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Web誌友会 板/2
5861
:
a hope
:2015/10/01(木) 09:25:51 ID:cEpBaIdo
人間
吾は『真理』なり、『真理』より遣わされたる天使(てんのつかい)なり。
『真理』より照りかがやく『光』なり、迷いを照破する『光』なり。
吾は『道』なり、吾が言葉を行うものは道にそむかず。
吾は生命(いのち)なり、吾に汲(く)む者は病まず死ぜず。
吾は救(すくい)なり、吾に頼む者はことごとくこれを摂取して実相の国土に住せしむ。
天使かくの如く説き給えば天の童子また重ねて問う。
『師よ、人間の本質を明らかになし給え』
天使答えたまわく――
人間は物質に非ず、脳髄細胞に非ず、神経細胞に非ず、
血球に非ず、血清に非ず、筋肉細胞に非ず、
それらすべてを組み合わせたるものにも非ず。
汝ら、よく人間の実相を悟るべし、人間は霊なり、生命なり、不死なり。
神は人間の光源(ひかりのみなもと)にして人間は神より出でたる光なり。
光の無き光源はなく、光源の無き光はなし。
光と光源とは一体なるが如く 人間と神とは一体なり。
神は霊なるが故に人間も亦(また)霊なるなり。
神は愛なるが故に 人間も亦愛なるなり。
霊は物質の性に非ず、愛は物質の性に非ず、知恵は物質の性に非ず、
されば、霊なる愛なる知恵なる人間は、物質に何ら関わるところなし。
まことの人間は、霊なるが故に、愛なるが故に、知恵なるが故に、生命なるがゆえに、
罪を犯すこと能わず、病にかかること能わず、死滅すること能わず、
罪も、病も、死も、畢竟汝らの悪夢に過ぎず。
汝ら生命の実相を自覚せよ。
汝らの実相たる『真性の人間』を自覚せよ。
『真性の人間』は神人にして神そのままの姿なり。
滅ぶるものは『真性の人間』に非ず。
罪を犯すものは『真性の人間』に非ず。
病に罹るものは『真性の人間』にあらず。
地上の人間よ、われ汝らに告ぐ、汝ら自身の本性を自覚せよ。
そのほかの如何なるものにも非ず。
されば人間は真理の眼より見る時は、罪を犯す事能(あた)わざるものなり、
病に罹る事能(あた)わざるものなり、滅ぶること能(あた)わざるものなり。
誰か云う『罪人よ、罪人よ』と。
神は罪人を造り給わざるが故にこの世に一人の罪人もあらず。
罪は神の子の本性に反す、病は生命其(それ)自身の本性に反す、
死は生命其自身の本性に反す、罪と病と死とは、
畢竟(ひっきょう)存在せざるものを夢中に描ける妄想(まよいのかげ)に過ぎず。
実相の世界に於ては神と人とは一体なり、
神は光源にして人間は神より出でたる光なり。
5862
:
a hope
:2015/10/01(木) 09:28:35 ID:cEpBaIdo
罪と病と死とが実在すると云う悪夢を、人間に見せしむる根本妄想は、
古くは、人間を塵にて造られたりと云う神学なり。
人間は物質にて造られたりという近代科学なり。
これらは人間を罪と病と死との妄想に導く最初の夢なり。
この最初の夢を摧破するときは 罪と病と死との根本原因は摧破せられて その根本の無に帰するなり。
汝ら『生長の家』を読んで真理を知り病の癒ゆるは この最初の夢の摧破せらるる故なり。
この最初の夢なければ 次の夢なし。
悉(ことごと)く夢なければ本来人間清浄なるが故に 罪を犯さんと欲するも罪を犯す事能わず、
悉く夢なければ自性無病なるが故に 病に罹らんと欲するも病に罹ること能わず、
悉く夢なければ本来永生(かぎりなきいのち)なるが故に死滅すること能わず。
されば地上の人間よ 心を尽くして自己の霊なる本体を求めよ、
これを夢と妄想との産物なる物質と肉体とに求むること勿れ。
キリストは『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり。
誠に誠にわれ汝らに告げん。
『汝らの内』とは汝ら『人間の自性』なり、『真の人間』なり。
『汝らの内』即ち『自性』は神人なるが故に 『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。
外にこれを追い求むるものは夢を追いて走る者にして 永遠に神の国を得ること能わず。
物質に神の国を追い求むる者は 夢を追うて走る者にして 永遠に神の国を建つる事能わず。
キリストは又云い給えり、『吾が国は此の世の国にあらず』と。
此の世の国は唯影にすぎざるなり。
常楽の国土は内にのみあり、内に常楽の国土を自覚してのみ 外に常楽の国土を其の映しとして顕現せん。
内に無限健康の生命を自覚してのみ 外に肉体の無限健康は其の映しとして顕現せん。
人間の五官はただ『写しの世界』を見るに過ぎず。
『写しの世界』を浄めんと欲すれば心の原版を浄めて 迷いの汚点を除かざるべからず。
われ誠に物質の世界の虚しきを見たり、物質の世界が影に過ぎざることを見たり。
われはまた人間が神より放射されたる光なる事を見たり。
肉体はただ心の影なる事実を見たり。
汝ら、物質は移りかわる影にすぎざること 恰も走馬灯に走る馬の如し。
されば、影を見て実在となすことなかれ。
人間真性(そのもの)はこれ神人、永遠不壊不滅の霊体にして 物質をもって造り固めたる機械にあらず、
また物質が先ず存してそれに霊が宿りたるものにもあらず、斯くの如き二元論は悉く誤れり。
5863
:
a hope
:2015/10/01(木) 09:29:16 ID:cEpBaIdo
物質は却ってこれ霊の影、心の産物なること、恰も繭が先ず存在して蚕がその中に宿るに非ずして、
蚕が先ず糸を吐きて繭を作り 繭の中にみずから蚕が宿るが如し。
人間の真性は先ず霊なる生命にして 心の糸を組み合わせて肉体の繭を造り
その繭の中にわれと吾が霊を宿らせて、はじめて霊(ことば)は肉体となるなり。
汝ら明らかに知れ、繭は蚕に非ず、然らば肉体は人間に非ずして、人間の繭に過ぎざるなり。
時来たらば蚕が繭を食い破って羽化登仙するが如く、人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん。
汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿れ。
人間は生命なるが故に 常に死を知らず。
想念(こころ)に従い 時に従い 必要に従いて 肉体と境遇とに様々の状態を顕わせども、
生命そのものは病むに非ず、生命そのものは死するに非ず、想念(こころ)を変うることによって
