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悟り全般に関すること【その2】
1
:
慧空
:2015/06/23(火) 20:36:48
悟り全般に関することを何でも書いてください。
前回のスレはこれです。
http://jbbs.shitaraba.net/study/12486/
#1
73
:
孤独な羊
:2015/07/11(土) 13:38:19
悟らぬ人は皆が止まってる青信号を独りで渡り歩くことを恐れる
悟らぬ人は皆が止まってる青信号を独りで渡り歩いてはならない
悟らぬ人を皆が止まってる青信号を独りで渡り歩かせてはならない
74
:
慧空
:2015/07/11(土) 19:37:06
羊さん
またまた羊さんの考えを沢山披露してくださり、ありがとうございます。
せっかくですが、私はどんな考えももう沢山という感じです。
75
:
孤独な羊
:2015/07/11(土) 20:04:27
表現が過ぎたことを反省してました
表現できないので、少し控えることにします
76
:
孤独な羊
:2015/07/11(土) 20:06:55
慧空さんも、お疲れなら少し休まれてくださいね
77
:
孤独な羊
:2015/07/12(日) 14:55:16
生きる喜びは、人との共存共生に自分らしさを活かせるところにあるはずです
コミュニケーションが嬉しい
だからこそ他人に感謝して親切であることが基本になければならず、自分らしく生きていくべきだと思う
けれども現実には、他人に感謝して親切であるような基本なんてありません
それが悟りを難しいものにすり替えているのです
それでも基本に忠実で自分らしさを貫く力が必要で、それこそ現代における悟りといえるものではないでしょうか
生きてる限り悟り切ることは難しい
悟らぬ人は皆が止まってる青信号を独りで渡り歩くことを恐れる
悟らぬ人は皆が止まってる青信号を独りで渡り歩いてはならない
悟らぬ人を皆が止まってる青信号を独りで渡り歩かせてはならない
これは一切皆苦である要因として書いたことですよ
自分を生きる今を生きる知恵を悟りとするなら、それらは結果云々にはないことなはずです
78
:
孤独な羊
:2015/07/13(月) 11:31:20
少し控えるとしながら、相変わらず幾度も申し訳ありません
いまの私は結構な限界で、ここの皆様には本当に迷惑を振りまいてしまっていますが
それについて謝罪の思いはあるのですが、でも又こうしたご縁により生かされて学びに入らせて頂けるという事実にあって感謝しています
私にとって殆どの人が生きる状態とは、こういうことではないかと思うのです
ありがとうございます
僅かづつ精進させていただけています
79
:
孤独な羊
:2015/07/13(月) 12:01:13
悪縁を断つため悪を生みださないため、悟ろうとする人は我を抑えるようになって自身を殺していきますよね
幻想から観る悟りは、この辺りのことなのでしょう?
何事にも誰に対しても感謝のできる姿勢が、悪に対してもそのようになければ悟りではないとされる
ある見方からは、こうした勘違いで善悪もないとするような誤った概念を生じさせてはいるのではないでしょうか?
悪の中の善により私が正される事実をみても、私自身が悪に働くというのは、やはり悟りではないわけです
現実が幻でも、心までは幻にはなりません
80
:
名無しのN
:2015/07/13(月) 14:10:20
はじめましてmm 数日前に こちらを見つけまして 影ながら読ませていただいておりました。
孤独な羊さん はじめまして、まさに迷える子羊のように感じて見てました。
まあそれも 私の創造性で見た状態であって、そのような実態は存在しませんね?
孤独な羊さんも ただ思考がそのように湧いてでているだけですね。
何故 そのような思考が湧いて出てたのか考えたことはありますか?
この世界の創造は 自由なので 孤独な羊さんの思うままにこの世は創造されます。
81
:
孤独な羊
:2015/07/13(月) 14:53:09
名無しのNさん、ありがとうございます
実態は存在しなくても、心は存在しませんか?
