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業務連絡 3
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たてました。
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つまり性の本質は男女のエネルギー循環であり、エネル
ギー(生命力)の本質に迫る体験である、ということで
す。
言い換えますと、もっと真剣にセックスすべきである、
ということになりまして、先ほど紹介した女子中学生の
言葉に激しく同意、ってことになりますね。
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こうして「性」の意義は理解し納得していったので、あ
とはお相手を見つけて実践してゆけばよいということに
なりす。しかし「愛」と「性」が別概念であるならば
「愛」とは何か?という私の初期の疑問は放置されたま
まになってしまいます。
そしてこの疑問は「自分という存在、自分という意識は
相手のと関わりの中で存在している。即ち相手とは自分
である」という認識にによってようやく解消されること
になったのです。
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自分と相手との距離感ですね。
これまで私は相手とは自分と相対する別存在として捉え
ていたところがあったのです。
自分とは異なる他人なのだ、という意識ですね。
しかし自分という存在を深く考えてゆきますと、私達は
想い考える存在です。そしてその想いや考えは言葉とイ
メージによってなされます。つまり私達はいつも心の中
で何らかのイメージをもったり心で言葉を発したりして
おります。
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そしてこの心で発する言葉とは何か?と考えて見ますと
これは意識エネルギー的な見地で見ますと「音」にイメ
ージ(意識エネルギー)を込めたモノ、ということがで
きます。
つまり、音を発することによって特定の意識エネルギー
を伝えたり、自分自身がそのエネルギー状態になるとい
うわけです。
そうしますと私が「相手」という言葉を使い、「相手」
を意識したときにはどのようなエネルギー状態になって
いるかという疑問が出てきます。
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私はこれまで「相手」を意識するときに自分とは別なモ
ノ、別な人、自分と区別する壁を作る相手、として意識
してきたのです。
ですから「相手とは自分ではないものだ」だったのです。
この考え・イメージは実は愛にたどり着けないんです。
私がずっと「愛とはなにかわからん」と感じ続けていた
原因はここにあったようです。
「智から愛へ」というスローガンで真理の追究、法の追
求、自己の追求をしてきたわけですけれども、「智」は
明らかになったけれども「愛」で足踏みしてきたわけで
すね。
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なぜ相手と自分に壁を作るイメージがあったかというと
人と接するのが煩わしく感じるところがあるからなんで
すね。
人は思い通りにならないじゃないですか。説明しても分
かってくれないしあれやこれや厄介事を押しつけてきた
りするし、自分が何かやりたいことを邪魔しに来たりす
るじゃないですか。特に、間違ったことを言ったりやっ
たりしているのを見ると許せなくなってしまうじゃない
ですか。
こういうのがすべて煩わしいので人が入って来れない一
線を引いてしまえ、ってわけですね。
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ところがこのような人と自分を隔てるイメージが身内と
外の人間という二種類の人間のイメージを生み出し、人
との間に壁を作って「愛」の理解を妨げていたのです。
自分の意識が相手との関係性の中にあり、相手があるな
かで生まれ活動していたことに気づいたときにこうした
考えは崩れてゆきました。相手と自分の間に壁を作って
自分を守る考えではダメだとはっきり分かりました。
人と付き合うのは面倒くさいです。しかし愛とはそもそ
もそのように面倒くさいモノなのだ、ということですね。
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悟り(理解)と諦めは似ている、というのはこんなとこ
ろにも言えますね。
「愛とは面倒くさいモノだ」と言えばまるで諦めの言葉
みたいに聞こえるじゃないですか。でも違うんですね。
覚悟の言葉であります。
そこで私も考え方を変えまして、いろいろ助けろ下さい
って言ってくる京都の友達にも面倒くさがらずに対応す
るよう心を入れ替えました。
彼氏と別れて復縁したいと毎晩泣いて電話してくる元教
え子ちゃんにも説教したり突き放したりしないで朝まで
話を聞くようにしました。
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そうしてみて分かったことがあります。愛の心を豊かに
持ちましょうなどと言われるわけですけれど、愛の心を
中心にして生きておりますといろいろ頼られたりなつか
れたりするわけですよ。しかし同時に頼られたりなつか
れたりするのはどうも3人程度が限度かなぁと。どう対
応しても時間が足りません。
そこで私は思うのですが、世の中には愛を必要としてい
る人々がたくさんおられます。
需要はたくさんあるわけです。
しかしそれに対して供給は足りているのか?
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「お金で買える愛」の供給は十分足りてるように見える
のですよ。しかし無償の愛の供給が足りないように思え
るんです。
そこで私が思うのは、できるだけ多くの方が「愛」に目
覚めて無償の愛を必要とする人々に支援の手を差し伸べ
ていって頂きたいなと。
無償の愛の支援はきっと「愛から慈悲へ」のとっかかり
となることでしょう。
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さてそういうわけで今晩は満月で願望成就の予兆を現す
めでたい夜でもあります。
「智から愛へ」、私にとってはこの命題を完成させる
「愛」のピースがようやく揃った、といえる晩でもあり
ます。
そしてここからまた「無償の愛の実践」という実践課題
が続いてゆくのですね。
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ずっと一緒にいてくれてありがとうありがとうありがとう大好き
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こんにちは。
今晩は実質新月でして、深夜、つまり20日の午前一
時が新月になるのだそうです。
私は新月のイメージが苦手です。新月のエネルギーで
エネルギーワークしてみたいといつも思うのですが、
どうイメージしてよいか分からないからです。
しかしまぁ今晩は改めて挑戦してみようと思います。