よく汝らの健康と境遇とを変うること自在なり。
されど汝ら、ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。
かくの如きとき、生命は肉体の繭を食い破って 一層自在の境地に天翔けらん。
これをもって人間の死となすなかれ。
人間の本性は生命なるが故に 常に死することあらざるなり。
――かく天使(てんのつかい)語り給うとき、虚空には御妙の天楽の声聞え、
葩(はなびら)は何処よりともなく雨ふりて、天の使いの説き給える真理をばさながら称(たた)うるものの如くなりき。
(聖経終)
5864
:
a hope
:2015/10/01(木) 09:39:18 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
第37回 web誌友会 案内
期間 10月1日〜10月31日まで
テキスト 「生命の實相」第21巻 第4章
「生命の實相」第22巻 聖語篇/精神分析篇
内容 『人間の実相および仮相』
『智慧の言葉』 『精神分析による心の研究』
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
5865
:
a hope
:2015/10/01(木) 10:06:17 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第21巻 p155 後から7行目〜
救ってやろうという働きは真理の発した救いの言葉、仏教で言えば弥陀の本願力である。
その本願力は霊眼、霊耳の開けた人に分かって姿が見えるのです。
また姿が見えなくとも、その人が救いの本願力を振り向けられ、真理の言葉を口で語り、
筆に現してゆくことにすればそれによって、多くの人が救われるということになってくるというのは、
真理を取り次ぐ人の言葉はもう肉身の自分がいう言葉ではなく、真理みずから神みずからが語る言葉であるからであります。
5866
:
a hope
:2015/10/01(木) 10:07:33 ID:cEpBaIdo
(
>>5865
a hope所感)
<<真理を取り次ぐ人の言葉はもう肉身の自分がいう言葉ではなく、真理みずから神みずからが語る言葉であるからであります。>>
生長の家の「聖経」「聖典」と呼ばれている書物は、それを拝読するだけでたくさんの人々が救われてきました。
なぜなら、執筆者である谷口雅春先生御自身が、唯神実相を完全に悟られて神さまの言葉を真っ直ぐに伝える能力、
つまり霊眼、霊示などの霊覚をお持ちの方だったからなのですね。
5867
:
a hope
:2015/10/01(木) 10:14:46 ID:cEpBaIdo
訂正 ×つまり霊眼、【霊示】などの霊覚 → ○つまり霊眼、【霊耳】などの霊覚
5868
:
a hope
:2015/10/02(金) 09:57:55 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第21巻 p157 7行目〜
神の救いは、衆生が救ってほしいというその時代に相応する姿であらわれるのです。
神は要するに時代に相応して教祖というものを遣わしたまいて、それを通じてわれわれに現われられる。
だから、すべての宗教の教祖は天の使であると言えるのです。
肉体はどんな服装をし、容貌をしていましょうとも、真理を語る人には真理が宿っておる。
だから、その「内なる人」は天の使であり、霊眼の見える人が見たら後光が見えたり、キリストの姿が見えたりするのです。
いくら神の救いの念波を送られても霊智、心眼の開けていない人々にはそれが見えもしないし、聞こえもしないのですから、それを聞くことのできる、見ることのできる人を通して、教祖を通して、時代に相応して救いが現されるということになるのです。
5869
:
a hope
:2015/10/02(金) 10:06:30 ID:cEpBaIdo
(
>>5868
a hope所感)
いったい「生長の家」の教祖って誰なんでしょうか?
谷口雅春先生は「生長の家教団」の創始者であって、教祖とは呼ばれてていないような気がするのですが・・・。
キリスト教においては、肉体のキリストではなくて、永遠(実相)のキリストが天の使(てんのつかい)だったのであれば、
「生長の家」においては、肉体の谷口雅春先生ではなくて、永遠(内なる)の谷口雅春が天の使だったということになります。
ならば「生長の家」の教祖は、永遠の谷口雅春 永遠のキリスト 生長の家の大神 となって、肉体人間の谷口雅春先生を指しているのではないですよね?
どなたか、ご指導をいただけるとうれしいです。
5870
:
トキ
:2015/10/02(金) 10:47:18 ID:Kttdv9Ec
>>5869
谷口雅春先生は、「私は教祖ではありません。みなさんと同じ一求道者です。」
と言われていました。
ただ、終戦後、公職追放で谷口雅春先生が教団の役職から解任された時期に、
、部内で谷口雅春先生をどう呼んだら良いか困ってしまい、一部の信徒さんが
谷口雅春先生を教祖先生と呼んだ事があったみたいです。が、その呼称は先生
の復帰と同時に消えたと聞いています。
生命の実相第1巻に、ある青年が神想観中に「神がかり」になり、谷口雅春先生
の執筆中のお姿が、指導神に変化した姿をご覧になられていますが、それが参考に
なるのではないか、と考えています。
私が青年会時代に接した古い直弟子の先生方も、谷口雅春先生を心から尊敬し、
愛しておられましたが、神格化したり、崇め奉るというような姿勢ではなかった
と記憶しています。
肉体人間の谷口雅春先生は偉大な存在ですが、生長の家の教祖は、あくまでも
霊的な存在だと考えるべきかと思います。
出先からの投稿なので、簡単になり、失礼をします。
5871
:
a hope
:2015/10/03(土) 08:41:02 ID:cEpBaIdo
>>5870
トキさま
<< 肉体人間の谷口雅春先生は偉大な存在ですが、生長の家の教祖は、あくまでも
霊的な存在だと考えるべきかと思います。>>
お返事をありがとうございます。
わたしもそんな気がしていますし、谷口雅春先生御自身が聖典の中でなんどもそのことをおっしゃっていますよね。
ですが、谷口雅春先生を生長の家の教えの祖(教祖)だという考え方をしてしまう方々は、
その霊的存在(神)のことは理解できないということでしょうか・・・?