思考ではなく心から湧いてくる感覚が悟りではないでしょうか
悟りを言葉に置き換えるから思考ではないでしょうか
自由に描けるのは心だけです
なので空があり無があるといえるのです
82
:
孤独な羊
:2015/07/13(月) 14:55:11
空だ無だとすれば、死ぬには優しくて生きるには苦言です
それでも現実は生きるためにあるのです
生きることが愚かな象徴なら、生を殺すでなく愚かな象徴をぶっ壊す
悟りによって喜びながら、ぶっ壊すべきものはあるはずです
それにピッタリの句がありました
羯諦 羯諦 波羅 羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
83
:
名無しのN
:2015/07/13(月) 15:14:58
仏教用語は 知らないのでわかりませんが、マハルシは愛はハートに在ると言っていましたね。
身体がどこに行こうと ハートは何処にも行きません。常に自由でそして不動です。
かたちを持たない 存在そのものです。
ハートは初めから自由ですが 肉体が無ければ 優も苦も知りようがありません。
生きることで愛を、空を、無を、知ることができるのです。
84
:
孤独な羊
:2015/07/13(月) 16:29:48
生きることに執着する限り人は悟りきれず、どうにもならない苦しみは残るのではないでしょうか
また生かされる限りは生きることに執着するべきだし、そうしなければならない自然の摂理と思うのです
生きる限り互いに学び学ばされ、生きることに執着しなくなった時にだけ悟れる
人の生命には限りがなく苦しみに限りがない
悟れて生きる理由もなく仏陀として生きるようなことが可能なるのは、例外中の例外だけの話
それでも、あらゆる分野で憧れを抱かせるような例外は生じているのでしょう
悟って生き続ける状態とは常に清らかであり、ギラギラと目覚めている
善を生じさせるためでしか残れません
つまり悟りの心は完璧なのに、大抵の私達の心は完璧でなく悟り切ることがない
悟りは人類が悠久の生命としてあるべき自然に生きなければならないことを教えるためであろうものなのです
そして現代は末法として予測されていた
ははははははは
85
:
孤独な羊
:2015/07/13(月) 16:32:45
名無しのNさん
さようです
>生きることで愛を、空を、無を、知ることができる
ですねですね素晴らしい
生かさねばなりませぬ
まさに、そうなのであります
86
:
孤独な羊
:2015/07/13(月) 16:58:04
たとえば因果を業として片付けるような
人類に都合の良い理屈は蛇の智恵とでもいうでしょうか
悟りの智恵は、慰めであり癒しでもあります
因果を互いの学びとして、互いに褒め称え敬う
慰め癒すべき道理へ導くものでなければならないはずなのです
蛇の智恵に惑わされようとも、現代が程遠い現実になった事実は否めないのです
美しい言葉を並べれば偽善とされ、自業自得と鼻で笑われてしまうものですがね
それでもというのが悟りへの道なのでしょう
87
:
名無しのN
:2015/07/13(月) 17:40:20
そうですね、この宇宙は 全て 真善美 です。
ですが、真善美を知るには 相対を知る必要がありました。
それが 偽悪醜 かもしれません。 でも それも実は 存在していません。
二元の創造でしかありません。 全て 真善美の為に世界は存在しています。
88
:
慧空
:2015/07/13(月) 18:04:45
んーーん、どうも一人芝居のニオイがしますが、違いますか?
違っていたら、ごめんなさい。
誰か他にこの掲示板に書いてくれる人はおられないのでしょうか?
でも、そんなことを言ったら、まずお前が書けと言われそうですね。(^o^)
89
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 00:11:40
慧空さん、ひとり芝居はしてませんよ
名無しのNさんには、ちゃんと相手してもらってます
別に存在してる方です(^o^)
90
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 00:17:38
名無しのNさん
真善美の為に世界は存在しているのは結果論でしょうね
幻想にある現実は、そのようになっていません
真実とした真善美があっても、幻想としての真善美にありません
現代も幻想はハチャメチャです
というか戦国時代と、さほど変わりない
そういう星としての、あり方なのかもしれません
91
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 00:23:44
まあ沢山、人に迷惑を掛けて、それだけ多く後悔もして
反省できるようになって、感謝もできるようになるということですよね
段々に人の関わりを断っていくというのは悟りの過程としては自然な現象でしょうかね
人の関わりを断つとか悟るようになるというのは、それだけ死期が迫ることも意味するわけでしょう
92
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 00:27:42
目隠ししてると分からない世界観てありまして、関わらない知らない眠ってることが楽だったりしますよ
そういう時には悟ろうとして悟りきれないように、関わろうとして関わりきれない奇妙さだってありますよね
けど全てが何らかの形で間接的に関わているし、関わりたくないのに関わるしかならなかったりしていきます
関わる者は関わらずに居られないし、最終的には誰もが直接関わることになる
悟りだって、人生だって、そういうものでしょう
しかし物騒な出来事に無縁だと思ってるうちは、甘い証拠ですよ
そんな単純な話なら、まだまだ現役バリバリってことですかな?
93
:
名無しのN
:2015/07/14(火) 09:11:10
歴史も 情報も 教育も 人間の知識です。
そして それは 記憶の中で存在しています。
記憶は記憶として 創り上げられたもの 事実を証明するには個々に異なります。
平和を知るには戦争が 愛を知るには愛ではないものが必要だったということです。
個としての肉体は「死」ですが、意識から見れば 夢が消える ただそれだけなんですよ。
94
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 12:56:04
その通りです。
それだけ愚かな幻想により私たちは真実を学ぶということなのですね。
俯瞰しうる立場なら、俯瞰できるのでしょう。
美となった真実は、感謝と喜びとして還元したくなるのです。
愚かな幻想を断つ必然性の示唆のもとに。
真実主観となった、それさえも欲と言えば欲で、悟りとともに死んでいくという選択もあるでしょうけどね・・。
95
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 13:14:07
幻想とて喜びの表現にないのなら、苦となり喜びとして消化する苦は学びとしてだけ存在しうることになるものではありませんか
つまり、苦の学びの中に喜びとしている時点では、学ぶ要素にあるため悟り切れてはない状態にあるわけです
悟り切った後の学びではない苦という実態ならば、苦は苦であって美化すべき事実ではなくなります
苦の中に喜びとした表現をする幻想になるのではないでしょうか
恐らく悟りを得た後では幻想は美しく装飾するものであって、悟りを得るまでの美しく装飾された幻想として眺め続けることとは違くなります
美しいのは真実であり、幻想は美しくはありません
目指すところは喜びとして表現される幻想なのだ
と、いうことではないでしょうか
96
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 13:16:08
前文内容、表現不足でした
すみません
97
:
名無しのN
:2015/07/14(火) 13:51:27
真実を学ぶということは 学ぶ自我が存在するということになりますから 少しニュアンスが違います。
学ぶ というのも知識ですから 自我の栄養分になります。
悟りは 得るものではありません。 悟りは言葉の概念ですから 悟りそのものは
存在していませんので 得ることはできません。目指すものも未来思考ですから
目指すものもありません。観るのは 外側の世界ではなく 内側なのです。
実は 目が見えるということで 観るものを 見えなくさせているのです。
98
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 15:16:03
あは^^名無しのNさん、おもしろ〜いですよ
久しぶりに小笑いしました
確かに私は適切な表現としては、勉強不足なので至れてません
そこまで拘ってしまえば私の個性も失われるので、ご理解ください
しかし、名無しのNさん
あなたは内側だけ観ているだけで、満足でしょうか?
