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生長の家政治連合と「今の教え」を考える

662さくら:2011/12/01(木) 23:52:11 ID:TRz6/ppE
クリスナムルティは、宗教における「シンボルへの逃避」について、こう書いていました。

ある種の宗教的ことばや祈り、また霊的体験などによる無意識の未解明層への激しい感動は、
存在する実在よりも、宗教的シンボルやことばの方を、内的権威や努力の収斂対象である理想にしてしまう。
そして、その感動や、感動から起こる幻視や霊的体験、理想などを再び補足することが、
人生の目標、渇望となり、たゆみない規律や手段を伴うということが必要とされるということです。
クリシュナムルティの「(象徴的世界に生きる)私たちは、真実を生きているのではなく、シンボルや概念、理想や言葉を生きている。」という言葉を、
初心者さまが書いていたジャック・ラカンのことで、理解をしました。

思考は、個人のあるがままの姿と、シンボルまたは、理想との間のギャップを生みだしますが、言葉を思考や観念へと組み上げることによって、人をある興奮状態にさせることができるので、
ギャップが大きいほど、強烈に自分が生きているという感覚を起こすことができるということです。
そのギャップとは、あるがままの自分や、そこにある問題の真実の姿と向き合うことや、死への「恐れ」からの逃避であり、真実と向き合うことから意識を転じることを示しています。

それが、わたしたちの変容(真の気づき)の可能性を損なってしまうことが多い、と。

真の宗教について知るには、自分を一体化されていた心理構造は、言葉であり真実でないと悟ることであり、組織的宗教や、社会の心理構造をこえたところにある、変容に気づくことだとしています。

自分の思考と感情に連続的に気づいていること、そのことが正しい、認識をつくります。
真の宗教とは、絶えなる自己認識により、今この瞬間の生に「気づいている状態」であること。


宗教の問題を考える以上は、それが扱う言葉の性質や、言葉による思考や概念や組織の構造、心理的構造などを理解することは、重要だと感じます。

言語を超えたところの、語ることのできない、叡智をいつでも感じることができながら、
言葉でつくられた心理た思考の構造を、明らかにできるのが、
真の宗教だと、そんな風にクリシュナムルティから、学びました。

初心者さまの語られる、ソシュールや、ラカン、ヘーゲルなどなど、には、とても学びがあると思っています。

話に割り込み、失礼しました。


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