いろいろと頼まれ事があったり、エネルギーの調整が
難しかったりで落ち着いて投稿できなかったのですが、
とうこうも出来たら再開します。
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お久しぶりです。皆様お元気のことと存じます。
さて、前回の投稿を見ますと2回前の新月の日でした。
実はその後すぐPCのLANが使えなくなりました。モバ
イルからは規制されていてしたらば掲示板には書き込
みできないのでPCの修理が必要になります。
ところがこの間自家用車を始めて私の周辺の様々なも
のが壊れる現象が続いていました。これはすべてを一
新する時期が来ているのだなと判断して、PCも修理で
はなく更新することに決めました。
ところがここからが苦労の始まりです。
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私のPCは自作してもう7年前後経つのでしょうか、AMD
のRyzenが出る前の型であるA10プロセッサーというの
を使っていました。
その後いざというときのためにと思い、一枚予備のマ
ザーボードを購入したままになっていました。現行の
マザーボードはLANが死んでしまったようですから今
回はこの予備のマザーを使って組み直すことにしまし
た。
壊れたPCは時々フリーズしたり画面にノイズが入って
うまく起動しない現象が起きていましたし、ネットを
使うと画面が引っかかる感じもします。この際CPUも
新調することにしました。
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ケースとドライブ類は流用することにして、Ryzenの
値段のこなれてきたAPUを購入して組み上げてみたので
すが、なんと電源すら入りません。
Ryzenプロセッサーも世代がたくさんありますので購
入したCPUにはBiosが対応してないかも、とは予想し
ていました。しかしまさか電源が入らないとは思って
もいませんでした。
ここからが苦労の始まりです。あれやこれや試行錯誤
してようやく動かしてWindows11にアップグレード
するまでになんと2か月もかかってしまう結果になり
ました。
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さてPCをようやく更新することが出来ましたがいったん
触り始めると次々と気になるところが出てきてしまいま
す。特にデータの整理に問題があります。二日ほどかけ
て取りあえずの整理は終えたのですが、今後のことを考
えてきちんと(投稿も含めて)仕事が出来るようにして
いきたいと思っています。
現代人にとっては車やパソコン、スマホなどは自分の一
部のようなところがあるので、その使用状況やデータの
整理状況は霊的な意味でも注意を払うべきで、できるだ
けスッキリと清潔な環境を保ってゆく必要があると思わ
れます。
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アラサーちゃんおひさしぶり
コメントはあまりしなくなったけど記事は読んでるから更新続けて下さいね。
ちなみに俺は車は事故しながらなんとか免許維持してるけど、PCやスマホはいまだに使ったことがありまそん。
ひたすらガラケーですわw
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こんばんは。お久しぶりですね。
事故っちゃったんですか?お大事にして下さいね。
依頼されていた作業もありましたのでしばらくの間PC
復旧に注力していたのですが、そのためもあって寝不
足になり肉体的なバランスを崩してしまいました。い
まは自身のエネルギー調整が上手くできなくなって回
復まで1週間かかるかもしれません。
それまではあまり投稿は出来ない模様です。
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こんばんは。
今年の8月は満月が2回もある少し特別な月になりま
す。2日と31日が満月なのです。
月は地球の周りを楕円形の起動を描いてまわっている
のですが、今月の満月は両方とも月が地球に最も近づ
く時期に当たるのでいつもより大きな月が見られるこ
とになります。2日の月が満月になる正確な時間は午
前四時頃ということでしたので満月浄化の呼吸をしよ
うと狙っておりました。
2日午前3時25分頃、家を出て少し離れた海岸まで
車を走らせました
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私は浄化のワークをするときは基本満月をイメージし
て、息を吸うとともに月の浄化の光が全身に吸収され
たり魂の様々な部分を月の浄化のエネルギーがビーム
になって浄化してゆく、というイメージングをやって
おります。その時にまず天空に浮かぶ満月の姿をイメ
ージするわけなんですが、やってみるとこれがなかな
か難しかったりすることがあります。
だから満月の下で浄化のワークをしたいというのは、
そこで満月の姿をしっかり眼に焼き付けておきたい、
という気持ちもあるのです。
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さて2日の4時前頃から満月(浄化)の呼吸を始めま
した。小一時間もするうちに月はすっかり西の空に傾
いてゆきます。それにつれて東の空と海面は次第に明
るさを増してきます。そんな海の様子を写真に収めな
がら光の変わってゆく様子に心奪われておりました。
月はどうなった?とふと西の空をふり返ってみると、
先ほどまでの黄色く輝く月の姿は消えて代わりに赤い
月が西の工場の屋根にもう沈もうとしているのです。
カメラを向けると赤銅色をもっと濃くしたような月の
姿が確認できます。
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これは珍しい、こんな赤い月は初めて見たわ、と思って
撮った写真を確認してみたのですが、あらためて見ると
ちょっと不安になりそうな色をしておりました。ウサギ
の模様の部分が赤黒く写るのがちょっとね。
夕日が赤くなるのと同じ現象だよな、とは思っていても
やはり気になります。「赤い月が撮れたよ」と友達に自
慢しようと思っていたのですが、だんだんと自粛の方向
に気持ちが変わっていってしまいました。
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その日の夜も、一応満月の日ということで、再び海岸
に出かけて満月浄化のワークです。こういうのは日付
が変わるとダメなので夜11時頃に出かけて12時前
まで約1時間のワークです。空には色々な形の雲が出
ていてなんだか乱雑なのですが、月は明るく幸いに雲
にも遮られていません。
そこで取りあえず月の写真を、と思ってiPhonのカメ
ラを通して月を眺めてみると、なんと肉眼では全然分
からなかったのですが薄く雲が前を覆っているのをは
っきりと写し出しているです。
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今時のスマホカメラの性能に驚きつつも約1時間の浄
