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Web誌友会 板/2

1456復興G:2013/05/28(火) 20:35:18 ID:AB6RqYXc

<『新版 真理』第3巻より つづき>

 お月様が全然見えなくなって真の闇になりましても、お月様は死んで此の世にいなくなったのではなく、いつまでも、やはり同じまるい相(すがた)で此の世にいるのです。いつまでも続いて消えないそのものの本当の相(すがた)――実の相――を「実相」と云うのです。

 人間にも現象の相と、実相とがあります。人間の現象の相は、雨が降れば濡れ、斬れば血が出、年がゆけば皺がより、力がなくなり、老いぼれて死んでしまうのです。しかし「実相の人間」は老いず、病まず、死せず、「永遠の存在」なのであります。禅宗の坊さんたちが坐禅を組んでじっと心の眼でみつめるのは、この永遠に死なない、永遠に完全な人間の「実相」(即ち本当の相)を心で見つめるのです。

 沢庵禅師は雨が篠つくように降る中に庭園の大石の上に坐って、人間の実相をじっと見つめておられましたら、どんなにざんざ降る雨で着物や肉体がぬれていましても、「本当の相」の人間は濡れていないことを見られたのです。水に濡れず火に焼けないのが人間の実相だからであります。沢庵禅師の、「どうじゃ、濡れていまいがの」とおっしゃったのも、こう云う意味から云うと間違ではありません。

     日常生活と禅の生活

 一応、禅の問答ではそれでよいとしましても、日常生活の上では、「雨に濡れないで歩いて見よ」と云われて、雨に着物や肉体が現に濡れていながら、「濡れないでいる」と頑張ることは無理で、これでは、吾々の日常生活が成立ちません。「濡れないで歩いて見よ」と云われたら、実際に、現実にも濡れないで歩けなければなりません。ここに日常生活を裏附ける宗教と云うものが必要となるのであります。禅の生(なま)悟りではいけないと云うことになるのであります。「実相人間は病まないものだ」とわかりましても、現に肉体に病気をあらわしておりましたら、その悟りは、生悟りでありまして、「人間は病まない」と云う自覚が、形にあらわれるほど強く深くなっていないと云うことになります。

     雨が降ったら傘を縕(さ)す

 「それでは、この雨の降る庭園を濡れないで歩いて見よと、お前自身が人から云われたらお前はどうするか」とわたしにたずねる人がありましたら、私はどうするかと云いますと「すみませんが、一寸(ちょっと)傘をお貸し下さい」と云って傘を借りて、それを縕(さ)して庭園をあるいて来て、

「どうじゃ、この通り濡れていないじゃろう。」と云います。

「なんじゃ、そんなことなら誰でもする。そんなことは当り前じゃ。そんなことが生長の家か」

 と皆さんはお笑いになるかも知れません。

 そうです。「生長の家の生活」と云うのは当り前の生活を当り前にすることなのであります。

 禅宗の『無門関』と云う本の第十九則に「平常心是れ道(どう)」と云うのがあります。「平常心」と云うのは「平生(へいぜい)の心」です。平生の生活そのままの心が道にかなうと云う意味であります。当り前が当り前の生活がすらすらと行われるのが本当の「禅の生活」だと云う意味であります。

 傘があるのに、剣を揮(ふる)って雨を斬りはらって濡れないとか、実際、雨に濡れていながら、「実相の人間は濡れていないのじゃ」と頑張って見たりするのが、「禅の生活」ではないのであります。「禅」と云うものが、実際生活の中に入り込んで来ますと、実際生活が何の矛盾も摩擦もなく、構える心なしにスラスラと何事も運ぶようになるのであります。
<つづく>


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