したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

生長の家政治連合と「今の教え」を考える

564うのはな:2011/11/10(木) 00:04:45 ID:iM0b0bt6
新宗教の時代  

 一九八十年代も中盤に入って、すでに世紀末も間近、その彼方には新しい
二十一世紀の姿さえちらつき始めている。そこで、おのずと未来へと思いは
誘われがちなのだが、この頃わが念頭に去来してやまぬ一つの予感について語りたい。
これから到来するのは、新・宗教時代で、いわばソフトな宗教がわれわれの生活の中軸として
大きく浮かび上がってくるのではあるまいか。

「新・宗教」という奇妙な言い方をわざわざしてみたのは、「新興宗教」が続々登場するという意味ではなく、
むしろ広い意味での宗教的な時代が、今後到来するだろうといいたいのである。
熱っぽい新型宗教の活躍よりは、むしろ穏やかな形で、いわば物やわらかな宗教が主役を演ずるだろう。
「ソフトな宗教」といいたい所以である。
現代はどう見ても宗教的時代とはいいかねる。むしろアンチ宗教の時代、宗教の退却、衰退期とみなすべきではないか、
と反問されるに違いない。たしかにその通りで、大方の既成宗教には、もはやかつての権威も、そして活力も見出しがたい。
かつての惰性でなんとなく続いているだけの話で、聖職者たちの間にも世俗の波が滔々と浸透している。

現在、激烈な宗教批判が影をひそめたというのも、つまりは「敵」と相手どるだけの圧力も厚みも消えうせたせいに違いない。
いや、長期的にふり返るなら、十九世紀がすでに宗教の後退が目立った時代、主導権が宗教から道徳に移りかけた時期と
見なされるべきだろう。當時の世界の先進国といえば、まずビィクトリア朝のイギリスであるが、紳士の対面や市民の勤め
など、日常の振る舞いを中心とするモラルが、もっとも強力な規制を発揮していた。
ビィクトリア朝的な「偽善」ということがよく言い立てられたのは、つまりは道徳がいかに重んぜられていたかを裏側から証立てたものであり、
わが国の明治も、これに儒教的道徳がミックスされた、ほぼモラル優位の時代に属する。

『神道のこころ』 佐伯彰一 著  日本教文社


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板