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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

137神の子さん:2012/07/11(水) 11:37:35 ID:vxm3Yqkc
>>128
初心者さま

アウトサイダーが言っている「ほとんどの人が、「奴隷状態」におかれている」
というのは、これは、意識の問題だとおもうのですが、これは、どのような背景があるのでしょうか。

・その「奴隷状態」からの解放の手段であるのが、
「宇宙的起源への回帰」を至上の価値、とすることだと。
それが、「死の欲動」となってあらわれてくる・・そういうことでしょうか。
「死の欲動」とはなんでしょう?

前に言っていた、利休が、究極の「わびざび」の境地を求めて、切腹したことも、
その死の欲動のひとつなのでしょうか、。
「アウトサイダー」の、時に破壊的な生活や、メランコリーに陥るような生き方や思考性のことですか?

そして、ウィルソンは、「左脳革命」を唱えることで、「死の欲動」さえも、救済することを試みている、のですか・・
では、初心者さまは、「左脳革命」といわれるものに、救いを見出している、ということでしょうか。
この辺は、アクエリアンさまは、ウィルソン信望者であられ、お詳しそうですね。

>生長の家が、実現された救済は、奴隷状態を居心地のよいものへと変えただけであるような気がいたします。

生長の家の救済が、この状態だとお感じになるのですね。
・・失礼かも知れませんが、初心者さまは、おそらく、しみじみとした、
信仰のよろこびから、遠い生活をされていたのではないかと、お察しいたします。
救済は、ただの、生活改善、ではありません。
深く、味わい深い信仰の境地もあるかと思っております。
おそらく自身に、なにか、少しであっても、この境地に覚えがなければ、
生長の家にあらわれるどんな体験談をきいても、共感し、心に寄り添うことは出来ないものと思われます。

真理を知ることで、むしろ批判的になったり、自分の考えと違うものを排斥するような気持ちをもつとしたら、おそらく、この信仰の境地に身に覚えのないことからできるのだな・・とわたしはかんじております。わたしも、批判精神がたくましいので、こういうときは、自分の心が、かたく貧しい状態になっているのを自覚しています。
・・そのときには、自分の信仰の原点を思い出すと、心が広く、深くなる感覚を取り戻すのです。

>たとえば、身体症状が奇跡的に治癒したときに、ふつうはこれをもって善である
と考えるはずです。ここで立ち止まって、この出来事ははたして本当に善であるの
かということを考え抜いたあげくに、それでもそれが善であると認めることを
承認できれば、それは善であるといってよいものと考えます。

たしかに、霊的な力などを使って、無条件に病気が治りました、というようなことを、
わたしも、善の状態だとは思いません。
それが、あるべき状態としてふさわしいときに、身体の治癒も起こるはずだと思います。
それが、宇宙の法則に適う、善の実現ということだとおもいます。
そのことは、生長の家の神癒ということでも、充分あらわれていることがあります。

>雅春先生の教えに問題があると
いうのではなく、生長の家の方々の現状を見るにつけ、つくづくそう思わせられる
ということです。
いかに快適な奴隷生活を実現するか。生長の家では、このことだけが考えられて
きたとおもわざるを得ない、というのが経験的に得られた結論です。生長の家に
たいする批判は、こうしたことへの批判でもあり、ただたんに、救済が反証不能な
形で真理へと結びつけられていることへの批判ではないということです。

では、初心者さまが仰りたいのは、雅春先生の教えに、問題がある、ということではないのですね。
「生長の家の現状」、初心者さまが問題にされておられるのは、このことなのですね。
救済とは、救済を必要としなくなる状態だ、と初心者さまは書いておられました。
この救済は、どのような形になるのでしょうか。


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