化のワークを終え、海岸の写真を撮っておりました。
月明かりの薄暗い海岸がスマホを通してだとまるで昼
みたいに明るく見えます。それを写真に撮ってみると
2秒ほどの長時間露出になるのですが、自動手ぶれ補
正が効いてほとんどブレの無い明るい写真に仕上がる
のです。
さて海岸から再び月に目を戻すとそこで異様な光景を
見せられて目をそらせなくなってしまいました。大き
く口を開けた細長い雲が右手側から一直線に月に向か
っているのです。
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まるで蛇が身体を伸ばしたようだなぁと思いながら眺
めていたその雲は、ちょうど頭に当たる部分がまるで
ゲームのパックマンのように丸く大きくて、パカッと
口を開いて進んできます。その姿がちょうど私の立っ
て居る場所からだと月を飲み込むために一直線に進ん
でいるように見えるのです。
まるで私に見せつけるかのようで、あまりにも不自然
な雲だなぁと思っていると、もう一つ不自然なことに
気がつきました。それは雲の高度です。
どう見てもその雲だけ高度が数百メートルほどしかな
く、他の雲とは明らかに高度が違うのです。
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雲を呼び起こすことは意志の力で割と簡単にできるそ
うです。浄化のワークを終えた頃合いに突然湧き出た
不審な雲は、何者かの意図が雲の形に現象化したもの
かもしれない。あるいは月を呑むという形自体が私に
対する一種の呪いのようなものかもしれない…。
そう思いながら成り行きを見守っておりました。
ところが次の瞬間また不思議な現象が起こってしまい
ます。
蛇のような形の雲の頭がまさに月を呑もうとした瞬間、
なんと雲が頭からちりぢりに消え始めたのです。
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なんとその雲は直前まで月に近づくことは出来るので
すが、月にタッチしようとする瞬間次々と砕けて綺麗
に消失していってしまうのです。とうとう最後には一
直線に月に向かってきた長い雲の尻尾の先まで月の直
前まで来て空に消え去ってしまいました。
もう空には異様な雲のかけらも残っておりません。
月は相変わらず煌々と輝いておりますし、高空の雲は
相変わらず巻雲のような雲や積雲が残っていますが、
1時間前と比べると随分数が少なくなって、カメラの
目を通しても青い空の部分のほうが大半を占めていま
す。
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私はあまりにも作為的で示唆に富んだこの雲の現象を
見て、やはりこれはこれからのことを暗示する現象の
一つなんだろうと思わないではいられませんでした。
全くの偶然とはとても思えないのです。
不自然な雲を起こした存在は何なのか?自然界の存在
なのか、それとも宇宙存在か、あるいは人間か。もし
人間だとしても、それは特定の個人か、集団か、ある
いは人間の想念が集団化して個性を持った妖怪的な存
在なのか。
可能性はいろいろと考えられます。
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いろいろ考えられるのですが、そこに出てきた結果は
一つで、「月はきずつかない」ということです。
月は仏教では「真如の月」と申しまして仏性、即ち人
間の本質の光によって一切の煩悩が晴れることをたと
えております。まさにその例え通りの寸劇を見せられ
た感じです。
それではこの寸劇は守護指導霊などの見えない世界か
ら私達をサポートするサポーター集団が励ましのため
に見せてくれたのか?というとそうではないと思いま
す。彼らは一時的にでも人を不安になるように導いた
りはしないからです。
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私達の本質、即ち仏性は傷つくことはありません。
しかし現実問題として私達は絶え間なく様々な苦難、
苦労に晒されることが多いのも事実です。そして自
分の中に、煌々とした光が輝いている、なんてとて
も信じられないよ、という思いになることも多いこ
とでしょう。
なぜこんなにも本質と現実がかけ離れてしまうのか。
これが「苦」とは何か?という難問ですね。
この答えに正確な回答を求めようとすると、すっか
り話が長くなってしまうと私は思います。
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仏の教えは単純でして、まず人生の苦を認識すること、
次に苦の原因を知ること、次に苦の原因を取り除くこ
と、次に人々を幸せにするために力を尽くすことであ
ります。
すべて物事には原因がある。その原因を理解し、原因
と結果の道理を理解し、良い原因を作り善い結果を作
ってゆくことが大切だ、というわけです。
これは科学的思考そのものですね。つまり仏教の本質
は科学なのです。
といいましても仏教の立場は現代の物質中心の科学で
はなく、心と行いの科学と言えるでしょう。
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さてそこで苦の原因を探ってゆくと、実はこれが一筋
縄ではいかないことに気がつきます。あまりにも複雑
でお手上げになってしまってもう気持ちが楽になりた
いために、どこかで悪玉を作り出して、お前のせいだ
ー!ってストレス解放したくなってしまいます。
アメリカのせいだー、政府のせいだー、自民党のせい
だー、ロスチャイルドのせいだー、自由主義のせいだ
ー、共産主義のせいだー、ロシアのせいだー、中国の
せいだー…と相手には事欠きません。
しかしそうした行為そのものがまた苦の原因を作って
いるのです。
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なぜ苦の原因を把握するのが難しいのか。
なぜ苦が生じるのかを知ろうとすれば、まず人間とは
何か、意識とはどのようなものを知る必要があります。
ここでまずたいていはダウンしてしまいますね。なぜ
なら人間も心も、その行動は分かりますが、内面は見
えないからです。
見えないものを正確に理解しようとするのはとても難
しいことです。
逆に「見る」という能力がどれほど素晴らしいもので
あるのか、「見ることは知ることである」という言葉
があるように見ることができれば一瞬で理解を深める
ことができるものです。
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そのために私達は常に物事の現場に赴いて自分の目で
見る、という努力を怠ってはいけないと思います。
私達はテレビや新聞やネットでの見聞だけで分かった
ように思ってしまうことが多いのですが、実はそれだ
けでは全然足りません。なぜなら他人の目を通したも
のは少なからず他人の理解に染められてしまうからで
す。人の理解力には大きな差異があります。だから他
人の理解を鵜呑みをすることは大きな危険を孕んでい
ると言えるのです。
ここで一つの例を挙げてみたいと思います。2003年の
福岡市での事件です。