そうではありませんよね?
99
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 15:56:14
いまという瞬間を美しく生き続ければ素晴らしいのであるわけですが、幻想世界はそのような体制にはないのです
ですから結局、折角の理詰めの答えも机上の空論となってしまうものでしょう
100
:
名無しのN
:2015/07/14(火) 15:58:15
大丈夫です、孤独な羊さんの個性は 失われることはありません^^
仏陀もキリストにも 個性は逆に 際立っていたでしょう?
例えば 同じお腹から双子に生まれてきても まったく同じ というのはないのと一緒です。
わたしに何か 現状で不満があるのか と聞かれたら 今特に不満はありません。
でも 満足ということもありませんね。
内観は 常に更新されるのですよ。
昨日とまったく同じということはありません。
わたしを知る というのは 楽しい作業ですよ?
もし 何か捉われているものがあるなら 何故 それに捉われるのかに気づく事です。
それが ここでいう「自覚」ではないでしょうか。
101
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 17:01:03
ありがとうございます
囚われですか?
私は生きることの囚われがありますね
なのに私のスタンスは生きることには囚われるべきなのです
102
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 17:03:40
わたしね、いま結構な限界なんですよ
生きることの限界です
いまの私に出来ることが、この程度にしかないという時期に差し掛かっています
それで色々と改めて学べたりもするのですが、基本的なことは同じことを繰り返すだけ
このことを表沙汰にすると外部の人とかって否定しますよね
ここでは多分理解が進んでるから指摘されずに来てますけど
限界をつくりだすのは自分だというでしょ
確かに、そうなのでしょう
今日と明日の限界は違っても、今という限界はちゃんとあります
線引きの難しい話で、行き過ぎれば死んでしまったりもする
現代人の特徴は、自身も含めて、こういう匙加減の理解できない危険がはらんでますね
私の場合、このままでは納得できないことが多いので、何としても限界を上げていくつもりで生きています
103
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 17:07:48
つい、いうべきでないことを・・
ま、いいでしょ
104
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 17:22:35
生きることにも囚われるべきではない
本当に、ここの人達は、そう思いますか?
そう思われるなら、私を説得してくれませんか?
105
:
名無しのN
:2015/07/14(火) 17:57:40
孤独な羊さんの納得のいかないものは 全て 外側の世界の現象で
リアリティがあって いかにもそれが存在し
あなた自身のことのように話していますが 実はあなたの物語でしかありません。
でも あなたが一番 納得できないのは
本当は あなた自身そのものです。
ですから 内観することをすすめるのです。
あなたが世界に物語を付けずに見るなら
この程度という思考も 限界も 思い込みでしかないことが理解できるでしょう。
世界は物語の無い ただの現象でしかありません。それが 納得できたとき あなた自身の内側が
あなた自身をそのまま認めることができるでしょう。
記憶は真実ではありません。
物語も真実ではありません。
この世に真実をみつけようとすることはできないのですよ。
ですから 意識が在ることだけが真実 と言っています。
106
:
佐藤
:2015/07/14(火) 19:04:15
羊さん
>私の場合、このままでは納得できないことが多いの
>生きることにも囚われるべきではない
そう思ってらっしゃって何か目標があるのであれば、それに邁進すれば良いのではないでしょうか?
名無しNさん
>意識が在ることだけが真実
真実と仰られる意識を捨ててみたら如何ですか?
それは特定の状態の一つにすぎないように思います。
107
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 19:08:24
名無しのNさん、ありがとうございます
意識があることを真実とすれば、内観により意識を生じさせたもの
それは外側の世界の現象によるものですね
ともすれば外側の世界の現象は、意識にとって非情に重要な役割を担うということです
意識にある真実が何かについて、名無しのNさんは真善美や愛として表現されました
ですから外側の世界の現象にある自己以外の意識に対して、私たちは自己意識と同様に考えるようになるのではありませんか?
それこそが真善美や愛であるといえるのではないでしょうか?
そうしますと自意識には真実ではない記憶や物語も、単なる外側の世界の現象として片づけるわけにもいかないはずです
真実となる真善美や愛そのものに対して目を背くと同等行為と見做せるのではないのでしょうか?
