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本流対策室/2 板

867さくら:2012/04/25(水) 15:13:59 ID:tPVxKQcE
しかし、わたしのような生半可な信仰の者が言っては申し訳ないのですが・・
神道的にも、生長の家でも「神の子」というのは、修行や真理の言葉を学んでから、
はじめて「神の子」になるのではなく、今この瞬間生きていることこそ、「神が神を生きている」「神が神を行っている」(・・榎本先生の説かれているような・笑)そのようなこととも、理解しております。
信仰における醍醐味、とは、ここかな〜、とわたしは感じました。
神の命である自分が、不完全な躰を選んで、不完全な世界を、不完全なままに生きている、不完全さを経験している!だから、すばらしいな、と。
悪も不完全もない、というのは、理屈で説明することではないんですが、
本当に、その不完全さの中で一生懸命生きる人間には、ある時、ふと、すべてそのままで美しいな〜と感じる瞬間がある、と思います。
現象にあらわれる、真象というのでしょうか、多様なものが複雑に関係し合いながら、
それでも、全体では絶妙なバランスをとって世界をつくっている、そのような美しさを、味わう心境ですね。
・・いつもそんな心境だといいんですが、まあ、神(自分)が、おこったり泣いたりして、
右往左往して、雑多な世界を生きている、そんな感じです、笑。

神道のことは、今、学び中で、参考にさせていただきます、ありがとうごいました。
神道には、「見える神道」と「見えない神道」と呼ばれる側面があるようですが、
わたしは、歴史なんかにも弱くて、、やはり、心惹かれますのは、「見えない神道」
とよばれるものの方かな、と感じました。
地域の共同体や儀式や文化に根ざしたもの、なにより、神聖な存在を「あえて言挙げ」しないけれど、拝み崇拝する、日本人の精神の核となるような信仰心でしょうか・・そのようなものです。
天皇のお姿は、神をあえて語られませんが、生活や、国民に対しての日々の姿勢はそのままで、祈りの姿だと感じます。・・「祈り」と言ったから、といって、「何もしない」ということをあらわしてはいませんで、その生きる姿勢そのままのお姿が祈りだと感じると言うことです。

最近読んだ、南方熊楠が、鎮守の森を守るために書いた「神社合祀に関する意見」に書いてあったことに共感していました。

「神社の人民に及ぼす感化力は、これを述べんとするに言語壮絶す。いわゆる「何事かおはしますかを知らねども有難さにぞ涙こぼるる」ものなり。似而非神職の説教など待つことにあらず。神道は宗教に違いなきも、言語理窟で人を説き伏せる教えにあらず。
本居宣長などは、仁義中孝などとおのれが行わずして事々しく説き勧めぬが神道の特色なり、と言えり。すなわち言語で言い表し得ぬ冥々の裡に、わが国万古不変の国体を一時に頭の頂上より足ゆびの尖まで感激して忘るる能わざらしめ、皇室より下凡民に至るまで、いすれも日本国の天神地神の御裔なりという有り難さを言わず説かずに悟らしむるの道なり。古来神殿に宿して霊夢を感ぜしといい、神社に参拝して迷妄を開きしというは、あたかも欧州の神社神林に詣でて、哲士も愚夫もその感化を受くること大なるを言えるに同じ。別に神主の説教を聴いて大益ありしを聞かず。真言宗の秘密儀と同じく、何の説教講釈を用いず、理論実験を要せず、ひとえに神社神林その物の存立ばかりが、すでに世道人心の化育に大益あるなり。」

宗教的エコロジーも、神道的観点からなら、わたしはとても共感ができますし、
愛国心も同じです。

漢字を使い出した日本語は、「音痴の言語」とも呼ばれるそうです。
言霊学では「音」「聞こえ」「声」を大切にしたはずの日本語が、
ロゴス的な、そして、日本的意味を失っていることもある漢字によって、
感情を想起するような視覚の言語になっているそうです。
ですから、シニフィアンの暴走と指摘されることも、
あながちただの杞憂ではないと感じた次第です。
日本人としての愛国心は、闘争的になるなど、考えられないことと、感じる次第です。

本来の、自分の内なる神の「声」「聞こえ」に耳を傾けることを信仰の原点として
大切にしたいとも感じています。

歴史のことなど、不勉強すみません、
また、よろしくお願いいたします。

旅のご報告も楽しみにしてますね!


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