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これはWikipediaにも掲載されておりまして題名は「福
岡市『教師によるいじめ』事件」となっております。
2003年、朝日新聞が教師による児童への虐め事件とし
て大きく報道したことから騒ぎは始まります。
福岡市の男性小学校教師が、4年生の「アメリカ人を
先祖に持つ」児童に対して人種差別に基づくイジメを
常習的に行い、自殺を強要するような発言さえ繰り返
した、とされるものです。朝日新聞の報道によって教
育委員会は教師を停職6ヶ月の処分にします。身の潔
白を訴える教師の訴えは無視されてしまいます。
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やがて週刊誌などが後追い報道をすると新聞、テレビ、
他の週刊誌などのマスコミ各社も獲物にたかるハイエ
ナのように食いつき報道合戦を繰り広げます。そりゃ
こんな話が実際にあったらワイドショーのいいネタで
すもんね。教師側の潔白の主張など顧みられることは
ありません。
週刊誌の報道を待っていたかのように児童の両親など
は約500人の大弁護団を結成して市と教師を裁判所に
訴えます。
500人の弁護団とか。やることがえげつなさ過ぎて、
被告は心折れそうですね。
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話の流れからとっくにお気づきとは思うのですが、児
童と両親側の主張、
・「血が汚れている」と暴言を吐かれた
・耳をつまんで振り回してミッキーマウス、鼻をつま
んで振り回してピノキオの刑にされた
・「行き取る価値がないけん死ね」「まだ死なないの
か、死に方教えてやろか」などの暴言
・児童がPTSDになった
などの主張はいくら調べても何も証拠が出てきません
でした。
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それどころか大騒動になったことで殺到していたマス
コミ記者の前で、同級生も一緒になって虐めていた話
のはずなのに、PTSDのはずの児童が元気に一緒にサッ
カーをして遊んでいます。
あれおかしいぞ?とさすがのマスコミもこれはやばい
案件と気づいて潮が引くようにそっと報道から撤退し
てゆくのです。気の毒なのは標的にされた教師ですね。
結局10年後の2013年の判決では、イジメの前提条件だ
った「アメリカ人を先祖に持つ」という話さえ根拠が
認められないとされてしまいました。
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第一審の福岡地裁では両親側が勝訴して両親の主張す
る教師側の発言や体罰の一部などは認められました。
なぜなら最初両親が学校に抗議した時、学校側は両親
側の機嫌を取って早く問題を収拾したかったようで、
毅然とした主張をしないまま教師に謝らせてしまって
いたからです。
このことが尾を引いて両親の主張の一部が裁判で認め
られることになってしまったのです。
地裁での第一審で要求した損害賠償額は1300万円。途
中5800万円に増額。しかし地裁の判決は220万円の賠
償命令でした。
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>905
結局10年後の2013年の判決では→裁判では
両親側はすぐに控訴します。今度は5400万円の賠償請
求です。途中から教師への控訴を取り下げたので教師
側に対する裁判は第一審の判決が確定してしまいます。
裁判所は和解勧告を出しますが決裂、結局高裁は事実
認定は第一審と同様で市に330万円の賠償金支払いを
命じました。2008年のことです。
しかしもちろん教師にとってはこれで終わりとはなり
ません。市が教師に対して行った懲戒処分取り消しの
戦いが残っています。
-
教師は市人事委員会に教育委員会が行った処分(停職
6ヶ月)の取り消しを求めます。2013年に市人事委員
会は教師に行った懲戒処分の全てを取り消す裁決を行
います。
これをまとめると次のようになります。
ある日突然父兄が学校にやってきて「教師が児童を虐
待して追い込んでいる」というえん罪を着せられます。
学校は事態の早期収拾を目指してとにかく教師に頭を
下げさせます。
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父兄の行動はエスカレート。新聞にたれ込んで事件に。
↓
教育委員会は大騒ぎで両親の主張に沿って教師を処分
↓
週刊誌の記事になり父兄の主張に沿ってあることない
こと報道
↓
裁判
↓
よく調べてみると両親側主張は裏付け取れず矛盾ばかり
↓
教育委員会の処分を元に一審では教師側の不法行為を一部認定
↓
マスコミはえん罪と気づいて逃亡
↓
2008年 高裁判決は一審判決を元に賠償金330万円
↓
2013年 市人事院会により教師の実質的名誉回復
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裁判で一部事実認定された事案にしても、現実には何
気ない言葉の言葉尻を捉えて差別だと騒いだだけのよ
うで、「アメリカの方と血が混じっているから、ハー
フ的な顔立ちをしているんですね」という発言が裁判
で差別に当たるので賠償責任があるとされてしまった
ようです。
これは最初に学校や教師側が児童の心を傷付けたのか
もしれないと謝罪したのが原因なのです。もしこのよ
うな発言を全て差別と認定してしまうならば世の中口
にチャックするしか無い不自由で苦しい世界になって
しまいます。
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つまりこの事件は一教師の苦しみを招いたものなので
すが、実はそれに止まらずマスコミを利用して日本人
全体が自由にモノを言えなくし、日本人全体を苦しみ
に陥れるための罠のような側面があるのです。
もし最初学校側や教師側が単なるお人好しでは無く、
人間に対する深い理解を持って真面目に対処していた
らこのような事態は起こらなかったでしょう。
またもしマスコミの記者が一方的な伝聞や決めつけで
なく、自分で足を運び関係者や当事者に当たっていた
ならばえん罪は防げたのかもしれません。
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記録だけをみれば、もしマスコミ各社や学校側が両親
ではなく被害者とされた児童と直接会って話を聞いて
いればえん罪だとすぐ見抜けたのではないかと思われ
ます。
もちろん両親側はなんだかんだと理由を付けて直接の
接触など認めようとしなかったとは思われますが。
この事件のように物事を正確に理解しようとするとな
かなかに難しいことがあるのは事実です。しかし自分
の目で見ることによって一瞬で判断できてしまうこと
が多いのもまた事実なのです。
-
さてこの場合の苦の原因は何だったかというと、表面
的には
①問題の早期収拾を狙って安易な対処をしてしまった
②ジャーナリストがまず真実ありきでは無く両親の主
張を鵜呑みにした
という原因があり、それでは教師がなぜこのようなえ
ん罪(苦しみ)に逢わないといけなかったのかという
と過去からの因果の巡り合わせ、のような答えが用意
されるでしょう。
