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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4
3706
:
志恩
:2018/04/27(金) 20:18:36 ID:6hRUvSRg
続きのつづきー
「第三に、政治について論じることがない。
これは、彼らの神学上の立場や宗教的実践のゆえに、
どんな迫害の危険が伴うかもしれないことを知って、この高度に微妙な領域内では寄り道をせず、
まっすぐな道を歩いているからであろうか。
(中略)ニューソートは平均的アメリカ人の日常の感情的・主観的な要求や問題に
もっぱらその焦点をあてているのである。」
(同書、253〜254頁)
北米の政治活動は、
ファンダメンタリスト(キリスト教原理主義者)たちが強い影響力を持っていると指摘する論者が多い。
「原理主義」とは、過去に説かれた教えを字句通りに信じようとする極端な聖典崇拝思想のことである。
これについては、すでに解説してきたので詳しくは論じないが、
ニューソートが彼らと同じ土俵で相撲をとることがないのは、迫害の危険を避けていると同時に、
宗教でなければできない領域を十分に心得た者が、専門的な医学や経済学の分野にズカズカと土足で
立ち入らないのと同じように、宗教活動の第一義的なものにのみ運動の重点をおき、
それ以外の領域である政治活動には重点を置かない、という彼らなりの運動のあり方を示しているのである。
政治活動に重点をおく宗教運動とは、厳密に言えば、もはや「宗教」運動ではなく、「政治」運動である。
このようなカテゴリーエラーが「聖戦」の思想の温床となることは、
すでに世界の宗教間における紛争の歴史から学んできたところではないだろうか。
宗教運動における第一義のこととは、
ニューソート的に言えば、
「各人は今ここで健康、幸福、繁栄を達成することにおいて、その偉大なる善を探求」する、
ということであり、
宗教多元主義的に言えば、「自我中心から実在中心への人間存在の変革」ということである。
ことに宗教と政治との関係は、時代状況、内外の情勢などを含め
「人・時・処三相応」における最良の智慧を求められる問題であり、ニューソートではこれに対して、
彼らなりの周到な距離をもって処しているのである。
「第四に、ニューソートは決して経済や課税の領域にあえて身を晒すことをしない。
これもまた、政府との論争をもひき起こしうる微妙な領域だからである。
これらを全部考え合わせて、われわれは、智慧の行程は進められている、と信ずる。
ニューソートは努力して自ら重要な分野をきり拓いてきた。
その他の分野に足を踏み入れることは、ニューソート運動の現代社会へのインパクトを薄めるのみであろう。」 (同書、524頁)
ラーソンが指摘したニューソートの活動のあり方についての分析は
、置かれている状況が違うとはいえ、日本において光明思想を普及する運動を進める上でも
参考になるところが多い。
それでは最後に、ニューソートのほとんどの教会で、礼拝の際に歌われているという讃歌を紹介して、
この章を終わることにする。
この詩が、宗教のドグマを超え、単なる日常の感情的・主観的な個人救済の次元も超えて、
純粋なる神の愛の実践活動として「国際平和」を祈っていることに注目していただきたい。
「地上に平和を来たらせよう、そしてこの仕事を私から始めよう!
地上に平和を来たらせよう、本当の平和を。
父なる神によって、われわれはみな兄弟、
私の兄弟と完全に調和して共に歩もう。
平和を私から始めよう、今この瞬間から、
私の踏み出す一歩一歩を、私の厳粛な誓いにしよう。
一瞬一瞬を、永遠に平和に生きるために、
地上に平和を来たらせよう、そして私から始めよう。」 (同書、524〜525頁)
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