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生長の家政治連合と「今の教え」を考える

613トキ:2011/11/25(金) 21:10:40 ID:cxYvfZcs
さくら様

 ご丁寧なご投稿、ありがとうございました。組織と信仰のあり方は、生長の家にとっても重大な
課題だと思います。さくら様も現場の方だと記憶しておりますが、私も教区のヒラ会員ですので、
いろいろと考える事が多いです。

 さて、ご指摘の通り、組織運動と個人の信仰とで矛盾が生じる事は、よくあります。組織の論理
があまりにも全面になると、信仰とは名ばかりの、単なる自己満足に陥る事もその通りだと思います。
 ただ、組織のあり方を考える時に、構成員の個人の意思とは別に、組織自体が守るべき価値はあると
は考えています。

 “卵が先か、鶏が先か”という命題がありますが、生長の家に関して言えば、生長の家という信仰が
あり、生長の家という運動が生まれ、生長の家という組織は、最後に生まれたのです。その意味で、
生長の家という組織は、あくまでも信仰や運動の”道具”であり、中心は信仰であります。そして、
生長の家という信仰においては、甘露の法雨や聖典は、必須のものであり、これなくしては生長の家
という組織自体の存在意義がなくなると言えると思います。

 少し余談になりますが、伊勢神宮に参拝すると、「赤福」という土産が近所で売ってあります。あれ
はもう300年も赤福を売っているのです。まあ、一時、インチキをして、世間様から非難囂々となり
営業を休んだ時期もありました。しかし、「赤福はインチキをしたから、もう赤福餅は売らない」とか「もう
300年も赤福を売って来たから、そろそろ赤福餅を止めて別の物を売り出す」とか赤福という会社が
言い出すとは考えられないのです。やはり、「赤福」という会社は、赤福餅とは切っても切れない
関係にあるので、どんな事があっても、「赤福餅」は死守しているのです。同じ事が、生長の家
にも言えるのだと思います。

 赤福という会社が、赤福餅と切っては切れない関係にあるように、生長の家という信仰は、生命の実相
とは切っても切れない関係にあります。個人の意思や社会の状況がどう変化しても、それを組織が
捨てる事は、組織自体の目的を放棄する事を意味します。組織自体の目的がなくなる事は、もはや
その組織は存在意義がなく、従って解散をすべきである、という論理になります。

 ただし、別の論理としては、新しい聖典や聖経を作って信徒に頒布する、という事はあり得るかも
しれません。トヨタが自動織機をやめて自動車を作って成功したように。しかし、教区の現場の
感覚では、それは猛烈な拒絶反応をもたらすでしょう。それは、教区にとってもそうだが、教団
、総裁そして参議や理事の皆様にもとても悪い結果をもたらします。事実上の”解散宣言”となるで
しょう。これは論理ではなく、感情です。そして、人間は感情の生き物ですから、感情に従って
行動する事になるのです。

 本流復活派は確かに出版権を巡って裁判はしておりますが、教団に聖典や甘露の法雨を使用するな
とは一言も言っていません。日本教文社から出版される本と光明思想社から出る本とで、中味に異同が
なければ、それを使えばよいではないですか。現場の人間から見たら、どこから出た本かで問題
にはしません。生命の実相が使えない、と決めないで、広い心で、光明思想社の本でも認める
度量が必要だと思っています。

 ご返答にならないかもしれませんが、お許し下さい。

合掌 ありがとうございます


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