しかし私はそれだけで良いのかな?と疑問を持ちます。
つまり、そんな話だけでは納得できねーよ、というこ
とです。
-
上に挙げた苦の原因は自分に原因を求める生き方です。
確かに原因を自分に求めるのは原因追及の基本のキな
のです。
仏教はこう教えます。
結果には全て原因がある。原因と結果は繋(つな)が
っている。だから自分に生じた結果は自分の作った原
因と繋(つな)がっているんだ。だから悪い原因は修
正し、良い原因を作ってゆく事だ、と。
そしてそのための道、方法として八正道という生き方
を示しております。あるいは受想行識という意識進化
の在り方を教えております。
-
受想行識という言葉は私に言わせると経験そのものの
ことであり意識進化のサイクルでもあり、これを具体
化すると八正道になると思います。
つまり物事を正しく受け止める「受」という機能は八
正道では「正見」と表現されています。
正見というのは物事を色眼鏡でなく正しく受け止め判
断するという意味ですが、先ほどの福岡の教師えん罪
事件で言いますと、教育委員会やマスコミが児童の両
親の言い分だけを聞いて判断した、というところに問
題があります。父兄が正しいという色眼鏡です。
-
次に「想」という機能は人間の心の働きの中心を担う
ものです。表面的に言うと思う、考えるということに
なりますので八正道で言いますと「正思」や「正念」
にあたります。
念というのはまぁ常に持っている目的意識と言い変え
てもよいかもしれません。私達は一般的に言って幸せ
になりたいという念を持っています。これが更に細か
くなって、例えば「あの人と結婚したい」「この仕事
で成功したい」「今度のテストで良い点を取りたい」
などという念を持ちがちです。それ自体には問題はあ
りません。
-
「正思」の「思」というのは私達の常に移り変わって
いる思いや考えのことですね。私達は水が流れるよう
に常にいろんな事を考えていて、この水の流れのよう
な考えの流れによって仕事をしています。
例えば工場で製品の監督をしていて、「うん、正常に
機械は動いているな。おや?あの製品はちょっと違和
感があるな。ちょっと取り上げてチェックしてみよう。
あ、やっぱり製造不良がある…」みたいに想念、思い
は次々流れてゆくのですが、それによって仕事や人間
としての活動が出来ているのです。
-
更に私達の「思い」、「考え」をよく観察してみると、
そこには大きく二つの種類の考えや思いがあることに
気がつきます。
それは中学英語の「be動詞」と「一般動詞」という話
を思い出して頂くと分かりやすいのですが、I am、
You are、 He isなどと言うときのam、are、isなどの
be動詞なのですが、これは「居る」とか「在る」とか
「存在する」などの意味を表す言葉です。本質的な意
味は「存在する」「〜として存在する」という意味だ
と思われます。
モノやコトの「存在」を示す言葉なのですね。
-
従って日本語で言うとちょっとカッコ良い「我在り」
って言葉も「オレオレ。オレやん」って言うのもどっ
ちも英語では「I am.」になってしまうと思います。
自分の存在宣言ですからね。
このように存在を定義する言葉はそのモノ自体の存在
だけでなく、そのもモノや人やコトの状態の宣言にも
拡がってゆきます。例えば「I like it.」と言えば私
の心が「それを好きな状態なんだ」と宣言しているこ
とになります。このような状態を表す動詞を一般動詞
のなかでも「状態動詞」と呼んでいます。
-
このように状態を現す動詞にはliveとかloveもそうな
んですね。「住んでいる状態」だったり「愛している」
状態を表す言葉だったりするわけです。
こうした状態を表す言葉の中でも特別な位置を占める
言葉がbe動詞なんです。これは存在そのものを示す言
葉でありますから意識世界で言えばこの言葉が発せら
れたらそのモノやコトや存在してしまう、つまり創造
の力を持った言葉である、ということが出来るのです。
なのでこれだけ他の動詞と区別して特別に「be動詞」
という名前をつけて意識するのです。
-
もう1種類の動詞は「動作動詞」と呼ばれています。
これは何かを「する」という動作を現す言葉です。
walkとかrunとかswimとかworkとかいっぱいありますね。
こうして考えてきますと私達の思いや考えというのは
主に2種類に分けることが出来まして、一つは「あれ
はこうだ」「これはああだ」「これがある」「それが
あるんだ」というような存在や状態に関する考えです。
もう一つは「自分はこうしたい」「あの人はこういう
ことをした」「これをこうしよう」などという行為、
行動に関する思いや考えなのです。
-
そしてよく考えますと、「あれはこうだ」とか「こう
いうときにはこうしないといけないんだ」とか「あの
人はそういう性格なんだからこんな風に言っても伝わ
らないんだ」というような、状態動詞的な考え方は、
私達の思考や行動の枠組みを作ってしまいます。これ
を私は「設定」と呼んでいます。
そして一旦出来たこうした物事の枠組みみたいな考え
方を認識と呼ぶのです。
一旦出来た認識は人によってはなかなか強固になって
容易に考え方を変えることが出来なくなってしまいま
す。
-
本来、人の考えは水のように柔軟で自在なものですね。
ところが一旦認識が出来上がるとまるで平野や町中に
水路を引いたみたいに決められたところ以外には思考
が流れなくなりがちです。よく自分を見つめ直してみ
ると考えがいつも同じ所をぐるぐるしていることがあ
るのは皆さん覚えがあると思います。
それは認識の限界に達しているのです。このようなと
きにはもっと高い立場とか、別な立場から広く周りを
見渡すように認識を広げてゆく必要があるときです。
-
さて「苦」と「苦の原因」、苦の原因を突き止めるた
めという視点から見た「八正道」と「受想行識」の話
をしておりまして、「想」のところの途中まで話は進
みました。
私が思いますに「苦」を理解するには、人間とは何か、
意識エネルギーとは何か、存在とは何かというような
理解が欠かせないと思うのです。
こんな話をしてますと話が長くなってしまうし、昔の
環境ではとてもそのような話をしても誰も理解出来な
いのでお釈迦様は仏を信じて八正道に励めというよう
な指導をするしかなかったと思うのです。
-
しかし新しい世紀に入って通信環境が整備され、スピ
リチュアリズムが大きく発展してきました。そのため
「信じて行え」というような指導方針でゆかなくても
一人一人が徹底的に追求して納得できる時代に入って
きたのだと思います。
現代において指導者の言うことが絶対なので指導者の
言う通りにしなさい、などと指導しているような所は
全て眉唾だと私は思います。
明日以降も引き続き私の「苦」の追求の話を続けたい
と思います。
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てすと
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おひさ〜
>>私達の本質、即ち仏性は傷つくことはありません。
これに対しては疑義があるね。
全てのものが変化していくのが真理。
物質=エネルギーで最終的にはニュートリノで拡散か、またはBHに閉じ込められるか。
まあ、変化してるだけで傷つかないっていうなら人間じゃなくてもいいじゃん?
