い事を語り」ます。
即ち、蒙古襲来という国難に際し、「本朝の太平・仏法の興隆・有情の利益を祈る」ため、文永十年(1273)の春、大般若経二部を持って伊勢内宮・外宮に参宮し、文永十二年(1275)の春、また大般若経一部を内宮近くの菩提山神宮寺に持参し、供養転読して内宮・外宮の法楽の資とした。
その時、もし一切経を得たならば、奉納のため今一度参詣したいと「心中に発願」したが、容易く得ることもできず空しく年月を送っていたところ、近年、蒙古襲来の危機が重なるにあたって「素懐を果たさんと欲するといえども」、宋から輸入する摺本は「蒙古の難」によって入手が困難で、書写しようとしても一切経は数が多いのでなかなか困難である。
ということで、叡尊が、何か良いお知恵はないだろうか、と相談したところ、「右馬権頭為衡入道観證」は、何か手立てを工夫しましょう、と答えます。
そして二十一日、「右馬権頭為衡入道観證」から書状が来て、「西園寺殿」に一切経の古写本が「一蔵」あるので、使者を派遣して、奉納に適するものか確認して頂けませんか、と言ってきます。
そこで叡尊は自らその古写本を確認することとし、二十六日に西大寺から京都の律宗の拠点・浄住寺(旧・葉室定嗣邸)に行きます。
すると三十日、亀谷禅尼が浄住寺に来て、中原師員の遺品である仏舎利を奉納します。
さて、十月三日、叡尊は「西園寺において一切経を拝見し」、「これを迎え奉るべき由、約束申し畢んぬ」となります。
そして、「白毫寺において一百十九人に菩薩戒を授け」た後、「六日、一切経これを迎え奉」りますが、古写本なので「七日以後、一切経を修復し奉る。十一月七日に至り、功を終えり。その後、欠巻を書き継ぎ、損ずる所を補い、帙把等を結構す。いまだ功を終えず」となります。
この後、亀山院と鷹司兼平も、それぞれ一切経を浄住寺に送ってくることとなり、浄住寺には都合「三蔵」の一切経が集まることになります。
即ち、
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十一月十七日、院宣によって靡殿〔なびきどの〕に参る。十八日朝より上皇〔亀山〕御前において梵網経古迹〔こしゃく〕下巻本を開講し奉る。廿四日、講じ奉り畢んぬ。深更に及び、円満院〔円助法親王〕御弟子宮、密々に入御す。すなわち宿所(本靡殿御所)において十重戒を授け奉り畢んぬ。廿五日、古迹御談義の御持仏堂において、太上天皇〔亀山上皇〕、中御門大納言経任以下公卿殿上人五十九人に(重受二人)菩薩戒を授け奉る。夜陰に臨み、仙洞〔亀山上皇〕に三衣〔さんね〕を授け奉る(自身の長衣これを進む)。廿六日、早旦、召しによって桟敷殿に参る。大神宮奉納宋本一切経の事、興隆仏法等、種々勅問す。所存の旨を奏し、罷り出で畢んぬ。中食以後、浄住寺に還る。次に殿下〔鷹司兼平〕の御請によって猪熊殿に参る。御堂において見参に入り、五戒を授け奉る(別受)。卅日、仙洞〔亀山上皇〕宋本一切経を浄住寺んじ送り奉らる。殿下〔鷹司兼平〕日本本一切経を同じく同寺に送り奉らる。十二月二日、仁和寺御室(性助法印)御出。浄住寺真言堂において、十一人(重受五人)に菩薩戒を授け奉る。四日、西大寺に還著す。十日、衆僧和合して、浄住寺において感得せし所の三千余粒の仏舎利を供養す。廿ニ日、豊浦寺(建興寺と名づく)住比丘尼證全、先祖相伝の仏舎利を当時〔西大寺〕に安置し奉る。
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という展開となります。(p90以下)
そして翌弘安三年(1280)三月、叡尊は伊勢に向かいます。
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苅米一志氏「東山太子堂の開山は忍性か」(その1)
叡尊は建仁元年(1201)生まれなので、その事蹟を年表にすると、西暦の下二桁がそのまま年齢になって便利な人ですね。
叡尊(1201-90)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A1%E5%B0%8A
