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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える  3

838うのはな:2011/08/31(水) 14:20:40 ID:iM0b0bt6

心の浄き者の受くる悦び

“山上の垂訓”のその次の訓えは、「幸いなるかな、心の浄きもの、その人は
神を見ん」であります。谷口清超先生は、その著『基督』の中で、
「幸いなるかな、心清く、我執なく心素直なる人、その人は凡ての人を神の顕現
(あらわれ)として拝むことが出来るであろう」と注釈しておられます。
自分自身が清くならないと、相手に宿る清き神性がわからないのです。
私が全然私心なく人類を光明化する愛の運動のために、“生長の家”をやっておりまし
ても、心が汚くして、その清らかなる動機を見ることができない人は、ある評論家みたいに
、まるで金儲けの企業として生長の家をはじめたように批評しておる。
だけどもこの『生命の實相』や『眞理』の印税でもみな、戦後の遺児・弧児を
輔育している“財団法人生長の家社会事業団”に寄付されている。
私自身の私的収入になるんだったら、『生命の實相』を買って読みなさいというのは、自分の
儲けのために勧めるようで、気が引けて勧めにくいけれども、そうでないから非情に
勧め易いのであります。それでも、まだ、生長の家は金儲けのためんか何かのためにやっている
位に思っている人もある。それは自分の心が清くないから、神をみることが出来ないで、
人の内に宿っている神がわからないのです。
「人を見たら泥坊と思え」というのは、自分が泥坊根性だから、他を泥坊と思うのであります。
心の中に泥坊のない人は、泥坊を見ることができない。


『日常生活の中の真理』 無門関・聖書篇 P281 日本教文社


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