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生長の家政治連合と「今の教え」を考える

259復興G:2011/08/14(日) 20:50:14 ID:Ir7svY6w

 榎本先生「公案」のつづきです。

   * * * * * * *

 今、自分は正にこの小僧の立場にあるのである。それも、指を切り捨てられてしまつた後、倶底和尚に問ひつめられてゐる瞬間の小僧が自分である。そこで自分は、今まで盛んに「伝へよ」と云つて来たその真理とは一体何であるかと問はれて『これだ!!』と応へ得なければならぬ。何ものの力を貸りることなく飽くまでも自分で応へなければならない。ここで『尊師の御話をお聴きになつて下さい。聖典をお読みになつて下さい』と言ふことは許されない。自分以外には答をする者はこの宇宙の何処にもないのである。

 彼(あ)れが無いと困るとか、是が無いと困るとか言つてはならないと云ふ時間さへも無い。つまり今は『尊師がいらつしゃらないと困る』とか『聖典が無ければ困る』とか『組織が無いと困る』とか言つてはならないのである。断じてそんなことは許されないのである。

 自分はここで浅く踏んではならない。世界と自分との全重量感を持つてここの関門に参じなければならないのである。この関門を通るために自分は道を求めて来たのであり、生長の家に来たのである。此処で正しい答を出し得てこそ正に世の中に役立つ人間であることが出来るのである。

 解答は何処にあるのであらうか。

 曰く、解答は何処にも無いのである。自分の内にしか無いのである。否、自分が光なのである。自分が今、此処に生きていると云ふ事実の中にのみそれはあるのである。何ものを否定しても断じて否定することの出来ない自分は今、此処に生きている、といふ事実の中にすべては存する。それは厳粛なる事実そのものなのであり、この事実から『生長の家』は出発してゐるのであつて、所謂観念や空想の中から生れて来たものでは決してないのである。

 重ねて言ふ。すべての何ものへの解答と雖も、今、此処に自分が生きてゐると云ふ事実を離れては無いのであり、すべてはこの事実の中にのみあるのであり、全宗教の全説法も此処から生れたのであり、このことがなければ、此処から出発しなかつたならば、宗教と云ふものは成立することは出来ない。全宇宙さへも存在することは出来ない。『生命の實相』は『生長の家』が此処かち出発し、『生長の家』が荘厳なる事実そのものであることを説き明かすのであつて、決して空理空論ではないことを明らかにするところから出発してゐる。

 即ち、全集『生命の實相』劈頭第一巻は高らかにして荘厳に次ぎの如く光明の宣言をする。



 吾々が生命を礼拝し、かうした『生命』の法則にしたがつて生活することを目標においてゐますのは、吾々がこの世界に『生命』を享けて來た事実から出発するのでありまして、事実ほど力強いものはないのであります。

 吾々が『生命』をこの世界に享けて來たと申しますと、わたしというものが別に何処かにあつて『生命』というものを何処かほかのところから貰つて來たやうに聞えるかも知れませんがさう云ふ意味ではないのであります。吾々各々そのものが一個の『生命』であります。何ものを否定しましても、自分が生きてゐると云ふ事実は否定出来ないのであります。自分は生きてゐると云ふ事実は取りも直さず自分自身が『生命』であると云ふことであります。(『生命の實相』第一巻4頁)

 此処に全『生長の家』の全説法の要がある。今此処に生きる生命(いのち)、この生命は何ものであるか。その生命の実相(ほんたうのすがた)が、この否定不可能の絶対事実が、実在なのであり、神なのであり、完全なのである。

 扨て、問題の解決とは一体何であらうか。解決とは神が『今』『此処』に顔を出すと云ふことなのである。神は完全であるから完全が顕れる時最早や問題と云ふべきものは無いのである。そして「生命」が「実在」であり、「神」であり、それがそのまま自分なのであるから自分が解決そのものなのである。太陽が出る前に昼と云ふものがあるのではない。太陽の出で行つた処を称して昼と云ふのである。問題の解決と云ふものは自分を離れた処の何処かに形として存在するのではない。自分の行つた処を称しで解決と言ふのである。

(つづく)


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