『感身学正記』の弘安二年(1279)、叡尊七十九歳のときの記事を見ると、奈良西大寺にいた叡尊のもとに九月十八日に「来臨」した「右馬権頭為衡入道観證」に対し、叡尊が一切経を入手する「秘計」はありませんか、と相談したところ、為衡入道が「方便を試むべしと答えて退出」した僅か三日後、二十一日に為衡入道から、西園寺家に「古書写の本一蔵」がありますよ、と書状が来ます。
為衡入道の京都への移動と京都から派遣した使者の移動の時間を考えると、殆ど即答ですね。
為衡入道は西園寺家の一切経を叡尊に寄進できる実際上の権限を持っていて、ただ、西園寺家当主の実兼の確認を得るために京都に戻り、直ちに了解を得て叡尊に連絡している訳で、この経緯を見るだけでも為衡が西園寺家の実力者であることは明らかです。
関東申次である西園寺家が大変な政治的権力を握っていた、という龍粛以来の「西園寺家中心史観」は誤りですが、西園寺家が経済的に極めて豊かであったことは確かで、「朝廷に不動の地位を築いた同家を支える驚くべき財力がいかにして形成されたか」については網野善彦氏の詳しい研究もあります。
網野善彦「西園寺家とその所領」(『國史學』第146号、1992)
http://web.archive.org/web/20081226023047/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-saionjiketo-sonoshoryo.htm
「右馬権頭為衡入道観證」は、いわば西園寺財閥の大番頭のような存在で、だからこそ叡尊も「よいお知恵はありませんか」と相談を持ち掛けた訳ですね。
細川涼一氏は「為衡を諱とする人物は『尊卑分脈』に藤原氏に三名、源氏に一名、菅原氏に一名いるが、鎌倉時代に該当する人物がいない」などとのんびりした調査をしていますが、西園寺家に関する論文を調べればよいだけの話で、そうすれば為衡が西園寺家家司の三善一族の人であることは即座に分かります。
細川氏だけでなく、『金剛仏子叡尊感身学正記別冊』の編者である長谷川誠氏も「叡尊が弘長二年(一二六二)に鎌倉に下向した際に叡尊に帰依した、金沢実時の後見観證と法名が一致する」ことから「同一人物に比定」されているそうですが、律宗の研究者は揃いも揃って何をやっておるのか、という感じがしないでもありません。
ちなみに長谷川誠氏は筑波大学名誉教授だそうですね。
長谷川誠
https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200901000149313263
さて、福島金治氏の論文に出て来た「東山白豪院長老妙智房」についての手がかりがないかと思って、苅米一志氏の「東山太子堂の開山は忍性か」(『鎌倉』67号、1991)を読んでみたところ、非常に緻密な論文ですが、「東山白豪院長老妙智房」への言及はありませんでした。
ただ、興味深い指摘が多々あったので、少し紹介してみます。
この論文の構成は、
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序
一、叡尊と太子堂速成就院
二、速成就院と極楽寺・称名寺
三、阿忍房頼禅の宗教活動
小結
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となっていますが、まずは「序」で苅米氏の問題意識を確認しておきます。(p11以下)
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『山城名勝志』巻五には「太子堂<号速成就院、元在知恩院中門西北浩玄院後、今此地有古井号太子水、此堂慶長年中被遷六条北万里小路東、開山忍性律師>」とあり、速成就院が当時太子堂と呼ばれ、また慶長以前には知恩院や浩玄院の存在する東山に座していたことが分かる。この寺は聖徳太子二歳像を安置して今に伝えるが、例えば、「西大寺文書」明徳二年(一三九一)西大寺末寺帳に、「速成就院」とあるように中世においては、この寺院は律院であり、かつ西大寺の末寺であった。その開山について『山城名勝志』は、忍性である、と言い切っているが、周知の通り忍性の伝記「性公大徳譜」あるいは『律苑僧宝伝』『本朝高僧伝』などにはそれに相当する事績は見当らない。