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シュレディンガーの僕

1横山信幸:2019/02/25(月) 23:36:37
また、思い付きの思考実験パズルです。もしかしたら、すでに有名な問題なのに僕が知らないだけかもしれませんが。

「シュレディンガーの猫」の実験の猫の代わりに、この唯一の世界開闢の僕が箱に入ったとしたら、というものです。
放射性物質が崩壊して僕が死んだら、その世界は開闢しないのだから、その世界はもともと在り得ないはず。だから、その放射性物質は崩壊し得ないはずだ。

物理に詳しい方いらっしゃいませんか。これってどう考えれば良いのでしょうか。

2野口:2019/03/11(月) 22:43:12
「放射性物質が崩壊して僕が死んだら、その世界は開闢しないのだから、その世界はもともと在り得ないはず。だから、その放射性物質は崩壊し得ないはずだ。」
とありますが、
「交通事故で僕が死んだら、その世界は開闢しないのだから、その世界はもともと在り得ないはず。だから、その交通事故はないはずだ。」
とどう違うのですか?
そもそも、この開闢とはどういう意味ですか?

3横山:2019/03/12(火) 10:59:37
野口さん、ありがとうございます。
いや、交通事故の話でも、まったく結構なのです。
ここでいう「開闢」は「唯一の観測者による観測があること」くらいで考えてください。
でも、観測がない事態は成立しないのだとしたら、世界には観測者を殺す原子崩壊や観測者を殺す交通事故が起こり得ないことになってしまう。
それって、どう考えたら良いのか?という疑問です

4ムラタ:2019/03/12(火) 15:00:24
>観測がない事態は成立しないのだとしたら、世界には観測者を殺す原子崩壊や観測者を殺す交通事故が起こり得ないことになってしまう。

そんな常識から乖離した結論に至るのは観測者の視点をごちゃまぜにしてしまっているからではないでしょうか。

横山さんが以前言われていた通り、「ない」ということには
1、「ある」の否定としての「ない」
2、1の意味の「ない」すらない「ない」

があります。

交通事故で即死してしまった人間(太郎とします)にとって交通事故が「ない」といわれるときに使われる「ない」は2の意味の「ない」でしょう。死んでしまった太郎はもはや認識主体ではないのですから、ないことすらない。

でも、だからといって、太郎が即死した交通事故が1の意味で「ない」ということは導かれないでしょう。例えば、太郎の即死事故に駆けつけた警察官にとっては太郎の即死事故は存在する。

要するに、死んでしまった太郎にとっては太郎の即死事故は「ない(2の意味で)」が、そのとき言われる「なさ」は1の意味の「なさ」、つまりあることの否定としてのなさとは別物であり、それゆえに1の意味の「なさ」まで否定されるわけではない、つまり駆けつけた警察官にとっての太郎の即死事故までが否定されるわけではないということです。

5横山:2019/03/12(火) 18:25:13
ムラタさん、ありがとうございます。
おっしゃることはまったくその通りだと思います。僕の問いがしっちゃかめっちゃかな問いを、きれいに整理して下さってありがたいです。

では、交通事故に合う前の私が、次の主張をすると、どこが間違ってることになるでしょうか?何かヒントをもらえませんか。

「① 私が3分後にする無謀運転は死ぬ確率1/2である。
② 1/2の確率で事故って死ぬ場合、私の死は〈事故る前の今の私にとっての1の意味での出来事〉でしかあり得ず、3分後の私にとってのものではあり得ない。
③ 1/2で事故はなかった場合、事故後に私が自分が生きていることを現認し、その生は3分後の私にとってのものである。
③ それゆえ、今の私が、3分後の私にとっての世界を考えるとするなら、そこには私が事故らなかった場合しかありえない。
④ それゆえ、今現在の私にとっても私は3分後には事故死することはない。」

間違ってると思うのですが、どこがまちがってるのでしょうか?

6横山:2019/03/12(火) 18:43:32
この話もう少し付け加えると、

量子論の多世界宇宙解釈であらゆる可能世界が実在してるとする立場をとるなら、
人はその様々の可能性のなかでもっとも長生きする可能世界が自動的に選択されてしまって、すべての人はそれぞれもっとも長生きする世界を生きることになる、という世界モデルを設定することも可能ではないか?

