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生長の家政治連合と「今の教え」を考える
659
:
「訊け」管理人
:2011/12/01(木) 18:48:33 ID:UodBcqiE
>校長殿
こんにちは。やや無愛想な返答となりますが、弊ブログから雅春先生
(と、藤原先生)のご文章を転記致します。そこで、まあ、結論から申せば
「言葉が先?思いが先?」の件ですけれども・・・「神の意思が先」という
ことになるのではなかろうかと。(云うまでもなく「生長の家の御教えに於
いては」の意味です)個人的には発願廻向(はつがんえこう)の考え、これ
が返信として適当なものではなかろうかと思っております。
なお、以下でダラダラと文章を掲載してしまいますが、お許しくださいま
せ。
『すべてを癒す道』115項藤原敏之著書より――
信仰生活とは願いに生きる生活であります。人間は神の子でありますから遠慮する必要はありません。どんなことでも、また、どんなに願ってもよろしいのであります。このようにありたいと願うことはいっこうにさしつかえがないのであります。なぜかと言えば願いは神からの授かりものであり、自我的都合ではないからです。神からいただいたアイディアであります。だから願いは無限であり、必ず成就するのです。
このことを仏教では<<発願廻向(はつがんえこう)>>と説かれております。願が起こるのは仏の方から廻し向けられて起こるのであって、他力であると申します。
『希望を叶える365章』はしがきより――
希望を達成したいと思うならば希望は一体何処にあるか、希望の所在を先ず知って置かなければならないのである。希望のありかを間違えていたのでは希望をわがものとすることが難しいのは当然である。だいたい希望を実現したいと思っている人は、前向きの姿勢で、前へ前へと進んで行くのが普通であるが、希望とか理想とかいうものは、そんなに前方にあるのではないのである。では、その希望とは、一体何処にあるのであろうか。
私たちが切実に実現したいとこいねがう希望は、それが真に切実なものである限りに於いて、それは自己の内に「既にあるもの」が内部から押し上げて来るのであって、本当は外にあるのではないのである。それが既にあり、既に内部に実現せるがゆえに、それを外に表現せずにはいられなくなって、「希望」とか「理想」とかいう形をとって、表面にあらわれて来るのである。
『健全の真理』 224pより――
祈りは、神が拒みたまえる恵みを懇請する道ではない。
神が既に与えておられる恵みを素直に受ける道である。
祈りによって吾らの心が神の方向に向き、神の恵みの波長に合い、既に与
えられている恵みが実現するのである。
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