既に林幹弥は「律僧らと太子堂」において、金沢氏との関連の中で太子堂を考察し、その開山を『山城名勝志』の言う通り、忍性であると推断したが、その考察には疑問ありとしなければならない。本稿は、直接的には、この寺院の開山ないし中興開山を考察するものであるが、また一方、叡尊・忍性という律宗の二代巨頭の蔭にかくれ、歴史のひだに埋没していった無名の律僧の事績の発掘をも心がけるものである。このような方法論の提言は、既に細川涼一によってなされているものの、いまだ十分にそれが吸収・受容されているとは言いがたい状況にある。我々の前には「西大寺文書」「極楽寺文書」のみならず叡尊による授菩薩戒弟子交名(『西大寺叡尊伝記集成』)や光明真言結縁過去帳(『西大寺関係史料』一)、そして「金沢文庫文書」という史料の宝庫が遺されており、そのことによって、中世では例外的と言ってもよいほど、一律僧の事績に即した十分な研究が可能となっている。筆者の課題は、それらの史料を活用しつつ、律宗とくに西大寺律宗が当該社会にいかなる影響を与えていったのかをトータルにとらえていくことである。
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現在は就実大学教授の苅米一志氏が、三十一年前、筑波大学大学院在籍中に書かれた若々しい論文ですが、私が関心を持っている「東山白豪院長老妙智房」も、「叡尊・忍性という律宗の二代巨頭の蔭にかくれ、歴史のひだに埋没していった無名の律僧」の一人といえそうです。
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苅米一志氏「東山太子堂の開山は忍性か」(その2)
就実大学教授・苅米一志(かりこめ・ひとし)氏は1968年生まれとのことなので、「東山太子堂の開山は忍性か」を書かれたのは二十三歳くらいの時であり、ちょっと吃驚ですね。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/author/a86010.html
【研究室訪問vol.001】第1回 苅米一志教授(日本中世史)研究室へ訪問
https://www.shujitsu.ac.jp/news/detail/1791
【WEB体験授業】古文漢文から日本史へ 総合歴史学科
https://www.youtube.com/watch?v=2iHIfqbzgE8
この論文を実際に読むまで、私は「東山白豪院長老妙智房」(『三宝院伝法血脈』)が出て来るのではないかと期待していたのですが、その名前はありませんでした。
ただ、「白毫寺妙智房」(『興福寺略年代記』)が京極為兼と一緒に六波羅に逮捕された永仁六年(1298)正月は東山太子堂にとってもなかなか微妙な時期だったようで、その構成メンバーが叡尊系から忍性系に移行する端境期だったように思えます。
そこで、その推移を細かく見て行きたいと思います。(p12)
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一、叡尊と太子堂速成就院
「応永頃ノ古図写」(『京都の歴史』三、一四九頁)において太子堂が「白毫院」と呼ばれたことから、林幹弥は「金剛仏子叡尊感身学生記」弘安二年(一二七九)の項に見える「白毫寺」を太子堂速成就院の初見としているが、大和にも西大寺末寺たる白毫寺(前掲西大寺末寺帳)が存在するので、これがいずれであるか判断しかねる。また、林は「速成就院」なる語の史料上の初見を同記・弘安七年(一二八四)正月としているが、筆者としては、次の史料をもって、その初見としたい。
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いったん、ここで切ります。
「大和にも西大寺末寺たる白毫寺(前掲西大寺末寺帳)が存在するので、これがいずれであるか判断しかねる」とありますが、同年九月十八日に奈良西大寺で「右馬権頭為衡入道観證」に一切経の入手について相談した叡尊は、二十一日に「西園寺に古い写本があるので、確認に来てください」との返事をもらって二十六日に京都・浄住寺に移動し、
