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Japanese Medieval History and Literature
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こういうことです
>井上さん
十条条坊遺構については、条(坊)間路や条(坊)間小路はご指摘の通りすでに発見されていましたが、その南を限る十条大路は今回が初の検出事例となります。当初はこの部分を「特殊な区域」とする見方があり、それに引きずられる形で南北3坪説が有力視されました。その後、条坊が条間南小路より南に延びることが確認された後も、南端の坪が南北に短い特殊なものではないかとする説なんかがあったのですが、今回の発見でここには九条以北と何ら変わらない条坊が存在したことが明らかになりました。この結果、十条条坊は特殊な空間とする説はその根拠を失い、当初の平城京の設計が南北十条であったことが確定したわけです。
ただ、十条条坊が早い時期(西暦730年頃まで)に廃絶する理由などは不明で、その解明は右京域における十条条坊の確認と共に、今後の課題といえますね。ちなみに羅城は西暦750年頃に、九条大路の前面に築かれます。ただしこれは羅城門を中心に東西1キロ程度のもので、都の前面全てを覆うものではなかったようです。
以上、まるで調査した本人みたいにコメントしておきます(笑)
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