という話なんですけど、やっぱり変ですよね。

7ムラタ:2019/03/12(火) 20:41:56

事故死することは「ない」と述べられる際の「ない」の意味が、
【1、「ある」の否定としての「ない」】なのか
【2、あることの否定としての「ない」すらない、「ない」】なのか
不明瞭なのが混乱の原因だと思います。


既に死んでしまった者にとって、その当人の死亡事故は「ない」です。
このとき言われる「ない」は
【2、あることの否定としての「ない」すらない、「ない」】
です。
>>5の②の段階ではこのように考えられているはずです。

しかし④の段階になると、
3分後の事故死は「ない」と述べられた「ない」は僕にはどちらかというと【1、「ある」の否定としての「ない」】という意味のように読めます。(2の意味でも読めなくもありませんが、どうも不明瞭です)

つまり、
事故死することは「ない」ということの意味が、
事故死することは「ない」(2の意味で)から
事故死することは「ない」(1の意味で)へ
すり替えられているように読めました。

既に死んでしまった者にとって当人の死が「ない」(2の意味で)からといって、まだ死んでない者に死が「ない」(1の意味で)わけではありません。

8横山:2019/03/12(火) 21:50:18
ムラタさん、
僕の頭のなかが、とてもこんがらがってしまって、でも、とても面白く思えて、いい感じです。
しかし、なにも問題を整理することができないで頭のなかぐちゃぐちゃのまま、思いついた話をさせてもらいます。

疑問)事故前の私にとっての、3分後の1/2の確率での私の死は、事故前の私にとっての話なのだから、単純に、「有の否定」としての(1)の方の「無い」としても良いんでないでしょうか。
1/2の確率で生きて、1/2の確率で死ぬのだとしても、死ぬ方には世界の観測者が「無い(1)」のだから、3分後に私である対象は生きる方しか「なく(1)」、その意味で、事故前の私にとって、事故後に生き残る確率は100%と考えても良さそう。

というような完全に(1)の方の「無い」だけで話を完結させてしまうと、ダメなのでしょうか?

すみません。何の見通しもなく、まったく思い付いた興味を広げてしまってます。

9野口:2019/03/13(水) 13:06:39
「シュレディンガーの猫」の実験の話は、生と死が半々である、つまり観測者にとって箱を開けるまでは死んだ猫と生きた猫が「重なっている」、というものでした。

「重なる」とは生死が同時に可能であるということです。この「重なる」のが観察できるのは観測者だけであって、対象である猫自身は「重なり」を観察できません。

ここで猫の変わりに僕を箱にいれると、放射性物質の崩壊の「重なり」は毒ガスが漏れたとき、僕の死ぬ時点で「重なり」がなくなります。

死ぬと主体が無くなるので、宇宙・世界の存在を含めた全ての意味がなくなるのは、当然とおもいます。

10横山:2019/03/13(水) 18:53:30
野口さん、
その辺りの物理のとゃんとした話をよく知らないので、教えてほしいのですが、
観測者が「箱」を開けて観測すると、それまでの「死状態」と「生状態」の重ね合わせだったものが収束しで、どちらか一方の状態に収まるのですよね。
それは、どっちか分からないだけが分かるというのではなく、開けるまではちゃんと重ね合わせだったことが分かるし、開けたあとは収束してることが分かる、というものですよね。
ここまで、合ってるでしょうか?

「観測」がそのようなものだったとしたら、

「箱」の中に観測者が入った場合には、原子崩壊が起こる世界と起こらない世界とに分裂した、その時に、その収束が起こってしまうのではないでしょうか。そして、観測者が観測できない方(つまり、原子崩壊した方)は観測されず、観測される方(つまり、原子崩壊しない方)だけが観測されることにならないのでしょうか?
そうなるなら、箱のなかの私は、「必ず」生き残ってしまうことになりそうです。
でも、それって、おかしい。

で、どこが間違ってるのか?という疑問なのですが、単に、僕の勘違いなのでしょうか?

