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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

20初心者:2012/07/06(金) 17:36:35 ID:TfQ0e6RA
さくらちゃんへ

宗教と科学の関係ということでいえば、宗教が科学を弾圧してきたという
歴史がありますね。そうした弾圧の歴史は今も続いていて、科学にたいして
厳しい見方をする宗教関係者が少なからずいるものです。この掲示板でも、
あたしのような主張をすれば、厳しい弾圧がまっています。

宗教が科学に脅威を感じてきた。これは事実でしょう。科学の発展によってみず
からの信仰が脅かされることを、宗教にかかわる人たちは極端におそれてきた
ということがいえるはずですからね。

しかしですね、今という時代は、宗教のそうした懸念がいよいよ現実のものに
なりつつある時代だということがいえそうなのです。ジジェクは、こうした事態を
「ポジティヴな知」という言葉で語ります。「純粋な信仰がポジティヴな知によって
脅かされている」。こうした表現で、宗教人が抱いてきた懸念がいよいよ現実の
ものになりつつある事態を、ジジェクはなぜか告発気味に語っているのですね。

ジジェクにとって「純粋な信仰」とは、無根拠の決断による信仰ですね。根拠は
ないがそれを信じる。これが、ジジェクのいう「純粋な信仰」です。「純粋な信仰」
とは、いってみれば「内なる良心の呼び声」にしたがうということでもあるようです。

このような意味で、「純粋な信仰」とは個人の心のありようでなければなら
ない、ということがいえそうです。「内なる良心の呼び声」が聞こえるのはその人
自身ですから、信仰は、どうしても個人の心のありようによってしか語られることは
ないといえます。

ですけども、「真理」はすでに、個人の心のありようでは語れない時代になって
きているということがいえるのですね。なぜなら「真理」は、今の時代、無根拠には
語りにくくなっているからなのです。なにごとにも根拠を求めたがる現代人の心性
は、「真理」にたいしても根拠を求めずにはおれなくなっているのですね。この意味
で、ジジェクのいう「ポジティヴな知」とは、内なる思いによってではなく、たしかな
根拠によって「真理」を知ろうとする心的な傾向であるということがいえそうです。

このあたりの事情を、たとえば現代仏教について、ジジェクはつぎのように
語っています。

○(現代の仏教)では、多くの科学者が「現代物理学の道(タオ)」のモチーフ
を振り回し、現実を揺れ動く出来事の非物質的な流動と見なす現代の科学は、
古代の仏教の存在論を確証したとされる。

このように、現代仏教においてさえも、現代科学の考え方に根拠を見いだすこと
でその思想の正しさと関連づけようとする傾向があるということを、ジジェクは
いっているのですね。

これは仏教にかぎっているわけではありませんが、ジジェクは、「彼らには、自分の
宗教と科学の最新の発見を合体させようとする傾向が見られる。彼らにとって
宗教的声明と科学的声明とは、ポジティヴな知の同じ側面に属している」といった
物言いで、現代宗教の一部に見られる「ポジティヴな知」を重んずる傾向を告発し
ようとしているのですね。

ジジェクのいう「ポジティヴな知」によって、現代人が、科学的声明にたいしてそう
であるように、宗教的声明にたいしても根拠を要求するようになってきたという
現実がありそうです。これこそが、宗教界がこれまでずっと怖れてきた事態なの
ですね。そうした事態が、すでに現実のものになったということです。

「ポジティヴな知」を標榜する現代人は、「真理」にたいして根拠を求め、それを
じかに知ろうと欲します。無根拠な決断による信仰によって信じられてきた「真理」
を、無価値なものとして否定しようとする傾向を持つようになります。「純粋な信仰
がポジティヴな知によって脅かされている」とするジジェクの見方は真実を語って
いるとおもわれます。

人類の意識は時代とともに変化します。今という時代の意識とはどのようなもの
であるのか。こうしたことへの洞察が、宗教の側にも求められているということです。


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