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生長の家政治連合と「今の教え」を考える

617ぼるぼ:2011/11/26(土) 18:23:05 ID:M0AaoEgg
明治時代の日本人はいかに勇敢であったか。現代人には想像もできないであろう。
旅順での白襷3000名の勇士のことを心に留めていくべきである。

西村眞悟ブログより引用する。

 明日十一月二十六日は、百七年前の明治三十七年(一九〇四年)、三千名の白襷抜刀隊が旅順要塞に突撃し玉砕した日だ。
 世界史的に古今の最難戦となった旅順要塞攻撃において、この日午前八時、第三回総攻撃が発令された。しかし、各師団の攻撃は、ことごとく失敗に終わった。
 ここにおいて乃木希典第三軍司令官は、中村覚歩兵第二旅団長の熱心な意見具申を受け入れ、特別部隊による攻撃を命じる。
 それは夜間、刀と銃剣で敵陣に突入する奇襲であった。
 そこで、乃木軍司令官は、目印の白い襷をかけて整列した三千名の全将兵に、次に通り訓示した。
「・・・国家の安危は、我が攻囲軍の成否によって決せられんとす。予はまさに死地に赴かんとする当隊に対し、嘱望の切なるものあるを禁ぜず。
 諸氏が一死君国に殉ずべきは実に今日にあり。こいねがわくば努力せよ。」
 このあと乃木は、整列する将兵の間を歩き、滂沱の涙を流した。ただ「死んでくれ、死んでくれ」と言った。

 白襷隊三千名は、同日午後六時に行動を開始し、午後九時前より松樹山方面(要塞の東側)の敵陣に突入して激烈な攻撃を開始した。
 そして、敵の大砲、機関銃、小銃、手投弾、地雷により中村隊長以下二千名の死傷者を出して部隊として消滅した。
 
 日露戦争の旅順以外の戦場でのロシア側記録には(確か、黒溝台の激闘か)、突入してくる日本軍兵士は狼より凶暴である、と書いているものがある。
 しかも、この旅順の要塞に刀と銃剣だけで突入した兵士は、もともと生きて還る気のない文字通り剽悍決死の士三千名であった。
 では、ロシア側記録には何と書いてあるのか。
 以下の通りである。
「・・・実に、この精気に強き日本軍が、精気の弱き露西亜軍を屈服せしめたるなり。
 余は敢えて屈服という。されど一九〇五年一月一日の開城を指すにあらず。
 その前年の暮れ、即ち、十一月二十六日における白襷抜刀決死隊の勇敢なる動作こそ、まことに余輩をして精神的屈服を遂げしめる原因なれ。
 ・・・敵味方合して五百余門の砲台は殷々として天地を振わしたりといわんのみ。
 しかもその天地の振動に乗じ、数千の白襷隊は潮のごとく驀進して要塞内に侵入せり。
 総員こぞって密集隊、・・・白襷を血染めにして抜刀の形姿、余らは顔色を変えざるを得ざりき。
 余らはこの瞬間、一種言うべからざる感にうたれぬ。曰く、屈服。」

 以上、岡田幹彦著「乃木希典 高貴なる明治」展転社刊による。この書を是非読まれたし。
 なお、この書一冊で、乃木希典第三軍司令官を愚将とし白襷隊を兵の無意味なと殺とする司馬遼太郎著「坂の上の雲」全巻を価値において遙かに凌駕する。売文家としてのおもしろさは別。


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