108
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 19:12:12
佐藤さん、こんばんは
>納得できないことが多い
すみませんでした、ここ、つっこまれますよね
単純には仰るように邁進するだけでいいです
その手段の一つとして、こうしていたりということがあるわけなんです
109
:
佐藤
:2015/07/14(火) 19:20:13
>単純には仰るように邁進するだけでいいです
羊さんの事は、よく分からないので適当なコメントになりますが。。
でしたら、良いのではと思いましたよ。
やりたい事私も見つけてみたいものですが無理みたいです。
110
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 19:20:48
名無しのNさん、それとも、あなた方の仰る内観というのは外の意識からは一切の情報を取り入れないで成し得る方法なのでしょうか?
であれば生など全く無意味だとする思考にも合点いきます
ただ可能とは思えないし、この幻想世界が内観にとって無意味とも思えません
111
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 19:23:52
佐藤さん、そうなんですが・・
佐藤さんは、やりたいこと楽しいこと嬉しいこと・・
何もありませんか?
112
:
佐藤
:2015/07/14(火) 19:32:16
一つだけありますよ
息子と遊ぶのは楽しいです。
でも例えば離婚して離れていっても、何とも思いません。
113
:
佐藤
:2015/07/14(火) 19:38:37
こんな事いうのも何ですが、
ここは危険だと思いますよ。(^_^;)
人生を楽とか幸せとか愛とか求めたいのであれば、
小悟で止めたほうが良いです。
114
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 20:46:50
佐藤さん、危険ですかぁ?
人生は楽とか幸せとか愛とか求めるものですよね?
それを手にするかというと別物でしょうけど
命を軽々しく扱うことだけは、とんでもない間違いにあるということは疑いません
115
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 20:49:56
私は、ここの方達とも考え方は逆さっぽいところがありますね
でも求めるところや本質は一緒でしょう
116
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 20:54:26
息子さんと遊ぶのは楽しいのに離れてもなんとも思わないって、どういうことなんですか?
愛されてはいないのですかね?
退屈で悲しくないのでしょうか?
虚しいだけの人生なんでしょうか?
117
:
孤独な羊
:2015/07/14(火) 21:21:46
なんで皆、死んでも屁ちゃらだとか虚しいだけで納得するんだろ
人生って楽しめるものなのにさ
楽しみ方が間違ってるだけでしょ
118
:
孤独な羊
:2015/07/15(水) 00:24:25
慧空さん、皆様、色々とお世話になりました
でも、やはり私の居場所はここにもないようです
いまのままでは、たぶん、どこにも見つけられないままだとは思っています
それも仕方ありません
とりあえず異端な意見で、ご迷惑をお掛けしたこと、お詫びして今度こそ本当に去りたいと思います
皆様、お幸せになられてください
ありがとうございました
119
:
慧空
:2015/07/15(水) 05:57:13
羊さん
迷惑だなんてそんなことは決してありませんから。
大丈夫ですよ。
居場所がどこにも無いのは、誰しも同じですよ。
居場所や安住の地なんてものはそもそもどこにも無いのです。
なにせ、一切皆苦な訳ですから、居場所なんてあるはずがないのです。
私だって居場所なんて無いんですよ。
気が向かれたら、いつでもなんでも書きにいらしてくださいな。
120
:
佐藤
:2015/07/15(水) 07:42:10
>とりあえず異端な意見で、
まっとうな意見だと思いました。^_^
普通、人生一回きり楽しみたいですよね。
深い悟りを得ると楽しめなくなるのは確かだと思います。
121
:
佐藤
:2015/07/15(水) 07:46:52
>息子さんと遊ぶのは楽しいのに離れてもなんとも思わないって、どういうことなんですか?
でも、普通ですよ。
例えば仕事中、家庭の事考えていない方がほとんどだと思いますし
>愛されてはいないのですかね?
一般的な家庭よりは平和だと思いますよ。
>退屈で悲しくないのでしょうか?
どちらかと言うと、放っておいてもらったほうが嬉しいです。
>虚しいだけの人生なんでしょうか?
虚しいというより、飽きているといったほうが良いかもしれません。
122
:
名無しのN
:2015/07/15(水) 14:39:31
自我は どうしても問題を作って 答えを知りたがります。常にその繰り返しです。
当人の答えは 他人には持ち合わせていません。 なぜなら 目の前に見える世界が
違うからです。どれひとつとして同じものなどありませんね。
自分でみつけるしかないのです。
123
:
名無しのN
:2015/07/15(水) 18:10:53
佐藤さん はじめましてmm
{意識だけが真実という意識を捨ててみられたら如何ですか?}
についてなんですが、意識は気づきでもありますし 愛でもあるし 空でもあります。
非二元である「それ」でもあります。
「愛が真実だという気づきを捨てろ」 となると 捨てる存在はありませんが
自我ということになりますね。
そうですね ただ それに気づいている という状態で自覚しています。
124
:
佐藤
:2015/07/15(水) 18:36:25
>意識は気づきでもありますし 愛でもあるし 空でもあります。
非二元である「それ」
それを主張されるという事は、それにとらわれてる可能性があると思いますよ。
ただの認識のひとつなのに
自我は、
あーやっぱりそうだ
と納得しがちですが、メスをいれてみては如何でしょうか?