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十月三日、西園寺において一切経を拝見し奉る。これを迎え奉るべき由、約束申し畢んぬ。その後、白毫寺において一百十九人に菩薩戒を授け畢んぬ。六日、一切経これを迎え奉る。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6780a0676390d1a68cee8c96740984f8
とのことなので、この白毫寺が京都の方の白毫寺(東山太子堂、速成就院)であることは明らかですね。
なお、「応永頃ノ古図写」はリンク先で見ることができますが、文字が小さくて読めないですね。
福原成雄氏「京都市指定名勝 知恩院方丈庭園の成立について」
https://www.osaka-geidai.ac.jp/assets/files/id/617
さて、続きです。(p12以下)
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すなわち、金沢文庫の「結界唱相」(『金沢文庫資料全書』第五巻)には、「山城国愛宕郡速成就院結界唱相」が記載されており、その初度の年月日が文永三年(一二六六)十一月三十日となっているのである。その結界参加者は、次の通りである。
成円戒律房 善厳尊戒房
證円戒学房 禅恵本性房
賢栄円寂房 実禅尊願房
行忍禅行房 定円忍蓮房
頼禅阿忍房<比丘布薩役者>
正恵信戒房<比丘布薩并結界師>
円定房<答法> 了敏尊覚房<比丘布薩役者>
順乗理賢房<比丘布薩維那唱相>
禅信春円房<比丘布薩役者梵網維那>
信海円證房<比丘布薩役者> 已上比丘
行空円観房 隆慶寂印房<梵網役者>
已上法同沙弥
覚秀空證房<五徳梵網役者> 顕禅房<梵網役者>
已上形同
文永三年<丙寅>十一月卅日巳時初結同
十二月一日巳時解結畢
当院住持善厳
このうち、叡尊の授菩薩戒弟子交名(『西大寺叡尊伝記集成』)に名の見えるのは、成円戒律房・実禅尊願房・順乗理賢房であり、彼らは全て「大和国人」と言われている。つまり、彼らは叡尊の弟子であった。またこの他、善厳尊戒房は、宝治二年(一二四八)将来律三大部配分状(同前)によると、宋より将来した律部経典のうち「羯磨経疏記称一部廿一巻」を配分されており、光明真言結縁過去帳(前掲)にも「尊戒房 大谷寺」とある。大谷寺とは、速成就院・白毫院そしてあるいは乗台院をも含む東山の寺院を指しているだろう。彼も叡尊の弟子であって、史料に「当院住持善厳」とあることから、のちにこの寺院に住するようになった人間であると思われる。
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「大谷寺とは、速成就院・白毫院そしてあるいは乗台院をも含む東山の寺院を指しているだろう」に付された注(6)を見ると、
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(6)前掲結界唱相には、速成就院に続いて山城国愛宕郡白毫院、山城国愛宕郡乗台院の結界が記されている。
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とあり、東山太子堂にやたらと別名が多い理由の説明となっていますね。
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「白毫寺妙智房」の追跡はいったん休みます。
三日投稿を休んでしまいましたが、この間、律宗関係で「妙智房」が出て来ないかを探っていました。
暫定的な成果として、和島芳男氏の「西大寺と東山太子堂および祇園社の関係」(『日本歴史』278号、1971)に、それらしき人物がチラッと登場していたのですが、律宗関係だけでも手一杯なのに祇園社まで広げると収拾がつかなくなりそうなので、後日の課題としたいと思います。
私の目論見は、永仁六年(1298)正月、京極為兼と「八幡宮執行聖親法印」「白毫寺妙智房」(『興福寺略年代記』)の三人が同時に六波羅に逮捕された理由については、律宗関係を調べて行くと何か手がかりが得られるのではないか、というものでした。
こう考えた理由として、
