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2021/3/21 村田純一『「わたし」を探検する』批判

9ムラタ:2021/03/14(日) 15:12:16
「脳が世界を生み出す」という命題をわたしは偽の命題だと思っていますが、そう考える理由を以下に記しておきます。

こんな思考実験をしてみます。
誰かの脳を取り出し、その脳を世界の全く存在しない場所、ひどく抽象的な場所ですが、本当に何にもない場所に放置したらどうなるでしょうか? なんにもない場所、絶無の場所に脳だけがあるのです。
その脳は世界を生み出すか?と考えてみると、それはさすがにNOと言わざるを得ないでしょう。したがって脳は世界を生み出しません。
これに対し、しかし、脳に信号が与えられれば世界は存在できるのだ、という反論が考えられます。その反論に対し、わたしはこう応えます。そう、【脳に信号が与えられれば】世界は存在できるのです。そして脳に信号が与えられなければ世界は存在できないのです。
つまり、「脳が世界を生み出す」という命題(Aとします)を「脳は独立に世界の出発点となる」(Bとします)という命題だと解釈するのなら、命題Bは否定され、残る道は命題Aを「世界との関係性の中で脳が世界を生み出す」という命題(Cとします)だと解釈する道ですが、これは命題Aを主張する人たちがそれを述べた時に言いたかったことではないはずです。命題Cが真だと主張した時点で脳神話は崩壊しています。

廣松渉がどこかでこんな比喩をしていました。
比喩なんて、と思うかもしれませんが、この比喩は本当にうまく行っている比喩なので彼のこの比喩は傾聴に値すると思うのですが、それはこんなものです。
目の前に蛇口があります。蛇口をひねれば水が出ます。では、「この蛇口は水を生み出している」と言えるでしょうか?
もし蛇口を工具で取り外し、その状態で蛇口をひねれば、もちろん水は出ません。
したがって、「蛇口は独立に水を生み出している」という主張は斥けられます。生き残る主張は「蛇口は世界の水の循環の中において、その部分(蛇口)だけに着目するならば、そこは水を生み出している」ということになるでしょう。そしてそれは正当な主張になると思います。
この比喩において、水が世界、蛇口が脳に対応しています。

結局、命題Aは命題Bと解釈するなら偽の命題であり、真の命題とするには命題Cと解釈するしかないですが、命題Cはつまり脳が世界との絡み合いの中で世界を成立させているということを意味し、それを認める時点でいわゆる脳神話は崩壊しているということです。


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