全てのものがそうなのだから。
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苦、か。
俺の目線から言えば2種類だね。
一つは感覚による直接的なもの。眼耳鼻舌身から得られる生体にとって悪条件による苦。
もう一つは知による苦・比較することで自らの心理によって苦しむ苦。
-
こんばんは。
何日か徹夜が続いてしまって、日中ある程度は寝るの
ですが睡眠不足になってしまっています。
エネルギーバランスはなんとか維持できているので一
時よりはかなり楽なのですが、土日は改めてバランス
を取る作業が必要だと考えています。
10日金曜日には二ヶ月ぶりにいつもの霊能師さんを訪
問して現在の私のエネルギー状態について第三者とし
ての意見を求めてきました。結果は順調で、送信能力
も伸びているとの判断でした。
-
前回。確か六月始めに霊能士さんを訪れたときには、
今やっているやり方(送信方法を変えたので)を7月
中には完成して下さい、というようなことを言われて
いたのですが、どうやらそれは達成できたようです。
それは、これまでは意識エネルギーを送信するときは
対象の方角を特定して対象を具体的にイメージし、集
中してエネルギーを送る、というやり方でした。
しかしこのやり方ではいちいち対象の位置を画定する
のが大変です。
-
そこで、意識に上下左右無しという原理から考えて、
相手と繋がるのに場所を画定するのは必ずしも必要な
いのでは無いか?と考えました。そこで三次元空間的
な位置関係では無く胸の空間から繋がってゆくイメー
ジに変更したのです。
最終的にはそこからさらに図形を応用した送信方法に
今は変わってきています。この方法で自己評価では送
信量が安定して増大していたので、それで正しいか確
認をしに行ったわけです。
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第三者(霊能士さん)からの評価も肯定的でしたので、
この件はこれで良しということですね。
今回はその後お互い個人的な情報交換をして帰りまし
た。特に報告するようなことも無いと思うのですが、
少し興味深かったのは、最近霊能士さんを訪れるお客
様の相談内容が今時のスピリチュアルな話題に変わっ
てきて、ついてゆけないという話がありました。
何の話かと思ったら、ツインレイの話なんですって。
私の頭の中にツインレイの男性が語りかけてきて…
って言うんだそうですよ。
-
いやそれツインレイって…。ただの憑依やん、って思
ったわけですけどね。
ツインレイの話を私が始めて知ったのは2014年か15年
くらいだったと思います。そのサイトは当時すでに更
新は止まっていて、記録だけが残されて公開されてい
ました。その話を読んでみますと、やはり当時私にと
って知っておくべき情報が含まれておりました。
その後YouTubeを見ておりますとある辺りから急にツイ
ンレイの話が増えてきたように感じます。そしてその
話というのはたいていロマンティックな恋愛物語とし
て語られているようです。
-
私はツインレイの話はそういう恋愛系のお話とは少し
違うと思うんですけどね。
人は何でも恋愛に結びつけたがりますし、恋愛に結び
つけることでお金に変えてゆけますけれども、そうい
うなんでも恋愛という方向性はどうなんでしょう。
やはりちょっと違うんじゃないでしょうかね。
しかしツインレイの話は、性とは何か?という本質の
問題と深い関わりのある話ではあります。性とは何か
という話をしてゆく以上、ツインレイという話題もい
ずれ避けることは出来なくなることでしょう。
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>927,>928
仏性は傷つくのか傷つかないのか…。随分細かく難し
いことを考えておられるんですね。私はざっくりして
いるのでそんなことまでは考えないのですが、ただ仏
性のいう言葉の定義の問題もあるように思います。
魂と考えればそれは傷つくことでしょうし、場合によ
れば消滅消失も考え得るでしょうから。
しかし存在の本質と考えれば存在は存在ですので存在
が存在で無いと言うことは矛盾してしまいます。
-
そして「苦」ですね。
928氏は感覚による「苦」と意識の矛盾による「苦」
の二つの「苦」を挙げて下さいました。
ところが心の苦しみというモノは、本質的には意識の
矛盾から生じているのかもしれないのですが、もっと
直接的にある種の「力」として感じられたり、肉体的
ではなく心に感じる重さやまとわりつく粘さやうっと
うしさ、考えることすらしんどい困難さなどとして感
じられるモノです。それは肉体的なものではないし、
物質的なモノとは言えないのですが、しかし極めて物
質的に感じられるある感覚なのです。
-
うーん。ちょっと違うんだよね。
意識の矛盾という高度なものではなく、外部からの情報を知という物差しによって、
他者と比較し、自分が幸か不幸なのか、苦か楽なのか、を判定することによって生じる「苦」だね。
判定する際に矛盾によって苦しむということを内包はしている。
外部から感覚器官への直接的な痛みなどの信号による物理的な「苦」。
外部からもたらされた情報を内部の知によって己が苦しみの状態にあるかを判定することによって苦しんでいる
・それは過去現在未来を内包していることを含む「苦」の二つに大別されると考えている。
極論すれば内と外でしかない。
だが、155はそれ以外にもあると言いたいみたいだ。
-
簡単な例を挙げると、ブータンにおいての幸福度の低下だね。
ブータンは世界的にみても最も幸福度が高い国家だった。
だが、インターネットなどによる情報を知ることで、
自分たちが世界と比較すると貧しく開かれていないということに気が付いた。
すると幸福度が下がってしまった。
生活レベルなどには変化がなかったにもかかわらず。
これが、他社との比較によって生じる苦。
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思うに、仏教というのは哲学であり学問でもある。
だから腑分けをしていくことに特化しているといえなくもない。
それが悪いとは言わないが、事細かく説明に走り矛盾を可能な限り無いように体系を組んできた。
まあ、ちょっと「苦」というのは暗くなりがちだから、別のアプローチもしたい。
別に専門家ではないが、生物学的にどういう風に現象を説明し昇華していくか、だね。
眼耳鼻舌身から得られる生体にとって悪条件による苦、
ってのは言い換えれば生命体=人間が危険などを察知して生き延びられるかを判定するための情報源に過ぎない。
いや、重要な情報源だね。
そして外部からの情報を知という物差しによって、他者と比較し、自分が幸か不幸なのか、苦か楽なのか、を判定し、
過去の事例と現在を照らし合わせて、未来にはより「苦」から「苦ではない状態」へ行こうと模索する意識体が人間だという認識でありたいね。
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ちょっと補足というか、苦の話っていうと四苦八苦とか仏教用語を連想するわけよ。
それで五感から伝達されてきた直接的な感覚器による苦しみが簡単に連想される。
それで眼耳鼻舌身という言葉を拾ってきた。
経典を読んでると何回も出てくる言葉なんだが、実際は眼耳鼻舌身意って続く時が多い。
意ってのは意識の事でもある。でも意識ってのは感覚器じゃない。
155が好きな「我思うゆえに我あり」。自我の形成に至った推論可能な未来予測のできる思考。
過去の自分、現在の自分、未来の自分において物質的精神的に不利益があると思考したときに発生する「苦」。
そういったわけで、感覚器による苦(眼耳鼻舌身)と感覚器ではない思考したときに発生する「苦」(意)の2つに大別するということになったのよね。
つまり>>923>>924への傍証みたいなものってことになる。感覚器ではない思考したときに発生する「苦」(意)=意識なのだから。
これっておもしろいよね。別のルートを辿ったのに行き着いた場所はほぼ同じ。
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でも問題はこれからなのよね。
家族連れでにぎわう週末の高尾山レベルなわけよ。
エベレストはおろか富士山にすら到達してない。
エベレストっていやあ山頂付近で道しるべに使われる遺体があるじゃん?