(1)今谷明氏は「白毫寺妙智房」を南都の僧とされたが、この人物は「東山白豪院長老妙智房」(『三宝院伝法血脈』)であり、律宗の中でも相当な有力者の可能性が高いこと。
(2)石清水八幡宮寺は正元元年(1259)八月、石清水検校の招請により叡尊が一切経を転読して以降、特に元寇を契機として律宗との関係が強まり、大乗院という律宗の拠点も存在していたこと。
(3)京極為兼の母は西園寺家の家司・三善一族の三善雅衡の娘であり、叡尊が伊勢内宮・外宮に一切経を奉納するに際して尽力した「右馬権頭為衡入道観證」と親族関係にあって、為兼自身も律宗との相当な人脈を持っていた可能性が考えられること。
(4)京都の「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」(福島金治氏)だったこと。
(5)金沢貞顕の父・顕時(1248-1301)は永仁六年(1298)四月一日に四番引付頭人を辞していて(『鎌倉年代記』)、これは同年正月に逮捕された京極為兼が三月に佐渡に流された直後であり、仮に白毫寺と金沢北条氏の関係が顕時の代に遡るのであれば、顕時も京極為兼に連座して実質的に責任を問われた可能性が考えられること。
といった事情があったのですが、白毫寺(白毫院)と金沢顕時との関係を裏付ける史料はなさそうなので、(5)は考えすぎだったかなと思っています。
それと、従来は東山太子堂・速成就院・白毫寺(白毫院)は同一寺院の異なる名前と考えられていたのですが、どうも速成就院と白毫寺は別の寺院の可能性が高そうです。
この点、法政大学准教授・大塚紀弘氏は山形大学名誉教授・松尾剛次氏の『鎌倉新仏教論と叡尊教団』(法蔵館、2019)の書評(『史学雑誌』129巻6号、2020)において、
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第三章「近江国における展開」では、近江国の末寺を取り上げ、石津寺と矢橋津、阿弥陀寺と木津の関わりなどを指摘する。その中で著者は先稿と同様、京都の白毫寺を「東山太子堂のこと」とするが、『結界法則』では速成就院と白毫院が別個に扱われている。太子堂は速成就院を指し、ともに東山にあった叡尊教団の律院ではあるが、白毫寺(白毫院)とは別寺ではなかろうか。
http://www.hozokan.co.jp/cgi-bin/hzblog/sfs6_diary/3100_1.pdf
とされており(p79)、私も大塚氏の見解が正しいように思います。
この見解が正しければ、仮に金沢顕時と速成就院(東山太子堂)との関係を史料的に裏付けることができたとしても、それと白毫寺(白毫院)は別の話、ということになります。
ということで、第一次為兼流罪の背景として律宗に関わる何らかの問題が存在した可能性は残ると思いますが、「白毫寺妙智房」の追跡はいったん休むこととします。
なお、祇園社の関係で「白毫寺妙智房」らしき人物がチラリと出てくるのは、和島芳男氏の上記論文で紹介されている『祇園社記録』の「持明院殿(伏見天皇)御代の条」です。(p2)
越前国敦賀津着岸升米、為当社修造料所、限六箇年被寄附之、
但津料内野坂・経政所以両所、被寄附当社之為本地垂迹御祈、
本地方妙智上人於当社可勤行之云々、垂迹顕尊法印可勤行之云々、
共以限永代被寄之、
ま、これだけだと何が何だか分からないと思いますが、理解してもらうためには和島論文を大量に引用した上での長大な説明が必要なので、今は止めておきます。
「妙智上人」が演じているのは、幕府の庇護を受けた律宗が祇園社≒叡山の利権に食い込むための先兵のような役割かもしれません。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その15)
5月29日に、
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58fe1a0e555b518966af5e016849f79b
を投稿して以降、「白毫寺妙智房」を検討してきましたが、小川論文に戻ります。
「五 佐渡配流事件の再検討」は(その14)で紹介した箇所の後に若干の記述がありますが、省略して第六節に入ります。(p41以下)
