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俺が統合失調症を発症した時の話するの続き
188
:
たこ助
◆6KctQgwHqc
:2014/05/13(火) 01:14:25 ID:aZQAUn020
>>181
以前に示した図の奥行きは、螺旋を表現したものです。
すべては結びついていますが、自我で例えるなら、それを隔てる検閲官がいるようです。
俺の認識では、この「12の構造」が3つ連なった形が基本形だと感じています。
>>182
俺の出会った「音のような言葉」の正体は、
「道徳的意識」とも表現すべきものかも知れません。
エゴ(自我)とは、この「道徳的意識」と「本能的意識」によって生じ、
これの相互作用によって、自我は“見かけ上”存在しているようです。
道徳的意識は、極端に言えば葛藤によって生じ、
本能的意識は、極端に言えば経験によって生じているように感じました。
これらから導き出す答えは「自我は消し去ることが出来ない」というものです。
自我は「成りて成るもの」の先に進むために必要なものです。
道徳的意識による「こうであるべきだ」という理想、
本能的意識による「このようにしたい」という理想、
自我はこの両者を叶えようとします。
結果、そこには衝突が起き、そこに思考と欲求が生まれます。
自我とは、この先に行くためには必要なものなのです。
仮に「一なるもの」への道が続いているとしても、
自我は無くてはなりません。
なぜなら、自我とは「ここにいる」という意味であるからてす。
この自我が作り出すフィルターを透過する方法は一つです。
それは、何も考えないことです。
目を開けば得られず、目を閉じても得られない。
では、どうすれば良いのか。
俺の答えは「感じたことを、自我により置き換え表現する」です。
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