したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える  3

147復興G:2011/07/31(日) 20:05:19 ID:Ir7svY6w

>140 :義春様
>私はね、雅宣先生で良かったと想うんですよ。
……雅宣先生が出られた事は……生長の家が永続する良いキッカケになると想います。
……
一切者の自覚が大事になってきます。
一切の物事は全て吾に責あり。
であるから、私は雅宣先生を信じたいと思っております。
それは私が私自身をも信じる事に繋がりますから。<

>142 :初心者様
>>140
>義春さん、ほんとうに素晴らしいことを書いてくださいましたね。
わたくしが本流で書き込みをはじめたときから言いたかったことを、義春さんがすべて代弁してくださいました。

現総裁のような人物がトップにあらわれたのは、けっして意味のないことではない。
これが、わたくしが言いつつげてきたことなのですね。
その意味を考えようともせずに、ただ辞めていただくというのが、はたして最良といえるのか。
このことを考えておりましたが、答えを義春さんが提示してくださいました。<

 ──感動しました。

 本当はそれ、初心者さまの真似をして言うわけではなく、「私がこの掲示板に書き込みをはじめたときから言いたかったことを、義春さんがすべて代弁してくださいました」──なんです。なんという素晴らしいことを言ってくださったかと、本当に感動してるんです。

 じゃあ、ボードに書いたことは、心にもないウソだったのか? いや、ちょっと迷いごとを言ってみたくなったんですね。ごめんなさい。

 以下、今私が思うことです。

 谷口雅春先生時代には、先生がいくら「皆さんが谷口雅春である」とおっしゃられても、「われわれ凡人と谷口雅春先生とは天と地ぐらいの開きがある」という観念から抜け出すことがむつかしかった。「皆さんが住吉大神の全心全霊である」と言われても、それを実感自覚することは難しかった。そのときに、二代目・三代目の総裁になられた方が、谷口雅春先生と同様に凡人とは大きくへだたりのあるような霊的、宗教的なお方だったら、いつまでも「われわれ凡人は……」と言って、外なる総裁におすがりするばかりで、内なる神に本当に目覚め、釈迦・キリストと同じ者である、一切者であるというような自覚を得ることはむつかしいままで終わるのでしょう。

 ところが谷口雅宣総裁は、「私は神ではない。普通の人間だ。私の言葉は住吉大神の言葉なんかじゃない。私の言葉は私の言葉だ」というようにおっしゃってくださって、「私も信徒皆さんもおなじ人間です」と宣言されて、私たち信徒皆の大いなる神性開発の道を開いてくださっているのです。まことに素晴らしい神の摂理である。

 これこそ、初心者さまが

『教団で起きているゴタゴタは、谷口雅春先生がわたくしたちに示された禅の公案です。雅春先生は、こんにちの事態をすでに予知しておられたはずです。それを承知の上で世襲制を承認し、わたしたちに公案として残して行かれたのではないですか。弟子として恥ずかしくない答えを出しましょう。』

 とおっしゃった、谷口雅春先生から与えられた公案なのだ、と思います。

 この公案に、「弟子として恥ずかしくない答え」を、信徒一人一人が出して行くことによって、義春様がおっしゃるように、「生長の家が永続する良いキッカケになる」と信じます。

 本当に、ありがとうございます!


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板