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2022/6/12 ヘーゲル「法の哲学」と共同性の倫理

5おぐす:2022/05/01(日) 15:33:53
ウラサキさん、お待たせしました。自宅に戻ったので、数日前にウラサキさんの質問にざっと応えた内容を補足しておきます。さしあたって「国民国家」と nation state の翻訳について少しく個人的な観点から述べたいと思います。英語と日本語を対応させるに際して、戦後の日本人にとって比較的なじみもあり、しかも公的な文言として国家を規定してきた日本国憲法の英訳を参照してみます。占領下において公布された日本国憲法の成立過程においては複雑なものがありました。短期間ですが占領軍と日本政府の間で緊張した交渉の往還があったでしょう。私見では、だからこそ英語と日本語の対応については当時の両国の高い知性が反映されていると考えられるからです。

自宅を離れている間に日本国憲法の英文を眺めていました。ウラサキさんも御承知でしょうが、くだんの日本国憲法においては、「国民」はほとんどthe peopleまたはthe Japanese peopleと翻訳されています。ただ唯一例外的な箇所でnationが使われています。その部分が、いわゆる前文における「諸国民(all nation)との協和による成果と…<中略>…ここに主権が国民(the people)に存することを宣言し、この憲法補確定する」の件りですね。憲法前文でnationが用いられているのはこの箇所だけです。前文ではなく全文ではどうなのか、ざっと目を通した限りでは確認できません。どうやら日本国憲法では国民の英訳はpeopleが該当し、文脈によって例外的にnationが採用されているようです。

その例外的なnationなのですが、英語のnationはラテン語のnatioに由来するようです。ローマ人はこの言葉によって日常的には「他者、外部の者、外国人(ローマ市民の資格を持っていない)」を示していました。れっきとしたローマ人は自分たちをnatioとは言わずpopulust(cf.people)やcivitas(cf.citizun)と呼び、natioは時に軽蔑や罵りの対象となる人の呼称でもありました。古代ローマでは一般的には同じ地理的領域出身の外国人集団をさしてnatioを用いたわけです。日本国憲法の国民(people)と「諸」国民(nation)との関連を考えてみると面白いですね。
国民国家とは何かと問われれば、民族的、歴史的、文化的一体性を有する国民が政治的秩序の能動的主体として立ち現れてきた歴史的段階における国家の在り方ということになります。ちなみにnation stateの「state」もなんら普遍的な用いられ方ではなく、特殊近代的な国家概念であることを念頭に置いておくといいかもしれません。

国民国家はその本質から、冷徹な官僚制とも独裁制とも全体主義とも共存できます。誤解されやすいのですが国民国家と民主主義の成熟度は重なり合うものではありません。秦の始皇帝とヒトラーの独裁とでは違いますよね。全体主義の独裁者は国民政党を基盤に大衆の自発的な支持を獲得することによって権力を得ています。大衆運動は全体主義を支える基本的な構成要素です。独裁は必ずしも民主主義と矛盾するものではありません。
補足になりますが、近代以降の国民国家の形成過程においてnationは初めてnationalismと結びつきました。この場合nationalismがnationを創出したのであってその逆ではありません。共同体におけるnationalismの観念が先行することによって、古代ローマのnatioとは異なる近代的なnationが形成されたのです。Nation及びnationalismの形成過程については西欧の絶対主義国家の成立、日本の近代における国民意識、アジア、アフリカ地域と欧米の植民地主義とも関わりがあります。これについての説明はウラサキさんのご要望があればさらに詳しく述べますが、あまり長くなってもどうかと思うので、今回はここまでといたします。共同性については後ほどにしますね。


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