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六 鎌倉後期の公家徳政における「口入」の排除
「事書案」には、「政道巨害及其沙汰者、前々如此関東御意見有之、今度東使沙汰之次第超過先規、已及流刑」とあり、伏見院自らが、朝廷の失政が取沙汰される時は前々から幕府の「御意見」があるもの、と認めている。つまり幕府による廷臣の処罰は、流罪は過酷であるにしても、起こり得る事態であったのである。幕府がこのような権利を有するに至ったのは承久の乱以後のことであるが、皇位継承の度に幕府が治天の君を推戴する実績が重ねられる中で生じてきた思考であろう。
【中略】
それにしても幕府は持明院統の治世に対して、厳しい注文を付けることが多かったように思う。後嵯峨院に仕えた評定衆・伝奏は亀山院政・後宇多院政でも重用され、大覚寺統はその多士済々の遺産をそっくり受け継いだのに対して、雌伏の期間が長かった後深草院・伏見院の下には政務の実務に堪える人材が少なかった。また持明院統の治世においては公卿の官位昇進が総じて速やかで、また公卿そのものの員数も急増することが指摘されている。これは政権基盤の脆弱な持明院統の露骨な人気取り政策であり、任官政策の放漫さと受け取られた。
幕府は後深草院を推戴した当初から、その統治能力に疑問を抱いていたらしい。院政が開始されてまもない正応元年(一二八八)正月二十日、幕府は政務につき後深草院に申し入れることがあった。『公衡公記』によれば、その事書は基本的に聖断を尊重するとしながらも、
一、任官加爵事。理運昇進、不乱次第可被行之歟、
一、僧侶・女房政事口入事。一向可被停止歟、
という項目があり、後深草院政は強く牽制されている。後条の僧侶や女房が政治に容喙してはならぬというのが、公武政権の常に掲げる題目であった。治天の君に奏事できるのは人物・識見を厳選された、主に名家出身の伝奏であり、後嵯峨院以後はとりわけその傾向を強め、制度的に僧侶・女房の口入を排除しようとしたのである。
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いったん、ここで切ります。
この時期の朝廷の実態について一番詳しいのは本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)ですが、小川氏の説明は本郷氏の見解とはかなり異なりますね。
小川氏は「雌伏の期間が長かった後深草院・伏見院の下には政務の実務に堪える人材が少なかった」と言われますが、後深草院政期には、例えば「後嵯峨・亀山上皇の第一の近臣ともいうべき人物」(本郷著、p159)である中御門経任(1233-97)が伝奏として存在しています。
経任と不仲だった弟の吉田経長(1239-1309)は経任の出処進退を厳しく非難していますが、その経長自身も「後深草・伏見上皇のもとでさかんに実務官として活動して」(同、p264)います。
本郷氏によれば、後深草院政期(弘安十年〔1287〕十月二十一日〜正応三年〔1290〕二月十一日)は次のような状況です。(p159以下)
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ところが、二君に仕えたからといって、経任一人を責めるのは酷であるようにも思われる。というのは、亀山上皇の他の近臣も、後深草上皇に近侍しているからである。試みに正応二(一二八九)年の評定衆をあげよう。
近衛家基・堀川基具・源雅言・中御門経任・久我具房・平時継・日野資宣・葉室頼親
翌年の後深草上皇の院司は次の人々である。
西園寺実兼・源雅言・中御門経任・日野資宣・葉室頼親・吉田経長・中御門為方(経任ノ子)・冷泉経頼・
坊城俊定・平仲兼・葉室頼藤(頼親ノ子)・日野俊光(資宣ノ子)・平仲親・四条顕家・藤原時経
これをみると、亀山上皇の伝奏はほとんど後深草上皇の院司となっており、何人かは評定衆にも任じられている。経任のごとくに伝奏にはならずとも、上皇の側近くにあったことはまちがいない。父子ともに院司になっている例もあり、兄経任を厳しく非難した経長も、弟経頼ともども上皇に仕えている。