時々、すごい唯物論者であっても、ある日突然、自分自身に劇的な霊的体験がおとずれて、
神(霊的存在)を信じるように転身するという実話がありますよね?
スターデイリーなんかもその一例ですが、昔は、「生長の家」の講話を聴いたり「生命の實相」を拝読するだけで、
そのような霊的体験をする人が続出していたようですね。
宗教とはその「真理」を心から信じるか、信じないかで結果に大きな差が出て来るものだと感じでいます。
「生長の家」の聖典は「生命の實相」ですし、中心真理は「唯神実相」ですから、
わたしはそのことだけを信じて、これからも「生長の家」を信仰していきたいです。
5872
:
a hope
:2015/10/04(日) 10:36:21 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」 第21巻 p161 8行目〜
日蓮上人の弟子になるということは、何も坊さんになるということではありません。
お寺の坊さんになって、死骸に念仏を称えることが日蓮上人の弟子になることだなんて飛んでもない話です。
日蓮上人は『立正安国論』を書かれ、そして日本国をば本当に生かすべき道を教えられた傑僧(けっそう)です。
だから本当の日蓮上人の弟子は、生長の家により、『法華経』の神髄を理解して、その教えに従い、本当に日本国を生かす者でなければならないはずです。
ですから、日蓮上人の弟子になることは坊主になることではありません。
あなたも言われたように、『法華経』の神髄を解くものが生長の家です。
それを知らすために観音様があなたに『主婦の友』を読めと言われた。
それなら、『法華経』の神髄である生長の家の教えをそのまま行って、日本国の杖となり、柱となる人間になることこそ本当の日蓮上人の弟子になることではありませんか。
子供を坊主にしなかったということで思い煩(わずら)う必要はない。
あなたは帰ってお子さんに『生命の實相』をよく読ませ『法華経』の神髄を体得させ日本国の柱になるような人間に要請しなさい。
これこそ真(しん)に日蓮上人の弟子になる道です。
あなたはこれまで、日蓮上人の弟子になるということを思いちがいしておられた。
それでそのことを気づかせるためにあなたが普段信仰していられる観世音様のお声が聞こえたのであります。
こういうように観音様と生長の家の神様とは連絡がある。
いな、同じ神様が時と場所と人とに応じて、観音様とも現われ、キリストとも現われ、生長の家の神様とも、現われるのです。
5873
:
a hope
:2015/10/04(日) 10:37:55 ID:cEpBaIdo
(
>>5872
a hope所感)
なんだかこのあたりには、すごく深い教訓が述べられているような気がします。
つまりは、日蓮上人の弟子であるということは日蓮上人と同じように僧侶になることではなくて、
日蓮上人が示された「道」つまり本当に日本国を生かすべき道を歩む者であることなのですね。
その実現方法として、谷口雅春先生は
<<それなら、『法華経』の神髄である生長の家の教えをそのまま行って、日本国の杖となり、柱となる人間になることこそ本当の日蓮上人の弟子になることではありませんか。>>
とおっしゃっておられます。
さらに、
<<あなたは帰ってお子さんに『生命の實相』をよく読ませ『法華経』の神髄を体得させ日本国の柱になるような人間に養成しなさい。>>
と相談者の方にアドバイスされています。
つまり、『法華経』の神髄=『生命の實相』なんですね!!
では、これをわたしたち「生長の家」を信仰し、また、谷口雅春先生のご遺志であった日本国実相顕現を望んでいる信徒に置き換えて考えてみると、
<<それなら、『生命の實相』である生長の家の教えをそのまま行って、日本国の杖となり、柱となる人間になることこそ本当の【谷口雅春】の弟子になることではありませんか。>>
<<<<あなたは帰って『生命の實相』をよく読み生長の家の教えを体得し日本国の柱になるような人間になりなさい。>>
ということになりませんか?
我こそはまことの谷口雅春先生の弟子であるというのであれば、やはり「生命の實相」を何百回も拝読し、
その教えの神髄である『唯神実相』を体得していなければいけませんね。
わたし、がんばろーっと。
5874
:
トキ
:2015/10/04(日) 11:36:02 ID:mVHM0jU.
