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生長の家政治連合と「今の教え」を考える
504
:
トキ
:2011/09/30(金) 19:42:11 ID:wTFlIQZo
心と私心
完全な閉鎖系で、化石燃料に頼らずもっぱら太陽エネルギーを利用する循環型社会で
は、その生産量は限られます。環境収容能力の枠ぎりぎりまで増えた人口が平和な生括
を維持するには、当然、社会の構成要員が守るべき「心得」が必要です。それは「倫
理」と言ってもいいでしょう。
日本の倫理意識には、古代から江戸時代に至るまで、日本が天皇を頭に頂く共同体で
ぁるという認識が基底にあったように見えます。それは外国に対するときに出てくる
「神国、神州」という言葉や、江戸時代の始めから終わりまで続いた封建領主が百姓や
領地を「公儀のもの」つまり公のものであって私有できない、と認識していた例からも
窺えます(この場合の公は天皇を意味します)。したがって共同体の構成要貞は江戸時
代、士農工商という役割分担の遠いはあるものの、その一員としては平等だという意識
がありました。保坂智氏の『百姓一揆とその作法』から引用します。
百姓の中に形成された人間平等の主張を最も体系的に記述したのが、一八二一年
(文政四)に起こつた上野園前橋藩の百姓一揆にからんで逮捕された林八右衛門の
「勧農教訓録」である。彼はその著の冒頭で、「然レバ上御一人ヨリ下万民二重ルマ
デ、人ハ人ニシテ人卜云り字ニハ別ハナカルベシ」と明確に言い切っている。その根
拠は「士農工商夫々ノ家業アレバ、其の業ヲ大切二守ルベシ」という点にあった。あ
たかも人間の休が目・口・耳などの部分によって構成され、それが集まって人間にな
っているのであり、それぞれの器官にはそれぞれの役目があり、どれかが大事でどれ
かはいらないものではないというのと同じであるというのである。
人は同じであるが、それぞれ別の機能を持ちながらも、つながり一体を為すという基
本認識に加え、神仏儒の融合した思想と倫理が、当時としてはおそらく世界最高の識字
率と就学率にも助けられ、庶民によっても理解され広く受け入れられていました。
結局、江戸時代の倫理は一口で言うと「つながりの倫理」あるいは「つながりの自
己」完結倫理でした。具体的には、天皇を頭に頂く共同体の一貞として祖先を崇拝し、親
を敬い、主君に忠であり、和を尊び、士農工商のそれぞれの社会的役割を誠実に果たし、
子々孫々の繁栄を願うものでした。しかも限られた資源しか利用できない状況では、
「勤勉、節約、正直」という生活態度をもって人とつながることが説かれました。
「心学」を創始した石田梅岩は、江戸時代を代表する実践倫理的思想家でしたが、彼が
もっとも強調したのは本来の「心」を知ることでした。本来の心とは、私心つまり利己
的な心とは違い、天地万物つまり宇宙と一体化した心であって、言葉で論理的に知るこ
とはできないが、坐禅のような瞑想を通じて悟ることができるものです。彼にとっての
自由とは、物欲我欲から解放された精神の自由でした。
利己的「私心」を除く必要は、江戸期の他の思想家たちも多かれ少なかれ説いている
ところですが、閉鎖系の貧しい社会が存続するためには、基本的に重要な生存戦略的
(倫理的)努力であると考えられます。こういう文化的雰囲気においては、「つながり
の自己」が形成されるのは、当然と言えましょう。
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