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本流対策室/2 板

1058役行者:2012/05/19(土) 11:38:46 ID:2USqKp.k

 葵新吾さまの下記投稿文も、双方ともに切磋琢磨、話し合うべき、良きテーマと思えます。
 まあ、とにかく、凄い迫力です!
「靖国見真会」参加者様や葵新吾様の御文章を読んで感じるのは、魂の奥底において今の生長の家教団と共に歩んでゆきたいという思いを勝手ではありますが感じるのです。
つまり、今の段階では、分派とは云えないでしょう。その証拠に彼らは、本流を名乗っております。
ならば真正面から向き合う必要性があると思います。
少なくともこのような魂ほとばしる、文章に対しては・・・

雅宣君、「久遠を流るるいのち」に直接触れた文章をなぜ書かない? (9249)
日時:2012年05月17日 (木) 12時49分
名前:葵新吾

合掌、ありがとうございます。

 雅宣君、貴君は今、自身のブログ「唐松模様」で、沢山の諫言者の言に耳を貸そうとはせずに、依然として、学者的、評論家然として"観世音菩薩について"なる文章を長々と書き発表している。貴君が、たとえ自称であれ法燈継承者と名乗り、生長の家総裁というならば、「久遠をながるるいのち」に触れた文章を書かなければその資格はないのではないか!また、宗教家として信徒を本当の生長の家の信仰へと導けないのではないか!単なる学者風、評論家風の文章では真の信仰の深化や世の中の病悩苦の解決を求めている人にとっては全然役に立たない。

 ここで、改めて開祖・谷口雅春先生の次の御文章を貴君に呈する。よくよく考慮されよ!

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「生命の實相」第27巻・久遠仏性篇上巻・第7章「久遠を流るるいのち」よりの抜粋です。

<仏典を論ずる>と<仏教を悟る>とは異う―――

・・・仏教経典を研究する学者は、著作の年代とか、本当の著者の名前とかを問題にしたがって肝心の問題であるべきその書に、本当に『久遠を流るるいのち』が生きているかどうかを忘れてしまう傾向がある・・・まことにも木村博士の言わるる通り『仏典を論ずる』ためには、サンスクリット語や・・・古代の方言やチベット語などさえも必要であろう。しかし、それは『仏典を論ずる』ためであって『仏教を悟るため』ではないのである。幾千巻の大蔵経の第何頁に如何なる語が書いてあるかと言うようなことは、仏典を論ずるためには、必要であるかも知れない。けれども吾々の<さとり>のためには何の効果もないのである。・・・

・・・結局、語学や経典によって釈迦の教えを研究しようなどと言う企ては、暗中模索の靴を隔てて痒きを掻くに類する努力であって、それはいつまでも語学の世界と考証の世界に堂々巡りしていて、その教えの堂奥に飛び込むことは出来ないのである。本当に<さとり>の世界へ飛び込もうと思うものは、語学や考証の世界を一躍して『久遠を流るる<いのち>としての釈迦』そのものの中に飛び込まなければならないのである。

          つづく


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