そうですね。戦前の誌友の方などは、谷口雅春先生に、まるで父親のような感情を
持っておられました。が、組織が大きくなり、信徒の数が増えると、雰囲気として
信徒の側が勝手に崇めるような雰囲気になったのも事実です。直弟子の東山半之助先生
は、著書「ざっくばらん」の中で、こういう風潮に苦言を呈しておられました。
昔は、谷口雅春先生が講習会などで地方に行かれると、信徒さん全員を囲んで、みんな
で会食をされたみたいです。その写真も残っています。
特に、現在では、大半の信徒が、谷口雅春先生を存じ上げない方ですから、これは
仕方がないかもしれません。
しかし、谷口雅春先生の本心は、一人一人が「神の子」の自覚を得ることだと考え
ます。
5875
:
a hope
:2015/10/05(月) 10:15:57 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第21巻 p166 8行目〜
生長の家では、天地一切のものと和解せよと、説いています。
しかしこれも和解という言葉にひっかかってはならない。
和解という一筋道に凝り固まるとかえって衝突することもある。
何事も和解、和解、とその一本道に乗っていると、医者が病苦で弱って自分で死にそうだと言っている患者を診察して、患者の悪い症状と和解したつもりで「あなたは大変熱が高い、もう死にそうだ」などと言ってごらんなさい。
医者はいかにも病人の意見とは和解したことになるでしょうが、そのために患者を生かすことはできないでありましょう。
そのために患者を生かすことはできないでありましょう。
また、すべての人と和解せよ、と言うと、敵が攻めて来ても、それに手向かうことは和解にならないというので、こちらは少しも防ぐこともせずに、ただ頭を下げている――そうしたら結果はどうなるか、敵に踏み躙(にじ)られて滅びてしまうことになる。
そのように、「こうせねべならぬ」という窮屈な一本のレールの上に乗っていたら、他人も生かされないし、自分も滅びてしまわなければならない。
それでは真理を明らかにすることもできないのであります。
それでは本当の道ではない。
5876
:
a hope
:2015/10/05(月) 10:18:35 ID:cEpBaIdo
(
>>5875
a hope所感)
「天地一切のものと和解せよ」とは、実相世界の一切のものとの和解であって、現象に現れている仮相や虚説に和解するということではないのですね。
ですが、わたしたちのほとんどは実相を悟っていないわけですから、何が実相で何が仮相なのか、何が真説で何が虚説なのかハッキリわからない・・・。
そこで、聖典のお言葉や、過去の谷口雅春先生のされた運動などを指針として、自分なりの解釈をして、
自分なりの運動を展開してしまうのだと思います。
ですが、そのような人まねの運動では本当ではないようですね。
続けて謹写していきます。
5877
:
a hope
:2015/10/05(月) 10:43:56 ID:cEpBaIdo
(
>>5875
つづき)
「生命の實相」第21巻 p167 3行目〜
本当の道というのは、一つに凝り固まってしまうものでなく、機に応じて縦横無尽に姿を変じ、それによってすべてが生かされる道でなければならないのです。
ある時は観世音菩薩のごとく優しくあることも必要だし、またある時は不動明王のごとき権威をもって起つことも必要なのです。
常にこうでなければならないというのではない、臨機応変、無礙自在に動きうる道でなければならない、そうあるのが本当の道であって、その本当の道にのった生活をすることが大切なのであります。
では、どうしたら一つに凝り固まらない自由自在な本当の道にのることができるかと言いますと、それは実相に入ること、すなわちわれわれの実の相を悟ることであります。
いつも言いますように、われは神の子なり、という実相をしっかりと摑(つか)んだ時に、自然に、自由自在な実相が顕れて、無礙自在な本当の道を、生きて歩むことができるのであります。
5878
:
a hope
:2015/10/05(月) 10:45:51 ID:cEpBaIdo
(
>>5877
a hope所感)
谷口雅春先生がされていた過去の運動の数々は、過去のその時点では正しい運動だったかもしれませんし、社会的影響力も強かったかもしれません。
ですが、現在の社会状況の中でその運動をそのまま展開するというのは、それは違うような気がします。
<<いつも言いますように、われは神の子なり、という実相をしっかりと摑(つか)んだ時に、自然に、自由自在な実相が顕れて、無礙自在な本当の道を、生きて歩むことができるのであります。>>
やはり、まことの「生長の家の運動」を展開するには、まずは「実相」の悟りを得ることが必要なのではないでしょうか?
そうでないと、何をやってうまくいかないと思います。
5879
:
a hope
:2015/10/06(火) 08:25:53 ID:cEpBaIdo
「生長の家」第21巻p171 後から6行目〜
要するに観世音菩薩も、普賢菩薩も、キリストも、また生長の家の神様も、皆神すなわち真理より出でたる光であり、人間もまた真理すなわち神より出でたる光であるのですから、要するに人間は、キリスト、釈迦と同じものである。
衆生の一人一人としてここにいながら、実は現象界のここにいることなく、実相界に釈迦、キリストと等しき仏または神の子としているのであって、現象の人間はただそれを知らないだけなのであります。
それを知らないから、神に頼れと言うと、自分とは別の、どこかの、天にまします神とか、宮にまします神とか、仏像とか、自分を離れた何物かに頼らなければならないように考えるのです。
5880
:
a hope
:2015/10/06(火) 08:27:09 ID:cEpBaIdo
(
>>5879
a hope所感)
それでは、本当に「神に頼る」とはどういうことなのでしょうか?
謹写をつづけます。
5881
:
a hope
:2015/10/06(火) 08:28:17 ID:cEpBaIdo
>>5879
つづき p172 2行目〜
しかし神に頼れというのは、何も余所(よそ)のものに頼りなさい、と言うのではない。
あなたの実相をみよ、釈迦でありキリストである――なんじの真性を見よ、その真性に委(ま)かせきれということであります。
あなたと神とは別々のものではない、あなたの奥が(奥とか内とかいうと、中に小さく種のように含まれているようですが、そうではない)、あなたの実が、実の相(すがた)がすなわち神である。
実の相(すがた)に委かせきったら嘘の相である不完全な状態は消えてしまうとこういうのであります。
5882
:
a hope
:2015/10/06(火) 08:29:18 ID:cEpBaIdo
(
>>5881
a hope所感)
すごい真理ですね!!!
