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生長の家政治連合と「今の教え」を考える

664初心者:2011/12/02(金) 08:37:40 ID:X1fDhvjY
さくらちゃんへ

クリシュナムルティを読んだことはありませんが、ここに書かれていることは、ずっと
以前より気づいていたような気がいたします。残念なことに、生長の家の方々と
いえども、その多くがクリシュナムルティを理解することはできないでありましょう。
気づいている人はすでに気づいていますが、気づけない人たちはいつまでも気づけ
ない。これが現実なのではないでしょうか。

>ある種の宗教的ことばや祈り、また霊的体験などによる無意識の未解明層への激しい感動は、
存在する実在よりも、宗教的シンボルやことばの方を、内的権威や努力の収斂対象である理想にしてしまう。
そして、その感動や、感動から起こる幻視や霊的体験、理想などを再び補足することが、
人生の目標、渇望となり、たゆみない規律や手段を伴うということが必要とされるということです。

「存在する実在」への接近。これが、わたくしのいう「真理」であります。そして「存在
する実在」への接近を困難たらしめているのが言語であるということを、こちらで
くり返し述べてまいりました。クリシュナムルティもこのことには気づいているようで
ありますね。

真理を求める人の多くが言葉を求めます。言葉には真理がある。このように考え
ます。そして、ある種の感動や高揚感をもたらしてくれる言葉だけを、なんどもなん
ども、くり返し体験しようとします。その体験の連続が信仰であり、真理への接近で
あると考えるようになります。

わたくしは、言葉による感動や高揚感では真理に到達できないばかりか、むしろ
それは、真理を知ることの阻害要因になるということに、20年前にはすでに気づき
はじめておりました。言葉とは何か。それを学んだことで、言葉によってもたらされる
心理的効果を「真理」と思い違いし、その心理的効果を「悟りである」と思い込んで
いた自分に気づくことができたのであります。

おそらく多くの方々が、言葉による心理的効果を、一生をとおして追求されることで
ありましょう。それが信仰であり、悟りであり、真理への接近であると信じきることで、
これからの信仰生活を持続されることでありましょう。しかし、いちどそこを離れて
みれば、それが間違いであったことに気づかされます。それが「シンボルへの逃避」
であったことに気づかされます。クリシュナムルティを理解できる人は、おそらくあまり
多くはないという気がいたします。


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