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生長の家政治連合と「今の教え」を考える
261
:
復興G
:2011/08/14(日) 21:03:36 ID:Ir7svY6w
榎本先生「公案」のつづきです。
* * * * * * *
人間はすべてこの『生命』の実相(ほんたうのすがた)に還へらなければならない。此処にのみ、人生くると云ひ得る世界があるのである。
『此処』とは『久遠の今』のことであり、『実相』であり、『神』である。それは因縁度脱、絶対の生命の消息であり、宇宙万物発生の枢機を握るところの実在そのものである。この実在が『今』であり、尊師の諭されるやうに、常に『吾れ』と『今』と『此処』とがピタリと一つに鳴つてゐるのが『生命』としての吾れなのである。これが『久遠の今』なのであり、『今』は万物発生の枢機を握る中心なのであるから、『今』の中にはあらゆる問題とその解答が成仏裡に巻き収められてゐるのである。この『今』が“自分”なのである。
(中略)
人が生きるとは絶対が生きることであり、絶対が生きるとは実相独在を生きると云ふことであり、実相独在を持ち続けることが生命の純粋持続と云ふことである。この他には光明と云ふものは無く、運動と云ふものは無く、創造と云ふものは無い。蓋し、実相以外は「無」であるからである。この生命の生きる消息を述べられた尊師の御コトバを次に挙げさせて戴いてこの稿を終りたいと思ふ。
○
天之常立神、国之常立神といふ名前によつて現されてゐるトコタチ(常立)即ち常住金剛不壊と云ふのはベルグソンの『純粋持続の我』のやうに、それ自身持続しつつ、更に新たなる内容を展開して永遠に滅びない、自主自立自存の世界であつて因縁に依存する薄弱な世界ではないと云ふ意味であります。(『生命の實相』信の巻(神道篇)511頁)
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