125
:
佐藤
:2015/07/15(水) 18:48:44
これは、慧空さんのうけうりですが
意識を内に集中すると、自我がゴリゴリ削れていきますよ。
仰っているそれとか に逃げないというかそういう認識起こりにくくなると思います。
ハートの私を捉えて、自覚やられるのも良いかなと思いました。
126
:
佐藤
:2015/07/15(水) 18:53:43
大悟されるのであれば、アドバイタ、ウパニシャッドの理解は捨てた方が良いと思います。
127
:
名無しのN
:2015/07/15(水) 18:56:01
なるほど、主張されるように感じたのですね?
今 非二元 流行ってますからね^^
O女子のように 行き過ぎた言葉を使ってしまったんですね?(笑)
気付けてよかったです ありがとうございますmm
個人的にはI AMの方が好きです。
物語を真実ではないと相対的に 伝える手段のような感じで使ったのですが。
ですが 普段も 特定の状態で在るこの方が多くなってきましたので
自我との間を行ったり来たりという感覚です。
128
:
名無しのN
:2015/07/15(水) 18:57:23
アドバイタ、ウパニシャッドは知りません。
実は 非二元もよく知りません。
129
:
佐藤
:2015/07/15(水) 19:11:22
I amも捨てられた方が良いと思います。
私も昔大好きでした。笑
慧空さんに捨てた方が良いと言われ、衝撃を受けた思い出があります。
何かに頼っては、囚われてる自我が追い込まれないというか表面化しません。
130
:
佐藤
:2015/07/15(水) 19:13:32
>特定の状態で在るこの方が多く
それに陥ろうとする所で、いかんいかんと自覚されると良いと思いました。
131
:
名無しのN
:2015/07/16(木) 08:55:21
{それに陥ろうとする所で}
うーん。陥るという感じより ただ行為だけがある って感じです。
132
:
佐藤
:2015/07/16(木) 09:32:04
それは在るというより観照意識に近いと思います。 その時に自覚されると行為をしている私に意識が向くかと思います。
133
:
名無しのN
:2015/07/16(木) 10:42:40
そうか、観照意識って言うんだ。
行為だけがあるときは 心が空っぽで
すべてが(私も含めて) 夢の中という感覚です。
そうか、それに 気づくのですね?
134
:
名無しのN
:2015/07/16(木) 11:00:33
行為に集中するってこと ですよね?
135
:
孤独な羊
:2015/07/16(木) 13:21:32
再登場です^^;ご免なさい ※お許しください
話が変わってしまいますが、多くの苦しみの原因は人災によるものです
その人災の根源はというと個々の自覚不足によります
なので自覚がなければ、人災そのものを滅することがないとなるわけでしょう
人は解脱後も苦しむのが現実ではないかと私は睨みました
これは解脱後に初めて漸くカルマの精算段階に入れるからという理屈にあります
といいますか解脱後の苦しみによってしかカルマというものがあるとするなら精算できないわけです
ここで善悪ないとしてしまうと元も子もなくなるはずなのです
カルマがあるかないかについては、やはりあるだろうと推測できるのですが、でも解脱前のカルマ論に納得することは解脱に対して合理的ではありません
しかし人災はできるだけ少ないにこしたことがないものなのですよ
もっともっと善の必要性を理解してもらわなければならない
私は、そう思うのです
幸も不幸も善悪もあるが、これら全部を経験しないと悟りは開かないので一切皆苦を、ぶち壊すなどは、やはり不可能だということになる
それでもというところが、やはり悟りではないのでしょうか?
136
:
名無しのN
:2015/07/16(木) 13:59:43
最近は
毎朝 目が覚めるたびに 意識の夢の中の1日がはじまるんだな。
って 思うようになってしまってます。
そう思った日から何故か 夢を見なくなったんです。(今のところですけどね
わたし自身も夢なんだって 思うようになってしまって。。。
わたしも含めてすべてが夢なんだ って思うようになってしまって。。。
でも 人とコミュニケーションとると リアリティが出てきて
現実っぽくて自我も湧くし 感情もあるし
夢と現実を 行ったり来たりしている状態です。
実はこの状態になってから
こうすれば こうなる っていうのも 実は思い込みで
小悟 中悟 大悟ってのも 夢の中の思い込みで そんなものはなくって、
解脱ってのも すべて 夢の中の思い込みで そんなものはないんじゃないかって
思うようになっています。
悟りも 夢の中のゲームなんじゃないのかなって・・・。
ただ そう設定されてるだけで、
目的なんて 夢の中にしか 存在しないんじゃないかって。。。
ただ この思い込みに気づくことなんじゃないのかなって。
すべてが 夢だって ただそうやって気づいてるだけで よい気がします。
ほんとうは もっとすごく 単純なんじゃないのかなって。。。
137
:
孤独な羊
:2015/07/16(木) 16:10:26
私の価値観では、この世界が行うことには悪の度が過ぎている
それは私の価値観でしかないが、それでも私は、その価値観に生かされる存在なのです
自覚とは、そういうもののことではないでしょうか?