11野口:2019/03/14(木) 21:44:24
横山さん、<ここまで、合ってるでしょうか?>はその通りだとおもいます。
<「必ず」生き残ってしまうことになりそうです。>というのは、そうでないと思います。
なぜなら、収束が起こるのは分裂した時ではなく、観測した時。計測器が測定した時点です。
そして観測できない方は死んでしまうから観測できないのであるのであって、生きている事とは違うと思います。
どうでしょうか、答えになっているでしょうか。

12野口:2019/03/14(木) 21:57:12
横山さん、<ここまで、合ってるでしょうか?>はその通りだとおもいます。
<「必ず」生き残ってしまうことになりそうです。>というのは、そうでないと思います。
なぜなら、収束が起こるのは分裂した時ではなく、観測した時。計測器が測定した時点です。
そして観測できない方は死んでしまうから観測できないのであるのであって、生きている事とは違うと思います。
どうでしょうか、答えになっているでしょうか。

13野口:2019/03/14(木) 21:59:20
誤って、二度書き込みました。

14野口:2019/03/14(木) 22:00:40
誤って、二度書き込みました。

15横山:2019/03/15(金) 05:07:54
野口さん、ありがとうございます。
おっしゃっていることが分かるようで、でもやはりちゃんとはわからないので、しつこく問います。

観測できない方が観測できず生きているのと違うとしても、

「箱のなかに居る私は原子崩壊を観測できない。しかし原子崩壊してないことは観測できる。つまり、3分後も30日後も原子崩壊がなく私が生きている場合だけ観測可能で、そうでない場合は観測不可能だ。それゆえ、3分後も30日後も原子崩壊は起こり得ず、私は生きている」

とは言えそうに思えます。でも、どこか間違ってますよね?

16野口:2019/03/15(金) 09:19:15

横山さん、以下のようにおもいますが。

「箱のなかに居る私は原子崩壊を観測できない。」 これは、できると思います。しかし観測出来た時点には爆発が起こりますから、死ぬかもしれません。死ねば観測の事実がなくなります。
「しかし原子崩壊してないことは観測できる。」 これは、その通りと思います。
「つまり、3分後も30日後も原子崩壊がなく私が生きている場合だけ観測可能で、そうでない場合は観測不可能だ。」 これも、「そうでない場合」でも観測可能です。
「それゆえ、3分後も30日後も原子崩壊は起こり得ず、私は生きている。」 これは、崩壊が起これば死ぬかもしれないし、起きなければ生きている。

いかがでしょうか。

17ムラタ:2019/03/15(金) 14:08:35
旅行中で、返信確認できなくてすみません。



A:(もし原子核崩壊が起こらず私が死なずにおれたなら)私の死なない確率は1である
B:(原子核崩壊以前に)私の死なない確率は1である。

横山さんはAとBを同一視し、AからBを導いてませんか?

カッコがなければどちらも
「私の死なない確率は1である」
ですが、観測者が違います。
Bの観測者は、「原子核崩壊が起こらず死ななかったという条件下での私」であり、
Aの観測者は、「事象前の私」であり、
です。


結果を確認した後、その確率が1であるのは当然ですが、
だからといって結果が出る前に確率が1になるわけではない、ということは僕には自明に思えるのですが。

崩壊後に生きた観測者しかありえないにしても、崩壊前に崩壊の確率が1になるわけではないでしょう。
「(崩壊後に生きているという条件なら)私の死なない確率は1である」(これは当たり前)
から
「(崩壊前に)私の死なない確率は1である」
へと観測者を「結果の出た未来の私」から「結果が出る以前の私」へとスライドさせてしまっていいると思います。

18ムラタ:2019/03/15(金) 14:10:36
軽微な訂正

崩壊後→崩壊可能性後

19横山:2019/03/15(金) 18:20:12
野口さん、ムラタさん、ありがとうございます。
お二人の解説たいへんよくわかりました。おかげでずいぶんとこんがらがった頭がほぐれてきました。
でも、もう少ししつこくこんがらがってるところがありますので、問わせてください。

設定をきちんとして、話を少しかんたんにします。

1)世界に観測者たりえる存在は私しかいない。

2)時刻tに私が1/2の確率で死ぬ。この1/2なる値はこれまでの実験結果よる経験的な値である。つまり、観測者が観測したこれまでの結果において、「対象を死なせる状況になった数÷有効観測数全体」が1/2だということである。