そういうことかなって思うw
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こんにちは。
時間の過ぎるのは早いですね。前回の登校日は12日
土曜日でしたからちょうど2週間経ったわけです。
この間937氏から投稿頂いたんですけど、お返事出
来ないままでした。
昨日はいつもの霊能士さんにお会いしてきました。
というのは、ここ数年は送信量のレベル上げに努力し
てきたのですが、ようやく目標レベルに到達したのか
もしれない、これ以上は必要ない、という感じがして
きたからです。
そこで現在の送信方法に問題点が無いかの確認と、本
当に送信のレベル上げが完了したかどうかの確認に行
ったわけです。
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送信方法は常に工夫して、体感を頼りに手を替え品を
替えして最適な方法を探しているわけなんですけれど、
今のやり方で問題ないとの答えを頂きました。
また送信量についても、これを上限にしてかまわない
とのことでした。
この霊能士さんは数字の研究をされている方なので、
ついでに現在の送信量について自己評価の数値が毎回
同じになってしまうのだけど、この数字に何か意味が
あるのかを調べてもらいました。
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そうすると、この数字は「縦軸と横軸が和合する」と
いう意味になるのだそうです。だから確かにこれ以上
の良い意味は無いので、これ以上の送信量を求める必
要はない、とのことでした。
霊能士さんの判定方法だとどれか一つでも数字が変わ
ってしまうと意味も大きく変わってきてしまうのだそ
うです。だからこの数字で良いのだということです。
そんなわけで確認が取れたので、これからはまた次の
段階だなぁと思っているところです。
-
ま、返事自体は気分でいいんじゃないのかな?
155は書きたいことがあるんだろ?
それを書き通すことが本道。
こっちはこっちで、つらつらと風の吹くまま気の向くまま。
そういうのでいい。
-
>942 登校→投稿
そうですね。そう仰って頂けると気が楽ですね。
ところで、私は945氏の考えを読んでみて、みんな
あまり「苦」という問題に気がついてないのかな?と
疑問に思いました。
「苦」という言葉は端的に言えばいわゆる「ストレス」
なんですよ。このストレスがどこから生じるのかと考
えてみますと、想念や行動の在り方、そこから生じる、
あるいは自分の置かれた人間関係、経済的な問題、肉
体的な病気や怪我などを縁として生じてくるモノなん
です。
-
仏教では真如ーつまり人間の本質、仏性のことですね、
それを虚空に輝く月にたとえております。
人間はいつも目先のことにとらわれて生きている。目
先にある池を見ればそこには月の姿が映っているが、
その月の姿は波で崩れていつもゆらゆらと、とりとめ
がない。肉体を持った人間というのはまさに風に吹か
れ波に揺れる池の月のようなものだ。
しかし目を上げて空を見上げてごらん。天空に輝く月
はどんな風にも雨にもゆらぐことなく、昔も今も煌々
と光を投げかけている。
-
人間の本質もあの天空に輝く月のようにいつも変わる
ことなく光り輝いているものなのだ。
しかしこの地上に肉体を持った人間はその本質を忘れ、
少しの地上の波風で我を失い、本質が分からなくなっ
て他人と自分を比べ、あるときは嘆き、悲しみ、ある
ときは怒り恨み妬み、あるいは諸々の欲望に駆られて
本来の輝きから遠ざかり苦しみに沈んでしまう。
苦しみから離れ人間本来の輝きを取り戻すためにはど
うすればよいのか。
-
それにはまず止観により心の波を沈めて自分と世間の
在り方を中道を軸として正しく見聞することだ。そう
すれば、人間は自分一人で生きているのではなく多く
の人々の協力の下で生きているのであり、また多くの
人々の意識と関わることで自分という意識を保ってい
られることも知ることが出来るだろう。
このことに気づけば自ずと感謝と報恩の心が湧き起こ
ってくることだろう。そして人々の悲しみを自分の悲
しみとし、人々の苦しみを取り除き人々に生きる喜び
を与えることを目指すようになるものだ。
-
そのためには地上の波風を離れて一日の中で幾ばくか
でも止観をして自分をふり返る時間を持つことなのだ。
そうして一日の自分の思いと言葉と行いを、中道を軸
としてふり返り、足りないところを補い過ちは修正す
る勇気が必要だ。このような努力を積み重ねる中で自
分自身も苦しみから離れ、人々をも苦しみから遠ざけ
ることが出来るのだ、とまぁこのように仏教は教えた
と思うのですね。
これが釈迦時代の、本来の心と行いの在り方を教えた
仏教の教えだったろうと思うのです。
-
わたしもまぁこの釈迦時代と同じ事を申し上げたいの
ですが、この当時は仏性を月に喩(たと)えていたと
思うのですが、私はいつも心に太陽を主義であります
ので、胸にいつも太陽をイメージするようにしており
ます。
白い光の塊なんですが、よく見るとその中心は青い水
素のガスの塊が光を放っている、そんなイメージをい
つも意識するようにしているのです。
-
これが私の考える仏性のイメージなんですね。
-
こんにちは。
ご無沙汰しております。
今晩から投稿を再開します。
-
こんにちは。
昨晩投稿するつもりだったのですが、体調を崩してコタ
ツで寝ておりました。
というのは、マクドナルドでコーヒーとアップルパイを
注文したのですが、ちょっと異常を感じてトイレに移動
しました。案の定暫くすると突然吐瀉(としゃ)してし
まいました。ゴフッという感じで、ミスの入った丼をひ
っくり返した感じで口から水が飛び出しました。
吐いたらしんどくて嫌だなぁと思っていたのですがしん
どいという感じはしませんでした。
続いてもう一度、ゴフッと同じように口から水を吐き
出して胃の中の者を出し切った感じでした。
-
>954
ミス→水
実は昨日は早朝に浄化の呼吸をしておりました。
その時になんだかこの浄化の一環で下痢か吐瀉をしそう
だなと、予感があったのです。
最近霊感がついてきたのか、割とちょっとした予感みた
いなのが当たることが多いので吐瀉するとしたらしんど
