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悟りを目指している方
157
:
TK
:2013/10/10(木) 18:36:09
実践マンさん
>1)出てくる思考や感情に対して
>「これは私ではない、私に属するものではない」
>と、いちいちスタンプを押すよう心がけ、執着せずコントロールせず、受け流す。
これ中々いいですよ、私もやりました。
現象に反応して感情が高ぶりかけた時には、
マインドに向かって「これは私のものではない、私はそなたを喜ばない、
考える者であることを捨てよ」とこのような語りかけでマインドを客体化しやり過ごしていました。
感情が高ぶった時の自らのマインドに向けての語りかけは有効です。
感情に押し流されてマインドの動きのままに、自らとの同化を許してしまったら、
悪魔に負けたことになるのですから。
実践とは即ち「戦い」なのです。
スッタニパータ439
>ナムチよ、これは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。
>勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。
>(勇者は)うち勝って楽しみを得る。
>2)人に会うことと、鏡で自分の姿を見ることの区別をしない。人に対しても、
>自分に対しても、意識的にも、肉体的にも、
>これはみんなで共有しているものだと心がけ、
>私がいることに対しての罪悪感を排除する。
彼岸(神の国)に至るアセンションの入口は、上からではなく、同等でもなく、
下にあるのです。他者に対しては、下の者として接するように、これは奥義です。
聖木曜日 - Wikipedia (2013年3月29日 (金) 06:16 UTC)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%9C%A8%E6%9B%9C%E6%97%A5
>聖木曜日はイエス・キリストと使徒たちの最後の晩餐を記念する日であり、
>その席でイエスが(へりくだりの行いとして)弟子たちの足を洗ったという記述が福音書に見られるため、
>「洗足木曜日」という呼称が生まれた。
その場の誰よりも頭の位置が遥かに低い仕える者。
他者の前にひざまずいて目の前の他者の足の位置に自らの彼岸(神の国)の入り口があります。
足元の石ころと同等の位置まで自分を落せないのなら、
その者はアセンションを諦めるより仕方がないと思って下さい。
それとも「激流」と呼ばれているものを「緩流」と勘違いしている人とかいるのでしょうか。
ルカの福音書 22章27
>食卓に着く人と給仕をする者と、どちらが偉いでしょう。
>むろん、食卓に着く人でしょう。
>しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。
ヨハネの福音書 13章15
>わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、
>わたしはあなたがたに模範を示したのです。
>3)行動する時には、それを本当にしているのではなく、「○○をしている風の遊び」を楽しんでしていると感謝する。
ネガティブよりは良いと評価はしておきますが、満点とは言えません、
「遊び」より「奉仕」の方が実践としては優れているのです。
つまり、現象に対しての「立ち位置が高い」という事です。
>4)好き嫌いをしない。区別をしない。
感謝で切り抜けると言うのは良いですね。
>阿含経典という本を読んでます。
釈迦とイエスの教えは同一線上の教えですが、
釈迦の教えは出家至上と言う環境で説かれている分、
イエスの教えの方が現代に合う形にカスタマイズが行き届いています。
仏教自身も釈迦を開祖として後に時代の流れに応じて出家至上から大乗(利他)と言う形にカスタマイズされていきます。
阿含経典については基礎を学ぶと言う姿勢で臨まれると良いと思います。
つまり、それだけでは、不足する部分が出てくるかもしれません。
私は至っておりますから私自身が経典です、
聖典を引用するのは聖典にも記載があるよと言う程度の意味ですから。
でも、聞く方にとってもその方が信じる根拠がはっきりしていて親切ですよね。
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