3)私が死ねば世界は観測されることはない。また、私の死は瞬間的であるので、私は自らの死を観測することができない。

3)観測者が観測するまでの世界は起こり得る状態の重ね合わせ状態であるが、観測されると観測された一つの状態に収束する。

さて、この前提を置いたときに、私が時刻tに死ぬ確率とは何を指すことになるのか?
というのが、次の僕の疑問です。

はたして、時刻t以前において考えられる、時刻tに私が死ぬ確率を1/2だと言って良いのだろうか?
時刻tにおいては、観測されて世界が一つに収束する場合の数が1パターンしかないのだから、これまでの実験結果から推測できる範囲を越えてしまうことにならないのだろうか?

というところに躓いています。
このこんがらがりをうまくほどいてもらえませんか?

20横山:2019/03/15(金) 18:25:26
訂正)

観測者が観測したこれまでの結果において、「対象を死なせる状況になった数÷有効観測数全体」が1/2



観測者が同様の実験をしたこれまでの観測結果において、「対象を死なせる状況になった観測数÷有効観測数全体」が1/2


です。よろしくお願いします。

21横山:2019/03/15(金) 18:27:04
あと
二つ目の

3)



4)

です。すみません。

22横山:2019/03/15(金) 18:41:44
ムラタさんが指摘して下さったように、
僕の問いは、
1の目が出たのを見た後で、サイコロは1が出る確率100%だったんだ、と言うような、「後出しじゃんけん」的な内容を無視しています。

それは、量子論の収束理論がその「後だしじゃんけん」を保証してしまってる部分が有るのではないか、という疑いのためなのですが

でも、収束について全然詳しいわけではないし、それ以前にまったくの勘違いかも知れないし、と自分を疑ってもいます。

また、魂みたいなものをどう考えるかとか、生と物理的存在の意味付けをどう考えるかとか、にも関係しそうな気がして、とてもよい感じにもやもやしてるのです。

23ムラタ:2019/03/15(金) 18:50:14
ある事象について「物理的に観測できない」ということと、ある事象の「可能性がない」(存在しえない)ということは全然別のことでしょう。

A: 出たサイコロの目が1、2、3、4、5、6のいずれかである確率は1である
B: 私が原子核崩壊の危機を回避し生き続ける確率は1である


Aは、出るサイコロの目が7だったり-πになる可能性はないので、確率は1といっていいと思いますが、Bについては原子核が崩壊する可能性がないわけではなく、単に物理的に、死んだ場合にはその観測結果を見ることができないというだけなので、確率が1というのは無理があるでしょう。

サイコロに7の目がでないのも
原子核が崩壊し私が死んでしまったことも
わたしには観測不可能ですが、
サイコロの目が7である観測不可能性は現実の達成可能性がないという意味の観測不可能性で、
原子核崩壊を見ることが出来ないのは物理的に観測する立場に立つことができないという不可能性だと思います。

24野口:2019/03/15(金) 21:47:48
横山さん。
提起された問題の中に、問題がいろいろとあるとおもいます。
1,「私は自らの死を観測出来ず、それは瞬間的である」とすれば、私の立場では死は無いと言っていいかもしれません。これは量子の重ね合わせとは無関係でしょう。
2,「観測者が観測するまでの世界は起こり得る状態の重ね合わせ状態であるが、観測されると観測された一つの状態に収束する。」というのはかなり特殊な状態でないと維持できません。というのは、量子コンピュータの開発がうまくいかないのは、重ね合わせの状態を維持できないからです。さらに、量子世界でない、この世界で重ね合わせが観測されたという話は聞いたことがありません。ここにシュレーディンガーの猫が登場する背景があります。これは「可視世界で重ね合わせがあるのか」という問題です。
3,「観測者は私だけ」でいいのかと言う問題。
4,「観測とは何か」と言う問題です。測定器が計測すれば、それは観測になるのか。観測にはいわゆる魂がひつようなのか。

25横山信幸:2019/03/15(金) 22:38:20

ムラタさん、

確かに、原子崩壊は、観測不可能であるだけの不可能性で、
現実化され得ない不可能性ではないというのはその通りだなぁという気がします。

時刻t以前の私が思考する内容としても、時刻tの私の死が実際に観測される可能性は無い。
けれども、その実際には観測されない時刻tの私の死を、仮定的な観測者の視点でもって観測され得ることとして思考することは、可能である。
そのように考えられる以上、「私は死なない」と言ってしまうのは詭弁かもしれません。確かにそのように思えます。

