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生長の家政治連合と「今の教え」を考える

629「訊け」管理人:2011/11/27(日) 21:59:12 ID:snP.vX5s

<参考資料2>
※ 本流掲示板からの挑発を受けた直後の文章です。

398 :「訊け」管理人:2011/08/27(土) 13:52:23 ID:???

 本流掲示板よりどなたもいらっしゃいませんが、ツラツラと私見などを。

 追放派は「教団の現状に即して診れば」とおっしゃいます。しかしその「現
状」とは何なのでしょうか。それを少し考えてみたいと思います。どうしても
わたしには彼らの御主張が「現象のみ」「本来無きもののみ」を扱っているよ
うにしか思えてこないのですけども・・・
 出来るだけ個人経験に即して語りますけれども、この「本来無き現象」を
〝あり〟と観るかぎり、かつて(金融危機当時)の私のごとく「自殺寸前」に
まで追い込まれることにはならぬか危惧する次第です。いくら御教えに触れる
機会を得るとも、「われ弱し」「われ完からず」と嘆ぜざるをえなくなるであろう、そんな意味になりましょうか。まあしかし、この弱さを「現状」というのはまちがいであると思います。以下、『生命の實相』27巻より引用致します。

――――――――――――――――――――――――――――――
 知れ、事実というは実相のみであるのである。だから実相の実在
のみを強調し「弱きものは無し、完からぬもの無し」と、いっさい
の悪を空(くう)じ去って、しかして「一切皆善の実相的事実」のみ
を肯定するとき、われらは現象的事実をも征服しえて、「われらは
弱し、われらは完からず」と現象的事実に征服された弱音を吐く必
要がなくなるのである。
――――――――――――――――――――――――――――――

 わたしの理解した「生長の家」とは、上記御文章にあるが如く「実相皆善」
のみを強調するものです。そして同時に「現象は無なり」と現象的不幸一切を空じ去るものです。さればこそ現実を征服する現実的威力を〝現象界に於いても〟発揮するものが御教えであったはずなのです。「現象あり」と観ずれば――わたしの場合では「金融危機が実在である」と観ずれば、わたしは現象に力を認めるがゆえに、
金融危機を征服することができなかったでしょう。ですから「騙されてもよい
。もう雅春先生の言うことを信じよう!」そのように対処することこそが、正
統の教えであるはずなのです。個人的経験からそう(強く)主張したいとこ
ろではあります。

 ところが追放派の皆様の御主張でありますけれでも、誤読かもしれませんが
、どうしても納得できずにおります。
 かつて雅春先生に対して、「現象も現象として在るのであって、かく本体界
のみを主張し、本体界の完全観念を現象界にも適用せんとするのは、本体界と
現象界とを混同するものである」との、諸宗教家からの非難があったようであ
ります。『親鸞の本心』で拝読しましたけれども、これに対して雅春先生は
「本体界と現象界とを混同するのではない、混同とは現象界を在りと認めての
立場であるが、われらは現象界無しと自覚するがゆえに、無きものは混同する
の恐れなきがゆえに、われらはただ常に本体界の完全性のみを主張するのであ
る。」と御主張されておられます。その結果、本体界(實相)の完全性が
そのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することができるのでありま
しょう?生長の家では。

「現象は現象としては在るのである」といって現象界を本体界に対立せしめた
り、「本体界の自叙自展が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、
そして、現象界は本体界のうちに包摂せられるものである」というような在来
の見方(たとえば倉田百三氏風)を脱しえないような考え方では、とうていそ
れでは、現実人生を支配することができないと確信しますし、なにより「生長
の家の思想とは違うものである」とこの、信仰五歳児の目には映る次第なので
あります。

 この「無神論者」であり、かつ「唯物論者」であった愚生がなぜ、雅春先生
の光明思想に魅了されたのか・・・それは、かく素晴しい現実人生の支配力を
有している力の源が、主として「現象無し」とスカッと断ち切り、実相独在を
明快に主張されておられたからなのであります。ということで本流諸賢との対話の方ですが、期待しております。


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