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Web「生命の實相」輪読会参考文献板
8
:
a hope
:2016/04/23(土) 15:09:56 ID:vdNCBnG6
(
>>7
つづき)
おお、逆境こそはわれらの生命にいっそうの自由を与えるものではないか。空気の抵抗があるので飛行機は空を飛ぶことができるのではないか。タイヤに摩擦があるので自動車は地を走ることができるのではないか。どこにも障害のない世界、抵抗のない世界、摩擦のない世界は、本当は自由のようでも、その自由は永遠に発揮されないで「可能」の形の世界ではないか。
だから、障害こそはわれらの生命に光明を放たしむる要素なのだ。抵抗こそはわれらの生命を飛躍せしめて、いと高き世界へと高揚さすための要素なのだ。艱難こそはわれらの生命の自由さを現実にする要素なのだ。
されば、どんな艱難に面しても、われらはその暗い側を見ることは要らないのである。いかなる艱難(なやみ)も、われらの生命のどの部分かを引き立たすために存在するのである。艱難(なやみ)の来るたびごとに初めてわれらの生命は潜んでいた力を実現し、潜んでいた自由を形にかえることができるのである。
天国は、ここに見よ、かしこに見よというがごとく、われらの外に来るのではなかったのである。われらが艱難の意義を知り、苦しみの功徳を知り、この世界の何物も、自分の生命の自由さを実現する資料とならないものはないということを知るとき、そこにこのままに、天国が地上に実現するのである。
不幸さえも本当は幸福の源である。この世界の幸福に眼を閉じるな。天国はすでにこの世に来ているのである。キリストはすでに再臨してい給うのである。弥勒菩薩はすでに下生してい給うのである。これを見ないものはただ魂の扉を閉じたもののみである。魂の扉を閉じて天国を見まいとするものに天国が見えなくとも、それは決して天国の罪ではないのである。彼らは、「迷い」で心の扉をし、わざと魂に光明のはいらないようにして、その心の部屋の中で、恐怖や、取り越し苦労や、嫉妬や、憎みや、復讐のバイ菌を醞醸(うんじよう)させているのである。こうしておいてこの世界が光明のない世界だ、生活に喜びのない世界だ、生命に自由のない世界だと呟(つぶや)くのは、呟く方がまちがっているのである。生活の喜びと人生の光明と、生命の自由とは、人生の難難を刻々征服するわれらの生命の戦いの一歩一歩のうちにこそ実現するのである。
では、われらは魂の扉をひらいて暗黒の中にも必ず在る光を見つけよう。どこにでも光を見ないでやまないのが「生長の家」の生き方である。この生き方にもまして、われらを人生の戦いに力づけ励ましてくれるものはないのである。この生き方こそ悩める者にとっての最も不思議な魔術的医者である。それは斃(たお)れんとする病者を蘇生(よみがえ)らし、すべての病を癒し、悲しみの心の傷に新しい肉を盛ってくれ、人生の敗残者を勝利者に変えてくれるのである。
(後略)
<付。以下、「生活篇」巻頭の言葉より>
兄弟よ、海の波が巌(いわお)にたわむれるように、困難にたわむれよう、猿が木の幹を攀(よ)じのぼるのをたのしむように困難を楽しんで攀じのぼろう。もし軽業師が綱の上を渡らないで、平坦な大道を歩くだけならば、誰も喝采(かっさい)する者はないであろう。梅の花は烈々たる寒風の中で開くので喜ばれるのだ。
兄弟よ、わたしは苦しみに耐えよとは言わない。「生長の家」では苦しみに戯れるのだ。いかなる苦しみをも戯れに化するとき人生は光明化する。
盤根錯節(ばんこんさくせつ)は「生命」がたわむれるための一つの運動具である。諸君はスキーを多難だと言うか。登山を不幸だと言うか。ゴルフを艱難だと言うか。競泳を悲惨だと言うか。いかなる苦しみも戯れに化するとき人生は光明化し、そこから剛健なる無限の生命力が湧いて来る。≫
(2016.4.21)
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