しかし、まだ僕の疑問は残っています。

たとえば、上の想定にこんな話を付け加えてみたらどうなるでしょうか。

「私が箱実験にトライして命を賭して生き残るたびに、私の大好きなメチャ旨アンパンをもらえるとします。メチャメチャ旨いのですが、たかがアンパンですから命を賭けるほどの価値がある訳はありません。
でも、私はこれまで何回トライしても結果的には死なず生き残ってきました。だってそうでしょう。仮定的な想定や神の視点などを持ち出したら「本当は」私は死んでるのかも知れませんが、現実的には、あるいは理論的にも、このトライでは私は自分の死を観測することはできないのですから、何度トライしても生き残ってしまいましたし、今後もそうなのではないでしょうか。だから、私はこれからも、たかがアンパンのために箱実験にトライをするつもりです。メチャ旨アンパン程度のことでも箱実験の1/2の死であれば賭ける価値があるのです」

という人が居た場合に、この人の言い分は正しい場合があり得るでしょうか。
あるいは、この想定だけでは、私にとっての価値があるかどうか決められないでしょうか。
その場合、どのような前提を付け加えれば判断できるのでしょうか。

問いを、確率の意味から、生の価値の方へ向けてみました。
どうでしょうか。

まだまだ、僕自身こんがらがってしまっています。

26横山:2019/03/15(金) 22:54:11
野口さん、
量子論はまったくライトな読み物でしかしらないので、教えてもらいたいです。

有名な単光子とスリットの格子縞実験はかんたんな重ね合わせの確認にはならないのですか?

27野口:2019/03/15(金) 23:59:39
その通りで、確認になります。単光子はスクリーンに当たって初めて収束すると言われています。ですから縞模様ができます。

28ムラタ:2019/03/16(土) 10:41:44
25の括弧内の内容がよく理解できませんでした。

それって単にこれまで確率1/2を偶然くぐり抜けて生きてきたから今度も1/2の確率をくぐり抜けるだろう、というのとどう違うのですか?

29横山:2019/03/16(土) 20:06:46
ムラタさん、

どうでしょうか?
ずっと確率1/2をくぐり抜けてきたから今後もくぐり抜けるだろうというのと、ちょっと違うかと知れません。

「私の生」とか「人生」とか「魂」なるものに何らかの価値を見出だそうとすると、

「私は箱実験で生き残る者を時刻t後の私だとせざるを得ない(或いは、することができる)」ということから、

箱実験自体に「あとから考えたら起こったことは確率1として見られちゃうという『後だしじゃんけん』的な構造」があると見ることができないか?

という疑問です。伝わらないのは、僕が大きな勘違いをしてるからかも知れません。

30ムラタ:2019/03/17(日) 18:51:57
ごめんなさい、やっぱり理解できなさそうです。

第一、生や魂に価値を見出すということの意味が分からないですし、また、後から考えたら起こったことは確率1と見られるということも理解できません。

31横山:2019/03/17(日) 20:41:31
ムラタさん、
申し訳ないです。

私なるものの同一性について、どんなものが同一であるかは神の下に決定されているのではなくて、「3分後のどの私をこの私と同一とするか」はそれを言語的に私がどう設定するかにかかっているとします。そして、それは私にとってのどう設定するのが得かという観点で設定しても良いものである。

という風な見方をするとするなら、『箱実験で生き残る者だけを「私」とする』とするような言葉遣いも許され得るようにならないか、と考えたのですが。

伝わらないのも当然なような気もします。
いや、お付き合いいただけて十分に感謝しています。
ありがとうございました。

32横山:2019/03/17(日) 20:48:25
「あとから考えたら確率1」というのは、

サイコロで結果的に出た目が「3」だったときに、
それが、
『決定論的にサイコロを振る前から確率1で「3」が出ることが決まっていた』として言われることが可能になるような後だしじゃんけん的な物言いがあり得る

という話でした。これで、伝わるでしょうか?


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