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本流対策室/2 板
852
:
春らんまん(旅の空から)
:2012/04/25(水) 10:59:58 ID:FqQs/bDc
神道天国と呼ばれる長野県や秋田県など、仏教の影響が比較的少なかった地域で、普通に”神さま”という素朴な信仰が絶えていないエリアや、
神道系の宗教の環境で成長した場合、、
普通に、”自分たちは、神様の生命がそれぞれの内に存在している、神の子だ”という、感覚が醸成されます。
“親神さま”という感覚とか、なんというか、素朴に普通の感覚として、あるんだと思います。
(アマテラスオオミカミだけでなく、小さな村の鎮守の神さまとか、小さい祠ひとつにも、なんとなく”大事な感覚”を持ち合わせます。)
古来の大和民族は、この感覚を直感的に持っていて、聖経の”人間”のところに、
“罪と病と死とが
実在するという悪夢を、
人間に見せしむる根本妄想は、
古くは、
人間は塵にて造られたりと云う神学なり。
近くは、
人間は物質にて造られたりと云う近代科学なり。”
と、
表わされています。
この
“古くは、
人間は塵にて造られたりと云う神学なり” の神学が出来る以前、
古代ヨーロッパでは、人間は森に住み、多神教の世界観を持っていて、それぞれの民族の神話を把持していたようです。
そこに、
キリスト教の宣教の方法の一つが、”木を折って見せる” ということをしたようなんですね(過去に呼んだ本の記憶をたどって書いています)。
これは、喩えなのかも知れませんが、つまり、”力を誇示”して、この信仰の方がいいですよ、と優位性を示した、という意味だったと思います。
また、論理的であるということが、論理の構築がないものより上等である、という錯誤(これは戦後日本へのキリスト教布教の時の絶対的な支柱でしたね?)を抱かせるということかもしれません。
続きます
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