というのは、
Если б знали вы, как мне дороги
Подмосковные вечера.
みたいな文には慣れてても、
そこにいきなりбыが出て来たり(бはありますが、笑)、
Я птица.と言えばいいものを、
птицейと格変化してると、
一時的ないし半永久的に頭が混乱状態、錯乱状態に陥るのです(笑)
(ロシア語学習者なら誰でも体験することかもしれません。)
そこで、このбыを訳出しようと焦ります。
If I should be a bird...
そうか、これで行くしかない!と一瞬思いますが、
shouldとбыは何の関係もないことに気づきます。
そこで、突然浮かんだこの未来の仮定を表すこのshouldを打ち消すため、
nowを持って来る(shouldじゃないだろ、nowだ!)、
そういうメカニズムで精神的過剰反応もしくは補償反応が
起きてるのだと思われます。
бы→should→nowと複雑な仮定でなく過程が含まれてるんです!
その後、何とか難局を乗り越えた主は、ひとり静かに、
Трудно высказать и не высказать
Всё, что на сердце у меня.
と公共の場では発表しませんが、反省するのです。
このフレーズを「直訳では伝わらないことが多い」と
意訳することはできないのです(笑)
また"высказать и не высказать"となってることには首をひねり、
「どっちか1つにしとかないと、わからんだろ!」と
グチをこぼしたりもするのです。
(ソ連の唯物論弁証法が背後にあるなんてことは
「直訳」と関係ないため、どうでもいいのです。)
主は公共の場では、
Так, пожалуйста, будь добра.
Не забудь и ты эти летние
と言うのです。
前半はロマンに浸るために必要なだけで、
言いたいことは"Не забудь"だけなんですが…
もちろん、
Песня слышится и не слышится
В эти тихие вечера.
みたいな弁証法的な文に出会うと、
「歌は聞こえる、そして聞こえない」とここでも「直訳」を
持ち込みます。
この頃のロシアは社会主義バリバリのソ連でしたから、
レーニンやマルクスの教えを踏まえ、弁証法的に
「歌は聞こえると同時に聞こえない」とか、
やや煩雑にはなりますが、
「歌は聞こえる様で聞こえず、聞こえない様で聞こえる」
と訳すのが、当時のソ連文化に基づいた意訳だと思われます。