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俺が統合失調症を発症した時の話するの続き
166
:
たこ助
◆6KctQgwHqc
:2014/05/11(日) 20:18:44 ID:aZQAUn020
>>156
「個」は、思考と感情が無くとも存在出来ると思いますが、
それを認識して「これは個である」と考えることは出来ないと思います。
仮に思考と感情がない状態で世界を見たとしたら、
それは「事実そのもの」と言えるかも知れません。
しかし、それを「事実」として理解しようとしないのですから、
それはただ「有る」だけです。
俺が瞑想ごっこをしている時は、感情があります。
ただ、表現が難しいのですが、その時は興味の無いテレビ番組を見ているような感じです。
一方で、そのテレビ番組を興味津々に見ている自分もいます。
これらを体が感じているものなのか、と聞かれると答えは、
「感じているが、感じていない」という表現になってしまいます。
当事者である自分と、それを客観的に見ている自分、この2つが同時にあります。
エゴの死は、脳の死だと思います。
仮に肉体を失い脳だけで生きていてとしても、そこにはエゴが残ると考えるからです。
しかし、仮に脳が死んだとして、そこでエゴも同時に消滅するのか、
これについては、俺の感覚で答えるとエキセントリックな答えになってしまいます。
それは、まるで霊の存在を認めるようなものなので、俺は得意ではありません。
>>157
俺の感じた矛盾は、
不可侵な場所へ進むことを禁じる立て看板があり、
しかし、その隣には、通行可能の立て看板がある、という表現が近いかも知れません。
この2つの中間的な解釈は「あなたのご自由にどうぞ」ですが、
では、なぜこの立て看板が立てられていたのか。
葛藤とは、その立て看板を見た俺の主観的なものです。
よって、疑問は「この立て看板の意味」ここに帰結します。
立て看板をエゴに置き換えます。
エゴは「禁じる」と「通行可」の中間として「自分で選べ」と、俺に選択させたのです。
なぜエゴは、
「この2つの選択を自分に見せたのか」この疑問はもちろんですが、
俺の疑問は、
「その時点でエゴは俺に選択を掲示したのか」という点に帰結します。
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