くて嫌だなぁと思っていたのです。予感が当たった事に
なります。
ですから一見、体調を崩したように見えますが、実際は
浄化の一環で悪いエネルギーを排出したと捉えています。
-
以前、魂の浄化のために太陽と月の光で浄化するという
呼吸の方法を紹介したことがあります。暫くこれをやっ
ていたのですが、正直難しくてだんだんやらなくなって
しまいました。
「そんな簡単な方法で本当に効果があるのか」というご
質問もありましたので、効果があったら報告しなきゃと
思っていたのですがそこまでいかずに中断してしまいま
した。そこでもっと手軽に出来る方法は無いかな?と思
って通信で教えてもらいました。
その浄化の呼吸というのは次のようなものです。
-
まず自分が落ちつける環境で心を静かにします。そして
ゆっくりと息を吐ききります。
広々とした草原に輝く太陽を想像します(空中の太陽そ
のものを想像してもよいのですが)。息を吸いながらそ
の太陽の光のエネルギーが頭頂から、あるいは全身から
浸透してゆく状態を想像し、浸透してゆく感覚を味わい
ます。しんどくない程度に数秒息を溜めてからゆっくり
と吐き出します。
同じく天からの光のエネルギーを呼吸で吸収し、吐き出
します。
次に月の光のエネルギーを呼吸で吸収し、吐き出します。
これでワンセットです。
-
これを私は日天月の呼吸と読んでいますが、通信はこの
日天月の呼吸をまず360回しろ、というのです。そし
て16日土曜日頃にようやく半分の180回を達成した
ところでした。
私はワンセットの日天月の呼吸に結構時間がかかります。
11月の初め頃のスタートして180回達成までに1ヶ
月半かかったことになります。このスピードですと一周
360回を達成するのは来年2月初め頃という予想にな
ります。
ところが来年2月に私の魂の浄化は完成かというとそう
ではありません。
通信はこの一周360回の呼吸を更に11回達成しろと
要求しております。
-
今のスピードからすると浄化の完成は2025年まで待
たねばならないということですね。随分先になってしま
います。
それではここまでやってみて君の日天月の呼吸には何か
効果はあったのか?というと実は明白な効果がございま
した。雑念が圧倒的に減ってきたのです。
実は私には毎日一定時間想念を集中させないといけない
ミッションがあります。私はこれをエネルギー調整と呼
んでいます。この意識を集中している最中にこれまでは
意図しない雑念がぽいぽいと出てきてしまう事が悩みで
した。
-
想念を集中してもあまり雑念が出てこないのは凄く大き
な進歩だと思います。ですからこの日天月の呼吸は意識
・魂の浄化の効果がありますよ、と私自身の体験から申
し上げることが出来ますし、皆さんにお勧めできるよね、
と思っております。是非皆さんもお試し下さい。
それで次回の投稿では日天月の呼吸についてもう少し詳
しく、どうして日と天と月なのか設計概念を説明したい
と思います。
-
こんばんは。
さて浄化の呼吸の概念ですが、これは私がこう考えて設
計した、という話ではなく、日天月という組み立てを考
えるとこのように解釈できるという話になります。
まず最初に日(ひ)の呼吸です。この呼吸の意味を私は
次のように理解してます。
太陽の光は万物を生かす力であり、また全ての物事を明
らかにし分かるようにもしてくれます。さらに不浄なも
のを殺菌し乾燥し浄化してくれます。このように太陽の
光を吸収するイメージの呼吸によって生命力を高め理解
力を深め不浄な想念を浄化してゆく意味があります。
-
次に天の呼吸です。
天から光のエネルギーが射し、頭頂、そして身体全体か
らも天のエネルギーが吸収され浸透されて身体の中を駆
け巡って満たしてゆくイメージで息を吸い込みます。
このイメージングの仕方は日の呼吸でも月の呼吸でも同
様ですね。息はゆっくりゆっくり吸い込みます。
イメージングの仕方はこうでなければならないというこ
とではなく、私は現在こうやっている、という話でしか
ありませんので、あまり堅苦しくお考えにならないよう
にお願いします。
-
それでは天の呼吸にはどのような意味があるか(もしく
は、どのような意味を付与するか)なのですが、これに
は次の二つの考え方ができます。
一つは天を宇宙と見る考え方です。
もう一つは天を高次元意識と見る考え方です。
こうでなければいけないというものではないと思うので
どちらの考え方であっても問題はなく、自分が親しみの
ある考え方のほうでよいと思います。
-
天を宇宙である、と考えてみましょう。そうしますと天
からエネルギーが降り注いでくるとは宇宙の高次元の波
動が降り注ぐことを意味します。即ち様々な恒星や銀河
の意識の波動や創造神の創造と維持発展のエネルギー、
愛の波動、慈悲の波動が流れ入って身体全体・魂全体が
満たされてゆく、というイメージになります。
つまりいったん太陽の光によって意識を浄化・白紙化し
たところを慈悲、愛、創造の波動で埋めてゆく、という
作業を意味することになります。
浄化しても、心が空っぽのままになっていてはいけない
ですからね。
-
もう一つの見方である天を高次元意識とする見方で意味
を考えて見ましょう。
例えば中国では天に「天帝」がいて治めている、といい
ますし、YouTubeで見た動画では地球には最高神として
九次元神霊が存在すると言っていました。天とは神々を
も指導するそうした最高級神霊を指す言葉ということに
なるでしょう。
まぁはっきり言えばイエス様お釈迦様等ということにな
るのかもしれませんが、そうした個人名がどうこうとい
う話ではありません。天高きところに慈悲と愛と力その
ものが人間化したような偉大な存在する、というイメー
ジが大切です。
-
そういう偉大な個性、光の意識からエネルギーが降り注
いで頭頂や全身からそれを吸収し魂を満たしてゆく、身
体を満たす即魂を満たす、とイメージしてゆきます。
それでは高級神霊の光のエネルギーとは何かと少し具体
的に考えてゆくと私には次のように思えました。
少し難しい話をすることになるかもしれません。
私達の意識・魂は絶え間ない想念エネルギーの活動なん
です。
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