まもなく起こる両統の迭立という事象を知る我々は、ともするとそれを前提として考察を進めてしまう。しかしこの時にそうしたことを想起するのは誤りである。伏見天皇が即位した時点では皇統はあげて後深草上皇の系統に移ったのであり、廷臣にしてみれば、忠臣は二君に仕えずというなら、出家して前途の望みを絶つしかない。さもなければ、後深草上皇に忠勤を励むだけである。吉田家の三兄弟、経任・経長・経頼が揃って後深草上皇に接近していったことでもよくわかるように、たとえば一家の内で兄弟が互いに反目し合っている、所領争いの危機を内包しているといっても、一方が持明院統に、他方が大覚寺統に、という選択の余地はなかった。それが後深草院政期である。
後深草上皇の側からこうした事態をみると、どのようなことがいえるか。それはやはり、上皇の周囲の人材の欠如であろう。以前から上皇に仕えていた近臣には、せいぜい平時継・忠世父子くらいしか、訴訟制の担い手となるべき人がいなかった。だから亀山上皇の近臣を用いざるをえない。
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次いで伏見親政期(永仁六年〔1298〕七月二十二日まで)に入ると、正応六年(1293)には有名な訴訟制度改革が行なわれます。
そして、本郷氏によれば、
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この改革の意義であるが、一つはいうまでもなく、庭中訴訟を重視し、雑訴と別に扱うようになったことがあげられる。雑訴の方では、評定衆・文殿衆の二つの階層の人を同じ番数に結い、同一日に出仕させ、対応させている点が注目される。いまだ両者は、身分の違いを越えて同一の場で審議を行うに至っていないが、これはその先行形態である。
組織された上・中流官人をみると、およそ亀山院政期から評定衆・伝奏・奉行として訴訟に携わっていた人が多く、伏見天皇が抜擢した人物が見あたらない。亀山上皇の伝奏は、死没した日野資宣・冷泉経頼のほかは皆選ばれていて、後深草院政に続いて重用されている。天皇はこの前年に平仲兼を参議に任じたが、周囲の強い批判にあい、任官の正当性を日記に縷々書き留めている。名家の人々を高く評価するその文言はよく知られるところだが、一人の廷臣を公卿の列に加えることが批判の対象になるのであるから、更にすすんで独自の近臣層を形成し、要職に就かせることは、一朝一夕には成し得ない非常に困難な行為だったと推測される。
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とのことです。(p165以下)
このように後深草院政・伏見親政期のいずれも、単純に人材が不足していたというようなことはなく、また、朝廷の制度史を専門としている研究者からは、伏見親政の評判はそれほど悪くない、というか結構良いのですね。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その16)
小川論文で非常に気になるのは、まるで幕府が客観的・中立的立場から朝廷に正しい「政道」を期待したにもかかわらず、持明院統は人材不足・能力不足から幕府の期待に応えられなかった、という書き方になっている点です。
しかし、もちろん幕府も一枚岩でなく、その首脳部を構成する人々の考え方も様々であり、かつ時期によって首脳部の構成自体が変動しています。
弘安八年(1285)の霜月騒動で安達泰盛派を潰滅させた平頼綱が、その八年後の正応六年(永仁元、1293)、成長した北条貞時に亡ぼされるなど、幕府側も朝廷以上の激動の時期ですね。
そして本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』によれば、
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亀山院政は弘安八(一二八五)年十一月十三日に、二十条の制符を発する。文書審理の徹底、謀書棄捐、越訴の文殿への出訴の規定、訴陳の日数制限など手続法に属する項目と、別相伝の禁止、後嵯峨上皇の裁定の不易化、年紀法の制定など実体法に属する項目とからなるこの制符は、朝廷におけるはじめての本格的な訴訟立法ということができるだろう。整備された機構を備え、訴訟の法を内外に示した亀山院政のもとで、朝廷の訴訟制は一応の完成期を迎えることになる。
