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第6章

1OR:2012/09/18(火) 00:35:51
スレ立ても遅れてすみません…

6章は盛りだくさんな内容で、実はまだちゃんと消化できておりませんが、なんというかガッツリ
哲学史の話を聞いて勉強になった気になりました。
疑問が湧くというか、ひたすら「へぇー」という感じで。

個人的にプラトン、アリストテレス受容の話が特に面白かった&勉強になりました。
というか、ポルピュリオスの『エイサゴーゲー』がそんなに重要な役割を果たしてたとは…
恥ずかしながら、ポルピュリオス研究してるのに『エイサゴーゲー』読んだことないんですが、
そんな凄い本ならちゃんと読まなきゃですね。

(ちなみにポルピュリオスはkata christianonというキリスト教反駁論書いてるんですが、
そんな彼がキリスト教の発展に貢献したという皮肉)

2YS:2012/10/03(水) 19:38:03
ご無沙汰しております。
わたしのほうからこの日にやろうといい−そもそも
この読書会そのものがわたしから提案であるという事実もふくめ−、
このような音信不通という事態、まことにすみません^^

さっきメール送ったら、すでに一仕事終えた気がして別の作業にはいっておりました・・・

>疑問が湧くというか、ひたすら「へぇー」という感じで。
ぼくも後者にかんしては、まったく同意見でした。
哲学史的知識への興味があったので、大変に勉強になりました。
とりわけ、アベラールという人物と思想にかなり関心を抱いております。

>キリスト教反駁論書いてるんですが、
>そんな彼がキリスト教の発展に貢献したという皮肉
これ、アベラールにかんしても該当しておりますよね。
アベラールも唯名論の代表者としてキリスト教の信仰に大打撃をあたえながらも、
キリスト教神学の発展には、多大な貢献をなしているという。


まだp. 148までしか読んでおりませんが、そのかぎりでわからなかった箇所が一点あります。
それは、p. 137周辺で論述されていたことですが、プラトンの分有と、アンセルムスの流出の関係についてなのですが。

p. 137だと、分有と流出は違っているという文章がありますよね。「ここには流出と分有の違いがあるだけである」
この違いがちと不明瞭だったというか、それ以後の文章だと、最高善と個々の善の関係と、神の存在と個々の善(?)の
類比関係をあきらかにした論述が続き、構造上はかなり類似しているという指摘がされていますよね?

となると、流出と分有のちがいというのは、最高のもの(最高善あるいは神の存在)のちがいなのか、それとも
言葉がちがっている程度の意味なのか、あるいはもっと別の違いがあるのか、よくわかりませんでした。

ってか、ちゃんと最後まで読んでから質問したほうがよさそうですね・・・w

がんばってきまする

3OR:2012/10/05(金) 17:00:51
色々お疲れ様です。
ていうか僕もレス遅れてすみません…

>流出と分有のちがい
この著者の方がどう考えていたかは分かりませんが、一般的に、「流出」という言葉には「分有」
の意味も自ずから含まれているのでこういう書き方がされているのでは?

神・一者・善のイデア等から「流出」したものは、それらの一部を「分有」していることになりますので。
逆に、「流出」していなくても「分有」はできると思います。
具体例を挙げろと言われると困ってしまいますが…
でも、そもそも、プラトン→キリスト教ときた西洋で、「流出」と「分有」が切り離されて語られる
シチュエーションがなかなか思い浮かばないので、もう「流出」=「分有」ぐらいの乱暴な認識で
いいような気もしますね。

4YS:2012/10/12(金) 15:49:47
テキストには直接明言されていないにせよ、
>>「流出」していなくても「分有」はできると思います。
これがポイントになってそうですね。

すでに先回りされて予防線はられましたが、たしかにピンとこないので、
具体例かあるいは実感可能な説明がほしいですが・・・w

しかし40ページ読み終えるのに、一ヶ月以上かかってしまいましたな・・・
申し訳ないです。

全体的な疑問なのですが、著者からすると、ヨーロッパ人の精神は批判主義にあると。
そしてこの批判主義を支えているのは理性であり、理性は信仰となじみづらい要素をもっている。
したがって信仰をヨーロッパ人に流布させるためには、理性にもとづく批判が必要である。
以上の点が、神学の成立の根幹になっている筋道ですよね?

となると、なぜそもそも信仰がかくも必要になったのか、この点がよくわからなかったです。
ここで著者がイメージしているヨーロッパの批判主義は、ケルト(ドルイド)由来ではなく、ギリシャですよね?
それじゃ〜ギリシャの哲学者がやっていたように、神話から思いっきり距離をとるスタンスでいいんじゃね?

以上の疑問がどうにも不思議に思えてしまいます。

もしかしたら、わたしの思い違いのための疑問かもしれないので、突っ込み等ふくめて、
ご教示いただけると幸いでございます。

5OR:2012/10/15(月) 08:09:08
またレス遅れ申し訳ありません…(もはや恒例になりつつある謝罪)

>具体例かあるいは実感可能な説明
うーん…たしかに分有と流出はガッチリ結び付きすぎててそれぞれがバラバラなシチュエーション
ってやっぱり思い浮かばないですね。
「分有」だけなら汎神論とか…?(「分」有じゃないような気もしますが)

>なぜそもそも信仰がかくも必要になったのか
信仰は手段ではなく神学の目的ではないんですか?
たしかに、批判主義だけを発展させたいなら信仰は邪魔になるのかもしれませんが、
ヨーロッパがキリスト教ありきでやっていってる以上、信仰を捨てたりはできないのでは?

6YS:2012/10/15(月) 14:17:31
>ヨーロッパがキリスト教ありきでやっていってる以上、信仰を捨てたりはできないのでは?
ちょうど、いま読んでいる箇所でその答えがみつかりました(p. 172)…w
古代ギリシャだと、信仰が必要されなかったのにたいして(国家で十分)、
中世ヨーロッパでは国家権力が脆弱になり、教会の権力によって補填される必要があったために、
この教会の権力を支える善の秩序(神の秩序)の論理を必要としたと。

ORさんの「キリスト教ありき」ってことも、これを含意しているわけですよね。

ただ、さらに突っ込みたくなります。
なぜ国家の権力が脆弱になったのかという問題を。
第3章の56ページ周辺を、この問題意識で読み直してみてきまする・・・w


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