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生長の家政治連合と「今の教え」を考える

907うのはな:2012/04/23(月) 10:46:08 ID:El6gIMAw
  日本、米英に宣戦を告げる

 昭和十二年七月七日、支那事変はおこり、その後、一度も戦争は終わることもなく、ついにアメリカ・イギリスと
の大東亜戦争へと突き進んでいったのでありました。
 昭和天皇が開戦をお許しになられたことについて、侍従長の藤田尚徳さんが戦後、天皇さまに、
「陛下はどうして鈴木内閣には御聖断をお下しになられたのに、東条内閣に開戦をお許しになったのですか」
ということをお伺いしたことがあります。このとき、天皇さまは、
「具体的な政治の問題については、ぜんぶ内閣が責任をもってやるのであって、天皇はこれに口だししないのがもともとの
きまりだと考えていた。“天皇は統治すれども政治せず”である。だから東条内閣のときには内閣が閣議で開戦を決定して自分の
許しを求めてきたから、憲法の手続きによって許したわけだ。鈴木内閣のばあいは、内閣が意見を求めてきたから、自分がここで意見を言っても、
いずれの人間の公務権限(おおやけの務めの権利)もおかすことにはならない。だから自分は自分の意見を率直に言ったのだ」と
お答えになっておられます。

 昭和天皇は、東条内閣の開戦の決定に対しては、反対でいらっしゃいました。
開戦三か月前の九月の御前会議の途中で発言をお求めになり、明治天皇の御製に託してお伝えになられたのであります。
また、開戦のみことのりは、東条内閣でつくられたのですが、その、みことのりの案を天皇さまにご覧いただいたおり、天皇さまは、
「米英両国トキンタンを開クニ至ル洵ニヤムヲ得ザルモノアリ」の次に「豈ニ朕カ志ナラムヤ」のおことばを入れるようにおおせられました。
「どうしてこれが私の望むところであろうか、私の望むことではない」とおおせられたのであります。


 『昭和天皇』 出雲井 晶 著


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