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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2

2484SAKURA:2014/12/23(火) 20:12:01 ID:???
「トキ様」へ「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……  ローマ字(大文字)のSAKURAで〜〜す。
>>2465>>2466>>2468>>投稿の続きです…。
― 『 日・本・版 …』―  
■―― 霊界通信 ――■    −4−
「親樹の通信」 浅野和三郎 著
■――――― 新樹の生涯 ―――――(その1)―――――――――■

■ 新樹は日露戦役の起こった明治三十七年六月十日、われ等夫婦の
間のニ男として横須賀軍港で生れました。

彼は稀に見る色白肥大(いろじろ)の小児で、引きつづいて
ずっと健全、やや長ずるに及びなかなかの腕白小僧となりました。
彼が五・六歳の頃新調のナイフの切味を試すつもりで、新らしい
箪笥の角を削り取った時は家庭の笑話として後々まで語り
傳(つた)へられました。

 小學教育は横須賀市の豊島小學校で受けましたが、何時も出席で、
どの學課も殆んど萬遍なく出来ましたが、特に目立ってゐたのは
繪画で、ちょっと器用な画才を見せました。

その頃彼の父は血気盛りで土曜から日曜日にかけてはよく
遠足を試み、又夏は欠さず水泳を試みましたが、新樹はよくその
相伴をつとめました。三浦三崎、逗子、葉山、鎌倉、金沢等の諸地方で
彼等の足跡の印せぬ所は殆んどないと言ってよい位、また海で
父の腰に紐でくくしつけた浮子につかまってしばしば猿島附近
まで泳ぎをしました。

 新樹の中學教育は全部福知山中學で受けましたが、爰でも成績は
優等で、ずっと特待生をつづけました。在学中家庭から通學したのは
ホンの最初数か月間だけで、その他は最後まで寄宿舎に居つづけ
ました。かくて卒業と共に高商に入学し、良い成績で同校三年の
課程を終りました。 時に数え年正に二十二。――
 この間に彼の身材はだんだん延びて、五尺を超すこと五寸、六寸、
七寸となりました。同時にその趣味や傾向も次第に定形を為して
来ました。彼の父母にとりて寧ろ意外だったのはその幼児の腕白性が
だんだん薄らぎ、寧ろ社交的要素と言ったようなものが多量に
加わった来たことで、その道楽の如きも音楽、絵画等が第一位に
数えられました。ハモニカではたしか長崎高商音楽団の選手だった
筈です。と言って、彼の性情はどこまでも円満に出来て居て、
活発な運動競技、例えばボート、ベースボール、スケート、テニス、
山登り等にも相当手を出したらしいです。

 大正十四年學校を巣立ちした彼は直ちに古河電気工業株式會社に
入り、東京の本社に勤務することになりました。丁度その頃家族も
鶴見に移り住むことになったので、間もなく彼は鶴見に来り住み、
大連支店に轉勤を命ぜらるるまで、久しぶりで約一年間父母弟妹と
家庭団欒の楽しみを味はひました。
若くて死んだ彼に取りてこれがせめてもの、現世生活の樂しい
思ひ出の種子だったでありませう。

               その2 に続く
❤〜SAKURA


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