5883
:
トキ
:2015/10/06(火) 21:13:47 ID:ODqgl6hw
素晴らしい真理を書いてくださり、ありがとうございます。
本当におっしゃる通りだと思います。生長の家の基本というのは、一人一人が
「人間 神の子」である、というところから出発するのだと思います。そういう
人が、社会に増えることで、世の中が良くなる、国も栄える、というのが運動の
基本だと思います。
5884
:
a hope
:2015/10/07(水) 08:46:06 ID:cEpBaIdo
>>5883
トキさま
そうなんですよね。
生長の家の運動って、本当はそういうことなんですよね。
聖典を拝読ればするほど、それしかないってわたしは確信が強くなるばかりなんですが・・・。
現在の「生長の家」教団総裁である雅宣先生や純子先生は、
この「人間 神の子」というお言葉をほとんど発言されませんね。
5885
:
a hope
:2015/10/07(水) 08:47:01 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第21巻 p172 7行目〜
実相としてのわれわれに神人と本源唯一の神との関係はちょうど、日光と日光を発する太陽とのような関係である。
光のない光の源はあるはずがないと同時に光があればそれには、必ず源があるのであって、源のない光もあるはずがない。
要するに光と光の源とは離すことのできない一つのものであって、神という源を知れば、それからでた人間も光であり光源である神と、光である人間とは本来一つであって、決して別々なものではないことが分かるのであります。
その光は物質的光ではない。
太陽の光線を例に引いたのは喩(たとえ)であります。
で、「神は霊なるが故に人間も亦霊なるなり、神は愛なるが故に人間もまた愛なるなり。神は智慧なるが故に人間も亦智慧なるなり」とありますように、われわれが神から出でた物質的光ではなく、霊の光、愛の光、智慧の光であります。
5886
:
a hope
:2015/10/07(水) 08:49:33 ID:cEpBaIdo
(
>>5885
a hope所感)
<<光のない光の源はあるはずがないと同時に光があればそれには、必ず源があるのであって、源のない光もあるはずがない。
要するに光と光の源とは離すことのできない一つのものであって、神という源を知れば、それからでた人間も光であり光源である神と、光である人間とは本来一つであって、決して別々なものではないことが分かるのであります。>>
わたしは、ここの場所を拝読するたびに、何度でも感極まって涙が流れてしまいます。
どんなに悪人に見える人でも、どんなにミジメに見える人でも、どんなに意地悪をする人でも、
すべての「人間は神より出でた、光そのもの」なんですね・・・。
この「甘露の法雨」の『人間』の項目の解説である第四章には、人間の実相とは何なのかがとても詳しく説明されているので、
読み飛ばしができません。
この後、「愛」についての説明が続きます。
神の愛である『法愛』と肉体人間の『執愛』の違いがよく解ります。
じっくり何度でも拝読したいと思います。
5887
:
トキ
:2015/10/07(水) 21:38:30 ID:2YkAhnD.
臨死体験をした人の多くが、死後の世界で、大いなる「光」を見た、という
報告をされています。その光は、慈愛に満ちており、どの人も安心して受け入
れられるとも言われています。
臨死体験をした人が見た「光」と、谷口雅春先生が説かれた「光」が同じ
か、違うか、それはわかりません。しかし、近い存在のような印象は持って
います。
ネイティヴ・アメリカンの人たちが「人類が忘れたもののために、祈れ」
と言っていますが、私たちの祈りは、人間が神の子であることを思い出す
ことが大事なのだと感じます。
5888
:
a hope
:2015/10/08(木) 10:34:28 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」 第21巻 p173 後から3行目〜
・・・この「法愛」が要するに本当の神の愛、実相の愛ということであって、実相の愛とは、すなわち自他一体の愛であります。
愛というのはすべて他と自分とが本来一つであると観ずることです。
たとえば、親が子供を愛するというのでも、子供とわれとは一体であると自覚することから起こるのでありますし、あるいはある男性が女性を愛するというのでも、わたしはあの人と一体である。
あるいは一体になりたいという念を持つことなのであります。
ところがこの愛が一人一人というように、少ない範囲に凝り固まってししまったときに、それは「執愛」になってしまって「法愛」にはならない。
ではどういうのが「法愛」であるかといえば、何にも執しないで、天地の流れそのままに、自由自在に愛すること、これすなわち「法愛」でありまして、何かに執する愛は自在ではないから「法愛」ではないのであります。
5889
:
a hope
:2015/10/08(木) 10:35:47 ID:cEpBaIdo
(.>5888 a hope所感)
肉体をもった人間としてこの現象世界に投影されているわたしたちの中に、この「執愛」を少しも持たない人間が果たして存在するのでしょうか?
母親であれば自分の子供と他人の子供がいれば、自分の子供をより愛してしまうのが当然の本能だと思いますし、
また、男性であれば戦場で窮地に陥れば相手を攻撃してしまうというのも、自分を護るという自然の本能ですよね?
肉体人間の持って生まれた「本能」を手放したときに、神の「法愛」が実現するというのでしょうか・・・?