私は外の価値観を認めるために許容可能な範囲で生涯努め続けてきた立場なのですよ
そして多くの人は、そうあるでしょう
自覚にあったとき、それは極めて単純で温かく嬉しく喜ばしいことだったと気づけるものではないのでしょうか
それが涅槃なのかもしれないとい意見にあるのです
138
:
mi
:2015/07/16(木) 18:48:42
はじめまして。先日ここを見つけ、興味深く見させてもらってます。
明け渡しって誰に何を明け渡すのでしょう?
自我が薄くなるっていうことは自我でしょうか。誰に?
Nさん、行為に集中する私では?
139
:
佐藤
:2015/07/16(木) 19:07:27
>Nさん、行為に集中する私では?
そんな感じです。
でも難しいかもしれません。
Nさんは意識が内に向かいづらい状況なんだと思います。
苦があると思いますから、特定の意識に逃げないで、そこに向き合うのも良いと思いました。
140
:
mi
:2015/07/16(木) 19:34:11
もう一つ質問させてください。
自我が高次元、平行現実など含めた全宇宙の創造主ということですよね。
でも、自我の創造は無自覚に行われているのですね?
全てわかっているわけではなさそうなので。
141
:
孤独な羊
:2015/07/16(木) 20:35:09
miさん、はじめまして
私の意見では、明け渡しというのは空とか無を悟るというような意味だと考えています
一切の執着から解放された涅槃の境地のことだろうかと
しかしですよ、ここは涅槃ではない現世です
空や無、涅槃の境地として存在している場所ではないと信じています
でも全宇宙の創造主だなんて、人間にわかるのですかね?
それと、自我の創造が無自覚に行われている?これはどういう意味なのですか?
全体的な歯車としての自我とか・・そういう意味合いなのでしょうか?
142
:
孤独な羊
:2015/07/16(木) 20:45:55
miさん、すべて理解されてるのでしたら、色々と教えてくださいね
よろしく、おねがいします
143
:
孤独な羊
:2015/07/16(木) 21:18:00
仮であっても幸せだと思ってる環境は、そのまま幸せなことを認めてあげなければならない
不幸であることも決して不幸でなく、悟りという道が開けるようにはなっているからということなのでしょう
これらの過程全部が悟りには必要であるのだとは言えるからでしょう
実際は殆ど悟ることができずに、命の犠牲が増大化する一方ではありませんか
悟りの道筋そのものが危うい時期なのだと感じています
末法という概念が、悟るものが一人もいない世界として表現されていたような気がしますが、悟る前に死んでしまう
まさに、そういうような状態だという気がしてならないのです
幸も不幸も善悪もないと此処の皆さまが仰っていることは、険しい環境にばかりに偏った見方をしなければ正しい見解と言えるものでしょう
でもでもしか〜し前述したように自覚により人災そのものを滅するという目的が、不幸や悪を生じさせるのであれば自覚者が人災そのものを生じさせる立場に陥っているのでありま〜す
違うでしょうか?
多言勘弁^^;
144
:
mi
:2015/07/16(木) 21:32:38
羊さんお返事ありがとうございます。
私の質問は、慧空さんの書き込みを基にしていますので。。
私は何を理解しているわけでもないのです。
145
:
慧空
:2015/07/16(木) 21:52:10
miさん
>明け渡しって誰に何を明け渡すのでしょう?
>自我が薄くなるっていうことは自我でしょうか。誰に?
>Nさん、行為に集中する私では?
これは、上で佐藤さんも言われたように、本質的にはそういうことになります。
なぜなら、すべてのことがらは「私」という自我の認識ですから。
>自我が高次元、平行現実など含めた全宇宙の創造主ということですよね。
>でも、自我の創造は無自覚に行われているのですね?
>全てわかっているわけではなさそうなので。
この点についても、大凡はそういうことになります。
すべては自我の認識ですから。
そして、そのように起こってくるこの世界の展開そのものが「私」という自我の認識であり、
自我の現れそのものなのですが、
仰るように、そのような自我の現れは、その現れの大半が言わば無自覚に起こっているものなのです。
つまり、自我の現れの大半の部分については、無自覚な訳ですから、どうにもならないものなのです。
自我の観点からすると、ただ受け取るだけのことがらなのです。
自我が高次元、平行現実など含めた全宇宙の創造主ということですよね。
でも、自我の創造は無自覚に行われているのですね?
全てわかっているわけではなさそうなので。
146
:
mi
:2015/07/16(木) 23:28:02
慧空さん、お返事ありがとうございます。
でも明け渡しは自我を誰に渡すのでしょう。
自我ではない誰かがいるというニュアンスに取れるのですが。
147
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 00:16:41
慧空さん、割り込みで申し訳ないですが質問させてください
併せて気配りしないで、いつも嫌な思いさせてることも謝罪しておきます
皆様にも、そう思ってます(ふつうは、そろそろ相手にされない頃合いは自覚してます^^;)
>自我の現れは、その現れの大半が言わば無自覚に起こっているものなのです。
>つまり、自我の現れの大半の部分については、無自覚な訳ですから、どうにもならないものなのです。
>自我の観点からすると、ただ受け取るだけのことがらなのです
要するに、すべてが思い込みであり、幻であり、決定された未来で、何一つ学ぶこともなく、悟る悟らないさえもないとといった感じなのでしょうか?
