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生長の家政治連合と「今の教え」を考える

273志恩:2011/08/16(火) 06:41:47 ID:psrFh/ZU
Fさんのこと(昭和の佳き時代のこと)

 昭和の時代には、今よりも多く、たとえ職場ででも、ほんとうの家族のように 上下の関係なく、例え本部講師でも普通の社員にでも、実の家族のように、悪いことは悪いと厳しく叱ってくださるすてきな人がいたものです。

本部食堂内部には、ガスコンロが何台もあり、水場もあり、本部職員は、お茶の時間や昼食時間などに、やかんでお湯を沸かす、洗いものをするために、そこへ入れ替わり立ち替わり出入りしていました。
それで、ちょっとでも、だらしないことしたりすると、大声で注意されました。
愛は、ただやさしくするだけが愛では、ありませんよね。おばちゃんの叱責には、心の底の所に、愛が満ちておられたので、叱られても、おばちゃんのことが、皆だいすきだったのです。

1部だけお話したので、誤解を招いたかもしれませんが、悪くいうつもりなら、実名は出しません。
Fさんと私の間柄は、『おばちゃ〜〜ん」「00ちゃん』と呼び合う仲だった。私は、もともとおばあちゃん子だったこともあり、
おばちゃんによく話しかけていたせいもあり、おばちゃんは、私のことは気に入って下さってて、おばちゃんと私は、ほんとうのおばあちゃん(65才くらい)と孫のような、間柄で、なにも。わだかまりなど、ありません。

Fさんは、本来ならFさんと、お名前で、みなさんがお呼びすればいいのですけれど、親しみをこめて「おばちゃん!おばちゃん!」と、皆さん、呼んでいました。私達の、お母さんみたいな方だったからです。眼光がするどいというのも、個性です。
ぼんやりした眼光とは、真逆のしっかりした目の光。鋭いは、褒め言葉です。

Fさんは、毎朝4時起きされて、早朝神想観に参加される方々のために「いもがゆ」を、大きな大きな鉄の鍋でつくっておられました。お金は、とられません。「小さい空き箱」が置いてあり、お気持ちということで、奉納金みたいに100円玉を
入れて行く方が多いと、そのころおばちゃんから聞いていました。そのお金を貯めて、芋やお米を買う一部にされてました。

昼食と夕食は、主に本部講師さんの希望者、10人〜15人くらいに、作っておられました。お一人で作っておられましたので、数に限度があったのです。ブリキのお盆に載せてあり、朝、注文するのですが、昼、各自、ご自分の部屋へ運んで召し上がっておられました。

Fさんは、ご主人がおられて、(雅春先生は、お二人とも本部職員にされておられた)お二人で、これも営利が目的ではなく、これも1つの光明化運動の一環として、奉職されていたのですが、あるとき、病弱だったご主人が亡くなられました。

(Fさんのご主人は、食事は作らず、運ぶ方をされておられました。)
                                                      〜続く〜


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