5891
:
a hope
:2015/10/08(木) 14:06:08 ID:cEpBaIdo
>>5890
それでは、今日はお仕事がお休みなのでお返事させていただきます。
あの夜、返事をしなかったのは、
>>5810
の投稿の後に今月のweb誌友会のテキストの内容からかけ離れた
内容の投稿がずっと続いてたためにこの板の混乱を避けるためにお返事をしなかったのです。
わたしは、今まで雅宣先生や純子先生個人の生き様を批判したことなど一度もありません。
ただし、「生長の家」の法灯継承者としての「教義」内容の変更や、
その変更に伴う「森での生活」やソーラーパネル等の物質的手段に頼った環境保護運動への批判はさせていただきました。
ですが前にも一度言いましたが、今は「おかしい(虚説である)」とは思っていますが批判していません。
ここはweb誌友会板ですので、これ以上のお返事は控えさせてただきます。
5893
:
a hope
:2015/10/08(木) 14:55:35 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第21巻 p174 7行目〜
「執愛」でも愛には違いはないのですけれど、それは捉われている愛でありますから、それでは、あらゆる時にすべての人を生かす力は出て来ないのであります。
自由自在にあらゆる物を千変万化しながら、その実相を生かす。
これが法愛であり、神の愛であります。
施しをするのでも執着の施しと法施とがある。
執着の施しは誰々には何々をやりたいが、誰々には何々をやりたくないというような、人に物を凝り固まった偏寄った愛であります。
人に物に偏寄らないで一様に実相を生かすのが法施であります。
先刻、「道の道たるは道に非ず」ということを申しましたが、ここでは「愛の愛たるは愛に非ず」ということも言えるのであります。
ただ子供がかわいいからいたわるというのは盲目的な親の愛で、かえって愛するがゆえに愛するわが子を害している場合も多々あるのであります。
なせ愛するがゆえにかえって愛する者を害するなどということになるかといえばその愛が執愛であるからで、愛とはやたらにいたわりかわいがるということだという一本のレールの上に乗ってしまっているからで、その一本道のほか融通がきかない、そのためにせっかく愛しながらかえって愛する者を生かすことができないということになるのであって、それは法愛ではない。
法愛というのは無軌道電車みたいなもので、レールははずれても決してひっくり返らないで平気で走って行けるような自由自在な愛になって、はじめて相手を生かすこともできるようになるのであります。
5894
:
a hope
:2015/10/08(木) 14:57:19 ID:cEpBaIdo
(
>>5893
a hope所感)
きっとわたしたち現象人間は、『「自由自在な愛」仕方』を学ぶためにこの人生で色々な人間関係の経験を積むのですね。
子供が自分の思い通りにいうことを聞かないだけでパニックをおこしてしまうようでは、
わたしなんてまだまだなのでしょうね (;´∀`)
ですが、すべての経験は魂を向上させるためにあるのですから、その様な経験も決して無駄ではありませんね!
「自他一体の愛」「自由自在の愛」「相手を生かす愛」=法愛
わたしたちが目的とすべく、究極の「愛」ですね!
5897
:
a hope
:2015/10/08(木) 16:02:14 ID:cEpBaIdo
>>5859
<<ホープさんは「教えを広めさえすれば環境問題は解結する」といっておられるが>>
↑のような発言はわたし a hopeはしていません。
トキさま
>>5895
と
>>5896
は、わたしの正しい発言をもとにした投稿ではありませんので、削除、または別板への移動をお願いします。
5899
:
a hope
:2015/10/08(木) 16:49:08 ID:cEpBaIdo
ここでのわたしの所感は、あくまでも、テキストである「生命の實相」の真理を学んだうえでのわたしなりの解釈です。
その解釈に間違いがあるのなら、どうぞご遠慮なく聖典「生命の實相」の真理をもとにご批判ください。
ここは、「生命の實相」の真理を学ぶ誌友会です。
「生命の實相」の真理をご批判する投稿は、トキさまにすべて削除していただきます。
5901
:
a hope
:2015/10/08(木) 16:59:56 ID:cEpBaIdo
>>5900
わたしの解釈(考え方)が間違っていれば、聖典「生命の實相」の真理でぜひご批判ください。
聖典「生命の實相」の真理の研鑽こそが、このweb誌友会を開催している一つの大きな目的なのですから・・・
どうぞよろしくお願いいたします。
5902
:
通りすがり
:2015/10/08(木) 18:01:11 ID:eRL0Pjck
生命の實相は、相手の間違いを批判するために、あらせられるのではない。
生命の實相は、神殿であり、その他のなにものでもない。
私達は神そのものである。
生命の實相は、私達の實相そのものである。
生命の實相の学びは、まさに私達の内にそのものに宿る神の叡智と、神殿なる生命の實相の饗宴のように感じる今日この頃である。
5903
:
a hope
:2015/10/08(木) 18:10:59 ID:cEpBaIdo
>>5902
通りすがりさま
すばらしい真理のお言葉をありがとうございます!
通りすがりさまのおっしゃる通りなので、自分の浅はかな発言を取り消します。
×『わたしの解釈(考え方)が間違っていれば、聖典「生命の實相」の真理でぜひご批判ください。』
↓
○『わたしの解釈(考え方)が間違っていれば、聖典「生命の實相」の真理の言葉(光)でわたしの「迷い」を消してください。』
みなさま どうぞよろしくお願いいたします!!
5904
:
通りすがり
:2015/10/08(木) 19:07:53 ID:FF/vzSxM
a hopeさん
あなたはとても素直な方ですね。時折、こちらを通りすがり拝見致しておりますが、あなたの学びの探求心には、感心致しております。
子供が思うようにならないのは、ある意味当然ですね。
親とは言え、親子ともに人格は別ですから、我が子は人生の師と観を転換したら面白いですよ。
しかし、あなたの生命の實相、あなたが神様そのものであらせられるからこその、素晴らしい探求心だと思います。これからも頑張ってください。
5906
:
a hope
:2015/10/08(木) 22:55:52 ID:cEpBaIdo
通りすがりさま
あたたかい励ましのお言葉をありがとうございます。
このweb誌友会板は参加者は多くありませんが、トキさまはいつもあたたかくわたしを応援してくださっていますし、
通りすがりさまのような生長の家の大先輩方がたくさん見守ってくださっているとわたしは信じているので安心して発言ができるのです。
>>5902
のご忠告には本当に感謝しています。
また
>>5904
の
<<子供が思うようにならないのは、ある意味当然ですね。
親とは言え、親子ともに人格は別ですから、我が子は人生の師と観を転換したら面白いですよ。>>
とのアドバイスには、目から鱗が落ちたような気分になりました。
「立ち向かう人はすべて自分にとって何かを教えてくれる人生の師である」という真理はわかっていた筈なのに、
なぜか、自分の子供たちだけは自分の責任でなんとか育て上げなければいけないんだという自分自身の我執(執愛?)に気がつくことができました。
わたしの子供たちはすばらし「神の子」でした。
これからは自分の子供たちもわたしの人生の師であると尊敬したいと思います。
そう観の転換をしてみると、不思議ですがなんだかとても気持ちが楽になりました!