それとも意識以外の部分の現象について限定されたことなのですか?
あとですね一応、誤解があるといけないので伝えさせてはもらいますが、慧空さん、私は批判はしてますが敵対心とかからではないですよ
慧空さんの辿った人生には多く共感してますこと、ご理解いただきたいですね
これでも私から皆様には親近感わいてるんです
148
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 04:14:32
皆様と会話が出来ただけで、気持ちが少し舞い上がっていましたが私の欠点です
本当は言い訳もしたいところですが、いろいろ事情がありまして、まずは謝罪いたします
ありがとうございました
149
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 08:53:49
何があっても平気という発言は、本当に慎むべき言動にはないのでしょうか?
真か偽か私には、判断できません
それは加護の上での傲慢な自我によることかもしれないものです
私にいえることは命は尊く敬うべきものにありまして、疑うべき軽いものではないという事実です
皆様にも人類にも真の幸福が訪れますように願っています
ありがとうございました
150
:
名無しのN
:2015/07/17(金) 09:24:39
虚無感は 一時期 味わいました。
自我の絶望ですが、それも自我の自作自演だと気づきました。
それは みごとに破壊されました。
それも この世の楽しみのひとつと感じます。
実際は 苦も存在しません。
151
:
慧空
:2015/07/17(金) 11:27:03
miさん
>でも明け渡しは自我を誰に渡すのでしょう。
>自我ではない誰かがいるというニュアンスに取れるのですが。
明け渡しにも、いろいろありまして、ちょっと複雑なんです。
明け渡しを分類するとするときの切り口としては、次の3つがあります。
① 明け渡す特定の対象があるか無いか。
② 明け渡しの内容、つまりどのような囚われを明け渡したか。
③ 明け渡しの深さ、つまりどの程度の数の囚われを手放したか。
①について、よくある明け渡しの例では、明け渡す何らかの対象が存在しているようです。
宗教系の方々でよくある明け渡しは、自分を神やイエス、あるいはマスターに明け渡すというものです。
その他の例だと、宇宙な世界に明け渡すというのもあるようです。
ちょっと希な例として、親やパートナー等に明け渡す例もあるようです。
さらに希な例として、仕事や何かの取り組みに明け渡す人もいるかもしれないと思います。
その一方で、そのように何らかの特定に対象に明け渡すのではなく、特に対象をつくらない明け渡しもあります。
その典型的な例は、「すべて」に明け渡すというものです。
特定の対象に対して明け渡す明け渡しより、対象無しに起こる明け渡しの方が深い悟りが起こる傾向があるのだと思います。
という訳で、明け渡しにもいろいろあるんです。
152
:
mi
:2015/07/17(金) 11:55:08
慧空さん、お返事ありがとうございます。
慧空さんの書き込みされている明け渡しは③の対象が存在しないものですね。
愛に包まれた感じがしてありがたくて涙が出てくるという突然来るもので意図しないもの
ですものね。(心当たりがありますがあれは何だったんだろうと当時は思いました)
ありがとうございました^^
153
:
mi
:2015/07/17(金) 12:01:55
あっ、でも慧空さんは全て自我の考えという事をおっしゃっていますが
直観は自我から来ているものではないと確信もっていますよ^^
154
:
慧空
:2015/07/17(金) 12:32:19
miさん
>直観は自我から来ているものではない
このあたりはとても微妙ですね。
確かに、直感は自我から来ているものではないような感覚はあります。
しかし、その感覚に囚われすぎると、何か特別なものがあるのではないかと思いに発展し、
そのような特別なものや対象に対する囚われが残ってしまいます。
一切のことがらは、私という自我の認識であり、自我そのものなのです。
ここは、悟りを深めていくとき、とても重要なポイントになります。
155
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 13:55:27
何があっても平気という観念にある私ならば、私なら今直ぐ死を選択するでしょう
一切皆苦に生きる知識が奪われる言葉なのです
一切皆苦には学びがあります
なので生きれるのですが、それは悟りきれてないと言えます
何があっても生き抜くと置き換えなければ危険極まりない言葉ではないでしょうか
喜びながら生き抜く方法
それは、やはり清浄である善にしかないはずですが、相変わらず誰もそうは思われないですかね
156
:
mi
:2015/07/17(金) 14:09:34
慧空さん
直観は自我が伴う思考に染まっていない心の部分というか
離れてあるものではないのです。特別なものや対象ではなく。
157
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 16:20:28
生きる大切さを訴える私の考え方は、どこが共感持てないでしょうか?
それ以前に挙動不審な投稿が、まずすぎましたか?
関わりたくない?
突き放すべき?
このへんですかね
158
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 16:23:00
ま、こうしたようなところから虐め意識に発展しやすいかもしれませんね
この記事見て、なんとなく通じるようなら怖いですことです
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150717-00000022-jij_afp-int
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11147866436
159
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 16:28:58
なんか論争の種撒いてしまいました
だいぶ前の記事とは話しが違いますね
すみません
たまたま眼にしてたもので・・
160
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 16:30:25
生きることが大切だということについて、真剣に語ってみませんか?