【中略】
朝廷で右の訴訟立法が行なわれるおよそ一年前の弘安七(一二八四)年八月、幕府は「手続法の集大成」と高く評価される追加法を発布した。この時期、安達泰盛の主導のもとで、幕府の訴訟制はその最盛期を迎えようとしていた。
京都と鎌倉の動向が関連をもっていることにはこれまでも何度か言及しているが、近年の網野善彦氏、笠松宏至氏の業績によるならば、この時もまた幕府と朝廷とは「東西呼応して」徳政を推し進めていた。幕府と朝廷とで相前後して重要な制法が発せられたことは、それを象徴している。
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とのことですが(p141以下)、しかし、「弘安八(一二八五)年制符が発せられたわずか四日の後、霜月騒動によって泰盛派は滅亡」(p142)してしまいます。
すると安達泰盛の期待に応えて徳政を推進した亀山院の立場も微妙となり、二年後の「弘安十(一二八七)年十月十二日、東使佐々木宗綱によって理由もなく東宮の践祚が要求され、亀山院政は突如として終わりを告げる」(同)ことになります。
何とも皮肉なことに、亀山院が幕府の期待に応えて「徳政」を推進したが故に亀山院政は終わってしまった訳ですが、幕府は別に朝廷の「徳政」の度合いを審査する客観的・中立的な存在ではないのですから、当たり前と言えば当たり前の話です。
なお、小川氏が言われるように、後深草院の「院政が開始されてまもない正応元年(一二八八)正月二十日、幕府は政務につき後深草院に申し入れることがあ」り、そこでは「僧侶・女房政事口入」を禁止するよう要請があった訳ですが、この申入れの後、間もなく善空(禅空)という律僧が朝廷の人事・所領政策に干渉するようになり、しかも善空の背後には平頼綱の一族がいたようです。
僧侶の口入を禁止するように要請した幕府側が、幕府の威光をひけらかす僧侶を通じて朝廷に口入を繰り返した、少なくとも後深草院側からはそのように見えた訳で、幕府の申入れなるものも文字通り素直に受け止めることはできません。
この善空の一件は小川氏も触れているので、後で改めて少し論じます。
さて、小川論文に戻って、続きです。(p42以下)
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その意味でいえば、為兼は伝奏でさえなく、「政道」について公的なルートでは何も奏上する立場にはなかった。為子も養子たちも同様である。為兼がしばしば伝奏の如き役割を果たしたのは事実であるが、それは「藤氏公卿不出仕之間、無人伝奏、或直問答、或以為兼卿問答、王威軽忽可恥可悲」と伏見院自ら認めるように、全くイレギュラーな事態であり、為兼が当時の「政道」の中心たる寺社の抗争・雑訴・叙位任官の問題について言上することは、すべて非分の「口入」とみなされた。ここで為兼が院政の実務を担当する廷臣に不可欠とされた文道(儒学)の才に乏しく、「無才学」とか「為兼卿文盲」と言われたのは致命的であった。「後ノ三房」を始めとする、大覚寺統の治天の君に重要された廷臣が、こぞって文道の才学を謳われたことを想起すればよい。「世の人、漢家の才のみ政道にはよろしとおもへり。就中、近比この趣を度々奏聞に及べるよし聞こゆ」(『古今集浄弁注』)という二条為世の歎声はそれを受けている。いかに為世が「歌は神代のことわざとして漢土の書いまだ渡らざりし時より出で来て、風刺風化の心分明に侍るものを」と虚勢を張ったところで、歌道は所詮「政道」の実際の用には立たないのである。
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「「無才学」とか「為兼卿文盲」と言われたのは致命的であった」に付された注(31)を見ると、「無才学」は『花園院宸記』正和二年(1313)六月四日条、「為兼卿文盲」は『園太暦』貞和二年(1346)十一月九日条ですね。
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