通ろすがりさま
わたしは、これからも今までどおりトキ掲示板で「生命の實相」を学び続けていきますので、
これからもあたたかく見守ってくだささり、また、時には今回のようにご忠告やアドバイスをいただけるととれも嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。 合掌。
5907
:
a hope
:2015/10/08(木) 23:16:12 ID:cEpBaIdo
>>5905
<<わたしの正しい発言をもとにした投稿ではありませんので、削除、または別板への移動をお願いします。>>
の発言を撤回するつもりはありません。
「教えを広めさえすれば環境問題は解結する」という内容と、
わたしの正しい発言である、
<<人類が聖典「生命の實相」の拝読をして唯神実相の考え方になれば環境問題の解決につながりますよ。
環境問題なんて本来無い現象なんですから・・・。>>
の二つの内容は全く違いますから。
5908
:
通りすがり
:2015/10/08(木) 23:21:15 ID:hhzAW3mE
a hopeさんへ
5902は、忠告ということではなく、書かざるを得ない不思議な感覚で、入力した次第です。
時折、思い出したように通りすがりますので、また拝見にまいります。
その時は、1言何やら残すこともあるやも知れません。
ただ、私は講師でも何でもありませんので、気軽に接してやって下さい。
こちらこそ、よろしくお願い致します。
5914
:
a hope
:2015/10/09(金) 10:03:57 ID:cEpBaIdo
ここでのわたしの所感は、あくまでも、テキストである「生命の實相」の真理を学んだうえでのわたしなりの解釈です。
その解釈に間違いがあるのなら、どうぞご遠慮なく聖典「生命の實相」のお言葉(光)でその「迷い」を消してくださいね。
ここは、真剣に「生命の實相」の真理を学ぶ誌友会です。
この板の秩序を保つため、テキストの内容と無関係な投稿は、今後トキさまにすべて削除もしくは別板への移動をお願いするつもりです。
5918
:
a hope
:2015/10/09(金) 10:46:00 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第21巻 p180後から4行目〜
生命の霊性、愛、智慧というものは、いかなる大科学者がいかなる装置で物質を捏ね合わしても発現するものではない。
生命は霊なる愛なる智慧なる神からのみ来るのであります。
この神から来た生命の霊性が現象世界に投影したのが、現象生命である。
この現象生命はどういう状態で現象界に存在に入るかというと一つのバイブレーションとして存在するのであります。
このバイブレーションを客観的に観察すると一つの念体である。
霊魂または霊体というのはこれであります。
物質は実相宇宙の投影が認識作用によってその霊妙性を捨象されて生じたバイブレーションの体でありますが、この物質の体に、現象生命の体が複合して、肉体人間としてあらわれているのであります。
だから人間は大別すると二種の体が重複しているのであります。
われわれは体が一つしかないと思っていますが、肉体と霊体とが重なり合って一つに見えているのであります。
5919
:
a hope
:2015/10/09(金) 10:47:32 ID:cEpBaIdo
(
>>5918
a hope所感)
この後には現象(肉体)人間が現象界に現われてくる仕組みがとても詳しく述べられています。
その時に、よく混乱してしまうのが、「霊体(霊魂)」と「霊」の違いですが、その説明は、p173にあります。
<<仏教では「霊」という言葉を使いませんが、神道やキリスト教では「霊」という字をよく使います。仏教では「霊魂」というものを否定してしまっていますので、「霊」という字を特に嫌う方があります。しかしこの「霊」というのは「物質を超越した」「物質に障礙せられぬ」「自由自在な」「不可思議な」「無礙な」というような意味をもっているので、必ずしも霊魂のことではありません。幽霊などでも、閉め切っておいても、無礙に不思議に室内へ闖入(ちんにゅう)して来るというので、霊妙不可思議なので幽霊と言うのです。「霊の光」という言葉が嫌いならば、不可思議光とか無礙光とか言えば仏教徒に喜ばれるでありましょう。同じことを指しながら、言葉で争うのはみっともよいことではありません。>>
つまり、谷口雅春先生は『霊魂・霊体・幽霊』という言葉は主に物質的現象で使われて、
『霊』という言葉は「物質を超越した」「物質に障礙せられぬ」「自由自在な」「不可思議な」「無礙な」というような意味でつかわれているようです。
ここのところは、霊魂の存在(スピリチャル)を否定する唯物論者にはとても理解しがたい箇所なのではないかと思います。
5950
:
「訊」
:2015/10/22(木) 10:04:53 ID:XHjRyBkA
誌友会に無関係な投稿は、削除でよいのではないでしょうか。
拜
5951
:
トキ
:2015/10/22(木) 10:17:39 ID:wrjEtJjs
>>5960
ご提案、ありがとうございました。
近く、適当な時期に削除をさせていただきます。
合掌ありがとうございます
管理人敬白
5952
:
「訊」
:2015/10/22(木) 17:11:14 ID:pyt3hUfk
a hopeさんですが「かなり可哀相」です。このスレは例えば、雅春先生のファンが集う場ですよね。AKBファンクラブでAKB批判はナシですよ。どうしても批判したければ、「谷口雅春アンチ」なスレでも(一時的に)開始され、そこでされればよろしいと思います。(但し「論拠不在」のキリッ系投稿は「かなり笑えます」のでご注意!)