161
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 16:44:03
自我の創造が無自覚に行われているような感覚で、ここに引き寄せられてしまうようなところがありました
縁が働いてると思うんです
嫌な出方の実感もありますし、迷惑もかけたくない
不思議なものです
何しても平気な意見が命を粗末にすることにつながるようで、私には気になってしまうのです
なんでしょうね
162
:
名無しのN
:2015/07/17(金) 17:51:09
生きる事は大切です^^
真理はこの世に存在しないように 悟りも存在しない。
でも 悟りを求める 羊さんは いるってことです。
それが 奇跡。
163
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 18:40:50
名無しのNさん、ありがとうございます
生きる事が大切と言われると何だかほっとしますね
共感しあえる喜びを感じます
悟りも存在しないとのことですけど、悟りのある生き方は存在しているのではないでしょうか?
曖昧な表現になりますが、個人的には悟りそのものは涅槃のようなイメージです
生きる喜びを感受して生きる姿勢が、悟りのある生き方のイメージです
悟りを貫いたような生き方も、もしかすると可能なことかもしれません
感謝心の会得や自ずと湧き出す善意が獲得できないと、恐らくできないことと感じます
そして現実は道理的に非常に難しい環境にあるので、無理のように思えてしまうのかもです
164
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 18:47:13
私は悟りを求めてるわけでも、求めたいわけでもありません
求めずにいられなくなっているだけなのです
165
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 18:59:21
すいません、少し傲慢で生意気なこと書いてました
現実の私とは、ここでのように性悪になったり気配りしなかったりで、とてもとても求められる域ではありません
悟りへの憧れは強いというか、求めずにいられない
悟りを求めるのは人としての宿命にあるものと思います
166
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 20:01:37
我々の行為を悟りの境地から正しく見るのならば、あるのは煩悩です
環境は悪い人も悪い没頭する仕事さえ、合理的ではない問題等あるある
そして自分も悪くしなければ生きられません
さっきの163は取り消します軽はずみの発言でした
悟りを貫く生き方なんてことは一般的な生活では完全に不可能でしょう
生きる喜びを感受して生きる姿勢までしか対応不可能です
しかし必要に迫られるのは、ここまでではないようだから困るのです
167
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 20:06:03
ご免なさい、また壊れてきました^^;
168
:
慧空
:2015/07/17(金) 20:18:08
羊さん、大丈夫ですよ。
ここは何を書いて頂いてもいいんですから。
思う存分、書いてくださいな。
羊さんは、自分の思っていることや考えていることについて、
誰かと交流したいとか、
認めて欲しいとか、
孤立したくないとか、
そういう欲求の強い方なんだと思います。
また、孤独になることや、寂しさや、無視されたり阻害されることに対する恐れもあるようです。
そのような思いや衝動が起こってきているご自分に意識を向けてみて頂きたいと思います。
169
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 20:41:59
悪い面に対する対処法は人類の根本的な間違いと道理を認めた上で、その中に一生懸命に生きる人を一人一人を敬い尊敬の眼差しで見つめます
他人の息苦しさと生き辛さに共感を抱くことに努めて、ぶつけられる怒りや苛立ちも愛しく思いながら接するように心がけます
どの人に対しても愛しい思いを抱きながら接することができるようになり、真に人が喜ぶことを考えて喜び実行していきます
ご縁の感謝を忘れず決して他人に染まらず、自らにある美しい響きだけを見つめるようにして生きていくことを心掛けるのです
学びの段階として生きる以上の人生を歩める立場ではないことを自覚して生きていくしかありません
でしょうか
170
:
孤独な羊
:2015/07/17(金) 20:45:10
慧空さん、ありがとうございます
私は、ほんとに、どうしようもない
生きてきた感謝とか素敵な縁のことを、現実世界を思うと直ぐに忘れそうです
171
:
慧空
:2015/07/17(金) 21:13:39
>生きてきた感謝とか素敵な縁のことを、現実世界を思うと直ぐに忘れそうです
別に忘れたっていいじゃないですか。
忘れると何か問題でもありますか?
そもそものところ、起こってくる現実のことがらに対しては、いろんな情念や衝動が起こってくるもんですよ。
がっかりすることは多いですし、腹も立ちます。
そんなとき、感謝の気持ちが起こる人なんて滅多にいませんよ。
そういうときも感謝の気持ちが起こる人は、ハートの感覚に酔ってしまっている酔っ払いか、頭が変になった人くらいですよ。
自分に起こってくる情念や衝動について、羊さんは、こんなことを考えたり、やったりするのはダメなことだとして、
自分のことや、自分に起こってくる考えや衝動を抑制したり、否定しておられるのだろうと思います。
どうして、そのように自分のことを縛り付けようとされるのでしょう。
自分自身で、自分のことを縛り付けているんだということに気づいて頂きたいと思います。
172
:
孤独な羊
:2015/07/18(土) 00:16:09
加護の匙加減って非常に重要ですね
元気でいるときは強気でも、病気になると弱気になるように、想像の範囲でおさまらない現実は常にありますよ
加護が容赦ないと、悟りの平常心を維持することなど、とんでもない難儀だと思うのですけど
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