と、まあ、雅春先生ファンが、雅春先生の御思想を「是」としてやり取りを進めるスレッドです。「非」から雅春先生にアプローチされる方は、他スレでやって頂きたいです。ムズカシイんですよ、司会って(笑)。妨害珍文を注意すると、「あなたは和解してない」とか言われるんですからね(笑)。「ウンコは食卓の上ではなくトイレで、それが和解です」「珍文は珍文掲載場へ。人地処の三相応を得るのが和解なんですからね」・・・・・・・・そんな説明をしても、読んでおりませんからまあ、いずれにせよ司会者のa hopeさんですが、「かなり可哀相」です。
拜
5953
:
a hope
:2015/10/23(金) 10:15:20 ID:cEpBaIdo
>>5952
「訊」さま
あたたかいご助言をありがとうございます。
このweb誌友会板は、谷口雅春先生の教えでもある聖典「生命の實相」の真理を学び合い、研鑽し合うための板だと認識しています。
ですから、わたしの所感や解釈がその「生命の実相の真理」を基準に考えて、間違っている場合はいくらでもご批判くださってかまわないのですが、
ここのところわたしの人格や言動への批判や、本来の「生長の家の教え(谷口雅春先生の教え)」とはかけ離れた投稿内容が続いていました。
(今はトキさまが削除してくださってありますが・・・)
ですから、再びわたしがこのweb誌友会で書き込みを始めることにより、またそのような板の目的とは違う投稿が開始されるのではないかと危惧しております。
わたしからみれば、一連のそのような内容の投稿は「生長の家の教え(谷口雅春先生の教え)」への反逆であり、その勉強会への妨害行為としか思えません。
5954
:
「訊」
:2015/10/23(金) 11:02:39 ID:Ug2XjY8s
まあ、司会者批判が来るってことはそれだけ、「雅春先生のご思想には問題がないため」なんですよ(笑)雅春先生の御思想自体に問題あらば、反対者はそっちに向かうんですがデキナイんだもの(笑)で、それじゃ虚しいから「司会者を攻撃する」んです(笑)。
「あ、この方は今、私を注意した!」
と言って、そしてつづけて「和解してない!」
と来ます。さらには和解してない(=自分基準の和解なんだけどw)を以て今度は「教えに潜む二項対立(キリッ)」と来ますから、虚しさがさらに加速します。
まあホント、高級用語で粉飾してるからわかりにくいダケでして、反対者の論法カラクリは笑えるくらいに単純です。ところで「オズの魔法使い」?だったと思うけど、人々を脅してた魔女の裏側にいたのは「ちっちゃいおじちゃん」だったですよね?(笑)雅春先生の反対者って、あれです(笑)あの、「ちっちゃいおじちゃん」(笑)
用語粉飾してるからオッ!ってなるだけでして内容精査すれば・・・・・・「ちっちゃいおじちゃん」(笑)雅春先生の思想そのものには反論できないから、司会者を攻撃して悦に入っているダケなんです(笑)
拜
5956
:
シャンソン
:2015/10/23(金) 21:50:13 ID:U14Q8fEE
掲示板でドロドロとした詮索と喧嘩の嵐
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=4013
5957
:
シャンソン
:2015/10/23(金) 23:14:58 ID:OmuqqVZI
誌友会関連者様へ
見ている人たちも、ここが何の版なのか、現在のテキスト・司会などが
どうなっているのか判然としないと思うので、誌友会のお知らせの再掲示をお願いします。
5958
:
a hope
:2015/10/24(土) 00:12:35 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
第37回 web誌友会 案内
期間 10月1日〜10月31日まで
テキスト 「生命の實相」第21巻 第4章
「生命の實相」第22巻 聖語篇/精神分析篇
内容 『人間の実相および仮相』
『智慧の言葉』 『精神分析による心の研究』
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
>>5957
シャンソンさま
ご指摘くださり、ありがとうございます。
5959
:
a hope
:2015/10/24(土) 09:08:25 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第22巻 精神分析篇 「精神分析による心の研究」より
p112
「生長の家」は近代の精神分析をその教えの中にとり入れている。
精神分析が人間に与えた功績は、病気という象徴を通して、人の心の奥深く潜んでいる「迷い」に穿ち入り、その「迷い」(いろいろの欲望の紛糾)を掘り出して白日下にその正体を暴露し、その「迷い」を去り、欲望を正しくしたとき、ひとりでに病気の癒える事実により、病気とは「迷いの影」であり、「欲望の紛糾」の投影にすぎないことを科学的に明らかにしたことである。
諸君はここに語られたる病者の心理描写をただ興味本位に読んでしまうだけでなく、読みながら自分の心のうちに、この話のうちにある患者と同じ種類の「迷い」が潜んでいないかを反省し、反省し、「迷い」があればその「迷い」を捨て去り、懺悔の生活の上にあらわし、いろいろの虚偽や仮面や口実で修飾しなくともそのままで完全円満な「神の子」たる自己生命の実相を自覚せられたく希(こいねが)う。
ただしい生活は心を正しくし、正しい心は病を癒やすのである。
5960
:
a hope
:2015/10/25(日) 16:55:51 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第22巻 p119〜
「病気でありたい意志」
患者の有する「暴露の抵抗」の性質について説明しておこう。
簡単に言えば神経症患者はその神経症に執着があるのである。
不思議とはいえ、患者の潜在意識は、自身のもっている病気を生活の必要品としていたわっているのである。
患者は悪の世界へ現実的に堕落するのを防ぐ防御癖として、その病気をこしられたのであり、同時に自分の病的な欲望を象徴的にその病気によって満足させているのである。
彼はこの病気なしには生活に耐えられないのである。
彼の隠れたる迷いの心は健康になることを恐れて、病気でいたいことを欲しているのである。
精神分析によって人間の心を研究したものでなければ、この不思議な「病気でありたい意志」を患者がもっているということは解しがたいであろう。
しかし多くの精神分析の結果によると、神経症患者は病気によって、周囲の人に対して暴力をふるい、勝利感を味わい、不快な仕事を避けようとしているのである。
このことは読んでいるうちに諸君にわかってくるであろう。・・・
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